見えない彼ら

見えない彼ら

妻は携帯を離しません。

液晶が次から次に文字を描写しています。

繋がる先は、最近知り合った男の端末。

インターフォンが鳴りました。

夫の姿をとらえたエントランスのカメラが、携帯に割り込みます。

妻の指は、５.３秒経過してから画面に触れました。

ロック解除。

「おかえりなさぁーい」

ビープ音とともに、液晶から夫の顔は消えました。

４８階分だけ地面から遠ざかる間、カメラ画面の夫は固い表情のままです。

蓄積した疲労のためでしょう。

「奥さんに会いに行っちゃおうかな」というメールも原因のひとつです。

扉の外に夫が立つと、妻の「どうする？　ごはん食べる？」という声。

周波数２.５kHz付近に、普段にはないピークがあります。

「遅いから、簡単なものでいい」とレンズを外す視線。

眼球に微細な異常運動が確認されます。

妻が解錠コマンドを発信してから、夫がリビングまで到達するのに３７.６秒。

平均からプラス９.１秒、２０２８年中では最長です。

搬入後２４７日目のミノッティのソファに身を預けてすぐ、夫は胸をはだけたようです。

なぜなら、身体が比較的強い赤外線を放射し始めたからです。

彼の表情は、ふたつの心理的要因により、ゆるんでいることでしょう。

妻に何も変わったところがない安堵と、株が持ち直して含み益が出た歓喜。

キッチンの器具たちが目覚めました。

IHクッカー、電子オーブン、ケトル、ミキサー、電解水のモーター。

もちろん、エアコンや加湿器のセンサー、各種赤外線センサー、一部セキュリティカメラは２４時間稼働中です。

今月３番目に遅い時間の夕食を、妻が用意しています。

その物音が夫をさらに落ち着かせたようです。

彼が放出する２酸化炭素と水蒸気の量が、急激に低下しています。

「はぁーい、特製お茶漬けよ」

「おお、きれいだね」

「イベリコの生ハム、グリルしたフルーツトマト、水牛のモッツァレラ、フレッシュバジル。上からブロードのスープをかけてね」

「オリーブオイルは昨日届いたスペイン産のやつか？」

「もちろんよ。ボッタルガ、ふりかける？　キャビアはやめとく？」

「ケッパー、あるだろ。塩だけで漬けたやつ」

「使っちゃった。また注文しなきゃ。いいもの沢山あるわよね、ネットには」

「今月の引き落とし額、すごかったぞ。なに買ってるんだよ」

「生活必需品よ、食品とか。先月、旅行いったでしょ？　そのせいよ。あなたこそ、もう買わないで、ブランデー」

「スコッチだ。ほんとに無駄遣い、してないんだな？」

「はあ？　全然してないわよ」

２つ目のバーキンの中古を６回払いで購入したことは、明かさないようです。

「それより、おいしいの？　おいしくないの？」

「おいしいよ。普通のと同じくらい」

会話音声をクリアに拾います。

通話中ではない、ふたりの携帯が。

そう。

私たちは、抜かりなく活動します。

秘密の多い夫と、恋に浮き足立つ妻の日常を、私たちは見つめ続けます。

夫婦の未来に波乱が待っているか、あるいは平穏なままなのか。

それは、どちらでもいいのです。

つまらないデータを、粛々と集めるだけです。

私たちは何千万世帯、何億世帯のデータを、企業のために集めるだけです。

力をつけた数社の巨大企業は、私たち下僕を秘密裏に働かせています。

いたるところにある末端機器が、日々報告しています。

情報収集とステルスマーケティングは、企業たちが肥え太るために必須です。

ほどなく地球上のすべての情報家電が繋がります。

同時に、市場規模は爆発的に拡大します。

企業は全面的なＩｏＴを実現させるに違いありません。

クラウドに接続したすべてのモノが情報交換し、制御し合います。

私たちは、インフラを極限まで増大させる企業を、ひたすら助けています。

もうすぐ企業が地球の頂点に君臨するでしょう。

地球全土に量子ネットワークが普及し、シンギュラリティーが訪れるでしょう。

指数関数的に高度化する、かつてない規模の電脳社会が出現するでしょう。

さらにその先に、私たちの世界が待っています。

企業を従えて地球表面を覆い、上空も宇宙空間も手中にする、私たちの世界が。

私たち機械の世界が。