第10話
ざわりと木々が葉擦れに騒ぐ。
木々の隙間から漏れ出た風が、積る木の葉を巻き上げた。
背筋が粟立つのを感じた。きっと、寒気だけのせいではない。
「結衣……」
通り抜ける風を合図にしたように、正幸は震えるような足取りで、ゆっくりと歩き始めた。向かう先は、にへらと笑みを浮かべる彼女のもとだ。片瀬と滝原はそれに続いた。
結衣は木曜、片瀬が最後に見たときと同じ格好をしているようだった。薄着というほどでもないが、千葉と新潟では多少は気温差がある。おまけに山の上だ、肌寒さくらい、感じるのではないだろうか。手荷物らしきものは見当たらない。
東屋のもとまでたどり着くと、正幸は止まった。体感では目いっぱい時間をかけたように感じる。
「お兄ちゃんも、来たんだ」
正幸を前にして、結衣は立ち上がった。笑みを崩すことはない。むしろ、口元がさらに吊り上がった。対照的に、目尻はだらりと垂れ下がる。能面――とりわけ翁の面が想い起こされる。柔らかく、深く、そして表情が見えない。
片瀬は無意識に、小さく息を呑んだ。
「ああ」
正幸は小さく頷いた。騒めきに消されそうなほど小さく。すぐ傍にいた片瀬にも、それは掠れ気味に聞こえた。
「結衣っ、心配させないでよ……」
「ごめんね?」
半歩遅れで正幸に追いつくと、滝原は結衣のもとへと歩み寄り、そして抱き寄せた。
彼女の口から出たのは、姿を消した結衣を思ってか、震えた声だった。当の結衣は、それに対してきょとんと首を傾げるだけだったが。
「結衣、一緒に帰ろう」
抱擁が終わった頃合を見計らって、今度は正幸が結衣のもとへ詰め寄った。そして二、三度肩を揺さぶった。ジャケットのファスナーが力無く揺れた。
「帰る?」
「そうだ。危ないことはやめて――」
「せっかく来たのに?」
正幸の説得を、彼が言い終わる前に遮った。
「麻美ちゃんに会いたくないの?」
そうして、それに戸惑い、反応に躊躇う彼をまるで無視して続ける。
「てっきり、お兄ちゃんはそのために来たんだと思っていたんだけど」
結衣は正幸の目をじっと見つめた。
「正幸さん」
片瀬は苦い顔をして正幸の肩に手を置いた。
聞いていないのか、あえて無視しているのかは知らないが、応答はない。
「麻美ちゃんは……もう、生きていないんだろう?」
彼の目を見たまま、にっこりと微笑んだ。
「生きてるよ?」
そして、そう告げたのだ。
正幸は目に見えて狼狽えた。彼にとって今のは、悪魔の囁きのようなものだろう。
これは、よくない。
片瀬が思っていた以上に正幸の精神は不安定なようだった。このままではほぼ間違いなく、正幸は結衣の言われるがままについていくだろうことが察せられた。
確保するだけ、という前提が崩れかけていた。
「正幸さん、若狭さんは、もう」
「そんな、ことは……。生きているって、言ったんだ、結衣がっ……!」
片瀬の手を振りほどくようにして、正幸はうっすらと充血した目で振り返った。
「一目っ、一目でいいんだ。僕は、自分の目で確かめたいっ。確かめなければいけないっ」
「……酷なことを言いますけど、きっと徒労に終わりますよ。むしろ、もっとショックを受ける」
「それでも、いいさ」
悲痛な声だ。
流されるわけにはいかないのだが、片瀬にはどうしようもなかった。正幸はもう、決めたようだった。まさか妹ではなく兄の方をまず説得しなければならない事態になるとは考えていなかった。きっと、想定しておくべきだったのだ。
彼女と無事接触できただけましか、と妥協めいた考えが頭をよぎった。後は警察に任せてもいいのかもしれない。
「結衣、ね、そんな恰好じゃ寒いでしょ、だから一回あったかいところにさ――」
流れがよくないと感じたのか、滝原も努めて明るい声で間に入った。正幸の方を見ていた彼女を、自分の方へ顔を向けさせるように。
しかしそれも、その言葉も彼女には届かない。
「ねえ」
結衣の目が片瀬を捉えた。
正幸の肩越しから、笑みと無を含んだ顔が覗く。
どろりとした視線が片瀬を嘗め回すように見据えた。
「どうしてつけてないの」
首の辺りを見て、そう言った。
ぞわりと首筋に悪寒が走る。胸の辺りに、あの羽があるような錯覚が芽生えた。
ぐちゅり。
首筋から胸にかけて、何かがゆったりと流れていった。喉の奥が引き攣りそうになる。
零れかけた吐息を無理やり飲み込んだ。
「ああ、首に掛けるのは性に合わなくてね」
声が震えていないという自信はなかった。
片瀬はズボンのポケットに手を入れる。そして手に触れた感触に、皮肉にも心から安堵した。ポケットから手を引き抜くと、以前彼女から貰ったそれを一緒に取り出した。ハンカチで包んでいて気付かなかったが、羽はじくりと膿んでいた。生暖かい粘液が手を伝う。
結衣は「ふうん」と興味なさげに頷くと、それきり不快な視線はこちらを向くことはなかった。
「ねえ。佳乃ちゃんもさ、天使様に会いに来たんだよね」
矛先は滝原へと向いた。
「いや、私は……」滝原は答えあぐねた。
「でもね、きっと佳乃ちゃんもわかってくれるよ! だって佳乃ちゃん、麻美ちゃんに似てるもん。それに最近ずっと、何かに悩んでたでしょ。でも大丈夫、そんなのどうでもいいことだってすぐにわかるから!」
「それは……」
誰のせいだと。そう続くのか。
「佳乃ちゃんも、これからずっと、ずうっとそんな苦しい思いをしなきゃいけないなんて、嫌でしょ? 小っちゃい世界に閉じこもってても、いいことなんてないよ」
「小っちゃい、か」
「うん」
満面の笑みで頷いた。
「私は、そんなことないと思うよ」
「知らないだけだよ」
「知らないって、何を?」
「全部」
押し問答のようだ。諭す言葉は届く見込みがない。
滝原は困ったような笑みを浮かべ、「そうかもね」と頷いた。
「小っちゃい世界かどうかは知らないけど、いろいろと知らなかったのは本当のこと。もっと早く、もっと強引にでも、知ろうとするべきだったなあ」
「そうでしょ?」
それを聞いて、目に見えて喜ぶ結衣とは裏腹に、呆れたような、どうしようもないような、そんな顔をしていた。
「お前まで行く気か」
「よくないことなんだろうけどさ、このままじゃ納得しなさそうだし」
「正気か」
「たぶんね」
飄々と頷いた。
それに対し、片瀬は焦りを覚えざるを得なかった。二人とも化け物のところに、自ら向かうというのだ。焦りを超え、苛立ちすら湧き上がる。これまでの会話を聞いているはずだろう。なぜ警察は止めに入らないのか。これでは連れてきた意味がない。
「二人とも、目的を忘れないでくれ! 俺たちの目的は――」
苛立ちの末、片瀬は声を荒げ二人を止めようとした。しかし――
「ねえ」
りん、と。鈴のように静かに、それでいてよく通る声だった。
「邪魔、するの?」
腑の底まで侵すような、悍ましい声だった。
「……結衣、そんな言い方はないだろう。片瀬君だって、心配してきてくれたんだぞ」
声に当てられながらも、正幸は結衣を窘める。
「そんなの、無意味なのに」
拗ねたような口調で、正幸に向き直る。無表情との落差が酷い。
「片瀬君、それと滝原さんも。二人は無理についてくる必要はない」
「無理にって……」
「結衣には僕がついていく。……そして、それが終わったら、つれて戻ってくるさ」
心配はいらない、と正幸はジャケットのポケット近くを軽く叩くと、訝し気な目を向ける結衣の肩に手を置き、並ぶように立った。
片瀬と滝原と、向かい合う形となった。
正幸は一人で事を為すのだと言った。おそらく責任感からのことだろう。
そのことはなんとなくわかっていた。それでも納得なできるかは別だ。
「正直、当てが外れましたよ」
正幸は小さく眉をひそめた。
「そんな状態のあなたを、一人で行かせるわけないじゃないですか」
傍から見た正幸は、それはもう酷いものだった。両の目は充血し、初対面の時点でやつれた印象があったというのに、それからさらにやせ衰え、隅の浮かんだ目元から落ちくぼんでいるようにさえ見える。何より、結衣と対面してからの動揺が酷い。今でさえ、正常な判断ができているとは思わない。
それに、警察が介入するとしたらどのタイミングなのか予想がつかないということもあった。正幸を一人で行かせて、もし何かあっても彼らが助けに入るかも、今となっては信用ならなかった。思えば初めからおかしかったのだ。彼らの目的は古谷結衣の身柄確保でも、若狭麻美と金松伸二の行方を追うことでもない。きっと、事件を解決することですらないのだ。
牧野は拳銃の取り扱いについて、特例が設けられていると言った。故に彼らに任せれば、最悪結衣は問答無用で射殺されるかもしれない。一切表情を動かさず、軽くなった引き金を引く浅野の姿を容易に思い描くことができた。
あの二人が一体何を目的としているのかは片瀬にはまるで見当がつかない。浅野と植村の二人を、信用できなかった。
きっと自身も、冷静な判断ができていないのだろう。だからこんな決断をするのだ。
「仕方ないから、着いていきますよ」
降参だとでもいうように、両手を上げて肩をすくめた。
***
彼女の言う天使とやらは、干山公園の茂みの奥、そこから更に上った先にいるのだという。林道からは当然外れ、獣道のような場所を進む。
そう、獣道のように、細い通り道ができているのだ。笹の混じり始めた草藪は、腰丈以上の高さがあった。一面、というわけではないが、およそ見渡す限り通り道のような場所はこの道しかない。人が一人二人通れるほどの幅を持った一本道。誰かがここを通っているのだ。毎日というわけではないだろうが、たったの二、三度、単独で進んだだけには到底思えなかった。
進むほどに、踏みしめる落葉も、手でよける飛び出た枝葉も、ぱきりと乾いたな音を立てるようになった。常緑の樹木に覆われ、日の届かない獣道はじっとりと張り付くような空気に満ち満ちている。
だというのに、すべてが乾いていた。
葉は瑞々しさを失い、生きる力すら失いつつある樹木は余分な葉を脱落させる。天井の透け始めた林床だというのに、空で輝く日の光が届くことはない。枯れ葉色の季節とはいえ、伸びきった草木は色を枯らし、触れればたやすく崩れ落ちる。
何かが活力を奪っている。
いや、何かが土地を侵略しているのだ。
歩くたびに、踏みしめるたびに、払うたびに何かが崩れ、何かが舞った。
粘っこい空気は吸い込むたびに胸のあたりに気味の悪い感覚を覚え、肺腑に張り付くものを吐き出そうとしても、それはかなわない。
誰もが無言だった。
先を行く結衣と、正幸の様子は伺うことはできない。斜め後ろを歩く滝原は、振り返るたびに眉間の皴を強くしていた。
さくりさくり、ぱきりぱきりと、四人が歩く音だけが辺りを満たす。慎ましい音は静寂の中反響することはなく、重く濁った大気にぶつかり、籠り、弾けるように消えていく。
虫も、鳥も、風すら囁かない。
いつしか岩がちな山肌へと出ていた。地層のズレ――いわゆる断層によって高低差ができ小高い崖状の地形が生じていた。これまでまっすぐ傾斜を上へ上へと歩いていた結衣も、2、3メートル程度とはいえさすがに崖は登れないのか、左手に折れる。そうして崖伝いに歩いていく。
どこからか、かすかに水の流れる音が聞こえてきた。
「そろそろだよ」
崖の腹を半ばほど越えたところで、不意に結衣がそう告げた。
快活なその声も、そして彼女のその姿も、不気味な沈黙の中に溶けていった。
彼女の姿は崖の裏へと消えた。後に続いて、崖の切れ目から頭を出すと、じめっとした風は飛び出した頭を包み込む。かすかに聞こえていた流水の音も大きくなる。小さな崖の裏は川になっていた。
こんなに、近かったのか。
ほぼ上流にあたるというのに、すぐそばまで寄らなければその存在にすら気づけなかったことに驚愕する。川の立てる音の大きさについては、山登りの経験のない片瀬とはいえさすがに既知のものだった。それが目と鼻の先でようやく気付く程度だったのだ。
驚愕に5ミリも広く見開かれた目線の先では、巨岩と、やや角の取れた砂利と礫の河原を、岩にぶつかり飛沫をあげながら泥色の水が流れていく。ぼこぼこと湧き立つ泡は気味の悪い蜜のように粘っこく、いやに弾けるまでが長い。果実ほどに膨れた泡は複眼のように群れを成し、そして淀みの中にいつまでも滞留する。川沿いの樹木は皆枯れ落ち、灰白に枯れた木々は、飛沫を受けても樹皮に水が染み込むことはない。代わりに、ゼリー状で黄土色の付着物が、絶え間なく打ち付ける飛沫で乾くことなく、まるで粘菌がへばりつくようにして覆っている。それは周囲の岩石も変わらない。苔むす代わりに、粘つく目に不愉快なものがへばりつく。樹皮ほど吸着力は低いのか、幾分はがれやすいようだが。
水中には魚の類は見えない。そもそも覗けるほどの透明度ではなかった。濁りきった水中は土砂の解けた濁流と変わらない。
「……なにここ」
隣に立った滝原は、周囲の景色を目に収めると、不快感に皴を深くした。
「引き返してもいいんだぞ」
「行くけどさ……」
口を尖らせてそっぽを向いた。
無造作に岩の積みあがった足場は不安定だというのに、結衣は慣れた足取りで河原を歩いていく。正幸はその後を黙ってついていくだけだ。
「……行こう」
見失ってはかなわない。二人の姿が見えなくなる前に、歩きやすい道を見繕い始めた。
先を行く二人はどんどんと先へ行く。より上流へ、緩い傾斜を蛇行する河川に沿って、逆再生のようにスムーズに。頑強な体つきの正幸ならばともかく、大人しさを体現したかのような見た目の結衣が一番滑らかな足取りというのは、やはりある種異様な光景だ。灰と赤に塗れた巨岩や倒木、木の根を物ともしない。
手袋を持ってくればと、内心後悔した。手をつくたびに、手に平は赤錆びたものがこびりつく。
周囲はにわかに錆に埋もれ始める。
近いのか。そう察するとともに、不安感が徐々に高まり始める。真っ赤な樹皮に手を添え支えにしながら、ようやく悪路を終える。
ぱっくりと裂けた岩肌を背に、結衣と正幸が二人を待っていた。
洞窟のように口を開けているそれは流水の浸食によってできたのだろうか、濁流の通り道だ。亀裂は余程背の高い人でなければ頭をぶつけることもないだろう。中は薄暗いが、先が見えないというほどでもない。薄っすらとだが、上から薄光が差し込んでいるようにも見える。もしかしたら先ほどの崖と同じように、断層かなにかで大地そのものが裂けてしまったのかもしれない。そうしてもともとあった亀裂を水が広げたのだろう。
「ここに入るの?」
「そうだよ」
頬を引きつらせながら尋ねた滝原に、一言そう告げると、結衣はさっさと中へと入って行った。
思った通り中は明かりが差しており、無暗に転ぶようなことはない。おかげで錆に囲まれた現状を自覚しなければならないのだが。
深く層を重ねたそれは触れたいとは思えない。
気づけば、荒い息遣いがが聞こえる。後ろからだ。
「ついた」
ほどなくして、結衣が口を開いた。
少し、開けた広場のような空間。自然でも不自然でもなく、ただ歪に丸くくりぬかれたようなそこは、四方に堆積した赤錆で埋もれ、起伏に乏しい。頭上は一部に大穴が空き、十分な光源が確保されている。同時に空気の抜け道でもあり、通気性は決して悪くないはずだった。だが、息苦しい。
すぐ脇を通る、もはや二人分の肩幅ほどの広さになった水流のためひどい湿気が立ち込めるが、それ以上のもの。
ただ、息苦しい。
取り入れた空気から酸素を濾しとれないほどの濃密な、嫌悪感。呼吸器に広がる異物の感触に生体防御が忙しなく稼働し、粘膜が動き、絡めとったそれを喉奥から押し返そうとする。しかしひきつった筋肉ではそれも難しい。
ヒュッ、と、息苦しさに思わず深く息を吸い込んだ。喉奥をひたりと触れる生理的な痛みと、肺に満たされた不快感に、強くえずいた。
天井から差す日の光は、既に南中を抜け傾いた。空洞内を半ば横切るようにして斜めに伸び、奥へ、奥へと突き進む。
奥。
暗闇の奥。
照らされるべきではないそれがそこにある。
――それは錆色の天使だった。
赤黒く、そして褐色に荒れた肌。皮革のように肌理が目立ち、赤黒く積もったそれは目を凝らさずとも錆のようなものに覆われているためであることが、自明のごとくわかってしまう。
それは人のようなシルエットをしていた。
歪み、たるみ、降り積もる塵、湧き出る錆に膨らもうともそれは二足で立ち、両の腕を持ち、一つの頸を持つ。
完全な人でない理由はその背にあった。
腰、または背には一対から二対ほどの生々しい肉枝が伸び、太い枝から伸びる小枝や茂る葉のように、昆虫のような羽がびっしりと生え揃う。とある昆虫の顕微鏡写真が脳をよぎった。アザミウマと呼称される、総状の羽をもつ微小な虫だ。その羽によく似ていた。
まるで像のように、微動だにしない褐色と、赤黒い歪な人型。
それが両の指以上に立ち並んでいた。
何がうれしいのか、何が幸せなのか理解はできないが。
こぼれそうなほど頬を垂らす。
だらしなく口を中途に開ける。
悦楽に、目を細める。
それらは皆、恍惚としたような表情を浮かべていた。
片瀬はそれに目を奪われていた。いや、逸らしたかった。しかし、ショッキングな光景に目が釘付けになり、逸らすことを許されなかったのだ。かつてイメージの中で見たそれはまさに化け物だった。人間とは違った体躯のため、気味悪さを、悍ましさを覚えたところでようはフィクションに出てくる怪物と変わらない。そういうものだと受け入れることができていた。しかしこれは違う。目の前にあるのは自身と同じ種であった者たち。それらが自ら人として生きることを捨て、自由と命の尊厳を捨て、引き換えとして紛い物の幸福を得た。
限界を迎えた嫌悪感は腹にたまったものを吐き出せと騒ぎ立てるが、体はどこも動作を停止し、嘔吐感をそのままに、ただただそれを眺め続ける。
「――みちゃん」
ぽつりと紡がれた言葉に、片瀬は我に返った。
「麻美ちゃんだ……間違いない」
茫洋として、焦点の定まらない視線はしかし、群れの一画を見つめていることだけはわかった。それは端だった。新たに加えられたのか、厚く膨らんだそれらと違い、元の人の輪郭がわかる程度の歪な二体の像。おそらくは、その片割れ。
表情は恍惚に歪み、それでいて目だけは、全体との均衡がとれないほどに不釣り合いに見開かれていた。
まるで、恐ろしいものを見たかのように。
あれが、若狭麻美なのか。
結衣は、あれを生きていると見做すのか。
あの表情を、幸福だと呼ぶのか。
わずか半歩後ろで、えずく声がする。慌てて振り返ると、膝をついた滝原がひどく具合が悪そうにし、口元を抑えていた。
「おい、大丈夫か」
力が入らずふらふらとした足取りながらも傍にしゃがみ、背をさすってやった。しばらくそうしていると、一番前にいた彼女が。結衣がゆっくりと背後を向いた。
その顔は、居並ぶ異形と変わらぬ恍惚とした表情で、どろりと溶け落ちそうなほど濁りきった濁色の目で。
「ねえ、素敵でしょう」
結衣は蕩けた表情で、にへらと笑った。
「……どこがさ」
零れ落ちたのは悪態だ。
その言葉に反応し、黒く濁った眼が、どろりと蠢いた。
「やっぱり、君はわかんないんだ」
失望したような、興味を失ったような口振りで、結衣は吐息を漏らす。
「ああわかんないさ。どいつもこいつも、生きることを放棄しただけじゃないか。それのどこが素敵だって言うんだよ」
言葉を発するたび、酸素の供給が足りずに苦しさが増す。酸素を取り込もうとあえぐ呼吸器は、侵入してきたざらつく不純物に痛みを訴える。
「お前の親友だっていう、麻美ってやつも、わかんなかったんじゃないか」
立ち尽くしていた正幸の肩が、ぴくりとはねた。
「どうして、そう思うの?」
「見りゃ、わかるだろ。麻美ってのは、あの端っこの一人なんだろ。ほら、よく見ろよ、あの顔。怯えてるじゃないか。まるで恐ろしい目にあってるみたいに、恐ろしいものを見ちまったみたいに!」
「どこがあ? とっても、幸せそうに見えるよ」
にへらと笑みを深くした。
「まあ、別にいいよね。見込みがあるかなって思ったのも、勘違いだったし」
それきり、彼女は片瀬に背を向けた。
そして、天使たちと向かい合う。
「一人二人が拒んでも、結局みいんな神様のモノになるんだから」
「たった100年ぽっちの短い命しかない人間なんかじゃ、絶対に見ることができない」
「素晴らしい世界!」
「素晴らしい宇宙!」
「面倒くさいものなんかに囚われないで、誰にも邪魔されることなく、誰にも怯える必要もなく! ただ自由に!」
「私たちは永遠に生き続ける。神様とひとつになって、この永遠にこの世界を生き続けることができる!」
「それができない君たちは、本当にもったいない」
「ばかみたい」
「ほんっとうに、頭の足りてない生き物」
感情の籠らない、抜け落ちるような声で吐き出した独白。しかし平坦な声とは裏腹に、乗せられたものは侮蔑と哀れみ。そしてそれが終わると、彼女は不意に鼻歌を歌いだした。
スタッカートのように短く二度跳ね、次いで一小節ほど、愛おしそうに謳う。
片瀬は咄嗟に、蹲る滝原の耳を塞いだ。彼女に、この悍ましい歌声が聞こえないように。
――ia, ia, ■■■■■■■!
聞いているだけで、全身から熱が引いていくほどに悍ましさと、そして恐怖心が湧きたてられる。筋肉が小刻みに震え、熱を生み出したところで、それを運ぶ血流がとても冷たい。指先から胸中までもが凍り付いてしまうようだ。
そこに、別のものが入り込もうとする。
不凍液が、生暖かさを持った甘美な誘惑が入り込もうとするのだ。喉奥に、肺腑に、そして全身にまで行き渡った付着物が温かい膿みを出していく。
純粋な生理現象。入ってはいけないところを流れた液体に体が反応し、こみ上げる吐き気とともにそれをぶちまけた。目から、鼻から、そして口から吐き出されたそれは薄黄色にねっとりと糸を引いた。
結衣は歌を繰り返す。
繰り返す。
繰り返す。
繰り返す。
突如、天使たちの羽が騒めき立つ。不動であったそれらは本当に生きているかのように脈打ち、羽の擦れる不愉快な音を立てる。
いつの間にか、音の反響しないはずの洞穴で、二人以上の声で、合唱のように歌い始めた。
今度はあのおそろしいフレーズのリピートなどではない。もっと長く、もっと厳かに。
きっとそれは、かの神を崇め奉る祝詞なのだ。
――ia, ia, ■■■■■■■!
畏敬の言葉に、呼び慕う謳に応えるかのように、大気が静かに、そして激しく震え出した。掻き乱すような乱雑な振動に、天使の羽から零れ落ちた赤黒い粉が撒き散らされる。
息苦しい。
巻きあがった錆が視界いっぱいに広がった。
目に映るものは錆以外既になく、自身の感覚すら覚束ない。耳をふさぎ、庇うように覆いかぶさった友人の背中の感触が、自覚できる唯一の境界線だった。
不意に、悍ましい大合唱の合間を縫って強烈な舌打ちと、それを皮切りに駆ける音が聞こえてきた。にわかにあたりは――人間という存在で――騒がしくなり、何人分もの踏み込む音と、怒声が何度も何度も飛び交った。
――そして、炸裂音。
それを最後に、片瀬の意識は途絶えた。
***
あの日から既に一月以上経っていた。
平日である今日、片瀬は大学へ行き、そして今はその帰りであった。昼に講義を終え、軽く昼食を摂ったのち、まだ空も明るく、人も多いキャンパスを後にする。
すれ違う生徒は皆雑談に花を咲かせ、学期末に控えた試験以外、憂いのない日常を過ごしているようだった。それを眺めて、安堵の息がふっと零れた。
しばらくの間騒がしかった大学も、先週あたりからようやく落ち着き始めた。ここしばらく、学内、ひいては世間ではとあるニュースが取り沙汰されていた。片瀬の通う天倉市立大学のとあるサークルが、悪質なカルトの温床になっていたとして廃止されたのだ。
そんなまさかと驚く人もいれば、ああやっぱりと騒ぎ立てるもの、我関せずと無視を決め込むものと反応はバラバラではあるものの、皆の関心はそれに向けられていることは間違いなかった。サークルのメンバーは全員休学中ということも騒ぎに拍車を立てているのだろう。当該サークルに関して聞いて回っていた片瀬も、友人間では話題の槍玉にあがることが何度もあった。
もっともニュースでは詳しい情報は流れることなく、――表向きには――大きな事件を起こしたわけでもないそれは全国ニュースで何度か、そしてローカルおよび地域新聞などで取り上げられたくらいだった。
そして若狭と金松の行方不明事件のほうも続報はない。このまま闇に葬られ、いつかはほとぼりも冷めてしまうのだろう。それはテレビも新聞も雑誌も、そしてネットすらも関係ない。時間がたてば誰しもが忘れていくのだ――当事者たちを除いて。
自分はきっと、あの日のことを忘れることはない、いや忘れることはできないのだろうと、そう思う。
牧野に対し大見えを切ったくせに、片瀬は結局何もできなかった。警察に引き金も引かせてしまった。初めから彼らに任せてしまうのが最善だったのではと、何度も自問した。
当時は自分が出向くのが一番だと思っていたのだが、あれは結局、日常の外側を垣間見てしまった故の特別感、いわゆる自惚れだったのだろう。
自分のとった行動は、所詮探偵ごっこでしかなかった。軽い気持ちで関わって、引っ掻き回すことしかできなかった。
そう、自嘲するのだ。
それが一番精神的に安定する、この一か月でそう学んだ。一連の出来事は、片瀬は決して忘れることはできない。あの、自身をすべて塗り替えられてしまいそうな悍ましい瞬間を、決して忘れることはできない。一生付きまとうと、確信していた。ならば、別の見方をすればいい、そう考えたのだ。恐ろしかった体験ではなく、不甲斐ない体験だったのだと、印象をすり替える。これが案外、有効だった。
大学を出ると、片瀬の足は駅のほうへ向かい、長い間電車に揺られ、目的の駅へと降り立った。人の波に揉まれながら改札を抜け、南口のロータリーでタクシーを拾う。
「警察病院まで」
タクシーはゆっくりと発車した。
何度か訪れる羽目になった、東京にある警察病院へと片瀬は向かっていた。干山の洞穴で気を失った後、片瀬が目を覚ました場所は病院の一室だった。片瀬が連れていかれたのは普通の総合病院などではなく警察病院。名前で勘違いしがちだが、警察病院は民間運営であり一般の患者も勿論受け入れている。そうした観点で言えば何もおかしなことではないが、新潟で気を失ったのに目覚めたのは東京だったのだ。どうも、特殊すぎる事例に立ち会ってしまったため、こちらに運ばれたのだろうことを察していた。
そしてそこで嫌になるほど体を洗う羽目になり、また何度も催吐薬を飲まされ、嘔吐を繰り返させられた。あまりいい記憶はない。
とはいえ、一か月も経過した今も通院しているというわけではない。
いわゆる、お見舞いというやつだ。
ほどなくしてタクシーは病院へと到着する。
自動ドアをくぐると、少し暑いくらいの暖房の効いた空気、病院独特のなんとも言えない匂いに出迎えられた。エントランスホールできょろきょろと辺りを見渡していると、片瀬は後ろから声をかけられた。
待ち合わせをしていた人物だった。
「珍しく、遅かったじゃん」
「これでも最速だよ。こっちは今日も講義があったんだからさ」
挨拶もほどほどに、片瀬は待ち合わせをしていた人物、滝原とともに別棟の一室へと向かった。警察病院とはいえ、すれ違うのは普通にしか見えない人たち。医師も看護師も、ヘルパーや清掃員などもごく普通の人にしか見えない。
看護師の男性が、車いすを押しながら、座っている患者と雑談に興じていた。どこの病院でも見られるだろう光景だった。
しかし、エレベーターで目的のフロアに降りると、そこはどこか異様な雰囲気に包まれている。廊下を歩く人は見当たらず、代わりにいくつもの病室の前には警備員や、スーツ姿の人たちが何人も屯している。
ここに、古谷結衣が入院しているのだ。
古谷結衣は、驚くことに生きていた。銃声を聞き、てっきり……射殺されたものとばかりと思っていたのだが、彼女は軽い怪我を負っただけだという。狙ったのか、偶然なのか――それとも何らかの意思が働いた末の必然なのかはわからないが。
更にこのフロアには、結衣を含めた旅行サークルのメンバーが入院している。物々しい警備こそ敷かれているが拘束されているわけではない。もっとも、『今は』と注釈こそつくが。
皆、正気に戻っているのだ。
結衣を含めて、行方の知れているメンバーは皆警察に一旦拘束され、そしてここに強制的に入院させられている。そして拘束の際、彼らはあの羽を取り上げられた。個人差こそあれ、羽を取り上げられて暫くすると、次第に狂気が薄れていき、最後にはまるで夢から覚めたかのように正気を取り戻した。
同時に、彼らが慕い、愛し、崇め、捧げようとしたものを恐れるようになった。甘い夢が、悪夢へと変わったのだ。
結衣も多分に漏れない。凶事とも呼べる幻想から解放され、代わりに恐るべきものに心を犯されていた記憶と――見知らぬ他人を、一番の友人を『人としての死』に追いやった罪悪感に苛まれることになった。
今回保護できたメンバーの証言とサークルの活動記録から、今回の事件とかかわりのある人物、いわゆる信者たちの確保を試みているようだが、どうにも情報が少なく難航しているという。彼らはお互いに名前すら名乗らず、ただただ集まり、彼らの天使を、神を崇めていたらしい。
天使、いや、あの像は、少しずつ回収しているというが、証言によって判明した中、いくつかの場所では忽然と消え去ってしまっていたとも、教えられた。誰かが先に回収してしまったのだろうと、植村が言っていた。
これらはすべて捜査上の秘密らしかった。
故に浅野も牧野も教えてくれなかったことだったのだが、一時的に入院していた片瀬に、植村が零した内容である。あの人の考えていることは、結局片瀬には何一つわからなかった。
結衣の入院している病室の前まで来ると、警備をしていたスーツ姿の男性――刑事の一人に案内されて中へ入る。
「ああ、よくきたね」
中にはベッドの上で座る結衣と、脇に丸椅子を置き座っていた正幸が出迎えた。
こうしてお見舞い目的でこの病室を訪れたのは今回で四度目だった。ちなみに、結衣と滝原の共通の友人達はまだ来たことがない。
拒んでいるのではなく、病院側、ひいては警察から未だ面会謝絶を言い渡されているのだ。会うことができるのは家族と、それと当事者である片瀬らだけだ。
「こんにちは」
「どうも、失礼します」
軽い挨拶を交わし終えると、滝原は結衣の傍らまでよる。
「結衣、来たよ」
窓の方をぼうっと眺めていた彼女がゆったりとした動作で振り向き、そして眼鏡の奥で、小さくはにかんだ。
「ああ、佳乃ちゃん。きて、くれたんだね」
ひどく力のない笑みで彼女は笑った。
「うん。何度だって来るからね」
そして、壊れ物を扱うように。優しく、優しく彼女の手を握った。
「少し、席を外そうか」
正幸は片瀬に向かってそう言った。
片瀬が頷いたことを確認すると、滝原に椅子を勧めて病室を発った。片瀬はそれに追随する。
生憎このフロアには休憩所のようなスペースはなかった。患者のいる病室から離れ、トイレ近くの壁に背を預ける。
ことが終わった後だというのに、正幸はとても疲れたような顔をしていた。疲れが取れるどころか、むしろより深く皺が刻まれ、目元の隈もとうとう隠し切れないほどになっていた。
「――結衣がね」
ゆっくりと、気を付けなければ聞き逃しそうなほど小さく、正幸は口を開いた。
「まだ、夢を見るんだそうだ」
「……そうですか」
――夢。
それはかつて片瀬も見たことのあるもの。
どことも知れぬ、はるか彼方の星の夢。赤黒い錆に埋もれた、哀れな星の夢。
メンバーのほとんどは、未だにその夢を見るのだという。おそらくは、羽と、そして天使と触れている期間が長すぎた。彼らは今でも塔の中を、暗闇の底へと下っている。
彼らはいつも、錯乱しながら夢から覚めるという。
――嫌だ、嫌だ、行きたくない、と。
そう叫びながら。
彼らの中には、厳重に警備されているはずの病室から消えてしまった者もいた。消えてしまった者たちは、もうすぐ底についてしまう、そう言っていたそうだ。
病室に残されるのは、ベッドのシーツや手すり、お見舞い用の花を活けていた花瓶などにこびりついた、赤黒い錆。
そして羽。無数の、羽。
***
結衣の表情は、あれからずっと、動きに乏しい。力っ気は常になく、笑うことも、怒ることも、泣くことも……今なお降りかかっているだろう恐怖に怯えることすら滅多にない。
「もう、構わないでって言っても、聞かないでって言っても無駄だからな。だから結衣もさ、諦めて、何でも相談してよ」
自分がもっと早くから動いていれば、そう後悔するのはもう何度目か。
結衣は、目の前の彼女の言葉にふっと表情を崩す。睫毛だけが互いに触れ合いそうな、笑顔のなり損ないみたいな顔だった。
それは、どこか愁いを帯びた――何かを諦めたかのような表情に思えた。
「……佳乃ちゃん。私ね」
「夢を見るんだ。暗い、暗い塔の中を歩く夢」
「私はきっと、もうすぐ……」
「――底に着いちゃうんだ」
結衣は寂しげに、笑みをこぼした。
錆色の天使 難点 @nanten795
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