ベイビーボタンプロジェクト

子育てってそんなもん

ベイビーボタンプロジェクト

陽気穏やかな春の午後。

ここは、とある産婦人科医院の一室。陣痛・分娩・回復までが一つのベッドで行えるLDRと呼ばれる部屋である。ピンクを基調とした暖かみのある内装と、どこかの王室御用達のような調度品の数々が高級感を醸し出していて、出産時の母たちに人気のある部屋である。

「本当におめでとうございます。元気な男の子、良かったですね。」

白衣を着た医師らしき男がベッドに横たわっている母親と寄り添う父親に声をかけた。

この医院では、出産後すぐに母と子が素肌を合わせる『カンガルーケア』と呼ばれる保育法を希望者のみに実践している。母乳の分泌が促進されたり、母子の絆が深まったりする効果があるらしい。仰向けに寝ている母親の胸の上では、たった今生まれ落ちたばかりの赤ちゃんが、スースと寝息を立てている。無意識に動いている小さな口元が何とも愛らしい。

「ありがとうございました。お世話になりました、先生。」

 椅子から立ち上がると、父親は深々と頭を下げた。それに合わせて母親も横になったままで頭を動かし、子どもを気にしながら出来る限りの会釈をして、口を開いた。

「こんな素敵なお部屋で生ませてもらって。カンガルーケアもできたし、最高の出産でした。」

「初めての出産、大変だったでしょう。陣痛が始まってから時間もかかりましたしね。お疲れ様でした。よく頑張りましたね。」

「子どもがこんなにかわいいなんて思いませんでした。今までは仕事で上を目指すために頑張ってきましたが、これからはこの子のために最高の母親を目指して頑張ろうと思います。」

 疲れ果てながらも充実感に満ちた妻を気遣いながら、父親は医師に言った。

「出産って本当にすごいですね。妻が苦しんでいるのに、僕はもう、何をどうしたらいいのかわからなくて。男はこんな時、本当にだめです。」

「いやいや。出産はお子さんとお母さんが主役ですからね。お父さんの出番はこれからですよ。今日の感動を忘れずに頑張ってくださいね。」

 医師の言葉に母親は、そうよ、とばかりに父親に目配せをした。父親は背筋を伸ばして、眠っている息子の頭を恐る恐るなでた。

 微笑ましい家族の姿を満足そうに眺めていた医師は、咳払いを一つしてから、母親に問いかけた。

「ところで、オプションはどうなさいますか?」

「オプション?」

 母親はキョトンとした顔で、医師を見た。

「あぁ、まだお話ししていませんでしたね。あまり早くお伝えすると、必要以上に悩んで出産に支障をきたす方もいるから、出産の後お伝えすることにしたのだったっけ・・・。」

 独り言のように呟く医師に母親が聞き返した。

「それで、オプションというのは。」

「あ、失礼。ご説明しますね。まぁ、簡単に言うと『ボタン』の設置です。」

「ボタン?何の?」

「赤ちゃんに取り付けます。見た目はただのイボみたいなもので。」

「もうちょっと具体的に教えてもらえますか。何のためのボタンなんですか?」

「ほら、社会問題にもなっているでしょう。産後うつとか、児童虐待とか。これは、お母さんの心の状態によるところが大きい。赤ちゃんがそばにいることで、今までの生活が一変し、自分の思い通りにならないことも多くなる。」

 医師は少し表情を固くして続けた。

「赤ちゃんというのはいつでもどこでも自分の本能に忠実です。それに、当たり前のことですが、言葉が通じず動くこともままならない。意志を伝えることができないから泣いて暴れるしかない。おむつも替えた、おっぱいも飲まない、なのに泣き止まないなんてこともしょっちゅうです。お母さん達はどうしていいかわからなくなり疲れ果てる。その繰り返しの毎日。そのうち、この子さえいなければ、なんて、物騒なことを考え始める・・・。」

夫婦はお互いに何とも言えない表情で顔を見合わせた。そして、どちらからともなく小さな息子に目をやった。

「ちょっと先生。今から子育てを始める希望に満ちたお二人に、なんてことをおっしゃるんです。」

 出産の片づけをしていた助産師が、ため息を吐きながら会話に加わった。

「早い話が、お母さんが疲れた時、赤ちゃんに少しの間じっとしてもらうスイッチなのよ。イライラして感情的になっても、クールダウンする時間があれば、随分違うでしょう?」

 医師は助産師の言葉にウンウンとうなずいた。

「子育て中に、どうしても自分の感情がコントロールできなくなった時、ボタンをポチッと押すだけ。赤ちゃんの動きが止まり、何事もなかったように静かになります。お母さんは冷静さを取り戻せるというわけです。まぁ、いわゆる保険みたいなものですよ。ボタンを取り付けても使わなければいい。」

「危険はないんですか?手術とかするんですよね。」

「手術なんてたいそうなものではありません。これをピッと埋め込むだけ。とても小さいですが高性能なボタンなんですよ。」

 医師は、白衣のポケットから米粒ほどの大きさの物体を取り出し、二人に見せた。

「おへそにこれをはめるだけです。」

親指と人差し指でつまんで前方につきだし、はめる仕草をして見せた。

「おへその奥の方に設置しますので、見かけはほとんど普通と変わりません。取り付け時期はへその緒がとれた直後がいいので、それまでに検討していただければ結構。赤ちゃんの脳に直接働きかける電波を出す構造ですから、身体の中で線をつなげるとか、そんなナンセンスなものではありません。お子さんが間違って押さないように、指紋認証機能付きとなっています。ご希望により、お母さんとお父さん、またはお婆ちゃんなど、3名様まで指紋の登録が可能です。」

 ますます考え込んでいる夫婦に、助産師が助け船を出した。

「実は私も二人目の子の時につけちゃったのよ。初めの子の時は女の子だったし、やっぱり怖いような気もしたんだけど。二人目は男の子だったから、正直助かったのよね。」

 助産師は声のトーンを少しだけ落とした。

「ここだけの話、一回だけ使ったことがあるの。赤ちゃんの時じゃなくて、少し大きくなってからだけどね。男の子って、本当にじっとしていないのよ。起きてから寝るまで、ずっと動いてる。とくに、2才、3才頃ね。『ギャングエイジ』なんてよく言ったものだわ。」

 当時を思い出すように目を細めて、助産師は微笑んだ。

「朝、仕事に遅れそうになって忙しくしている時に、泣きわめいたり暴れたり。こっちのイライラが伝わって余計にかもしれないけど、時間に追われるとこっちもウワーッてなってね。思わずポチッと。」

 ペロッと下を出し、助産師は続けた。

「でもね。本当にピタッと、止まるのよ。人形みたいになって動かなくなる。そうなると、こっちも我に返って途端に申し訳なくなってね。慌ててまたスイッチを押したりして。」

 助産師の話が途切れたところで、医師が口をはさんだ。

「ちなみに、ボタンを押して動かなくなっても、もう一度スイッチを押すと、再起動、いや、また普通に動けるようになります。」

「私はあの一回だけだったわね。その後もイライラした時に押してやろうと思ったりもしたけど、でも、人形になってしまった我が子が目に焼き付いてね、離れないのよ。でも、どうしようもなくなって手を上げそうになっても、一旦落ち着ける時間が用意されていると思ったら随分違うわね。少し余裕を持って頑張れることができるかもしれないわね。」

 助産師は、母親に向かってにっこりと笑った。母親は、複雑な表情を浮かべた。

「高性能なボタンって、費用がすごくかかるんじゃないですか。」

 父親が、医師と助産師の二人に向かって質問した。

「あぁ、その心配は無用です。これは、児童虐待などを防止する目的で行われている国のプロジェクトの一環なのです。ボタン設置後のデータを収集させてもらう代わりに、無償で取り付けをさせていただきます。ボタンの使用頻度や使用状況、日々生活するうえで困ったこと、改善して欲しい点などを年3回、アンケートでお知らせしていただきます。それと、年に1回ご足労頂き、スイッチの点検も行います。」

「あの、つまり実験的なものであると。」

「実験、と言ってしまえばそう言えないこともないのですが、誤解のないように説明しますと、これは、不幸な親子の絶滅を願う純粋な善意の取組みであり、絶対に危険なものではありません。かれこれ25年も前から始められている、由緒正しき実験、いや、取組みなのです。25年と言えば、つまり、このプロジェクトが始まった時にボタンを取り付けられた赤ちゃんが、すでにお母さん、お父さんになっていてもおかしくない。それほど長きに渡って、国の威信をかけて継続しているのです。」

「その割には、今までに全く聞いたことのない話だな。」

父親が、少し首をかしげながら呟いた。

「実は、過去に、大体的に公表して出産後の皆さんにボタンをお配りしようと盛り上がったこともあったのですが、一部の有識者から批判の声があり、水面下で立ち消えてしまった、と聞いています。『親の都合で子どもを黙らせるとはけしからん。』とか、『子どもの人権を無視するのか。』とか、『子どもはロボットじゃない。』とか、まぁ、言われることももっともなのですが。」

 医師が挙げた批判の声に同意するように、母親はうなずいた。

「でも、今の子育ての現状は、そんなことを言ってはいられないくらい大変なことになっているのも事実です。今はまだ、悪い印象ばかりが取り上げられて、実現が難しくなるような状況になるかもしれません。それで、趣旨に賛同している産婦人科が協力して、秘密裏にボタンの取り付けとデータの収集を行っているのです。とにかくたくさんのデータをまとめて、その成果を提示できれば、きっと国民の理解を得られる自信はあります。」

「今のところ成果は出ているのですか。」

 父親が質問した。

「もちろんです。先ほど助産師が経験談をお話しした通り、ボタンを押すと、感情的に高ぶった気持ちがリセットされます。子どもを叩きそうになったけど冷静になれました、というご感想も多数いただいています。虐待をする心配がないので気持ちに余裕を持って子育て出来る、というご意見も多いですね。これまでのデータを見ると、ボタンを設置されたご家庭で虐待案件が起こる割合は、設置されていないご家庭より、断然低い値となっています。」

医師は、少し胸を張って言った。

「とにかく、ご夫婦でゆっくりと話し合ってみてください。この子の未来を一番に考えてあげられるのは、あなた方ですからね。」

助産師が新生児用のベッドをコロコロと押し、母親が寝ているベッドの横に並べた。そして、母親の胸の上でうつ伏せで眠っていた赤ちゃんを抱きかかえると、小さなベッドに移し、慣れた手つきで青色のベビー服を着せた。小さな声で「よし」と呟くと、助産師は母親に向かって声をかけた。

「しばらくゆっくりと休んでください。夕方には食事をお持ちしますからね。何かあったらいつでも声をかけてね。」

助産師は、父親と母親に軽く会釈をした後、医師にも軽く頭を下げ、部屋から出て行った。

続いて部屋から出ようとした医師は、ドアノブに手をかけたところで、もう一度夫婦に振り返った。

「あ、そうだ。言い忘れていました。ボタンを押した後、再びボタンを押すとお子さんが元に戻ることは先ほど説明しましたね。でも、一回ボタンを押したまま、再度押されない状態が続くと、人形のようになったまま、ということになります。その時は、一定時間以上経つと、安全装置が働き、ボタンを押すことを促す仕組みになっています。それでも押されないと、お子さんの安全とご家族の精神健康を考慮して、カウンセラーと医師が駆けつけるようにボタンから信号が発信されます。アフターサービスも万全の態勢ですので、ぜひボタンの設置をご検討ください・・・。」



15年の時が過ぎた。生まれた後、母の胸の上でスヤスヤと眠っていた男の子は中学生になっていた。夫婦は悩みに悩んだ末、息子にボタンを取り付けたが、それを使うことは一度もなかった。でも、全く順調に、何の問題もなく息子がここまで成長したかというと、そうではない。乳児期は夜泣きに悩まされ、幼児期の自己中心的でわがままな言動に悩まされ、そして、集団生活に入ると、友達関係のトラブルにも悩まされた。

母親があのボタンを押そうかと迷ったことも幾度となくあった。これを押せば子どもが止まる。楽になる。ちょっとだけの時間でいい。自分の感情を抑え込むだけの時間が欲しい。でも、一度押してしまうと、もう歯止めが効かなくなるような気がした。辛いと思った時、すぐにボタンに頼ってしまうようになる。それではダメだ。子育ては楽なわけがないのだ。ボタンに頼る母親は母親失格。頑張らなければ・・・。息子のへそのボタンを押さないという強い決意は、いつしか母親の原動力になっていた。

ボタンに頼らず、自分の力で子育てを頑張っているという自負と充実感も手伝い、母親はますます息子の子育てに一生懸命になっていった。

そして、今は息子も思春期。受験も間近で、親子共々ピリピリとした中で過ごしている状況ではある。でも、母親はこれまでの子育ての成果が、この受験に現れるのだと思っていた。きっと息子は名門志望校に合格し、順風満帆な人生を駆け上がっていくのだ。私の子育ては、完璧に成し遂げられるのだ。

ボタンを押したくない一心から、息子に対して感情的にならないように心掛けてきた。怒りに負けそうになると、「ボタンは押さない、ボタンは押さない。」と、呪文のように唱え、自分の心を落ち着け、コントロールする術を身につけた。座右の銘は『怒るのではなく、諭す』。息子が小さい頃から、ずっとそれを意識しながら子育てをしてきた。おかげで、言って聞かせれば、わかってくれる自慢の息子に成長した。

自分の子育てに自信はあったが、2人目は望まなかった。だって、この子だけに愛情をそそいでやりたかったから。完璧。今までの私の子育ては完璧だ。そう母親は信じていたのだった。

 そして、その日も親子はいつものように生活していた。父親は遠方に出張中で、今夜は家には帰らない。それも一家にとっては普段通りのことだった。母子二人で夕食を食べ、二階の自分の部屋に上がろうとしていた息子を母親が呼び止めた。

「今日、お隣の奥さんから聞いたんだけど。」

 母親は、感情をコントロールしながら続けた。

「あなたが、女の子と仲良さそうに歩いてたって。」

 できるだけ柔らかく、できるだけ笑顔で、母親はさらに続けた。

「お隣さんは、息子さんもすみにおけないわね、なんて言ってたけど、同級生?ただのお友達よね。受験の前の大事な時期に女の子とお付き合いするなんて、あなたに限ってありえないし、まだ中学生なのに、そんなこと、まさかね・・・。」

 母親の中で、これまでに感じたことのない感情が渦巻いていた。手塩にかけて育てた息子が、私以外の誰かと、私に内緒で心を通わせているかもしれないなんて。何ともいいようのないような怒りの気持ち。これが、いわゆる嫉妬だということを認識できないくらい、母親の感情は高ぶっていた。

「あなたは中学生よ。中学生が一番頑張らないといけないのは勉強なの。賢いあなたはよくわかっているはずよね。あなたのことは信じているけど、他の人から誤解されるような行動は慎むべきね。今は、中学生でも手をつないで歩いていたり、夜遅くまで遊んでいたりすることがあるらしいけど、あなたは違うでしょ。」

 母親の笑顔はとうに消えていた。『怒るのではなく、諭す』。母親は今も諭しているつもりだったが、息子からしてみれば、ただわめいているだけにしか見えなかった。今までだってそうだ。母はいつでも正論で、僕はいつも母の言いなりで。でも、母が喜んでくれればそれで良かったんだ。僕のためを思って言ってくれるんだもの。母が笑ってくれれば、僕は我慢できたんだ。でも、今日はなぜかいつもと違っていた。母親の中にある嫉妬という感情が、息子への想いをゆがんだ形で伝えてしまったのかもしれない。

 息子は口答えもせず、だまって母のわめき声を受け止めていたが、ふっと歩き出し、母に近づいた。そして、母の目の前に立つと、おもむろに母が着ていた服をまくり上げ、人差し指で素早くへそを押した。母親は、抵抗する間もなく、突然動かなくなった。今までのわめき声が嘘のように消え、静まり返った部屋の中で、息子は立ちすくんでいた。



 『ベイビーボタンプロジェクト実施本部』の看板が掲げられた部屋の中では、2人の研究員がデータの整理を行っていた。

「この親子のデータは実に興味深いね。」

 年配の研究員が20代と思われる研究員に話しかけた。

「あぁ、それ、中学生が母親を止めちゃったやつですよね。」

「この母親は、プロジェクト1年目の検体だったんだが、本人はそのことを知らなかったようだね。」

「ええ。小さい頃、自分の母親に何回かボタンを押されていたようですが、本人は全く気付かず・・・。そりゃそうか。自分は止まってるんだから。」

 若い研究員は、首をすくめながら笑った。

「でも、ボタンを押された違和感や、押さなけりゃ子育てできなかった母の気持ちなんかを心に溜めながら成長してしまったんでしょうね。何事に対しても完璧を求めて、一切の妥協や逃げを認めない性格だったらしいですから。」

「ふむ。」

「自分の子どもにボタンを取り付けることも最後まで嫌がっていたそうですけど、父親の方が母親のそんな性格を心配して、説き伏せたそうです。」

「それで、自分の子どもには、決してボタンを押すことはなかった。」

「父親は、妻の母親からボタンのことを聞いて、念のために、息子にも指紋認証の登録をさせた、と、以前の記録に書いてありましたね。」

「うむ。父親は、妻が暴走するかもしれないと考えていたんだね。」

「はい。でも、今回の例、安全装置がこんな形で作用するとは思いませんでしたね。」

 年配の研究員は、少し考えるような仕草をしてうなずいた。

「それまで息子は母親に逆らったことなく過ごしてきた。自分の交友関係を責める母親を、我慢できず止めてしまったものの、後の制裁が怖くなるのも当然だろう。再度ボタンを押すことをためらう気持ちもわかるな。」

「そうですよね。自分自身を責める気持ちもあるし、どうしたらいいかわからなかったと思いますよ。俺なら二度と母親を復活させないな。」

「おいおい。」

「でも、これで、安全装置の有能性が実証されましたね。」

「そうだ。ただ単に、検体を復活させるだけではなく、押した人間の心にも働きかけるのだからな。」

一回ボタンを押すと、押された人間の動きが止まる。再度押されないと、押された人間は人形のようになったまま。一定時間以上経つと、安全装置が働き、ボタンを押すことを促す仕組みになっている。母親のボタンに設定されていた時間は3時間。この3時間の間、息子の方もどうすればよいかわからず、動けずにいた。止まったままの母と子。3時間が過ぎた時、オルゴールの音色とともに、急に母親のボタンが光り出した。そしてその光は部屋の壁にある映像を映し始めた。その映像に息子の目は釘付けになった。

それは、自分が小さい頃から今に至るまでの記録のダイジェストだった。乳児期の夜泣き、幼児期の自己中心的でわがままな言動、集団生活での友達関係のトラブル。そして、そんな自分を一生懸命に育ててくれた母。一通り映像を見た後、息子は再度母のへそを人差し指で押した。そして、本当に久しぶりに母を抱きしめたのだった。

「本当に感動的だなぁ。俺、こんな話に弱いんですよ。」

 若い研究員は、少し目を潤ませた。

「母親の方も、ボタンを押してまで自分を止めたかった息子の気持ちを理解したようで。親子だからわかりあえるんですよね。息子の方も、これからは母親に少しでも自分の気持ちが言えるようになるんじゃないかな。」

「このプロジェクトは、主に児童虐待防止のために、母親が困った時に子どもの動きを止めることを目的にして実施しているが、今回の例を検証すると、子どもだけではなく、大人にも有効なのではないだろうか。例えば、社会問題にもなっているドメスティックバイオレンス、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、そして、様々な犯罪にも有効だぞ。なぜ、今まで気が付かなかったんだ!人間全てにボタンを設置すると、犯罪を起こす前に動作をストップできる。未然に犯罪を阻止できるってことだぞ!」

 一人で盛り上がっている年配の研究員を、若い研究員が冷めた目で眺めている。

「おい、君、これから忙しくなるぞ!このプロジェクトは『ベイビーボタン』ではなく『全人類ボタンプロジェクト』に進化するのだ。今までのようにのんびりとやっている場合ではないぞ。そもそも君は、いつもやる気がなさそうにして、向上心というものがないのか。これからはビシビシと・・・。」

 話している途中で、年配の研究員は人形のように動かなくなった。

「まったくこの人はとろいな。何度止められても気が付かない。俺は随分前から、ボタンを有効利用させてもらってるのに・・・。」

 若い研究員はため息を吐くと、一休みするために部屋を出て行った。

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