女の闘いは何気ない日常から始まっている

すぎ

女の闘いは何気ない日常から始まっている

「はーい」

「は?」

 春である。春という季節は出会いと別れの季節と世間では定義されるが、実は出会いと別れが起こるのは卒業と入学のシーズンだけであり、それ以外の大多数の人間にとっては、春休みであったり、ゴールデンウィークであったり、花粉症であったり、五月病であったりと、人をだらけさせる要素の多い季節である。

 今は春休み。だらけきった大学生男子宅に強引に上がり込……ではなく、何気なく訪ねて親切に家事でもすれば、だらけきった男の人は大助かり! 一気にその夜急展開なんてことも?! みたいな甘っちょろい妄想を抱いて、お目当ての男性、椎名涼のアパートのインターホンをルンルン気分で鳴らしたところまでは、彼女、須藤真澄の気分は最高潮だったのだ。

 あえて何か挙げるような特別なアパートではなく、涼はごくごく普通のアパートに住んでいる。そんなアパートだからこそ、建築としての作りはあまり堅牢ではなく、中から大きな声を出せばすぐに隣の部屋や外へと声が漏れ出す。真澄にとっては聞きなれた、しかしそれは決して親しみなどではなく、危機感を持って対峙すべき人物の声だ。思わず「は?」などと年頃の乙女として有るまじき声を上げてしまったのも、全てこの女のせいなのだ。

「今開けますー。ちょっと火見ててー」

「綾子……さん……」

「ありゃ、すみすみじゃん。そんな怖い顔して、どしたの?」

 扉を開けて出てきたのは田中綾子、真澄と涼と同じ大学に通っている。見た目美少女と言えなくもないのだが、化粧やファッションにかなり無頓着なことと、美人とかわいいの間くらいの中途半端なビジュアルも相まって、学内での男子人気はほぼ無いに等しい。

 彼女は真澄にとっては目下最大の要注意人物とされている。なぜなら、彼女は椎名涼の実家の隣に住んでいるのである。いわゆる幼馴染というやつだ。綾子の実家(というか今も住んでいる)は定食屋を営んでおり、閑古鳥が鳴く時間帯は店の駐車場でよく二人で遊んでいたらしい。

 対して、須藤真澄は社長令嬢であり、二人とは対照的な人生を歩んできた。社長令嬢として大人の世界に身を置くことも、それが当然だと思ってこれまで生きてきた。だからこそ優しさを持ち合わせならも、純粋な子どもの心を忘れない涼に惹かれたのだ。

「あ、あなたこそどうしてここに!?」

「いや、今日はたまたま頼まれてさ。ま、上がってよ」

 その「上がってよ」という口ぶりこそが真澄の神経を逆なでするのだが、ここで取り乱してははだめだ。冷静に、まずは心を落ち着けるんだ。

「お手洗いを貸していただけるかしら?」

「いいよー」

「あんたに頼んだんじゃねえよ」

「言葉言葉」

「おっと、いけません」

 小声で本音をこぼすことも大事なクールダウンの方法である。以前綾子に、ひょんなことから真澄の「猫かぶり」を知られてしまい、それ以来「げっへっへ、バラされたくなければスケベしようや」みたいなオジサンの所に連れて行かれてる覚悟はしていたのだが、幸いにしてそんなことはないし、むしろ以前よりも付き合いが深くなっている気がする。

 油断ならないと自分に言い聞かせながらトイレを探していると、目に飛び込んできたのは洗面所である。というか、その洗面所に置いてある歯ブラシの入ったコップである。

 そこには二本の歯ブラシが仲睦まじそうに刺さっていた。真澄はコップににじり寄ったが、間違いない。一本は少し長めで、柄が青。もう一本は少し短めで、柄はピンク。間違いない。というか、間違いが起こっている……?!

「こ、これは……」

「あー、泊まることもあるから、ここに一本置いてあるんだよね」

「泊まる……」

 真澄の思考が一気に間違いが起こっている想像で固められる。『さあ綾子、俺が磨いてやろう。期待でいつもより粘着質なその口を開けるんだ』『やーん、恥ずかしい』みたいなことをなんやかんやしているのだ……!

「いやいやそれすみすみの願望でしょうが」

「はっ」

 どうやら声に出ていたらしい。

「で、でも、あなたの家ではないですから、いくらなんでも歯ブラシを置いておくのは……」

「いやー、今まで数えきれないほど泊まってるし、もう自分の家みたいなもんかなー」

「否定しろよこのアマ」

「言葉言葉」

「おっと本音……んんっ、ちょっと持病の二重人格が出てしまったようですね」 

 「失礼」と、トイレの扉をあけながら、真澄は冗談めかして呟いた。



「いらっしゃい、春休みなのに突然どうしたの?」

「春休みだからこそ、です」

 お昼ご飯の用意をするため、涼が皿を並べている。嗚呼、今日もなんて素敵なの、と真澄は心穏やかでなく見つめているが、椎名涼という人物は、穏やかなまなざしと気遣いのできる優しさのほかは、どうにものほほんとした印象を受けるだけの普通の青年である。

「部屋の中はぐちゃぐちゃで、ご飯も買ったもので済ませているのではないかと思いまして」

「それ正解。俺のことよくわかってるね」

「い、いえ、それほどでも……」

 実はそこそこストーカーじみたこともやっているのだが、ここでは彼女の名誉に免じて割愛する。ちなみに、この家の内部構造、家具の配置は基より本棚の中身や、果ては芳香剤の種類まで特定済みであるとだけ言っておけば、その片鱗が分かるだろう。更に言うと、その芳香剤は自分の部屋でも使っている。興奮する。

「いやー、汚いから掃除しろって綾子にせっつかれて、ちょうど終わった所なんだ」

「ほんと汚かったもんね。これじゃあたしまで椎名のお義母さんに怒られちゃうよ」

 あ、今「お義母さんって言った! 絶対言った!!」と言うのを、真澄は涼が眼前にいる手前必死でこらえた。

「はいおまたせ」

 台所からやってきた裸エプロン……ではなく、おばあちゃんが使うような地味なエプロン姿の綾子は、野菜炒めを大皿にドカッと盛り付ける。真澄の前にも小皿が並べられて、大皿から菜箸で小皿に各人が取っていく、というシステムのようだ。と、さっそくその野菜炒めの山に涼が果敢に挑み始める。

「おおー! やっぱりこの体に悪そうな匂い、この腹回りに肉のつきそうな見た目、そしてやっぱり」

「コラ、いただきますしてから食えっての」

「ああ、忘れてた。いただきます」

「はい、いただきます。うちで作った煮物もどうぞ」

「おっ、コレうまいんだよなあ」

 もうこのやり取りだけで噴飯ものだが、真澄はギリギリでこらえた。

「うーん! この味だよな」

「別にそんなカロリー高いわけじゃないけどね。すみすみも、よかったらどうぞ」

 促されて、真澄も一口食べる。その瞬間、口の中に幸せが広がった。真澄自身、あまり脂っこいものは好きではないのだが、見た目以上に味付けはさっぱりとしていて、それでいて白米との相性は抜群にいい。そしてこの煮物! 汁はあまり浸っていないにも関わらず、味がよく染み渡る。家事は一通りこなせる真澄にとっては悔しいが、彼女の「家庭力」の高さを認めざるを得ない。

 そんな味の批評をしている間にも、眼前の二人は仲睦まじそうにお喋りを続けている。これは何とかしたいと、真澄は自分から話題を振っていくことにした。

「そういえば、このアパートはご実家も近いでしょうに、なぜ一人暮らしを?」

 涼と綾子の実家はこのアパートからそれほど離れておらず、大学まで通うことも十分可能な距離だ。現に綾子は、実家である定食屋から大学まで通っている。

「俺の家って兄妹多くてさ、適度な距離がほしいんだけど、実家にはそんなものないからさ」

「なるほど」

「それに、妹も一人部屋が欲しいだろうしね」

 まあなんて素敵、とキラキラした目で彼を見つめる真澄。こういうさりげない優しさこそが彼の魅力なのだ、と彼女は再確認した。



 涼が郵便局に用事ということで、しばし家を空けることになった。アパートの中には女二人。いつもなら何気ない会話をしているのだが、今日は場所が場所だけに、お互いに及び腰になっていた。沈黙に耐えかねて話題を振ったのは綾子だった。

「あー、前から涼との関係性疑ってるみたいだけど、ほんとそういうの無いから」

「……信じていいんですね?」

「信じてとしか言いようがない」

 綾子は困ったような笑みを浮かべる。

「今日だって『食堂田中の味がまた食べたい~』とかわがまま抜かすもんだから、わざわざ来てやったってわけ」

「胃袋が既に握られている…………下の棒もすでに握ったのですか?」

「オッサンかって……。そんなのないから」

「そうですか」

 安心しました、と真澄が言おうとした瞬間、玄関のドアが開く音がした。涼が忘れ物をしたために、一度戻ってきたらしい。靴を脱ぐのも面倒なのか、玄関先から大きな声が聞こえてくる。

「綾子ー、アレどこやったっけー?」

「ソレならあそこに置いといたよー」

「ありがとー」

 綾子が真澄に向き直ると、

「…………」

 真澄は無言で綾子を睨みつけている。

「…………」

「……いや別に、付き合ってるとか、そういうことはないから」

「うそつけこのクソアマ」

「言葉、言葉」

「おっと、いけません。私は清楚、清楚な須藤真澄よ」

 自己暗示をかけるように呟く真澄。その様子に思わず苦笑を漏らしながら、呆れたように真澄も呟く。

「もう家族みたいなもんだから、涼とどうにかなろうってのも、ねえ」

「お母さんみたいですしね」

「うっ。……まあ、実際そうなんだろうねぇ」

 綾子は年相応にみられないことを普段から気にしていて、ちょっと傷ついたのか口ごもった。

「逆にどうしてあんなのがいいのって聞きたいくらいだよ」

「あなたには、どうでもいいことですわ」

 真澄は理解している。これは挑発だと。それに、彼の魅力は自分だけが知っていればいいのだ。敵に塩を送ってやることもあるまい。彼の心を手に入れられるかはわからないが、少なくとも自分の目に狂いはないと思っているし、その自信もある。

「……ふーん」

 そんな真澄に対して、怒ったような、困ったような、何かひらめいたような微妙な表情を浮かべる綾子。彼女はあまり怒りや悲しみの表情を出すことが少ないために、真澄は不思議そうに綾子を見つめた。

「そっかあ、ふーん……」

 意味ありげな綾子の台詞の後しばらく沈黙が続いたが、やがてアパートのドアが開く音で沈黙が破られる。どうやら涼が帰ってきたようだ。

 そこで綾子は、真澄に対して何やら不敵な笑みを浮かべる。真澄は直感した。こいつ喧嘩売る気だと。

「あー、涼さ、この前の合鍵作った件なんだけどさ」

「やっぱぶっ殺すこのクソアマああああああ!!」

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