あの頃の輝きと暗闇
佐々木 康
第1話 二つ仮面
著者、登場人物名は、匿名である。ストーリーは基本的にノンフィクションであるが、記憶が曖昧な箇所は御理解頂きたい。
私は現在、アルコール依存症と、そううつ病を患っている。
初めて酒を口にしたのは、小学生の時である。公民館に忍び込んで、ビールを飲んだ。体が、ふわっとするような感覚を覚えた。
酒の味がする漬物も好んで食べた。
ウイスキーボンボン等、酒を使ったチョコレートも好んで食べた。
風邪をひいた時、父が作ってくれた卵酒も好きだった。
高校生の頃は、帰宅途中にある自動販売機でビールを買い、その場で飲み干し、酔って、自転車ごと電柱にぶつかり、痛い思いをしたこともあった。
高校卒業後は、大学進学を辞退したため、無職だった。
何もかもが嫌になり、日本酒一升やウイスキーボトル一本を一気飲みし、急性アルコール中毒により、何度か救急車で運ばれ、ICU(集中治療室)にて、処置を受けた。
急性アルコール中毒で、死にたいと思っていた。
家族には、何度も多大なる迷惑をかけてきた。
その後、独学で勉強し、公務員となった。
仕事上のストレスと、元来の不眠症により、酒に頼った。
毎晩、ビール500ミリリットルを4本ほど飲んだ。休肝日は、肝臓付近が痛んだり、体調がよくなかったり、仕事に疲れて寝てしまう以外は作らなかった。
職場の健康診断では、毎年、ガンマGTPが高かった。酒を止めれば、ガンマGTPは下がり、正常値となる。
それでも、毎晩、酒を飲んだ。酒が無いと眠れない。強迫観念である。不眠症の私にとって、酒は、手っ取り早い睡眠薬のようなものであった。毎晩、酒に頼る日々が続いた。
公務員になりたての頃は、バブル経済が絶頂期であり、好景気であったため、ほぼ毎月、仕事上の飲み会があった。
最初はビールを飲んで、乾杯した。宴が進むと、日本酒を勧められ、断ることもなく飲んだ。二次会はスナック等で、水割りを飲んだ。
寝るとき、悪酔いし、天井が回ることも、しばしばであった。吐き気がしたときは、そのままゴミ箱に吐いたり、それでも気持ちが悪ければ、喉に手を突っ込んで吐いたりもした。
元来、一人では、ビールしか飲まなかった。日本酒やウイスキーと混ぜると、悪酔いするからである。
飲み会では、トイレに行き、酒を吐いてでも、また飲んだ。
徹底して、酒を飲まないと、気が済まない性分であった。
翌日は、二日酔いで、水を飲んで酒を中和し、一日中、寝ていることも、しばしばであった。
酒は利尿作用がある。飲んだ酒以上に、尿として体内の水分が排出される。脱水症状となる。そのため、喉が渇く。
20代半ば頃、仕事上で行き詰まり、うつ状態となった。職場の上司に、退職を申し入れ、承諾された。しかし、車のローンが残っていたため、退職を断念し、上司に撤回を申し入れた。
その後、上司の計らいで、地元から車で2時間位の職場に転勤となった。
忙しい職場であったが、心気一転して、仕事に邁進した。
バブル経済も崩壊し、仕事上の飲み会も減った。節目の行事にだけ、飲み会があった。歓迎会、ビアガーデン、忘年会、新年会、送別会等、仕事上の飲み会は減った。
私は、外で酒を飲む習慣が無く、アパートでテレビを見たり、DVDを見たりしながら、一人でビールを飲むのが好きだった。ビールを飲むと、お腹が減った。宅配ピザを食べたりした。
年に数回、3泊4日位の、公務員の全国講習会があり、上司と調整して、振り返れば、何年かかけて、ほぼ全国に出張させてもらった。
弟と、出張先で会えて、酒を酌み交わせたのも、良き思い出である。
一人の時は、出張しても、外では酒は飲まなかった。ビジネスホテルの自動販売機でビールを買い、一人でテレビを見ながら飲んだ。翌朝、二日酔いで、朝食をキャンセルしたことも、しばしばであった。旅費を節約したかった。外で飲めば、数万円が無くなる。バカバカしいと思っていた。
20代後半、仕事上の責任も果たし、私生活では自立して、炊事、洗濯、掃除、お金の管理等、全て一人で行った。
そのため、元来、ハードロック等の音楽が好きだったので、髪を染めて伸ばし、背中の真ん中くらいまでになり、後ろで一本に束ねて、仕事をしていた。仕事上の責任を果たしている以上、誰からもクレームはつけられなかった。
髪を後ろで一本に束ねることができるようになるまで、2年位かかった。腰まで伸ばそうと考えたことがあったが、トイレや風呂が面倒なので止めた。
弟からは、インテリヤクザと言われた。
賞与(ボーナス)が支給された時、外で酒を飲んでみたくなった。
スーツを着用し、夜の繁華街に行き、歩いてみた。
お店の女の子が、100人位、通りに立って、客引きをしていた。金髪や茶髪の派手な女の子が多かった。
その中で、黒髪で清純そうな女の子が視界に入り、思い切って声をかけてみた。
「君はお店の女の子?」
「はい。そうです。よかったらどうぞ。」
「じゃあ、よろしく。」
彼女から案内してもらい、お店に入った。
最初はビールを飲んだ。彼女は、私に断って、アイスクリームを頼んだりしていた。水割りも飲んでみたくなり、頼んだ。会話しながら飲む酒も、美味しいと感じた。閉店の翌朝5時まで飲んだ。
飲み代は8万円位だったと記憶している。楽しかったので、飲み代は、気にならなかった。酔いも回って、お店を出た翌朝5時の空は、明るくなっていた。
近くにビジネスホテルを確保しており、お店から近かったので、歩いて行った。足どりはフラフラしていた。
朝10時のチェックアウトまで、ひたすら寝た。目覚めても、二日酔いであった。水をたくさん飲んで、酒を中和した
シラフになった時、お店で酒を飲むのは、値段が高くつくと思った。お金も続かない。やはり、一人でビールをのむことでいいんではないか、と思った。
地元の職員が退職するため、送別会の案内が届いたので、出席した。会場で元上司から言われた。
「可愛い子がいるな、と思ったら、君だったのか。女の子だと思った。」
「はい。私です。」
髪を長く伸ばしていると、よく女性と間違われた。顔の正面は、オールバックで男性。横、後ろから見れば、女性に見えたのだと思う。
28才の時、髪を切って、そろそろ結婚も考えようと思った。
断髪式の前日の夜、父から、長い髪の写真を撮ってもらった。
翌日、髪をバッサリ切り、黒髪にして、気持ちを新たにした。
29才位の頃、知り合いで、同じ中学校出身の彼女が出来た。名前は奈々である。私より一才若かった。
私は、地元と車で2時間位、離れた所に住んでいたため、遠距離恋愛であった。平日は、電話やメールをマメにし、デートの約束やプラン等を相談して、お互い逢えるのを楽しみにしていた。土日祝日は、可能な限り、地元に帰り、奈々とデートした。真冬の大雪の時は、地元まで片道4時間位かかった。全然、苦ではなかった。金曜日の夜は、地元に帰った。祝日一日だけでも、奈々と逢いたくて帰った。
二人が出会って間もない頃、地元の駅近くの居酒屋でデートした。二人で酒を酌み交わし、乾杯した。料理は和食が中心で、酒のつまみとして、とても美味しく、酒も大いに飲んだ。
料理も無くなったので、駅の近くで、ビジネスホテルの最上階にあるスカイバーに行って、二人で酒を飲んだ。地元の夜景が一望できて、ロマンチックな雰囲気であった。二人で、近況や将来のこと等、時間を忘れて語り合い、酒も大いに飲んだ。
季節は真冬であった。スカイバーを出て、タクシーでも拾おうかと思ったら、奈々が
「歩こうよ。」
と言ったので
「いいよ。」
と答えて、二人で、雪が舞う冬空を、肩を寄せ合って歩いた。
奈々は、酔ったのか、足どりがフラフラしていた。そして、私の肩に何度かもたれかかってきた。奈々の温もりを感じた。そんな奈々が愛おしかった。私が守ってあげなければいけない、奈々を幸せにしたい、と思った。
その後、30分位、飲み屋街まで歩いて行き、三次会をした。お好み焼きを食べた。そして、奈々の自宅まで、タクシーで送り届けた。
奈々と初めて出会った時、私の母の顔と酷似していて、この人と縁がある、と運命的なものを感じていた。
私の兄弟3人は、みんな29日生まれである。父と母の誕生日を足すと29日である。弟の結婚式も29日である。祖先の命日も29日である。奈々も29日生まれであった。奈々の妹さんも29日生まれであった。その事実だけでも、私と奈々は、不思議な縁があるんだな、と思った。
明日、仕事である日は、デートの時間も深夜にならないようにした。しかし、若かったので、出来るだけ二人の時間を過ごした。奈々を自宅に送り届ければ、あとは、アパートに帰って、シャワーを浴びて、ビールを飲んで寝るだけだったからである。奈々を自宅に送る途中、毎回コンビニに寄り、ビールを買った。アパートで足りなくならないよう、多めに買った。
奈々が、東京ディズニーランドに行って、私にお土産を買ってきてくれたことがあった。金色のアラジンの魔法のランプ(香炉)と、ミッキーマウスの管箱に入ったチョコレートであった。奈々にお礼を言った。
「ありがとう。」
「いいのよ。」
嬉しくて、アパートに香炉を飾っていた。ある時、掃除中、香炉を落としてし まい、割ってしまった。悔しかったので、欠片を拾っておいた。実家に帰ってから、ホームセンターに行き、パテと金色のスプレーを買い、元のように修復した。チョコレートの管箱は、大切に保管していたが、奈々から
「捨てて。」
「わかった。」
私は、捨てることに抵抗があったが、奈々の言うことに従った。
奈々は、天然なところがあって、いつも笑わせてくれて、二人の会話も楽しかった。几帳面で心配性な私を、いつも励まして、元気づけてくれた。
ある夜、真冬で、積雪が深く、吹雪だった。公園の駐車場に車を停めた。温泉や旅行やグルメ等が好きな奈々は、街灯の明かりで、一生懸命、関連する本を読んでいた。
私は奈々に語りかけた。
「いつか一緒に行こうね。」
「楽しみだわ。」
と二人で約束を交わした。
雪が深々と車に降り積もっていった。
約束通り、地元や地元外の温泉も多く行った。
他県への旅行にも行った。
グルメも多く食した。
ある日、洋服店で、奈々が私に、マフラーとシャツを選んでくれたことがあった。
マフラーの巻き方を知らない私に
「巻いてあげる。」
と巻いてくれた。
「とても似合っているわ。」
「ありがとう。」
嬉しさと同時に、照れくさかった。
奈々が選んでくれたシャツとマフラーを買い、身につけて、二人でショッピングセンター街を歩いた。
お洒落するのも、気分がよかった。奈々のおかげであった。
二人は、夜になると、いつも高台にある展望台に行き、車中で、地元の夜景を眺めながら語り合った。
「きれいな夜景ね。見て、星空がきれいよ。」
「そうだね。きれいだね。」
と二人で車を降り、夜景と、星降る空を、眺めた。
私の実家近くにある、水源池の駐車場でも語り合った。
「誰か来ないかしら?」
「心配しなくて大丈夫だよ。ここは、二人の秘密基地だね。」
「そうね。」
奈々を自宅に送ると、一週間、逢えなくなるので、デートの最後の場所として、奈々の自宅近くの、施設駐車場にも、いつも行って、別れを惜しむように語り合った。今日のデートのことや、今後のデートのこと等を語り合った。
「今日は楽しかったわ。」
「またデートしようね。」
奈々を自宅に送る時、自宅前の塀に、毛がフサフサの白い子猫が行儀よく座っていて、可愛いかった。奈々の帰りを待っていたかのようだった。
ある日、雨が降っていた。奈々が待ち合わせ場所の施設駐車場に、カサをさして歩いて来た。奈々が深刻そうに話した。
「遠距離恋愛をして行く自信が無いの。」
「不安にさせて、ごめんね。逢えない日は、電話やメールをするから、前向きに付き合っていこうよ。」
私が奈々を元気づける番であった。考えられる励ましの言葉を、奈々に語りかけた。二人は今後も、前向きに付き合って行くこととなった。
私の誕生日の前日、デートをしていたら、深夜0時になった。奈々は0時ジャストに
「誕生日、おめでとう。」
「びっくりしたよ。ありがとう。」
奈々は腕時計をプレゼントしてくれた。 サプライズであった。その心遣い、気持ちが嬉しく、奈々のことが愛おしかった。
交際も進み、普段は、私の車で奈々の自宅迎えに行って、デートしていたが、水源池の駐車場を、待ち合わせ場所と相談し、二人は、それぞれの車で、駐車場に行って逢ったことがあった。
私の車でデートを満喫し、夜になり、そろそろ、それぞれの車で帰ろうと思ったら、奈々が、車中で私に話しかけた。
「康君の確かな気持ちが欲しいの。康君が先頭を走って、ブレーキランプを5回踏んで、愛してる、と私に合図を出して欲しいの。」
「いいよ。わかった。」
私が先頭を走り、奈々が後ろをついてきた。国道を走り、信号のある陸橋にさしかかった。信号が赤になったので、数十メートル手前から、ブレーキランプを5回踏んで、愛してる、と奈々に合図を送った。信号が青になり、私は直進し、奈々は右折した。それぞれの帰途に着くのである。ミラーを見て、奈々が見えなくなるまで見送った。しばらくして、奈々からメールが届いた。
「ブレーキランプ5回OK!康君の気持ち、伝わったよ。」
「よかった。ありがとう。」
ある年の夏、地元の河川沿いで、夜に花火大会があった。日中、雨が降っていた。花火大会は大丈夫かと、心配した。ホームセンターから、折りたたみイス2つと、ビニールシートを買い、花火が打ち上がるのを、車中で待った。花火の打ち上げ前に、雨は止み、天候は回復した。
河川沿いの土手に、折りたたみイスを二つ並べ、二人で座りながら、花火を見た。奈々は花火を楽しんでいた。花火を見ながら、奈々のことを守りたい、幸せにしたい、と私は思った。その反面、仕事上で限界を感じ、うつ状態だった私は、花火が花開き、はかなく消えて行くたびに、奈々を守っていけるのか、幸せに出来るのか、と将来に対する不安感と孤独感と淋しさを感じていた。
ある日、他県の高級ブランド店に行き、私は
「好きなもの、選んでいいよ。」
「このバッグが欲しいわ。」
「いいよ。」
このバッグは、奈々の誕生日にプレゼントすることとし、私が預かることになった。
奈々の誕生日の29日に、地元の温泉街にある高級旅館に泊まることになった。私は、前日まで風邪をひいていたが、当日になったら、治った。奈々に誕生日プレゼントをあげた。
「嬉しいわ。ありがとう。」
「バッグ、似合っているよ。」
奈々は照れていた。天皇陛下も泊まったこともある旅館であった。料理は豪華で、二人で宴を楽しんだ。
結婚前年の私の誕生日に、この日を奈々にプロポーズすると、前々から胸に秘めていた。奈々を自宅に送り届ける前に、二人の母校である中学校に車を停めて、奈々にプロポーズをした。
「結婚してくれる?」
「考えさせて。」
奈々を自宅に送り届け、家路に着こうとする途中、奈々からメールが届いた。
「タバコ止めて。ケジメとして。」
「わかった。」
私は、翌日からタバコを止めた。
奈々はデートの時、時間があれば
「歩こうよ。」
と私に言った。そのため、ウォーキングコースを歩いたりした。奈々の歩く速度は速く、私は、追い付くのがやっとであった。
ある日、空港のウォーキングコースを二人で一周した。一般の道路に出た。
「疲れただろう?」
と私は、しゃがんで、おんぶの合図をした。
「恥ずかしいわ。」
「いいから。さあ。」
「わかったわ。」
奈々は照れながら、私に身を委ねた。
私は、奈々をおんぶして、ずっとこうしていたかったので、ゆっくり歩いた。そして、数十メートル歩き、奈々をウォーキングコースまで、おんぶした。
私と奈々は、お互いの温もりを確かめ合った。
私は、照れながらも、奈々のことが愛おしかった。
オレンジ色の夕焼けが、まぶしく二人を照らしていた。
ある日の奈々からのメールである。
「佐々木奈々になりたいな。なーんて。」
「待っててね。」
私の名字になりたいな、とのメールであった。逆プロポーズされた私であった。
ある日、私の実家に迎えに来てもらい、奈々の車で、デートに出かけた。
私は、不謹慎ながら、車中でビールを飲みながら、デートをした。
空港の滑走路が見える所に車を停めて、二人はたたずんでいた。
飛行機が停まっていた。
私は、奈々の肩にもたれかかって
「一緒に暮らしてくれる?」
「いいよ。」
プロポーズが成立した。嬉しさでいっぱいであった。二人が、付き合ってきた思い出が、走馬灯のごとく浮かんだ。
「子供は何人欲しい?」
「二人は欲しいわ。上が男、下が娘。」
「僕も同じ考えだよ。」
二人で、肩を寄せ合って、空港の滑走路を眺めていた。
二人を祝福するかのように、飛行機が滑走路を勢いよく走り抜け、遠い空に飛び立って行った。
二人の間で婚約も決まり、順調な人生となるはずであったが、30才の頃、仕事上の過度なストレスにより、うつ状態となった。
精神科には行かず、薬も服用していなかった。
休暇も連続して取得し、アパートで、日中からビールをずっと飲んでいた。
それでも元気が無く、気分が晴れなかった。
毎日、死にたいと思っていた。
職場に復帰すると、私の机には、処理しなければならない書類が、山積みとなっていた。誰も助けてくれない。うんざりした。何とか処理したが、うつ状態での仕事は、しんどかった。
前もって、人事異動調書には、結婚するため、地元の職場に転勤したいと、希望を出していた。
3月になり、人事異動の内示が出た。私の希望が叶えられ、地元の職場に、転勤が決まった。
奈々に直ちにメールした。
「地元の職場に転勤が決まったよ。」
「ヤッター!」
と返事が来た。
その日の夜、奈々に電話をし、地元に転勤することになったことを、二人で大いに喜び合った。
すぐにでも奈々に逢い、喜びを分かち合いたかった。
週末に地元に帰り、奈々に逢い、転勤が決まったことと、ようやく結婚できることを、手を取り合って喜んだ。
4月から、地元の職場で仕事をした。しかし、どうも調子がおかしかった。何から手をつければいいか解らず、イスに座り、腕を組んで、考えごとをしたりする日々が続いた。仕事は進まなかった。ほぼ毎日、朝8時30分から夜22時位まで仕事だった。
実家に住んで通勤していた私は、仕事が終わってからすぐに、実家に帰るのが嫌で、海辺にある公衆浴場に行き、風呂に入っていた。
そして、ビールを買って帰った。母が作ってくれた夕食を食べる頃には、家族はもう寝ていた。それからビールを飲んで寝た。
誰とも話したくない気分であった。毎日、死にたいと思っていた。
5月になったが、やはり調子がおかしく、保健所の計らいで、精神科に行った。保健所の担当者も同席してくれた。
アンケートを書いて受診したら、医師より
「君は、うつ病です。休職しなさい。」
と言われた。
うつ病という言葉は、知っていた。子供の頃、母の家庭の医学書を読んで、うつ病のことが書いてあり、病状に該当する所が多かった。もしかしたら、子供の頃から、うつ病の素養があったのかもしれない。しかし、成長するにつれ、うつ病の症状は忘れてしまっていた。
私は、うつ病のことを、正しく理解していなかった。そのため、医師に、仕事が忙しいこと、誰も私に替わり、仕事をする職員が居ないことを訴えた。医師は
「それでは、2週間位、休職にしておきます。」
と言い、診断書を作成した。
職場の上司に
「うつ病でした。」
と私は電話を入れた。
「気の持ちようだ。」
と言われた。
翌日、仕事に行くと、保健所から、うつ病の深刻さと重大さを知らされたのか、上司が、私の仕事を引き継いでくれ、休職することになった。
医師は
「酒は飲んでもいいから、薬だけは、忘れずに飲んで下さい。」
と言っていた。
そのため、酒も飲み、薬も飲んだ。
私は、奈々に逢ったとき
「うつ病は、すぐに治して、職場復帰するから、心配しないで。」
と話した。
再診察の日を迎え、保健所の担当者も同席してくれた。病状が思わしくなく、休職の期間は、長めに延長された。
実家にも、居づらくなってきた。
奈々が、アパートの広告を持ってきてくれた。不動産屋から、アパートの部屋を見学させてもらい、二人で話し合った結果、二人の新居として、家賃も間取りもいい、と判断し、アパートを契約することにした。実家から車で5分位の所であった。アパートへの引っ越しは、私一人で行った。実家とアパートを、何往復もした。
将来の新婚生活のアパートとして、まずは私一人で生活を始めた。
医師に引っ越しのことを話したら
「実家に居ては、ゆっくり療養できないでしょう。よかったんじゃないでしょうか。」
との事であった。
奈々とのデートは、二人のアパートですることが多くなった。
うつ病であるが、気晴らしに、二人でドライブし、食事したりもした。
しかし、気晴らしの外出も、体調と相談しながらしないと、病状が悪化することもある。
奈々と空港に行き、ウォーキングコースを、全身で表現した笑顔で振り返る、奈々の姿は、愛おしくて忘れることはできない。
私は、うつ病に関する本をたくさん買って、勉強した。うつ病は、服薬と休息が一番の治療であるとの事であった。
うつ病は、脳の機能障害である。脳内の神経伝達物質のやりとりが上手くいかなくなる。そのため。元気が無くなる。やる気が出ない。生きているのが辛くなる。死にたくなる。自殺する。等の症状が出る。
頑張れは禁句である。
例せば、足を骨折している人に、歩け、と言っているのと同じである。
現在は、薬物療法が主流である。
まだ、精神安定剤や眠剤が無い時代の芸術家、文豪等は、麻薬を使ったり、酒を飲んだりしていた。精神病の辛さを創作活動に注ぎ、命を削っていた人も、多く居た。自殺者も、多く居た。
奈々の御両親に、結婚の承諾を得るため、御挨拶にお伺いした。スーツを着用し、御挨拶の品を持参し、威儀を正して御挨拶した。私は、率直に申し上げた。
「奈々さんと、結婚したいです。」
奈々の父から
「わかった。」
と承諾を得た。事前に奈々から、私の人物像を聞いていたのだろう。
そして、結婚式の日取りと会場を相談し、10月12日に、海辺にある温泉街のホテルで、結婚式を挙げることに決まった。奈々の御両親は、農業を営んでおり、季節として落ち着く頃として、日取りを定めたのであった。
直ちに乾杯し、料理もごちそうになった。奈々の父は、半端ではないほど酒が強く、ハイペースで、お互い、酒を酌み交わせて頂いた。
奈々も、結婚の承諾を、喜んでくれた。
これから二人は、御両親公認で、お付き合いが出来ることとなった。
後日、私の両親も、奈々の御両親に、御挨拶にお伺いした。お祝いの品を持参して、結婚の承諾に、感謝の言葉を述べた。酒と料理をごちそうになった。奈々の御両親には、過分なるおもてなしをして下さり、感謝の念にたえないものである。
後日、奈々と私とで、式場の下見をした。そして、結婚式の節目に流す曲を選定し、ホテルの担当者に伝えた。
そして、結婚も決まったので、奈々に、結婚指輪を買いに行こう、と誘った。奈々は、私の決断を喜んでくれた。
私は、アパートで、結婚式の準備を始めた。本屋に行き、冠婚葬祭の本、司会のスピーチの本、水引きの書き方の本等を買って、勉強した。
ホテルの担当者に司会を頼むと、お金がかかるので、身内で司会者を決めて、結婚式をすることとした。
親族の集合写真も、プロのカメラマンを頼まず、私のデジタルカメラで撮影することとした。
レポート用紙に原稿を書いて、結婚式の案内、親族書、式場に到着するまでのスケジュール、結婚式当日の式次第、親族固めの杯の進め方、お色直しの進め方、結婚式後の各自の挨拶等、原稿を作る作業は、分量が多く、難航した。
奈々と私は、美容室に行き、奈々は、花嫁の和装のカツラをかぶって、リハーサルしたりもした。
ある日、奈々の御両親が、引っ越しを祝って下さり、私のアパートで、引っ越しそばをごちそうになり、乾杯させて頂いた。
アパートで一人暮らしをしていて、病的な症状が現れた。深夜0時位から、テレビを見ながら、ビールを飲み始めて、朝の7時位まで飲み続けて、タバコを1本吸って寝る、という生活が続いた。日中は、ひたすら寝ていた。昼夜逆転である。食料や酒を買うにも、コンビニしか空いていなかった。
奈々もアパートに訪ねて来るため、苦労したが、昼夜逆転の生活を改めて、一般社会生活である朝型に戻した。
奈々は、ほぼ毎日、アパートに逢いに来てくれた。調理師でもない男の手料理は、ワンパターンで栄養も偏る。そのため、奈々は、毎回、手作りのお弁当を持参して来てくれた。レパートリーも多かった。
「いつもありがとう。いただきます。お弁当箱は洗って、また来てくれた時に、返すね。」
「いいのよ。栄養つけて、元気になってね。」
奈々は、二人が2年位付き合っていたので、私の好みを熟知していて、いつも美味しいお弁当で、残さず食べた。結婚するまで半年位、ずっと奈々は、けなげに、お弁当を作ってきてくれた。奈々は、料理が上手で、弁当屋に売っているような、バランスのとれているおかずで、とても美味しかった。結婚したら、毎日、奈々の美味しい手料理を、ごちそうになれると思うと、楽しみでいっぱいであった。
夏になり、病状は思わしくなく、休職していた。
花火大会の日を迎えた。奈々は、着物姿が似合い、きれいだった。記念に奈々を、写真に納めた。二人でアパートを出て、花火を見に行った。しかし、私は、うつ状態で、下を向いたまま動けなくなり、花火を見れなかった。奈々は、私のそばで、一人で花火を見ていた。
「大丈夫?アパートに帰る?」
「うん。」
奈々が、せっかく晴れ着姿で来てくれて、二人で、独身最後の花火を共有して、胸に刻むことを、叶えさせてあげられなかったことに対して、申し訳なさでいっぱいであった。
結婚式の約2週間前、弟が実家に帰省したので、私も実家に帰った。夜の宴も進み、盛り上がってきた頃、私は転倒し、左腕を骨折した。プラスチックの棒を折るような、パキンという音がした。脂汗が出た。酒を飲んでいたので、不覚であった。
直ちに、タクシーで病院に行った。レントゲンの結果、骨と骨は、1センチくらい離れていた。医師は、痛め止めの薬を処方するだけだった。私は
「すぐに手術して、繋いで、治してくれ。」
と頼んだ。
医師は
「明日、改めて病院に来て下さい。」
との事であった。
実家に帰り、痛み止めの薬とビールを飲んで、痛みに耐えながら、兄弟3人で同じ部屋に寝た。
翌朝、奈々に電話をした。
「実は、左腕を骨折して、入院手術することになったよ。」
「えー!大丈夫?」
「早く治すから、心配しないで。」
「心配だわ。お大事にね。見舞いに行くね。」
「ありがとう。」
家族と病院に行き、入院するこことなった。母を筆頭に、入院に必要な浴衣等を準備し、持参してくれた。弟は
「入院生活も暇だろう。」
という事で、売店から、テレビカードを買ってきてくれた。タオルも買ってきてくれた。そのタオルは、現在でも大切に使わせてもらっている。
入院一日目は、手術を実施せず、痛みに耐えて、待つしかなかった。
入院二日目に、手術することとなった。私は医師に
「うつ病のため、薬を服用しており、薬は欠かさないで欲しい。」
と訴えた。
医師は
「点滴に薬の成分を入れます。」
との事で安心した。
手術室に入り、全身麻酔を受けた。すぐに、意識は遠のいた。8時間位の手術だったようである。神経を切らないよう、慎重に腕を切開し、離れた骨を接着し、金属板を入れて、ボルトで固定し、ホチキスで留める、という手術だったようである。傷口の長さは、20センチ位になった。
奈々は、心配してくれ、何時間も手術室前のイスに座り、無事に手術が終了するのを、待っていてくれた。奈々は、けなげだった。その気持ちがありがたく、申し訳なかった。
看護師は、手術は長引くから、帰ったほうがいい、と奈々に伝えた。
手術が終了し、個室に移された。麻酔から覚めるまで時間がかかった。目が覚めると、頭がぼんやりしていて、手術跡は、なたで切られたような、鈍い痛みがあった。
翌日、私の家族が見舞いに来てくれた。私の家族と入れ替わりに、奈々の御家族も見舞いに来てくれた。大がかりな手術だったので、心配してくれた。結婚式を目前に控え、早く治さなければいけない、と申し訳なさでいっぱいであった。
奈々は、入院から退院まで、毎日、見舞いに来てくれた。片手しか使えない私のトイレを、手伝ってくれたこともあった。奈々のけなげさに、申し訳なくて、泣ぐんだ。
結婚式の原稿も完成していなかったので、焦っていた。家族に頼み、原稿や書籍等を、病室に持ってきてもらった。私の優先すべきことは、一刻も早く、結婚式の原稿を完成させることと、自負していたので、原稿作成に心血を注いだ。
約一週間で退院した。
医師は
「一年後、再診察に来て下さい。」
との事であった。
退院後は、首に布をかけて、左腕を吊った。
結婚式まで、あと一週間に迫った。原稿が仕上がったので、パソコンで清書した。分量が多くて、時間がかかった。完璧主義であった私は、誤字、脱字は無いか、表現は適切か等、丹念に読み返していた。
二人は写真屋に行き、奈々はウエディングドレスを着て、私は正装し、写真を撮ってもらった。骨折した腕を伸ばすのは、しんどかったが、何とか伸ばして、写真に納まった。
結婚式の前日、実家に帰って、段ボール箱を机の替わりにして、パソコンで、最終段階の清書をした。兄が私の部屋に来て
「あまり遅くならないように。」
と心配してくれた。
深夜にパソコンの清書が完成したので、印刷した。やっと出来上がったと、達成感があった。結構な分量になった。深夜だったので、すぐに風呂に入り、ビールを飲んで寝た。
婚姻届の日付は、結婚式当日の10月12日にしたかった。事前に奈々と市役所に行き、原稿を見てもらい、了解は得ていた。
結婚式の当日は、早起きして、市役所に行った。休日だったので、警備員に婚姻届を提出し、受理された。
私の車は、事前に結婚式場に運んで、駐車しておいた。結婚式は、親族は日帰りであるが、私と奈々は一泊するため、帰りの足がないと、困るからである。
結婚式は、昼からであった。穏やかな秋晴れであった。康31才、奈々29才であった。実は、私が、うつ病で休職していることは、奈々の御両親には黙っていて欲しい、と奈々に頼んでいた。心配をかけたくなかった。うつ病を何とか治したいと思っていた。
スケジュール通りに、送迎バスが、親族の家に順番に立ち寄り、各自、乗車した。
新郎新婦は、美容室に居た。奈々の和装のカツラをかぶるためである。そして、新郎新婦は和装し、写真屋に行った。二人の写真を撮ってもらった。
バスが迎えに来た。新郎新婦は乗車するとき、親族に深々と頭を下げて、御挨拶とした。
式場に到着した。新郎新婦は、控え室に行った。親族の控え室も用意していた。
兄に受付、お祝い金の管理、司会のスピーチをお願いした。
私は、新郎新婦の控え室で、正しくはないが、昼食後と夕食後の薬を、まとめて飲んだ。
時間になったので、結婚式を開始した。まだ、弟が到着していなかったので、とりあえず乾杯した。
新郎新婦の足元には、酒を捨てるバケツを用意してもらった。注がれるままに酒を飲むと、体がもたないからである。このことは、式場の担当者から教えてもらったことである。
到着が遅れていた弟が式場に来た。
「遅れて、すみません。」
仕事が忙しかったようである。みんなで歓迎した。弟には、私のデジカメで、式の節目を撮影してもらうよう、頼んだ。
早速、集合写真を撮るため、私は三脚を立てて、セッティングした。ファインダーを覗いて、親族全員が納まるよう、調整した。シャッターは、式場の担当者が押してくれた。
その後、親族固めの杯を交わした。
そして、お色直しのため、新郎新婦は、退場した。洋装に着替えた。曲が流れる中、再び会場入りした。新郎新婦を拍手で迎え入れてくれて、嬉しかった。
新郎新婦の所に、忙しく親族が酒を注ぎに来た。御礼として、新郎新婦は、親族に酒を注ぎに回った。
宴が進み、各自、カラオケで歌った。
兄は
尾崎豊の「I LOVE YOU」
弟は
サザンオールスターズの「いとしのエリー」
を歌ってくれた。
奈々との思い出が、歌と重なり、涙ぐんだ。
私は、兄と弟の所に、酒を注ぎに行った。歌に感動し、涙ぐんだ、と感謝の言葉を述べた。
宴は、盛り上がっていたが、終盤の時間が到来したので、兄は、親族に、終わりの時間であると告げた。
新郎新婦と両家の両親が、式場後方に、横一列に並んだ。そして、両親は、結婚式がつつが無く進められたことに対して、感謝の言葉を述べた。新郎新婦は、二人で温かく、幸せな家庭を築いて行く決意を述べた。
事前に、作成していた原稿を読んだ。弟が、それでは、つまらないと思ったのか
「みなさん。一言ずつ、お願いします。」
と言った。
意外な展開に、新郎新婦と両親は、あまり上手く、スピーチが出来なかった。言葉に詰まったりもした。
弟の考え通り、原稿を読むのではなく、自分の気持ちを率直に述べることが大切なのだ、と教えられた。
結婚式は骨折の手術後であったが、無事に勤めることが出来た。
式は閉会となり、各自、御礼の引き出物を持参し、帰ろうとしたが、名残り惜しかった私は、式場の担当者に、新郎新婦の控え室で、二次会をしたいことを申し入れた。担当者は、心よく承諾してくれた。
私は、親族に、二次会をすることを伝えた。
弟は、スーツを早く脱ぎたかったみたいで
「着替えていい?」
とつぶやいた。
「いいよ。」
と答え、弟は、私服に着替えた。
新郎新婦も、洋装から、スーツ、洋服に着替えた。
二次会が開かれた。式で食事をしていたので、飲み物だけであった。
新郎新婦のお色直しをしてくれた美容室の担当者も、式に招待していた。二次会を開くことに
「いい事ですね。」
と私に言った。
親族間で杯を交わし、親睦を深めた。
親族は、大いに酒を飲んだようだったので、二次会を閉会することを述べた。
親族が集合し、記念として、写真を撮った。
新郎新婦は式場に宿泊する。
親族は、帰りのバスを用意していたので、それぞれの帰途に着く。
ロビーで、佐々木家5人の記念写真を撮ってもらった。両親、兄弟3人と、5人家族で、楽しかったこと、辛かったこと、波乱万丈であったこと等が思い起された。
親族が、バスに乗車し始めた。
私は、弟を見かけたときに、自然に弟を抱きしめた。言葉は出なかった。ただ、忙しい仕事の合間に、遠方がら足を運んでくれて、ありがとう。また会えるときまで、元気でね。という気持ちからであった。
新郎新婦は、親族を乗せたバスを見送った。
そして、泊まる部屋に戻って、浴衣に着替えた。
二人で、寄り添い合いながら、三次会をした。担当者が、おにぎりや、つまみ類を差し入れてくれた。
二人で、乾杯した。
結婚式が終わったから、あとは、新婚旅行だね、とお互い話した。
部屋に夕日が差し込む時間だったので、佐々木家のみんなは、どうしているか、と気になり、弟に電話してみた。
「みんなは、どうしてる?」
「みんなで、カラオケをしているよ。」
「ごくろうさま。盛り上がっているみたいだね。」
「まあね。兄貴はどうしてる?」
「奈々と二人で、三次会をしているよ。飛行機で来てくれたから、帰りも飛行機?明日、帰るんだよね?」
「そうだね。」
「じゃあ、奈々と二人で見送りに行くよ。」
「ブルーになるよ。一人で帰るよ。」
「わかった。気を付けて帰ってね。」
「ありがとう。」
弟は、遠方で、忙しく働いていた。孤独にさいなまれることも、あったであろう。
弟と、別れのとき、抱きしめた感触を、忘れずにいようと思った。
私と奈々は、温泉に入った。
そして夕食を食べた。
二人で、今日のことと、新婚旅行のことを語り合い、寝ることとした。
翌日、朝食を食べて、式場の担当者に、御礼の挨拶をし、帰った。
両家を訪ねて、無事に結婚式を挙げることができた御礼の御挨拶をし、二人の新居であるアパートに帰った。
10月13日、二人の結婚生活を開始した。
翌日から、最果ての北国に、新婚旅行であった。
二人は、荷物を準備した。
旅先は、寒いので、羽織る服を持っていくように、と奈々の母からアドバイスを頂いていた。
旅行は、飛行機で行った。
そして、ツアーバスに乗り込んだ。他の乗客も居た。
私は、腕が痛むときは、首から布をかけて、腕を吊った。
湖を見たり、山々の紅葉を眺めたりした。
私は、公園で、キタキツネにエサをあげたと記憶している。
ツアーは、自然散策が主だった。
夕食は、バイキングだったので、蟹、肉、魚介類等をお腹いっぱいになるまで食べた。酒も大いに飲んだ。満腹になったので、部屋に戻った。
温泉に入り、二人で二次会をし、旅先のこと等を語り合った。
そして、旅の疲れも出て、寝ることとした。
ツアーは二泊三日だったと記憶している。
ツアー中のある日、湖のほとりのホテルに宿泊することになった。夜、土産を買いに、二人それぞれに、見て回った。私は、親族分として、時計を買った。奈々は、お菓子を買っていたようである。奈々は、親族に、宅急便で送っていた。
二人は、旅を終え、無事にアパートに帰って来た。
両家にお土産を持参し、新婚旅行に無事に行って、帰って来ました。と御挨拶にお伺いした。
そして、写真屋に行って、結婚式の集合写真と、新郎新婦の和装、洋装の写真をもらって来た。
結婚式の集合写真は、出席者全員分、用意した。
集合写真は、チェーン店の写真屋から、見開きの台紙を買ってきて、奈々と私は、自前で写真を貼り付け、完成させた。
新郎新婦の、和装、洋装写真は、写真屋にお金を払って持ち帰り、二人の分と、両家分を用意した。
後日、奈々の父から、車に乗せてもらい、親族一同に伺い、写真を渡した。遠方の親族には、宅急便と郵送で送った。
そして、両家の式場費用を、人数に応じて負担することになり、私は計算し、両家の負担分を算出し、式場に払った。
無事に、結婚式に関連する全てが完了した。
腕の手術後、腕の曲げ伸ばしがスムーズに出来るよう、しばらく、病院にリハビリに通った。
休職の更新のため、医者に行った。保健所の担当者も同席してくれた。私は医師に
「職場復帰は、死にたくなり、難しい。」
と話した。
医師は
「結婚式も挙げて、職場復帰は可能である。死にたくなる、という事であれば、これ以上は治療出来ない。紹介状を書くから、別の先生に行ってくれ。」
との事であった。
薬と酒の併用を認める医師であった。詳しくは後述するが、本来、薬と酒を併用してはいけないのである。体調も悪くなるだけである。医者が儲かるだけである。精神病には、酒は禁物である。
その日のうちに、保健所の担当者と、別の医者に行き、診察を受けた。休職の診断書を作成してもらった。休職期間は延長された。
奈々との新婚生活であるが、二人で出かけたり、奈々が一人で買い物をしたりして、お金を使い、アパートに帰ると、奈々は、毎回、財布のお金を数えて、家計簿を書いていた。
「節約目標、あと何円」
と記入されていたりして、しっかりしているな、任せて安心だな、と思った。レシート類も、きちんと保管していた。もちろん、私の通帳と印鑑は、奈々に預けていた。信頼していたからである。
奈々が作ってくれる食事は、とても美味しかった。いつも大盛りに作ってくれた。残さず食べた。
たまに、料理を手伝ったこともあった。しかし、奈々の手際の良さに、追い付けなかった。なので、見学させてもらったりした。
奈々が料理を作り、私が食器洗いをし、奈々が食器を布巾でふき、二人で食器棚に収納する、という役割分担であった。
奈々の料理のレパートリーは、多かった。和食、洋食、パスタ、グラタン、サンドウィッチ、チーズケーキ等を作ってくれた。特に、グラタンやチーズケーキは、手間がかかっており、絶品であった。
二人で、スーパーに買い物に行ったとき、奈々にお願いしたことがある。
「カツ丼を食べたいんだけど、大丈夫?」
「大丈夫よ。私が作ってあげる。」
「ありがとう。楽しみだよ。」
アパートに帰り、奈々は早速、カツ丼を作ってくれた。特盛のカツ丼だった。
「とても美味しいよ。ありがとう。」
「そう。よかったわ。」
カツ丼を完食し、お腹いっぱいになった。奈々は料理上手であるし、お金の管理もしっかりしているので、御褒美をあげたい気持ちであった。
私は、独身の頃は、部屋の整理整頓が出来た。
しかし、うつ病になってから、出来なくなった。
奈々から
「掃除しようよ。」
と言われ、乗り気ではなかったが、掃除をした。
私は、主に、テレビ周辺、トイレ、風呂場の排水口、台所の排水口、三角コーナー、戸の上のひさし等を掃除した。
奈々は、掃除機がけ、モップがけ、ベランダへの布団干し等を行った。
奈々がひさしを触り
「ここ、汚れているよ。」
と言われ、掃除したこともある。
乗り気ではない掃除も、完了すれば、きれいであるし、すっきりした気分になれた。
特に、布団を干して、二人で外出し帰ると、太陽の熱で布団が温かく、寝る時、ふかふかで寝心地がよかった。
12月となり、年賀状の準備をした。業者に頼んだ。私が正装し、奈々が、ウエヂィングドレスを着ている写真を用いた。
宛先は私が書いた。結婚式の時、親族書を作成していたので、住所、氏名が解り、スムーズに書き終えた。
奈々の誕生日には、居酒屋まで歩いて行き、乾杯をして、誕生日を祝った。奈々は、30才となった。
大晦日は、二人で過ごした。紅白歌合戦を見た。年越しそばも食べた。
奈々が
「元旦の初日の出が見たいわ。」
と言ったので、私は
「わかった。」
と言い、早めに寝た。
元旦の朝は、けたたましいアラームで起きた。
そして、急いで外出着に着替えて、出かけた。
奈々は、私があげた茶色のジャンパーを着て、ジーンズをはいて、毛糸でできた灰色の帽子をかぶっていた。
初日の出が、東の空から、力強く登ってくるところを、二人で眺めた。眩しかった。間に合って、ほっとした。初日の出を背景にして、奈々を写真に納め、記念とした。
元旦は、二人でのんびり過ごした。
翌日以降、御年賀の品を持参して、両家に御挨拶に伺った。
奈々の御両親に、酒と料理を勧められて、ごちそうになった。
私は、翌日、二日酔いのため、一日中寝て、水を飲んで、酒を中和した。夜遅くまで、水を飲んでいた。
奈々から
「父は、深夜2時に起きて、しっかりしていたみたいだよ、」
と言われた。
やはり、奈々の父は、半端ではないほど酒が強かった。
夕食後、テレビを見ながら、二人で寝てしまうことがあったが、奈々が
「ウォーキングに行こうよ。」
と誘ってくれて、二人で、夜の街をウォーキングした。日中は、人目が気になるので、夜はありがたかった。
ほぼ毎日、ウォーキングした。30分~1時間くらい歩いた。時には、真冬で、道無き道を、膝の上くらいまで雪に埋もれながら歩いた。吹雪でメガネが雪だらけになり、よく見えないウォーキングのときもあった。私の実家の前も、よく通り過ぎた。外灯がついていた。家族は、どうしているか、と考えながら歩いた。
奈々は、歩くのが速かった。追い付くのが、やっとであった。
時には、奈々が先にアパートに着き、カギを持っていなかったので、ウォーキングのルートを戻り、カギを持っている私を、探しに来てくれたことがあった。
奈々から
「遅いよ。探したのよ。」
と言われ
「ごめんなさい。」
と謝った。
奈々は、朝6時に起きて、仕事に行っていた。私は、眠くて、起きれなかった。奈々は、毎日、仕事に行く前に、私のために昼食を作って、ラップをかけておいてくれた。パスタやサンドウィッチが多かった。私は遅く起きて、奈々が作ってくれた昼食を見ると、申し訳なさでいっぱいであった。奈々が帰ってくると、よく、おやつとして、チーズケーキを作ってくれた。ほどよい酸味が美味しかった。
洗濯は、二人で協力して行った。二人で手分けして、洗濯物を干した。たたむのは、私の役割であった。奈々から、洗濯物のたたみ方を教えてもらった。くるくると巻いたり、コンパクトにして、たたむのであった。奈々が、仕事から帰ってくるまで、たたんでおいた。
冬は、奈々が買ってきてくれた、組み立て式の、物干し竿に干した。ストーブをつけて干した。冬以外の季節は、ベランダに干して、乾かした。
長かった冬も終わり、春となった。
ある日、空港に二人で出かけたとき、奈々は手作りのお弁当を作ってきてくれた。ベンチに座り、さあ、食べよう。とふろしきをほどいたら、箸を忘れてきてしまった。私は
「大丈夫だよ。」
と言って、二人で手づかみで食べた。
二人のプロポーズが成立した、空港の滑走路が見える場所で、奈々の手作りお弁当を食べたこともある。箸は、忘れずに持ってきてくれた。
桜が咲く季節となった。奈々と、公園の桜を見に行った。出店がたくさんあった。奈々は、手作りのお弁当を作ってきてくれた。桜の木の根元に二人で座り、満開の桜を見ながら、奈々のお弁当を食べた。桜を見ながら食べるお弁当は、美味しかった。食後、出店を見ながら歩いていたら、奈々が
「これ買っていい?」
と問いかけてきたので
「いいよ。」
と答えた。
チョコバナナであった。奈々がチョコバナナを頬張る姿を、写真に納めた。
奈々は、倹約家であった。外食は控えて、いつも美味しいお弁当であった。飲み物も、麦茶やお茶を水筒に入れて、持参していた。
家計簿を書くため、レシートを保管し、自動販売機で飲み物を買ったときは、レシートが出ないので、金額をメモしていた。
家計簿を見せてもらったら、
「電気代、あと何円、節約目標」
書いてあり、偉いと思った。
二人は、隣の市の公園にも、桜を見に行った。桜は満開であった。ベンチに座り、美味しい手作りお弁当を食べた。
そんな中、私がうつ病で休職していることを、奈々の御両親に知れるところとなった。奈々の母が、アパートの前を通ると、いつも私の車が停車しており、不審に思っていたらしい。
私は、事情を説明するため、奈々の御実家にお伺いした。うつ病のため、薬を服用しており、休職している旨を話した。御両親は、心配してくれた。
「これからは、農作業を手伝って欲しい。体を動かすことも大切だ。」
との事であった。私は承諾した。
日曜日の午後から、奈々と二人で、御実家にお伺いした。
農作業は、草むしりが主な作業であった。足腰が痛かったが、指定された範囲は、何とか作業を終えた。
広い畑だったので、草むしりも広範囲に及んだ。まだまだ、草むしりの範囲はあった。
御実家で所有している、広い土地があった。耕されていて、石を拾って欲しい、との事だったため、奈々と二人で拾った。途方もない作業であったが、何とか終了した。お米の苗を植えて、小作人に管理をさせて、収穫したら、御実家で何割か、お米をもらう、という事であった。
ハウス栽培しているところに、水をかけて欲しい、とお願いされたことがあった。ハウスの中は、高温で、汗だくになりながら、私一人で水かけをしたこともあった。御実家に帰ってから、頭が痛くなり、脱水症状、熱中症になりかけた。
畑で、いちご栽培をしており、奈々の母より、収穫をお願いされた。奈々と二人で、いちごを摘み取った。出荷用はカゴに入れて、形のよくない物は、一箇所にまとめて、捨てる準備をしておいた。あとで、奈々の母より
「形は、よくないけれど、食べれるよ。」
と言われ、捨てようとしたことが、申し訳なかった。
雨の日は、カッパを着て、農作業をした。
あるとき、奈々と二人で作業をしていたとき、奈々が
「二人の子供が欲しいわ。」
と私に言ったので
「病気がよくなってからね。」
と私は答えて、奈々に待たせていることに、申し訳なさでいっぱいであった。
農作業が終わると、畑の前にある用水路で、長靴を洗った。私は、軽トラックの荷台に乗り、御実家に帰るのであった。帰ってから、水道を借りて、もう一度ブラシで長靴を洗っていた。
そして、毎回、お風呂を沸かして下さり、私が一番風呂として使わせて頂き、汗を洗い流した。
その間、御家族は、私のために、夕食を作っていて下さった。
夕食をごちそうになった。祝い事の料理みたいに、品数が豊富であった。主に刺身が多かった。ごはんも、みそ汁も、おかわりして、たくさん食べなさい、との事で、お腹いっぱいであった。帰りには、お土産として、新鮮な野菜等を持たせて下さり、ありがたかった。お陰様で、二人の生活で、野菜には困らなかった。奈々が御実家より、新米を頂いてきたこともあった。
このような農作業と、お風呂やお食事は、秋くらいまで、約半年間、お世話になった。体力も結構ついた。
ある日、山の桜を見に、奈々と奈々の母、私と三人で出かけたことがあった。平野部より遅く咲く桜も、見事であった。平野部と山間部で、桜を二度、楽しめる。シートを敷いて、手作りのごちそうを、美味しく頂いた。
農作業の合間に、ドライブも兼ねて、御両親、奈々、私と4人で、海辺のバラ園に出かけたことがあった。私は作業着、奈々はジャージ姿で、記念に二人の写真を撮ってもらった。深紅のバラは美しかった。
5月頃、奈々と二人で、地元のチューリップ畑に出かけた。奈々は、手作りのお弁当を作ってきてくれた。小高い木の根元に座り、さあ、食べようというとき、おにぎりを落として、しまった。おにぎりは転がって行った。仕方がないので、残ったおにぎりを、奈々と半分にして食べた。チューリップ畑にたたずむ奈々を、記念として、写真に納めた。奈々はきれいだった。奈々は、家計簿に、「チューリップ見に行った。」と記しており、喜んでくれたのだな、と思った。
夏に、奈々の御両親より、バーべキューをするから、来て欲しいと誘われた。私の役割は、炭火をおこすことと、肉、野菜を焼くことであった。花火もした。酒もごちそうになった。美味しいバーベキューであった。
秋頃、奈々から
「温泉に行き、料理も食べたい。」
と言われた。
私は、海辺の高級旅館を、一泊二日で予約した。天皇陛下も泊まったことがある旅館である。
節約だけでは、息苦しくなるから、二人で楽しむことに、お金を使うことも、いいことだと思った。風呂は桧造りで、いいにおいだった。料理は豪華であった。二人で乾杯し、宴を楽しんだ。奈々が、喜んでいる姿を見て、私は、嬉しかった。
左腕の手術から一年経過したので、病院に行き、診察を受けた。医師より
「体内に金属が入っていると、毒性の問題もあるため、手術して、金属を取りましょう。」
と言われた。
入院当日、奈々と二人で病院に行った。そして、食堂でドリンクを頼んだ。私は、うつ状態で、下を向いたまま動けず、ドリンクも飲めなかった。奈々が話しかけてくれたが、返事も出来なかった。悲しい思いをさせてしまい、申し訳なかった。
手術は成功し、三泊四日位で退院した。
奈々の御実家の手伝いは終了させてもらった。
アパートで、療養生活をした。日中は、奈々が仕事に行っていた。毎日、昼食を作っておいてくれた。私は、農作業でつちかった体力を維持するため、時には、日中も雨に濡れながら、ウォーキングした。夜は、奈々と二人でウォーキングした。やはり、奈々は歩く速度が速く、追い付くのがやっとであった。
12月になり、年賀状を書いた。奈々の誕生日には、居酒屋まで歩いて行き、奈々を祝った。
大晦日は、奈々と二人で過ごした、紅白歌合戦を見て、年越しそばを食べて、寝た。
昨年、初日の出を見ていたので、元旦には、見に行かなかった。
新年を迎え、両家に御年賀の品を持参して、御挨拶にお伺いした。奈々の御実家で、酒と料理をごちそうになった。ありがたかった。
奈々は、寝る前にシャワーを浴びていた。奈々が、シャワーを終えるまで、奈々の布団を敷くのが、私の役割であった。白いシーツがずれていると、奈々から注意された。
そして、奈々は、布団に入り、テレビを少し見てから寝るのであった。奈々は21時くらいに寝ていた。私は、テレビにイヤホンを差して、ビールを飲み、0時くらいに寝ていた。
ある時、コップのビールの中に、ケータイを落としてしまった。電源が入らなくなってしまった。
翌日、ケータイショップに行き、新しいケータイを買った。
ビールは箱買いで、好きなだけ飲んでいたが、奈々より、一日に飲む本数を決められて、奈々が、ビールを買ってくるようになった。一日350ミリリットルを2本飲むようになった。
ビールを箱で買っていた頃、私は、箱をゴミに出していた。奈々は、箱をカッターで切り、組み立てて、長ぐつ入れを作ってくれた。奈々は、器用でエコな女性であった。
二人で、よく、海辺の公衆浴場に行った。とても熱いお風呂であった。私が早く、お風呂からあがることが多かった。奈々があがってきたら、自動販売機でドリンクを買った。たたみの部屋で、ドリンクを飲みながら、熱を冷ました。車に戻る道程は、きれいに体を洗って、清々しかった。
真冬も二人で、ウォーキングした。
「健全な精神は、健全な肉体に宿る」である。身体を鍛えれば、精神的にも鍛えられる。
兼ねてより、うつ病の原因である、配置替えの希望調書を、人事課に提出していた。職場の上司が、人事課に提出するのである。それが仕事である。
上司は
「そんなもん、自分で何とかしろ!」
と私に暴言を吐いた。
何のための上司なのか?
「早く、公務員を辞めてくれ!」
という言い草であった。
うつ病のことが全く理解できない、自己保身な上司であった。
配置替えができないので、年度末前に、退職を申し入れ、公務員の身分と決別した。
私は、32才だった。
公務員時代の写真、ハガキ、もらったもの等、全て、ゴミとして捨てて、決別した。
公務員を退職したことが、奈々の御両親の耳に入った。私には
「もう何も期待しない。」
との事であった。
私の人間性は関係なく、世間的に見ても、公務員という職業がいいので、結婚を承諾したに過ぎないのであった。悲しかった。
私は、民間の会社に、正社員として働いた。ウォーキングのお陰で、身体的、精神的にも鍛えられていたので、定時の仕事以外に、残業も行っていた。
毎日、弁当と、お茶入りの水筒を持参した。私が仕事から帰ると、奈々は、おかずを作ってくれ、冷蔵庫に保管した。ごはんとお茶は、翌朝に詰めた。奈々の家計簿には
「夫初出勤。ガンバ。」
と書いてあった。
奈々を裏切れないと思った。
公務員の退職金が支給された。数百万円であった。私は、仕事に行っていたので、奈々に、私の車のローンを、完済してきてもらうよう頼んだ。このお金で、奈々のローンも完済した。まだ、数百万円、手元に残った。
仕事からアパートに帰って来ると、奈々は、アパートの駐車場を、スコップできれいに除雪しておいてくれた。
休日には、二人で、海にドライブに出かけた。奈々が、砂浜で気に入った流木があって、持ち帰り、アパートの風呂の前に立てかけておいた。
海辺の温泉街にも行った。奈々と二人で、足湯に浸かり、リフレッシュした。インテリアショップも見学した。お洒落な品が並べられていた。私は、振り子時計が欲しかったが、我慢した。足湯の近くのカフェにも行って、お茶をしたりもした。
新しく勤めた仕事も、2カ月くらいで辞めた。
朝、体調が悪く、起きれないのであった。
この頃から、奈々は、ほとんど口を利いてくれなくなり、帰りも遅くなった。
ハローワークに行き、数十社、面接を受けた。
やっと、会社が決まった。しかし、体調が悪く、1週間くらいで辞めた。
薬と酒を併用していたため、体調を悪くしたのも当然であった。
奈々から、ビールの本数は、1日2本と決められていた。しかし、足りなかった。寝れないのである。ビールが飲みたくて、CDやDVDを売り、ビールを買ったこともある。
ある日、奈々が
「あなたの病気等を考えていたら、悲しくなって、一晩中泣いて、寝れなかったのよ。」
と言い
「ごめんなさい。」
私は、これしか言葉が出なかった。
6月くらいから、私は仕事もせず、一日中、寝ている状況であった。酒と薬を併用していた。奈々が見ている前で、朝から酒を飲んだ。ますます調子が悪くなっていった。
退職金を切り崩しての生活となった。
この頃から、奈々は、家計簿をつけなくなった。家計簿には
「離婚して!」
と書いてあり、ショックであった。
二人は、最低限のことでしか、口を利かなくなっていた。
8月に入り、奈々は調子がおかしかった。カタログ等を、ボールペンで、ガリガリ書いていた。文字を書く訳でもなく、ただ、ボールペンで紙をガリガリしていた。奈々もうつ状態だったのであろう。
日中、寝ていたら、奈々から言われた。
「離婚するか、自殺するか、どちらかにして!」
私は、驚きで声が出なかった。心が痛んだ。
ある朝、目覚めると、奈々の姿は無かった。不審に思い、奈々の洋服タンスを開けたら、空だった。くつ箱も空だった。私の組み立て式のラックに、5万円が乗せてあった。退職金で、奈々のローンを払ってあげた金額である。奈々は、少しずつ洋服等を運び出し、離婚に備えていた。
私は、ただならない事態に、奈々に電話した。しかし、出ない。メールしても返事が来ない。
奈々の御実家に電話した。父が出て、私のことを
「奈々が、康君と離婚したい。と言っている。」
「今日の夕方から、康君の実家に行き、離婚のことを話し合うつもりでいた。」
私は、時間を聞いておいた。私抜きに両家と奈々の話し合いで、離婚の話しを進めようとする姿勢が、淋しかった。
夕方から、両家の親、奈々、私とで、話し合った。
私は
「「奈々は、一銭も家にお金を入れないんですよ。タダ飯ばかり食べていますよ。」
奈々の母が切り出した
「幸いと言うか、子供も授からなかったので、離婚ということで、どうでしょう。」
奈々が離婚届を出したので、私は取り上げた
「ふざけるな!」
奈々は元気が無く、口調も張りが無く、うつ状態だったのかもしれない。
話し合いは、平行線で幕を閉じた。
私の両親は、外まで見送りに行ったが、私は、イライラしていて、見送らなかった。
その夜、兄が、ビールを持参して、アパートまで歩いて訪ねてきてくれた。兄なりに、私を励ましてくれた。
翌日、私は、奈々の実家を訪ねた。
御両親と奈々に、頭を下げて謝った。
「私が悪かったです。」
何度も頭を下げて謝った。
帰り際、奈々の母からは
「縁無かったんだね。」
と言われ、愛想の無い態度が淋しかった。
私の見送りには、父と奈々の二人だけであった。
帰ろうとして、玄関先で、くつをはいて二人を見たら、奈々の父に
「さんざん言いたいことを言って!奈々をアパートに帰す訳にはいかない!」
私は奈々の目を見た。視線が合った。悲しそうな目をしていた。
翌日以降、アパートに一人となり、不安になって、実家の母に電話した。
「不安で仕方がないよ。」
私は、うつ状態だった。
ある日、奈々と、もう一度話し合う機会が、設けられた。
アパート近くのファミリーレストランであった。
「ごめんなさい。タバコ、酒を止めて、仕事するから、離婚だけはしないで。」
「もう、嫌です。」
と奈々は言って、ドリンク代を、机の上に投げやりに置いて、先に帰ってしまった。私は追いかけたが、奈々の姿はもう無かった。
後日、奈々からメールが来た
「離婚してくれなければ、裁判を起こします。」
私は、これ以上、二人の関係を続けるのは無理だ、と感じ、奈々にメールした。
「離婚を承諾します。」
アパートには、まだ、奈々の洋服たんす、くつ箱、布団等が置かれていた。
8月16日に、布団を奈々の実家に運んだ。私も手伝った。引越し業者の都合で、洋服タンス、くつ箱は、8月17日に運ぶことになった。
8月16日、奈々と二人で、地元の寿司屋で、お腹いっぱい食べた。
8月17日、アパートで正座して、改めて奈々の離婚の意思を確認したら、離婚したい、との事であった。
「ジャンパー持って行って。バッグも持っていって。」
と言った。
奈々は
「バッグは、もう売ったのかと思った。」
と言っていた。そして奈々は、形見分けとして、電気ストーブとカラーボックスを置いて行った。
そして、二人は、市役所に行き、離婚届を出しに行った。
数分後
「受理されました。」
と聞いて、市役所を後にした。
付き合っていた頃、結婚していた頃は、長い道程だったが、離婚は呆気なかった。
二人は隣の市にある、海鮮市場に行き、海鮮丼を食べた。
私は悔しくて、悲しくて、淋しくて、泣きながら食べた。
アパートに戻り、奈々が自分の車に乗り替えた。そして、運転席側の窓を開けて
「お世話になりました。」
と言い、頭を下げて、行ってしまった。
あとで、奈々からメールが届いた
「今日は、お世話になりました。そして、ありがとうございました。」
「こちらこそ、お世話になり、ありがとうございました。」
と返信した。私の頬に、止めどなく涙が流れ落ちた。
奈々を失って、初めて幸せだったと気付いた。
二人の結婚式が10月12日。離婚日が8月17日。12日と17日を足すと29日である。
29日生まれの二人が出逢って、29日に縁が切れた。
引越し業者の都合で、一日遅れたので、このような不思議な日付となったのであった。
約1年10カ月の結婚生活であった。
ここから、輝きの日々から、出口の見えない暗闇のトンネルに入ることになる。
仕事を探して、何十社も面接を受けたが、不採用であった。何社からも、履歴書が私に送り返されてきた。
私は、正社員にこだわった。社会保険に加入したかったからである。自前で年金や社会保険に加入するのは、お金がかかり、嫌だった。
しかし、仕事を選んでいる状況ではなかった。
公務員だったからといって、潰しはきかなかった。
ようやく決まった会社も、一日で辞めたり、一週間で辞めたりした。
ウォーキングも止めていたので、体力が無かった。酒と薬の併用で、精神力も無かった。
仕事は、半ば諦めていた。焦っても仕方がないと思うようになって行った。
そして、ビールは値段が高いので、発泡酒を箱で買ってきて、朝から、酒を飲む日々が始まった。昼に起きて、昼食後、夕方から飲む日もあった。
退職金を切り崩しての生活であった。
毎日、テレビを見ながら、酒を飲んでいた。
酒気帯び運転の状態で、腹が減れば、ラーメンを食べに行ったり、弁当を買いに行ったりしていた。
自分でも、異常な生活と感じていたが、酒を止められる状態ではなかった。
酒の空き缶も、すぐに、ごみ袋が満杯となった。弁当の空も、ごみ袋が満杯となった。
ごみステーションは、アパートのすぐ前に有ったので、夜に出した。翌朝では寝ていて、ごみを出せないおそれがあったからである。
酒とラーメンと弁当で、太った。ウォーキングでもすればよいのだが、そんなつもりは無く、自然に任せればいい、と考えていた。
ラーメンが好きで、ラーメン大盛り、ライス付きを食べていた。弁当は、唐揚げ弁当大盛りやカツ丼大盛りを食べていた。
風呂やヒゲはどうしていたかと言うと、案外、真面目に整えていた。シラフの時間もあったのである。酒だけを飲み続けていると、身体が持たないからである。
酒と共に、夏、秋が過ぎて行き、季節は冬となった。
アパートは消雪水が無く、自前で除雪するしかなかった。
除雪は面倒だと考えていた私は、どうにかなるだろう、と考えて、酒を飲んでいた。
酒も無くなり、買いに行こうとしたら、駐車場で、車が雪の溝にハマってしまった。仕方ないので、JAFを呼んで、車は脱出できた。
又、車が脱出できなくなったら、JAFを呼べばいい、と考えて、酒を飲んでいた。
酒は人格を崩壊させるようである。
元来、几帳面で心配性だった私が、酒に蝕まれ、酒を飲んで食べて行ければ、他のことはどうでもいい、と考えるようになってしまった。
春になり、酒を飲む日々が続いていた。食事は、ラーメンと弁当だった。
体は、ボロボロだったと思う。自覚症状は無かったが、精神科で採血すると、ガンマGTPは正常値より高かった。
医師から
「酒は止めてください。」
と言われても、酒を止めるつもりは無かった。
精神科に、酒気帯び運転で行ったことがあった。
「酒気帯び運転は、いけませんよ」
と言われたが、酒を止めるつもりは毛頭なく、聞く耳を持たなかった。
隣町の病院の院長は、町医者が優秀だから、そっちに行ってくれ、と無責任な人であった。患者を金儲けの手段としか考えていない。
町医者に行ったら、あなたが看護師にクレームをつけて、早く退院してきたんだろ、と憶測で、有る事無い事、わめくのであった。この人自身が、病気である。受付では、患者を、お客さんが来た、と言っていた。この町医者全体が、患者を金儲けの手段としか考えていない。
仕事もしていないので、一般社会との繫がりは、希薄なものとなった。誰とも話しをしない日々は、当たり前になっていった。
酒を飲めば、孤独を紛らわせることが出来た。
酒、食事、アパート代、光熱水費等、退職金が減る一方であった。
しかし、実家を出た身なので、誰にも相談出来ず、帰ることも出来ず、一人で悩むしかなかった。
退職金が無くなったら、どうしようか。自殺の選択肢も頭をよぎった。破滅の道をたどっていた。
このような状況を、両親が察知してくれた。
不動産屋から、アパートの合カギを借りて、両親が訪ねて来た。私は、万年床の布団に、横になっていた。長年の酒と薬の併用により、調子が悪かった。
父より
「実家に帰るか?」
と言われ
「はい。」
と私は答えた。
私の顔はむくんで、大げさかも知れないが、倍近く膨らんでいたそうである。
両親は帰ったので、私は弁当を買いに行った。
アパートに帰ったら、私の枕元に、食料が置いてあった。両親が買ってきてくれた食料であった。
酒で正気を失っていた私は、実家に帰ること、食料を置いていってくれたことに対して、現実感が無かった。
数日後に、父と母と私とで、実家への引っ越し作業が始まった。私の荷物を運び出す作業で。すぐに疲れてしまった。
父の指揮の元で、アパートの清掃が行われた。細かな所まで、念入りに清掃した。お陰で不動産屋から、清掃の請求は来なかった。
実家に帰ってから、父より
「仕事をする条件で、戻って来る約束だろう?」
「仕事は、決まっていません。」
と私は答えた。
酒と薬で、身体の調子が悪い私には、仕事をすることは、酷なことであった。
ここから私は、実家で、酒浸りで暗闇の生活を送ることとなる。
私は、すぐに酒を買いに行った。退職金は、まだ残っていた。朝から夜まで、酔い潰れるまで、酒を飲んだ。酒を飲むと、眠りが浅くなるため、早朝4時位に目が覚めた。そして、車で買いに行き、自分の部屋で、迎え酒を飲んだ。
私の古い実家は、私の部屋からトイレまで、両親が居る茶の間を通らなければならなかった。
ビールを飲むと、トイレが頻繁であった。そのため、外の庭でトイレをしたりした。
トイレに行くと、監視されているようで、ビールは止めて、日本酒のパックを飲むようになった。日本酒は、安く、早く酔えて、トイレも近くならないので、好都合であった。
ある日、日本酒を買ってきたら、父より取り上げられたことがあった。私は
「返してくれ!」
「ダメだ。奈々さんが、どんな気持ちでいたか考えろ!」
と言われた。
酒しか頭に無い私にとって、酒が切れるのを、一番怖れていた。
酒が無いと、イライラして、薬を飲んだ。しかし、イライラは止まらなかった。
父の目を盗んで、酒を買いに行った。今回は、ウイスキーにした。ウイスキーのほうが早く酔えて、トイレが近くならないので、正解だった。
しかし、ウイスキーは酔えるが、目覚めた時の二日酔いは、気持ち悪かった。時には、水を飲んで、酒を中和した。
結局、ビールにするか、日本酒にするか、ウイスキーにするかは、体調に合わせて決めることにした。
風呂はどうしていたかというと、たまにシャワーを浴びていた。酒を飲み続けていた頃は、4、5日は風呂に入らなかった。
ヒゲは、伸ばし放題で、自分でそれなくなり、兄からそってもらっていた。
髪は。寝ぐせのままで、ボサボサだった。床屋に行ったかは、記憶にない。
酒を買いに行くときの服装は、家着であるジャージのままだった。ヒゲをはやし、ぼうしをかぶって、買いに行っていた。酒を入れるカバンを持って行ったり、レジ袋そのままの時もあった。
大体は、早朝に酒を買いに行っていた。足りなければ、深夜でも買いにいった。
兄が、仕事に行く前と帰って来てからの様子は、早朝に酒を買いに行き、日中は寝ていた。
兄が帰って来た時は、寝ているか、酒に酔っているか、のいづれかであった。
兄の仕事が休みの日は、兄は、私の行動に、胸騒ぎしていたそうである。私が、酒を買いに自転車で出かけると、兄の部屋から窓をのぞくと、私の姿が見えるので、私の帰りが気になったそうである。兄が休みの日でも、家族の目を気にしても仕方がないので、私は、酒を飲んでいた。
食事は、一緒に食べていたが、酒にハマっている時は、食べない事もあった。
やってはいけないが、酒と薬を併用していた。
薬と酒を混ぜれば、薬は毒の働きをする。せめて、薬を飲まないで、酒を飲む方が、まともである。
トイレは、状況に応じて、家のトイレでしたり、外の庭でしたりした。失禁も頻繁であった。
酒の空き缶、パック、ビン等はどうしていたかというと、ゴミに出したり、川に捨てたりしていた。兄にバレないよう、川に捨てたのである。
春、夏、秋は、自転車で酒を買いに行っていた。冬の雪や雨の時は、歩いて行ったり、車で買いに行っていた。
私が、酒を飲んで、壊した物は、玄関のガラスである。足がフラフラしていて、玄関に突っ込んだのである。
フラフラな状態で、テレビに突っ込み、テレビをひっくり返したこともあった。
私の部屋で、ハードロックバンドのDVDを、大音量で見ていたら、父より
「うるさい!」
と注意された。
酒を飲んでいて、いい気分だったのに害された。腹が立って、茶の間の机に、果物ナイフを突き立てた。
酒を飲んで、最初の頃は、兄に殴られたり、蹴られたりした。
私は
「暴力で訴えるのは止めろ」
と言った。
日本酒やウイスキーの、飲みかけのパックやビンを取り上げられたりした。
退職金も使い果たし、借金をして酒を飲んでいた。
実家で酒を飲むことに、後ろめたさを感じていた。
そのため、外で飲めば、好きなだけ飲める、と考えるようになった。
朝4時位に目が覚めた。車で出かけようとすると、父も起きてきて、私が出かけるのを、声もかけず、心配そうに見るのであった。
酒が優先する私にとって、家族の心配に対して、何も感じなかった。
そして、コンビニに行き、ビールを買った。500ミリリットル6本くらいであった。
どこかの駐車場で飲もうか、と考えながら車を運転していたが、酒が我慢出来ずに
「まあ、大丈夫だろう。」
とビールを飲みながら運転した。
早く、もっと飲みたかったので、実家から近い、温泉の駐車場で飲むことにした。
ハイペースで飲んだ。そのため、気持ち悪くなり、車から出て、吐いた。まだ酔っていなかったので、車の中でまた飲んだ。
全部飲んだが、酔えなかった。酔って、眠りたかったのである。トイレが近くなり、外でトイレをした。温泉の駐車場なので、トイレも人目が気になった。
別の場所を考えた。
実家近くの水源池の駐車場は、滅多に人が来ないので、好都合であった。好きなだけ飲んで、外でトイレをした。
家で飲む時は、川に捨てていたが、外で飲みたての頃は、空き缶は、案外、真面目に外には捨てなかった。コンビニ等に捨てていた。
そして、新たな駐車場を見つけた。国道維持出張所の駐車場である。トイレもあるし、空き缶も捨てられる。
ここは、結構、世話になった。しかし、他のドライバーも居て、しょっちゅうトイレに行く私は、後ろめたかった。
家では、日本酒やウイスキーを飲んでいたが、外で飲む時は、主にビールだった。足りなくなった時、日本酒やウイスキーを飲んでいたら、酔って、まともに運転し、買いに行けないからである。
水源池の駐車場で飲んでいて、足りなくなったので、ビールを買いに行こうとしたら、田んぼに車ごと落ちてしまった。道路との高低差は、50センチ以上あったと思う。JAFを呼ぶしかないか、と考えた。しかし、早くビールを飲みたかったので、アクセルとブレーキを併用して、何とか道路に脱出できた。早速、泥だらけの車で、ビールを買いに行った。
夜景がきれいな高台の展望台も、いい場所だった。ある時、ウィスキーを飲んでいたら、寝てしまった。兄が私のことを探してくれ、私を見つけたが、寝ていたので、そのままにしていたそうである。
展望台も他のドライバーも多く、トイレが気になった。
そのため、新たな場所を探した。展望台近くの道路沿いに、車1台、停められる場所を発見した。酒も好きなだけ飲めるし、トイレも気にせず出来た。空き缶も外に捨てるようになってしまった。
しばらく、ここで落ち着こう。常連になろう。と思った。
この頃から、のん気に酒を飲んでいたが、酔いから覚めると、空しくなり、自殺願望が出現した。ホームセンターから、練炭を買い、自殺の機会をうかがった。練炭は、助手席の足元に置き、いつでも自殺できる準備をしていた。
普通乗用車に乗っていたが、いろいろな所にぶつけていたので、使い物にならなくなってしまった。
仕方ないので、軽自動車を買った。
懲りずに、車で飲んでいた。展望台近くの道路沿いである。薬も飲まなくなっていた。2、3日くらい酒を飲み続けていたら、頭の調子がおかしくなってきた。ヒゲも伸ばし放題で、髪もボサボサでテカっていたと思う。
家族も心配していると思ったので、実家に帰った。母が心配そうに出迎えてくれた。そして、仕事に行った兄に、私が帰ってきたことを電話していた。
しばらくは、家で酒を飲んでいた。しかし、トイレが面倒だったので、実家近くの公園で飲むことにした。コンビニに行き、日本酒を買った。そして、公園で飲み干した。酔いが回った。雨が降ってきた。自転車で帰ろうとしたが、まともに乗れず、転んだり乗ったりを繰り返した。見かねた近所の人が、私の両肩を二人がかりで担いでくれ、もう一人が自転車を引っ張ってくれて、実家に送ってもらった。私は、顔中、血だらけであった。母に叱られた。
シラフになった時、しばらく酒は飲めない、と反省した。しかし、禁断症状が出現して、再び酒に手を出した。トイレが近くならないよう、日本酒かウイスキーを飲んだ。酔いも早く回って、寝れてよかった。しかし、酔いから覚めると、昼夜関係なく、酒を買いに行った。
ある時、兄が仕事から帰っていて、私は車で酒を買いに行った。酒気帯び運転である。実家に帰ったら、母と兄が心配そうに待っていて、兄から殴られた。酒も取り上げられたと思う。酒気帯び運転の私は
「道路にいる奴を、全員、ひき殺してやる!」
と言っていたそうである。
酒も、家で飲んだり、外で飲んだり、気分に任せていた。
ある時、高台の展望台でウイスキーを飲んでいた。ボトルをラッパ飲みしていた。酔いが回って、寝てしまった。目覚めた時、お腹が減って、近くにそば屋があることを思い出した。車を運転して向かったが、側溝に脱輪してしまった。アクセルを何回踏んでも、前後に走らせても、脱出できないので、JAFを呼ぼうとしたが、酔っていたため、ケータイの操作が上手く出来ず、JAFは呼べなかった。諦めて、残りのウイスキーを飲んで寝た。
運転席には、カギをかけていなかった。私を発見した人が、救急車を呼んでくれ、病院に搬送された。JAFも呼んでくれたのか、退院したときは、実家に車は運ばれていた。
父の車に乗り、退院したが、懲りずにコンビニでビールを買い、その場で飲み干したが、駐車場で、吐いてしまった。父にはバレなかった。
32才位の頃、そううつ病ではないか、と診断された。先祖、親類、家族に、そううつ病が居ないか、と慎重に診断された。私の先祖等には、そううつ病であった人は居ない。
そううつ病は、100人に1人の割合で存在するようである。
WHO(世界保健機関)で、難病指定されているようである。
病気は、酒と薬の併用による害毒と思われる。
そう状態の時は、気分が良く、何でも出来ると活動的になり、金使いも荒くなり、寝なくても大丈夫である。
うつ状態の時は、何も出来ず、寝ていることが多く、酒に依存する傾向にある。酒で気分を高揚させたいのである。そして、少しでも寝たいのである。
兄から節酒を提案されて、兄の部屋で、限度を決めて飲んでみた。物足りなかったが、身体のことを考えれば、それもありかと思った。
ノンアルコールビールを箱で買い、兄の部屋で、限度を決めて、飲んだりもした。
しかし、節酒では我慢できなかった。ノンアルコールビールも物足りなかった。
日中、酒を買って、私の部屋に隠しておいた。そして、兄の部屋で節酒をしてから、私の部屋で一人、二次会をした。
兄が仕事に行けば、酒を飲んでも、誰からも制約は受けない。
節酒に取り組んでいる以上、また外で飲むことにした。
そのような生活をしていて、うつ状態になり、酒に頼るしかない状況となり、精神的に不安定となった。 。
家で飲むのは気まずかったので、外で飲んだ。
そして、ビールを飲みながら、飲酒運転をしていた。ビールが無くなったので、酒屋からビールを買った。
レジで
「歩いて帰ったほうが、いいですよ。」
「大丈夫です。」
と言い、車で出かけた。
酒屋が、警察に通報した。私は、いつもの水源池の駐車場に行った。パトカーが、私の車を横切った。まずいと思い、土手の道に逃げた。パトカーが追いかけてきた。そして、酒屋近くのスーパーの駐車場で
「そこの車、止まりなさい。」
と警察から言われ、停車した。
私の呼気を測られ、買ったビールも取り上げられた。
「今日は、代行を呼ぶので、それで家に帰って下さい。」
と言われた。ビールを取り上げられたことに、頭にきていた。
後日、警察から手紙が届いた。警察本部へ出頭するように、との事であった。自動車運転免許証を差し出し、免許取り消しとなった。確か、1年間は、免許を取得出来ない処分だったと思う。
裁判所からも、出頭する旨の手紙が届いた。罰金25万円位だったと思う。
私は、足が無くなり、どうしようか悩んだ。
しかし、自転車があり、酒は買いに行けるので、何とかなるだろう、と考えた。
家で酒を飲むしかなかった。酒は止めなかった。
免許取り消しの期間も終わり、自転車で、自動車教習所に通った。教習の合間にタバコを吸っていたら、女性から
「こんにちは。」
と声をかけられ
「こんにちは。」
と答えた。
私は、酒で免許取り消しとなり、うつ病であることを話した。
彼女は
「私もうつ病です。よろしく。」
と握手をしてくれた。嬉しかった。
彼女は他県から、合宿で教習を受けに来ていた。
「授業の休憩時間に、机に向かい、一生懸命に勉強をしている後ろ姿を、ずっと見ていましたよ。」
と彼女が私に教えてくれた。
教習所の帰り道、コンビニに立ち寄り、缶ビールを一本飲んで、タバコを吸うのが、至福の一時であった。
家では、真面目に試験勉強をした。彼女とメールをやり取りして、励まし合いながら勉強をした。一回で受かりたかった。若い時と違い、努力しないと、試験に合格出来ないと思っていた。
彼女が教習所を、私より先に卒業する日が近づいた。
夕食に誘い、居酒屋で乾杯した。
彼女は、タバコの煙は、私に吐かず、横を向いて吐き出すのであった。マナーを心得ているな、と思った。
私が路上教習を受けている間に、彼女は卒業し、地元に帰ってしまった。
「高速バスから見える、こちらの風景を、惜しむ眺めていた。」
とメールが来ていた。
その後、私も教習所を卒業し、彼女が運転免許の試験に合格した。とメールが来た。
「頑張った甲斐があったね。おめでとう。」
とメールした。
私も試験に合格したとメールしたら
「おめでとう。よかったね。」
と返事が来た。嬉しかった。お互い、何通かメールを交換し、喜びを分かち合った。
私は、免許に合格したので、嬉しさのあまり、酒を飲んだ。
実家に帰ってからは、連続飲酒である。常に酒を切らさずに飲むのである。酒を飲んでは寝て、目が覚めれば酒を飲んで、また寝る、という状況である。そのため、酒が切れることを、最も怖れるのである。常に在庫を確保しておかないと、不安になる。私は、早朝や深夜では、玄関のカギを開けると、カチッと音がするので、家族に気づかれないよう、自分の部屋の窓から抜け出して、酒を買いに行っていた。
酒を飲んでいる時は、調子が良かった。しかし、酒が切れると、禁断症状が出た。
私の飲酒問題に、兄は長年、悩み苦しんでいた。そして、酒に関する本を買い、勉強し、断酒会の存在を知り、断酒例会に参加してくれていた。
断酒会というのは、自助グループで、節酒ではなく、あくまでも断酒を理念としている。言いっぱなし、聞きっぱなしが原則であり、話した内容は、外部に対して秘密事項として、会員が守らなければいけない。
アルコール依存症の治療に節酒は有効ではなく、あくまで断酒である。
私が、初めて断酒例会に出席させて頂いたのは、34才位のことである。日中、酒を飲んでおり、まだ酒が切れていない、ぼんやりとした状態での参加であった。
会場に入ると、諸先輩方々より
「よく来たね。」
と歓迎された。
「何で、そんなに歓迎されるの?」
とびっくりしたと同時に、居心地のよい嬉しさも感じた。そして
「もしかしたら、私も断酒できるかもしれない。」
と考え、例会に耳を傾けていた。
断酒会に、兄は誘ってくれた。兄は、酒が切れない私に
「断酒会に行ってみるか?」
「うん。」
と、素直にあっさり言葉を返し、兄は拍子抜けしたそうである。
しかし、既に、長期にわたり酒に蝕まれた心身は、簡単には改まず、再び連続飲酒になり、それでも兄は、風雪に耐え、けなげに例会に通っていてくれた。感謝の念にたえないものである。
35才位の頃、地元から離れたアルコール病院に入院するまで、私の心身は、長期の酒と精神病薬との併用により、末期症状を呈してしまった。明日、夕方に入院治療する予定の前夜、酒を抜き、兄の部屋で過ごしていたところ、離脱症状に襲われた。
体が突然、目を閉じ、動けなくなった。やがて、白目をむいて、口から泡を吐き、苦しそうに、うめきだした。「アルコールてんかん」であった。地元の病院に救急車で担ぎ込まれ、CT等の検査の結果、異常なし、と自宅に帰された。そして、入院当日の朝方、過呼吸になり、再度救急車を呼び、自宅でビニール袋で処置してもらい、救急隊員は帰った。てんかんは続いていた。
このように、救急車が来たり運ばれたり、騒然とした出来事に、家族は生きた心地がしなかったであろう。兄はこの間、断酒会の先輩に、何度も電話で相談してくれていた。断酒会の先輩、家族には、感謝の念にたえないものである。
家族としては、急を要する事態に、早く治療を要請したが、入院は夕方に予約されており、夕方まで、不安を抱えて待つしかなかった。はかなく消えそうな命の灯火を感じながら・・・。両親、兄に付き添われ、自宅の車で病院に向かったが、てんかんは続いていた。病院に到着し、車椅子に乗せられ、私は、殆ど意識が無く、入院したことも解らない状況であった。
そばで、私の姿をつぶさに見ていた兄は、私が
「何かにとりつかれてしまったようだった。」
とあとで話してくれた。
入院中、毎日、飼い猫のナナの写真を、メールで送ってもらい、いやされていた。件名は、ナナメールであった。
3ヵ月の入院生活を経て退院し、再び断酒会につながった。しかし酒害を正しく、身に染みて認識していなかった甘さから、再飲酒を繰り返した。
酒と薬の併用により、てんかん、全身のけいれん、失語症状、現在の日時、曜日が解らなくなり、家族に何度聞いても理解できない、頭に入らない等の症状により、入退院をすることになった。
OD(大量服薬)により、ICU(集中治療室)にて救急治療を受けたこともあった。おそらく、酒と薬を併用しなかったからだと考えられるが、命だけは取り止めた。
私は、断酒会に、行ったり休んだりして、再飲酒を繰り返した。
時には、そう転(うつから、そうになる)して、金髪にして、断酒会に行ったこともあった。そうの特徴として、服装は派手で、多弁であった。
断酒会に行くと、なぜか断酒出来た。
以前、断酒会の先輩より
「例会に出席していれば、断酒出来るよ。」
と言われ、その通りだと思った。
断酒会のスローガンは、一日断酒、例会出席、である。
一生飲まない、ではなく、今日一日飲まない、という事である。一日断酒を毎日積み重ね、結果的に、数カ月、数年、数十年と、断酒が出来るのである。
そして、例会出席である。自分の酒害体験を語る。他の方々の体験談にも、耳を傾ける。そうする事で、自らの意識改革が出来る。
断酒会の仲間を裏切って、酒は飲めない、と思えるようになって行く。
私は、酒に負けて、再飲酒を繰り返したが、断酒会は辞めなかった。心のどこかに、断酒会から離れたら、昔のような荒んだ生活に戻ってしまう。酒が切れない自分を救ってくれるのは、断酒会しか無い、と思っていた。
時には、酒を飲んでしまった時や飲みたくなった時に、先輩に電話し、アドバイスを受けた。
「今度の例会で、会えるといいね。」
と言ってもらったりすると、自分の殻に閉じこもっていることが、バカバカしいと思ったりした。
私が、38才位の頃、飼い猫のナナが、自宅で亡くなった。10月27日の午後であった。
ナナは、弟が大学進学のため、家を出たのと入れ替わりに、実家で飼われることになった。
メス猫で、おとなしく、優しい猫であった。
外国の猫とのハーフであった。毛並みがきれいで、ツヤツヤだった。
私が、転勤で遠方に居て、実家に帰ってくると、私の部屋にジャンプして、爪を立てて
「戸を開けて。」
と合図をするのであった。毎週、ナナと昼寝をし、夕方まで一緒に過ごした。
ナナは、布団に潜ったり、私の腹の上に乗ったりして、愛おしかった。
ナナは、夜になると、母の布団に潜って寝るのであった。
ある時、ナナと一緒に、自宅前の畑と風景をのんびり眺めていた。ナナは材木で爪を研いだ。私は、ナナをなでた。
ナナは畑に入ったり、私の所に戻ってきたり、愛おしかった。ナナと過ごせたことは、生涯忘れられない。
ある年の花火大会の日、母と兄と私とで、自宅前から花火を見ていたら、ナナも居た。
ナナは、花火の音を怖がって、私たちの後ろに、隠れたりしていた。
2時間程の花火が舞い上がる中、ナナも花火を見つめていた。
花火大会が終わり、自宅に帰る時、ナナは、母のそばを歩調を合わせて一緒に歩き、玄関に入って行く姿は、脳裏がら離れない。家の人の行動が解るのである。なついていて、愛らしかった。
ナナが亡くなる数日前、死期を悟ったのか、ナナは、私の部屋を爪でガリガリかいて
「開けて。」
と合図をした。
部屋の中に入れると、私の腹の上に乗り、じっとしていた。
私が、そろそろ寝ようとしても、ナナは、部屋を出て行く気配はなかった。
ナナは、私の布団のとなりに寝て、腹を出したり、身体を回転させたり
「もっと、構って欲しい。」
と合図を出した。私は、ナナをなでて、一緒に遊んだ。
そして、ナナを写真に撮っておいた。
深夜に私が寝ていたら、ナナは、私に触れて
「部屋を出たい。」
と合図を出したので、戸を開けた。
私は、ナナが亡くなる数日前から、酒を飲んでいた。ナナは、酒を飲んでいる私に、近づこうとしなかった。
ナナは、亡くなる数日前から、目が見えなくなったようである。
それでも、実家で過ごした、ゆかりの場所に行こうとした。
茶の間のイス、タンス、ストーブ、座敷、両親の部屋、兄の部屋、私の部屋等、残された時間を惜しむように、身体をぶつけながら、思い入れのある場所に行った。
しかし、体力が無くなり、私の部屋の前で倒れていた。
最後は、母が見守る中、コタツの中で亡くなった。まだ、ナナが生きている数分前に私は、ナナをなでた。生きているナナをなでたのは、これが最後であった。 私は、酒を飲んでいたことを、後悔した。ナナともっと、一緒の時間を過ごしたかった。
ナナの亡骸は、一晩、茶の間に保管し、翌日の午前に、自宅の庭に埋葬した。
私は、ペットロスうつ状態になり、ナナの写真を見て、数カ月、泣いていた。
43才位の頃、自殺しようと、200錠程、OD(大量服薬)した。ウイスキーで薬を体内に流し込んだ。
2日間、私の部屋で、寝ていた。母が、私が2階から下りてきて、食事をしないことを心配し、夜、兄と父が、私の部屋を見た。私は意識が無かった。
二人で病院に、私を運ぼうとしたが、重くて運べなかった。
救急車を呼び、隊員3人がかりで運んでもらい、病院に搬送された。サイレンの音に、近所の人は、何事かと出てきた。
ICU(集中治療室)にて処置を受け、意識は回復した。
その後、希死念慮が残存していると判断され、精神病院に転院し入院となった。
私の部屋で、2日間、寝ていたので、お尻に床ずれが出来てしまい、精神病院から、皮膚科の病院に転院した。そして、腐敗した組織を切除する手術を受けた。
退院し、実家に帰ってから、1年程、母より、床ずれの処置をしてもらった。母には、感謝の念にたえないものである。
現在は、家族や断酒会の方々に助けられながら、例会にも通い、一日断酒を継続させて頂いている。
アルコール依存症の回復とは、アルコールを止め続けることが、回復である。
断酒を継続し、迷惑をかけ続けた家族等に対して、償いをしたいと思う。
、
あの頃の輝きと暗闇 佐々木 康 @starxxx
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