第9話

 数回質問を挟まれながらも、片瀬は知りうることをすべて話し終えた。一仕事終えたと安堵する。

 集中していたゆえ狭まっていた視界も元に戻る。見れば、幾人か苦い顔をしているようだった。牧野は「妄言だ」と小さく吐き捨てた。

「それが、今回の事件の真相だと?」

 浅野は相変わらず表情を変えない。信じていないのか、それとも――慣れているのか。

「真相というか、概要でしょうか。信じられないかもしれませんが」

 浅野はそれに答えることはなく、話の最中に新たにとったであろうメモへと目を落とした。

 県警の二人のうち、片方はどうも感受性の豊なほうらしい。随分気分が悪そうだ。もう一方、牧野は表情から伺うと、案外半信半疑といったところだった。てっきり全否定でもするものかと思っていたのだが。

 そして、植村は意外なことに、いやある意味想像通り、片瀬の話を真剣に聞いていた。

 およそ頭のイカれた狂人の戯言と相違ない話を、実に真剣に。

『古谷結衣は宇宙から来た化け物に操られているんです』

 こんな話を、真面目に検討しているのだ。

 あの人の好さそうな笑みすら鳴りを潜め〝刑事〟の顔をしていた。

「……片瀬君、君の話が本当なら、結衣はどうなるんだ。私はてっきりカルト教団に洗脳されてしまっている、くらいにしか考えていなかったんだが」

 今まで沈黙を保っていた正幸が口を開いた。

「君のいう化け物というのも、よくわからない。それは人間としておかしくなってしまうということなのか、それとも……言葉通りのことなのか」

 ああ本当に、こういう役割は性に合わない。

 裏に徹しているのが、自分らしいというのに。

「後者ですよ」

 きっぱりと言い切った方が、むしろ楽だった。片瀬が目をそらすまでもなく、正幸は顔を手で覆い、テーブルへ肘をついた。

「大丈夫ですよ。こいつだってなんとかなったんです。だから、あの子もきっと、大丈夫」

 滝原が席を立ち、正幸の隣に座った。

「羽さえ持ってなければ、大丈夫なんですから」

 ――羽か。

「引っ越しは、した方がいいかもしれないけど」

「どういうことかな」

 気持ち表情を緩ませた植村が尋ねる。作り笑いが逆に怖い。

「あの羽、持ってることで影響を与えるだけじゃなくて、時折よくないものを出すんですよ」

「よくないもの?」

「何ていったらいいのかはわからないんですけど、そうだな。あれ、たまに膿むんです」

「膿む」

「はい。気味悪い液体を出して、でもそれはすぐ乾燥して、こう……粉が広がって」

 想像したのか、眼鏡の刑事は更に顔を青くした。

「たぶんですけど、この部屋にもその跡くらい残っていると思います」

 植村は浅野へと目くばせをした。浅野は手袋をはめるとリビングを物色し始める。

「もう少し詳しく聞いても?」

「詳しく、というと」

「そうだねえ。例えばこの部屋だと、どの辺りに残っているかな」

 植村は大仰に部屋を見渡す。

「全部ですよ」

「何?」

 初めて驚いたような顔をした。

「たぶん、この部屋全部です」

 片瀬は正幸の方をちらと見る。話を振るのは少し躊躇われた。意識して、それを無視した。

「正幸さん、この部屋って、もともとどんな壁紙を使って、いやどんな色でしたか」

「色、かい」

「はい。もともとは、白だったんじゃないですか」

「ああ、そうだよ。今でも変わってないと、思うんだが」

「白、か」

 植村が呟く。

「日焼けや、普通の汚れというのも考えられるが」

 呟きながら、リビングの物色に牧野も加わる。彼らの目にも、白には見えなかったらしい。

「粘液というか、粉というか……黄色っぽかったり赤かったりするんですけど、なんというか赤い錆みたいなものがどこかについてたりするかもしれません。ああ、あとそいつはたぶん良くないものだと思うので、吸わない方がいいかと」

「錆、ねえ」呟きながら、植村は顎をさする。

「金属製の毒、というやつかな。精神に作用するようなものって、なんかあったかなあ」

「すぐに酸化してしまうのであればいくらかは絞られますね。反応性が高いやつだ」

 青い顔をしたまま、眼鏡の刑事がそう言った。

「しかし、そう都合のいいものがありますかね。話を聞く限りじゃあ幻覚作用のある毒ってわけでしょう」

「なかったら、また別のものってことでしょうなあ」

 幻覚でも錯覚でもない、などと否定する気は特になかった。自分でもそうあって欲しかったからだ。


「ありました」

 浅野が声を上げた。キッチンテーブルと隣接した壁の一点を中注視している。ちょうど天板部分の陰になっている部分だ。

 四人の刑事はすぐに動いた。

「どこだ」

「ここです」

 浅野がテーブルを軽く寄せる。そこを植村と牧野が中腰になって覗き込んだ。

 彼らの背が遮って、片瀬には見えない。

「何か、見つかったのかい」

 正幸が不安をにじませた声で片瀬に問う。

「そうみたいですね」

「随分と落ち着いているね」

「もう、慣れましたよ」

 はは、と笑う。頼りない声だった。

「たあしかに、何だか気味悪いなあ」

「ただの汚れにしか見えませんけどね。丁度ここはダイニングです、ソースか何かでもはねたんじゃないですか」

「かもしれんけどねえ」

 刑事の背中越しに、そんな会話が交わされていた。牧野はただの汚れだと思ったらしい、否定的な意見だ。それに対し生返事で答えながら、植村は「片瀬君、ちょっとちょっと」と手招きした。

 片瀬がキッチンのほうへと向かうと、中腰になり、じいっと壁を見ていた牧野が場所を空け、片瀬の目にも壁についたそれが顕わになった。

 赤黒い、錆のような、硬い層状の付着物。

 確かにそれは、あの粘液、粉、それのへばりついたものだった。9月の終わりに、この家で初めて目にしたものと、同じ。

 粘液が乾燥し、へばりつき、崩れることなく残っていた。

「どうだい」

「ええ、まあ。これのことですよ」

「吸っちゃあ、ダメなんだよな」

 片瀬の隣で、植村は手のひらで仰ぐような仕草をした。

「この状態じゃあわかりませんが、少なくとも粉になったらダメですね」

「ふうん。そうか、そうか」

 植村は、へばりついたそれを一度睨みつけた。

「まあ、適当に採取して科警研に送っといて」

「科警研ですか」

 植村の言葉に眼鏡の刑事が反応した。

「うんうん。そっちにこういうのの専門がいるからさ、初めからそっちに回すのが一番なの」

「わかりました」

 片瀬は植村とともに移動した。入れ替わるように眼鏡の刑事がその場に屈む。

 眼鏡の刑事は小さなチャックつきのポリ袋を取り出すと、マスクと手袋をはめて、丁寧に付着物を採取し始めた。

 テーブルの傍に立って、片瀬は少しの間それを見ていた。

 ふと、嫌なものを思い出しそうになって目を逸らした。

「じゃあ、私たちはそろそろお暇しようか」

 採取が終わったのを見計らって、刑事たちは引き揚げ始めた。「それじゃ、お騒がせしました」そう言って植村はリビングを出ていく。県警の二人は一礼した後、それに続いた。

「では、明日の朝お迎えに上がります。足はこちらで用意いたします。まあ、警察車両ですけどね」

 浅野は薄く笑いながらこれからの段取りに軽く触れる。初めて表情を変えた。片瀬は取り留めないことに気づいた。

「出発は何時頃になりますか」

「7時頃にもう一度こちらにお伺いします。それまでに用意していただければと」

「今日中の移動ではダメなんですか?」

 いつの間にか席を立っていた、滝原が質問をする。

「我々も一度情報を整理する必要がありますからね、できれば明日にしていただいたほうが都合がいいんです」

「そう、ですか」

 それでは、と軽く頭を下げ若い刑事は出て行った。少ししてガチャリ、と玄関の閉まる音が聞こえた。

「どうした、寝坊でも心配したか」

 片瀬は軽口を滝原へと投げかけた。どうも少し、らしくないと感じたのだ。

「何でもないよ、気持ちが逸っただけ」

 彼女は何でもないように、そう言った。それだけだ。

 そして気持ちを切り替えるためか、急に両手を叩いた。乾いた音が淀みかけの空気を弾き飛ばした。

「じゃあ、私たちも帰るか! いつまでも居座っちゃあ迷惑だからね」

「そんなこと、ないけどね」

 正幸は軽くはにかんだ。

「それに、迷惑をかけてしまったのも僕のほうさ。すまなかったね、面倒なことに巻き込んでしまって」

「そんなことありませんよ! そもそも結衣さんは私の友達でもあるんですから。頼まれなくたって、いやむしろ関わらないでくれって頼まれたって、勝手に関わりに行きますよ」

 久しぶりに見た豪快な振る舞いだった。切り替えが早い、いや、あれは自分を隠しているのか。がさつでずぼらなところばかり見ているが、ああ見えて気配りは得意なのだ。その分溜め込みがちなのが欠点か。そういえば、結衣も同じことを言っていたなと、思い出した。

 その余裕も、近頃は随分なくなってしまっているようだった。

 早く、終わらせないとな。

 そんなことを考えていると、彼女は「なあ」と同意を求めてきた。作った笑顔なのか、本気の笑顔なのか。片瀬にはどうにもすぐにわかってしまった。

「……俺は巻き込まれただけだけどな」

 皮肉気味に笑って見せた。

 ぼそりと言った呟きでも、耳ざとく聞かれていたらしい、背中を叩かれた。


 それを見て、正幸は笑っていた。

 羨ましそうに、笑っていた。



***



 土曜の9時。片瀬たちは浅野が運転する車の中にいた。場所は、鶴ヶ島ジャンクションを越え、関越自動車道に入ったあたりだ。新潟につくまで、あと2時間近くあるらしい。

「警察車両って言ってたから、パトカーかと思ってたけど……普通の車なんだね」

 滝原が緩慢な口調で呟いた。

 後部座席の助手席側に座る滝原は、窓枠に頬杖を突き外の景色を眺めている。暇なのだ。

 ――いや、落ち着かないのか。

「パトカーのほうが良かったのか? 連行されてるようで、俺は嫌だね」

 車種はスバルのレガシィだ。

「これも一応パトカーさ。覆面だけどな」

 助手席に座っていた牧野が会話に混ざった。

 初めは堅物そうに見えていた牧野だったが、意外にもフレンドリーな性格らしい。今日、何度か言葉を交わしてわかったことだ。

 片瀬の知人にも似たような人物がいた。体育会系で、一見しただけでは取っ付きにくそうなやつだ。頭の中で二人を重ねるとイメージがぴったりと合わさってしまい、つい親しみを持ってしまうようになった。

「白黒で、目立たなければいいんですよ。あとランプなしで」

「車ん中見るやつなんてそうそういないさ」

「だといいんですけどね」

 後部座席からでは、前の車は見えない。

 一つか二つ前には別の車が走っている。正幸を乗せた車だ。運転手は眼鏡の刑事――山木というらしい――で、植村も一緒だ。どうも植村は個人的に正幸に聞きたいことがあるらしかった。

「……正幸さん、何聞かれてるんですかね」

「さあなあ」

 牧野にもわからないようだった。

「まあ、結衣のことずっと見てたのは正幸さんだからね。あの子の普段の様子とかじゃない?」

 ぼんやりとした喋り方だった。滝原はあまり興味ないらしい。

「あの人の考えてることは、同じ刑事でもよくわかんねえなあ。刑事は駆け引きがうまくなきゃいけないって言ってもなあ」

 頭を掻くのが後ろからでも見えた。

「お前さんは、なんか知らないの」

「特に聞いていませんね」

 話を振られた浅野は、にべもなく即答した。

「そうかい」

「それに、捜査内容をあまり一般人に言うわけにもいかないでしょう」

「そいつは、悪かったよ」

 道程は、まだ長くなりそうだ。



 新潟県に入ってからは早かった。長岡インターチェンジで高速を降り、一般道に合流する。目的地である古谷結衣の地元は中越、長岡市の真ん中らへんだ。長岡の町並みは、片瀬が思っていたよりも栄えていた。牧野に聞くと、どうやら新潟では2番目に人が多いのだという。信濃川を渡り、長岡駅周辺を更に抜け、市の中心から離れるとそろそろ目的地らしい。ここまでくると建物も少なくなり、開けた景色も増えてきた。行く先には緑が広がり、遠くに山々が並んでいるのが見える。

 干山公園は、あの山々のうちの一つにあるという。住宅地に隣接した、低い山の中にある公園だそうだ。正幸がいうには住んでいた地区では町の裏山のような扱いを受けていたという。

 目当ての場所がどこなのか、窓から見える山々を眺めていると、車は不意に駐車場の中へと入っていった。空いてるスペースの一画に車が停まると、いつのまに前後が入れ替わっていたのか、正幸らが乗っている車も隣へと駐車した。

「少し休憩にしましょう」

 後部座席を向くことなく、浅野はそう言った。ルームミラーを見ると、目が合った。

「12時半には出発したいので、休憩は30分少し前には終えてください」

 今の時間は12時少し前だ。

 停まったのはどうやら中規模の総合スーパーの駐車場らしいが、店舗の大きさと駐車場の広さが釣り合っていないように思えた。広い駐車場で、駐車している車も疎らだ。土曜という曜日を考えるともっと停まっていてもいいような気がするのだが、こんなものか、とも思う。どちらにせよ時間を潰すために停まっていても、邪魔になるようなことはない。

「まあ、事の前に休んどくのも大事だろうな」

 そう言うや否や牧野はシートベルトを外し「ちょっと吸ってくるよ」とポケットからタバコを取り出した。セブンスターだった。片瀬はタバコは吸わないが、その銘柄は知っていた。知人が吸っていたのだ。

 浅野は少し間を置いてから「どうぞ」と答えた。

「最近は好きに吸えなくて、肩身が狭いねえ」

 牧野はそうぼやきながら、車外へと出て行った。ドアを開けたことで冷たい風が吹き込んだ。熱の籠った車内では心地よく感じる。

 新潟の気温は片瀬が思っていたほど寒くはなかった。上越の方はもっと寒いのだろうかとも思うが、これから山へ向かうのだ、用心に越したことはないのかもしれない。

 窓越しに、牧野の向かう先を見ると駐車場の奥のほう、店の脇ともいえる場所に喫煙所が見えた。

「お二人も、適当に休んでくださって構いませんよ。なんだったら軽い飲食だってしてきてもいい」

「私は別に大丈夫です。それと、気分じゃないので」

「なら、俺も。自前で持ってきたのもありますし」

「私は少し席を外します。植村さんと段取りを確認してくるので。何かあったらすぐに言ってください。すぐそこにいますので」

 では、と浅野も車を降りた。タイミングを計ってか、隣の車からも植村が降りるのが見えた。

「なあ」

「どした」

 滝原は相変わらず頬杖を突き、車外を見ていた。歩行者も、走行する車も疎らだ。何かを見ているというよりも、単にぼうっとしているだけだろう。

「結衣さんからさ、連絡とかは来てないか」

 ああ、という生返事の後、滝原は緩慢な動作で横に置いていたショルダーポーチへと手を伸ばした。取り出したスマートフォンを半目で操作している。長い睫毛が、触れ合いそうだ。

「ないなあ」

「そうか」

 ちょっとした沈黙が流れる。何をするでもなく、ただぼうっと。少し前なら心地よくすら感じたそれが、今はどうしようもないほどに、不安定だ。

「心配か」

 頬杖をやめ、ゆっくりと髪をかき上げるようにして撫でた。高いところで結ばれた長い房が滑らかに揺れる。

「そりゃあね」

 滝原はニッと口元を緩めた。憂い気な目はまっすぐに片瀬を見ているようで、どこも見ていない。

「連れ戻せると、いいんだけどなあ」

 ぽつりと零された本音は狭い車内を響くことなく、沈んでいった。窓ガラス越しの、籠ったような騒音に掻き消された。


 少しして、牧野が喫煙所から戻ってきた。

 入り込む冷気とともに、煙の匂いが僅かに香った。

「においますよ」

「多めに見ろお」

 牧野の笑い方はどうにもオヤジ臭かった。

「お前たちは休まないのか」

 視線は総合スーパーの方を向いていた。

「俺は別に」

 浅野に言ったように、飲食物は持ち込んでいた。もっとも、食欲はなかったが。

「なら私は少し、出てきます」

 そう言うと、滝原は手荷物をまとめ始めた。

 脱いでいたジャケットを着込む。

「飯か」

「いや、ちょっと外の空気でも吸ってくるよ」

「そっか」

 ひんやりと冷たい空気が片瀬の横顔を撫でた。三度目だ。鼻孔が寒暖差でむず痒くなった。すぐ隣と前の座席では、風の通りが少し違う。

「……臭かったかね」

 牧野は首に手を当てて、困ったように笑った。

「さあ」

 少なくとも、セブンスターは人を選ぶだろう。

「ところでよお」

 首に当てていた手が蟀谷に移動した。迷うように、人差し指だけが蟀谷を突きまわす。

「何ですか」

「……お前もあれ、持ってんのか」

「あれって……」

 羽のことだろうか。

「俺は正直、お前の話は半信半疑さ」

「でしょうね」

「でしょうねって、お前なあ」

 牧野は再度、困ったように笑った。

「ともかく、お前の話はどこまでが真実で、どこまでがお前の妄想なのかはわからん。かといって嘘を言ってるようにも見えないし、全部が全部、戯言にも聞こえる」

「見たいってんなら、やめた方がいいですよ。気持ち悪いだけですし」

 そんなんじゃねえよ、と蟀谷に当てていた手をひらひらと振った。

「うちも、新潟の連中も、上からあの二人主導で進めろって言われててなあ。勝手なことはやれん」

「上下関係ですか」

「ドラマの見すぎだ」

 牧野はシートに深くもたれると「階級の違いはあるけどな」と、小さく零した。

「あのおっさん、警視って言うんだ。知ってるか」

「警視って、警部よりも偉い人ですよね」

 そうだ、という肯定が返ってくる。

 警部以上となると、刑事ものの作品でもあまり活躍しているところは見ない気がする。

「それも叩き上げで、おまけに警視庁の、だ。本来なら現場に出るような役職じゃあないんだけどな」

 牧野は乱暴に頭を掻いた。

「俺はな、正直民間人を捜査に利用しようってのも納得しかねてるんだ。怪しいヤマなら猶更な。今回のは、どうも普通じゃない。お前の証言ってのもそうだけどよ、俺らの動き方からしてちっと変なのさ。俺も直接の上司から普通ならありえない指示を出されたわけだし、おまけにあんな胡散臭いおっさんが出てきた」

「ありえない指示って」

 牧野は黙って懐に手を入れる。

 そして、引き抜いた手を外からは見えないようにこっそりと、サイドブレーキの上あたりへ持っていく。

「こいつの引き金がな、軽くなっちまった」

 手には、拳銃が握られていた。

 銃身の短いリボルバータイプの拳銃。名前は知らない。

「超法規的措置ってやつかね。大っぴらには言えないが」

 少しの間、それは厄介そうに提示された後、すぐまた懐へと消えていった。

「お前が何かを心配してんのもわかるけどよ、それがなんなのか俺にはよくわからん。特殊な事例ってのも、十分理解してる。だがな、だからこそだ」

 牧野はシート越しに、顔だけを横にし振り返った。覗く右目は、鋭く細められていた。

 深い、カラスの足跡が浮き上がった。

「警察に、任せてはくれねえのか」

 掠れたような、低い声だ。荒い目で、やすりにかけられるような威圧があった。

「俺も、ここまできたら引き下がれませんから」

「危ねえんだろ、命懸けるほどか」

 実のところ、古谷結衣には三度しか会ったことはない。

 初めは興味と、あとは見栄だった。正幸の話を聞いてからは、義理も加わった。

 今は、何だろうか。

「自惚れとかではないですけど、俺が行くのが一番だと思うんですよ。一度、振り切ってますから」

 牧野は何も言わない。

「まあ、ある程度信用があって、取り押さえられるだけの頭数は欲しかったんですけどね。こればっかりは、一回信用なくしてしまったので何とも言えませんけど」

 羽だって、そのために持ってきた。

 置いてくるよりは、警戒を解いてくれるだろう。そんな浅知恵だ。

 それに。

「それに俺、探偵に憧れてるんですよ」

「……そうかい。ならもう、とやかく言わんよ」

 頭の上で手を組んで、もう一度背もたれに体を預けた。「そこは建前でも警察にしとけよ」と苦々しく笑った。それきり牧野は、何も言わなかった。



***



 時刻は12時45分。干山公園にほど近い砂利道に片瀬らの乗った車は停車していた。小さな山中の開けたスペース、いわゆる林道の途中に設けられた駐車スペースかなにかなのだろう。Uターンでもしたのか、古い轍がいくらか残っている。林道は干山から、干山と隣接する山々へと繋がっている。干山は奥へ奥へと続く山林、その入口なのだろう。

 ここからは片瀬と滝原、そして正幸だけで待ち合わせ場所へ向かう。案内は正幸がすることになっている。地元ということもあって何度も通ったことがあるそうだ。

「ここからどれくらい歩くんですか」

「それほど遠くはない。まあ、上下にはそこそこ広いかもしれないが」

 正幸とは実に6時間ぶりの会話だ。

「しまった、山歩き用の靴にするべきだったかなー」

 車から降りるなり、滝原は自身の用意の悪さを心配していた。見ると、履いているのは一般的なスニーカーだった。ハイヒールなどの特別歩きにくいようなものではない。

「それくらい大丈夫だろ。というより、そんな靴持ってんのかよ」

「持ってるよー、トレッキングシューズ」

 しきりに足元を気にして、こちらのことは見向きもしない。

「整備されてるとは言えないけど、ずっと砂利道だからね、心配する必要はないよ」

「うーん、ならいいんですけど」

 そんなことを話していると、片瀬たちのほうへ浅野が歩いてきた。手には何か小さな機械を手にしていた。

「皆さん、準備のほうはよろしいですか」

「はい。問題ありません」

 オーケーサインを右手で作っている滝原を確認してから、代表して正幸が答えた。

 浅野はひとつ頷いてから「これを」と、手に持っていた機械を差し出してきた。手のひらより一回り小さいくらいの、ACアダプタのような見た目をしている。一方からアンテナだろうか、短い棒状のものが飛び出ている。

「これって?」

「小型の無線機です。有事の際にいつでも我々が駆けつけることができるよう、会話はすべて聞かせていただきます」

 まるで盗聴器だ。

「これをどなたか一人に持っていていただきたいのですが」

「なら、僕が」

 迷うことなく、正幸が名乗りを挙げた。浅野は特に反対することなく、「ではこれを」と、正幸のジャケットのポケットに入れる。若干の膨らみこそ見て取れるが、注視しなければ気づかないレベルだ。

「これから皆さんには古谷結衣と接触していただきます」

 浅野は一度居住まいを正すとそう言った。

 正幸の表情が、少し歪んだ。

「古谷結衣の確保はそちらが行う、というのが提示された条件でしたが、これは無理に行ってもらう必要はありません」

「というと?」

「危険だと感じたならば、すぐに逃げていただいて構わない、ということです」

「危険って……」

 滝原が小さく声をあげた。

「あくまで、仮定の話です。何が起こるかわかりませんので」

 それを宥めるように、浅野はすかさず補足する。相変わらず淡々としている口調だった。

「皆さんにやってもらうことはとてもシンプルなことです。古谷結衣と接触して、身柄を確保する。もし暴れるようであれば我々を応援として呼んでもらっても構いませんし、なんらなら、先ほど言ったようにその場を離れても構いません。また、事情を聞く、説得をする、というのは自由に行っていただいて構いませんが、必須ではありません。そちらも本来は、我々の仕事ですので」

 ふと、牧野との会話を思い出した。それもすぐに、消し去ったが。

「一つ質問いいですか」

「なんでしょう」

「さっきの無線機って、こちらから連絡を入れて、返事をもらうこととかはできるんですか」

 指示を受けることはできるのかということだ。傍観している側にしかわからないことというのも、あるかもしれない。

 滝原の視線が、正幸のポケットへと向けられた。

「一応、スピーカーは備わっています。しかし、基本的にこちらからアクションをとることはありません。イヤホンをつけてもらうわけにもいきませんので、それは集音限定と思っていただいて構いません」

「そうですか」

「そのため、何か質問があれば今のうちにどうぞ」

 横を見ても、二人とも首を横に振るだけだった。

「もっとも」

 浅野は一度、前置きを置く。

「皆さんに何か危険なことが迫っていたような場合はすぐに知らせます。そのときは正幸さん、お二人を連れてすぐに逃げてください」

「……わかりました」


「それでは、どうかご無事で」


 

 深く息を吸えば、気管が沁みる感覚とともに、土の香りが鼻孔を突き抜ける。

 林道のすぐ脇はまさに藪、といった具合だった。簡素な木の柵とロープで仕切られてるとはいえ、少しでも多く日光を得ようと逞しく伸びた雑草が境界を飛び越えてくる。背丈のある何種もの雑草に、落葉性の中低木。細い幹にはつる草がしきりに絡みついている。

 野放図に伸びた枝葉。一面草木が鬱蒼と茂り、屈めば大の大人でもどこにいるかがわからないだろう。

 干山公園近くには地元の警察官が何人も待機しているらしい。せいぜいが数人ついてくるばかりだと思っていたのだが、具体的な人数こそ教えてもらっていないが結構な数が動員されていると言っていた。それも、植村の指示だそうだ。

 もっとも車からも、今現在歩いている中でも、私服警官も制服警官も――パトカーすらも――見当たらないのだが。

「花粉症だったら、大変だろうなあ」

 滝原がそんなこと呟いた。ヨモギもブタクサも、至る所に生えている。

「実は花粉症なんだ。まあ、春だけどね。ここらへんは、もう色々と伸び放題だからね、地元にいたころは大変だった」

 春の花粉症といえば、スギやヒノキ、あとはハンノキなどか。

「そろそろだよ」

 しばらくの間、緩急の繰り返す坂を登った先。何度目かの緩い傾斜が終わる頃。道が途中で分かれた。片方はこれまで通りの砂利道が続き、もう片方は山肌を上るような階段だった。丸太階段とでも言うのだろうか、1メートルほどに切られた丸太で土留めがされている。景観を壊さないよう配慮された、というよりも作るのが楽だったのではないか。見た目は随分と風化してしまっている。何の虫かは知らないが、穿孔性の昆虫に齧られ、虫食い穴のまとまりがいくつも見える。キノコすら生えていた。

「滑るから気をつけろよ」

 踏面には落ち葉が積もっている。オスのハサミムシがちろちろと、葉の隙間を縫って走った。こいつもそろそろ越冬期間に入るのだろう。

 階段の脇はアーチのように木々が並んでいる。間に階段を作った、というほうが正しいのか。

「ここを上るんですか」

 うんざり、というのがぴったり合った口振りだった。

「段数自体は、そんなでもないさ」

 正幸が朗らかに笑った。

 踏面に積もった、赤茶けた落ち葉を踏みしめながら階段を上る。日当たりがよくないため、葉を踏む感触は柔らかい。

「もうすぐ、もうすぐだ」

 道は一度大きな木にぶつかり、左斜めに進路が変わる。見上げずとも、終わりは見えた。


 登り切った末は、山を切り崩したのか、それとも均したのか。平らな土地だ。公園というより、休憩所に近いのではないか、というのが一瞥した感想だった。

 階段の終着点、その脇の地面から飛び出た大きな岩が、表面を削り滑らかにされ、申し訳程度に『干山公園』と銘打たれている。

 見渡す限りでは藪中ではないというだけで、公園とはいえ特にこれといって遊具などがあるわけではない。滑落防止のため、半円ほど林道と同じように簡易な囲いがされ、奥のほうは藪と中高木で閉じられている。常緑樹も多く、先は見えない。敷地内は周囲に比べれば丈の低い草原と、砂利や土の地面。

 そして、四柱で支えられた木造の小さな東屋と、こちらも風化の途中のベンチとテーブル。腰高で正方形のテーブルを中心に、ベンチが四方に置かれている。


 その東屋の寂れた椅子に――彼女はいた。



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