ニンニク入れますか? ゲートは通れなくなりますが
すぎ
ニンニク入れますか? ゲートは通れなくなりますが
mainichijiro @mainichijiro 20××年6月13日
平成○○年7月13日 ラーメン二郎 すずめ台方正大学前店 小+生たまごダブル+ニンニク
麺、俺好みのクニュ麺が喰いだしたら止まらない! ウンメ~ッ!
汁、アブラウンメ~ッ! 溶けだしたブタのアブラを啜るのメッチャ幸せ。
ブタ、脂身とホロホロ具合のハーモニーが最ッ高! しかもドッサリ! 幸せ。
完飲。
親元を離れて暮らしている大学生にとって、食の問題はまさしく死活問題だ。長引く不況で親からの仕送りが年々減少しているといわれる昨今、華の大学生であるし、やはり遊興費は削りたくない。友人と遊んだり、コンパに行ったり、自分の趣味に使ったり、そうした経費はどうしても削りたくない。して、どこを真っ先に削るかと言えば、やはり自分の食生活だ。
一人暮らしの若者にとって、果物や野菜を一つ一つ買うのは割に合わない。一つの野菜を消費するのでも一苦労で、消費する前に腐らせてしまうことも多々ある。何より調理も面倒だ。なので、多少の人件費を差っ引かれても、手軽に腹が膨れて、かつ財布にやさしい外食はその強い味方になる。
そういった牛丼屋や定食屋などのコストパフォーマンスの高い外食の中でも、俺、三田慶吾が気に入っているのは、黄色い看板に赤字と黒字で大書きされた看板が目印のラーメン店、ラーメン二郎、しかも畑田にある本店だ。至高のラーメン、その一杯を食べるためだけに、今日も炎天下行列の中で並んでいる。
ラーメン二郎について、進出が進んでいない関西の人には特に解説が必要であると思う。ボリューミーかつハイカロリーな食事であるラーメンの中でも、特にその二点が強調されているのがラーメン二郎で、豚骨ベースで背油たっぷりの濃いスープに、醤油ダレを加え、自家製麺の極太かつごわごわとした縮れ麺と、トッピングとして分厚いなんてもんじゃない極厚のチャーシュー、それにモヤシを中心とした野菜をこれでもかと盛るという、誰が言ったかまさしく「豚の餌」である。
ラーメン二郎の特徴は「コール」と呼ばれる注文方法が独特で、これによってニンニク、ヤサイ、アブラ、カラメの四つの無料トッピングが可能である。アブラとは背油のこと、カラメとは醤油ダレをさらに濃いめにかけることで、これら四種類を自分好みにアレンジしてオーダーする。たとえば「ニンニクとヤサイマシ、アブラ少な目」とコールすれば、ニンニクとヤサイを増やし、アブラを少な目にするという意味になる。
ちなみに初心者は、「にんにく入れますか?」と聞かれたら「はい」とだけ答えればよい。そうすると、デフォルトのニンニクの入ったラーメンが提供される。
味はとにかく濃い。豚骨ベースのスープと背油の浮いた汁のマッチングは、ドロッとしているわけではないが口に運ぶと強烈な存在感で、麺も極太ゴワゴワの他に類を見ないもの、モヤシのタワーは嫌でも目に入るし、そこにニンニクなど入ろうものなら、ひとたび食べれば忘れられない味になる。かくいう俺もその一人で、この味が忘れられずに通い詰めている一人である。そうした俺のような人々のことを、誰が言い出したかジロリアンと呼ばれている。
前方の列はどんどん店の中に吸収されていき、俺もその一人となる。店内の食券販売機で食券を買い、店内の列に並びなおす。店内は街のラーメン屋らしい小汚さに、アブラとニンニクの匂いがしっかりしみついたカウンターのみで十席ほどと、家族連れでの来店は考慮されていない。二人で来店している人も、ラーメンを食べるのに集中して、喋ることはあまり無い。ネットで二郎の特徴としてよく言われる「お喋りをすると店主に怒鳴られる」というものがあるが、それは多くの場合間違いで、単に一人利用が多いためと、麺が汁を吸って量が増えてしまうために黙々とラーメンを食べることしかすることがないから、というだけの話である。
カウンターに座っている人がもうすぐで食べ終わるという段階になって、店員さんがこちらのことを気にし始める。そうしたら、そろそろ順番が回ってくることのサインだ。
「食券を見せてください」
その声と共に、俺は食券を店員さんの方に向ける。作業効率を上げるためにかなりの頻度で行われる確認だが、俺はこの言葉を聞くといつも心がワクワクする。もうすぐあのラーメンにありつけるという高揚感がたまらない。
するとすぐにカウンターで食べていた客が全て捌けた。待ってましたとばかりに俺はカウンター席に陣取り、店員さんから話しかけられるのを待つ。隣の隣の客、隣の客、そして俺の前に店員さんが来た。
「ニンニク入れますか?」
店員さんのこの言葉は、すなわち「トッピングはどうしますか?」と聞かれているのだ。俺はすかさず店員さんに「コール」する。
「ヤサイとニンニクとアブラマシで」
「かしこまりました」
「呪文」とも揶揄されるコールを終えれば、もうすぐ丼ぶりがやってくる。「コール」することで提供されるトッピングは、基本のラーメンが出来上がってから盛り付けられるので、トッピングについて聞かれたらもうすぐ提供の合図になる。
俺は期待感を高めつつ、目の前にいた店員さんは少し移動し、俺の次に並んでいた客にトッピングの有無を聞く。
「ニンニク入れますか?」
「ニンニクアブラ」
その声はまるでソプラノ歌手のような透き通った美声で、思わずその声の主の方を向いた。
「かしこまりました」
店員さんの確認の声と同時に、俺はその人物を視認した。その瞬間、彼女の周囲が光りだしたような、そんな錯覚にさえとらわれた。
卍卍卍
「おまちどう!」
その声と共に、テーブルの上には丼ぶりから生えるモヤシのタワーがそこに存在するようになったが、俺の意識は完全に隣の席の女性の方に行っていた。
「おまちどう!」
店員さんの声と共に、その女性にもラーメンが提供される。そこにはヤサイがこんもり盛られたまさしくラーメン二郎のラーメンを、表情こそあまり変わらないものの、明らかにうれしそうな雰囲気でスマホで写真を撮る女性がいた。
別に女性であるから驚いたわけではない。数は少ないがラーメン二郎は女性も来店するし、過去に何度も隣に女性が座ったことがある。
驚いているのはそこではない。白銀でサラサラのロングヘアーに、蒼く輝く瞳、カウンターの陰で見えづらいが西洋の女性を思わせる長い脚。極めつけは、髪が揺らると少しだけ覗く、その長い耳だ。それ以外の特徴ならば、物好きな欧米人の女性がわざわざラーメン二郎を食べに来たと考えられなくもないが、やはり見間違いではない。エルフの人たち特有の長い耳が、髪の間から見え隠れする。加えて言うなら、肉付きがいい感じが実に俺好み――い、いかんいかん。
今更エルフが日本にいることについて疑問を持つ人はいないとは思うが、俺の専攻が異世界学なので、しばし薀蓄にお付き合いいただければと思う。
およそ二百年ほど前に、数多くの世界が突如として結合された。専門用語で「同位世界の核心融合」と言うのだが、要するに同じ時間軸を流れていた世界同士が特殊な「門」をくぐることで異世界同士を行き来できるようになった、というものだ。地球に住む人間がドワーフの文化が栄えている世界に行くこともできるし、亜人種が栄えている世界からワーウルフやウェアキャットの人たちが地球にやってくることもできるようになった。
異世界に住む人々は、昔の人々が神話やおとぎ話の世界で考えられていたような、魔法や特殊な術が使えるということは無く、例えばドワーフの人たちが全体として鍛冶の技術に長けていたり、竜種の人たちの皮膚が固い鱗でできていたりする程度で、あくまでほぼ同じ時間軸を過ごした世界が結合したために、文化レベルや経済レベルにさしたる違いはなく、精々が「地球における先進国と後進国の違い」程度のものでしかなく、意思の疎通ができるまでに、それほど時間はかからなかった。
それからその「門」を巡ってどのような戦争、あるいは政争があったのか、そもそもなぜそんなことは起こったのか、などの詳細は長い解説が必要なので省略するが、現代の世界では、海外旅行や海外出張に行くくらいの気軽な感覚で異世界を渡り歩くことが可能になった。
日本でも欧米やアジアの人たちが東京や京都を旅行しに来るのと同じように、ゴブリンの人たちが浴衣を着てお祭りを楽しんだり、竜人の人たちが湯治場で現地の人と酒を酌み交わしているという情景も、もはやお馴染みのものとなっている。
さて、そこで俺の疑問に戻る。
エルフという人種はアルフヘイムと彼らが呼んでいる世界からやってくる。アルフヘイムは自然環境の豊かな世界で、エルフも森林の中で、経済概念こそあるものの、小集団単位の共同体を作って半ば自給自足に近い質素な生活送っている。清純さを好み、不浄や穢れを何よりも嫌う彼らにとって、その勤勉さを買われて地球の企業で働いている場合を除いて、都市部で目にすることはほとんどない。
加えてここは、あのアブラギトギトニンニクマシマシのラーメン二郎だ。カウンターの上に乗っているラーメンを見ても分かる。あれは確かに背脂とニンニクを増量し、更に麺とチャーシューまで増量した、まさしくラーメン二郎、まさしく「豚の餌」以外の何物でもない。
エルフの持つ清純さとはおおよそかけ離れた場所にエルフが存在するというミスマッチさ、さらにはそのエルフが「豚の餌」を喰らうという背徳的な組み合わせから、俺以外のお客の視線もそちらに向かっていることからも明らかだ。
異世界の人たちだからといって差別をすることは、現代の道徳観から考えると非常にナンセンスなことだが、しかしエルフの人たちの気質から考えると、ラーメン二郎という場所ほどエルフの似合わない場所はない。
場所とのミスマッチさ以上に俺が強く感じたのは、立ち振る舞いの自然さだ。普段から女性にはラーメン二郎を巡る趣味があることを話題にすると、「理解できない」だの「マズそうだよねアレ」とか言われ邪険にされ、たまに女性がカウンターに座っているのを見るが明らかに「どんなものだか怖いもの見たさに食べてみよう」という気がありありと見て取れて、中には堂々と麺を残している人まで見たことがある。そうした姿を見るたびに、自分のアイデンティティを否定されたようで何故だか悲しくなったりしたものだ。
それを考えると、エルフの彼女の立ち振る舞いは自然だ。こんもり盛られたヤサイや、スープに浮いている背脂に感情をあらわにすることは無く、ただ黙々とラーメンを記録するのみ。それに、彼女の眼前にあるあのラーメン、あれはまさしくブタ入り大! ラーメン二郎では、自分の眼前にある通常のラーメンでも量が多く、大を頼んで更にチャーシューを増量するブタ入り大は、よほどの大食漢しか頼まないという、ハイカロリーな一品だ。彼女がエルフであるということも手伝って、俺には彼女に後光さえ見て取れた。
俺が自分のラーメンが伸びるのも忘れて彼女に見惚れていた次の瞬間、おもむろに箸を持ち出すと、俺にとってはある意味見慣れた、しかしエルフにはさらに似つかわしくない、しかしジロリアンとしては更に尊敬の度合いを深める出来事が展開された。
「よっ」
「!?」
俺だけではなく、隣のゴブリンも、そのまた隣のホビットも驚いている。まぎれもなくあれは超難度の技、「天地返し」だッ!
天地返しとは、二郎のラーメンの欠点を一気に解決するために生み出された、歴戦の猛者しか繰り出せない技のことだ。ゴワゴワの極太麺はとてもスープを吸いやすく、食べているうちに麺が汁を吸い、ただでさえ多い量が更に多くなってしまう。また、麺の上に乗ったヤサイはスープに浸っていないため、そのまま食べるには少し味気ない。
この二つの問題を一気に解決するのが天地返しで、丼の底にある麺と上に乗っているヤサイをひっくり返すことで、麺が汁を吸うのを防ぎ、ヤサイも汁に浸して味をしみこませるというものだ。天地返しをすると、提供されてすぐに麺を食べたい場合はヤサイの山の中から掘り出さなければならなかったのが、すぐに食べ始めることができるというメリットもある。
俺はこの技を習得するのにかなりの年月と、積み重ねた丼ぶりは数知れず、しかもあれだけ見事に天地がひっくり返る天地返しは、記憶にある限りでは見たことがない。
加えて、天地返しをする前、あれはチャーシューを通常よりも増量していた。更に言うなら、麺の量は小ラーメンでさえ通常のラーメンの大盛りと同じくらいの量と言われる中、あの量は大ラーメン。すなわち、「超」大盛りだ。並みのジロリアンではない。果たして何者だ。
こうしている間にも、俺の目の前にあるラーメンの麺は伸びていく。いつもなら早々に貪り食っているところだが、何故だか彼女の姿にくぎ付けだった。そしてエルフの彼女は手と手を合わせ、「いただきます」と小声で言った。俺はラーメンよりも、彼女の一挙一投足―――いや、この場合は一啜り一味わいか。何ともおいしそうに、まるでエルフの美女が黄金のリンゴを食べているような、そんな神話に出てくるような彼女の姿に、俺は虜になっていた。
真剣にラーメンに挑むその切れ長で、深い海のような瞳と長い睫、汗はしたたり頬は上気している。何よりも目立つのが、エルフというと、清貧さや孤高さがクローズアップされることが多いが、隣の彼女はエルフの持つ清楚さ、淑やかさが存在しながらも、体つきは豊満で、テーブルの陰になっていて下半身までは分からないものの、何というか、出るところがすごく出ていて――
はっ、と目の前のラーメンを見て俺は我に返り、ロット崩し――二郎ではロット、すなわち一度にゆでる麺の量が一定であるほうが店側にとって都合がいいとされており、そのため食べ終わりのタイミングをカウンターに座っている客同士で揃えることが客側で推奨され、ダラダラ食べてタイミングがずれることをロット崩しと呼び、あまりいい目で見られないのだ――をしてはいかんと箸を進めたが、集中力は完全に隣の彼女に向かっており、結果的に二郎初心者かと自分で恥じるほどのロット崩しをしてしまった。修行が足りない、無念。
卍卍卍
結局エルフの彼女はロット崩しという大罪を犯した俺に気を留めることもなく、そそくさと店を出て行った。俺もなんとか丼ぶりを空にし、店の外にある自販機で買った黒烏龍茶で満腹を紛らわせつつ、俺はスマホでツイッターをチェックする。
ツイッターには世界中にユーザーがいるが、その中でも俺が更新を楽しみにしているアカウントがある。ほぼ毎日ラーメン二郎を食べ続けて、その模様をアップする「だけ」というアカウントがある。そのアカウント名は「@mainichijiro」といい、フォロワー、つまりはそのアカウントを常時見ている人の数が五万人近いという、とてつもなく影響力の高いアカウントだ。
ツイッターの面白いところに他者とのメッセージのやり取りができる点があるが、それを真っ向から否定して、ただひたすら二郎を食べ、ただひたすら味の感想を書き、交流を一切しないという、ストイックすぎてまるで求道者のようなアカウントがある。おっと、「@mainichijiro」に更新がある。どうやら今日もどこかのラーメン二郎でラーメンを食べたようだ。
mainichijiro @mainichijiro 20××年6月14日
平成○○年6月14日 ラーメン二郎 畑田本店 ぶた入り大+ニンニク+アブラ
麺、汁が染みたデロデロ麺がウンメ~ッ! 神域ィ!
汁、この液体アブラがたまらん! 神汁ッ!
ブタ、一度食べたらザクザクむさぼり続ける! まさに神豚ッ!
完飲。
俺はその場で立ち止まり、そして今来た道を振り返った。ついさっき暖簾をくぐって外に出てきた、黄色いラーメン二郎の看板がまだ見えている。その看板には確かに「ラーメン二郎 畑田本店」の文字がある。
mainichijiroのアカウントを見ても、畑田本店の文字。加えて今日は何月何日だ。七月一四日だ。まさしく今日だ。
俺はmainichijiroを誰が管理しているのか全く知らない。しかし、交流を一切していないという特性上、それは誰しもがそうであるはずだ。最近はツイッターでの更新が主だが、まだツイッターのサービスが稼働していなかったころは「明日太」というハンドルネームでブログを運営していたため、ジロリアンの中では@mainichijiroのことを明日太と呼ぶ人もいるが、本当にそれ以外については謎に包まれている。
普通なら五万人近いフォロワーがいれば、自己顕示欲に溺れ、フォロワーと交流を図るはずだ。というか、ツイッターというのは、誰かの「つぶやき」に対して「リプライ」、つまりは返事をすることで成り立っていくインターネットツールである。
そうしたツイッターの特徴があるにも関わらず、ストイックに食べたラーメンを独特の言い回しで記録するだけのアカウント。それが@mainichijiroなのである。
その@mainichijiroが今日、というか本当につい先ほど、このラーメン二郎畑田本店でラーメンを食べた。俺は不思議な多幸感に包まれていた。
ラーメン二郎という食べ物は、その特異なルックスや「コール」に代表される注文方法、天地返しやロット崩しなどというスラング、またインスパイア――「ラーメン二郎」の看板を掲げられるのは、畑田本店で修業した人と、本店で修業した弟子のもとで修業した人に限られ、それ以外のラーメン二郎に影響を受けたラーメンを提供する店をインスパイアや「J系」と呼んだりする――の文化など、食文化としての宗教性が認められる。
霊場巡りのように各地のラーメン二郎を巡り、あそこの二郎はすばらしい、あっちのインスパイアはうまいなどと情報を共有し、苦行とも取れる脂っぽいラーメンを腹に収め続ける姿は、江戸時代に流行した富士山を霊験あらたかなものとして崇め登る富士講や、数多の霊場を歩いて巡り祈願を行う四国八十八か所遍路など、その姿は寺社や霊場に足しげく通う、かつての熱心な信徒たちと重なる。そういった信徒のことを、人はジロリアンと呼ぶのだ。
@mainichijiroというアカウントは、そんな二郎を巡る信徒の中でもとりわけカリスマ性を持った人物で、過去に類を見ない独特かつ簡素、そしてラーメンの魅力を存分に伝える文体と、他者との交流を全く行わないという高潔さ、孤高さを併せ持ち、何より重要なのが、「完飲」の言葉に表されるように、ラーメンをおいしく食べるという基本への忠実さ。狂信的とも言えるその食べっぷりに、全ての信徒は畏怖し、崇めるのだ。
かくいう俺もその一人で、二郎を愛好する者として、その頂に少しでもたどり着きたいと思うとともに、「ほぼ毎日ラーメン二郎を食べる」という険しい「修業」を行う狂信性に、恐怖さえも感じるのだ。しかし却ってそれがカリスマ性を高め、世のジロリアンを引き付けるのだろう。
「いったいどんな人なんだろう」
ふと口に着いたこの言葉は、ジロリアンならば誰もが思うことだろう。毎日高カロリーの二郎を食べているのだから、イメージ的には大食いタレントのそれだが、ふと、先ほど畑田本店で隣になった女性のことを思いだした。
二郎を頻繁に食べているであろうということだけでも意外なことなのだ。現実としてあり得ないことと分かっていつつも、ツイッターを見ているとその特徴的な文体がかえって浮世離れしていて、妙に彼女のイメージと合致するのだ。
「……いやいや」
俺はかぶりを振りながら、最寄り駅への道を歩き始めた。荒唐無稽なその考えに、俺は頬の温度が上がるのを感じた。
卍卍卍
夏休みになると、下宿している人の中には帰省として故郷に帰る人も多くいる。かくいう俺もその一人だが、バイトの兼ね合いでまだ大学のある東京を離れることはできない。何より実家に帰れば労働力として動員されるのがオチなので、盆以外は積極的に帰らないようにしている。
そんな親不孝者の俺とは打って変わって、やはりきちんと実家に帰省をするという者も友人にいる。彼、ナカナン・ダイターシンもその一人で、出国ゲートへの付き添いというか、まあ興味本位でくっ付いてきただけというだけの話である。
「勝手に行けばいいじゃないか。エルフ以外は立ち入り禁止というわけじゃないんだから」
「いや、用事もないのにゲートを眺めるだけというのもさ」
「そういうものかねえ」
異国風の名前からも想像できる通り、彼は日本人ではないのだが、本人が言っている通り彼はエルフなのである。ここは都内某所にあるエルフの里、アルフヘイムへの出入国ゲートだ。
このアルフヘイムへのゲートは少し特殊で、通るにはある条件があるものの、それ以外は他のゲートと何も変わらない。出国待ち客のためのロビー、パスポートの提示を求められるカウンター、金属探知機など、その設備は国際空港とほぼ同じと言える。
ただ違うのは、ここが緑豊かな森の中にあるという点と、その緑を存分に取り入れるために、トイレなどを除いたほぼ全ての壁がガラス張りでできているという点だ。この辺りはエルフの描く心象世界の再現と言っていいだろう。研究対象としては純粋に興味深いと思う。
ナカナンと共に出国ゲートのすぐ手前まで来ると、ゲートの係員と何やら揉めているような声がする。声の主は女性のようで、揉めているのは出国手続きを行うための検査場のようだ。
「おやめください!」
「なぜ止める!」
「無理やり進まれれば、ゲートがどうなるか!」
「ええい、少しくらいなら!」
「本当に、何が起こるかわからないので……!」
強引に先に進もうとしているワイシャツ姿の女性を、係員が二人がかりで引き留めている。遠巻きに見ても押し問答が続いているようで、解決の糸口は見いだせていそうにない。
ぼーっと眺めていると、隣のナカナンが少し声のトーンを落としながら俺に説明する。
「年に一人か二人いるんだよね、ああいう人」
「何が問題になっているんだ? あれ」
「ちょっと失礼な話だけど、サイズの問題かなあ」
「サイズ? ……ああ、そういうこと」
俺も異世界とのつながりについて勉強している身であるので、各々のゲートの概要はある程度理解している。
この世界と異世界をつなぐゲートには制約があるものがあり、一年に数度しかゲートを使っての移動ができなかったり、一定の大きさ以上のものは通れなかったりするものがある。これは異世界同士が結びついたときに微妙に位相がズレたために起こった現象だとか、人以外を通さないようにするための何らかの意思だなどといういくつかの説があるが、詳しいことは研究中だ。
中でもエルフの世界であるアルフヘイムと、俺たちの住む世界をつなぐゲートの特徴はずばり、「体重制限がある」ことにある。エルフの清貧さが何らかの影響を与えたとか、単に世界が結合する際に何らかの不具合があったからとか、いろいろな説があるが、要するにこのゲートは「痩せている人しか通れない」ゲートなのだ。
異世界学の教科書にも載っているレベルの有名な話だが、ある時代にこちら側の世界の権力者が美女ぞろいで有名なエルフをどうにかして妾にしようと企み、ゲートをくぐろうとしたものの、その権力者は日々の不摂生で太っており、あやうく次元の狭間に飲み込まれそうになったという。それ以降、何キロ以上の人は通れないのか、重りを使って実験を行って、今のような体重制限制度になったと聞いている。
具体的な数字までは分からないが、ある程度細いもの、つまりは相撲取りやレスラーといった体格のいい人間や、それこそドワーフやオークなどように種族的に体が横に大きくなるような種族は出入りすることができない。まさしく清貧かつ孤高を好むエルフのためのゲートだった。
未だ揉めている出国ゲートの方を見ながら、ナカナンが困ったように言う。
「この世界は食事がおいしすぎるんだよねえ。日本に限らず、食文化がここまで発展した世界って早々無いよ」
「長年住んでいるとあまり実感しないけどねえ」
「君はラーメン二郎ばかり食べているから実感できないだけでしょ」
ぐうの音も出ない。その通り。
「まあでも、エルフは体質的に太りづらいから、よほど暴飲暴食しなければ、制限には引っかからないはずだけどなあ」
「暴飲暴食ねえ」
「そういえば、慶吾はジロリアンの割には中肉中背だよね」
「ジロリアンを見くびるなよ。週一で通って炭水化物と脂肪分を二郎で蓄えて、あとは野菜中心の健康生活だ」
「そこまで聞いてないし……」
「はははははは」
仕送りの少ない大学生にとって、自活をすれば外食や惣菜中心の生活よりも安上がりになる。大学生が社会人と違うのは時間はたっぷりあることで、俺は貧乏料理に関しては一過言あるつもりだ。
と、自分の体の健康を誇った所で、ナカナンは「それじゃあ」と、手をあげる。
「それじゃあそろそろ僕は行くよ。また二学期に」
「おう。また課題見せてくれや」
「じゃあまた料理作ってね」
「お安い御用だ」
そう言ってナカナンは検査ゲートで体重チェック――念のため全員が検査をするが、ナカナンは痩せているのでもちろん一発クリアだ――をし、出国ゲートをくぐってエルフの世界へと消えていった。
さて俺も帰ろうかと出口の方へ向かおうとしたとき、ふと先ほど揉めていた女性のことが気になり、近くのほうに寄ってみることにした。先ほどから係員と口論となっているその声に、俺はどうも聞いたことがあるう気がしていたのだ。
あくまでさりげなく、何か言われたときに偶然だと言い張れるくらいに、あくまで自然体で近づいてみる。
「やってみなければわからんだろう!」
「いえ、ですから規定でして!」
口論をしている女性の横顔が見える。声だけではない。その顔にも確かに見覚えがあった。ラーメン二郎畑田本店で心を奪われた、まさしくあのエルフの女性ではないだろうか?
俺の中では確信があった。あの日の二郎は、俺のラーメン二郎との長い闘いの歴史の中でも、最悪に近い敗北だったのだ。あの日、あの時の畑田本店のことならば全て記憶している自信がある。
その上で、あの時隣に座った彼女。身長は俺と同じくらい。あの切れ長で 青く澄んだ瞳と長い睫と、それと、何というか、腹と尻回りの肉付きが、こう、ふくよかで……。いやいや、それでも、というかそれがむしろ実にエロ――じゃなくて、魅力的だ。
「身分証ならきちんと提示したろう! ここにしっかり、リサ・アスターと書いてある!」
「ですからそういうことではなく、むしろ物理的な問題でですね……!」
俺はそこで、脳内で稲妻が奔ったような気がした。アスター、ラーメン二郎、畑田本店、七月十四日。これらをつなぐものは何だ。全てが一本の道の中で繋がり、俺の中で衝動が生まれる。今しかない、今しかない……! と。
「まったく、融通の利かない……!」
サラ・アスターと名乗ったエルフの彼女が、検査係へのいら立ちを隠さずにこちらへ近づいてくる。
あの日、七月十四日に畑田本店でラーメンを食べたという@mainichijiro。目の前にいる彼女も、あの日俺の隣でラーメンを食べている。しかもあの日、@mainichijiroがラーメン二郎畑田本店で食べたのはブタを増量した大ラーメンにアブラとカラメのトッピング、決定的なのが、彼女の名字が「アスター」であるということ……!
別人という可能性も十分にある。しかし、俺は自らの内にある好奇心が、一人のジロリアンとしての明日太さんへの憧れが、俺を突き動かしていた。
「あ、あの!」
「ん? 何だろうか」
「あ、あなたが明日太さんでしゅかっ!?」
噛んだ。盛大に噛んだ。しかし、伝えられた。
サラ・アスター、彼女はかの有名ジロリアン「明日太」、またの名を「@mainichijiro」なのではないか? と。
「明日太? いや、違う―――……ああ、まあ、そうだが……」
「やっぱり!」
俺の中で、ジロリアンとしての本能が歓喜に咽び泣いている。憧れのジロリアンと対面できたその嬉しさに、俺は鳥肌さえ立っていた。
アスターさんは俺の方を不思議そうに眺めながら、質問してくる。
「しかし、どうして?」
「以前に畑田の本店でお見かけした時のコールと、その後に更新されたツイッターの内容が一緒で、更に先ほどお名前がアスターと聞こえたもので……」
「……ああ、そういうことか」
合点がいったように、頷いている。ラーメンを食べるためなのだろう。肩口で切りそろえられた白銀の髪が揺れている。
アスターさんは困ったような笑みを浮かべながら頭を掻いている。
「別に隠していたわけではないんだが、私はエルフだし、都会ではただでさえ注目されるのに、それがラーメン二郎という、客層が男性しかいない場所では、な」
「ご、ご迷惑でしたか……?」
「隠していたわけではないんだ。別にかまわないよ」
「そ、そうですか……」
俺はその答えに安堵していた。憧れの存在に、出会ってすぐに嫌われるということは、誰しもが絶望的な気持ちになることと思う。
女性が一人でラーメン二郎に行くだけでも注目されるのは確かで、加えてこの容姿では、例えば本名で活動していたら、よからぬことを考える人がいないとも限らず、それ以前に彼女は好きでラーメン二郎を食べているのであって、それが妨げられてしまう事態になることは容易に想像できる。性別を偽るというのは、本当に上手いカモフラージュだと思った。
と、困ったような笑顔を浮かべていたアスターさんが、はっと何かに気付いたように、俺の方を気まずそうに見やる。
「……ああ、そういえば、恥ずかしいところを見せてしまったな」
「あ、その、自分も気になっていたので、よろしければ事情をお伺いしても……?」
「う、うむ、実はな、恥ずかしい話なのだが……」
アスターさんは少し言いよどんだ後、
「ゲートの体重制限に引っかかってしまって、通れなかったのだ……」
頬を指で掻きながら、恥ずかしそうに言った。お、俺は女性に対して何という失礼を……! 好奇心に身を任せてしまうのは褒められたことではないとこの時学んだ。
「あ、ああ、こ、これは失礼しました!」
「いや、いい。私の不摂生がいけないのだ。おかげで頭も冷えたよ」
そう言ってお腹をさするアスターさん。確かにワイシャツから今にもはみ出さんとするお腹のボリューム感と、その上下にもボリューム感のあるものがくっついて――――それ以上いけない。
本人は自嘲しているが、しかし、テレビで活躍しているデブタレントほどには太りすぎているという印象はない。豊満という言葉がギリギリあてはまるくらいの、人によっては魅力的とも写るくらいの肉付きだ。それでも体重オーバーということは、いかにエルフという人種に痩せている人が多いかということだろう。
訳知り顔でうんうん頷いていると、アスターさんが「そうだ」と呟く。何か用事などを思い出したのかと思いきや、アスターさんは俺の方に向き直った。
「君はラーメン二郎をよく食べるのだろう?」
「は、はい」
俺にはアスターさんの質問の意味が分からず、半ば反射的に頷く。
「参考までに、君は定期的にラーメン二郎を食べているのに、この通り痩せている。何か特別な努力でもしているのか?」
俺の体型維持方法が気になったらしいアスターさんが、俺の腹回りを気にしながら問いかける。
「自分は大学生でして、仕送りも少なくて、週末にラーメン二郎を食べる以外はなるべくお金を使わないように自炊をしていまして」
「ほう」
「お金がないと、どうしても肉や魚じゃなくて野菜中心の食生活になるんですよ。だから、今まで健康診断でも異常なしだったんだと思います」
「なるほど」
深く納得したようにアスターさんが何度か頷き、何かを決意したようにもう一度頷いた。
「よし。君の名は?」
「は、はい。三田慶吾と言います」
そして俺に向き直り、
「うん、三田慶吾くん」
「は、はい」
「私とルームシェアをして、料理を作ってはくれまいか」
などと声を上げた。一瞬ではない少しの間、俺は何を言われているのかわからずに、しばし唖然としてしまった。
ルームシェア? どういうこと? 一緒に住む? エルフのお姉さんと?
自体が呑み込めずに目を白黒させている俺に、サラさんが矢継ぎ早に事情を話す。
「仕事が忙しくて、どうしても外食になってしまう。そして、外食すると決まってラーメン二郎だ。これでは太る」
「は、はぁ」
「君は学生か?」
「は、はい」
「では、もしルームシェアを受け入れてくれるならば、二人分の家賃と食費は私が負担させてもらおう。社会人としてはそれなりに稼いでいる方だからな」
エルフのお姉さんと同居するという何それうらやま案件を除いても、この話はおいしすぎる話だった。貧乏学生にとって何が負担かって、一番は家賃である。俺の今の住まいは、大学から一時間弱の所にある六畳1Kの狭い部屋だ。その上、東京の大学に通っているにもかかわらず、現住所は神奈川県。それでも埼玉の田舎から比べると倍近い相場だ。
それをすべて負担してくれるという。三食料理を作ることだけが唯一増える負担だが、今も外食するとき(主に二郎)以外はすべて自炊だし、弁当も冷凍食品ばかりとはいえ自分で作ることも多い。それが二人分に増えるだけだ。造作もない。
条件としては破格だ。しかし、唯一難点があるとすれば、目の前にいるエルフのお姉さんが、物凄い美人だということに尽きるだろう。加えて俺は、おっぱいが大きいのが好きだ。お尻も大きいのが好きだ。アスターさんはそのどちらにも当てはまる。恋人でもないのにそんな人と同居して、俺の中の何かが弾け飛ばないだろうか。ネット上で憧れの存在である人に、何か失礼を働かないだろうか。俺は不安だった。
「どうだろうか?」
不安そうにアスターさんが俺の方を見やってくる。
俺の理性は大丈夫かとか、全く持って失礼にも、俺に一目惚れを? なんて馬鹿なことを考えたりもした。けれど、目の前で憧れの人が困っている。その状況に、今までトップを走り続けてきた人のピンチに、何とか力になってあげたいと純粋に思う強い気持ちが心の中に踊った。
俺はそれ以上、考えることをやめた。ただ目の前にいる人を助けたいと思った。
「わかりました。いいですよ」
「本当か!」
アスターさんの笑顔が弾ける。今までゲート関係のことで沈みがちで、陰のある顔しか見てこなかったが、あの時見たような、畑田本店でラーメンを食べ進めるあの時のような輝いている表情に近づきつつあった。でも、あの時の方がいい表情だったんだけども。
アスターさんが俺に手を差し出してくる。
「改めて、サラ・アスターだ。見てのとおり、アルフヘイムからやってきたエルフだ。サラでいい」
「三田慶吾です。大学生です。よろしくお願いします、サラさん」
「よろしく頼む、慶吾君」
俺はその手を握り返し、これからの生活に思いを馳せた。きっと楽しい毎日になることだろう。
俺は逸る気持ちを抑えて、肝心な、ルームシェアを行う上で最も気になったことを聞くことにした。この質問の答えによっては、ルームシェアの話を白紙に戻した方がいいと感じるくらいに、重要な質問だ。
「あの、こんなこと自分で言うことじゃないんですけど、初対面の人間とルームシェアなんかしていいんですか?」
「もっともな質問だな」
サラさんが二、三度、深く頷いた。
料理ができるだけなら、二郎を食べても体型が維持できるだけなら、そんな人間世の中珍しくもない。サラさんが今までであって来た人の中にも、その条件を満たす人はいただろう。そんなごまんといる人間の中で、どうして俺を選んだのか。
同居生活を送る上で、相手へのリスペクトのない関係はすぐに破たんすると聞いている。いくら条件が良くても、これから何か月も、何年も生活を共にするのだ。俺を選んだ理由に打算以外の何かを求めても、バチは当たらないはずだ。
探るような俺の目に対して、サラさんはふっ、と優しく微笑んだ。
「私は出会いを大切にする方だ。それに、これでも人を見る目はあるつもりだし、何より……」
「何より?」
「ジロリアンに、悪い人間はいないだろう?」
自分で自分の顔が笑顔になったのが分かった。
ジロリアンに悪い人はいない? そんなことはないだろう。世の中にはたくさんの人がいる。
でも、そこで否定するような人は、そもそもが「悪い人」だ。この言葉を笑って受け入れてくれるような人が、「良い人」なんだろう。そして、俺は意識することもなく笑顔になれた。ある意味試されていたわけだが、俺はそんな愉快な謎かけをするサラさんのことを、ジロリアンとしての憧れだけでなく、人間として――いや、一人のエルフとして面白い人だと、純粋に思ったのだった。
「わかりました。そう言われては、ジロリアンとしてのプライドがありますから、無下に断れませんね」
「ふふ、そうだろうそうだろう」
サラさんは得意げに笑う。
と、何か思い出したように「ああ、そうそう」と付け加えるように言い放った。
「ああ、青少年の性衝動に関しての理解はあるほうだから、下着くらい持ち出しても構わないぞ」
「そんなことしませんってば!!」
まるで俺の数刻前のピンク色な脳内が見透かされているような気がして、初歩的なからかいだというのに、ずいぶんと熱くなってしまった。顔面も必要以上に赤みがさしているだろう。
打ち解けるための冗談のつもりで言ったらしいサラさんもそのことが分かっているのか、今度は声を上げて笑い始めた。たぶん、俺が邪な妄想をしていることすらもお見通しで、それすらも笑い飛ばしているのだろう。色々と敵わなそうだと、これからの生活が思いやられる。
「くくく…………ああ、話は前後するが、私は今まで仕事かラーメン二郎かという生活しかしていなくてな。金はもちろん出させてもらうが、他にはほぼ何もできないと言ってもいい。それで本当に構わないのか?」
「構いません。それに……」
「それに?」
「……いえ、なんでもありません」
「そうか?」
サラさんは腑に落ちない表情だが、あくまで分からないフリをしておく。俺も大学生の端くれで、彼女もいない。妙齢の女性と実質的には同棲することになるというのは、抑えたくても抑えられない下心がある。
本当に仕事人間であるということらしいので、そちらの方面にはあまり触れない方がいいのだろうから、しばらくは本当に生活上のパートナーとして過ごすが、まあそういう期待を抱いても責められないシチュエーションであろうとは思う。
とはいえ、あくまでこれからはサラさんの健康を預かる身。そのあたりのこともしっかりしていかなければならない。勉強も必要だろう。さしあたっては、早急に対策が取れそうなところから始めていくことにする。すなわち―――
「じゃあしばらくの間、ラーメン二郎は控えましょうか」
「な、なんだと……」
実は、先ほどの性衝動についてのからかいの仕返しのつもりで、毎日の二郎を控えるように言ったわけだが、思ったよりも本人にはダメージのあることらしい。
ほぼ毎日ラーメン二郎を食べているサラさんだが、さすがに痩せようということになったにも関わらず、あのデカ盛りアブラギトギト塩分たっぷりのラーメンを、ああも頻繁に食べられては、いくら他の食事でカロリー制限をしても絶対に痩せることは無いだろう。
ラーメン二郎そのものがカロリーそのものと言っていいだけに、本当に痩せたいなら一食でも食べてほしくはないが、あれだけのジロリアン、あれだけの常習者であれば、いきなりすべて放棄するというのは無理があるだろう。
ここから徐々に頻度を上げていくつもりだが、サラさんはすでに泣きそうなくらいにショックを受けていて、目も当てられない。
「そ、それだけは……それだけは……」
「いや、それじゃ痩せないですって……」
「うう、それだけは、何とか……ぐすっ、ひっく……」
しまいには本当に泣き始めた。言葉の末尾に「お代官様ぁ~!」と付きそうなくらいに何とも哀れで、何とも言えない罪悪感が俺の心を支配する。
「ちょ、泣かないで下さいよ……!」
「それだけは~……!」
「わ、わかりましたよ!」
今までクールに決まっていたサラさんの顔がぐしゃぐしゃだ。ラーメン二郎に対しての思い入れの強さは分かったが、これではお気に入りのおもちゃを取り上げられた赤ちゃんと同じだ。ラーメン二郎とは、あのクールな女性をここまでしてしまうものなのか。末恐ろしい食べ物だと今更ながら思った。
出入国ゲートという公共の場所であまりにも激しく嗚咽を漏らすものだから、こちらとしてもそろそろ場の収拾を図りたいし、何より人の目がキツイ。あんな若者がエルフの女性を泣かせて、いったいどんな女性関係をこじらせているのやら、という視線が痛いほどに伝わってくる。
俺はいたたまれなくなって、早々に妥協案を提示した。
「じゃあ月に一回!」
「ええ~……」
「二週間に一回!」
「もう一声!」
どんな掛け声だ。アメ横で値切るのか?
「じゃあ週一! 週一で食べましょう! これ以上はびた一文まけませんよ!」
「ぐぬぅ、そんなところか」
どんなところだ。しかも先ほどの醜態と、何より泣いた痕が目にはっきりと表れているので、クールぶっているがあまりクールには見えない。
しかし、ジロリアンとしての彼女の誇りというか、外聞をかなぐり捨ててでも、自分の中に持っている大切なところだけはぜっていぬ曲げないという、矜持というか、気迫のようなものをそこに強く感じられた。
エルフであるサラさんにとって、ゲートをくぐれないというのは自分の故郷に帰れないということでもあり、そんなことよりも何よりも、ラーメンを食べることの方が大事なのだろう。
それでこそ俺の知っている、今まで尊敬してきた@mainichijiroであるし、その神髄に是非とも触れてみたいと思った。俺は、本気でこの先の生活に絶望し始めているサラさんに尋ねた。
「あの、俺も週一でラーメン二郎なので、ぜひとも一緒に二郎に――「駄目だ」
サラさんが俺を明確に拒絶する。
「私は@mainichijiroだ。明日太なのだ。ラーメン二郎というのは、友人同士やカップルなど、複数で行くものではない」
「そ、そうですか…………いえ、わかりました」
傍から見るとおかしな言動だが、しかし俺は妙に納得してしまったし、説得力があるような気がした。
ラーメンという食べ物は、店から提供されたその瞬間から生魚のように鮮度が落ちていく。麺は伸び、具はしなしなになり、スープはぬるくなる。ラーメン二郎というラーメンは、ゴワゴワの麺はスープの汁を吸いやすく、更にそもそもの量が多いため、その要素は一層強い。それを分かっていて、あえてラーメン二郎を食べるのだ。分かっていながら食べるのに、食べるスピードが落ちる二人連れなど、ラーメンに対して失礼ではないか。繰り返す。ラーメンという食べ物は、店から提供されたその瞬間から、生魚のように鮮度が落ちていく。
俺は彼女が、ツイッターアカウント@mainichijiroだということを、ここで改めて確認した。普通なら拒絶の言葉を駆けられて、落胆、怒り、哀しみなど、マイナスの感情が沸き起こってきそうなものだが、何故だが俺は長年抱いてきた心のしこりが取れたような、晴れやかな気持ちだった。
卍卍卍
出会いの日からしばらく経った。というのも、何か報告するようなことや、別段特に変わったことが何もなかったのだ。
確かに、俺の住環境は激変した。六畳一間1Kから二人暮らしには分不相応ともいえる2LDKにクラスアップし、メインの野菜がモヤシからキャベツやレタスに変化した。ちなみに俺の部屋は六畳1Kから2LDKの8畳間を与えられ、こちらもクラスアップしている。
平日は仕事から帰ってきたサラさんを出迎え、ご飯を食べ、少しした後に眠る。休日も顔を合わせたらたわいのない話をして、ご飯を食べて、たわいのない話をして眠る。その繰り返しだ。
それだけでもうらやましい? そんなことがあるか。俺は自分の状況が他人に嫉妬されるような状況だなんて、そんなことを思ったことは無い。
この状況をうらやましいと思った人は想像してみてくれ。これ以上には絶対に発展しないし、何も起こらないんだぞ。
サラさんという人はよくできた人だ。出会った時には性衝動についてジョークを飛ばしたが、俺がそういうことに興味を持っていると、それが自然な成年男性なのだと分かったうえで、あえて一線を引いている、いや引かれているこの気持ちがわかるか?
見えない壁に雁字搦めになりながらも、しかしサラさんとの日常生活は楽しいものなので、そのジレンマを日々感じているのだった。
さて、今日は一週間に一度だけ特別にラーメン二郎に行ってもいい日だが、さっそく我慢が出来なくてどこかの昼営業に飛び込んだのだろうか。
ちなみに、サラさんが二郎を食べたかどうかはツイッターで一目でわかる。あのアカウントの更新はまだ続けているのだ。更新が一週間に一度になってもフォロワー数は落ちることは無く、あらためてそのカリスマ性を垣間見ることができる。
俺はスマホを起動しツイッターを開いて、@mainichijiroのアカウントにアクセスする。更新があるということは、やはり昼食はラーメン二郎にしたようだ。
mainichijiro @mainichijiro 20××年7月21日
平成○○年7月21日 ラーメン二郎 東台駅前店 小+生たまご+ニンニク
麺、汁染みた麺が口の中で味わい深いハーモニー。神の麺。
汁、塩気の利いた東台汁たまんねえッ! 神の汁。
ブタ、味染みた豚はまさに神の豚。
完飲。
「また完飲してるし……」
俺はその三段腹を解消するためには、ラーメン二郎の食べ過ぎを即刻解消すべきと主張したが、あの高貴で誇り高いエルフであるサラさんが泣いて懇願したので、週に一回を条件にラーメン二郎を食べることを許した。
その際追加の条件として、「完飲」、いわゆるスープまですべて飲み干すことはなるべく避けるように忠告した。ラーメン二郎のスープは、豚骨の脂と、豚の背脂がこれでもかと凝縮されたようなスープで、加えて塩分も相当に入っている。当たり前ながら、すべて飲み干すことはダイエットとは真逆の方向に腹を成長させる。
それでも完飲を強制的にやめさせられないのは、もっと言えばラーメン二郎を食べることそのものをやめさせられないのは、初めて畑田本店で出会った時のあの美味しそうに食べる姿が脳に焼き付いて離れないからだ。
幸せそうに、この世のすべての美食の中でも頂点の食物だと言わんばかりの食べっぷり、いや飲み干しっぷりに、俺が心を奪われたのは事実だ。サラさんの「完飲」を否定することは、俺の気持ちをも否定することになってしまう。俺はサラさんのむっちり――いやいや、その容姿だけに惚れ込んだのではない。
俺は食べ物をおいしそうに食べる女性が好きだ。二郎を食べている熱心な姿はもちろん、食欲が止まらずに俺が作ったご飯をおかわりしてくれるのも可愛いし、何より作ったご飯をおいしく食べてくれるというのはそれだけで嬉しい。
しかし、当初の目的は何だ。エルフのゲートをくぐるために減量するのではなかったか。二郎の完飲に限らず、俺が作ったご飯もあまりにおいしそうに食べるものだから、ついついお代わりを許してしまっていたが、やはり引き締めなければならないだろう。
そんなことを考えていると、玄関のドアを開ける音がして、続いて靴を脱ぐ音がする。どうやらサラさんが仕事から帰ってきたようだ。今日こそはビシッと言わなければなるまい。
「ただいま!」
リビングのドアを開けるサラさんの声は弾んでいる。一週間ぶりの二郎で「完飲」。さぞかし気分がいいことだろう。
しかし俺はそんな浮かれたサラさんの可愛い様子には絆されない。俺は強い男なんだ。
「サラさん!」
「な、なんだい帰ってくるなりそんな大声を」
「また完飲したでしょ!」
「ぐぬぅ、何故バレた!」
「ツイッター見たら丸わかりですよ!」
忘れていた! とばかりにサラさんが驚愕する。サラさんは普段はやり手のキャリアウーマンなのだが、ラーメン二郎に関係することとなると知能が小学生まで低下する。まあ、そのたるんだお腹のことを考えなければ、可愛いところともいえるのだけれど。
「東台駅前店で完飲したんでしょ!」
「ぬぅ、得意先が近くにあってだな……」
「完食までにしてください!」
「わ、わかった」
俺のあまりの剣幕に気圧されたのか、サラさんはたじろぎながら了承した。
少ししてようやく事態が呑み込めてきたらしく、ちょっとしょんぼりしているサラさんも可愛い。俺は夕飯の用意がまだ終わっていなかったので、キッチンへと戻ることにした。
「君には本当に助かっている。仕事には自信があるが、家事全般、私はできないからな。掃除に選択、食事まで、本当に助かっているよ」
カウンターキッチンの向こう側で、椅子に座ったサラさんが自嘲気味に話している。俺としてはこんな綺麗でかわいい女性と同居できるだけでも儲けものなのだが、サラさんはその辺の自覚がないのか、しきりにお礼を言ってくる。
「家事全般をするという条件で、この家に住まわせてもらってるんじゃないですか」
「そうだが、しかし仕事ぶりには感謝しているし、いい仕事にはきちんとした報酬を支払わなければならないのは社会の常識だ」
「はぁ」
「何でも言ってくれ? 私にできることならなんだってするぞ」
「何でも」――その言葉に一瞬グラッと来た。サラさんも冗談で言っていたが、俺にだって性衝動がないわけではない。今までの信頼をかなぐり捨てて、そういうことを頼み込んでも、今までの言動から言ってサラさんは明確な拒絶をしないだろう。
しかし、しかしだ。俺が求めているのはそういうことなのか? 労働の対価として、あくまで仕事の報酬としてそういうことを頼んでもいいものなのか? 俺はそんなことを求めていない。簡単な答えじゃないか。
俺の気持ちは定まったが、かといって何かお礼をしたいというサラさんの気持ちを無碍にはできず、俺はとりあえず結論を先延ばししておくことにした。
「それはゲートをくぐれるようになるまで取っておきますよ」
「……わかった」
「もう夕飯できますから、さっさと食べましょう」
サラさんは腑に落ちない表情をしていたが、それ以上は言っても無駄だと悟ったのか、それ以上の追及はしてこなかった。
さて、俺の料理もそろそろ出来上がりだ。今までは自分で食べるだけだからメニューや味付けも適当だったが、おいしく食べてもらいたい人ができた今では、きちんと研究をするようになった。中に入っているのが参考書か漫画かというのが以前の俺の本棚だったが、いつしか料理研究本もかなりの割合になった。
今日は「完飲」までは予想できなかったが、二郎を食べに行く日には変わりなかったので、いつもよりカロリー控えめの食事だ。といっても、俺もうら若き青年男子であるし、それなりのものを食べたい。
「というわけで、今日のメインは豆腐ハンバーグです」
「おお!」
手が込んでいそうだが、作り方は簡単だ。シイタケやレンコン、玉ねぎ、長芋などをみじん切りにして、潰して水気を取った木綿豆腐と合わせる。そこにつなぎとして卵を入れてよく混ぜ、塩コショウやごま油で味を調えながら焼けば、もう完成だ。本当はデミグラスソースまでこだわりたいが、玉ねぎを炒めるのが相当面倒なので、ケチャップ、ソース、酒、砂糖、しょうゆで簡単に作ってみた。
「もう一品、ふろふき大根の肉みそがけです」
「こっちもおいしそう!」
ふろふき大根は煮込むのに時間のかかる料理だが、その間は放っておけばいいし、何より調理が楽なので好きだ。輪切りにした大根は長時間煮込む。にんじんや長ネギ、しいたけやニンニクなどをみじん切りにし、合いびき肉と合わせて炒め、味噌や砂糖、オイスターソースなどで味付けし、片栗粉でとろみを付けたソースと合わせる。あとは煮込んだ大根にかければ完成という寸法だ。
ほうれん草のお浸しとご飯が付けば、どこに出しても恥ずかしくないヘルシーな夕食だろう。サラさんも自家製麦茶――市販のパックを浸すだけでなく、一度煮出すのがおいしい麦茶を作るポイントだ――を冷蔵庫から出してきて、二人分コップに注いでくれる。
俺が全ての料理を出し終え、サラさんは手を顔の前で重ねる。サラさんはエルフだが、すっかり日本式の挨拶が馴染んでいる。
「おいしそうだ。いただきます」
「おあがりなさい」
遅れて俺も席に着き、食べ始める。自分で作ったものとはいえ、おいしくできているなと実感する。その何割かは、一緒に食べている存在が、さっそく豆腐ハンバーグにかぶりついているサラさんによるものなのかもしれない。
「うん、今日もおいしい」
「それはよかった。ふろふき大根の肉みそがけは、コチュジャンをかけるとおいしいですよ」
「それはおいしそうだ。是非かけよう」
冷蔵庫から出してきたパック詰めのコチュジャンを豪快にサラさんはかけた。サラさんの味の好みは、二郎が好きなだけあって、はっきりした味のものが好きなことが経験からわかっている。ただ、それは単なる好みの話で、嫌いな食べ物は無いというのは有りがたい話だった。
「昼に二郎を食べた日はいつもヘルシー料理というが、今日もヘルシーなのかい? こんなにおいしいのに」
「ええ。豆腐ハンバーグなんかお肉使ってませんからね」
「ううむ、君の料理の腕が立つのはもちろんだが、この国の食文化はすごいな。私のようなゲートをくぐれない人間が年間何人も出るわけだ」
自嘲からではなく本心から言っているらしいサラさんに、ちょっと聞いてみたくなった。
「エルフの世界、アルフヘイムには、どういった食文化があるんです?」
「ふむ、専攻が異世界学の君に問題だ」
「は、はぁ」
サラさんはいきなりクイズを出してくる。
「エルフの居住区の特徴は?」
「内陸部の森林地帯に多くの集落が存在する、ということらしいですけども……」
「では、集落が内陸部にあるということは、ある調味料についてあまり使用できないと思われるが、それは何だ?」
「…………なるほど、塩ですか」
「アタリだ。エルフの食文化は、薄味と言えば聞こえのいい、味にメリハリのない単調な代物だ」
考えてみれば当たり前なのだ。塩は海の水を蒸発させて作るのが最も効率がよいため、内陸部に集落が存在するアルフヘイムは、伝統的に塩を使わない食文化になったと推測できる。岩塩というものもあるが、海の水から作られる塩と比べると採取の効率が段違いに落ちる。
「特に海の多い国で顕著だが、この世界は塩を使う食文化が発達している。その刺激的な味に、私は心を奪われてしまってな」
目を輝かせるサラさんの反応は、この世界に最初に来た時のことを思いだしているのだろう。塩のない生活など俺には考えもつかないが、古来より地球では塩を多用してきた。想像するしかないが、アルフヘイムの食事はさぞヘルシーなことだろう。
「仕事でこっちに来て色々な料理を食べているうちに、出会ってしまったのだ、ラーメン二郎に」
宝くじが当たったかのような口ぶりでそう話すサラさんだが、話しているのはラーメン二郎との出会いだ。俺の今の表情を鏡で見たら、きっと苦笑いをしていることだろう。
「二郎を『完飲』したときは、こんなパーフェクトな料理があってもいいのかとさえ思ったぞ」
「もう完飲はしないでくださいよ……」
「分かっている。私はもう子供ではない」
サラさんは拗ねたように言うが、ラーメン二郎が絡むと知能が小学生以下になるサラさんのことは、この件に関しては信用をしていなかった。
そこで俺はふと、一緒に暮らし始めた時のことを思いだす。サラさんは頑なまでに俺と二郎に行くことを拒否した。普通だったら何かしらの反感を覚えてもいいところだと思うが、しかし俺はジロリアンとして、その心境をよく理解できていた。
たとえばカップルや家族で、ファミリーレストランなどの普通のご飯を食べるのとはワケが違う。もしラーメン二郎で楽しくお喋りしようものなら、問答無用で麺が伸びる。ヤサイはクタクタになる。当たり前だが汁も冷める。サラさんというラーメン二郎を愛する人間にとっては、それが許されないのだろう。
もちろんそれは俺にだってわかっている。一緒にラーメン二郎に行っても、ラーメンが提供されてからは楽しくおしゃべりなどするつもりはない。でもしかし、だからこそ、今までのサラさんとの生活で、駅から店に着くまでの間、列に並んでいる間、そのくらいは、せめてサラさんと時間を共有したいと思った。
それは@mainichijiroへの憧れなのか、それともサラさんという人物への何がしかの感情なのかはわからない。けれど、少しでも多くの時間を共有して、少しでも彼女のことを知りたいと願うのは、これはどういう感情なのだろうか。
とにもかくにも俺はその時、どうにかしてサラさんと一緒にラーメン二郎に行きたくて、衝動的に言い放っていた。
「そこまでして完飲したいなら、俺が隣で止めますから、二郎に行くときは声をかけてくださいよ」
以前に断られたこともあるが、今回はサラさんの健康を預かって長く、信頼もそれなりにあるであろうし、いい返事がもらえるだろうと、それなりの勝算はあった。しかし、サラさんはやはりいい顔をしなかった。
「…………いや、やはりそれは遠慮してはもらえないか」
そして返ってきたのは、あの時と同じ拒絶の言葉。
「すまないな。これは完全に私の我儘というか、プライドの問題なんだ。許してはもらえないだろうか」
「は、はい……」
「ありがとう。うん、これからは完飲はしないと誓うよ」
そう言ってふっ、と目を背けるサラさんの戸惑ったような、もの悲しそうなその顔を俺は直視することができず、俺はその日、サラさんと話すことができなかった。
卍卍卍
mainichijiro @mainichijiro 20××年7月25日
平成○○年7月25日 ラーメン二郎 関外店 小ぶた+ネギ+味付け卵+ニンニク
麺、汁気と塩気がしみ込んだザクザク麺ウマスギィ!
汁、ネギの香りの溶けた甘塩汁。
ブタ、フワトロ柔らかで最高なぶた。
完食。
それ以降、俺は何となく話題に出しづらくて、一緒に二郎に行こうと誘うことは無かった。忠告が利いたのか、ツイッターを見ている限りでは完飲はしなくなったようだが、それでも週に一度は二郎に通っているようだった。
ネット上でも、ほぼ毎日、それも完飲スタイルだったmainichijiroがそのスタイルと決別したことが大いに話題になっていた。体調を崩したとか、さすがに飽きたのだろうとか、ニンニクまみれで家族に嫌われるから抑えているのだろうとか色々憶測が飛び交っていたが、ひとまずサラさんは健康だ。
そんなサラさん、仕事から帰ってきて風呂に入り、さっそく体重計に乗っている。―――バスタオルを巻いただけの格好でウロウロするのは劣情を催すのでやめてほしいのだが。
「……サラさん」
「おっと、これは失敬」
そう言いつつも、サラさんの目線は俺ではなく体重計のメーターに釘付けだ。
「うーむ」
「どうしたんですか?」
サラさんが体重計上で、バスタオル一枚で唸っている。
「徐々にだが、本当に徐々にだが体重は減ってはいるんだ」
「はぁ」
「君の活躍を疑うわけでは決してない。現に体重は減っているし、野菜中心の生活にしてから、仕事の後に疲れが出ることが少なくなったしな」
二郎という脂質や塩分の極端に多い食べ物をを食べることを前提にして食事を作っているために、どうしても野菜や魚中心のメニューになりがちで、そうした副産物的な効果もあるのだろうか。
ラーメン二郎を定期的に食べているという時点で、徐々にしか体重が落ちないことは織り込み済みだと思ったが、何か問題があるのだろうか。
「実は、実家に帰ってこいと手紙が来てね」
「実家というと、アルフヘイムの?」
「そうだ。何でもお見合いしろということらしいが」
お見合い。――――お見合いィ!? お、お見合いということは、つまり――
「け、結婚されるんですか?」
俺としてはかなり踏み込んだ質問だったが、当のサラさんはあっけらかんと答えてくれた。
「まさかまさか。私は今の仕事、今の生活が気に入っているし、当分向こうに帰る気はない。だから、エルフとは結婚できないだろうな」
「そ、そうですか……」
思わず安堵の声を上げる俺に、サラさんは不思議そうな顔をしていた。
「よくわからないが、まあでも、お見合い自体は父と母のメンツの問題で、受けたほうがいいという事情があってね。ずいぶんと実家に帰っていないから、両親にも会っておきたいし」
「なるほど、だから……」
「そういうことだ。この体重では、まだゲートを通り抜けることはできないし、かといってお見合いの日取りは決まってしまっているようだし」
サラさんは下を向いて、お腹をさするような仕種をする。大きな胸が邪魔をして、下を向いてもお腹は見えないだろう、とかデリカシーのないことを言いかけたが口をつぐんだ。
「それまでに、何とか体重を落とさなくてはね」
サラさんが深刻そうな表情で、しかし何かを決心したような、そんな硬い表情で静かに口を開く。
「仕方ない」
一瞬の間。
「……ラーメン二郎を食べるのをやめる」
「えっ!?」
「君は言っただろう? 痩せたいのならば二郎を定期的に食べるのは控えたほうがいいと」
「ま、まあ、言いましたけど」
「この際だ、止めてしまってもいいだろう」
ラーメン二郎という食べ物の依存性を身をもって知っている俺は、痩せたいと思っていても、ラーメン二郎を食べることそのものはやめないだろうと思っていた。そのために、二郎で不足しがちな魚や緑黄色野菜中心のメニューにすることで、二郎を食べつつも健康的でかつヘルシーな食事にするようにしていたわけだが、やはりラーメン二郎という食べ物そのもののカロリーは、如何ともしがたかった。
サラさんはさばさばした様子だが、その素っ気なさがサラさんの心の余裕のなさを表しているのではと、不安になる。
「おっと、このままでは風邪を引く」
体重計からやっと降り、自室へと歩いていく。その背中はいつもと変わらないが、少しさびしそうな気がした。
それからしばらくして、寝間着に着替えたサラさんがやってきて、ソファに腰かける。
心中察するに余りある状況で、俺が二人分のコーヒーを持って隣に腰かけると、ぽつぽつと話し始めた。
「ツイッターも、最初はただの備忘録だったのだが、徐々に注目されてな。あの独特な口調も、エルフをカモフラージュするものだったんだが、それも注目度を増すものだとは、最初は考えもしなかったな」
思い出を懐かしむように、サラさんが独白する。ツイッターとは@mainichijiroのことだろう。
「それからも、ただ食べたラーメンを報告するだけに徹して、コミュニケーションを取らなかったのは、私がエルフだからかもしれないな」
エルフは元来長命だが、それは同時に種としての個体数が少ないことを意味する。よってアルフヘイムでは大規模農業や漁業が発展せず、未だに庶民の生活は家族単位での自給自足が基本であるし、他の世界の文化が流入してもなお、自分たちから好んで清貧な生活を好むような傾向がある。
次第にアカウントが有名になって知られるようになったとはいえ、当初は本当に食べたラーメンを記録するだけだったのだろう。それが徐々に浸透して、俺のようなサラさんに追随して二郎を巡る存在が出てきたということか。
「二郎は文化だ。二郎は伝統だ。二郎は宗教だ。二郎はコミュニケーションだ。そんな人のつながりに私が強く存在できるということが、たまらなく嬉しかったのだ」
家族単位で生活するアルフヘイムでは、このような文化のムーブメントは起こりづらい。そんなムーブメントの中心にいることが、サラさんにとっては新鮮で、たまらなく刺激的な瞬間だったのだろう。
もちろんラーメン二郎という食べ物そのものの美味しさも、彼女の中で大変なカルチャーショックであったことだろう。そしてそれに加えて、
サラさんが呟くように言う。
「慶吾君にも、申し訳ないなとは思っていたんだ。私の我儘で、ダイエットしているにもかかわらず二郎などという高カロリーの食事を摂っていて、その分のしわ寄せは慶吾君の料理に行っているのだろう?」
「いえですから、家賃と食費を払っていただいているだけでも苦労分なんてお釣りが来るくらいでして……」
「それは当然だ。当然だが、そもそも、この環境に甘えてしまうことも拙いのかもしれないな……」
サラさんが矢継ぎ早に続ける。俺は二の句が継げなくなってしまう。
「慶吾君、君には何の落ち度もない。全く君の過失ではない。すべて私が悪いんだ」
「な、何を……」
「今まで一緒に暮らしてきたが、そうすると慶吾君に甘えてしまう。それはエルフの本能として、やはり許しがたいものがあるんだ」
サラさんの、いやエルフの気高さは、時として暴力にもなりえるということを今俺は、思い知った。
「慶吾君、今までさんざん苦労を掛けてきた身で何を言うと思われるかもしれないが、ゲートを通れるくらいに体重が落ちたら、ルームシェアを解消してはくれまいか」
予想していた最悪の言葉が、現実のものとなってしまった。
「実は、私が勤めている会社がアルフヘイムに支店を持ちたいらしくて、来年度からそこに転勤になる予定なんだ。だから、地球での仕事もあと半年ほどということになる」
サラさんが何か言っている。しかし、俺には何も返すことができなかった。
―――しかし、サラさんの想いは受け取った。
「……分かりました」
「……ありがとう。この部屋は来年分までまとめて払ってしまってある。少なくとも来年までは住み続けられるから、その点は安心してくれ。君の働きからすると少ないが、礼のつもりだ」
俺の働きをサラさんは認めてくれている。そのことが何より嬉しかった。憧れの人と出会い、その役に立ち、そして感謝される。それ以外の何が必要なのだろうか。
サラさんとは所詮他人だ。その中で少しだけ、人生と人生が交差したに過ぎない。何より、俺の個人的な想いで、サラさんの人生に迷惑をかけたくなかった。
しばしの沈黙がこの場を支配する。サラさんが少しだけためらった後、静かに口を開いた。
「……最後にもう一度、二郎に行きたいな。最後の晩餐というやつか」
そんなことを、サラさんは呟いた。
そんな時に俺は、最後の、@mainichijiroの最後のラーメン二郎を食べる様をどうしても見たくなった。あの畑田本店での出会い以来見ていないその姿を、あの時は気が動転してサラさんのこと以外に覚えていない、サラさんのラーメンを食べる姿を、どうしても見たくなった。
俺は衝動的に叫んでいた。
「あ、あの!」
俺の大声にサラさんがびっくりした顔でこちらを向く。俺は構わず尚も続ける。
「俺も、一緒に行ってもいいでしょうか?!」
「……ああ、そうだな。うん、構わない」
その時のサラさんの、少し影のかかったような、しかし大きな決意を秘めた微笑は、私の生きざまをとくと見ろと、俺に直に語りかけているようだった。
知る限り、俺以外にサラさんが@mainichijiroであることは誰も知らない。俺だけがその生きざま、@mainichijiroのラーメンを食べる様を、@mainichijiroだと認識して見られるのだ。そのチャンスを、是非モノにしたかった。
「その、並ぶ列を、少しずらしてもらってもいいですか?」
俺の奇妙な願いに少し面食らったようなサラさんだったが、その意図を察してくれたのか、「いいとも」と返事があった。
卍卍卍
その日の夜、俺とサラさんの姿は七王子猿山街道店にあった。ここは数ある二郎の中でも人気の店で、ウズラの卵の提供があることが特徴の店だ。
俺の並ぶ少し前に、サラさんが並んでいる。女性で尚且つエルフということで、周囲の注目を大変に浴びている。
俺はサラさんの食べる様子をこの目に焼き付けておきたかったのだ。最初に畑田本店でサラさんと出会った時にもやらかしてしまったことだが、二郎というのは目の前のラーメンに集中して食べるものだ。ということは、一緒に食べようとすると、自分のラーメンに集中しなければならず、サラさんの食べている様子は確認できない。
俺はサラさんの食べる姿を、あの畑田本店以来見たことがなかったのだ。一緒に食べるという連帯感よりも、俺はサラさんが、@mainichijiroが最後にラーメン二郎を食べる姿を、余すところなく見ておきたかった。
やがて、サラさんの番が来た。サラさんは食券を買い、それをカウンターの上に乗せると、自らも静かに椅子に座った。俺も同時に店内に入り、サラさんの斜め後ろに陣取った。並ぶ列を後ろにずらしてもらったのもそのためだ。サラさんは俺の凝視する視線も気にすることは無く、超然と座っている。
サラさんの振る舞いは非常にすっきりとしていて、その落ち着き様と言ったらない。私が@mainichijiroだ、見ていてくれ、という意識が背中からも大変に伝わってくる。
そうこうしているうちに、店員さんがサラさんの前に来た。
「女性の方、ニンニク入れますか?」
「ニンニク、アブラで」
「かしこまりました!」
最後のラーメンはニンニク、アブラの小のウズラダブルだ。ウズラダブルは、通常三個入りのウズラを六個入れるという、卵が好物なサラさんらしい、またお店の特色にも合った、最後の晩餐にふさわしいチョイスだ。
コールを聞かれたらもうすぐにラーメンが提供される合図だ。店側の準備は既にできている。
「はい、小ウズラダブルのお客様、お待たせしました!」
その威勢のいい声と同時に、サラさんの眼前にラーメンが提供される。同時にサラさんの箸が割られ、レンゲと箸が丼の底に到達し、そして麺とヤサイがひっくり返った。鮮やかな天地返しだ。
「……ズルルッ」
天地返しの成功に一喜一憂などするはずもなく、すぐに麺に向かっていく。外国の人で麺を啜れる人は少ないと聞いたことがあるが、サラさんはそんなことは微塵も感じさせない。
猿山街道店は、ただでさえチャーシューの盛りが多い二郎グループの店の中でも、さらに輪をかけてチャーシューの量が多い店だ。そんな店であるから、他の店よりもスープの肉々しさが半端ではなく、さらにカエシの量も多めだ。その基本のスープに更に背脂を増量しているものだから、かなりガテン系のラーメンに仕上がっているだろう。
そんなことはお構いなしに、というかそれを美味なるものとして、誰かと競争しているかのように、麺をかき込む、ヤサイをかき込む、チャーシューをかき込むッ!!
サラさんお気に入りのウズラも食べる。乳化したスープによく浸って、見るからに美味しそうだ。麺は平打ちの極太縮れ麺で、かなり濃い豚骨醤油スープによくマッチしているだろう。小ラーメンと言いつつも普通のラーメン屋の大盛り分くらい麺の量があることは、ここも同じだ。
俺が凝視している中でも、サラさんは麺をすする、ヤサイをかき込む、チャーシューを齧る、水を飲む。サラさんの一挙手一投足を目に焼き付けた。
そうこうしているうちにもう食べきってしまった。最後の晩餐にも関わらず、噛みしめるでもなく、味わうわけでもなく、ただただそこにいたのは、@mainichijiroその人だった。
サラさんはチラリと俺の方を振り返り、少しだけふっ、と微笑した。その後、丼ぶりを持ち上げて、スープを飲み干しにかかる。
「……っ……っ……はぁ……」
完飲は禁止ですなんて、野暮なことは言わない。そのしょっぱくて濃厚なスープ飲み干す喉の動きすらも見逃さない。彼女の全てを俺は、見届けた。
「ごちそうさま」
そう言ってサラさんはカウンターの上に丼を置き、布巾でテーブルを置いた後、静かに席を立った。
あわてた様子もない、見事な最後の晩餐だった。
mainichijiro @mainichijiro 20××年11月10日
平成○○年11月10日 ラーメン二郎 七王子猿山街道店 小+ウズラダブル+ニンニク
麺、柔らか目で俺好みのぷるぷる麺最高ッ!
汁、アブラたんまりの乳化汁がたまんねえッ!
ブタ、口の中でホロリと崩れる神の豚。
完飲。
mainichijiro @mainichijiro 20××年11月12日
アクシデント発生の為、二郎巡りが困難な状況となりました。
このお報せを以って更新を終了します。
ありがとうございました。
Fin
卍卍卍
ある日の夕暮れのこと、あれから、俺とサラさんは普通に暮らしていた。そりゃあお別れだなんて寂しいが、それでももう決まっていることだ。悲しみにくれたまま残りの日々を過ごすのは、俺も本意ではないし、サラさんも同じ気持ちだと思う。
俺は今日の夕飯は何にしようかと考えていた矢先、玄関を開ける音がした。サラさんが早帰りだということは聞いていたので驚きはしないが、その後にリビングのドアを勢いよく開け放って叫んだのには驚いた。
「よし! 今日は二郎に行く日だ!」
「あれ、二郎は控えるんじゃなかったでしたっけ?」
「……そ、そうだった……」
サラさんはラーメン二郎のことになると知能が幼稚園児並みになるが、それはラーメン二郎絶ちをしてからも変わらないようだった。
顔を赤らめて恥ずかしがっているその姿がおかしくて、ふとそんなサラさんに食べてもらいたい料理が浮かんだ。
「じゃあ何か、二郎『ぽい』ものでも作りましょうか」
「ほ、本当かい?」
「まああくまで『ぽい』ものですから、期待しないで下さいよ」
俺はキッチンに立つと、早速冷蔵庫から食材を出してくる。昼飯が軽かったのかサラさんも乗り気だったので、夕食には少し早い気もしたが夕食の準備に取り掛かることにする。
使うのは豚バラ肉と、ネギに、油揚げ、それにかまぼこにほうれん草、その他余っている野菜をとにかくぶち込む。それから麺つゆだ。まあこれだけで分かるかもしれないが、切ったネギとさっと茹でたほうれん草が準備できたら、めんつゆと水を合わせたベースのスープを鍋に注ぎうどんを二人分には少し多めにぶち込んでいく。
みりんや酒、塩コショウで味を調えたらしばらく放置。その間にかまぼこやほうれん草を一口大に切っておく。スープが一煮立ちしたら、豚ばら肉も含めた具を更にぶち込んで更に放置。調理としては簡単だ。
しばらく煮込んで、というか放置したらもう完成する。
「できましたよー」
「こ、これは……?」
「見てのとおり、うどんです。野菜たっぷりで体にいいですよ」
一般的な鍋焼きうどんに、ネギや玉ねぎ、刻みニンジンやもやし、それにほうれん草も入った、かなり野菜たっぷりで栄養満点な鍋焼きうどんだ。更に二郎を意識して、作り置きしてある煮卵も入れている。
加えて、サラさんが麺を一かたまり引き上げて言う。
「太いな」
そう、麺の太さは一般的なうどんに比べてものすごく太い。例えるなら、セロテープくらいの太さだ。
「俺の田舎は埼玉の山の中で、うどんと言えばこれなんです。お腹にもたまりやすいですから、あまり量は食べられないので、その辺も中華めんより都合がいいですね」
「なるほどな」
「本当なら、麺はぐでぐでになるまで煮るんですが、二郎を意識して固めに仕上げてます」
「うむ、うまそうだ」
二人そろって「いただきます」を言った後、サラさんがズズッとすすってから、悲しそうに一言。
「わかっていて聞くが、アブラとブタは……」
「それは我慢してください」
「やはりか……」
「まあ、代わりと言ってはなんですが、にんにくはたっぷり入れましたから」
にんにくは滋養強壮に大変いい食材で、チューブのにんにくをこれでもかと入れてある。口臭は大変なことになるが、もう家を出ないから構わないだろう。
「お肉も、豚ばら肉で勘弁してください」
「……そうか。いや、文句のようなことを言ってすまなかったな」
「いえいえ」
サラさんはそう言うと、太いふどんをずるずると啜りながら、野菜もすごい勢いで食べている。その勢いは二郎で食べていた時と遜色ないくらいにガツガツと食べている。どうやら好評らしい。
「うん、うまい」
「ありがとうございます」
サラさんは煮卵にはふはふしながら食べている。よく染みた煮卵と、麺つゆベースにみりんや酒で味を調えたスープがよく調和する。麺も煮込んだ野菜の味がしみ込んだダシが、麺によくからむ。煮込んだ豚ばら肉も素晴らしい。
二郎を意識したとは到底言えないが、これはこれで美味しい料理だ。俺もサラさんも、夢中で麺を啜り、野菜をかき込み、にんにくたっぷりのスープをレンゲで掬う。
「おかわりはあるかい?」
サラさんが俺の顔色を窺うように言う。
ダイエットをするからという目的でこの料理にしたはずだが、おかわりしたら何の意味もない。そんなことは分かっている。でも、料理を作った者として、おいしいおいしいと作った食事を食べてくれ、更におかわりまで要求されたら、これは嬉しくて断れないだろう。
「ありますよ」
思わず言ってしまった。しかしまあ、今日はいいか。―――ありますよ、と言った時のサラさんの表情を見たら、そんな野暮なことは一瞬で吹き飛んでしまった。
そして、そんな生活ももう少しのことと思うと、顔には出さないが寂しい気持ちになるのだった。
卍卍卍
「…………」
もう皆が寝静まり、夜行性の虫の声しか聞こえなくなった、日付は変わって土曜日の午前二時。俺はトイレに行きたくなり、自室からいそいそと外に出た。
サラさんも寝ている時間だろうが、今日は仕事が長引きそうなので帰るのが遅くなると連絡があり、俺はレンジでチンすれば食べられるようなもの、おにぎりとわかめのスープ、それにかぼちゃの煮物を作り置きしてテーブルの上に置いておいた。それらをちゃんと食べてくれたかが気になったので、居間に寄り道してみることにした。
するとどうだ。
「すぅ……すぅ……」
「…………」
サラさんがソファで寝ていた。可愛らしい寝息を立てて。
何かしらの衝動に突き動かされそうにならないわけではなかったが、それよりも毛布も掛けないで寝ているサラさんが心配ですぐに駆け寄る。
ソファの前にあるテーブルには、俺が用意した食べ物を食べたであろう痕跡、綺麗になっている皿やスープのお椀などは無く、どうやら自分で洗って片づけたようだった。問題はそれではなく、煎餅や柿の種などのつまみの袋と、ビールやチューハイの缶がいち、に、さん、よん、ご……五本も空になっている。
二郎だけではなく、この世界の食文化全般が気に入っているサラさんは、こうして晩酌などもよくするのだが、うわばみで尚且つ翌日に残りやすいというあまりよろしくない体質のため、晩酌をするのは決まって金曜や土曜だった。いつもは俺もそれに付き合ってビールなどを飲み、そこで飲みすぎないように注意したりもするのだが、今日は先に寝てしまったためにリミッターが外れてしまったようだった。
にしても終電で帰ってきたとして、着替えてはいるようだからシャワーを浴びて、それからご飯を食べたにも関わらず子の量とは、どれだけペースが速かったんだ。
テーブルの上の空き缶などを片づけながら、ふとサラさんの寝顔が目に入る。お酒がまだ残っているのか、頬の少し赤らんだ様子が何とも色っぽくて、俺の新造が跳ねあがる。
もっと表情が窺いたくて、もう少しだけ近づいてみる。サラさんは起きない。もう少しだけなら。起きない。もう少し―――
「うぅん……」
サラさんの寝ぼけたような声が聞こえ、あわてて俺は飛びのいた。お、起こしてしまったか?
「…………麺の量は…………」
―――ん? 麺の量?
「……ウズラ、大で」
「大かい……」
起こしてしまったかなと思ったのは俺の気のせいで、どうやら夢の中でラーメン二郎に行っているようだった。
ちなみに麺の量を聞いてくるということは、食券で大か小か決めているわけではなく、基本のラーメンしかメニューになくて、麺の増量がサービスなので予め店側に申告しておく店舗に行っているようだった。このスタイルの店舗はそう多くないのも含めて、なんというマニアックなチョイス……。
「……アブラマシマシ、カラメ、ヤサイチョモランマ……」
「……チョモランマは関外店で、関外店はウズラやってないですよ」
冷静に突っ込んでしまうほどには馬鹿らしい彼女の寝言、隙だらけのその姿に困った笑みを浮かべながらも、内心では気が咎めていた。
いくら彼女が望んだこととはいえ、生きがいでもあるとまで語ったそれを取り上げても、俺はいいのだろうか。俺が憧れた@mainichijiroは確かに彼女で、そして彼女は確かに@mainichijiroだった。
俺はサラさんの悲しい顔は見たくない。苦しんでいる顔は見たくない。だからといってラーメン二郎に行ってもいいのではないかと提案しても、アルフヘイムで待つ両親のことが頭に浮かんでしまうだろう。状況は八方ふさがりで、このまま二郎絶ちを続けていくほかに道はなかった。
「サラさん、俺、またサラさんのラーメンをすする姿が見たいよ……」
俺はサラさんを見ていられなくなり、目を背けて思わず口に出た言葉は、俺の偽らざる気持ちだった。あの時俺が見たサラさんの姿はまだ瞼に焼き付いている。俺の理想とするジロリアンの姿が、まさにそこにあったのだ。そして、それがもう見られないと思うと、このまま続けてもいいのだろうかという衝動に駆られるのも確かだ。
しかし、道は他にないのだ。
「……ラーメン……」
「!」
サラさんの声が背中から聞こえた。やはり、ラーメンを食べる道を選―――
「…………ウンメェ~……すぅ……すぅ……」
俺はラーメン二郎のことになると知能が小学生以下になるのを忘れていた。そしてそれは、寝ているときでも変わらないことが、今判明した。
「……寝よう」
散々振り回されて疲れたので、俺はもうそれ以上考えることをやめた。俺はサラさんに毛布を掛けて、さっさと部屋に引っ込むことにした。
考えることをやめていたので、俺が部屋に入る直前にサラさんの寝るソファから何か物音がしたような気がしたが、たぶん気のせいだろう。
卍卍卍
「やった! やったぞ!」
俺が夕食後の皿洗いをしていると、シャワーを浴びているはずのサラさんの大声がドア越しに聞こえた。
俺は何かあったのかと思いお風呂のドアの前まで来ると、そのドアが勢いよく開かれ、その勢いのままにサラさんが俺の胸に飛び込んできた。同時にサラさんが俺を抱きしめる。そして、サラさんの豊満な、む、胸が……!
「どどど、どうしたんです? ……ってちょっと!」
「体重が、体重が、規定を下回ったあああああ!!」
いやいや、俺にとってはそれどころではない。サラさんは風呂上がりだ。バスタオルを巻きつけて体重計に乗ったのだろうが、バスタオルは手で持っていなければずり落ちてしまう。そしてサラさんの手はどこにある。俺を抱きしめているということは、俺の背中に回っている。ということはどうだ。その豊満な胸はどうだ。直だ。見てはいけない、突起が―――
「ふ、服! はだけてますって!」
「おっと、これは失敬」
サラさんはくるりと身をひるがえすと、すっ、と床に落ちていたバスタオルを拾って身に着け、俺に再び向き直る。その際に魅力的なそのお尻も、少しだけ堪能した。
「なんとお礼を言っていいのやら」
「俺は俺で、家賃と食費を出してもらっているというだけで、ありがたい限りなので、それには及びませんよ」
「いやいや、君が私のために料理を勉強してくれていたのは知っている。前にも言ったが、いい仕事をした者にはそれなりの報酬があるべきだ」
「本当にいいですって。一人暮らしじゃなくなって、毎日楽しかったですから」
俺にとってはそれが本心だが、サラさんにはそれが気に食わなかったらしい。
「いや、それでは気が済まない。私にできることなら、なんでも叶えてやるぞ」
俺はその質問に対して、少し考えてしまった。彼女が俺と半ば同棲状態になっていたのは、エルフの里、アルフヘイムに戻るために、体重を落とすためだ。
そして体重がアルフヘイムに行けるだけのものとなった今、ラーメン二郎に行くことを自ら絶った今、彼女と俺を結ぶものは何一つない。
なんでも叶えてやる、その言葉は俺にとってとんでもなく重い。「俺とこれからも暮らしてください」と頼んだとしても、彼女は困るだけだろう。
「じゃあ」
俺はそれだけ言って言いよどんでしまう。行かないでください、そう素直に言えたらどれだけ楽だろう。
でも、俺は少しだけ考え、一つだけお願いをすることにした。
「向こうに旅立つ日、お見送りに行かないのを許してください」
サラさんの表情には疑問の色がありありと浮かんでいる。当然だ。
「……それはどういうことか、聴いてもいいかな?」
サラさんが俺に聞く。
「俺、悲しくなっちゃうので、サラさんに見せたくないので」
「…………そうか」
「サラさんは、笑って送り出したいので」
「……そうか、すまないな」
サラさんは黙って俺を抱きしめてくれた。バスタオルだなんだというのは、もう俺には分からなかった。
俺が泣いているか泣いていないかなんて、これなら分からないだろう。なので、しばらくされるがままになっていた。
卍卍卍
サラさんがこの家を開けてからだいぶ経つ。幸いにして、本人曰く「それなりに稼いでいる」サラさんが、一年分をまとめて払ってしまったので、俺はまだこの分不相応ともいえる2LDKに住み続けていられるわけだが、2LDKの部屋に一人で住んでいるというのも寂しいものだ。
サラさんは「行ってきます」の一言と共に、俺の目の前から去って行った。俺も「行ってらっしゃい」の一言で見送った。俺は泣いていないつもりだったが、サラさんの目にはどう映っていただろう。当然だが、送り出した後はわんわん泣いた。
あれからというもの、ラーメン二郎にはめっきり行かなくなった。あの頃の熱意はもはや無いと言っていい。熱意の問題もあるが、あの時サラさんと一緒に入った二郎の感覚を忘れたくなくて、足が遠のいているとも感じる。自分にこんなセンチメンタルな感情になるのかと驚きもしている。
ふと、あのときの畑田本店を思い出す。いつもの小汚い店内。油の染みついたテーブル。提供されるラーメンのビジュアルは盛りの適当な山盛りヤサイがドカンと乗る、いつものスタイル。しかしそこには、確かにサラさんがいたのだ。
ラーメン二郎は確かに好きだ。好きだが、そこにサラさんが、@mainichijiroの存在しないと分かっているラーメン二郎など魅力半減だ。―――半減しても、魅力的は魅力的だが。
「……久々に二郎行くかな」
いつまでもセンチメンタルな気分に浸っていても仕方がない。支度をして、久々にどこかの二郎に行こうかとスマホを起動してツイッターを見る。そして、@mainichijiroを表示して過去の記録から美味しそうなところを―――
停止していたはずの@mainichijiroに更新がある……! 俺は空腹であることも忘れて、夢中でスクロールしていた。
mainichijiro @mainichijiro 20××年2月23日
平成○○年2月23日 ラーメン二郎 兎戸店 小+生たまご+ニンニク
麺、汁を吸った神のクニュ麺がウンメ~ッ!
汁、甘ウマ汁に卵を入れたら、これもう最高でしょ
ブタ、柔らかホロホロの大ぶりブタがヤバい!
完飲。
mainichijiro @mainichijiro 20××年2月22日
平成○○年2月22日 ラーメン二郎 茨城攻谷駅前店 小+ウズラ+生たまご+ニンニク
麺、味染みた麺最高ッ! 夢中で貪り食う。
汁、コクある汁は神の生き。卵と絡んで恍惚テイストッ!
ブタ、端ブタ有りッ! ウンメ~!
完飲。
mainichijiro @mainichijiro 20××年2月21日
平成○○年2月21日 ラーメン二郎 かぶき町店 普通盛+煮たまご+ヤサイ+ニンニク
麺、つるっとしたのど越しの麺は、よく味の染みたもの。
汁、ヤサイとマッチした、焦げみの感じるもの。
ブタ、少しのパサも、汁に浸しておく。
完飲。
mainichijiro @mainichijiro 20××年2月20日
平成○○年2月20日 ラーメン二郎 はつかりヶ丘店 小+生たまご+ニンニク
麺、柔らかプニュ麺、俺好みのもの。
汁、メッチャ濃厚トロットロなはつかり汁ウンメ~ッ!
ブタ、甘~い脂身に夢中で齧りつく。最高ッ!
完飲。
夢中でツイッターの画面をスクロールするうち、ピンポーン、という家のチャイムが、俺の耳に飛び込んできた。
あわてて受話器を取ると、その声は―――
「……け、慶吾くん、あの、実は、お願いがあって来たのだけれども……」
聴き慣れたあの、ニンニクに浸りきったとは思えない透き通った声。サラさんだ。
俺は返事することも忘れて、玄関に飛んでいき、蝶番が外れるのではないかと思うほどの勢いでドアを開けた。
「さ、サラさん……」
「や、やあ。慶吾くん……」
久々にみたサラさんは、最後に分かれた時と同じ―――いや、違う。
「実は、お見合いを済ませた後、どうしても二郎が食べたくなってしまって……」
そう言ってお腹をさするサラさん。見やると、最初にゲートで出会った時と同じくらい、ぽっこりと膨らんでいた。これは、間違いない。リバウンドだ。
二郎はやはり依存性が高い。一旦体を抜けきったかと思っていたのに、またあのニンニクが、アブラが、デロデロ麺が、頭の中に浮かんで離れない。しばらくはツイッターの更新がなかったから、いったんはアルフヘイムまで行ったものの、その後に我慢が出来なくなってしまったのだろう。
「いや、失礼を承知で、これまで何をやっていたのかと言われればその通りで、叱責されるのも覚悟の上で、その、なんというか……」
サラさんはかなり恐縮した様子だ。俺がカロリーに気を使った食事を作る労力のことを考えると、リバウンドしてしまったことで立つ瀬がないのだろう。
そして、そんなサラさんのお願いというのも、容易に予想がつく。
俺はお願いの内容も聞かずに答えていた。
「いいですよ」
「!」
「全然迷惑じゃ、ないですから」
「慶吾くん……」
「今度は無理なく、週一でラーメンに行きましょうね」
サラさんは申し訳なく思っているようだが、そんなことはどうだっていいのだ。俺はサラさんと暮らせればそれでいい。俺の心の秘めたるものも、そのうちに何とかなるだろう。
「今日はどこのラーメン二郎に行きましょう?」
卍卍卍
その日の夜、俺とサラさんの姿はラーメン二郎畑田本店にあった
「おまちどう」
あの時はこれで最後だと思ったから後ろの列で見ていたが、今日はそんなことは関係ない。
男として、何より一人のジロリアンとして、食べっぷりで負けるわけにはいかない。たとえ相手があの@mainichijiroであってもだ。
「よっ」
「せっ」
丼の到着と同時に天地返しをして、麺から啜り始める。と、そこで、隣に座るサラさんから視線を感じた。
「ふふっ」
「ははっ」
二人で笑いあうと、そこからは一切目を合わせず、しかしお互いの存在を確かめあうように、俺たち二人は食べ進めた。
mainichijiro @mainichijiro 20××年2月26日
平成○○年2月26日 ラーメン二郎 畑田本店 ブタ入り大+ニンニク+アブラ
麺、デロデロ柔らか麺に汁がしみ込んでウッメェェェ!
汁、醤油ばっちり、アブラもばっちり、これは神の汁ッ!
ブタ、ウマ味と醤油がしみ込んだホロッホロの豚。神域ィ!
完飲。
ニンニク入れますか? ゲートは通れなくなりますが すぎ @kafunsugi
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