ニオイウツリ
すぎ
ニオイウツリ
季節は夏。学校の夏期講習から半ば逃げ出すように帰ってきた俺。汗だくになったワイシャツ。足に張り付いたズボン。尻に食い込むトランクス。
こんな汗まみれで体にへばり付いた服を着ていてもただ気持ちが悪いだけだ。俺は着ていた服をを素早く脱いで洗濯機に全てをぶち込んで、シャワーの蛇口を思い切り捻る。少し温めのお湯が火照った体をちょうど良い具合に冷やしていく。
気持ちよく汗を流していると、ドタドタと階段を勢いよく駆け下りてくる音がした。
「ちょっとお兄ちゃん! 今日は洗濯カゴの方に入れてって言ったでしょっ?!」
曇りガラスの向こう側で、我が妹が主婦じみた金切り声を上げる。
我が妹、名前を夏紀という。兄の贔屓目を除いても可愛い部類に入ると思うのだが、如何せん色気があるとは到底言えず、更に胸も小さい。しかし、それが彼女の魅力であり、モテる所以なのだ。夏紀が好んで結っているツインテールも、それを存分に引き立てているように思う。
閑話休題。不出来な兄とは違いモテまくる妹だが、性格がすこぶる悪く、それも身内にだけというのだからタチが悪い。見かけは天使だが中身は悪魔の典型例である。例えばこんな風に。
「なんであたしがお兄ちゃんの汗まみれの服なんか触らなきゃなんないのよぉ……。ああバッチイバッチイ」
そんな妹の発する声音から、まるで腫れ物に触るかのように俺の服を扱う妹の姿が容易に想像できた。事実、曇りガラス越しに見える妹の姿は、一見大切に抱え込んでいるようにも見えるが、あれはただ俺の服に肌で直接触れたくないだけだろう。今日のあいつの服は確か長袖だったはずだ。
確かに俺は汗かきさ。それも一緒に洗濯したら臭いが移ってしまうのではないかと思うほどだ。自分でも度を越えてるって事は自覚してる。でもさ、そこまですることはないんじゃないか? 少し前までお兄ちゃんお兄ちゃんと、俺の後ろをついて回っていたあの頃の妹が懐かしいよ。
風呂から上がり、予め用意しておいた短パンとTシャツに着替え、俺は階段を駆け上がっていく。階段を上がってすぐ右側が俺の部屋で、そのまま真っ直ぐ奥へ行くと妹の部屋だ。ここでふと、俺の脳にちょっとした考えが浮かんだ。やはり、このまま罵詈雑言吐かれ続けるわけにはいかないだろう。
俺は決心した。そうだ、これは下克上だ。これから先、ずっと嘗められ続けて生きていくのは絶対に俺のプライドが許さない。今しかない。今しかないんだ。そう思うことで俺自身を鼓舞する。
すぅ、と深呼吸して妹の部屋の前に立つ。後は突入するだけ。体を前に倒すだけでいい。そうすれば――ドアが開く。
「お前は兄のことをなんだと思って……るん、だ……」
「んふぁ……」
妹の部屋に突入したその瞬間、俺は言葉を失った。
俺の目に飛び込んで来たのは、俺のワイシャツをまるで子供が「ボクは宇宙人だぞ!」とやるように頭に掛け、インナーのTシャツをマフラーのように首に巻き、そして極めつけは俺のトランクスを顔の下半分に押しつけてくんくんと臭いを嗅いでいる、そんな妹の姿だった
下半分が俺のトランクスで覆われているためよく見えないが、頬は赤く上気して完全に蕩けており、夏紀の幼い顔立ちと艶めかしいその表情がギャップとなって、彼女の妖艶な雰囲気をいっそう際だたせていた。それに加えて、目を瞑ってまるで夢でも見ているかのようなこの表情。固まらない方がおかしい。
「あれほど洗濯機に入れるなって言ったのにぃ。んっ、ぅふぅ……、でも水が入って無くて本当によかっ…………」
そこから俺と妹は、そのまま十分ほど固まっていた。
■ ■ ■
「――という話なんだが」
「なんでその話を曲がりなりにも女である私にするのか甚だ疑問だわ」
「へ? しちゃだめだった?」
「……もういい」
私、高城希美の今日の放課後の予定は、近所に住んでいる大輔の部屋で、彼に勉強を教えることだ。
サッパリした性格にショートカットに陸上部のキャプテンと来れば、大体の人が私をこう評するだろう。「男じゃなくて女にモテそうだな」と。
そんな中で、大輔との一時は良いカンフル剤となっていた。幼稚園に入る前からの付き合いだっただけに、大輔の私への認識はずっと変わらずに近所のお姉さんだ。友達は私を男としか見てくれないし、姉と言えども女としてみてくれるのが嬉しかった。
二人っきりの空間の中の、たわいもない雑談。後で思い出そうとしても思い出せないような、そんな些末な会話だったはずだ。なのに、なぜこんな話に。
配慮に欠けた大輔の言葉に、思わず私は大輔を睨み付けた。
「どうした?」
「どうしたって、お前、それを私に言わせるのか……?」
心底分からないと言ったように首を傾げる大輔。私だって女だ。それくらいのデリカシーを持って接してくれても良いじゃないか。それともやっぱり、大輔は私を女と見てないのか……?
「だってさ、あいつは俺のワイシャツに染みついた臭いを消してくれようとしてたんだろ?」
「……は?」
「消臭剤があいつの側にあったからな」
ああなんて兄思いの妹なんだ、と陶酔している大輔。ここまでか、こいつはここまでニブいヤツなのか。
いくら妹とはいえ、そこまでされたら気づくはずだ。それなのに、こいつは夏紀ちゃんの気持ちに気づかない。
いや待てよ、これはチャンスじゃないか? 気づいていないと言うことは、まだまだ私にも勝算があるはずだ。いくら鈍いと言っても、押し倒して唇を奪って――
「ちょっと大輔ー! パソコン動かないんだけどー!」
私の意識は大輔の母君の大声によって覚醒した。私は今何を考えていた。その、大輔の唇を奪おうなどと、そんなこと。
そんな私の動揺などはお構いなしで、大輔は部屋を出ようとする。こういう時は彼のニブさがありがたい。
「ったく母さんは、操作の仕方くらい自分で覚えろっての。あ、悪いな」
「あ、ああ。わ、私は気にしないでいいから、い、行ってこい」
大輔はもう一度空返事をして、部屋を出て行った。扉が完全に閉まるのを確認してから、大きな溜息を吐く。
落ち着け、私。何とかして胸の動悸を抑えようと、服の上から胸を押さえる。触れた途端に激しい振動が、服を通してでも伝わってくる。落ち着け、こういうときは……そうだ、トイレにでも行こう。
勝手知ったる大輔の家。トイレの位置も分かっている。私はドアを開けて階段の下へと――
「……っ!」
その瞬間、とてつもない寒気が私の体を通り抜けた。それは私を居殺さんと物陰から狙っている猟師のようで、階段を降りかけたその足は完全に止まってしまった。
私は一段だけ降りた階段から戻り、その冷気の発信源に思わず耳を寄せる。発信源は階段真向かいの部屋、すなわち夏紀ちゃんの部屋だ。
ドア越しに伝わってくる混沌とした雰囲気。黒魔術をやっているとしか思えない邪悪な空気。こんな空気なんて――
「お兄ちゃんいるのー?」
ガチャリ。そんな間抜けな音と共にあっさりと部屋の主が出てきた。いや、そうじゃなくて。
「あ、その、ごめん―――」
「うわっ、女狐っ!」
「男女」とか「貧乳」とかは言われたことはあるが、女狐は初めて言われる。って、そうじゃなくて!
「ちょ、ちょっと――」
「あ、ああ、お兄ちゃんが上がってくるっ! ああもうっ、ちょっと来て!」
この小さい体のどこにこんなパワーがあるというのだろうか。私はまるで重い荷物のように夏紀ちゃんの部屋に連れ込まれてしまった。
初めて見る夏紀ちゃんの部屋は普通の女の子の部屋だった。明るめの色で揃えられた家具に、ベッドの上には大きな熊のぬいぐるみ。そして乱雑に置かれた男物のワイシャツと、彼女の手に握られたトランクス―――
「トランクむがっ!?」
「こらっ! 静かにして! お兄ちゃんにバレたらどうすんのよっ!!」
「んぐっ、ど、どうして男物の服が……?」
「やっと意識してくれたと思ったのに……」
夏紀ちゃん憔悴しきった顔で、それでもなお私を威圧せんと睨み付けてくる。
「どうせ納得しないだろうから教えてあげるわよ! お兄ちゃんに密告されても困るしっ」
投げやりにそう言って、私に紺のトランクスを差し出してくる。
「これを、どうしろと?」
「嗅いでみなさい」
「か、嗅ぐ!? だってこれ、見るからに汗で湿って」
「いいから嗅いでみなさい!!」
ヤケを起こしたのかと思うほどの大声と共に、トランクスを顔に押しつけられる。思わず大きく息を吸ってしまい、それの臭いが私の鼻を通って――
「なんだ、これは……」
その香りが鼻を通り抜けた瞬間、私は身震いした。それは媚薬のごとき鋭さで、まるで舌なめずりしたかのように私の女の心を刺激する。籠もった熱気が顔に集まり、頬が熱い。脳髄からは絶えず危険信号のサイレンが大音量で流れ続ける。
これは、まずい。私の意識に反して腕が勝手に動き出す。いけない、それだけはダメだ。そう思っても、この体が勝手に――
「夏紀ー、希美姉ちゃんいる?」
目の前が真っ白になったという表現が最も正しいだろうか。
終わった。今までの友情が、全て壊れた。それに、認めたくなったけど、これが恋心ってヤツなんだろう。なんで、こんな、夢破れたときに自覚なんかするんだろ。こんな自分が嫌に――
「あ、希美姉ちゃんまで俺の服の消臭を! マジありがとう!」
私は何と言っていいか分からず、そのまま十分ほど固まっていた
翌日のこと。俺の家の前で妹に頭を下げる希美姉ちゃんの姿があった。
しぶしぶな感じの妹からは、何やら小さめの紙袋が手渡されていたようだった。少し気になった俺は聞いてみることにした。
「それ、何入ってるんだ?」
「だ、大輔?! こ、これはだな……あ、用事を思い出した! それじゃあな!」
そう言って逃げ出すかのように希美姉ちゃんは俺の前から姿を消した。何だったんだろうな。
ニオイウツリ すぎ @kafunsugi
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