出張二十一日目の休日は誰も来なかった。


 妻に連絡してみたが繋がらなかった。僕の胸の内側が、どろっとしたタールで埋まっていくような気がした。


 今日の妻は、僕を愛してくれる妻ではないようだ。

 妻にメッセージで愛してる、とだけ入れて僕は一人で買い出しに出掛けた。


 雪の降るのが強くて、帰った頃には僕はすっかり雪達磨の様に体中に雪を纏っていた。アパートメントの入り口で、この星の家庭には必需品のブロワーで雪を全て落とす。エレベーターに乗り込み、少しばかりの期待を込めて部屋までのボタンを押した。


 案の定、何も変化していなかった。部屋は出たときのままで、人の気配はない。気持ちは更に沈んだ。


 僕はカップ麺を作るためにお湯を沸かし始めた。

 ふと思い立ち、テーブルに触れ、メールツールの画面を展開する。


 ビンゴだ。 


 妻から「わたしも」とだけの短い返事が来ていた。


 僕は、に感謝しなよ。

 誰に言うわけでもなく呟くとメールツールを閉じて、沸いたお湯を取りに戻った。


 一人での夕食はいつもより寂しかった。

 僕は妻の、小動物のような可愛らしい笑顔を思い浮かべていた。


 無性に帰りたかった。





***


 翌朝、僕は多分街の誰よりも早く起きて仕事場へ向かった。寒空の下で僕はコーヒーのボトルで手を温めながら、雪がしんしんと積もる静かな街の中を歩いていく。

 会社のブロワーをくぐって僕は、真新しいそとの景色と同化するほどの白いエントランスを抜けた。


 僕のデスクには妻の写真が置いてある。

 初めて出会ったその日に最初の世界で撮った思い出の写真だ。かなり古い。


 妻は、初めて出会ったその日最初の世界の妻と見た目はそっくりだった。


 その写真の妻をそっと撫でると、ホログラフィーが作動して妻との思い出をプログラムしたものが話し始めた。単身赴任の僕の、寂しい朝のたったひとつの慰めだ。


 妻の声を耳に入れながら、僕は多元時空間管理マルチバース・コントロールシステム──通称MVCを立ち上げる。


 僕の仕事は端的に言えば、常に多元世界と干渉するこの世界を修理する時空間技術員だ。

 とはいっても、毎日モニターを眺めては、観測値が設定値を超えないように監視し、もしも超えたならば、数個のプログラムを走らせて僅かばかりの修正を加えるだけといった、末端の末端だった。


 このMVCシステムが具体的にどのような仕組みでこの世の理に作用しているのか、それは我々時空管理局の誰にも分かっていないブラックボックスだった。


 そもそも、多元世界の干渉が始まったのがほんの十数年前で、この技術も、他の可能性世界が持ち込んできたものだった。

 ディスクによる遠宇宙探索、簡易転送装置テレポーター分子分裂格納庫ポケット、それら全てが可能性世界の置き土産だった。

 そのお陰で数十年前とは比べ物にならないくらい、我々の科学技術は発展したし、人間の可能性も広がった。

 

 だが、可能性世界の置き土産には、少々難点があった。 


 それは、誰かがその技術を使うと、世界全体が別の可能性世界にアクセスしてしまうということだ。そして、その現象は留まることを知らなかった。

 無尽蔵に派生する世界は、混沌を極める。

 

 その混沌をコントロールするのが、MVCシステムだった。


 そして、MVCシステムには、人間を必要とした。

 世界変動を捉える、センサーとして。


 そして僕ら、時空管理局の下っ端がその役目なのだ。センサーはを捉えなければならない。センサーの僕らにとって、可能性世界はあくまで可能性でしかないのだ。


 例えば通常、世界変動が起きれば世界に追従し、Aという人の役割はBに切り替わる。

 だが、僕ら時空技術員はどこの世界でもAのまま。Aという人間そのままだ。

 可能性として、僕というBはいるのにだ。

 僕らはこの世界から動けない。


 僕は、を多元世界へ置いてきてしまった。


 妻は、迷子なのだ。



 だが、MVCシステムの仕組みを知らなくても、どんなことが出来るのかは、経験によってそれとなく理解していた。

 いつの時代だってそうだろう。テレビがどう映像を出力しているのか、知らなくてもチャンネルくらい変えれたはずだ。


 システムで変えないことが出来るのだから、変えることも出来るののだ。


 僕が今朝早く出勤したのはそれが理由だった。

 今日は無性に、朝一番で行いたかった。


 僕が組み込んだプログラムコードは、ほんのささいな時空の歪みを引き起こす。

 その歪みは他の宇宙へ玉突きに衝突して、それはやがて大きな流れを生んでいく。


 そしてその流れは、1本の大切な樹を守り続けるために、障害を弾くのだ。

 その樹は皆から尊まれるのだろう。


 


 そしてそこに、僕は到達できない。

 僕が覚えていなければならないからだ。


 それでも僕は毎日コードを打ち込むのを止めない。


 多元宇宙に迷いこんだ、が見つけるために。


 ホログラフィーの妻がとびきりの笑顔で笑った。これは僕が結婚を申し込んだ妻の笑顔だ。

 でも、僕は妻が好きだ。


 世界がどれだけ変わろうとも、君は君だから。


 ホログラフィーにそっと呟いた。















***


「起きて、朝だよ」


 朝日が窓から差し込む。それは妻の顔を照らしていた。

 妻は僕の顔をいとおしそうに覗き込んでいた。


「随分とぐっすりだったね」

 僕は冴えない頭で妻の質問に答えた。

「なんだか、君を探してた気がする」

 えー、とちょっぴり妻は照れた。

「わたしはさっきまで隣にいたじゃない、いつまで寝ぼけてるの?」

 妻は、僕の頬にキスするとベットから立ち上がる。きっと、朝食の用意にでも行ったのだろう。


 今日は出張の日だ。

 居心地のいいサード・アースと、新築で買ったこの家と、愛する妻から離れるのは少し憂鬱だが、これから産まれる子供の為に頑張らなければ。


 僕は妻のあとを辿るようにベットから起き上がる。コーヒーの良い匂いがキッチンから漂ってきた。

「今回は何処へ行くの?」

「えっと、<第5オデン>だね」

「へぇ、遠い?」

「ううん、ディスクでひとっ走りさ」


 宇宙の狭間を駆けるその乗り物は僕は余り好きではない。退屈なのだ。

 でも、その技術のお陰で、僕たちはすぐに会えるのだ。


 お互いに、時間を過ごし連れ添ううちに、僕は妻の嫌なとこもたくさん見てきた。


 たくさん喧嘩し、怒鳴り、別れの危機にだって何度も立ち向かってきた。


 それも一緒に過ごした、時があるから。


 これからも、僕は妻を愛していこう。


 は、そう思った。

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多元宇宙の迷い妻 安藤 政 @Show0512

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