第8話

 金曜の朝。時刻はまだ7時を少し回ったところだ。滝原との約束は午前の9時。まだ2時間ほど余裕があった。

 片瀬はトーストにバターを塗っただけという、簡素な朝食を摂りながらテレビを見ていた。この時間帯はどこの局も大体ニュース番組だ。時間帯もあって、民放でも芸能ニュースはそれほど多くない。それゆえラインナップもどれもたいして変わりは映えしない。せいぜいが地方か全国かの違いくらいだろう。

 片瀬が視聴しているのは全国ニュースだ。いくらか興味のない事件・事故、その他雑多なものが流れた後、今最も知りたいものへと内容が移った。

 新潟での男女行方不明事件。若狭麻美ともう一人、男性が行方不明になった事件。そして古谷結衣が――十中八九――関わっている事件。昨日の夜の段階で、若狭麻美ともう一人の男性の行方が分からなくなるその前、結衣が一緒に行動していたという目撃情報があったのだ。厳密には複数人の男女、つまり片瀬が調べていた数々の事件と同じ、奇妙な集団である。警察は当然結衣から情報を得ようとするだろう。実際に捜査方針としても既に固まっているらしく、昨夜のうちに結衣との接触を図っただろうことは想像できる。

 普通であれば、これがもし普通の事件であったのならば、今朝のニュースには結衣から得られた何らかの情報が取り上げらえれるか、黙秘した、あるいは関与を否定している、などと報道されたりするのだろうか。

 だが、そうはならなかった。

 昨日の続報として明らかにされたのは、古谷結衣が失踪したというものだった。

 警察は行方不明ではなく、失踪として扱っていた。結衣の当事件への関与は最早否定できないものと考えているのだろう。ゆえに失踪。もしくは、逃亡。

 それに対して片瀬は、やっぱりな、というひどくあっさりとした感想しか思い浮かばなかった。警察や世間からすると急展開というやつかもしれないが、片瀬には半ば想像できていた展開だった。警察に捕まるはずがない、そんな予感を、いや確信めいた思いがあったのだ。

 思い出されるのは彼女の瞳だ。のっぺりとした、燃えるような、恋い焦がれるような、そして今にも蕩けてしまいそうな悍ましく美しいガラス玉の奥に現れた一つの違和感。おそろしい、予感。あれを感知してしまってから、片瀬は結衣の現状を天啓のように理解することができていた。

 あの一つだけ周囲から孤立して佇む街灯の下での、結衣との3度目の邂逅。あの日片瀬、は人として生きていくためには、そして健全な精神状態を保ち続けるためには、決して目にしてはいけないものをきっと垣間見てしまったのだ。もともと見えたような気がしただけ、その存在を気取っただけ。もしかしたらそれはただの錯覚だったのかもしれない。そんなまるで白昼夢のように曖昧な出来事であったとはいえ、片瀬はその時目にしたもの、脳細胞の一つ一つに刷り込むようにして投影されたそれの姿が、そのありさまがどういったものだったのかは今は欠片も思い出せはしない。脳が一人でに記憶にロックを掛けてしまったようだ。厳重に封をされた記憶はもしもの二度目がなければ、それを思い出すことはないだろう。

 だが、それを悔やむ気は一切ない。あの時のことを思い出そうとすると、片瀬は理解に及ばない未知の恐怖と、平静ではいられなくなるほどの不安感を覚えるのだ。封じ込めたはずの記憶が、脳に、いや、これまでを通じて体に刷り込まれたあの赤黒い錆の欠片からじっとりと滲み出すように、精神を支えるこれまでは頑丈だったはずの太い幾本もの柱へと容易にへばり付き、ゆっくりと食む様に侵食し、しまいには感情を侵すのだ。振り切ったはずの、遥か高位の存在の持つ途方もない叡智と、身と心を溶かすほどの幸福という、己が生命のおよそ全てを投げ打つことで得られる究極の報酬の果てを目指してしまいそうになる。

 その魅力は片瀬から平静を容易く奪うだろう。気を抜けば、感情でも理性でもない、本能すら超越した超根源的な隷属願望、平伏せざるを得ない畏怖が脳髄の奥底からあふれ出てくるのだ。羽を身につけなければ問題ないというのは楽観視だったのだろうか。それとも、彼の存在を、その一片でも理解しかけてしまったことが、認知してしまったことがいけなかったのだろうか。

 おかげで昨夜は一睡もできなかった。


 ともかく、かの存在にすでに魅入られた結衣は、くだらないには囚われない、捕まることがない、そう確信めいた予感があった。


 控えめな電子音が鳴った。

 マナーモードを切った携帯電話だ。

 相手は、古谷正幸だった。

「もしもし」

「片瀬君かい? 今、時間いいかな」

「大丈夫ですよ」

 それはよかった、そう彼は安堵する。やや生気のない声だった。やつれているであろう正幸の様子が容易に想像できる。

「連絡をくれ、とのことだったからね」

「ああ、そうだ。忙しい中わざわざすいません」

「気にしなくていいよ、今は、休みをもらっているからね」

 自嘲気味に、正幸は笑った。

 正幸は心配していたよりもだいぶ元気そうではあった。片瀬の中での正幸はイメージが『生真面目』であったため、自責のために話すのもやっと、といったぐらいに落ち込んでいるのでは、と勝手に想像していたのだ。もっとも、表に出していないだけで、十分まいってはいるのだろうが。声音からは多分に疲れが感じ取れる。

「それで、まあ知っての通りだ。麻美ちゃんが……結衣が、いなくなってしまった。警察は結衣が……まあ犯人の一人だと考えているみたいだね」

 片瀬のほうから聞かずとも、正幸のほうからそう切り出した。この話になることはあちらも察していたのだろう。

 ――犯人。

 そもそも警察はどういう意図をもって今回の件に事件性を見出したのだろうか。

 もしこれが行方不明ではなく失踪であれば大事にはならなかっただろう。失踪事件はあまり警察も積極的に介入しないと聞く。自分の意志で行方をくらましただけなのだから。

 片瀬はてっきり、警察は若狭麻美と同時に行方のわからなくなった男――金松伸二という名前だ――との間にトラブルでもあったと考えているのかと思ったのだが。

 そう考えれば、目撃情報があった段階でまた見方も変わってきたはずだ。若狭も金松も、そして結衣も、一つの集団として目撃されている。この時点で若狭と金松二人の問題ではなくなってしまっている。

 警察はこの集団をどのように見ているのだろうか。情報提供をした人たちもおそらくは誘拐のようには考えていなかったはずだ。もし無理やりのように見えていたのなら目撃した時点で警察に通報やら何やらをしていたのだろうから。ならばやはり、集団自殺か何かだろうか。しかし結衣は昨日の時点では普通に生きていた。少なくとも片瀬は実際に会った。滝原やその友人はわからないが、同棲している正幸ならば結衣の生存を証明できるはずだ。そうなれば自殺するために集まったメンバーで、生きているものが残っているのはやはり変だ。だからこそ警察は結衣を怪しんでいるのか? いや、どうにも腑に落ちない。

 二人はすでに殺されている、などと考えているのか? それとも、そもそもそんなに重大に捉えていないのか?

「正幸さん、警察は若狭さんの行方が分からなくなったことについてどう考えているとか、知ってますか?」

「どうだろうか。普通の行方不明事件だと思うんだが」

「なら、そうですね。ちょっと変な質問で申し訳ないんですけど、やる気とかはどうですか。積極的に捜査をしているかどうか、とか」

「……そうだね、普通、というのがどんなものかはわからないが、精力的に取り組んでくれているとは思うけど」

「そうですか」

 もっとも、現場は新潟なのだ、あちらの様子まではわからないだろうが。

「なら、結衣さんを犯人だと考えてると言ってましたが、何の犯人でしょう。誘拐ですか、殺人ですか、それとも自殺教唆ですか」

 正幸は黙り込む。

「すまない、そこまではわからないな」

 片瀬は少し悩んだ。警察の出方がわからないため、結衣の情報を教えるべきか、それとも黙っているべきか。その判断がつかない。

 最終的には頼ることになるのだろう。だがそれは結衣を捕まえてからだ。余計な茶々を入れられて、二度と戻ってこなくなれば目も当てられない。

 それでも、少なくとも、正幸には話しておくべきだろう。もともとそのつもりでもあったのだから。そして、彼なら協力してくれる、その確信があった。彼なら、致命的な現実を知っても受け入れることができる、そう確信していた。

 だから。

「実は……結衣さんの居場所に、心当たりがあるんです」

「それはどこだい」

 一泊の間すら置かず、投げ入れられた餌に食いつくかの如く、正幸は飛びついた。

「居場所がわかる、というより会う約束があると言ったほうが正しいんですけどね。明日、会うことになっているんです」

「どこで会うんだ。教えてくれないか」

 先ほどまでと違う、やや逼迫した声。わずかに声も上擦っている。表面上の落ち着きは今にも剥がれそうだ。余裕があるとは思っていたが、やはり不安を内心に隠していただけのようだった。

「その前に、このことは警察には言わないでいてほしいんです」

「それは、どうしてだい」

「もし警察が近くに行けば、結衣さんは逃げてしまうかもしれない。彼女はたぶん、そういったことには敏感な状態、とでも言えばいいんですかね? おかしな話かもしれませんが、自分の害になるようなものを、感知することができるんだと思います。だから警察に動かれてしまうと……手掛かりがなくなってしまいます」

『二度と会えなくなってしまう』そうは言わなかった。

 少しの間、話はそこで途切れた。悩んでいるのだろう、どうすべきかと。警察と片瀬の、どちらを信用するべきかと。

 正幸は暫しの逡巡ののち、口を開いた。

「……なら、どこかで待機していてもらうというのはどうだろうか。僕は君が何を知っているのか、何を隠しているのかは知らない。だけど、だからこそ警察に頼るべきだとも思うんだ。何より、数は力さ」

 切迫した様子は既に鳴りを潜め、正幸は落ち着きを取り戻した声音でそう諭す。

 案外いい考えだと、そう思った。片瀬は協力を頼むか、それとも隠すかの二択しか考えていなかった。もし警察に情報を渡せば即座に動いて、そしてこちらには関わらないように通告するものだとばかり思っていた。いや、事実そうなのかもしれない。特に、ほぼ部外者と言ってもいい片瀬であれば。だが、もし情報を伝えたのが肉親である正幸ならばどうか。社会的な立場のある大人であれば、どうか。正直なところ、それでも結果は同じような気もしないでもない。

 それでも、もし警察の協力を得られれば、結衣に悟られない範囲で待機していてもらえれば、彼女の確保、そして保護は容易く進むだろう。

 不測の事態にも、対処しやすいだろう。

「話をつけておくくらいなら、いいかもしれません。ただ結衣さんを説得するのも、確保するのも俺たちです。もし結衣さんが逃走しようとすれば、どんな手段を取るかはわからないのであまり警察には刺激してほしくないんです。だから、引き渡すまで手を出さないようにしてくれるというのなら、協力を仰ぐのもいいと思います」

「わかった。ならこちらからそう伝えておくよ」

「ちゃんと言質を取ってからですからね」

「大丈夫、ちゃんとわかっているさ」

 正幸は軽く笑いながらそう答えた。

「それで、結衣とはどこで会うことになってるんだい」

 正幸はすっと、トーンを落とす。この人は切り替えが早いのかと、そう感じた。

「干山公園。というところです」

「……地元じゃないか」

「そうみたいですね」

「なら結衣は今もあっちにいるということか?」

「そこまではわかりません」

「……麻美ちゃんは」

「若狭さんは……」

 最早、生きているかもわからない。

 〝人間〟として。

「……あまり、期待しないほうがいいかもしれません」

 息を飲む音が聞こえた。正幸の心情を考えるのは、やめておいた。

「そうか……」

 納得するのは案外早かった。

「片瀬君。聞いていいかい」

「……なんでしょう」

「君は……君は、いったい何を知っているんだい」

「それは、長くなります。後でお話ししますよ。新幹線の中ででも」

 信じられないかもしれませんけどね、そう締めくくった。



***



 チャイムが鳴った。いやに間延びした電子音だ。時刻は9時を少しだけ回っていた。

 片瀬は訪問者を、リビングへと案内する。

 センターテーブルを中心に、板張りの床へ二つ座布団を用意する。彼女、滝原はゆっくりと腰を下ろした。その様子はいつものガサツさの方が演技なのだといわんばかりに淑やかだった。そして派手さのない、落ち着いた服装。手が抜かれたわけではない。滝原は特に何をするでもなく、ただ静かに座っていた。それが、とても様になっていた。


 どう切り出すべきか。

 向かい合うように腰を下ろした片瀬はそれを悩まされていた。口を開きづらい。今日話すべきこと、話せと言われたことは、そもそもあまり人に話してしまいたい内容でもないのだ。

 おそらく健全な一生を過ごすためには耳にすべきではないこと、人知を遥かに超え、生命を冒涜するかの如くに行われる彼のものの振る舞い、性質、いや存在自体に少しでも触れなければならないのだ。それは垣間見るだけで精神に多大な負荷をかける。免疫があろうとなかろうと、人を容易く狂気へと陥れるほどの存在、その一端を知らねばならない。

 それを、今の彼女に伝えなければならないのだ。滝原の顔には――本人はずいぶん気丈に振舞っているようだが――濃い疲労が浮かんで見える。結衣の件に関して悩み、そしてほかの友人に関してもまた何かがあったに違いない。彼女はどうも人に頼られやすい気質なのだ。

「何あれ」

 一人そうこう悩んでいると、滝原は部屋の隅、ちょうど片瀬の左後ろの方を注視していた。部屋の隅にはごみ箱がある。そして滝原は、その隣に置かれたものへと意識を向けているようだった。

 片瀬はそのことに気が付くと、わずかばかりか顔をしかめた。目につくところに放置していてなんだが、できることなら気付いてほしくなかった。傍目には、ただのゴミにしか見えないはずなのだが。

「……何って、ゴミだろ」

「ふうん」

 疑わしげな目は、今日に限ってひどく非難の色が強いように見えた。

「逆にゴミ以外、何に見えるっていうのさ」

「……よくわかんないけどさ。なんか、気になって」

 滝原は気味の悪いものでも見たかのように、顔をしかめ、しきりに両腕をさする。


 あれは、どこまでも、どこまでも人を惑わそうとするのか。


 だが、いい切っ掛けなのだろうか。

 あれも、結衣のことを、片瀬が知ってしまったことを語る上で必ず触れなければならないものだ。

片瀬は降参したように一度項垂れ、そして腹を括ってから顔を上げる。

「……もう一度だけ聞くぞ。聞きたいのか? 聞かないほうがいいことだ。ついてこないほうがいいことだ。下手をすりゃ、一生後を引く類の、格別質の悪いもんだ。それでも、聞くのか」

 茶化すでもなく、真摯に、真剣に。そしてここで引き返してくれという願いを込めて。

 滝原は一度、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。思えば10年近い付き合いの中で、一度も見たこともない類の、労わるような優しい笑みだった。

「頼むよ」

「そうかよ」

 袋へは、手を伸ばしたところで届かない。

 片瀬は重い腰を上げ袋を手に取る。そしてその中身を取り出すと、それをテーブルの上へと置いた。

 ことり、と硬い音がした。

 ぐじゅり、と気味の悪い、何かが潰れるような音が――幻聴が聞こえた。

 水音は鼓膜をすり抜け、耳小骨を揺らすことなく、そして脳にこだました。

「なにこれ、きもちわる」

 纏っていたメッキが、早速剥がれた。だがそれでいい。こんなもの、心の底から否定してしまうのが一番だ。

「正幸さんの話、覚えてるだろう」

 顔をしかめたままの彼女に構うことなく、片瀬はようやく話しを切り出した。

「まあな」

「古谷結衣が、ゴールデンウィークの終わりに、錦鍾乳洞から帰ってきたときのことも」

「ああ」

 勿論だと彼女は頷く。

 ――ぐじゅり。

「その時、彼女は……羽を持って帰ってきたって、そう言っていただろう」

 ――ぐじゅり。

 返事はないが、覚えていない、という意味ではない。彼女の瞳には、強い嫌悪が浮かんでいた。

 片瀬は滝原の顔をじっと見つめていた。見つめ続けていた。

 ――ぐじゅり、ぐじゅり。

 だが、視線を落とさなくてもわかる。

 悍ましい幻聴が響き、脳に幾つもの波紋を刻み込む。

 羽は脈動し、その体液を噴き出す。テーブルの中央を、羽を中心にして薄黄色の液体が侵した。

 それらは瞬時に渇き、赤黒く変化し、粉が舞う。

 体液の噴出はいまだ止まらない。


 ――ぐじゅり。


「これはな、古谷結衣から貰った――」


 ――天使の羽だ



***



「ああ、片瀬君……それと、滝原さんか」


 滝原を伴い、片瀬が古谷家を訪れると正幸が迎え入れてくれた。口角を上げ柔らかな笑みを浮かべているように見える。しかし彼の身に、いや彼らの身に降りかかった極大の転機は当然つかの間の安らぎすら許すことなく、やはりどこか緊張した様子、そして疲れが浮き出ている。

 正幸に案内され、一度訪れたことのあるリビングへ行くと中には四人、スーツ姿の男性がいた。40代前後の、眼鏡の一人と顎髭を蓄えた一人は千葉県警から、若いのだろうがやややつれた印象のある背の高い一人と、ハンチング帽を被り、四人の中で一番年嵩のいった一人は警視庁から来ていたらしかった。彼らは新潟県警からの協力要請を受け、ここ千葉での捜査、つまるところ結衣の事情聴取を試みていたわけだ。なぜ警視庁の刑事まで出てきているのか、片瀬にはわからなかった。

 警察が片瀬らに硬く、そして丁寧な挨拶を済ますと、正幸が席を進めた。

 滝原は「ありがとうございます」と軽く頭を下げ、ソファ――以前と同じ場所に座った。

 片瀬はそれを見て、その動じない胆力を少し羨ましく思った。

 片瀬もソファに腰かけると、正幸も対面に座る。これであの日と同じ格好になった。

 警察の四人は座らないらしい。ソファを挟んで、片瀬らとは横になるようにそれぞれ立っている。

「早速で悪いですが、古谷結衣の居場所……というよりも会うことになっている場所、彼女と会う理由――そして今回の行方不明事件に関して、〝君の口から〟、君の知っていることを話してくれませんか」

 警視庁からの刑事、若い方――浅野というらしかった――がそう口火を切った。顔つきこそやつれた様子があったが、口から出る言葉には覇気があり、また随分と堅苦しかった。

 滝原からちらとこちらを伺うような視線を感じつつ、片瀬は「わかりました」と答える。

 その声は自身でも震えていたように思う。

 それを見てか、最年長の男性、植村という刑事が人の好さそうな笑みを浮かべながら片瀬の傍まで寄ると、座る片瀬に合わせるように腰を屈める。

 笑みを深めると、目元にすっとしわが寄った。

「そう緊張しなくても大丈夫さ。別に尋問でも何でもないんだからね。知ってることを、とにかくなんでも話してくれるだけでいいんだよ」

 そうして片瀬の緊張をほぐすようにやんわりとたしなめた。

「ああ、はい。ありがとうございます」

 今の一言で緊張がほぐれる、などということはなかったが、片瀬は言うだけ言ってやろう、という気になった。

「まあ、普通こんなこと経験しないからねえ。緊張もするわけだ」

 植村はぼやくようにそう言った。

 残りの二人、千葉県警の刑事は特に何を言うでもない。片方はじっと佇み、もう片方はメモ帳を片手に待ちの姿勢だった。どうやら主導権は警視庁の二人らしい。ドラマなどでよくある上下関係、というわけではないようだが。

 片瀬は滑りをよくするよう、乾いた唇をひとなめすると、一度確認しておきたいことを植村と、そのすぐ後ろに立つ浅野の二人に向かって尋ねた。

「その前に確認しておきたいんですけど、約束は守っていただけるんですよね」

「約束というのは、古谷結衣さんと初めに接触するのは君たちだけ、というものだね」

 問いには植村が答えた。

「はい」

「本当はこういうのは駄目なんだけどねえ。まあ、こっちとしても考えなしに挑んで重要参考人を逃がすわけにはいかないからね、今回だけだよ?」

 植村はおどけるような口調でそう言うと、姿勢を戻す。そのまま半身ほど振り返り「なあ」と同意を求めるように他の三人へと声をかけるが、「ええ、まあ」と軽く返されるに終わった。隣に立つ浅野は表情の変化はない。一方で県警の二人はどことなく不満げな様子だった。

 信用できるかと言われれば、正直なところよくわからない。

 この男には何か裏がある、そう、植村に対して疑念を抱いていた。

 一方で少なくとも彼らは〝邪魔〟をするようなことはないのでは、とも感じていた。県警の二人との対比があったということもあるが、どうも彼らは普通の捜査を行わない……いや、まるで別の事件を取り扱っているかのような姿勢に。

 ――結衣の身柄確保など、二の次のように感じるのだ。

 信用はならない。だが邪魔はされない。

 ならば、話は早い。片瀬としては結衣をあの化け物どもから引き離せればなんでもいいわけなので、彼らがこちらの要望通りに動いてくれるというのならなんの問題もない。

 警察らしくない、まさかそんなことが利になるとは。

「まず、結衣さんと会うことになっているのは、新潟の干山公園という場所です」

 これは既に正幸から伝えられていることかもしれない。

「時間は」

 メモ帳を開きながら、確認するような口調で浅野が問う。

「土曜の昼、1時です」

「間違いはないですね」

「ありません」

 メモ帳から視線を上げ、今度は滝原を見据える。そしてすぐまた視線を落とした。

「その約束をしたのはいつのことですか」

 片瀬は一瞬だけ躊躇した。

「木曜の夕方です」

「なぜすぐに我々に連絡をくださらなかったのですか」

 そばに控えていた一人の刑事が、詰問気味にそういった。それを植村が「まあまあ牧野さん」と窘める。浅野はその遣り取りに一瞥もくれない。

「では、なぜあなたがなぜ古谷結衣と会うことになっているのか、話して頂けますか」

 平然と進められる聴取にほんの少し、戸惑いを覚えてしまう。

 横では先ほど牧野と呼ばれていた刑事が「失礼」と居住まいを正していた。

 会う理由。それは話せば長くなる。というより、一から話さなければならない。先ほど滝原に話したことでもある。片瀬は同じ話をもう一度話すことになるわけだ。

 長い話だ、滝原へと説明するのも一緒にしてしまえばよかったとも思う。しかし、片瀬自身一度整理しておきたくもあった。感覚的な出来事、そして自分ですら正確な理解に及んでいないもの、それがいくつもあったためである。体験した出来事のほとんどが推測であり、最悪幻覚ですらありえた。それを言葉にするのは難解な作業だと思う。実際、一度彼女に話した際、自身でも何を言っているのだと思ったものだ。

 喉を鳴らして一度つばを飲み込む。

 長い話で、荒唐無稽な話。滝原や正幸にはともかく、事件とは全く接点のない第三者にそれを説明する、なかなかに厄介だ。下手をしたら彼ら二人からの協力すら得られないかもしれないのだから。それだけは避けたい。

 浅野は何も言わない。

 植村は、相変わらずにこにことしていた。

「結衣さんと会う約束をしたのは……自分も一度、彼女と同類になった、彼女と同じものを信じていたからです――」

 長い溜めを挟んで、片瀬は口を開いた。

 片瀬は正幸と警察、彼ら五人に古谷結衣が陥っている状況、そして片瀬の身に起きたことの説明を始めた。

 できるだけわかりやすいように。できるだけ、虚偽妄想と思われないように。


 先ほど滝原に説明した時のことを思い出しながら。



***



 古谷結衣、そして彼女の所属するサークルのメンバーの大部分は、ゴールデンウィークまでは普通だった。異星からの使者との接触もなく、その心身を狂気に蝕まれるようなこともなかったのだ。

 すべてがおかしくなったのは今年の5月、錦鍾乳洞へと赴いた時のことだ。そこで彼女たちは異星からの使者、羽の主、悍ましき錆を振り撒くかの神格の〝触覚〟の一つと邂逅した。

 そうして、哀れな旅人たちは、その健全だった精神に異星からの侵略を受けてしまったのだろう。

 彼女たちはサークルを抜けたメンバーといった一部を除き、その使者――彼らの言う天使――を通じて、かの神を信仰するようになった。羽を肌身離さずに身に着け、祈り、心身を捧げ、天使になるのだと、かの神と一つになるのだと。

 この羽は、その規模は小さく、速度も緩やかではあれど、周囲を徐々に錆付かせてゆく。

 そしてその錆は触れたものを、吸ったものを、意識を捕らわれてしまった者をも錆付かせてゆく。羽を身に着けているようであれば猶更だ。

 羽は身に着けた者たちへ夢を見せ、夢の中で主の下へと歩ませる。かの神と接触したときが、おそらく人としての最後だ。そして彼らはそれを拒まない。抗いがたい終生の幸福と引き換えに、心は狂気へと落ち、その体は神へと捧げられる。それこそが至上の喜びであるとでもいうように。

 彼らはその狂気に蝕まれた精神性を曝け出しながら大学生活を行ってきた。しかし、古谷結衣はその狂気を滝原らに見せることはなかった。正幸に止められたからだ。そのため、彼女が致命的に狂ってしまっていたことを滝原は知ることができなかったのだ。たとえその所作言動に違和感を覚えつつも、知性すら破綻したわけではない彼女の変化を、見破ることができなかったのだ。

 古谷結衣やサークルメンバーが、まさにかの神を信仰するカルト団員へと変貌してしまった後は、彼らはサークル活動と称して、その天使と縁のある地へと赴くようになった。

 南野峠、阿洲湖、秋戸町、そして結衣の地元である新潟、干山とやらもその一つだろう。

 そして、天使を崇拝していたのは彼らだけではない。どこでどのような遭遇を果たしたのかまでは知らないが、各地で行方不明となった人々、奇妙な集団とともに見られた人たちはおそらく――天使へとなったのだろう。

 一度、あの錆に覆われた赤褐色の異形へとなってしまえば、人前に現れることなどできはしない。

 少なくとも、彼らの侵略が決定的な一線を超えない限り。


 片瀬はこのことを、自身の先輩、そして紹介されたとある人物に教えてもらったのだと述べた。

 そして、なぜその羽を持っているのかも。

 片瀬は知りすぎた。興味を持ちすぎた。ゆえに錆を、信者の一人を通じて、かの神に目を付けられた。

 それがこれまでの経緯だ。


「あんたはもう、大丈夫なんだよな」

 話を聞き終えて、滝原はそう尋ねた。声は少しだけ、震えていた。

「ああ。もう振り切ったさ。平木さんって人に諭されてね」

 滝原は安心したように表情を緩めたが、それもまたすぐに曇る。

「なら、結衣はどうすれば元に戻るんだ。説得すれば、聞いてもらえるかな」

 縋るような、小さな声だ。

 縋る神など、どこにもいない。


 結衣を助けられる、そんなどこにも保証はなかった。リミットは、おそらく神とやらに会うまで。いや、平木の言を信じるならばその後司祭に会うまでだろうか。天使に、あの錆の化け物にまでなってしまえばもう戻ることはかなわないだろう。結衣は、片瀬の見立てではもうかなり危ないところ、もう一歩手前と呼べるところまでに至っているのではないかと考えられる。結衣は、彼女はすでにその心身を神に見初められていたのだ。もう会ってしまったのかはわからない。まだだとしても、もう時を置かずして至るのだろう。

 結局どうすれば彼女がかつての、滝原や正幸のいう、おとなしくて素直で、ちょっと引っ込み思案な結衣に戻ることができるのか。

 片瀬の場合は、元凶はあの羽だった。

 あの羽を見てしまったから、触れてしまったから一旦は狂気に呑まれてしまった。今でもそれは尾を引いているが、原因があの羽であったから、それを身から離すことで呪縛から逃れることができた。

 一方で結衣は、彼女が狂気に陥ったのは、あの化け物、彼らのいう天使を目にしてしまったからだと思う。始まりが片瀬とは違う。

 ならば、羽を取り上げたところで正気に戻ることはないのだろうか。

 それに、結衣はおよそ5か月の間その身に羽を宿していた。一週間にも満たない片瀬とはわけが違った。

 街灯の下での邂逅を思い出す。

 彼女の瞳を、そして、彼女の胸元を。

 彼女の胸元は、羽が触れていたであろう箇所は赤黒い錆に覆われていた。

 彼女の体は、すでに錆び始めている。


 手遅れ。


 嫌な考えが頭をよぎった。

「もう、どうにもならないのか……?」

 顔に出ていただろうか。長く言葉に詰まっていたことが悪かったのか。

 顔を合わせていた彼女は、ひどく寂しげな目をしていた。

 まだだ、まだ結衣はあの化け物にはなっていない。全身が錆に覆われたわけではない。きっと司祭にさえ会わせなければいいのだ。

 最後の、トリガーを引かねば問題ないはずだ。狂気に囚われているのはやはりあの羽だろう。たとえ心、いや脳にあの悍ましい存在の意思が巣食っていようとも、彼女を狂気に縛り付けるあの羽さえ奪ってしまえば、おそらく。悍ましい存在とのつながりであるあの羽さえ取り上げてしまえば、きっと。

 少なくとも、錆に覆われることはなくなる。

 あとは司祭に会わせなければいいだけなのだ、刑務所でも精神病院でも自宅療養でもいい。彼女を出歩かせさせしなければ化け物になってしまうことはない。

「……羽だ。あれさえなければ、あるいは」



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