6. そして新たなる1.

 いろいろな見解があるかもしれないが、僕の場合、素敵な休日はなんてことない朝食から始まる。


 トーストとコーヒー、フレンチ・ドレッシングをたっぷりとかけたレタスときゅうりのサラダ、それから温泉卵。僕はテレビのニュース番組を眺めながら、極めてゆっくりとそれを食べる。この儀式をやり遂げることができたなら、いつだってそれは素敵な休日になるのだ。

 逆にこの儀式をやり遂げることができなかった場合、その日はあまりよろしくない出来事が起こる。彼女と喧嘩して別れた日も、そういえばこの朝食をとれていなかった。


 だからどうだという話ではない。人生なんて、結局のところそんな偶然の組み合わせなのだ。


 今日は久しぶりの休日だ。

 なんとしても素敵な朝食によって、素敵な休日を始めなければならない。僕はキッチンのほうを向いた。


 そこには、僕が立っていた。


 僕は混乱で頭が弾けそうになった。僕はここにいる。でも、あそこにも僕はいる。じゃあ僕は一体どこにいればいいんだ?

 とりあえず「会えて嬉しいよ」なんて言いつつ握手でも求めてみようかと思ったが、目の前にいる僕は僕を一瞥し、黙って冷蔵庫へと歩いていった。そして冷蔵庫の扉を厳かに開けると、つやつやと輝く卵を取り出した。最後の一個だ。あの卵がないと、なんてことない朝食をとることが不可能になる。


「悪いな。今日の温泉卵は諦めてくれ」


 立ち尽くしている僕に向かって、卵を持った僕は静かに告げると、卵を思い切り握り潰した。

 なんてことをするんだ。僕は抗議の声を上げようとして、それをそのまま飲み込んだ。卵を握り潰した僕の体が、揺らぎ始めたのだ。

 ゆっくりと、でも確実に、僕の体は透明度を増していく。何枚もの偏光フィルターを通して見ているように。蝉の羽化を逆回しで見ているかのように。窓から差す朝日は、今や僕の体を突き抜けて床を照らしていた。


 何が起こっているのかよくわからないが、もう一人の僕が今まさに消えていこうとしているのはわかった。僕はとりあえず手を伸ばしたが、どうやら遅すぎたようだった。

 消えゆく僕は最後に親指を立て、突き出すような仕草を見せた。まるで映画の主人公みたいに、グッドラックとでも言いたげに。

 そして完全に透明になり、完全に消えた。


 残されたのは、握り潰されて床に落ちた卵だけだった。


 僕はしばらく放心していたが、とりあえず床を掃除することにした。

 へばりついたぬるぬるを拭き取りながら、僕は考えた。温泉卵を作るというのは、極めて慎重さを要する作業だ。茹で過ぎてしまうと温泉卵にならないし、温泉卵でなければ「なんてことない朝食」とは言えないのだから。ゆで卵と温泉卵と半熟卵、その境界はひどく曖昧で、殻を割る前の卵の中身のように不確かなのだ。


 そういえば、この割れた卵を買ったのはいつのことだっただろうか。何日前、いや、何週間前かもしれない。もしもこれを食べていたら、僕は腹を壊していた可能性だってある。

 もしかしてあの僕は、卵を食べて腹を壊した未来の僕で、過去の僕を腹痛や嘔吐や何やかやから救うために過去に戻ってきてくれたのではないだろうか。まさかそんな。


 そんなことを考えているうちに台所から二つの音が同時に響き渡った。それは電話のベルがけたたましく鳴る音であり、冷蔵庫の扉が開けっ放しになっていることを警告する電子音であった。僕は嘆息とともに冷蔵庫の扉を閉め、少し迷ってから受話器を取った。


「もしもし」


「ねえ、今何をしてるの?」


 それが例の彼女だったので、僕は内心ひどく動揺していた。

 なんてことない喧嘩のあと、彼女は出ていった。僕は少し泣いたし、彼女も少し泣いていた。それで終わりだった。いつだってそういうものだ。


「ちょっと僕を見送ってたんだ」


「あなたを見送ってたの? あなたが?」


「そう」


 少しの沈黙が流れた。受話器の向こうはしんと静まりかえっている。ローリング・ストーンズのCDが彼女のために「ブラウン・シュガー」を歌う声だけが、かすかに聞こえてきていた。


「でも、あなたは一人しかいないわ」


「僕もそう思うよ。でも、本当は二人いたのかもしれない」


 未来にも過去にも僕は存在しているけれど、僕はいつだって一人だ。彼女と一緒にいたのも僕だし、彼女と別れたのも僕だ。

 彼女はしばらく黙ってから、そっと囁いた。


「あなたに会いたいわ。どちらのあなたでもいいけれど、できれば今電話に出ているほうのあなたがいい」


 別れた今でも彼女に会いたいと思っている僕も、僕だ。


「それなら大丈夫だ。電話に出ている僕も君に会いたいと思っている」


「それなら会いましょう。お昼に駅のカフェでいいかしら」


「もちろん」


 それから電話は切れた。

 僕は受話器を置き、家の中を歩き回り、まともな服を選んで身につけ、洗面所で鏡を覗き込んで身支度を整えた。

 今までの経験から言えば、このままいけば今日はろくでもない日になるだろう。犬に噛まれるかもしれない。財布を落とすかもしれない。


「やれやれ」


 だけど、僕はまだ諦めていなかった。

 実は、あのカフェにはとびきりのブレックファスト・メニューがある。トーストとコーヒー、フレンチ・ドレッシングをたっぷりとかけたレタスときゅうりのサラダ、それから温泉卵のセットだ。

 さらには、テレビだって置いてある。ニュースを観ながらあのメニューをゆっくりと食べれば、それが朝食になるだろう。なんてことない、でもすごく素敵な朝食だ。


 今からあのカフェに行こう。昼まではまだ時間がある。彼女が来るまで、カフェでなんてことない朝食をとろう。

 そして、今日という一日を素敵なものにしよう。


 僕は扉を開けた。差し込んでくる朝日が僕の視界を白く染めた。

 どうやら、そんなに悪くない休日になりそうだった。

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温泉卵の日 紫水街(旧:水尾) @elbaite

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