ある鉄道への追憶

すぎ

ある鉄道への追憶

「あの日の夜、電灯を下げた列車が闇を裂きながら走っていたらしい。廃止セレモニーはもう前日に終えたはずなのに」

 とある著名な本に掲載された一文を引用させて頂きました。引用元の著者様からの許諾は頂いております。

 さて、私がこれからお話しさせて頂くのは、ある鉄道を一週間の間取材したとある女性の物語です。

 そのある鉄道、廃止セレモニーを終えたのにも関わらずその翌日の夜に列車が走っているのが何人もの住人によって目撃されており、地元では「まだ走りたいと、列車が無人で動いたのではないか」などという都市伝説、すなわち幽霊列車の話が残っております。

 そこで私は一つ小話を思いつきました。こんなことが事の真相であれば面白いだろうな、と思い、久々に筆を執ってみた次第です。少しでも読者の皆様に共感して頂ければ、と思います。

 時は一九六二年。ある鉄道が廃止されたのはその年の八月一日のことでした。その一週間前と少し前まで、時は遡ります。



ある鉄道への追憶



 私は急行列車に揺られ、目的地へ向かうバスの出ている駅まで来ていた。季節は夏。避暑地として著名なこの地だけあってかなり涼しい。

 改札を出て、駅前のバス停で時間を確認する。すると図ったようにバスが到着した。いくら避暑地とはいえ日差しはまぶしいので、待ち時間が少なくなったのはありがたいことだ。

 バスに乗り込み座席を確保し、メモを取り出してつらつらと書く。乗ってきた列車の風景やバスの乗り心地など事細かにメモをしていく。新人の記者にはどこが使える情報なのかが分からないため、思いついたことはすぐさまメモに書いていくのだ。

 私は末席ながらも財閥社長の令嬢として育った。戦争で兵器が売れたため豪遊三昧、とまでは行かないまでも、明日の暮らしも分からなかったような人々にとっては、私の暮らしは妬ましく思われたことだろう。戦争が終わり、普通なら中学を卒業したあとすぐに就職するのが一般の女性だが、大学へと進みたいという私の希望が叶うほどには、終戦後すぐの日本にとって私の家はそこそこに裕福な家であると言えた。

 そんな私は大学を出て、とある出版社に就職していた。いくら大卒であってもまだ入社二年目の若造である私は、主力誌からは外れて先頃創設された旅行誌のルポライター――要は外回りを多くして新人をしごいているのだ――として忙しい日々を送っている。

 主力誌から外れたとはいえ、私はこの仕事にやりがいを感じている。旅行をテーマにした本が売れるということは、日本が敗戦から立ち直ってきたことの証であると私は考えている。まだ富裕層だけとはいえ、徐々に日本は娯楽をするだけの余裕が持てるようになってきたということだ。

 そして、娯楽というのは人々に活気を与える。仕事だけをさせていたのでは国民に活気は生まれない。終戦後の日本がどのようにかつての活気を取り戻すか。それは娯楽であると、そう私は思っている。

 今回取材する対象も娯楽の極みだろう。しかし、そうした発展こそが日本を立ち直らせて行くに違いないと私は確信しているのだ。

 とりとめのないことを考えつつバスに揺られていると、もう目的地はすぐそこだ。窓から外の様子を眺めてみると、そこには何とも可愛らしい木造の駅があった。高原列車の旅の始まりだ。



 私が今回取材するのは、この先にある温泉地に出来た大きなホテルだ。資料を見る限り、鉄筋コンクリートに白い外壁と、いかにも最新の建築といった趣である。しかし、有名な系列のホテルだけに、ホテルを取材するだけならば他社も同じような企画を練って出してくるだろう。これではまだ零細である我が誌の売れ行きは危ない。

 未熟な私なりにどのようにして他社との差異化をするかを考えてみた。私は、ホテルはどこまで行ってもホテルなのだから、他に目を向けてみようと考え、ホテルまでに向かう道のりを楽しもう、ということで企画書を出し、晴れて取材中である。

 愛機であるニコンFを首から提げ、バスを降りた私はとある場所へ向かう。バス停から目と鼻の先にあるにある高原列車の出発駅だ。この高原列車は麓の駅から山の中腹にある温泉地までをゆったりと結ぶ鉄道で、聞いた話では車窓からの風景が壮大であるらしい。

 今回のキモはこの高原列車であり、私自身も話を聞いたときからどんなものだろうと楽しみにしていたものだ。私はワクワクしながら駅に入った。

「これ、動くの?」

 切符を買って改札をくぐって最初に漏らした言葉がこれだ。編成は客車が一両とその後ろにバケットカーの貨車が一両。そしてその前に、オモチャの世界からそのまま抜け出してきたような機関車が連結されていた。

 普通、機関車と言えば、箱形で、両端にデッキが付いていて、いかにも無骨で力強そうな印象を与えるものだ。しかしこの機関車は、アルファベットのLに車輪をただくっつけただけのような奇妙な形をしており、それでいて車体は小さく、とてもでないが高原の峠を越えられそうもない。

 私がその見慣れない形に首を傾げていると、制服を着込んだ、もう定年ではないのかと思うほどの老人がこちらに向かってくる。

「お嬢ちゃんは初めてかい? まあ、乗ってみりゃ分かるよ。ほれ、そろそろ出発だ。乗った乗った」

「は、はぁ」

 ガハハ、と豪快に笑った老人はそのまま列車の先頭へと向かっていき、そして運転席に乗り込んだ。どうやら今日お世話になる運転手のようだ。

 物は試しと言うことで、とりあえず客車の中に入ってみる。車内はそこまで混雑しているわけではなく、簡単に座ることが出来た。経営は大丈夫なのだろうか、というのが正直な感想だ。

 車内を見渡してみると、車両自体がかなり小さい事に気付く。また、椅子の配置もボックスシートとロングシートが両壁に沿ってちぐはぐに置かれているなど、私がこれまでお世話になってきた車両とは異なった趣だ。

 やがて、列車は動き出す。カタコトと、一歩一歩踏みしめるようにのんびりとレールの上を走っていく。

 車窓からの風景は雄大だ。見渡す限りの草原で、まさしく高原列車といった趣である。見渡す限りの蒼い翠が広がり、その間をくぐり抜けるようにして走る列車に入ってくる風も、草木の温かな匂いを車内に吹き込んでくれる。

 列車は更に進み、目的地を目指して高原の峠を確実に登っていく。レールを軋ませる鉄の音をうならせながらも、力強い奔りで二両編成の列車を引っ張り上げていく。まるで歴年にわたって山を登り続けた山男のような力強さだ。あの小さな体の何処にこれだけの坂道を上る力があるというのだろう。

 この鉄道は私の持っている鉄道のイメージとは大きく違った。鉄道というのは早く確実に人を目的地まで運ぶ物であり、単なる移動手段だと思っていた。しかし、この鉄道は違う。まるで列車自身がこの草木生い茂る車窓を自慢しているかのように、あくまでのんびりと、峠の先にある温泉まで人を運ぶのだ。

 私はメモを取るのも忘れてこの鉄道の虜になっていた。一種のカルチャーショックと言っていいだろう。時間も忘れて爽快な景色に心打たれ、機関車の力強さに圧倒され、踏みしめるようにカタコトと揺れて進む列車に酔いしれた。

 駅前で買ったキャラメルを舐めながら――店のおばちゃんが凄く親切だった――そんな時間を過ごしていると、あっという間に終着駅である温泉地に到着してしまった。私は到着するとすぐに客車を出て、ホームを掃除していた青年に話しかける。もっとこの鉄道を知りたいと思ったからだ。

「すいません、○○社の記者なんですが、ちょっといいですか?」

「はぁ、なんでしょう」

「この列車に初めて乗って、感動しました。特に機関車がすごい力強くて、小さい体なのにどこにあれだけのパワーがあるのかと思いまして」

「あれはアメリカ製の機関車で、元々は発電所建設の資材運搬用だったんです。だから最初から力強い作りにはなってます」

 私はその他にも色々なことを聞いた。季節で風景はどのように変わるかという質問から、駅前の美味しい食べ物屋のことまで、かなりの数の質問をした。

 質問をメモに書き写している間、ふと目の前の青年の視線を感じたので見てみると、彼は何かを言いたそうな顔をしていた。掃除に戻りたいのだろうかと思い、「なにか?」と聞いてみる。

「えと、何でそんなに熱心に取材してらっしゃるんです?」

「何で、って、そりゃあ駆け出しとはいえ記者ですから」

「いえ、そういうことじゃなくて、この鉄道ってもうすぐ廃止になるのに、旅行ガイドみたいな取材されても役に立たないんじゃないかなあ、って思ったんですけど……」

 …………は?

 一瞬の間の後、次第に頭が理解してくる。

「は、廃止!?」

「ええ、一週間後に廃止になるんです。知らなかったんですか? 知ってて取材してるもんだと思ってたんですが……」

 焦って色々と聞いてみると、どうやら一週間後に廃止セレモニーが行われ、それを持って路線は廃止となるらしい。

 厄介なことになった。今回の企画を考えるにあたって一番の肝は何と言っても高原列車だ。心地よい風を浴びながら温泉へ、そんなキャッチコピーを考えていたのに、これでは全て練り直しだ。それよりも怖いのは編集長からの大目玉がある。もう考えたくもない。

 私の真っ青になった顔を見て彼は色々と理解したらしく、話題を変えようと苦笑しながら私に話しかけてくる。

「……俺、この列車を運転したかったんです。でも、廃止になっちゃって……。車掌のまま、夢は叶えられなくなっちゃいました」

「そんな……」

「でもいいんです。こうして小さい頃に憧れだった鉄道に関わることが出来た。良い思い出になります」

「でも、再就職とかって……」

「ああ、ウチの会社の親会社がこの辺りのバスをやってて、そこに引き取って貰えるんですよ、っとと!」

 彼は躓いた拍子にちりとりの中身を零してしまった。ドジだな、と思いつつ手伝っていると、働き口が保証されてるだけ有りがたいです、と彼は自嘲的な笑みを浮かべながら呟いた。

 自分と同じくらいの年の若者にこんな表情をさせてまで鉄道を廃止するものだろうかと、その時漠然と思った。無論私がそう思わなくとも会社の人や地域の住人も同じ事を考えているだろう。私はどうにもやるせない気持ちになった。


 その後、ホテルの取材の方は順調に進み――ご飯がすごく美味しかった――、周囲の観光スポットの取材も滞りなく終わり、今は一泊した翌日の夕方。普段なら順調すぎて怖いくらいだと形容したいところだが、今回は帰路についても肩の荷が降りることはない。

 記念の意味も込めてもう一度電車に乗ってみた。前日に乗ったのは昼前の列車だったのだが、小高い丘の上を夕焼けを浴びて走る高原列車もまた素晴らしい。周囲には低木くらいしかなく、橙色に染まり、水平線から半分だけ顔を出している夕焼けに向かって列車がひた走っていくような、そんな錯覚を憶える。

 窓からぼんやり外を眺めると、山菜取りでもしているのだろうか、数人の老人がおり、列車に向かって手を振っている。私はぼんやりと手を振り返しただけだったが、同乗した制服姿の学生はそちらにむかって身を乗り出して手を振っている。

 確実にこの鉄道に心を打たれている。夕焼けを見ながら慟哭し、行く末を想って陰鬱になる。私は雄大な風景を眺めながら、この鉄道の素晴らしさを記事にする決意をした。



「編集長、お願いします! 書かせてください!」

 私の腹は据わっていた。消えゆくあの鉄道を何らかの形で残したいと思ったのだ。幸いにしてホテルの件の締切はまだ時間がある。今日から廃止の日まで取材を続けて、それから徹夜を続ければ何とか間に合う算段だ。

 私は頭を下げる。編集長から良いと言われるまで下げ続けるつもりだ。平身低頭だったのが功を奏したのかは分からないが、はぁ、という溜息混じりの声が帰ってくる。

「……分かった、好きなようにやれ。お前がいなくなってもあんまり影響出ないもんな」

「あ、ありがとうございます」

 素直に喜んで良いのかどうか疑問だが、ひとまず編集長の許可は得た。後は自分で動くだけだ。

「ただし、ウチはあくまで旅行誌だ。知り合いに最近創刊した鉄道雑誌の編集長やってる奴が居るから、紹介してやる。そこで書け」

 編集長は手帳を取り出してパラパラと捲り、それを見ながらメモ用紙にサラサラと何かを書き付ける。どうやら駅からの道順と緊急の連絡のようだ。

「ウチから出向という形になるが、一度やると言い出したんだから投げ出すなよ。俺たちの雑誌でヘマやらかしてもカバーしてやれるが、他社ならば話は別だからな。沽券に関わる」

「わ、分かりました!」

「ほら、さっさと取材のメモと写真を提出! せめて成果くらい見せろ」

 低く威厳のある編集長の声に、思わず敬礼のポーズを取ってしまった。復員兵でもないのに。そんな私に、見ていた同僚からくすくす笑いが漏れる。恥ずかしくなって私は敬礼のポーズを取り続けたまま固まってしまった。火が出そうなほど顔が熱い。

 邪魔だからさっさと行け、とせっつかれた私は足早に会社を後にする。編集長に渡されたメモによるとその出版社は駒込にあるという。私は新車登場が噂される山手線で駒込まで向かった。

 ホームに降り立つと、目の覚めるような黄色の電車が滑り込んできた。最近になって山手線を走り始めた車両で、他の国鉄線は未だに茶色一色の中で一際目立つ存在だ。しかし、同じ鉄道には変わりないのだが、高原で体験したあの心の高鳴りは感じられない。

 新しい電車である証拠の両側に開くドアから中に入り車内を見渡す。昼前ということもあり閑散としている車内は、人は皆ロングシートに腰掛けてボーっとしていたり本を読んでいたり、全ての人間が自分しか見えていない。ソフト帽のおじさんも、丸眼鏡の青年も、もんぺ姿のおばあさんも、みんなそうだ。

 いや、それが今の鉄道のあるべき姿なのだろう。人や物をただ運ぶだけの輸送機関。それを鉄道の定義とするならば、あの鉄道は対極の位置にある。次々と現れては消えていくコカ・コーラやグリコの看板を見ながらそう思う。

 そうこうしているうちに電車は駒込駅に着き、駅を出る。歩いても行けるらしいが都電に乗った方が早いらしいので、駅前で待機する十九系統に乗り込む。

 車の隙間を縫うようにして路面電車が行く。先程の通勤列車よりはあの鉄道のイメージに近いが、やはりこれも違う。生活感が感じられるが、住人と一体化、というところまでは行ってないというのが私の分析だ。電車を降りて空を見上げても、路面電車の集電用に張り巡らされている電線しか見えないことからもよく分かる。

 目的の停留所に着き、目の前の小綺麗なビルに入って受付で用件を申し出る。すぐに中に通され、指定された部屋に行くと、自分の会社と同じく忙しそうに作業に没頭する社員がずらり。その奥で、人懐っこい笑みを浮かべた編集長らしき人物が手を上げていた。

「どうも、編集長の萩原と言います。お話の方、大変興味深い内容だと感じております」

「え、でも、私まだ何も……」

 名刺を渡しながらそう言ってくる萩原編集長に、驚いて思わず口に出してしまう。

「ああ、そちらの編集長から話は伺っていますよ。シャイな奴ですから、おそらく今頃、貴方のメモや写真をもとに原稿を書いてるんじゃないですかね。絶対に言いませんけど」

 ウチの編集長とは大学の同級生であるらしい萩原編集長は面白がっているようだ。鬼編集長なウチの編集長のイメージが少し変わった。

 どうぞ座ってください、と通された応接間にはお茶とお茶菓子が既に用意され、その傍らにはあの鉄道の写真が何枚も置かれていた。

 高原の急坂で列車を引っ張り上げるあのL型の電気機関車、客車の車輪に油を差す整備員、笑顔で切符切りをする駅員――そこには確かに生きている鉄道の姿があった。

 写真に見惚れていた私に気付かせるように「さて」と編集長が前置きをする。

「今回の廃止は国道が開かれて、終着駅の温泉街に電車に乗らなくても行けるようになったことが原因である訳ですが、これについてはどうお考えですか?」

「どう、と言いますと?」

「先日大規模なホテルがオープンしたように、開発が進めば進むほど森や山は削られる。それに、温かな旅情を持った風景も利便性という波に押し流されて消えてしまう。それでは寂しくはありませんか?」

 「まだお若いですし、おそらくは発展に肯定的な見方しかしてこなかったのでしょうし」と編集長は後付けで言った。科白だけ聞けばイヤミにも聞こえるが、しかしそれは的を得ている。

 確かにそうだ。岩戸景気などと銘打った好景気が新聞で報道され、各地で建設ラッシュに涌いている昨今。豊かな暮らしを夢見て何が悪いと、今までなら思ったことだろう。

 だが、それはあの鉄道を見る前ならのことだ。果たして何が発展なのだろうか、たまにあの鉄道を思い出して自問自答することがある。

「私個人の意見としては、昨今の発展は少し行き過ぎなのではないかと思います。急速な発展は後に大きな弊害を残すことがあります」

「……例えば何があります?」

 私の考え、すなわち急速な発展こそが日本を蘇らせるという考えに反対するような意見に、思わずムッとしてしまう。

 そこで気付いたが、目上である編集長に対して失礼な発言だ。怒られるかと思い肩を縮こめるが、「若い人の意見ですなあ」という笑顔と共に、意外にも紳士的な返答が帰ってくる。

「例えば、足尾銅山の鉱毒事件。住民が苦しんだのは、先進国に追いつこうとしてそれ以外のことを無視してきた結果です。今の状況も、それと似てやいませんか?」

「な、なるほど」

 公害に苦しんだ谷中村は、田中正造による直訴も虚しく中和という名のもとに湖の底に沈んで廃村となってしまう。歴史教師が栃木県出身だったために、かなり熱を入れて勉強させられたところだ。

「今回の廃止を皮切りにして、今後小さな私鉄が次々と廃止されていくでしょう。そうなると、環境の話だけでなく、貴方が感じたような旅情や住民の温かさなどは消えてしまう。それを伝えようとする今回の企画は、まさしく渡りに船なのですよ」

「でも、そんな大事な企画を、新人で、しかも外部の人間である私が書いていいんでしょうか?」

「新人であるかはともかく、ウチの社員では鉄道に肩入れしてしまって駄目でしょうね。私は、一般の人にも感銘を受けられるような、人の心に訴えるものが欲しいんですよ」

 そう言って笑った萩原編集長の顔を思い出しながら、一路上野駅を目指す。時間短縮のため荷物は既に持ってきていたのだ。これから急行に乗ってあの鉄道を目指す。

 何かを犠牲にしなければ進歩をすることは出来ない。しかし犠牲を強いられる側は納得がいくだろうか。絶対多数に押しつぶされる少数があっていいのだろうか。そして、私が以前考えていたことは本当に正しいのだろうか。

 電車の中も外も変わり映えせず、先程乗ったときと何ら変わりない。これがあの高原列車なら何か変わるんだろうか。そして、それが何なのか分かればこの胸のモヤモヤも、すっきりとするんだろうか。

 途中の駅に止まって、ふと忍者凧ほどはある映画ポスターが目に付いた。渥美清という俳優の"男はつらいよ"という映画が今度上映されるらしい。去年見た"黒部の太陽"の影響か、映画を見るのは最近の楽しみの一つになっている。

 私の視界には、"映画のポスター"という賑やかな大衆娯楽を象徴するものがある。しかしそれは単なる"賑やかし"でしかなく、むしろこの空間の中には何もないのではないかという錯覚すら思い浮かぶ。

 そしてこれらの答えは、何もなくただ自然だけがあるあの鉄道にこそあるような気がした。これが理由だとかそういう話ではなく、ただ漠然とそう思ったのだ。



 着いたのはもう日が暮れかけた時だった。事務所を訪ねて事情を話すと、何と社員寮の一室を貸してくれるという。一週間という取材期間の中で、なるべく住民や社員に近づいて取材をしたかったので、これは有りがたい話だ。

 隣人はあの時質問攻めにした彼だ。どうやら客人の世話係を任せられたらしく、社員寮への道を私は案内して貰っている。一週間分の荷物を持って貰っているが、躓きそうでちょっと見ていられない。

「荷物持たせちゃってごめんなさいね」

「いえいえ、これくらいは。あ、着きましたよ。ボロい所ですけど、いいんですか?」

 すぐにゴキブリが出てきそうなアパートだったが、もう背に腹は代えられない。私は「ええ」と頷き、用意された部屋へと入る。

 定期的に掃除されているようだったが、やはり埃っぽい。全ての窓を開け放ち、借りてきた掃除用具で早速大掃除を始める。私だって女子だ。いくら一週間だけとはいえこんな所では暮らせない。

 発売されたばかりの冷蔵庫などあるはずもなかったが、ひとまずコンロが生きていることに安心して台所から戻った。と、例の青年が畳を雑巾がけをしていた。その表情から察するに、面倒だとはちっとも思っていないらしい。出会ったときから感じていたことだが、彼はかなり人が良い。

 自分一人でやるつもりだった大掃除も、男の力と背丈によってあっという間に終わってしまった。この日の晩、私は彼にご飯を振る舞った。一人暮らしで男料理しか食べていないらしく、えらく感激された。


 翌日、私は早速取材を始める。

 一駅ずつホームに降りて雰囲気をカメラに収め、そして次の列車まで駅周辺の取材をする。一日の列車が七往復なのに対し私の滞在する始発駅以外の駅の数は六つなので、全ての駅に降りた後最終列車で戻ってくればいい計算だ。

 取材してみて分かったがどの駅も個性溢れる駅で、その一つ一つで雰囲気が少しずつ違うのが楽しい。商店や民宿が並ぶ賑やかな駅もあれば、勾配を上るためにジグザグに走らねばならない特殊な駅――スイッチバックと言うのだそうだ――もあった。やはり取材というのは間接的な情報は役に立たない。私は改めてそう実感した。

 そんな中で降り立ったある駅で、私は昼食を取るために定食屋に立ち寄った。ここでも取材は忘れない。長年住んできた住民の目というのは、時にプロの記者よりも面白い視点から物を見れる場合がある。

 料理を持ってきた恰幅の良いおばちゃんに話を聞くと、面白いように話がポンポン出てくる。戦前にここに嫁いできたというおばちゃんは、軍への招集で列車に乗って死地に向かう者達を日の丸の旗を振って見送ったことなどを情感たっぷりに話してくれた後、溜息を吐きながら呟くように言った。

「廃止が決まって、今ではみんな引っ越してしまってねえ。今じゃこうして商売しているのも数件だけだよ」

 店同士仲良くやってたんだけどねえ、とおばちゃんは寂しそうに語る。その恰幅の良さも、自分に話しかけてきたときより萎んでいるように見えた。

「国鉄の新しい路線が出来て、新しいバス路線も出来て、それにこの前の台風さ。私らはここで普通にやってたいだけだってのに」

 おばちゃんは溜息をもう一度吐く。

「旅ってのはもっとのんびりやるもんだ。観光地に早く付ければいいってもんじゃないのにな。今時の連中は何を勘違いしてるんだか」

 私は取材の礼を言いつつ勘定を払って店を後にし、列車へと乗り込む。今の駅で最後の駅だったので、あとは終点の駅だけだ。

 ふと、外の景色を眺めながら考える。私の書こうとしていたコンセプトと一見同じようだが、私の考えている旅とおばちゃんの考えている旅の感覚は違う。

 私の考えは、過程はあくまで過程であり早く着ければそれに越したことはない。今回景色のいいこの鉄道を取材しようと思ったのは、他誌との差別化のための単なるオマケを探しに来ただけだ。

 しかし、おばちゃんの考え方は違う。おばちゃんの考え方は、過程も立派な旅行のうちであり少々遅れても景色や風流を楽しむべきだ、というものだ。

 東京オリンピックを目前に控えて、東京と大阪を結ぶ高速鉄道が建設中らしい。仕事の人には当てはまらないが、観光目的でのんびり行っても良いのなら、すぐに列車が目的地に着いてしまうのはどうにも味気ない気が私もした。

 富士川を渡りつつ富士山の前をゆっくり通り過ぎていき、それを肴に弁当を食べる。そんな東海道本線の旅をするのも悪くない気がする。そんなことを考えながら、私は流れていく高原の景色をぼうっと眺めていた。


 終点の駅は以前ホテルの取材に来たときに一緒に取材しているのであまり取材することはない。早々に取材を終えた私は暇を持て余していた。折り返しの列車まではまだ時間がある。私は駅のホームで出発の準備をする機関車を観察していた。

 そんな時だ、あの豪快な笑い方をする老人、仲間内では長老と呼ばれている人物がタバコをくわえながら話しかけてきた。多くの小じわと白髭の奥に覗く笑顔が何とも人懐っこい印象を与える。制服に制帽姿であることから察するに、どうやら私が乗る列車の運転手は長老のようだ。

「どうじゃ? ここはいいところじゃろ」

「ええ。景色も良いですし、何より住んでいる皆様が暖かくて。良い記事が書けそうです」

「そうじゃろうそうじゃろう。そうだな、どれ、わしも一つ話をしてやろう」

 そう言って長老は得意げに話し始めた。元来からお喋りが好きな人らしい。

「昔、麓の国鉄の駅まで線路があってな。ほれ、お嬢ちゃんもバスに乗ってきたんだろう? バスと同じ区間をうちの列車が走っててね」

 ぽんぽん、と機関車を叩きながら長老は言う。

「当然そこまでくるのに路線があったんじゃが、二年前のでっかい台風で流されてしまって、修復されないままその線路は廃止になってしまった。あそこに線路を造るのは本当に苦労したのに、台風で線路が流されて全ておじゃんじゃ」

 定食屋のおばちゃんを始め、何人かから出てきた話だ。日本列島に甚大な被害をもたらしたこの台風を受け、小さな鉄道は一溜まりもなかったそうだ。

「そいで、この間興味本位で廃止された所を歩いてみたんじゃが」

 長老はそこで一区切り置く。彼は遠くを見つめているようだった。

「途中にいくつか駅があったんじゃが、その駅一つ一つに民宿やら雑貨店があって、廃止の時にみんな引っ越したんじゃ。どうなってるのかと思っていたら、跡形もなく消えておった。これにはわしも、呆然と立っていることしかできなかった。たった二年なのに、ってな」

 笑顔を浮かべてはいるが、口調が何とも寂しそうに感じた。

「作り上げるまでは大変じゃが、壊れてからは一瞬じゃ」

 どーん、と大袈裟な口ぶりで壊れたことを表現する。

「年寄りの愚痴に付き合わせてすまんの。年を取るとどうも辛気くさくなっていかん」

 タバコの煙をぷはーっとやって、長老はやはり豪快にガハハと笑った。しかし、先日聞いたあの笑い方ではない。どこか悲しげな雰囲気がその笑い声から感じ取れたのだ。



 それからの私は休む間も惜しんで取材に没頭した。沿線に住んでいる人ならば誰もが顔見知りになったし、駅のホームでおこぼれを貰おうと居座る猫にはそっぽを向かれるようになった。顔を会わせても何もあげなかったのがいけなかったのだろうか。彼の拗ねたような後ろ姿もばっちり写真に撮った。

 ある日には「特別じゃよ?」と長老に連れられて整備工場まで見学させて貰った。鉄と油の臭いが充満する建物の中では、トンカン、というハンマーで鉄を叩く音が響いている。車輪や台枠を叩いて音を立て、歪みがないかを熟練の耳と勘で調べているそうだ。社員寮で既に顔見知りの整備工さんが丁寧に教えてくれたが、ボキャブラリーの少ない私には凄いの一言しか無かった。

 一通り取材を終えて外に出ると、併設されている車両基地で、機関車が忙しなく車両の入れ替えに勤しんでいた。運転席をよく見てみるとそこにはあの彼の姿がある。運転手になってないんじゃないのかと長老に聞いてみると、「ここの機関車はクセが強いからまずは入れ替えで慣れるんじゃよ」とのこと。本線を運転したかったという彼には悪いが、その姿も充分に格好良かった。

 またある日には廃止直前ということで駆けつけた鉄道ファンの方に同行して、丘の上から見下ろすようなアングル――俯瞰撮影と言うそうだ――で列車を撮った。手前には小さく写ったあの列車が高原の草木の間をかき分けるように奔り、バックには地肌剥き出しの雄々しい火山が鉄道を見下ろすように聳えている。迫力ある絵を撮れるニコンFの真価が発揮されるシチュエーションだ。記事を組むときの表紙はこの写真で行くことになるだろう。

 また別の日には非番であるという例の彼に連れられて、彼が言うところの"隠れた名所"巡りもした。この駅の何番ホームの屋根には燕の巣があって子育てをしているとか、こっちの駅の何番ホームの先端にはタンポポが群生していることとか、あるいは例の猫の気の引き方だとか。

 彼の言う"隠れた名所"はどこかズレているものの、彼の純朴な人柄がそうさせるのか全てが微笑ましく、また魅力的な物に思えてくる。私を先導して楽しそうに歩く彼を見ていると、なんだか私も楽しくなってきた。

 彼は私を早く目的の場所へ案内したかったのだろう。ふと、自然な動作で私の手が彼の大きな手に握られた。それを意識した途端に、何故だか私は恥ずかしくなってしまい立ち止まってしまう。それに釣られて彼も立ち止まり、慌てて手を離した。顔は俯き、頬は赤くなっている。彼も我に返って恥ずかしくなったのだろうか。可愛いなあ、なんて感想を暢気に思う私の頬も、熱い。


 廃止の日はもう翌日に迫っていた。楽しい時間はあっという間に過ぎていく、というのは迷信ではないらしい。

 全ては明日で決する。装備は万全にしておきたい。カメラの手入れをして、フィルムの整理をして、山登り用の靴を洗い、大量のメモ用紙をバッグに詰める。

 ――そこまでして、何もやることが無くなってしまった。手持ち無沙汰になって畳の部屋にごろんと寝転がると、窓から心地よい風が吹いてくる。季節は夏、普通は熱帯夜だろうが避暑地としても著名なこの地は涼しい。

 一度伸びをして起きあがり、窓に寄って外を見る。そこにはキラキラ光る星々がまるで川のように散らばっている。そう、あれは天の川――

「ごめんくださーい」

 間の抜けた声と共にドアをコンコンとノックする音。こんな時間に彼は何の用だろう。

 ドアを開けると開口一番に言う。

「星を見に行きませんか?」

 彼の勢いに気押された私は思わず頷いていた。

 案内されたのは社員寮から歩いて五分ほどの、先日取材した車両基地だ。ここに星と何の関係があるのだろう。

 そんなことを思いながら彼の後を着いていくと、彼はおもむろに駐機していた機関車のL字の底の部分に腰掛けた。機器類が詰まっているその上に板が被せてあり、そこに座るような格好だ。そして背中には小さな運転席。それに寄り掛かっている。

 彼がちょいちょいと手招きしている。それに従って近づくと、エスコートされるかのように手を取られ、底の部分に誘われた。そして彼が横にずれ、自分の隣のスペースをぽんぽんと叩く。自分の隣に座るように言っているらしい。

 元々が小さい機関車なので当然幅も小さい。彼が横にずれていても二人並んで座るのがやっとだ。お互いの肩が触れあい、顔は両方が傾けば唇を合わせられそうな距離だ。気恥ずかしさと触れている彼の体温とで心臓が飛び出てしまいそうだった。

 ちら、と彼の顔を盗み見してみる。こんなに私が恥ずかしいのだから初な彼はどれだけ顔を赤くしているのやら、と思って見てみたのだが、彼の横顔は上に向けられたまま朱の一つさえも入ってはいない。何よもう、と謂われのない罵声を心の中で浴びせるが、彼はそんな気を知るはずもない。

 はぁ、と自分の舞い上がりに溜息が出、しかし空を見上げて凛々しい横顔を闇夜に浮かばせる彼に、私は熱の籠もった苦笑を浮かべる。と、いきなり彼がこちらを振り向いた。

 ひっ、と驚きの声を上げる私。そんな事は気にもしていないらしい彼は、興奮した様子で夜の空を指さした。

「ほら、ここなら天の川がこんなに綺麗に見られる」

「きれい……」

 私は思わず声を失った。天の川という字の如く、宇宙という闇の中を無数の星々が寄り集まり、どこまでも続いていく。

 こと座のベガにわし座のアルタイル、それにはくちょう座のデネブ。雄大な夏の大三角もはっきりとその存在を主張し、更にその周りを都会ではまず見られないような暗い星が脇を固めていく。

 まるでガラス細工の如く、誰かが作為的に配置した作り物なのではないかと思わせるほどの見事な空に、私は数刻が経過してもまだ見入っていた。

「昔はもっとよく見えてたんですけどね」

「こんなに綺麗なのに?」

「はい」

 彼の呟きに私が溜息混じりの声で返す。

「そうですね、ここに車やバスがばんばん入ってくるようになってからかな」

 彼は空に手を伸ばす。まるで手が届いてしまうかと思うほど、宇宙の星々は近くにあった。

「きっと、車から出される煙が空に上がって、星を見えづらくしてるんだろうな。……って、高卒の俺が大学出てるあなたにこんなこと言ったら笑い者だ」

「……いいえ、面白かったわ」

「はは、お世辞だと分かってますけど、ありがとう」

 私の本心からの言葉に、彼が苦笑を浮かべたのが彼を見ずとも分かった。そして彼も私の方を向いてはいないだろう。この雄大な空の下にいれば、人間がちっぽけな物に思えてくるのは当然のことだ。

 ふと、機関車の車体に置かれた私の左手に何かが触れたような気がした。気のせいでなかったなら、それは彼の右手だっただろう。しかしそれ以上何もなく、彼が首を振るような仕草をしただけだった。虫でもたかったのだろうか。

 そんな私の視線に気付いたのか、彼は顔を赤らめて視線を下にやった。何が恥ずかしかったのかは分からなかったが、私は可笑しくなって口元だけで微笑んだ。

 そんな私の様子に、彼は深呼吸にも似た溜息を吐いたあと、呟くようにぽつりと零した。

「俺は、豊かになりすぎるのもどうかと思うんです」

 彼がやはり空を見上げたまま、やはり呟くように言う。

「温泉は湯治客が入りに来るもので、そのための電車だったのに、大企業のホテルが参入して、それに合わせていつしか利便性ばかりが求められるようになってる」

 定食屋のおばちゃんも同じようなことを言っていた。

 時代が変わりつつあると言うことなのだろうが、それが旧来の物を壊して良い理由には絶対にならない。これからこの鉄道は良さを知られないままに壊されていくのだろう。私はやるせない気分になった。

「前にも話しましたけど、俺、この鉄道の運転士になりたかったんです」

 彼はまだ空を見上げたままだ。

「俺はこの近くで育ったんですけど、親が国鉄に勤めてるんで国鉄を見る機会も多くあったんです。だけど、国鉄よりもこっちで働きたいと自然と思うようになってた」

 彼は懐かしむように眼を細めながら続ける。

「格好良かったんです。小さな機関車が人や荷物をあっぷあっぷしながらも沢山引っ張って、そうして峠を越えていくのが」

 我ながら変な少年でした、と彼は苦笑する。国鉄の特急列車を格好いいと思う子供の方が大半であろうが、当時の少年はどうも世間とズレていたらしい。私は思わずくすりと笑ってしまった。

「両親には『そんな先の短い会社になんか入るな』って言われたけど、家を飛び出してでもここで働きたかったんです」

 国鉄では何よりも縁故採用が多いと聞く。父が国鉄で働いている彼にとって、国鉄という安定した働き場に容易に入ることが出来るのだから、その決意はどれほどのものであったろうか。

 何となく行かせてくれるから大学に行った自分が馬鹿みたいだ。学はなくても、稼ぎは少なくても、彼の方が私よりも数倍充実した生活を送っているではないか。

 ふと私は思った。私は何のために大学に行って、何のために出版社に入ったのだろう、と。そして、彼にここまでの覚悟を決めさせる魅力を持ったこの鉄道が無くなってしまって果たして良いのだろうか、と。

 今まで散々この鉄道の良さを痛感してきたが、自分が感じること以外にも、後生にこの存在を残しておかなくて良いのかと、ふと思ったのだ。

 将来性溢れる若者をここまで魅了する鉄道を、廃止を憂いて寂しそうな表情にさせる鉄道を、何故運命は廃止という悲しい結末へ持って行こうとするのだろう。

 萩原編集長は、これからこの鉄道のような存在がどんどん無くなっていくだろうと言っていた。いくら発展のためとはいえ、このような人の心を揺さぶる存在が無くなってしまうというのは寂しいし、何より、私のような何のために仕事をしているのか分からなくなるような人が大勢出てくるのではないだろうか。

 天上の星々に向けられた、彼の寂しそうな表情を横目で見ながら、私も同じように空を見上げてそう思うのだった。



 私が取材を始めて一週間が経った。セレモニーの日、私は写真撮影に没頭した。様々な記録を残しておきたかったのもあるが、この鉄道に感情移入してしまったおかげで、辛くて辛くてしょうがないのだ。

 あの奇妙な風貌の列車も、ニカッと笑って運転席に座る長老も、駅前の雑貨屋のおばちゃんも、私は気に向くまま、ただ何かを見つけては写真を撮っていた。

 綺麗に装飾された列車に乗ることはついに無かった。乗ってしまえば、涙をボロボロと流して別れを惜しむ人で満員の車内をしらけさせてしまうことが目に見えていたからだ。

 最終列車を見送り、私はそのまま社員寮に帰った。思った通り、ボロボロと涙がこぼれてきた。しゃくり上げる声を心配した彼が隣の部屋から駆けつけてきてくれ、思わず抱きついてしまった私を泣きやむまでずっと抱きしめていてくれたのがかなり救いになった。

 泣きやんだ私が何か礼をと言うと、彼はその性格のせいかしきりに遠慮してくる。私がしつこく食い下がると、遠慮がちながらも写真を撮って欲しいという。私のニコンFに彼のぎこちない笑顔が刻まれた。私はその様子が可笑しくて、記憶にないほどに思い切り笑った。今度の涙は、どちらの涙だろう。



 結局気持ちを落ち着かせるためにもう一日この地に滞在することになってしまった。帰宅するのは明日でよいかを寮長に聞いたところ、二つ返事で快諾してくれた。

 昼間はもう列車のやってこないホームを撮りに行ったり、列車がやってこないのをいいことに線路に降りたりもした。例の猫にハムを持って行ったら、意外そうな顔をしていたのには笑った。

 ゆっくりとした時間を過ごし、気付けばもう日は暮れていた。明日にはもう帰らねばならない。カメラの手入れと、フィルムの整理と、いつもの日課を終えてパジャマに着替えていたその時だ。慌てた様子のノックが私の部屋のドアから聞こえる。

「急ぎの用事なんで開けますよ!」

「あ、ちょっと!」

 もたもたしていたら彼がドアを開けてしまった。もたもたしていた理由は着替えている途中で下着姿だったからなのだが、それは今更言うまでもなく、ね、ほら、さあ。

 そう思う間に、玄関に入ってしまい固まる彼と、たちまち顔が熱くなっていく私。この後はもうお約束だ。

「きゃぁぁぁ!!」

「うあわわ、す、すいません!」

 冷静な思考とは逆に思わず悲鳴を上げてしまう。その声に、彼が慌ててドアを閉めた。急ぎの用事とは何だろうかと思ったが、それよりも彼にビンタの一つでも食らわせてやろうと決意するのだった。


 隣を歩く彼の頬は赤く晴れ上がっている。乙女の柔肌を視姦したのだから当然の報いだ。

 そんな哀れな彼の話を聞くと、何やら廃線になったはずのホームに社員達の人だかりが出来ているという。私は慌てて身支度を調え、駅へと向かった。

 数分走って駅に着いてみると、そこにはガヤガヤとした喧騒があり、廃止後だというのに何とも活気がある。

 と、そこに見知った人影を見つけた。皺と髭の中の優しそうな笑顔。ここ一週間で散々世話になった長老だ。

「お、ちょうどいいところに来おった。って、その頬はどうした?」

 何を理解したのか、長老は彼を見てニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべている。

「……ほっといてください。で、何が始まるんですか?」

「これから列車を走らせようと思っとってのぅ」

「……は?」

 何がなんだか分からなくて、とりあえず今の状況を確認しようと辺りを見回してみた。

 そこには社員全員と言ってもいいほどの人間が揃っていた。初日に挨拶した社長もいるし、別の駅の駅長もいる。親切な整備工さんもいたし、果てにはあの猫までいる。

 皆、廃線を惜しんでここに居るのだろう。しかし、それが何故列車を動かすことに繋がるのか分からない。そもそも廃線になったのに列車を動かしたら駄目だろう。何を考えているのかさっぱり分からない。

 私の疑問をよそに当事者達は既に事を始めているらしく、車庫からL字型の電気機関車に客車と貨車を一両ずつのお馴染みの列車を引っ張り出してきていた。

 もう彼らの企みを阻止する方法はないと観念したらしい彼は長老に尋ねる。果たして今宵の主役は誰なのかと。

「で、誰が運転するんです?」

 その声に、長老だけではなく全員がこちらに顔を向けた。かなりの威圧感だ。

「何を言っておるんじゃ。お前じゃよ」

「……またまたァ、そんなに俺をからかって楽しいですか? 冗談もほどほどにしてくださいよ」

「お前さんをからかうのは楽しいが、冗談ではない」

「……ホントですか?」

 彼が周囲の皆に問うと、一様に頷きで返事が返ってきた。対する彼は、眼をキョトンとさせたまま動かない。

「ワシが後ろに乗ってブレーキのタイミングは教えてやる。ああ、客も居ないから終点までノンストップで良いかの」

 長老が挑発的な物言いで彼に言う。彼もそれを分かっているようで、にやりと挑戦的な笑みを浮かべた。

「……俺が運転したかったのは、普通の、普段走っているあの列車なんです」

「そう言うと思ったよ。ほれ、さっさと運転席に乗れ」

「ありがとうございます!」

「で、普通の列車なら客がいるさなあ」

「へ? わ、私ですか?」

 長老が私の方を向いてニヤニヤと笑う。この時にはもう、いつの間にか悪事の片棒を掴まされていたのだった。


 どうやら彼らは、この列車を運転したくて入社してきた彼に、一度でいいから本線を運転させてあげたかったらしい。だから廃線の後、住民が寝静まった後に実行したとのことだ。

 バレたらどうするんだと最初は思ったが、私も彼の想いを聞いている。やりたくないならやらなくてもいいんじゃよ、とも長老に言われたが、ここまで乗りかかった船だ。やらないわけにはいかない。

「ほれ、そこで四ノッチじゃ! この先二十キロ制限の急カーブなのは知っておろう!」

「は、はい!」

 列車はキキーッ、という鉄が軋むような音を立てながら山道をずんずん進んでいく。

 聞くところによると、彼は本線を運転するのは初めてらしい。怒鳴られながら歩みを進めていく列車に恐怖を感じ、景色どころの話ではなかった。

 しばらくは長老の叱責の声と彼の覇気のある返事が交互に聞こえていたが、やがてそれが止み、そして長老が客車に飛び乗ってきた。

「ふぅ、ここからはほぼ一直線じゃから、もう大丈夫じゃろう」

 まったく骨が折れる、と言っている長老の顔に疲労はない。あるのは笑顔だけだ。

「この鉄道の最後の運転士はあいつになるじゃろうなあ。なんであんな未熟な奴に……」

「そう言いながらも、運転させてあげたかったんでしょう?」

 私がそう問いかけると、「まいったなあ」と長老が頭を掻いて、笑いながら恥ずかしそうに言った。

「……あいつが運転士をやりたがってたのは知っとったからな。この会社で一番若いのはあいつじゃからなあ、たまには子供の面倒くらい見てやろうと思ってな」

 私と長老の間にそれ以上の言葉はなかった。長老も自分の科白が恥ずかしかったのか、そっぽを向いて景色を見ているし、私もそんな長老の様子がおかしく、そして可愛くて。何より、微笑ましかった。


 ブレーキの音を軋ませて列車は終点に到着する。機関車を反対側に付け直し、折り返しでこれから麓の駅まで坂を下る。また彼の危なっかしい運転が続くのかと思っていたが、「やっぱり最後の列車はわしが運転するんじゃ! 若造のお前なんかに取られてたまるか!」という長老の一声によって、彼は流されるように私の居る客席へと入ってきた。

 駅を発車して結構な時間が経ったが、未だに私と彼の間に会話らしい会話はない。

「ふ、二人っきりですね」

「そ、そうね」

 空気の読めない彼がそんなことを言うものだから、それっきり会話が続かない。自分たち以外に誰も居ない客車の中というのは思っていた以上に意識してしまう。

 ロングシートにお互いが少し離れて座っている。自分たちが決めて座ったこの距離だが、どうにも気まずい。

「う、運転、格好良かったよ」

「あ、ありがとうございます」

 勇気を出して何かを言っても、それが帰って逆効果になってしまう。私も彼も、お互いに顔を俯かせたままだ。

 と、前で運転している長老が「おーい!」という大きな声を上げる。何か察してくれたのかと運転席の方を見ると、前を向いたまま右手を外側に向かって指をさしている。あっちを向けと言っているらしい。――その瞬間、窓から二人ともが顔を乗り出していた。

「きれい……」

「本当だ……」

 それきり私と彼は何も言わなくなった。いや、目の前に迫る壮大な光景に何も言えなかったのだ。

 一昨日の夜にも見た天の川が見える。しかし、今は列車の中で、眺めのいい丘の上。以前夕焼けの中を走った時は太陽に吸い込まれていくような錯覚を覚えたが、今日は天の川を渡って宇宙の果てまで行ってしまいそうな、そんな感動を覚えた。

 星の灯り以外には何一つ光源のないこの空間だからこそのものだ。煌めく星々が列車だけを照らし、そしてそれらが誘うかのように闇という高原を列車がずんずんと進んでいく。

 まるで銀河鉄道を旅するジョバンニとカムパネルラのよう。コトコトと踏みしめるように星々の中を奔る小さな列車は、本当にあちらの世界へ旅立ってしまいそうで。

 夜の闇と星々の間を縫うようにして列車はひたすら奔っていく。このまま乗っていれば本当にあの世まで行ってしまうのだろうか。例えそうだとしても、それでも乗っていたいと、そう思わせるだけの魔力がこの列車にはあった。

 星々を眺めながら、お互いに目を合わすことなく話す。

「こんなに素敵な列車なのに、何故廃止になってしまうのでしょう。私は悲しいわ」

「無くなって欲しくないのは俺も同じです。諦めたくはないけど、戦わなきゃいけない相手が多すぎるし、大きすぎる」

「時代の流れと、採算性、ね……」

 東京の、あの人情味のない列車が今の時代の鉄道の姿であり、これからの主流となることだろう。しかし、鉄道の素晴らしさを真に伝えるこの鉄道こそが、鉄道本来のあり方なのだと私は勝手に思っていた。

 そして、一度失われた物は簡単には戻らない。公害によって村として機能しなくなった谷中村は遊水池の底に沈められ、今も水の底に眠っているのと同じように。台風によって破壊し尽くされた鉄道が、復旧されずに廃止されてしまうように。

 生産の陰には常に破壊がある。忘れてはいけないことを忘れ、虚構のみを崇拝する。破壊を知らずに作り上げられた物は所詮虚構であり、紛い物だ。その結果が私達の祖先に何を残すのか、未来は分からないが、このままでは酷い事になるだろう。

 急速な発展は確かに国に利益をもたらす。しかしそれを長い目で見た場合はどうだろうか。その境界は難しいが、発展の陰にあるものを無視した発展は虚構だ。それは発展とは呼べない。発展という嘘 を大義名分としたただの紛い物だ。

 ――私は素晴らしい記事が書けるだろうと確信した。これからの長い記者生活の中でも、もう書けないであろうほどの傑作が。

 彼にそのことを告げ、感謝の言葉を心の赴くまま彼に叫ぼうとした私だったが、その瞬間に、決意を秘めた彼の顔が飛び込んできた。

「す、好きです! 結婚してください!」

「え……」

「お、俺、親父に土下座して国鉄に入って東京に出ます! 身分違いだって分かってます! でも好きなんです! あの――」

 何かを言っているらしい彼の言葉は、私の耳には全く入ってこなかった。

 彼の背後には無数の星々が爛々と瞬いている。ああ、こんな所でそんなことを言うなんて、彼はなんて罪作りなんだろうか。



「こいつめ、『結婚してください!』だとよ! 思わず笑っちまったわい!」

 ガハハ、とやはり豪快に長老が笑う。社員の人たちのからかうような視線に私は思わず身を縮こませた。





 どうやら彼に運転させてやりたいという思いもあったようだが、実は別の思惑もあったらしいことに気付かされた。帰って来るなり「なんて返事した?」と聞かれては、こちらとしても呆れて物が言えなくなる。

「で、どうだったんだ?」

 同僚の一人が彼と肩を組んで揺すりながら言う。恥ずかしいから、もう勘弁して欲しい……。

「『まずはお付き合いから始めましょう?』、って言われました……」

 ヒューッ! という歓声やら叫声やらが夜の駅に響き渡る。夜中だというのに辺りはお祭り騒ぎの様相だ。

 私達は麓の駅まで戻ってきていた。彼は同僚から手荒い祝福を受けている。既に彼はボロボロだが、私をその気にさせたのだからこれくらいのバチは当たってもいいと思った。

 そんな中、おいみんな! と、よく通る声がホームに響き渡った。長老の声だ。皆が長老を囲んでしんと静まる。

「いいか! この事は全員墓の中まで持って行けよ! 言っていいのは、みんな死んで最後の一人になった奴だけだ! それなら、言っても自分が困るだけだからな!」

 相変わらずの豪快な笑い方でガハハ、と大きな声で長老が笑った。それに釣られてみんなも笑った。彼も、そして私も笑った。

 この中で一番若いのは私と彼だ。おそらく、どちらかが最後の語り部となるだろう。私と彼はどちらからというわけでもなくお互いを見つめ、顔を赤らめ笑いながら頷きあった。そしてその後、二人して涙がボロボロと零れた。

 それを契機に笑いは一瞬で涙へと変わり、ホームはしゃくり上げる声の合唱へと変わった。うわんうわん、と人目もはばからずに嘆く声があちらこちらから聞こえてくる。

 ここまで私達を運んできた機関車のピーッ! という甲高い汽笛の音が、高原の人々に別れを告げるかのように悲しい音色となって辺り一帯に響き渡った。






 ある鉄道は一九六二年八月一日、住民の方々に惜しまれつつも廃線を迎えました。その翌日の夜に列車が動いたという話は、「夜に出歩くと幽霊列車に連れて行かれるぞ」と、秋田のなまはげ的な都市伝説として口伝されたようです。ですが、こんな話が真実ならばすごく素敵じゃありませんか。

 皆さんも、もう一度鉄道の本当の良さについて考え直してみませんか?


 ―――と、案外早く書き終わりました。やはり、自分が好きな題材だからでしょうかね。

 現代の若い人々にあの高原列車の素晴らしさを知って欲しいと思い、現代風の作り話をでっちあげたのですが、案外うまい話に纏まりました。今度駒込の某出版社に原稿を持って行ってみましょうかね。

「ばーばー! はやくー!」

 おっと、今日は孫たちと一緒に、先日逝った夫の納骨に来たのでした。新幹線の中でパソコンを使ったせいか肩が痛く、腕をぶらぶらとやっていたら、はしゃいでいる孫は既に先に行ってしまっています。

 孫はどうやら駅前に保存されている機関車に興味があるようです。かなりはしゃいでいるけど、躓かないかしら。写真で見た小さい頃の夫にそっくりですから。

「ばーば、これがじーじののってたきかんしゃ?」

「ええ、そうですよ」

 やっと追いついた私に、孫が開口一番尋ねました。

 駅前に保存されたL字型の電気機関車を眼前に、私は懐かしさのあまり眼を細めます。懐かしすぎてなんだか涙まで浮かんできました。

 当時の遺構は、この機関車を除くとあの始発駅の駅舎くらいしか残っていないと聞きます。あとの大部分は森の中へと消え、辿ることは難しくなっているそうです。となると、この機関車が当時を偲ぶほぼ唯一の存在であるわけで、そう思うと懐かしさと同時に寂しさも浮かんできます。

 と、私の服の裾を小さな孫が引っ張っています。何かを私に伝えようとしているようです。私は涙を悟られないよう欠伸をするふりをしながら、「なあに?」と孫に聞きます。

「なんでこのでんしゃはうごかなくなっちゃったの?」

「そうねぇ、じーじに聞かないとちょっと分かんないな」

「えぇ、じーじってとおくにおでかけしてるんでしょ? わかんないよぉ」

 ぶつくさ言う孫の姿がとても微笑ましく、私はふふ、と微笑みます。

 その人生の大部分を過ごした日本の最先端である東京ではなく、生まれ故郷のこの地に葬られることを望んだ夫。この子が大きくなったら、是非ともそこから推察して、色々と考えて欲しいものです。この先短い私からの宿題と言ったところでしょうか。

 ふと、私は空を見上げてみました。そこにはあの頃から変わらない、しかしほんの少し濁ったような気がする青空があります。

「随分と重い宿題を背負ったものですね……」

 歓声を上げながら機関車を見つめる孫の背中を、私は少し離れた所から写真に収めます。

 もう何十年も使い続けた愛機のニコンF。私はそのシャッターを切りました。

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ある鉄道への追憶 すぎ @kafunsugi

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