正義のヒーロー、ナガトロマン!

すぎ

正義のヒーロー、ナガトロマン!

「これだ……!」

 オレは天才とさえ思うそれに感嘆の思いしか浮かばなかった。

 何もすることがなくとりあえずテレビをつけてみると、ちょうど洋画をやっていた。青と赤の装束を身にまとった男が手から糸を吐いて街を縦横無尽に駆けていく。今日はスパイダーマンをやっているらしい。

 しょっちゅうやってくるコマーシャルの時間にイライラとしながらも、何だかんだ言って最後まで見てしまった。やがてラストシーンになり、スパイダーマンが助けたヒロインの前で素顔をさらしていた。ヒーローの素顔が、これまでさえない男だと思っていた知り合いだったのだからそれは驚きもするだろう。

 そのとき、オレははっとしたのだ。これだ、これじゃないか!? と。



正義のヒーロー、ナガトロマン!

 



 オレは空を飛んでいた。腕の中には、襲われて崖に追い詰められていた波久(なみひさ)さんが小さくなって収まっている。

 気合を出せば何とかなるもんだ。俺の背中からは羽が生え、大きく羽ばたけばたちまち空へと舞い上がることができる。下を見ると、黒い装束をまとったいかにもな悪人たちが地団太を踏んで悔しがっている。

「……ありがとう、大くん」

 オレの腕の中ですっぽりと丸くなった波久さんが、驚きの表情と共に頬を赤く染めながら、オレの方を熱っぽい目で見つめてくる。

「あ、あのね、大くん、私、あなたのことが――」

「待つんだ、波久さん」

 この先は分かっている。日も暮れ、背景は赤く染まった夕日になり、更には誰も居ない上空だ。

 だがオレはヒーローだ。ヒーローは誰のためでもなく、人々のために在り続けるのがヒーローだ。ひとりのためのヒーローになってしまったら、それはヒーローではないのだ。

 オレは安全なところまで移動すると、腕の中で切なそうに見つめる波久さんを断腸の思いで地面に降ろす。波久さんもオレの考えが分かっているらしく、言いたいのだが言い出せないような、つらそうな表情をしている。

「ごめ――すまんな、私は皆のヒーローだ」

「……ううん、分かってるから」

「……そうか。ははっ」

 少し残念そうにしながらも、波久さんが笑顔で微笑んでいる。マスクでオレの素顔は見えないけれど、せめて声音でと、苦笑気味にだが微笑んだつもりだ。彼女もそれを分かってくれていると思う。

「ではな、私はもう行かなくてはならん」

「そう、がんばってね」

 はにかみながらオレを激励してくれる波久さん。くぅ、可愛いが、可愛いんだが、今すぐ飛びつきたいんだが、「実は正体はオレだよ!」って言っちゃいたいんだが。

 けれどオレはヒーローだ。ヒーローなんだ。ヒーローは無償で人を救わなくてはならないのだ。正義のために戦わなくてはならないのだ。そんなことをしたら、オレはヒーローでなくなってしまう。だから――

「――ああ、正義のために頑張ろう」

 としか、彼女には返して上げられないのだ。

「それでは、達者でな」

 オレはくるりときびすを返して歩き出す。オレを呼んでいる声がもう聞こえているからだ。東に助けての声あれば、行って悪を打ち払い、西に悪がのさばれば、行って震える人を救い出す。オレは雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けず、悪を倒す。褒められもせず、苦にもされず、人々の生活を影で静かに笑っている。それが、それがヒーローなのだ。

「……」

 波久さんの寂しそうな瞳に後ろ髪を引かれつつも、次の戦地へと赴こうと、そうしたときだ。

「待って!」

 波久さんの声に俺は思わず振り返った。本来ヒーロー的には背中を見せたまま右手でも振って去っていくのが正しい姿なのだが、不意に呼ばれたこともあり、オレは振り返ってしまっていた。


 ―――オレの唇と波久さんの唇とが、ぴったりとくっついた。


 何か激励の言葉でもくれるのかと、オレはそうとしか思えなかったのだが

 マスク越しではあるが、不意のキスにオレは驚くことしか出来なかった。何か気の聞いたことを言えればいいのだが、さっぱりと出てこない。波久さんの方も、顔を赤くし顔を俯かせたまま、オレの方を見ないのだから余計に気恥ずかしい。

 と、今まで俯いていた彼女の顔が、ためらいがちでぎこちなく上げられたその顔には、太陽のようにまぶしい笑顔があった。

「これからも、がんばってね」

 今度は満面の笑みで、そう、オレだけに向けられたその笑みが、オレに力をくれているような気がした―――



「―――麻生! おい麻生、麻生!」

 担任であり国語教師の熊谷が麻生大(あそう だい)の名前を呼ぶ。今は国語の授業中だ。

「おい起きろ麻生! 麻生!」

「ぐへへ、ぐへへへへへへ」

「……分かった。お前がそういう態度なら俺にも考えがある」

 むにゃむにゃ寝言を言う大の方へ熊谷が向かっていく。周りでは男子女子問わずクスクスという笑いが起きているが、大は気持ちよさそうな表情で目を閉じたまま、一向に目を覚ます気配はない。

 こぶしを握り締めた良い笑顔の熊谷がつかつかと大の方へ歩いていく。そして、ガツン、と拳骨をお見舞いした。体罰が問題となっている現在ではありえないほどに、その拳には遠慮がない。

「い、いってええええええ!!」

 その瞬間、教室はどっ、と大きな笑いに包まれた。クスクス笑いが一気にはじけたのだ。授業中とはいえ、生徒たちはそれを我慢することは出来なかった。

 「ほら静かにしろ」と熊谷が場を制し、まだ何が起きたのかよく分かっていない大に向けて問題を出す。

「よし、じゃあ俺が今話した作品のタイトルは何だ?」

「え、えと、その……」

「ん? なんだって?」

「あ、『アメニモマケズ』です!」

「正解は『注文の多い料理店』だ。寝ないようにそこで立ってろ」

 いつものことなのだろう。熊谷は坦々と、ごく事務的に量刑を宣告する。しぶしぶ席を立つ大を横目に見ながら、隣に座っていた友人の羽生新(はにゅう あらた)は、ぐっすり寝ていたはずの大から宮沢賢治の作品名が出てきたことに驚きを隠せなかった。

「おい、何で宮沢賢治までは分かったんだ?」

「え、だってヒーローだぜ? アメニモマケズ、でしょ?」

「はぁ?」

「だから、ヒーローなら風にも雪にも暑さにも負けないんだって」

「……聞いた俺がバカだったよ」

 新はどうでもいいというようにため息をついて、教科書に視線を戻した。この男の意味不明発言は今に始まったことではなく、というか毎日のように繰り返されているので、高校に入ってからの友達である新でも、もうすっかり慣れてしまっていた。

「くそぅ、せっかく良い夢だったのに……熊谷の野郎め……」

「なんか言ったか」

「何も言ってません」

「そうか。では、ここの心情表現についてだが――」

 夢はいつか終わりが来る。夢はあくまで夢であって、現実ではない。そう思ってはいるのだが、その甘美さゆえに嵌ったらもう抜け出せない。まるで麻薬のようだ、と大はガラでもなく考える。

 黒板に文字を書く熊谷の背中を恨めしげに見つめ、しかしそれは中年の背中なぞ見たくもないとばかりにすぐ止めて、大は一人の女子生徒のほうを見つめてみる。

「はぁ、波久さん……」

 たんこぶを作りながらも、大は嬉々とした表情で彼女のほうを見つめる。すると、何か危険な信号でも受信したのか、彼女は首を振ってきょろきょろとしだし、やがて熱烈な視線を浴びせる大を発見する。

 大もそれに気づき、とびっきりの笑顔で手を振った。オレに惚れてもいいんだぜ、くらいの感じで手を振った。事実彼は「ポッ、あなたの手の振り具合は完璧だわ、結婚して」くらいまでは妄想したが。しかしそれは単なる妄想でしかなかった。

 彼女はこちらに向いている大に気づくと、いかにも気持ち悪そうな表情を隠そうともせず、そしてすぐに黒板へと向き直ってしまった。

 大はガックリと肩を落とし、夢が現実にならないかなあ、などと取り留めのないことを考えていた。



「まだ痛むのか?」

「あんにゃろう、思いっきり殴りやがって……」

「ま、どう考えても自業自得だけどな」

「ひでえ、お前友達じゃなかったのかよ!」

「友達ならこの前貸したマンガ代の金は返してくれるよな?」

「いえ、なんでもないです……」

 大はしゅん、とうなだれる。数千円ではあるが、大は新に借りがある。高校生の数千円は、大人で言うところの女の子にお酒を注いでもらえる店一回分のツケほどの価値があるのだ。基本的に大は新に頭が上がらない。

「でもさ、あれだけのことがあったのに、クスリくらい笑ってもいいと思うけどなあ」

「波久さんのことか?」

「そうそう」

「……お前まさか」

「いやいや、あれは単に眠かったから寝てただけだよ。ウケ狙いとかじゃないって、ホントだって」

 新は疑わしそうな目で大を見つめる。大は口笛などを吹いているつもりらしいが、しかしひゅー、ひゅーという風の音にしかなっていない。

 麻生大の他人からの評価は、「面白いけどはた迷惑な奴」というのが大半だ。中肉中背でフツメンで、運動神経も学業成績もいたって普通。しかし、彼の存在感はクラスでも際立っている。ごく簡単に彼を紹介するならば、「バカ」という二文字がしっくり来る。

 現在は地元の長瀞から電車で通学しており、同じ駅から通学してくる新とはその縁で仲良くなった。大は金を借りるときなどによく「親友よ!」と叫んでいるが、新に言わせれば「最寄り駅が一つ隣の上長瀞駅だったなら、お前とは話しさえしたいとは思わなかった」とのことである。

「それにしても、波久さんが好きとは、お前も物好きだなあ」

「だってカッコいいし、クールだし、綺麗だし!」

「分かった分かった」

 身を乗り出してくるのを、新はどうでもよさそうに乗り出した大の体を押しのける。

 波久さんとは、クラスで一番、いや学年で一番であると、他のクラスでもそれが定説として扱われているほどの美少女だ。

 身長は一六五センチと女子の中でも高く、そして胴長になることもなくすらっと伸びた足はモデル歩きをしたらさぞ映えることだろう。目鼻立ちはくっきりし、睫毛は長く、それでいてわざとらしさやいやらしさは感じられない。肩甲骨のあたりまで伸ばした長い黒髪に、きりっとした細い目が、そのクールな雰囲気をよりいっそう引き立てる。「まるでお嬢様のようだ」とは誰が言ったか、実に的を得た表現である。

 フルネームでは波久伶(なみひさ れい)と言って、なんと父親は埼玉県議会議員であり家庭環境までお嬢様、そしてお嬢様なのだから学業優秀という三段論法が成立するのだから、これ以上何があるのかという話である。

 ちなみに大とは出身が同じで、しかも同じ中学だったが同じクラスになったことはなかった。当時から傍若無人っぷりが知られていたが、そんなことは気にもせず、中学時代から憧れの対象であったのだ。

 ほわんほわんとだらしのない表情で伶の姿を思い浮かべる大に、新が言う。

「でもさ、最終的には彼氏彼女の関係になりたいんだろ?」

「え、いや、そんな……」

「気持ち悪いから体をくねくねさせるんじゃない。それに、そういう関係になるにはでかい壁があるだろ」

 そう、完全無欠のハイパー美少女であるはずの彼女には問題があったのだ。

「は? そんなもんねえし」

「……お前、今まで波久さんと喋ったことあるのかよ」

「あるけど」

「ま、マジかよ!? ……って、どういう会話だ?」

「オレが『今日も綺麗だね』って言ったら、『どっか行け、じゃなかったら死ね』ってさ。もう、可愛いんだから。あ、あとあとそれから~」

「いや、もういいわ。分かったから」

 体をくねくねさせる大を、新は肩をつかんで止めさせる。見るに耐えなかったからだ。

 彼女を表すときに「お嬢様」という言葉も良く使われるが、一方で「氷の女王」という言葉もまた良く使われる。いや、むしろ後者のほうが彼女を形容する際には一般的になっている。

 彼女は、協調性なし、人当たり悪し、喜怒哀楽なしの三拍子そろった「女王」なのだ。高校という社会においてそれらは最も重要のように思えるが、県議会議員の娘であることもあって、陰湿ないじめで定評のある女子間でも、嫌がらせの噂話程度しか流せないのであった。

 美少女ではあるが誰とも群れない一匹狼であるため、美少女というカテゴリーから外れ、むしろ「気味が悪い人」というカテゴリー分けをされているのだ。もっとも、大を中心とする「波久伶さまファンクラブ(公式)」では、「女王」ではなく「女神」という位置づけになっているが。このファンクラブについて補足しておくと、構成員はほぼ百パーセントドMの集まりであり、更に公式を名乗っているが本人には全く報告していない。非公式の公式とはまるで意味が分からない。

 閑話休題。

 大の口ぶりからするに、伶に何度も「今日も綺麗だね」的なことを言っているらしい。いい加減ウザがられているのに気づいてもいいものだが、大はめげる素振りすら見せない。

「ふっふっふ、オレには秘策があるのだよ、秘策が!」

「ああ、俺はそろそろ帰るから」

「おいちょっと待てよ、そこは『えー、秘策って何それ気になるぅ』とオレに問いかける場面じゃないのかよ!?」

「いや、俺ってば母さんに我が家秘伝のミネストローネのレシピを伝授してもらう約束をしてたんだよー。残念残念」

「そんなどうでもよさそうな用事と見え見えの嘘ついてまでオレとかかわりたくないの!? 親友だろ!?」

「親友? はぁ?」

「お願いします聞いてくださいあなたしかいないんです」

「……で、秘策って?」

 心底めんどくさそうに新が聞くと、大は「ふっふっふ良くぞ聞いてくれました」とお決まりなセリフをのたまう。今までの落ち込みようはなんだったのか、腕組みをしてちっちっち、とやる大の姿に、新は隠そうともせず「うぜえ」と呟く。

 そんなことはお構いなしで、大が新に詰め寄るようにして身を乗り出す。

「なあ、ヒーローっていいと思うよな!?」

「……またいきなり何の話だよ?」

「だから、オレがヒーローになって波久さんを助けるんだよ! それならきっとオレに振り向いてくれるはず! ということで親友よ、協力してくれ!」

「……お前とはもう付き合ってらんないわ」

「ちょっと待て、お前それ本気で言ってるのか」

「本気だよ」

「エヘヘヘヘ、って、あれ?」

 新はそのまますたすた帰りだす。大の横を寒々しい空気が駆け抜けていった。



「君、困っているんだろう? 正義のヒーローである私、ナガトロマンがその悩みを解決してやろうじゃないか」

「…………」

 その後、結局付き合わされることになった新によって調達されてきたプロレス用と思われる安っぽいマスクをかぶり、全身は赤いタイツ、そして戦隊ヒーローっぽい機械的な装飾(布や紙製で勿論ダミー)がちらほらと付けた衣装に身を包んだ大は、長瀞の駅前から出てきた波久伶その人の前で、威張るようなポーズで腕組みしながら立っていた。胸の真ん中にセロテープで貼り付けた宝登山神社のお札が、風を受けてひらひらと揺れている。

 とりあえず名前はナガトロマンにした。今は地域のヒーローが流行っているらしいから、その流行にあやかろうと、大はこれでも考えたのだ。これでも。

 いつもならゲーセンに行くなどしてすぐには家に帰らない大だが、この日は伶を待ち構えるために急いで電車に飛び乗り、駅前の公衆トイレで持参してきた衣装に着替えて待ち構えていた。

 当たり前だが当の伶本人は絶句したまま固まっている。すぐ隣を母親と子供が「ねえママ、あの人あたまおかしいの?」「こら! 厨二病の末期症状の人なんだからほっときなさい!」「でも、ママもなつとふゆにとうきょーに出かけてアニメのおようふくきてるよね」「な、なんでそれを……」「ことしは『あのはな』とかだからはりきるって――」「もういい、もういいから!」みたいな会話をしながら通り過ぎていく。結構な大声でそれを言っているものだから、絶句していた伶にも丸聞こえである。どれほどの知名度があるか、聖地を舐めないほうがいい。

「ゴホンッ!」

 大、もといナガトロマンはわざとらしくせきをした。その動作も含めて、伶は絶句から胡散臭そうな目に変わる。

「君、困っているんだろう? 正義のヒーローである私、ナガトロマンがその悩みを解決してやろうじゃないか」

 どうやらもう一度やり直したいようだ。伶としてもこのまま茶番を続けられても面倒極まりないので、さっさと帰宅するためにも核心からどんどん攻めていく。

「あんた、何のよう? 何の真似?」

「な、何のことかな」

「声で分かるんだけど」

「じ、実はだね、その、えーと……」

 既にバレている。ヒーローとしては失格である。ボイスチェンジャーの購入も検討したのだが、マスクに収まりきる小型タイプはかなりお値段が張ることもあって断念したのだ。いつものように新にたかったが即断で断られたということもある。

 とはいえ、会った瞬間にバレるというのは大としても予想外である。ここはなんとしても言い訳を考えなければならないのだが、動揺ですぐに答えは出てこない。やっとそれらしい言い訳が出来るまでに一分の時間がかかっていた。

「あ、あれは兄なんだ」

「兄?」

「そ、そう、実はオレ――いや、私は死に別れた大の弟なのだ。しかし、生前警察官になりたくて仕方がなかったために正義の心が強すぎて、ヒーローとしてこの世にとどまり続けているのだ!」

 なんとも都合のいい厨二病設定である。しかも最後は大声で締め切った。思い付きにもほどがある。

 しかし、うざったいだけのはずの伶はそれ以上追求することはなく、あごに手を当てて何かを考えている。バレていないのだと思った大は、マスク越しにふーっ、と息をつく。

「ふーん、そう。ちなみに、何で困ってると思ったの?」

「直感だ」

「……別に困ってるわけじゃないんだけど」

 大には聞こえないくらいの小さな声で、意味ありげに伶が呟く。

「……まあ、別人を主張するならいいか。人手にも困ってたとこだし」

「な、何だね?」

「ううん、なんでもないの」

 伶は少し暗めの声音で、少し顔を俯かせて否定の言葉を口にする。いつもならもっと尊大な口調で「死ね」などと平気で言う口の悪い伶が、こんな声音で話すだろうかと、大は一瞬困惑する。

 しかし、次の瞬間にはいつもの傍若無人な雰囲気に戻っていた。

「もう一度確認なんだけど、あんた、あのうざったくてどっか行ってほしいと思ってる麻生大じゃないのよね?」

「そ、そうです……」

 今まで尊大な口調だったナガトロマンだったが、何故だか涙目で敬語になってしまっていた。

 その返事に満足した伶は、「分かったわ」と頷いた。

「そうね……じゃあ、ちょっと荷物を運んで欲しいのだけど」

「……いや、私は君の悩みをだね」

「運んでくれないんならどっか行って」

「いや、喜んでやらせてもらおう! うわっはっは!」

 伶は完全に使いっぱしりとして大を認識しているようだ。しかし、大にとってはいくら別人に成りすましているとはいえ、まともな会話が成立したこと自体が初めてなのだ。これで浮かれるなと言うほうが間違っている。そのせいでいつの間にか尊大な口調も直っていた。

「じゃあ、ついてきて」

 こちらは相変わらず尊大な口調で、ただでさえ格好の怪しいナガトロマンに平気で指図している。そして、美少女と全身タイツにマスク姿の男が連れ立って歩くと言う光景に、道往く人がちらちらと見ていてもまるで気にすることはない。彼女の肝の据わり具合もなかなかのようだ。

 駅から少し歩いたところで、伶の歩みが止まった。必然的にナガトロマンの足も止まる。彼女は前方に指をさして言う。

「ここよ」

「……あれのことか?」

「あそこに見えてる家まで運んで」

「でかい……」

 長瀞のような田舎町であれば、町長や県議会議員といった行政側の有力者の家が、地域の有力な武士や地主など、由緒正しい家であることは多い。

 ご他聞にもれず波久家もその例に当てはまり、立派な日本家屋の母屋らしき建物を中心に、後に作ったと思われる現代的な家、それにいかにも重厚で大きな蔵が二つ、それに魚が泳ぐ大きな池もある。

 伶は重厚な門の前で立ち止まった。それにあわせてナガトロマンも一歩後ろに立ち止まる。ここが波久家の実家なのだろう。こういう家に初めて入る彼はしばし立ちすくんでいたが、どんどん先に進んで行ってしまう伶の後ろをついていかざるを得ず、何故だか気まずい気分でその重厚な門をくぐり抜けた。

 先に門をくぐっていた伶は、大きな母屋と思われる日本家屋ではなく、隣の現代的な家のほうへ向かい、ポケットから鍵を取り出して玄関のドアを開けた。

「少し待っていて」

 そうナガトロマンに告げると、彼を置いたまま中に入ってどこかへ消えてしまう。少しの間待ちぼうけていると、重そうな段ボールを抱えた伶が玄関までやってくる。

「運ぶ荷物というのはこれかな?」

「そうよ」

 目の前にあるダンボールの大きさは、居酒屋の裏口などでよく目にする瓶ビールのケースほど。試しに持ってみると、何か本でも入っているのか、それほど大きくないダンボールではあったがずっしりとした重みがあった。確かに、この重さでは女子の腕力では運ぶのに一苦労だろう。

 放っておくと一人で行ってしまう伶についていかないわけにもいかず、後ろ髪を惹かれる思いで豪邸から離れていく。

 そこそこ重いダンボールを抱えながらの移動は堪えるかと思った大だったが、伶の後ろをくっついていくこと十分ほどだ。今まで勝手に進んでいた彼女が後ろを振り返って、ナガトロマンにも分かるように「あそこ」と指をさす。

「そうよ、ここが私の家」

「え? だが君は県議会議員の娘じゃなかったのか?」

「ええ、だけど今私、一人暮らししているの」

 大は単純に驚いた。大学生ならともかく、寮でもなくて一人暮らしをしている高校生など聞いたことがなかったからだ。しかも、実家がすぐあるというのに、なぜ苦労の多い一人暮らしなどしているのだろう。

「でも、どうして……」

 思わず口についてしまってから、大はしまったと思った。予想通り、伶はむっとした表情でナガトロマンを睨んでいる。しかし、その睨みにもいつもの強気な目ではないように大には感じた。いつもなら気圧されて、すぐにでも逃げたくなってしまうほどの眼力であるはずだ。しかし、今日はそれがない。何かあったのだろうかと大は思ったが、これ以上機嫌を悪くさせてもしょうがないので、何も言わず黙っていた。

「ヒーローなら、他人のプライベートにまでは踏み込んでこないものよね」

「う、うむ。そ、そうだな。と、ところで……」

「何かしら?」

「私は部屋に入ってもいいのだろうか」

「ええ、別に構わないわよ。というか、そうじゃなきゃ荷物が運べないじゃない」

「そ、そうか。そ、そうだよな。ぬは、ぬははは」

 プライベートとやらが大はかなり気になったが、しかしそれ以上に憧れの波久さんの家に入れるというだけで心は有頂天であった。

 どうやら外付けの階段を上って一番奥が伶の部屋であるらしかった。鍵を開けてドアを開けると、伶がくるりとナガトロマンに向き直る。

「いい? 何かしたら社会的に抹殺するから」

「そんなことは、この宝登山神社のお札に誓ってしないと断言しよう」

「……まあいいけど」

 そんな度胸もないか、と伶は小さく呟くが、男として認識されていないナガトロマンもとい大は、憧れの人の部屋に入れるウキウキでまるで聞いていない。

 彼女の1DKの部屋は、壁紙や調度品の基調を白としたシンプルな印象で、木製の家具も木目のまま使われている。暖色系の多い女子の部屋、という感じではない。化粧品や鏡台などもあるが、印象だけで言えば綺麗好きな男の部屋、というのが一番しっくり来る表現だ。

「女子の部屋をあまりじろじろ見るもんじゃないわ」

「す、すまない」

 伶にジロリとにらまれたナガトロマンは分かりやすく目を泳がせる。いや、マスクで目線は見えないはずだが、睨まれるとすぐに顔をそらしたことからも明らかだ。

 伶は「荷物は部屋の角に置いてちょうだい」とナガトロマンに伝えた。大がその通りに荷物を置くと、「よし」と伶が確認するように呟き、そのまま家から出て行ってしまう。家族である伶が出て行ったのだからいつまでもそこにいるわけにも行かず、真意の分からぬままナガトロマンも彼女について出て行く。すると彼女はドアを閉めて出て行ってしまう。そのまま、何事もなかったかのように立ち去ろうとする。

 「中身は見ないでよ」と伶に釘を刺されたナガトロマンは、何をするでもなく部屋から出て行く伶になし崩しについていき、夢のようであった彼女のお宅訪問をなんとなくで終わらせる形となってしまった。

「あの……」

「ああ、ここからは私が何とかするわ。ありがとう」

 伶は至極あっさりと言う。もう少し何かあるのではないかと期待していた大は、状況をよく理解できずそのまま固まってしまう。

「何? あなたの役目はもう終わりよ――って、ああ、忘れてたわ。ちょっと待ってて」

 伶はもう一度ドアを開けて家の中に入っていく。待つこと数分、手に何かを持った彼女がまた玄関から出てくる。

「はい、これ」

 そう言って手渡されたのはごくありふれた缶ジュースだ。これがここまで手伝ってくれたナガトロマンへのお礼らしい。

 伶はそれで満足したらしく、「それじゃあね」と歩いてどこかに行ってしまう。それじゃあね、ということは別れの挨拶なのだろう。「ちょ」とナガトロマンが呼びかけてみるも振り返ってくれる様子はなし。完全に置いていかれたらしい。

「え? これだけ?」

 手渡された缶ジュースを見つめ、途方にくれる正義のヒーロー、ナガトロマン。しばらく家の前でどうしたものかと考えていたが、しかし中身が「バカ」で学校内でも有名な大である。すぐに考えることを止め、家の出口に向かってスキップをし始めた。

「でも、波久さん実家は見れたし、アパートの中には入れたし、まあいいかあ」

 あはー、とだらしなく緩んだ顔で門を出て行く全身タイツの男が一人。どこまでもおめでたいヒーローであった。

 当たり前だが、その後パトロール中の警察官に職務質問されたのはまた別の話である。



「よし、今日もありがとう」

「こ、これくらいはお安いごようだぁ……」

 そう言いながらも疲労困憊で地面に座り込むナガトロマン、もとい麻生大である。

 今日も今日とて力仕事。荷物運びの件から何度も使いっぱしりをやらされ、そろそろ一ヶ月が過ぎようとしている。どうやら伶にとってこのヒーローらしき人物、女子ではやりづらいことも全部やってくれるため、そこそこ有用だと思われているらしい。

 それはそれで大にとってはいいことなのだが、そこから一向に進展しないのもそれはそれで考え物だ。

「それでは、私はこれで失礼する」

「あ、ちょっと待って」

 いつものようにナガトロマンが去ろうとすると、伶は意外なことに彼を引きとめた。

「今日は喫茶店に行きましょう」

「……へ?」

「いつも色々やってくれてるから、お礼よ」

 大は少しだけ、というかかなり彼女との間が狭まった気がして、内心有頂天になっていた。憧れの彼女と喫茶店デートである。これで興奮しないのが無理というものだ。しかし――

「一応聞くんだけど、あなたはうざったくてどっか行って欲しくて顔も見たくないあの麻生大じゃあ、ないのよね?」

「そ、そうです……」

 毎回聞かされるこのくだり、分かっているとはいえ内心ヘコんでいる大であった。そうですよね、あくまでナガトロマンへのお礼ですよねー。

 大の空返事に「そ」と気のない返事をした伶は、ついて来いというように一人でさっさと歩いて行ってしまう。それに慌ててついていくナガトロマン。途中で警官とすれ違ったが、町の有名人と一緒に歩いているだけで職務質問してこない。大は「分かりやすいなあ」と取り留めのないことを考えていた。

 やがて目的の場所らしい喫茶店に到着する。いかにも街の喫茶店といった雰囲気の、感じのいい店だ。伶がドアを開けると、チリンチリン、というベルの音が店内に響き渡る。

 店内にお客はいなく、いるのはカウンターでグラスを磨いている白髪のマスターだけだ。マスターは一瞬驚いたような表情をしたが、しかしそれ以降は元の温和そうな表情でグラスを磨き続けている。

「いいマスターでしょ。何か訳ありみたいでも、何も聞かないでくれるの」

「そう、だな」

 伶のやさしい微笑に、いい店だと大も思う。そして、そんな微笑みもいつか自分自身で、麻生大という存在のままで受け取って見たいと思った。今の現状では、果てしなく無理なことだが。

「ん? それは何だ」

 ふと、大は伶の鞄の中に大きな冊子のようなものを見つけた。学校に持って行くには大きすぎる。

「それは、アルバムかな?」

「別に、なんだっていいでしょ。単なる家族のアルバムを間違えて持って来ちゃっただけよ」

 これ以上突っ込んで欲しくなさそうな口調であったのでそれ以上は何も言わなかった。

 それからの二人は、ごくごく取り留めのないことを話した。ここにいるのは麻生大ではないため学校のことは話せないが、

 最初は浮かれてしまって何を話していいのか分からなくなるかと思った大だったが、マスクをかぶっているおかげか妙に冷静になれた。それに伶の雰囲気がいつもの棘々しいものではなく、むしろ穏やかだったこともあり、緊張せずに話すことが出来たのだ。

 彼女にもこんな一面があったのだと、大はますます伶に惚れ直した。

 その日は何事もなく別れた。去り際の彼女はちょっと複雑そうな表情では会ったけれど、あの近寄りがたい雰囲気は出ていなかったし、少しは進んだかな、と思う。

 店から出て、気分よくスキップして帰るナガトロマンこと、麻生大。当たり前だがその後警察官に職務質問された。



「いやあ、波久さん、今日もクールでかっこいい……」

「あっそ」

 学校帰りに何か用事があるらしく反対方向の電車に乗る伶を、大は向かい側のプラットホームから熱の篭った目で見つめる。それに対し、新は心底どうでもよさそうに返事をする。

 その後もナガトロマンによる伶への救済、もとい使いっぱしりは続いていた。缶ジュースを買いに生かされるのは当たり前、燕の生んだ子安貝を持ってこさせるようなことはしなかったが、誰が見ても使いっぱしり間違いなしの依頼ばかりであった。しかしそれでも、先日の喫茶店の件といい、誰とも仲良くなろうとしない彼女と会話が出来るだけでも、波久伶さまファンクラブ(公式)のメンバーの誰よりも彼女に近しいことになる。まあ、いつも他人だと偽ってのことだったが。

 しかし、それもそろそろお終いだ。今まで助けた分だけ伶のナガトロマンへの高感度は上がっているはずだ。そこで、実はナガトロマンの正体は麻生大なのだと暴露すれば――

「――『麻生くん、まさかあのナガトロマンだったの?! 大好き! もう放さない!』『ああ、オレも放さないよ』だなってもうさあ、困っちゃうよなあ!」

「そうだなー」

 同じく隣で電車を待っている新がまるでどうでもよさそうに、とりあえず返事だけはする。返事をしないともう一度先ほどの内容を繰り返されるからだ。それはそれで面倒くさいので、相槌だけは打っているのだ。

「『もう大くんしか見えない!』『オレも伶ちゃんしか見えないよ』だなんてさあ!」

「そういえば波久さん、転校するんだってね」

「そんでもって…………は?」

 くねくねくねくね気持ち悪い動きをしていた大の動きが一瞬で止まる。

「今までがウザかったんなら謝るから、変な嘘は止めてくれよぉ」

「ウザかった自覚はあるんだな」「おいおいおいおいちょっと待てよ、オレを不登校にさせたってなんの利益もないぜ」

「お前が学校に来る理由は波久さんを見に来るだけかよ……」

「今はそんなツッコミを期待してるんじゃない。大事なのは、転校するのが本当なのか、ってとこのただ一点だけだよ」

「あくまで噂だけど、な」

 夕暮れに染まった空を見上げながら新が言う。

「ま、マジなの?」

「嘘ついたってしょうがないだろ」

「な、何でだよ! 理由は!?」

「服を引っ張るなっての! ……理由なんか知らねーよ。単なる噂だしな。でも大方、こういうのが嫌になったんじゃないのか?」

 新はちょうどやってきた帰りの電車を指差しながら言う。やってきた電車は、塗装はお世辞にも綺麗とは言えず、ところどころに錆が浮いている。そうでないところも元の色が正確には分からないほど、色がくすんでしまっているように見えた。

「都会の電車は十両編成以上が当たり前、来る間隔も十分以下。それに比べて我が長瀞の秩父鉄道は三両編成、待つときは一時間弱待つこともある」

 ぷしゅー、というけたたましい音と共にドアが開き、ヴヴヴヴヴ、というむきだしの機械音がプラットホームに響き渡った。

「都会に憧れてるんじゃないの? 推測でしかないけど」

 新は電車に乗り込みながら言う。すると突然、大がきびすを返して走り出した。

「ちょっと確かめてくる!」

「あっ、おい!」

 向かうは隣のプラットホーム。線路を渡るための踏切を渡って、大は一直線に伶の元へと向かう。

 こちらに向かってくる大に、伶は唖然として動くことさえ出来ない。やがて新が乗ったままの電車が発車し、ホームには大と伶の二人だけしかいなくなった。夕暮れ時、線路に落ちる影はホームの屋根以外二つしか見当たらない。

 大は息を切らせながら伶の前へと走り寄った。勿論、噂が真実なのかを聞くためだ。

「何の用よ」

「ちょっと、聞きたいことがあって」

 先日の喫茶店のときのような柔らかい雰囲気ではなく、いつもの誰をも寄せ付けない雰囲気が彼女に漂っていた。

「転校、するの?」

 その言葉で、伶の表情が完全に崩れた。

「そうよ! 私、転校するの!」

 伶は泣き叫ぶような声で、大に言葉を叩きつける。

「あ――」

「私に優しくしないでよ!」

「っ!」

 大は押し黙った。

「ナガトロマンとか、何のつもりなの!?」

 何も言えなかった。口を挟むことさえはばかられるような、そんな剣幕だった。

「私が誰とも仲良くしようとしないから、同情してくれてるんでしょ!? そんなの迷惑だから! どっか行きなさいよ!!」

 そ、そんなつもりじゃ――そう言おうと口は開いているのだが、喉から音が出てこない。ひゅー、ひゅー、という空気の漏れる音がするだけだ。

「何で、何で今更……!」

 ちらりと大は見た。大が好きな彼女の細い目元から、一粒のしずくが零れ落ちたのが。

 伶の雰囲気は、普段の近寄りがたいものではなく、親に怒られて家を飛び出し、帰るに帰れなくなった子供のような、そんな雰囲気を纏っていた。

「っ……じゃあ、電車来たから、もう行くわ」

「あ……」

 けたたましい音を立てながら、向こうから電車が迫ってくる。三両編成の、まるで田舎臭い電車だ。

「ま、待って」

 踏み切りの甲高い音が大の声を掻き消す。電車はプラットホームに滑り込み、彼女は開いたドアから飛び乗って、そしてすぐにドアは閉まり、反対方向へと動き出す。

 今更だが、大は喫茶店のことを思い出した。伶は、ナガトロマンの格好をした大を見ても何も言わなかったマスターを「何も聞かないでくれるの」と言って微笑んでいた。

 彼女は干渉して欲しくなかったんじゃなかろうか。電車のテールライトが見えなくなっても、大はそこでずっと立ち尽くし、自問自答をしていたのだった。



「おー、珍しくアンニュイだな。ありがたやありがたや」

「…………」

「……おいおい、お前がそんな調子じゃあこっちがおかしくなっちまうぜ」

 翌日の学校で、大は「死んで魂が入れ替わった」だの「実は二重人格だった」だの「事故で記憶喪失になった」だの、散々な言われようだった。朝からずっとむっつり押し黙ったまま、まるで一言も話そうともしない。

 一方の伶のほうはというと、いつもの近寄りがたいオーラを今日はいつもの三倍増で出しており、いつにもまして彼女の周りには人がいない。麻生大、勝負をかけたがついに手ひどくやられたか、というのがクラスの統一的見解である。

 伶が席を立ち教室を出て行ったからかどうかは知らないが、ポツリ、と大がこぼすように呟いた。

「……なあ親友」

「お、何だ?」

 今日始めての会話の相手は、やはり隣の席の羽生新その人であった。

「かくかくじかじかというわけなんだが、オレはどうしたらいいと思う?」

「……いや、本当にかくかくじかじかと言われても分からんし」

「……」

 それ以上話す気がないのか、それ以降大はむっつりと押し黙ってしまう。

 そのまま沈黙が訪れ、二人して黙り込む。いつも馬鹿を言い合っている二人とは思えないほどに、そこには何のコミュニケーションもない。そんな状況に先に痺れを切らしたのは新のほうだった。

「お前が何で悩んでるかなんて俺は知らないけどな」

「……」

 突き放すように新が言う。対する大はだんまりを決め込んだままだ。

「お前ってさ、そんなウジウジ悩んでる奴だったっけか?」

「……っ」

「考えてる暇があったら行動したほうがいいんじゃないか?」

 新は馬鹿にするような口調で、かつ苦笑交じりで大に語りかける。

「少なくとも今まではそうしてきたわけなんだし、今更色々考えるなんてお前らしくねえし、そもそも慣れてねえから考えたって失敗するだけだろうよ」

「そうか……」

 侮蔑とも取れるその言葉に対して、大は一瞬だけ呆けたような表情をしていたが、次第に表情を取り戻し始め、最後にはいつものような快活な雰囲気がはっきりと感じられるようになった。

「な? そうだろ?」

「そうか、そうだよな……」

 「よし!」と大は自分に気合を入れる。やはり自分には思慮なんて言葉似合わないし、そもそもそんなことをしても慣れないことをして上手くいかないだけだ。単細胞な人間だと、自分でも重々承知している。なのになぜ、それに気づかなかったんだろうか。

 やはり持つべきは親友、友達である。

「ありがとう親友! 今までの借りは全部百倍にして返す!」

「今までの借りを百倍にしたら、お前大変なことになるぞ」

「やっぱり二倍で!」

「……ああそうかよ」

 去り際に「次の授業からいなくなるけど、何か言い訳しといてくれ!」と叫んで教室を出て行く。一度火がついてしまったのだから、その疾走を止めることはもう誰にも出来やしない。

「おいおい、次の授業は熊谷だぜ」

 炊きつけた張本人は面倒くさそうにぶちぶち文句を言いながらも、実に満足そうな苦笑を浮かべるのだった。



 授業を完全にボイコットして、大は長瀞の駅まで先回りして待っていた。理由は勿論、伶を待ち伏せするためだ。

 当然ながら、衣装はあのプロレス用の安っぽいマスクに、全身真っ赤のタイツ。それに宝登山神社のお札を胸の真ん中に貼り付けたヒーロースタイル。

 大はナガトロマンの仮面の下で、最初に彼女を助けたとき、すなわち荷物を運んだときのことを思い出していた。

 邪険にされはしたが、少しは彼女の役に立てたみたいで嬉しかったのだ。自分はヒーローだ。名前からすれば長瀞を守るヒーローなのだろうが、少なくとも今だけは違う。自分は伶のためだけに存在するヒーローだ。

 長瀞駅から出てくる彼女を、ナガトロマンが迎える。

「私は君にとっての何でもない。よければ、話してみないかね?」

 二人の間にしばしの沈黙が訪れる。お互いがお互いを値踏みするかのように、二人ともが微動だにせず、相手を見つめている。

 先に動きが生まれたのは伶だ。深呼吸するように、心を落ち着けるように、そして呼吸に合わせて閉じられた目が、ゆっくりと、大の視線に応えるように開かれた。

「一つ聞きたいのだけれど」

「何かね?」

 ナガトロマンは、あくまで普通を装って返事をする。

「あなたはうざったくてどっか行って欲しくて顔も見たくないあの麻生大じゃあ、ないのよね?」

 しばしの沈黙。その間も、お互いは視線をそらさない。

「ああ、違う」

「…………そう」

 伶はその応えに、満足そうに、そして深く頷いて、顔を上げるとそこには柔らかな笑みがあった。

「……ちょっと長いけど、聞いてくれるかしら?」

 ナガトロマンは無言で、しかし強く

 彼女は決心をするように深く頷いてから、呟くように、しかししっかりとした口調で、語り始めた。

「父と喧嘩をしたの」


「一人暮らしをしてるのは知ってるわよね。その理由は、ここから離れる予行演習のためなの」


「中学時代、何かのついでに全国でも有数の進学校に体験入学させてもらったことがあるの。そこで、ちょっとカルチャーショックを受けてね」


「さすがは東京の私立中学、と言ったところかしら。配られたプリントは分かりやすいし、先生の教え方は上手だし、こんな授業を受けてれば誰でもすぐに成績が上がることが分かって、私は地元との差に危機感を感じたわ。『このまま地元にいたら、良い大学に通えなくなる』ってね」


「高校受験のとき、私は父に『東京の高校を受けたい』って言ったわ。そしたら父が『お前は私の後を継ぐんだから、高校卒業まではここにいなさい』ですって」


「父は選挙の時に旧友が入れてくれる一票が大切だって考えてるらしくてね、その時も今回と同じような口論になったわ。で、妥協点として実家から行ける距離で一人暮らしをする権利を貰ったってわけ。まあ、すぐに根を上げると思っていたからこそこんなこと許可したんだと思うけど、ざまあみなさい、って感じよね」


「父は私が東京へ行ったまま帰ってこないと思ってるのよ……頑固で意地っ張りだけど、父のことは尊敬しているわ。議員にだってなりたいと思ってる。だから、だからこそ、私は自分の力で議員になりたい」


「私は、父から自立したい。父の七光りだって言われない、立派な人間になりたいの。出来ることなら、埼玉以外の県で立候補したいくらいよ」


「一人で何でも出来るようになりたかったの。だから、こんな田舎の高校で友達ごっこなんかしたくない、そんなことをしている暇があったら勉強すべきだって、そう思ってる。友達づきあいなんて勉強の邪魔なだけだわ」


「そう思ってたけど、そろそろ限界だったのかもしれない。一人って、結構辛いものね」


「だから、引越しの準備を自分でして、それで何とか東京の高校へ転校させてもらうつもりだったんだけど……」


 ふふっ、と自嘲めいた笑みで、しかしそれがかえって愁いを帯びた表情になり、妖艶とも言える表情となる。あまりにも大人びた表情に、平静を装っていた大も思わず動揺してしまう。

「将来への不安をあなたは気づいてしまったのよね。だから、『困ってるのか?』って聞いたんでしょ?」

「あ、ああ」

「ふふ」

 伶はさわやかな笑顔を浮かべながら続ける。

「こんなこと言うのもなんだけど、あなたに話して結構楽になってるわ。昨日の大くんにどなっちゃったのは、申し訳なかったけど」

 「父とまた喧嘩しちゃったのよね」と、おどけたように伶は言うが、大はそれに対して申し訳なさしか感じていなかった。

 彼女と仲良くなれるかもしれないと言う、自分の欲望ただ一点で彼女に声をかけたのだ。そこには彼女を助けようという意思なんてなかったし、ましてや助けていると言う自覚さえなかった。彼女と話せれば、自分は幸せだったのだ。

 とんだヒーローも居たものだ。ナガトロマンはヒーローだが、本来長瀞のヒーローではない。伶のために生まれたヒーローなのだ。それなのに、伶と話したいという自分の幸せしか考えていなかった。これではヒーローではない。彼女を救った気になって自己満足に浸っている、麻生大というただの人間でしかない。

 ヒーローとは、無償で人を救うものだ。夢の中の自分がそうだったように、それは自分の利益は一切無く、ただただ救う人のためでなくてならない。

 動揺で我を忘れる大に対して、伶ははにかむような笑顔を浮かべる。

「私だって、そんなに強いわけじゃないのよ」

 そう言って伶は、何か冊子のようなものを見せてくる。

「これ、この間あなたに運ばせたものなのだけれど」

 ふふふ、と伶は柔らかく笑う。

「これは家族のアルバム。本当は引っ越した先にも持っていこうと思ってたんだけど、いざ引っ越そうってなったときにこれを見たら、なんだか決意が揺らいじゃってね」

 伶はぱらぱらとページをめくり、ナガトロマンに見せてくる。そこには、川の中で父と一緒に遊ぶ小さな伶の姿があり、父に肩車してもらっている浴衣姿の小さな伶が綿飴をかじっていて、入学式と書かれた看板の立った小学校の門の前でピースサインをする父と小さな伶の姿があり――

「――君は、お父さんが大好きなんだな」

 その問いに対して、伶は「ええ」と臆面もなく肯定する。動揺していたことも忘れ、胸の中は暖かい気持ちでいっぱいになった。

「好きだからこそ、そんなかさばるものを学校へ持って行ってたんだな」

「……出来ることなら、喧嘩なんてしたくなかったもの。それで、ちょっと不安になって、ね」

 教室では一人でいて、孤独だったろう。しかしどんなときでも、父親との絆があったからこそ彼女は独りで立っていられたのだろう。しかし、今はそれがない。喫茶店の時にアルバムがあったのは、父親と言う絆が一時的にだが切れてしまって、不安だったのだろう。

「本当は、喧嘩なんてしたくないもの」

 伶は寂しそうにポツリと呟いた。それは普段の彼女からは想像もつかないほどの、寂寥感につつまれた言葉だった。

 彼女のそんな思いを聞いて、大は先ほどの新の喝を思い出していた。「考えてる暇があったら行動した方が良い」、尤もなことだ。大にとっては、それが一番わかりやすい。

 大は宣言するように、伶に言った。

「やはり私は人を救いたい、そして今は、君を救いたい。誰かに『放っておいて』と言われても、放っておいてやらない。その人間は、助けを求めているだけなんだからな」

 人を救いたい、彼女を救いたい、大を突き動かすのはただそれだけのことだ。

 そう、大はヒーローだ。誰がなんと言おうと、ヒーローなのだ。

「なんたって、私はヒーローだ」

 改めて口に出すと、どこからか力がわいてくるような気がした。たぶん気のせいなんだろう。けれど、それが大にとっては途方もない力になっている気がした。

「……ちょっとだけど、カッコいいわよ」

「そ、そうか……?」

「う、うん」

「そ、そうか。へ、へへ」

 少しだけ頬の赤い頬の伶に、大は思わず頬をゆるませる。

 と、何かに気づいたのか、伶が途端に慌てはじめる。

「い、今のはなんでもないの。忘れて。いや、忘れなさい」

「い、いや――」

「忘れなさい。いいわね?」

「は、はい」

 いつもの高圧的な物言いだ。しかし、その声音には凄みもなければ、棘もない。ただ等身大の少女の姿が、そこにはあった。

 少し照れながらも、彼女の顔には確かに笑みがあったのだ。


 大は決心をした。それは自分にとって何ら利益にならないことだ。しかし、大は今、ヒーローなのだ。彼女だけのヒーローなのだ。

 それは翌日、決行された。



 大は一人、伶の実家を訪れていた。衣装はあのプロレス用の安っぽいマスクに、全身真っ赤のタイツ。それに宝登山神社のお札を胸の真ん中に貼り付けたヒーロースタイル。

 広大な庭には伶の他に彼女の父、すなわり埼玉県議会議員である波久繁がいた。現役の議員に、大は真っ向から対峙していた。

 正直言って足の震えは止まらない。しかし、大はヒーローなのだ。彼女を救ってこそのヒーローだ。自分のことなど二の次でいいのだ。

 大は腹から力を入れて、叫んだ!

「伶さんを、東京の高校に行かせて上げてください!」

「い、いきなりなんだね君は!」

「伶さんの友達です! 訳あってこんな格好ですが、許してあげてください!」

 頭を下げながら、彼は叫び続ける。大が何をしているのかまるで分からない伶は、彼に対してただ首を振ることしかできない。

 東京に行ってしまえば、もう滅多なことでは彼女と会えなくなるだろう。あこがれの彼女に会えなくなるのは、本当に寂しい。それでも彼は叫び続ける。何度でも、何度でも。

 なぜなら彼はヒーローだからだ。どんな手段であっても、人の願いを救い、守る。それこそがヒーローの存在条件であり、存在理由なのだ。

 絶句して二の句が継げない繁に、更に深く頭を下げる。限界まで下げる……!

「伶さんを、東京の高校に行かせて上げてください!」

「い、一度頭を上げたまえ!」

「嫌です! 行かせてあげてください!」

 なおも彼の魂からの叫びは続く。

「中学の頃から憧れてました! 本当は転校して欲しくないです! でも、彼女には望み通りの道を進んでも欲しくて!!」

「き、君は……」

「だから、だからお願いします!!」

 大はそれでも許してもらえないと見るや否や、更に頭を下げた。頭を限界まで下げた上に更に下げるのだから、もう膝を土の上につくしかない。いわゆる土下座である

「伶さんを、東京の高校に行かせて上げてください!」

 もうそれは悲痛な叫びであった。もはや頼むというレベルではない。頭は既に地面についており、額には土が付いている。

 これ以上はない、無様な格好だった。ヒーローであるはずなのに、頭を地面に付けた完璧な土下座である。しかし、これこそがヒーローなのだと、大は信じて疑わなかった。ヒーローとは自己犠牲だ。救って欲しい人のためなら何だってする。それが本当のヒーローだと、そう思うのだ。

「わ、分かった。前向きに検討するから、顔を上げたまえ」

「そ、そうですか! あ、ありがとうございます!!」 

 いたたまれなくなった繁が折れるまでに、そう時間はかからなかった。その答えを聞いて顔を上げたナガトロマンの表情は、正確にはマスクで分からない。しかし、目許には水滴がにじみ、パンダのように黒くなっていた。

「私の役目はここまでです。それでは、私はこれで」

 鼻声になってはいたが、その声音から心底喜んでいるのだと感じることは出来る。そして彼は役目は終えたとばかりに、そのまま何も言わずに去っていく。

「待って!」

 その後ろ姿に、伶は感極まって思わず声をかけた。

「ヒーローが土下座なんて、見損なっただろう?」

「そ、そんな……」

「すまなかった。私は君のために、君のためだけに今まで行動できていなかった。何のことだか分からないとは思うが、弱いヒーローの戯言だと思って聞き流して欲しい」

「で、でも……」

「最後、最後だけは君のためだけに行動したんだ。頭を下げようと土下座をしようと、君だけのヒーローだ。それだけは覚えておいて欲しい」

「な、何を……」

「それじゃあ、これでサヨナラだ。達者でな」

 今度こそ彼は去っていった。伶も今度は声をかけることが出来なかった。彼の背中が何も声をかけるなと語っていたからだ。

 本当の意味で、ナガトロマンは彼女を救ったのだ。彼は彼女の、ヒーローとなったのだ。




 ナガトロマンが去った後、親子は久方ぶりの会話をした。

「……彼は伶の、友達かね?」

「……」

 伶は何も言わず、ただこくんと頷いた。

「そうか。なら、東京へ行くといい」

「……え?」

「私がお前に言いたかったのは、地盤のことだけではない。彼はお前が転校することを、歓迎してはいないのだろう?」

「……うん」

「それなのに、彼はお前を東京に行かせてやってくれと私に頼みに来る。並大抵のことじゃ出来ないし、そもそも彼の立場からすれば私を応援すればいいものだ。それなのにどうして、彼が私に土下座したのか、賢いお前なら分かるはずだ」

「……」

「勿論、選挙の時に票を入れてくれるが、私が旧友を大切にしているのはそれだけではない。辛いとき、悲しいとき、親身になってくれる友人たちのどんなにありがたいことか。彼らがいなかったらと思うとぞっとするな」

 しみじみと、呟くように繁は言う。

「彼のような友達がいるのなら、私からはもう言うことはないよ。お前の好きにしなさい」

 それだけ言うと、父は家へと戻っていった。伶はそれ以上何も言うことは出来ず、顔を手で覆いながらその場に泣き崩れた。



 長瀞駅から歩いて五分ほどのところに、岩畳と言われる観光スポットがある。その名のとおり、川に沿ってごつごつした岩がまるで畳のように一面に広がっており、その独特な景色は他にあまり見られないものらしく、観光面だけでなく研究対象としてもよく取り上げられる場所である。

 そんな場所で、大は一人項垂れ座り込んでいた。先ほどから川に投げ込んだ石の数は計り知れない。

「うう……」

 終わった、と大は思った。あのまま伶の父に賛成していれば、これからも同じ学校に通うことが出来たのに。自分からそのチャンスを逃してしまうなんて、自分は何てことをしてしまったのだと、彼は今更ながら後悔していた。

「こんなもの、こんなもの……!」

 大は川に向かってマスクを投げ捨てようとした。このマスクは伶のためのものだ。彼女を救い終えたのなら、もうヒーローはお役御免だ。

 できるだけ遠くに投げようと振りかぶったその瞬間、岩の間を歩いたために石と石がこすれる音がする。こんな時間にこんなところに、いったい誰だろうと振り返ると、向こうから伶が歩いてくるのが見えた。

「……あんた、こんなとこで何してるのよ」

「もう、ほっといてくれ」

 大は完全にすねている。今更ながらに自分はこれで良かったのだろうかと、今まさに自問自答していたところだったのだ。

 いくらその時はヒーローだったとはいえ、普段は普通の男子高校生だ。自分のせいで転校してしまうことになったと考えれば、それはもう落ち込みようといったら半端無い。

「転校するんだってね」

「……」

 大の問いに、伶は少しだけ微笑むだけだ。

 やがて沈黙が訪れる。大は川に向いて座ったまま、そして伶は彼のすぐ脇で、後ろ手に組んで立っている。

 数刻の時が流れた時、沈黙に耐えくれなくなった二人が同時に声を発する。

「あのね、高校まではここにいることにしたわ」

「東京の高校でもがんばっ…………え?」

 思わず大は隣に立っている伶の顔を見上げる。あまりの衝撃に、彼はしばらく何も言うことが出来ない。

「…………ホント?」

「嘘ついてどうするのよ」

 彼女からはもう、あの近寄りがたいオーラも出ていないし、その軟らかい表情から嘘をついているとも思えない。

 何を言われているのかさえ分からない大に、彼女は囁きかけるように言う。

「実は、私ちょっと困っててね」

「え?」

「私、今まで友達づきあいを拒絶してきたから、ちょっと友達を作りづらくって」

 伶はそう言いながら、少し困ったような笑みを浮かべた。

「よければ、私の始めての友達になってくれない?」

 少し間を置いてから、大は満面の笑みで「よ、喜んで!」と、先ほど土下座したときと同じくらいの声で叫んだ。

 物語は終わったのではない、始まったのだ。今までは始まってさえいなかった。それが今、彼女の満面の笑顔から始まりを告げたのだ。



 よっしゃあああああああああ、と川に向かって叫び続ける大に隠れて、小さな声で伶が呟く。

「あなたは、私だけのヒーローなんだから」

 そう言って彼女は、バカの一つ覚えのように吠え続ける彼を見つめて、やさしく微笑んだ。

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正義のヒーロー、ナガトロマン! すぎ @kafunsugi

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