第11話

 ある真夜中のラトマティ村という集落にて。月が空の天頂まで登り、草木も眠らんとするその時刻。昼間の喧騒に反して、夜中ともなればしんと静まり返っている。

 三方を直径二里ほどの林に囲まれ、村の目の前には原野が広がるこの村。風の音もなく、感じられるのは近くの川のせせらぎと、畑の土の臭いと、天から降ってくる月の明かりのみ。村の中には、居住区と農地とが半々程度の割合で存在しており、丁度その境目辺りに憩いの広場が設けてある。…と、ここまではこの村ではよくありふれた光景。

 フィオーレのそれと比して五倍の広さは誇るその村の広場には、とある催しを開く明くる日を迎える為に、三つ四つの小さな通りを作ってしまう程の露店が並べられてある。これを見るだけでも、明日の賑わいを容易に想像できる。

 ただ、何もこれだけがこの村に用意された非日常ではない。ハレの日に相応しい大掛かりな木組みの舞台が、屋台通りの隣に組まれている。これは、ラトマティの人間でも、年に一度この期間だけ拝む事が出来れば重畳という有り難い物だ。大人の身の丈の二倍はあろう柵を周りに巡らせている舞台には、その高い柵からでも零れ落ちそうな程の大量の蕃茄が積まれているのだ。

 日中、集落の者や近隣からやってきた有志は、これらの準備に明け暮れていた。その疲れもあって、村の皆が各家庭にて、次の目覚めを楽しみにしながら、夢見心地でいる。

 だが、ただ一つだけ、この村の日常にも非日常にも属さない存在が、その夜にはあった。

 不自然な事に男が一人、それを目の前にして立ち尽くしているのだ。他の誰もいない静寂の中で、だ。外見も村民と異なり、その村にそぐわない純白の衣服を纏った人物。教会の者のような衣服にも取れるが、細かい所で意匠が違うようである。

 そもそもこの時刻に出歩いている事が不自然なのだが、何よりも異様なのは、その男は村の禁を破り、その蕃茄の山に手を触れている事だ。原則的に、その催しが行われるまで一切近付かない事が決められているのだが、首にラトマティ村の者である証も付けぬその男は、人目を盗んでその蕃茄の山へ手を伸ばしている。しかも、ただ触れるだけで、くすねたりする訳ではないのだから、どうやら盗人ではないようだが、奇妙な人物には違いない。

 その男が謎の行いをしていたのは、ライゼル達がこの村へやってくる朝を迎える、何かを予感させる、静かな夜半の事であった。


 鎮護の森リエースの入り口でグルットと別れた一行は、およそ一日を掛けて、王都を目指しつつ次の経由地へ向かっていた。今日も今日とて順調に走る駆動車。異国民ルクによって破損した部分もあるが、走りには何の不都合もない。

「ねぇ、今はどこへ向かっているの?」

「るの?」

 運転席と後部座席を繋ぐ小窓から、ライゼルとフィルが顔を出して、駆動車を駆るビアンに先の質問を投げかけた。正確には、そうしているライゼルの真似をして、フィルが無理やり顔をねじ込んでいるだけなので、フィルに行先を知りたい意図はない。自分の言葉尻を真似されるわ、狭い小窓の中で更に圧迫されるわ、ライゼルとしては邪魔に思うだけなのだが。

 問われたビアンはと言うと、頭を掻きながらやや困ったように言いあぐねる。

「指針としては王都へ向かいたい訳なんだが、まずは食いっぱぐれた分の食事に、常備品の補充だ」

「ごはん♪」

「俺も腹減った」

 アバンドでは、昼食にありつく間もなく異国民襲撃を受け、そのまま鎮護の森リエースに逃げ延びる事となった一行。故に、昨日から今まで卓に着いての食事を行えていない。ライゼルは携行食として豆を持っているが、それでは腹は満たされない。アバンドにて帯びた使命もあるが、腹が減っては何とやら。なので、最寄りの集落に向かっているという状況だ。

「食事が済み次第、すぐに発ちますか?」

 ベニューがそう問うと、ビアンはかぶりを振った。

「いや、せっかくだから、諸々の準備も兼ねて、先の件と合わせて情報収集がしたい、んだが…」

 先の件、つまり異国民襲撃後のアバンドの件は、街道の途中ですれ違ったアードゥル隊員から話を聞く事ができた。ライゼル達が去った後、オライザの代表リュカが、万物を石化させる異国民リカートの前に立ち塞がったそうだが、リカートは何やら二三言の言葉を交わすと、特に害を為すでもなくその場から離脱したそうだ。異国民の二人掛かりというこれまでに例を見ない本件だったが、結局異国民の意図は掴めず終いだ。ルクは、グルットの実力を把握し、満足したような様子であったが、それも何を意味しているのかは現状では分からないままだ。

 ともかく、リュカやアバンドの住人の無事を確認できたライゼル一行は、改めて王都へ向かっている最中であり、他の集落での情報収集を行いながら旅を続けているという訳だ。

「それで、メシはどこで食うの?」

「くうの?」

 食事に意識が向いているライゼルとフィルの問いを受け、ビアンは愚痴にも似たような独り言を漏らす。

「この街道を通る予定ではなかったんだがなぁ」

 どうやら、ビアンはこの街道をこのまま進む事に対して、どちらかといえば消極的であるようだ。なのだが、ビアンが言い淀んでいる理由に姉弟は心当たりがない。

 元はサフリズの町を経由して、丘の町アクロ、学園都市スキエンティア、そしてダール渓谷を越えていよいよ王都へ到着する運びだったとライゼルも記憶している。だが、異国民の二人の襲撃を受け、成り行きとは言えアバンドの北側リエースに進路を取った。それにより、元々の予定していた経路から外れているようだ。となると、次の経由地はサフリズという集落ではないようだ。

「このまま行くとどこへ着くんですか?」

 ベニューがそう尋ねると、ビアンは観念したように溜息を吐くと、静かにこう告げる。

「ラトマティ村だ」

「どんなところ?」

「ころ?」

 元々、フィオーレの外の地理に明るくないライゼルではあるが、ラトマティ村の名前は初めて耳にする。これまで行く先行く先で目新しいものを見る事が出来た。例えば、ミールの賑わいやムーランの風車、グロッタの鉱山窟も記憶に新しい。それを思うと、次の経由地にも期待が持てるというものだ。

 ライゼルが期待を込めて問い掛け、ビアンも、背に腹は代えられない、といった様子で答える。

「俺も初めて立ち寄る村だが。確か、ちょうど収穫祭の時期だったはずだ」

 ラトマティ村と言えば、ベスティア国内でも農耕の盛んな集落であり、特に特産品である蕃茄(ばんか)の国内最大級の作付面積と、それを供する大規模な催しが行われるとして有名な集落だ。大都市アバンドや工業の町ファブリカも近くにあるという立地条件もあり、往来も多く、普段から賑わいを見せている。

 それらの事を知らぬライゼルが、一層興味を惹かれたのはとある単語だ。

「収穫祭? なにそれ?」

「れ?」

 初めて聞く言葉にライゼルが山彦のように問い返し、フィルがそれを真似た。

「フィオーレでは馴染みがないか。多くの集落では、その年の豊作を有難がって感謝を示す催しを行う。それが収穫祭だ」

 ラトマティ村に限らず、農耕の盛んな地域では似たような催しは各地で行われているが、最も有名どころと言えば、このラトマティ村になるのだろう。というのも、他の集落では行われない目玉行事があるからなんだとか。

「お祭りかぁ。ライゼルはまた遠慮しておく?」

 皮肉交じりにベニューからそう水を向けられたライゼルには、まだ油断できない懸念が一つ残っている。

「ねぇ、ビアン。そこには、釜土はある? ない?」

「あるない?」

 せっかくの物色も、目に入る所に火があれば、ライゼルは落ち着かなくなってしまう。その屋台群に釜土や炉があっては近付けないのが牙使いの悲しい性(さが)だ。

「安心しろ。屋台では飲食物も供しているだろうが、そのほとんどは生もののはずだ。あそこは、アードゥル駐在集落ではないしな」

 仮に火を取り扱うとして、それにはアードゥル隊員の監視下でなければ行えないという規則がある。が、ラトマティ村は治安維持部隊の駐在所はないので、もし火を扱いたければアードゥルを派遣してもらわなければならない。各地でアードゥル隊員が忙しくしている中で、この祭りの為に人手を割けるはずもなかった。

「ないなら今回は俺もいろいろ見て回るぞ。豆はもう食い飽きた」

「フィル食べる。お腹すいたはもう飽きた♪」

 食に対し激しい情熱を燃やす二人の隣で、ベニューは優しく微笑む。

「うん、一緒にいろいろ見て回ろうね、ライゼル、フィルちゃん」

 人波に混じるのは得意でないベニューだが、祭の賑わう雰囲気そのものは嫌いではない。前回のミールでは、ライゼルの習性によって楽しめなかった買い食いも、今度はライゼルとフィルと一緒に楽しめるかもしれない。そんな風にベニューは考えている。

「そうだ、おそらく物珍しい品がいろいろあるだろう。それを目当てに大勢の人が集まる。とすれば、異国民の情報が聞けるかもしれない」

 ビアンも噂話程度にしか知らないが、農作物の品評会や民芸品の販売も行われているらしい。アバンドの教会程の求心力はないにしても、ある程度の人の出入りは期待できる。これまで遭遇した異国民には、それぞれ二度ずつ会っているが、他の仲間の存在については確認が取れていない。異国民対策の為にも、少しでも情報を仕入れたいというのが、国家に仕えるビアンの考えだ。

「では、ラトマティ村へ行くのは結果的に好都合でしたね」

 ベニューはそう言ってみたものの。口振りでは期待感すら籠っているビアンだったが、運転席に座る彼の背中は、なんだか乗り気でないような気配を漂わせる。

 返すビアンは、気の進まなそうな面持ちとは裏腹に、やはり肯定的な意見を述べる。

「あぁ、これ程までの機会もそうないだろう。異国民の事が知れれば、断然対策が立てやすくなる」

「なのに、浮かない顔だね、ビアン」

 ライゼルのこの一言に、ビアンの本音が爆発する。

「お前とフィルを同伴させなければ、仕事がどれだけ捗るかと思ったら、気が重くなってな!」

 ビアンが懸念していたのは、その大勢の人が集まる場所に、ライゼルに加えフィルを同伴させねばならないという事だったのだ。これまでの経験則から言えば、何か騒動を起こす、あるいは騒動に巻き込まれるのは、想像に難くない。ビアンの期待半分と不安半分な原因は、ライゼルとフィル、二人の存在だったのだ。

 だったが、そういう厄介者扱いを受けたライゼルは納得がいかない。

「なっ!? 俺をフィルなんかと一緒にすんなよ」

「フィル、ライゼルといっしょ? やったー!」

 何故だか歓喜するフィルを余所に、ライゼルは憤慨してみせる。

「俺が何か問題起こすと思ってるのかよ」

 その反駁に、間髪入れずビアンは切り返す。

「起こすだろ。というより、これまでだって散々起こしてきただろ」

 厳密に言えば、騒動の原因がライゼルだった事はほとんどないが、騒動が起きると積極的に関わろうとするのがライゼルの性質である為、これを強く否定する事は出来ない。

「ぐぬぬ…俺に何の非もないはずなのに」

「ともかく、だ。お前だけでも手に余るのに、俺はフィルの面倒までは見切れんぞ。もし、今後も同伴させたいなら、ちゃんと見張っているように」

 ビアンの立場は、飽くまで姉弟の保護者なのであって、フィルは姉弟が勝手に連れて来たようなものだ。ビアンとしては、そこまで責任を負うつもりはない、とここで明言しておく必要があった。

「いや、俺は別に」

 ライゼルとしては、むしろ自分にもそこまでの責任はないという感覚だが、どうやらベニューはそうではないらしい。

「はい、承知しています」

 ベニューは、ビアンの言い付けにも快諾してみせ、後部座席の姉弟の間に挟まれているフィルを見やる。

 すると、水を向けられた少女も、満面の笑みで返事をするのだ。

「フィルもしょーちする!」


 いざラトマティ村に着く頃には、村の付近から大勢の人波を目にするようになった。何台かの駆動車も見かけたりと、アバンド程ではないにしても、何かしらの求心力があるのだと実感させれる。そもそもが、人の生活と切り離せない食の大元である農作物を大々的に扱うともなれば、関心を持ってやってくる者も少なくないのだろう。

「いろんな身分証が見受けられますね」

 様々な装いも然る事ながら、彼らが身に付ける首輪はそれぞれが違っている。という事は、様々な集落から、このラトマティ村に集まって来ているという事が窺える。

「…という事は、大した情報は期待できんだろうな」

 と、ビアンが嘆息してみせる理由を、ライゼルは推察できない。

「どうして?」

「呑気に収穫祭に余所からも集まっているという事は、異国民の被害に遭っておらず、警戒していないという事だろう」

「そっか」

 もし仮に、今この場に集まっている者達の集落に異国民がやって来ていて何か害を為していたなら、こうやってラトマティに集う事は適わなかっただろう。ボーネ村で体験したように復旧作業に追われているか、あるいは警戒して外出を控えるか、そのどちらかだろう。

「だが、それでも、目撃情報くらいは掴めるかもしれない。さっそく、駐在所に寄ってみよう」

 村の入り口すぐに配された指定の駐車区間に駆動車を停め、ラトマティの役人がいる駐在所へ向かう一行。

 ビアンがここの役人に簡単な挨拶をして、異国民について単刀直入に問うと、現地の役人は即答してみせる。

「先日、アバンドからの使者にも話したが、ここではそう言った目撃証言は挙がっていないな」

 ビアンの予想通り、この町で異国民の目撃例はなかった。当然だろう、もしその脅威を知り、その存在が付近にあるとしたら、今日のように催しが敢行されたりしていない。ラトマティ村での目撃例に関して言えば、最初からそれ程の期待はなかった。あるとすれば、他の集落からの情報だとビアンは踏んでいた。

「何か変わった事もないか?」

「見掛けない連中の出入りが増えたが、それは露店を構える行商達だ。蕃茄の舞台が物珍しいみたいでな、よく傍に居るのを見かけたよ。まぁ、原則近付いちゃいけない事になっているから、叱られぬよう人目を避けていたようだが。舞台に悪戯がされた形跡も盗まれた形跡もないし、これは特に問題ないか」

 それがどの露店の誰かまでは特定されていないが、特に被害もないという事でお目溢ししているという話だった。

「他には?」

 その問いにも、間を置かず答えるラトマティ村の役人。

「こないだ風の強い日だったかな。若い夫婦の家から干し物が無くなったと通報があった。それが亭主の外套だったらしく…」

「もう結構だ」

 どうやら本当に異国民被害の心当たりが無いようで、出てくるのは些末な事ばかり。とても、異国民に関連しているとは思えず、ビアンはその役人の話を途中で遮った。

「そうか、それはそれでよかった。被害がないに越した事はないからな」

 予想通り、大事が起きていない事に満足したビアンは、ふっと息を吐く。ここまで連続して面識のある異国民に再度遭遇していた所だ。この辺りで一息つければと願うのは、ビアンの本音だった。

 そんなビアンを余所に、ここの役人は続ける。

「聞き及んでいるかもしれないが、この先のアクロの村で怪死事件が起きているらしいな。アバンドからも人員を派遣しているそうだが、まだ原因は分かっていないそうだ」

 ラトマティの役人がアバンドからの連絡を受けているのと同様に、アクロ村の話はビアン達も既に聞き及んでいる。ビアン達がアバンドで情報を得てから、まだ二日と経っていないが、アクロでの連続怪死事件の捜査が進展したという連絡はないらしい。つまり、現状の情報だと容疑者不明のままという事だ。立ち寄る前に解決していてくれればとも思うが、果たしてどうなる事やら。

「現場を見ていない事には何とも言えないが、異国民の異能による可能性は少なくない。ラトマティでも警戒を厳にしていてくれ」

 これまでの遭遇例を鑑みるに、いつ如何なる時にやって来るのか予測も付かない。異国民全員が【翼】による飛翔が可能なのだとしたら、地理的な防衛は意味を為さない。塹壕だろうが城壁だろうが易々と突破されてしまうのだから。故に、監視の目を増やす必要があるとビアンは説く。

 が、現地の役人はその指示に難色を示す。

「そうは言っても、この人出だ。妙な奴が紛れていても気付けるかどうか」

 祭り当日のこの日は、外部から村民と同数の人間がやって来る。とてもではないが、その一人一人の動向を確認できる訳ではない。もし不審人物がいたとしても、事前に発見するのは難しいだろう。それは、ミールの前例が証明している。

「念の為に確認するが、中止にする事はしないのか?」

「実際に村に被害が出れば、中止もやむを得ないが。何の確証もないのに中止だなんて私は言い出せないね」

 内外問わずこの日を待ち侘びていた人間は決して少なくない。仮に中止を宣告した所で、その指示に素直に従うかどうか。下手をすれば、異国民のいるいないに関わらず、不平不満を募らせた参加者による暴動が起こりかねない。

「ラトマティの代表も?」

「同じ意見さ。この日に向けて村全体で準備してきたんだ。余程の事がない限り、やめるつもりなんて更々ないね」

 ビアンとしても彼らの意志は尊重したいし、そもそも取り止めさせる権限を持っている訳でもない。これ以上の追求は意味がないのだろう。

「では、身分証の確認を徹底してくれ。これまで遭遇した異国民は皆、身分証を身に付けていなかったからな」

 これまで確認されている異国民は、いずれも身分証を装着していない。だからこそ、異国民なのだろうと推察するきっかけになった訳だが。身分証を持たぬ者は、持つ者に比べて事件に関与する割合が多い。例え異国民でなかったとしても、警戒しておくに越した事はない。

 先の指示を受けた役人は、彼ら異国民の思考回路について言及する。

「そこまでの知恵がないのか、そもそも正体を隠す気がないのか…」

 ベスティア国内で何か事を起こそうとする者が、果たしてこの国の制度について不勉強というのもどうなのだろう、という事だ。ベスティア臣民が当たり前に身に付けている物を持たぬ時点で、国内では注目を浴び、関心を惹いてしまう。彼らにとって、それは不都合でしかないようにも思えるが、真相は如何に。

「身分証偽造の可能性もない訳ではないが。可能な限り、身分確認を」

「もちろん、参加者は全員確認済みだ。ただ、なんだ…」

 ビアンの念押しに対し、万全を主張する役人だが、歯に物が挟まったような言い方で続きを濁した。

「何か?」

 ビアンに促された役人は、ビアンの背後に控える緑髪の少女に視線を送る。

「子どもの異国民の話は聞いていないが…その子の身分証は?」

 ビアンという官吏の同伴者である為にその可能性も低いだろうが、という注釈を付けつつ、フィルの首に件のそれが確認できない事について言及したのだった。フィルの首には六花染めが巻かれていて、内側に首輪があるのかどうか傍からは判別できない。いわゆる、模範的なベスティア国民の身なりではない訳だ。

「フィル? みぶんしょー?」

 フィル自身は何の事を言われているかは分からない。フィルは世間の事を知らない節が見受けられる。

「この子は孤児故に身分証を交付されていない」

 役人が抱いた疑問に、ビアンは端的に返答する。すると、役人はやや険のある言い方で更に追及する。

「では、その子の監督責任はオライザのあなたが負ってくれる訳ですね?」

「そうだな…」

 ビアンも祭の警備に関して苦言を呈した手前、輪無しであるフィルの責任の所在を有耶無耶には出来ない。姉弟には自分達でどうにかするよう言い付けているが、それはこの場でこの役人には通用しない話だ。

 やや困ってみせるビアンの横合いから、助け舟を出すようにベニューが声を上げる。

「はい、私達がちゃんと見ています。ねっ、ライゼル?」

「いや、俺は…」

 ベニューに同意を求められたところで、ライゼルには安易に頷く事は出来ない。ここで恭順すれば、役人が言っているように、ライゼル達がフィルに対する責任を負う事になる。例えば、今後も同伴させる事になったとして、先までのように自身の言葉尻を真似され続けなければならないというのは、ライゼルにとってちょっとした苦痛であり負荷だ。それを思えば、果たして自分にそうしなければならない理由はあるだろうか。ライゼルは答えを出し倦(あぐ)む。

 ライゼルが同意こそしなかったが、ベニューの後押しもあり、ビアンは大人として責任の所在を明言化させる。

「この少女は我々が故あって同伴させている。この村にいる間、私が責任を持って監督していよう」

 それを確認できた役人は、素直に留飲を下げる。

「そうか。こちらでも何か気付いた事があれば、連絡しよう」

「よろしく頼む」


 ラトマティ村の駐在所を後にした一行は、祭の会場となる広場へとやって来ていた。

「ふむ、では現地調査に移るか」

 ビアンがそう宣言すると、ライゼルは首を傾げる。

「どういう事?」

「気は乗らんが、実際に村を散策して怪しい人物がいないか警邏する」

 飽くまで食事や買い出しが済むまでの時間だけ、とビアンは念を押した。が、その点よりも、ライゼルには気に掛かる部分があった。

「その気が乗らないのって、さっき言ってたこと? だったら、俺に関しては何も心配いらないけど?」

 そう言うライゼルの反論にも、「どの口が?」と言う顔で、取り合おうとしないビアン。

「もし異国民らしき人物を発見したら、まずは俺に連絡するように。市中での戦闘ともなれば、他の市民も巻き添えにする危険性があるからな」

 出来れば可能な限り戦闘は回避したいのだが、これまでの経験則から言って、異国民は『何らかの目的』の為に、実力行使に及んでくるだろう。未だ明言していないが、何らかの意志を以て行動している事は、これまでの様子から窺い知れる。あちらが一行を邪魔者と感じたらならば、排除しようと【翼】の能力を行使してくる事は想像に難くない。そうなると、戦闘は必至だ。

 それを踏まえた上で、ベニューはビアンへ指示を仰ぐ。

「既知のテペキオンなどが来た場合は?」

「ライゼルに因縁を覚えている四人は、待ってくれそうにないな。応戦は許すが、すぐに戦闘行為を始めるな。できれば治安維持部隊アードゥルと連携して対応したい」

 これまで遭遇した異国民は、いずれも【牙】に劣らぬ強力な異能【翼】を有している。前回のように複数ないし、例え単体で強襲してきたとしても、どちらにしろ脅威には違いない。事に当たるには、万全を期して挑みたいとビアンは考えている。

「な~に、テペキオンだろうが初めての異国民だろうが、俺の【牙】でやっつけてやるぜ」

 リエースの森でグルットに稽古を付けてもらったライゼルは、その成果を試したくてやや血気に逸っている。これまでの自身の弱点とされていた部分を、これからどれだけ解消していけるのか、ライゼルはそれが早く知りたいのだ。

 そして、おそらくそのような事を思い抱いているであろう事はお見通しのビアンは、念の為に釘を刺す。

「勘違いしているようだから言っておくがな。例え異国民が相手でも、先に手を出せば、お前も異国民同様に犯罪者の仲間入りだ」

 これまで一度として誰かを傷付ける目的でライゼルが【牙】を振るった事はない、ビアンもそれは分かっている。分かっているからこそ、その清廉さを危ぶんでいるのだ。いつの間にか目的と手段が逆転するという事は、誰にも起こり得る事だ。誰かの笑顔を守る為にと振るっていた剣は、誰かの笑顔を奪いかねない危険性だって秘めているのだ。確かに異国民はベスティア国民に害を為す外敵に違いないが、国家の方針が決まらない現状、迂闊に手を出せば、ライゼル自身が罪人になる。正当防衛ならビアンが弁護する事も出来るが。

 その危険性は、ライゼルにとっては、グルットからも指摘された事。ビアンからの忠告に、自分の迂闊な発言を反省するライゼル。

「もちろん、テペキオン達が悪い事を止めたら、俺だって戦うつもりはないぞ。本当だぞ」

(わざわざ念を押す方が怪しく見えるけど…)

 ベニューももちろんライゼルが道を違えないように見守ってやるつもりだ。その為に自分が同伴していると自負している。頼りにもしているが、それ以上に心配もしている。たった一人の肉親だから、当然と言えば当然なのだが。

「ほんとぉ、だぞ!」

 フィルも分かってか分からずかライゼルに同調した所で、ビアンはこの件を追及するのを止めた。

「ともかくだ。初めての土地で、初めて目にする催しに参加するんだ。気を引き締めていこう」

 ビアンがそう力強く言い聞かせていると、横合いから一人の男性が声を掛けてくる。

「ほう、その殊勝さはミールの町でも発揮してほしかったぞ」

 よく見る質素な貫頭衣を纏い、肩まで袖捲くりをしている三十代くらいの男性。親し気に声を掛けられても、一向には心当たりがない。姉弟はもちろんビアンにも、ラトマティには知人や顔馴染みはいない。

「おじさん、誰?」

「だれ?」

 ライゼルが思ったままの疑問を口にし、フィルがそれを復唱する。

 そう返された男性は、ライゼルから視線を逸らし、ベニューやビアンを一瞥するが、それでも一行の反応は特に変わり映えしない事を悟り、俄かに嘆息してみせた。

「誰だとは随分なご挨拶だな。死ぬかもしれない思いを共にした人間の顔くらい覚えててもいいだろうに」

 その嘆きを受け、二三言葉を交わした後だと「そういえば」と思うようになったビアン。

「さっきミールと言ったな。もしかして、あの時のアードゥル隊員か」

 ビアンの気付きが呼び水となり、姉弟も当時の事を思い出す。

「言われてみれば、見覚えがあります」

「あー、あの時のアードゥルのおじさん!」

 そうなのだ。以前、ミールの町で火災が発生し、その消火活動に共に当たったのが、目の前にいる男性だったのだ。アードゥルの制服を着用していない為に随分と印象が違ったが、確かにその顔と声には覚えがある一行だった。

「ようやく思い出したか。オライザの役人はビアンといったか。それにフィオーレの姉弟」

 覚えがあるとは言ったものの、何故この場で再び顔を合わせる事になったかまでは想像が付かない一行は、思い思いに質問を浴びせる。

「おじさんはどうしてここにいるの?」

「るの?」

 とは、ライゼルとフィルの言。それにビアンも続け、

「勤務地が移動になったのか?」

 と、問うが、ミールのアードゥル隊員は首を横に振った。

「いや、今回は里帰りさ。ラトマティは私の故郷だ。ミールの一件も一旦の目途が付いたからな」

 目途が付いた、と男性は言った。あれから何日も経っていないというのに。余程の人出が集まったのだろうか。それはともかくとして、それを聞いて俄かにライゼル達は安堵した。ミールの人々と交わした約束が果たされるのも、そう遠い事ではないのかもしれない。

「オライザ組からの救援もあったそうだな」

 アバンドにてリュカと顔を合わせていたビアンは、おおよその事情を伝え聞いていた。 

「あぁ、陣頭指揮は頭領ゾア氏が行っていた」

「あれ、リュカは?」

「…わ?」

 ライゼルの考えなしの質問に、ビアンがそれを詰りながら答える。

「リュカの話を覚えていないのか? リュカは俺達がオライザを発って間もなくアバンドを目指して出発していたんだ。ミールの件は後で知ったそうだ」

 アバンドへの道中で、ミール大火を伝え聞いたリュカだったが、人的被害が少なかった事で、オライザ組の要請もあり人手は十分との事だった。現場仕事に不慣れなリュカは、代表就任を先に済ませた方が彼を知らぬオライザ以外の現場でも指揮しやすいと判断し、一旦ミールの事はオライザ組の者に任せ、アバンドへ急いだという。

「そうなんだ」

 漠然と事態を飲み込めたライゼルに、ビアンは軽口を叩く。

「お前だったら、何も考えずにミールに戻りそうだな…」

 皮肉を言われているとも気付かず、ライゼルは力強く頷いてみせる。

「おう、困っている人がいるって分かったら、俺だったら行く!」

「ライゼル行くだったら、フィル行く!」

 ライゼルならそうするだろうと、ベニューもビアンもアードゥル隊員もそう思う。ライゼルはこれまでの道中、その信念を実践し続けているのだから。

「だがな、いつかお前も肩書というものを身に付かたら、そう好き勝手は出来なくなる事を覚えておけよ」

「そうなの?」

 ライゼルはビアンの忠告を受け、思わずアードゥル隊員に問い直してしまう。尋ねられた男性も少し困ったように肩を竦めてみせたが、

「役人の言う通りだ。例えば私達は隊の命令の下で活動している。個人が勝手な判断で動いていたら、部隊として機能しないだろう?」

 まだ組織だ連携だという事は、ライゼルの感覚に馴染みのあるものではない。未だ肩書を持たぬライゼルには、立場だとか責任だとかに対して、どうしても理解が曖昧になる。

「そうなんだ。じゃあ、リュカはすごいんだね」

 ビアンが示したように、リュカは公的手続きを優先させた。新頭領としての自覚がそうさせたのかは分からないが、ライゼルにはリュカが少し大人っぽく見えたのだ。

「人の上に立つという事は、それだけの責任を伴うという事だ。元々、リュカはしっかりしている。心配してないさ」

「そっかぁ。でも、頭領になるって…どういうもんなんだろ?」

「…ろ?」

 これまで思いを巡らせる事はなかったが、何か新しい役職や肩書きを得るという事に、少し関心が生まれたライゼル。アバンドにて、ビアンがベニューに「村の代表者になるか?」と軽口を叩いていたが、例えばそれはどういう変化を齎すものなのだろう。その出来事を自分の視点から想像すると、なんだか変な感覚だ。ライゼルの内に俄かに生まれた疑問は徐々に大きくなっていく。

 少年の内側から発露したその疑問に、ビアンはある助言を授ける。

「ここに官吏と治安維持部隊の隊員がいる。参考にするといい」

 ビアンの提案に対し、先に口を開いたのはアードゥル隊員の男性だった。

「オライザの。私達のような公僕と、ゾア氏のような集落の代表とでは比較にならないんじゃないか?」

 国に仕える公僕と、自発的に活動する集落の代表者とでは、若干性質が異なる、と男性は言っている。

 ビアンはその意見についても首肯で応じつつ、ライゼルを指で指しながら諭す。

「これまでとは異なる身分や立場になるという点では似通っているかと。それに、このライゼルにしてみれば、それは大差ない事だろう」

 ビアンはライゼルに限定して話を進めたが、同郷のベニューも似たようなものだった。

「確かに、フィオーレでは『身分』というものをあまり意識していなかったように思います」

「村長も家族みたいなもんだったし」

 フィオーレでほぼ唯一の公的な役職を担っていた村長も、姉弟からすれば幼い頃から慣れ親しんだ家族のようなものだった。故に、その村長が例えばリュカやムーラン伯ドミトルと同じように、代表者かと言えば思わず小首を傾げてしまうのだ。

 それを聞いていたアードゥル隊員の男性は吹き出してしまう。

「フィオーレの少年は、自我の芽生えたばかりの子どもみたいだな」

 他者を区別なく認識するというのは、まさに子供らしいと、男性は感じたのだった。

 だが、その感想が不服のライゼルは間髪入れずに反駁する。

「おい、フィルはともかく、俺はそんなに幼くないぞ」

「ライゼル、フィルといっしょ♪」

 フィルが機嫌を良くしたのとは対照的に、ライゼルは機嫌を損ねている。

「冗談だろ。俺はちゃんと働いて食い扶持を稼いでる。立派に一人前だ」

「それでも、稼ぎ頭はベニューだろうがな」

 ビアンに水を差され、しかもそれを否定する事は出来ないライゼルは小さく呻くしかない。

「ぐぬぬ…」

 そんなライゼルを余所に、アードゥル隊員はベニューに水を向ける。

「家長のお姉ちゃんは、立場というものを意識した事はないのか?」

「全くない訳ではありませんが、それ程は。まぁ、姉としてやれる事を…」

 そう問われて、自身が考えている事をこの場で包み隠さず述べてしまうのは、どうしても気が引ける。ベニューの視界の端に、まだ不服そうに唸っているライゼルが映る。

 そんなベニューの心情など知る由もないビアンは、更にライゼルに意地悪く煽り立てる。

「ベニューは謙虚だな。ライゼル、今度の配給はお前が申し込むんだぞ」

「えっ、これまでずっとベニューが…」

 生まれてこの方、ライゼルは事務的な手続きを行った事がない。明確な役割分担をしていた訳ではないが、それはベニューがやるものとばかり思っていたから、急にやれと言われても尻込みしてしまう。

「…とか言っているようなら、リュカの目線に立つ事はしばらく適わんだろうな。そうだな、お前には縁のない話という訳だ」

 そう軽んじられて自尊心を傷付けられると、ライゼルは途端に躍起になる。

「なんかそう言われると腹立つ。ベニュー、今度の配給は俺が申し込みやるから。ビアン、漏れなく持って来てよ」

「誰に言ってる。しっかと覚えておこう」

 と、ライゼルと啖呵を切り合った後、ビアンは溜息交じりに呟く。

「とは言うものの、あちこちで事件や事故ばかりで、半年後の事なんて見当も付かないがな」

 異国民に関する事件も頭を悩ます種だが、ミール大火や、グロッタで経験した地震のような災害も国民の生活を苦しめている。半年後にも流通が滞りなく行えるかなど誰にも保証できないのだ。

 ビアンが未来の日常を儚んでみせたのを、別の原因が理由なのだとライゼルは勘違いし、

「王都に着くまで半年以上掛かったりする?」

 などと、見当違いな問いをぶつけてしまう。

「やはり話を聞いていないな? もう半分ほどの道程を過ぎたと言っただろう」

 その都度、事件事故の解決に当たっていた為に予定よりも遅れているが、これから先妙な事件に巻き込まれでもしなければ、王都まではそれ程長い道のりでもない。

「そうだな、姉弟達はまだ先に行かなきゃならないのか。ご苦労様だな」

「先が思いやられるが、それも仕事だ。行くしかないさ」

 男性が一行を労い、ビアンがそれに応じたのを見て、ライゼルはふと疑問に思った事を口にする。

「アードゥルのおじさんもまたミールに戻るの?」

「あと二、三日したら管轄地区に戻るつもりだ。祭が終わって片付けが済んだら、またミールで仕事だ」

「そうか、それはお互い大変だな」

 ライゼルは重ねて男性に問い掛ける。

「ねぇ、イミックってどうしてるか知ってる?」

 イミック、ライゼル達がミールの町にて出会った青年の名だ。その名に覚えがあった男性は、思い出すように視線を泳がせる。

「イミック…あの時、現場に居合わせた男か。数日、復興の手伝いをしてくれていたが、その後ミールを離れたぞ」

 それを聞いた姉弟は、そっと顔を見合わせ、お互いに自然と表情を綻ばせる。

「また他の所へしかめっ面を止めさせに行ったのかな」

「そうかもね」

 イミックの心情を知る姉弟は、優しい彼が再び旅を始めた事が嬉しくて仕方がないのだ。 

「詳しくは訊かなかったが、古い友人に会いに行くと言っていた。途中まで乗り合いの駆動車で私と一緒にいたのだ」

 アードゥル隊員の男性と共に、アバンドまで同じ駆動車に乗ってやって来ていたのだという。それもつい先日の事だと話す。

「駆動車に乗って、か。余程急な用事だったのだろうな」

 民間で運行している駆動車の代金も決して安価ではない。それでも利用したという事は、何か先を急ぐ用事だったのだろうと推し量る事が出来る。

 とはいえ、イミックの事情は埒外のようで、男性は苦笑してみせる。

「ミールでの仕事を片付けて故郷へ帰って来たというのに、途中まではあの男と、ラトマティではお前達と会うのだから、なんだか休んだ気がしないな」

 先のビアンの評価を引き摺っているのか、ライゼルは男の言葉に敏感に反応する。

「おっ、おじさんも俺を厄介者呼ばわりするのか?」

 冗談のつもりで言った男性だったが、思いの外にライゼルが興奮したのを見て、慌てて訂正する。

「いやいや、あの時の事は私も心から感謝している。特に君がいなければ、被害はあの程度では収まらなかっただろう。奇跡的にも死者はいなかった」

 これは偽らざる男性の本音だ。いや、この男性に限らず、ミールで暮らす皆がそう感謝しているに違いない。

 予想外の謝辞を受け、ライゼルも途端に留飲を下げる。

「そう?」

「ねぇ、なんの話?」

 話についていけないフィルが口を挿もうとするが、男性は明るい調子で話題を変える。

「そのお礼も兼ねて、両手投げのドーロこと私が、収穫祭の催しを案内しよう。他に類を見ない、大規模な蕃茄投げに参加しない手はないと思うが?」

 耳慣れない単語に惹かれ、ライゼルは俄然やる気が出てくる。

「なにそれ、面白そう!」

「血沸き肉躍る、ラトマティ村収穫祭の目玉行事だ。フィオーレの姉弟もぜひ堪能していってくれ」

「おう、やるー!」

 ライゼルが蕃茄投げに興味を示した事で、フィルも先程の一件の事は頭から忘れてしまっていた。

「フィルもやるー!」

 ラトマティ村にて行われる『蕃茄投げ』という催し。赤く熟れた蕃茄を大量に用意し、それを町中に転がし広げる。そして、参加者はその蕃茄を拾い上げ、思い思いに他の参加者にぶつけていく。この大会にこれといった勝敗の規定はなく、蕃茄が尽きるまで果汁塗れになりながらも投げ合うのだ。道すがらに、ミールのアードゥル隊員ドーロがそう教えてくれた。

「ぶつけられて痛くないの?」

 ライゼルの疑問は至極真っ当だったが、ドーロはかぶりを振った。

「そりゃあもちろん多少は痛いさ。でも、やってる内に気にならなくなる」

 一応、蕃茄は軽く潰してから投げるのが約束事としてあるらしいが、時々そのままの硬さが飛んでくる事もあるらしい。なので、フィルの参加は見送られそうだ。

「服が汚れませんか?」

 ベニューが気にしたのは、潰れた蕃茄の果汁による染み汚れだ。道中、ライゼルが戦闘によって衣服を駄目にする事が多いので、あまり替え着を犠牲にしたくはないのだ。先を急ぐ旅なので、どこか洗濯したり日干ししたりしている暇はない。

「それも醍醐味の内の一つさ。着替えが心配なら、私の作業着を貸してやろう」

「いいんですか?」

 ベニューの認識では、衣服とはそれなりに高価な物だ。フィオーレ村には染物に用いる仕事用の反物しか取り寄せる事が出来ないというのに。

「しばらく先へ行った所に、工業の町ファブリカがあるんだ。フィオーレでは輸送費用が掛かって物価が高いかもしれないが、ラトマティではそうでもないさ」

「ファブリカか。私の出身コトン村の大得意先じゃないか」

 コトンで採れる綿花はこの国の紡績に欠かす事の出来ない素材だ。反物の九割以上が綿を原料にして製造されている。そして、その製造工場地帯がベスティア最大の工業都市ファブリカだ。

「紡績だけでなく貨幣や家具、農具から駆動車までと、ベスティアのモノ作りの基軸を担うのがファブリカの町だ。そういう訳だから、気兼ねなく着替えていきな」

「ありがとう、おじさん」

「それでは、お言葉に甘えてお借りします」

 会場となるラトマティ村を散策しながら、一行はアードゥル隊員ドーロの家へ向かう。

 ドーロ卓に着くとドーロの妻ポモに迎え入れられ、促されるままドーロ宅へ入り、服を設えてもらった。

「これは外套の一種か?」

「あぁ。祭りの参加者は大体同じようなものを着ているぞ」

 服を着替えた一行が会場となる広場へ戻ると、他の参加者もライゼル達と似たような衣服の人が大勢見受けられる。合羽とでも呼べばいいのか、四角い布に開けられた穴から頭を出し、肩から腰までを覆う貫頭衣。それを身に付けた老若男女が市中を闊歩しているのだった。ほとんどが無地で無色の物を羽織っている。より果汁の色が鮮明に映える方が、ラトマティ村民としてはお洒落なんだとか。

「どこの家にもいっぱい替え着があるの?」

 そのライゼルの問いに、いつものビアンではなく代わりにドーロが答える。

「そうだな、この祭りに備えて用意しているというのが大きいだろうな」

「それ程、高い意識を持って臨んでいるという事ですか?」

「単純に楽しみにしているだけさ。染物ならまだしも、配給品と同じ無地の服なんて、そんなに有難がる物でもないだろう?」

「そうなんですね。やっぱりフィオーレとは違いますね」

「そもそも、フィオーレにはお祭りとかないからな~。ねぇ、ビアン。なんでやらないの?」

「俺に訊くなよ。村長が言うには、『賑やかだと死人が帰ってくるから』だそうだ」

(それ、絶対に母ちゃんの事じゃん)

 正確には、村の皆が愛するフロルが眠る地を騒がしくさせたくないという村長の配慮からである。

 だが、実際に経験した事がない故にお祭り事には興味津々のライゼル。

「これは何?」

「なに?」

 ライゼルとフィルが指し示す方向にあるのは、地面に敷いた麻布の上に並べられた陶器類である。太陽の光を受けて、眩しい光沢を放っている。フィオーレの自宅にある土器よりも、ずっと上等なものだと感じられる。

「陶器…という事は、ファブリカの工房の民芸品だな。見習い達が出展していると聞いた。なんだ、少年は陶器を見た事がないか?」

「う~ん、ないかも」

「私はミールで似たような物を見かけましたが、少し色味や形が違う気がします」

 釜土の火を恐れて屋台に近付かなかったライゼルとは違い、ベニューはそれなりにミールの町を物色しており、その際にいくつかの陶器製の食器類を眺めている。ベニュー達の家にも土器はあるが、陶器となると一つもない。

 ベニューが憶えた違和感の理由に、ドーロは心当たりがあるようで。

「私も詳しい訳ではないが、土の種類や釉薬の具合で出来栄えが変わるらしい」

「そうか、アードゥル隊員の監視下でなければ、陶器を焼き上げるだけの火は扱えないか」

 大抵の土器であれば、一千度以下の火でも焼き上げる事が可能だが、陶器を焼き上げるにはそれ以上の高温の炉がなければ完成しない。そして、それは治安維持部隊アードゥルの監視下でなければ行えないのだ。

「あぁ、私も何度かその現場に立ち会った事があるが、不思議な気分だったな」

「不思議って?」

「って?」

「何というか、出来上がりを見ると、なるほど創作者の人柄のようなものが見える…気がする」

「そうなの?」

「うん、少しだけ分かるかも」

 そうベニューが漏らしたのには、彼女自身にもその経験があったからだ。染物と焼き物という違いはあるにせよ、作った作品には作り手の『味』が見える気がする。自分の染物と亡き母のダンデリオン染めとを見比べる時、やはり母ならではの味を感じる。どんな歳月を掛けても再現する事の出来ない、フロルだけの風合い。

 ベニューが母との事を思い出している一方で、ドーロは続ける。

「私は何かを生み出す経験がないから、上手くは言えないが。自分の影響を受けた何かがこの世にあるという事は、それだけで何か素晴らしいような事のように思えるんだ」

「今、急に難しい話になった?」

「なった?」

 フィルのみならずライゼルもこの話が何について言及しているか分からない。額面通りに取れば、ドーロの感想なのだが、それは一体どういう事なのだろうと思いを巡らせても、ライゼルにはいまいち腑に落ちない。

「すまんすまん。よく分からない話には違いないな、私自身が何と言いたいのか分かっていないのだから」

「いえ、私も少し分かる気がします。自分の染物が誰かの手に取ってもらえた時、回りまわって自分も誰かに必要とされているのかなって、温かい気持ちになれます」

 ベニューがドーロに賛同した所で、ビアンもその事について思案する。

「自分がいなければ、この世に形として残らない物、か」

 それはなんと尊いのだろうと、ドーロと同じく経験のないビアンだってそう思う。他の誰でなく、自分でなければ為し得ない事象。学園都市スキエンティア在学時の、何者にもなれないと打ちひしがれていた自分が、喉から手が出る程に欲していた、証のようなもの。ソトネ林道にて『友達』を得たビアンにとっては、以前程の渇望はないかもしれないが、それでもその価値は十分に理解できる。作り手たる自身を写した模造品、自らの影響が色濃く表れた創作物。それは、何よりも自分自身に返ってくる影響が大きいだろう。俯瞰的に自身を知る術に、それはなり得るのかもしれない。

 ビアンとライゼルが互いを友とした時、ビアンはほんの少しそう感じていた。ビアンが眩しいと感じたライゼルに、友として認められた時、ライゼルの視点から見える自分自身の姿が少しだけ見えたような気がした。

 そう思い巡らせていたビアンは、ふとライゼルにも水を向ける。

「どうだ、お前にもそういうものがあるか?」

 平素から、何者かになろうとしている様子が見受けられるライゼル。自身を見つめる手段としては、創作というものに触れた事はないだろうが、ライゼルにも何かそういう経験が、あるいは持論があるのかと興味が起こってビアンはそう問いを投げたのだ。

「なんだろ、【牙】…は、母ちゃんからもらったようなもんだし、染物はからっきし駄目だし」

 思いがけずビアンに問われ、ライゼルは俄かに答えに窮する。これまでそのような事に想いを巡らす事がなかったのだ。自分が生み出したもの、と訊かれても、ライゼルは挨拶に困る。不要と感じていた訳ではないが、経験にない事には思考が至らないのがライゼルだ。やってもいない事に考えが及ぶほど、ライゼルは知恵者でもないのだ。

 見兼ねてベニューが口を挿む。

「ウチの畑はほとんどライゼルがやってるでしょ? 畑を見て、自分ってすごいなぁって思わない?」

 だったが、ライゼルはその答えではしっくり来ていない様子。

「なんだそれ。近所のおじさん達はそう思ったりするのか? そもそも借り物だし」

「だし」

 ライゼルの本来の仕事ぶりに、俄かに興味を示すドーロ。

「ほお、少年は畑仕事をやるのか。何を育てている?」

「今だと豆。他の時期には、茄子とか蕪とかあといくつか」

 元々、ミールの一件もあり、好印象だった訳だが、畑仕事の話を聞いて、余計に感心するドーロ。

「それだけ育てられれば立派なもんだ。この村も近年は不作に悩まされるが、それでも今日の日を迎える事が出来るのは、ベスティアの大地が肥沃なおかげだよなぁ」

 話題がベスティアの農地に移り、ビアンも脳内の片隅にある記憶を引っ張り出す。

「何かの本で読んだ事がある。確か、地脈の流れの上にある土地は作物の育ちがいいんだとか」

 科学的根拠は何ら示されていないが、この大地の下には『地脈』と呼ばれるものが存在するという。どの地域にどのような規模であるかは定かではないが、大昔からまことしやかに語り継がれている伝説である。

「飽くまで迷信だがな。ボーネにも巨大な豆の木があるらしいが、それも地脈のおかげだと言われているそうじゃないか」

 ボーネ村の象徴とも言える大きな豆の木。ボーネ周辺の住人は、道に明るくなくてもその豆の木を頼りにやって来るとまで言われている。

「管轄地ではないが、確かにそんな話も聞いた事があるな。ベスティア王国のいくつかの土地は、その地脈の影響を大きく受けているとか」

 大人二人が興じる噂話が気になるライゼルは、無理やりに口を挿む。

「ねぇねぇ、その地脈って何?」

「なに?」

 大人二人が常識のように語る『地脈』を、ライゼル達は耳にした事がない。いくらかの書物や母の思い出話で、ベスティア王国の事はいくつか知り得ているが、地脈というものはまるで聞いた事がない姉弟。

 そんな姉弟に、ビアンは大雑把に解説する。

「地脈ってのはな、この大地の中を流れる気の流れだと言われているものだ。一説には、地殻内を流れる、ムスヒアニマの川のようなものだとも言われている」

 実際、それも目にした者は誰一人としていないし、そもそも星脈を通していないムスヒアニマはおおよそ不可視であり知覚できない。実在したとして、確かめる術はそう多くないのだ。

 ただ、実在非実在に関わらず、その未知の現象には興味が尽きないライゼルは、更に質問を浴びせる。

「それがあると、野菜が大きくなるの?」

「なるの?」

「地脈の言い伝えは農作物だけではないぞ。はるか昔の霊峰モンテニア山の大噴火とか」

「御伽噺の『砂漠の石』も地脈が関係しているという考察文があったな」

「そういえば、歴史書にも登場したか。アネクスの民は、地脈を悪用する為に紛争を起こしたとかいう法螺話も当時吹聴されていたとか」

「最近頻発する地震は、救世主ノイからの啓示かあるいは地脈が異常を来しているからだとか」

 と、いくつかの例が挙げられたが、そのどれも確証はなく、創作話の域を出ない。

「どれも噂話や作り話なんだ?」

「実際はそんなものがあるかどうか誰も確かめた事がないんだが、昔からそう言い伝えられているのさ」

 今代に伝わる英雄譚や冒険譚、難題求婚譚なども辿れる元があるか怪しいものだ。ライゼルが知るもので確かなのは、大巨人達の逸話くらいなものだろう。

 ただ、地脈なるものをフィオーレで話題になっているのを耳にした事がない。という事は、花のフィオーレは、地脈と関係なく、あれだけ咲き誇っているのだろうか。

「フィオーレにもあるかな?」

「かな?」

 問われたビアンも、自分の直轄地でその手の話は聞いた事がない。

「どうだろうな。豊作が地脈の有無の根拠なら、ボーネ村にはあるかもしれんな」

「大きな豆の木がありますしね」

 家屋よりも背の高い巨大な豆の木を見れば、地脈の存在もあながちただの作り話ではないようにも思える。

「じゃあ、ボーネはこれからも豊作じゃん」

「じゃん♪」

 出身ではない集落だって、これ程喜ばしいのだ。その土地の人間であれば、その実りに対する喜びは一入(ひとしお)なのだろう。

「それで、このラトマティ村では、豊作の年にはその地脈に感謝して、今日の蕃茄投げを行うのさ」

「俺達が参加するやつだ!」

「やつだ!」

「でも、どうしてせっかくの蕃茄を人にぶつけて駄目にしちゃうんですか?」

「それはあれだ、喜びを形に表しているんじゃないかと、私は思っている」

 その昔、戦争が起きた。ライゼル達も昔話として聞かされた国内最後の内乱、ベスティア王国軍『牙の旗』と大巨人ゾアを筆頭とする有志連合の衝突。国は秩序をもたらさんと、義勇兵は自由を勝ち取らんと、互いの目的の為に【牙】を振るい、結果、各地で小競り合いが頻発した。当時、戦に出るのは男だと相場が決まっており、農業従事者の中にいた牙使いも徴用された。働き手が少なくなった為に、放置される農耕地が増え、数年手付かずとなった田畑の多くが荒れ果ててしまった。地域によっては、軍事作戦の為に農地を丸ごと犠牲にした集落もあった。ここラトマティも、戦場となり、牙使い達の血が流れ、作物が穢れる事もあったそうだ。

 その所為もあったのだろう、国家と義勇軍の間で停戦協定が結ばれ、従来の生活に戻ろうとしたが、各地では作物の不作が続いた。戦争による過度な【牙】の連続発現により、闘将オノスのように星脈に異常を来しているものもあれば、【牙】を職務で使用する事にも激しい抵抗感を示す者も少なくなかった。故に、労働力も以前のようには確保できていなかった。国内の自給率は、半分にも満たなかったと記録されている。それ程までに、戦争による弊害は大きかったのだ。

 その当時のラトマティ村を知る古い人間によれば、今と比べ、食糧が豊富ではなかったという。土地を耕し、種を蒔いても、限られた実りしか得られる事はなかった。ラトマティ村では、全世帯に節食が奨励された時期もあった。真面目に働いていたラトマティ村民は、内乱という時代のうねりに巻き込まれてしまったのだ。

 実は、このように土地が穢れを孕んでしまった危険性があったのは、何も初めての事ではなかった。その時代から更に遡ること約四百年前、ゾア達の反乱と比べ更に大きな争いが勃発し、総動員を掛けた両軍が共に疲弊したように、同じく大地も疲弊し、作物が育たなかった時代があったそうだ。発端は次期国王の継承権争いであったとベスティア紀に記してある。その結果が、国全体の衰退に繋がってしまい、それ以来、ベスティア王国では王権を奪い合う事はしなくなったそうだ。

 四百年前の教訓を生かしきれず、その飢餓に苦しむ時代を強いられた人々は、自らの行いを深く反省した。きっと醜い争いを起こした自分達に、その争いにより穢れを生み出した自分達に、ベスティアの大地が、そしてこの土地に眠る救世主ノイが怒っているのだと。

 それ以来、ウォメイナ教の急速な布教もあり、人々の心に争いを嫌悪する意識が生まれた。そして、その反省を教訓に、争いを避け、ムスヒアニマから生まれる万物に感謝する事を胸に刻み生活を送った。闘争での流血によって穢れてしまった大地を、必死の思いで開拓し続けた。

 すると、その想いが通じたのか、土地は回復し、内戦以前のように作物が収穫できるようになったのだ。それも、和睦を深めた王国と各地の有力者の協力により、灌漑治水や開墾を進めた努力あっての成果だ。国が一丸となり、飢えから脱しようとした思いが成就したのだった。

 そういった経緯もあり、このラトマティ村ではその時からの慣習で、蕃茄投げをするようになったのだ。

 が、そこまで大人しく聞いていたライゼルだが、頭の上に疑問符が湧く。

「それで、なんで蕃茄を投げるようになったの?」

「たの?」

 これまでの説明だけでは、ライゼルの思考は蕃茄投げに至らない。実り多い裕福な時代になったから、余計に消費するようになったのかとも邪推してしまう。

「熟れた蕃茄は、血の色に似ているだろう? 当初は戦争を彷彿とさせるその色が嫌悪されていた時期もあったそうだが、過去の苦境を乗り越え、例え全身を真っ赤に染めても、穢れに悩まされる事はない、平和な時代を生きているんだって実感できる。それがこの蕃茄投げなんだと私は思っている」

 遠い昔に思いを馳せているのだろうか、今の時代を生きるドーロは感慨深げにそう言い切る。

「平和を勝ち取った喜びを表すのが、この蕃茄投げか」

「正しいような、正しくないような…?」

 ビアンもライゼルも、気持ちは汲み取れるが、信憑性は低いといったところか。そもそも、ドーロの想像による部分が大きいので、正否は定かではないが。

「正しいかどうかなんて誰も分かりはしないさ。それでも、この村に集まった皆は楽しそうにしている」

 それが全てなのだろうと、皆が思った。後から付けた理屈について論じるより、今日を楽しみにしてきた者達と、この催しを盛り上げる。それに尽きるとライゼル達も思う。

「俺も楽しみだよ」

「フィルたのしい♪」

 そうこう話している間にも、様々な屋台が一行の目に入る。

 謹製の品が数多くある中、珍しい模様の染物が目に留まる。

「絞り染めだな。この辺ではあまり見かけない模様だ」

 店を構える女性の一人に、ベニューは声を掛ける。

「どちらからいらしたんですか?」

 柔和な笑みを浮かべた女性は、品を並べる手を止め、ベニューの問いに答える。

「私らはブレから来たよ。知ってるかい?」

「小麦で有名な集落だな。染物が盛んだとは知らなかったが」

 姉弟も実際に足を運んだ事はないが、アバンドで知り合った牙使いルーガンとその連れ合いレンデの出身がその集落であったことを記憶している。ルーガンの実家はブレでお湯屋を営んでいたはずだ。

「盛んって程でもないよ。私らのは趣味みたいなもんだからね」

「女性だけの店のようだが、道中はどうやって?」

 並んでいる品数は、なかなかの量である。ここからそう遠くないブレからとは言え、まさかこれを女性数人だけで担いできた訳ではあるまい、とビアンは思っている。

「ブレのお役人の駆動車に乗っけてもらったよ。それでも丸二日掛かっちまったけどね」

 その間揺られているだけで退屈だったと、店番の女性は笑い飛ばす。

「その道中で異国民と遭遇、あるいは噂話でも聞かなかっただろうか?」

 最初からビアンの狙いはここにある。世間話に興じに来たのではない。目的は、異国民に関する情報収集。ブレで起きた事件があれば、アバンドに既に通報されているだろうが、ブレからここまでの道中に何か目撃している可能性は、全くない訳ではない。そこに期待しての質問だ。

 だったが、店番の女性は事も無げに返事をする。

「あぁ、最近よく聞く物騒な話だね。アクロで何人か死人が出たとか、ミールで大火事が起きたとか。そうそう、グロッタの宿場町でも大立ち回りがあったとか」

(この辺の話題は他の集落にも広まっているのか)

「他には?」

「どれもこれも異国民の仕業って決めつけるのもよくないとは思うんだけど、幼い娘がいなくなったって話も聞いたね。おっかないねぇ」

 女性が言うように、異国民の仕業と断定する事は出来ないが、一行にはその誘拐の下手人に心当たりがあった。ベニューは、その犯人と思しき女の名前を口にする。

「クーチカという異国民に連れ去られた女の子達の事でしょうか?」

「おそらくな」

 一行が睨んでいた通り、『愛娘』と呼ばれるあの少女達は、クーチカの【翼】によって精神を支配され、無理やり同行させられているのだろう。

(新しい情報は、これといってなかったか)

 とはいえ、まだ聞き込みを始めて一件目だ。他にも参加者は大勢いる。そちらに期待しよう。

 と、ビアンが次に移ろうと考えていた瞬間、その女性はぼやいてみせる。

「まったく困った連中がベスティアにやって来たもんだよ。一方じゃ旅のお人で病気を診てくれる人がいるってのにさ」

 その話題に食い付いたライゼルは、すぐさま尋ねる。

「どんな人?」

 問われた女性は、思い出す不必要もなかったらしく即答してみせる。

「この村に来る手前であった若い男さ。その人が診てくれたおかげで、うちのお役人の頭痛が治っちまったんだから。世の中には親切な人もいるもんだね」

 それらの情報から推測するに、その人物にも心当たりがある一行。

「その人、イミックじゃなかった?」

 けがや病気を治療して回る男性と言ったら、ミールで出会った青年イミックだ。その人物はドーロも面識があるので、フィル以外のこの場の皆が、女性が話す人物はイミックだろうと踏んでいる。

「どうかねぇ、名前は訊かなかったからねぇ。でも、随分と謙虚な人だったよ」

「謙虚とは?」

 イミックの初対面の印象と言えば、見た目は不愛想だが丁寧な治療を施す優しい人物、という印象だった。謙虚という印象は特に抱かなかったと記憶している。

「私らが御礼がしたいって言っても、早々に立ち去っちまってね。すごい勉強をしたんだろうに、謙遜して自分の事を『不才』だなんて言っちゃって」

 イミックの話では、グロッタにてほとんど値打ちのないような物でも対価として受け取っていたそうだが、女性が話す人物はライゼル達が知るイミックとは少し違うようだ。何よりその一人称は、他の場所でも耳にした覚えがある。

「『不才』だと? その男は外套を被っていたか?」

 以前聞いていた特徴を伝えると、その女性は首肯を以って応じる。 

「そうだよ。なんだい、そのイミックさんだっけ、知り合いかい?」

「いや、おそらく件の人物はイミックではない。先日、アバンドの町で孤児達の病気を治した人物だ」

 アバンドにて、人目を憚って孤児達と接触し、彼らの星脈不全を治療していったとされる人物。

「孤児? アバンドにいるって事は星脈不全だろう? おいそれと治るものなのか?」

「信じがたい事だが、教会の者が簡易な検査を施し、確かに反応があった」

 不治の病である星脈不全は一般的に穢れによるものとされており、その穢れを取り払わねば、完治はしない。簡易な検査であったが、星脈が正常な働きを示したという事は、穢れを取り除いたという事になるのだろう。信じがたいが、もしそれが本当だとして、そんな奇跡をやってのけるとしたら、それは異国民が操る【翼】の力に違いない。

「ここ最近は要領を得ない話をあちこちで耳にするねぇ」

 孤児達に接触した異国民と思しき男は、外套の頭巾を目深に被り、自らを「不才」と呼称したらしい。女性が語る人物とも一致する。同一人物が、このラトマティ近辺にもやって来ているのだろうか。

「それで、その人物がどこへ向かったか分からないか?」

「さあねぇ。案外、この村で私らと同じように屋台でも開いているのかもしれないよ」

 この女性から聞き出せる情報はこれくらいだろう。ビアンは懐から財布を取り出した。

「話を聞かせてもらい感謝する。一つ、いただこう」

 そう言ってビアンは、淡い色の手拭いを一つ見繕ってもらう。

「あっ、じゃあ俺も」

 ビアンが染物を購入するのを見て、ライゼルも慌ててそれに倣った。なんとなく、そうする事が大人っぽいと思ったからだ。存外、本人の気付かぬ所で、先のフィルと同格扱いされた事を意識しているのかもしれない。

「別にカッコつけなくていいんだぞ?」

「違うし。欲しかったから買っただけだし。赤いの綺麗だし」

 先日のアバンドにて、手持ちのほとんどの資金を手放したライゼルだったが、それとは別に多少の金銭を持っていた。その内の一枚の銀貨を出しながら、ビアンに対し言い訳がましく反論する。

 その様子を横合いから眺めていたフィルの手が、咄嗟に伸びてくる。

「フィルもそれほしー」

「おいっ」

 ライゼルが制する間もなく、綿の布は、フィルが引っ張った事によって無情にも破れてしまった。薄手の物であった為か、いとも簡単に裂かれてしまった。

「おやおや、こっちのと変えてあげるよ」

 店番の女性が気を使ってくれたのをやんわり制しながら、

「ううん、大丈夫。それよりも、お前。何やってんだ」

 怒りの矛先は、手拭いの状態を損ねてしまったフィルへと向かう。

「え…と」

 フィルが表情を強張らせ何も言えずにいると、ベニューが間に入って緑髪の少女を庇う。

「ライゼル、怒鳴らないで。フィルちゃんだって悪気があってやった訳じゃないでしょ」

 フィルを咎めたつもりが、却ってベニューに諭されてしまい、余計に機嫌を損ねるライゼル。

「ふん、いいから返せよ」

 半分ほどの所まで裂けた染物を、フィルからやや乱暴に取り返し、背嚢に仕舞い込んだライゼル。

「店先で騒がせてすまなかった。では、失礼する」

 ビアンがそう言うと、ドーロに連れられた一行は次の屋台へ話を伺いに行く。

「ビアン、俺もう腹減ったよ」

「フィルも!」

 ライゼルとフィルが空腹を訴え、ビアン自身も小腹が空いてきたのを思い出す。

「そうだな、せっかくだから露店で何か摘まむか」

「それなら、あれはどうだ」

 ドーロが示した方向から、何やら飲食店らしい露店がある。

「あれは?」

 食欲に忠実なライゼルは、ふらふらと店の前までやってくる。

「茄子の和え物だ、食ってみな。おっと、手掴みは止してくれよ」

 店主の男性に冷やかされ、俄かにふくれっ面になるライゼル。

「俺がそんな素行悪く見えるかよ」

(そこの自覚もないのかぁ)

 ベニューが決してお行儀の良くない弟の認識に呆れていると、店主は茄子の和え物の入った、人数分の器を供する。

「騙されたと思って食ってみな」

 まだ見た目の感想すら言ってないのに、この店主は何を最初から騙すつもりでいるのか。

 とはいえ、空腹のライゼルは少しツンとする匂いを鼻先に感じながらも、その和え物を口に運ぶ。すると、数度咀嚼し、舌の上を転がせた瞬間、口内に痺れのような物を感じた。

「なんだこれぇ、辛いじゃんか!」

 ライゼルが仰天してみせるのを満足げに眺めている店主。

「旨いだろ、これを肴にすると気持ちよく酔えるぜ」

 その辛味こそがその食べ物の売りらしく、茄子の食感やそのものの味については何も感想を言ってないのに、主人はどこか誇らしげだ。どうやら、その辛子味噌に重きを置いているようだ。

 だが、ライゼルは突如襲ってきた辛味の所為で、それどころではない。

「酔えるってなんだよ?」

 自らの呼吸で舌の痺れを和らげようと、舌に空気を触れさせて中和を試みるライゼル。だが、それでは追い付かない程にまだ口の中に辛味が残っている。唾液で流そうとしたが、その所為で余計に口の中に辛味が広がっていく。

「ライゼル、お水あった」

 どこから持ってきたのか、フィルの両手によって掲げられている水筒が、ライゼルの目に映る。フィルが突き出した瞬間の揺れから、なにやらさらさらとした液体のようで、果肉などは入っていなかったからすりおろしの果汁でもないのが見て取れる。

 味は分からぬが容器からしても、飲料水である事を確認したライゼルは、この舌の痺れをどうにかしたい余り、フィルから奪い取るようにして受け取った。

「おい、ライゼル、それは…」

 ビアンの制止も聞こえないのか、中身を確かめもせず勢いよくそれを流し込む。

 喉を鳴らしながら一気に飲み干すと、ライゼルは腹の底が急激に熱くなるのを感じた。腹の中にその液体が落ちていったと認識できる不思議な感覚。そして、後を追い駆けてくる、喉が焼けるような感覚。

「水じゃぁああねえぞぉぉおおお!」

 ライゼルの咆哮に、目の前にいたフィルは腰を抜かし、尻餅を突く。その傍には、ライゼルが落とした水筒が転がっている。ビアンがそれを拾い上げ、顔に近付け匂いを嗅ぐ。

「これは焼酎か。確かに屋台に酒は付き物だが。随分と度数が高そうだな」

「おう、これくらいなきゃ祭は盛り上がらねえぜ」

 この店は、米や豆を原料にした発酵食品を取り扱っている屋台らしく、味噌や酒を販売しているとの事だった。

 そうとは知らず、空腹に負けて立ち寄ってしまったのがライゼルの運の尽き。普段口にしない辛子と酒にやられて、店の前で地面に四つん這いになるライゼル。

「フィル、お前…なんて物を飲ませるんだ…」

 自分がライゼルに何を渡したのかも分かっていないフィルは、ライゼルの目まぐるしく変化する様子に困惑する他ない。

「ライゼル辛そうだった。だから水持っ…」

「水じゃなかっただろ」

 フィルを責めてばかりのライゼルに、ムッとした表情のベニューが小言を言う。

「それはフィルちゃんのせいじゃないでしょ。ライゼルが確認もせずに口に含むから」

「うぅぅ、まだ辛いのが残ってるし、喉が熱い…」

 満足に食事を楽しめなくなったライゼルに代わって、他の皆はここ以外の屋台でも、豆腐の厚揚げや胡瓜の酢漬け、きな粉餅に味噌こんにゃく、葡萄の砂糖漬けなどを摘まみ、腹を満たした。

「夕飯はたらふく食ってやるから」

 恨みがましくライゼルがそう独り言ちると、ビアンはそれを宥めた。

「露店で土産をいくつか買った。お前の調子が戻れば、また一緒に食おう」

 と、そうこうしている内に目に入ったのは、最初に見た陶器とはまた違う器だった。

「不思議な模様の壺ですね」

 一行が次に足を止めたのは、素焼きの壺を扱う店だった。若い女性が店の番をやっている。

「縄目文様って言うんですよ。こっちのは枝を転がして模様を付けています」

 女性は嬉々として、自分の作品をベニューに説明していく。注口付き、高杯、皿形、壺型、香炉型など、工夫を凝らして作ったいくつもの土器を丁寧に説明している。

 そんな女性とベニューを余所に、ライゼルは商品の前に座り込んで、壺型の土器を品定めしている。

「これがあれば、自分で好きなように漬けられるんじゃ…?」

 先の和え物の事を引き摺っているのか、急に土器の購入を検討し出すライゼル。だが、ビアンに短く指摘される。

「かさばるから止めとけ」

「わかってらい」

 さすがに道中、これを持ち歩いていく訳にもいくまい。駆動車の中に積んでおくにしても、転がって落ちれば割れてしまう。ただ、邪魔になるだけだ。

 そうは言っても、王都までのお遣いが終わり、フィオーレに戻る頃に改めて欲しがるかもしれない。その頃には、収穫祭はやっていないだろうが、他の町でも見かけた時に見比べる為に、今ここで見ておくのも悪くない。

「茄子とか漬けるのにちょうどいいかも」

 普段の食生活において、たった二人の家族の食卓という事もあり、フィオーレだと村長から分けてもらえるので、数はあまり必要としない漬物。

 あまり大きいのを購入してしまうと、ベニューの工房を兼ねていて、それ程広くない家が更に手狭になってしまう。

 ではあるが、容器としてあまりに小さいと、漬ける手間が増えて、それはそれで煩わしい。小さすぎるのも塩梅が悪い。

 という点を踏まえて、改めて目の前の壺型の土器に視線を落とす。自分の膝くらいの高さまでの、真ん中が膨らんだ形の壺。ざっと見た感じ、茄子や胡瓜、それに大き過ぎなければ大根だって漬けられそうだ。なので、あとはその重量感を知れればいい。

 ライゼル自身であれば、中身が入った状態でも、持ち運びは然程苦労しないだろう。が、ベニューにはちと酷かもしれない。土間に置いたままで糠を掻き混ぜる事も出来なくはないが、土間も他の家財や洗濯の桶などがあって、作業する場所には向かない。居間に持っていった方が、やり易いに違いない。

「ねぇねぇ、これって重い?」

 ライゼルが露店の女性に声を掛けた瞬間、隣にいたフィルがその壺を両手に抱え始める。

「…これ、すごく、重いよ~」

 小柄なフィルが持つには少々重かったようで、少女の両腕はその重量感に耐えかねて小刻みに震えている。腕に挟めば多少は持ち続けられるだろうが、伸ばした両手で持とうとする為、長くは保ちそうにない。

「おい、危ないぞ」

「わぁっ!?」

 ライゼルがそう言い終わる前にフィルの腕の筋肉は限界を迎えた。支えを失ったその壺は、するりと両手から抜け落ち、そのまま地面へ落下。直撃すると同時に、パリンと甲高い音を立てて粉々に割れてしまった。フィルの足元には、割れた壺の破片が散らばっている。

「フィルちゃん、大丈夫? 怪我はない?」

 ベニューが少女の安否を気に掛け、傍に駆け寄ろうとする。が、ライゼルがそれを制し、その失態をやらかした少女を怒鳴りつける。

「何やってんだ。危ないだろ。どうして勝手な事するんだ!?」

 急に大声を張り上げるライエルに驚きつつも、フィルはゆっくり言葉を紡ぐ。

「この壺ね、重かったよ?」

 そう少女が答えた途端、ライゼルは頭に血が上ったのを感じた。

「そんな事、分かってる! フィルに持てる訳ないだろ!」

 それなりに大きさのある壺だ。しかも、大きく丸みを帯びていて、フィルの腕ではもう一回りほど小さくなければ抱えられない中途半端な大きさ。いや、この場合は壺に対してフィルが適格でなかったとも言えるが。

「ライゼル、壺の重いか、聞いてた」

 フィル曰く、ライゼルの頼みを聞き届けたかったのだと。だが、その理由ではライゼルは納得しない。

「俺の所為にするな。お前にやってもらわなくたって自分で確認できるんだよ」

「フィル、ライゼルが知りたいと思ったから…」

 ここに至るまで謝罪の言葉はなく、ただただ弁解を繰り返すフィル。その態度にライゼルは怒髪天を衝く。

「それで割ってりゃ世話ないだろ! なんだってんだ、俺の邪魔ばっかりしやがって! 何がしたいんだ、お前は? 関係ない癖に付き纏いやがって。お前は何なんだよ!?」

 のべつ幕なしに言い捲くられ、フィルは何にどう答えていいか分からない。

「フィル、あんまり、わからない」

 怯え始めるフィルに追い打ちを掛けるように、ライゼルは強い口調で彼女を見放す。

「うるさい! お前なんかどっか行っちまえ。俺の目の前から居なくなれよ!」

 ライゼルからの拒絶の意思を受けたフィルは、急に込み上げて来る感情を瞳から溢れさせながら、その場から勢いよく走り出す。

「待って、フィルちゃん」

 居た堪れなくなりどこかへ去っていくフィルを、すぐさま追い掛けるベニュー。思わずライゼルはその姉の背中に声を掛ける。

「放っておけよ。他人だろ」

 ベニューは弟が言い放ったその言葉に一瞬足を止めたが、決してそちらへ振り替える事はなく。

「何それ? 今日のライゼルはらしくないよ」

 それだけを言い残し、姉は緑の髪の少女を追い掛けて、村の外れの方へ走って行った。

 何か呼び止めようにも言葉が見当たらず、懐かしい胸の痛みにライゼルの口からふと愚痴が零れる。

「なんだよ、俺らしくないって」

 姉が平素の自分をどのように見ていて、今日の自分はどう映っているのか。人目を憚る事をしないライゼルには、どうも理解できない案件だ。

「お姉ちゃんの言う通りだな、フィオーレの少年」

「なんで?」

 尋ねられたドーロは嘆息交じりに答えてみせる。

「少年とこうして会うのは二度目だが、そんな私でも意外だと思わされたな」

「何が?」

 この期に及んでもライゼルは自身の行いの何が責められているのか、自覚がない。だから、それをドーロの口から告げられてしまう。

「他人だから放っておけ? 私がミールで見た少年なら、そんな言葉は決して口にしなかっただろうがな」

「どういう事だよ?」

「言葉通りさ。どうやら、少年は私の知っている人物とは違ったようだ。人違いをしてすまなかったな。服は終わってからでも返しに来てくれ。それでは、後は好きに楽しんでくれ」

 そう言うと、ドーロは一行から、ライゼルの元から離れていった。

 ミールにいた自分も、今ここにいる自分も何も変わりはしない。同じライゼルだ。それなのに、ドーロは別人のようだと話す。それが何を指しているのか、ライゼルにはさっぱりだ。

「なんだよ、ドーロのおじさんも訳わかんないぞ」

 姉ばかりか、アードゥル隊員にまで、自らに非があると告げられ、ライゼルは困惑するばかりだ。あまりにもそう詰られるものだから、怒りの感情も薄れ、だんだん気落ちしてくる始末。

 そして、現状唯一のライゼルの友であるビアンは、ライゼルの目を真っ直ぐに見据え、飽くまでこの問いを貫き通す。

「ライゼル、本当に分からないか?」

 ビアンにまで『そちら側』に回られると、ライゼルとしても弱る他ない。このまま知らぬ存ぜぬでは通用しない。観念して、その問答に付き合う事にする。

「俺が間違っている? あいつは、フィルは、俺達に迷惑かけてばっかりで、それなのに反省する様子もなくて笑ってばっかり。まるで俺達を困らせて楽しんでるみたいだ」

 ライゼルの目で見たままの、心で感じたままの事を伝えたつもりだったが、それでもビアンの表情は真剣な面持ちのままだ。

「お前にはそう見えるか?」

「ビアンはそうじゃないって言うの?」

 ビアンの強めの語調に、ライゼルは質問を質問で返すしか出来ない。今の自分の精神状態を表現でき得るだけの言葉を、ライゼルは持ち合わせていない。

「迷惑を掛けられているのは事実だし、おそらく反省もしていない。そして、自分が何をやったかも分かっていなさそうで、ずっと楽し気にしている。それは何の間違いもないだろう」

 ビアンが語るフィルの様子は、どうやらライゼルが見ているものとそう大差はない。では、何故こうも自分が責められなければならないのか。その答えを出せない苛立ちから、ライゼルもだんだん自分を抑えられなくなる。

「じゃあ、何が違うんだよ?」

 そう問い質すライゼルに、ビアンは反対にライゼルの先の言葉を問い質す。

「あの子は、フィルは…ライゼルに迷惑を掛けたがっていたか?」

 これまでの問いと何か変わっただろうか。ライゼルはしばらく考える。考えてみて、少しばかり変わったのだろう、いや変わったような気がする。目線が今とは違う所に行った。外側じゃなくて少しだけフィルの内側。

 ただ、ライゼルの視点をほんの少し変えただけでは、理解へとは至らない。そもそも、フィルの気持ちなんてライゼルは考えた事がなかった。

「知らない。あいつ、何考えてんだか分かんないんだもん」

 それは、ライゼルから出た素直な感想だった。初めてアバンドで出会い一緒に食事をした時も、リエースで名前をもらったとはしゃいでいた時も、このラトマティで屋台を眺めていた時も。その少女が何を考えているのか、ライゼルには慮る事が出来なかった。別に、ベニューやビアンの気持ちを全て理解している訳ではない。ただ、それでも特に気にならない。信頼感によるものなのか、彼らの心が読めないと不安に思う事はない。

 だが、フィルは違った。身分証を持たず素性が明かされていないからか。それとも他に理由があるからなのか定かではないが、ライゼルはフィルの未知を恐れた。だから、遠ざけようとした。

 その恐れをビアンは見透かしていたのだ。リエースくらいから徐々にではあったが。

「そうだ、分からないんだ。なのに、お前はそうなんだと決めつけた。フィルはそれが悲しかったんじゃないか?」

 確かに、勝手に決めつけたという事はある意味事実である。だが、それだけの材料があったともライゼルは未だにそう思っている。

「悲しいなんて知るかよ。フィルがやった事だ、自業自得だろ」

 実を言えば、ここまでライゼルが無茶を言っている訳ではない。どちらかといえば正論を語っていて、ビアンの方が無理な論法で押し進めている。そう自覚しているビアンは、更にその無茶な主張を展開していく。

「お前がそんな調子なら、何度だって言うぞ。今日のお前はらしくない。随分と六花染めの似合わん男になり下がったな」

「なんでここで六花染めが出てくるんだよ」

 似合わない、と。その言葉が何故だかライゼルの癪に障った。それは先程ビアンが否定した勝手な決めつけだったのかもしれない。だが、自分が逆撫でされている理由を見つける前に、ライゼルは別の言葉を発してしまっていた。

 ビアンとしても、ライゼルがその強引さを突いてこないので、ますます煽るような言い方でライゼルを詰る。決してライゼルが憎いのではない。さっきもビアンが言ったように、ライゼルは六花染めの似合うライゼルではなくなっている。理由ははっきりとしないが、たった一人の友達が何ともみっともない姿を晒している。それがたまらなく歯痒くて仕方がないのだ。だからこそ、ビアンはその強気な姿勢を貫き通す。

「例え話だ、気にするな。だが、一つ覚えておけ。今日のお前は、いや、フィルに対するお前は、俺が知るライゼル・フィオーレではないぞ」

 ただ、ビアンがいくら願っても、ライゼルはいつもの彼に、すぐには戻れない。何かが、ライゼルの内に潜む何かがそれを阻んでいるのだ。それはライゼル自身も気付かぬ事なのであろう。

「ドーロのおじさんと同じこと言いやがって。俺が俺じゃないって何だよ?」

「自覚がないか? フィルに対してのお前は、どこかつっけんどんな物言いなんだよ。昨日まではそれ程感じなかったが、このラトマティに来てからはそれが顕著だ」

「そんなつもりないけど…」

 ついにはビアンから目を逸らし追及を逃れようとする始末。その姿勢には、ライゼルを友とするビアンも呆れざるを得ない。

「お前、ソトネ林道で俺に言ったこと覚えているか? 『何と戦ってるんだよ』ってそう言ったんだぞ。成人もしてないクソガキが偉そうに。だから、今度は同じ事をお前にも言ってやる。お前は何と戦ってるんだ? 何をそんなに必死に守ってるんだよ?」

 これまで必死に見ないようにしてきたものが、形となってライゼルの脳裏に浮かんでくる。ビアンの言葉によって肉付けされ、深層心理に沈んでいた思いが、色と形を以て鮮明に浮かび上がってくる。

「それは…」

 ここまで叩きのめされたライゼルというのも珍しいかもしれない。落ち込みようだけで言えば、ムーランの一件の直後くらいの沈んだ調子だ。

 さすがにそこまで暗い顔をしたライゼルに詰問するのも気が引けて、ビアンなりに諭すような穏やかな調子で続ける。

「言い当ててやろう。俺にも経験がある。お前はあの子に対して、同族嫌悪を抱いているんだ」

「同族だって? また俺をあいつと同じ扱いするのかよ」

 先のように強く反駁できないまでも、俯いた状態で悪態を吐くライゼル。

「まぁ面倒を起こすという点では大差ないな」

「なん―――」

 ライゼルが怒号を上げる前に、ビアンの補足がライゼルを制する。

「もちろん他の点、具体的には有事の際の頼り甲斐と言う意味では雲泥の差だがな」

「お、おう…」

 そう評価を受けて、ライゼルは悪い気がしない。半ば喧嘩のようなやり取りをしている最中ではあったが、普段聞けない信頼をこうして聞かされると、反発に終始していたライゼルは俄かに気勢を殺(そ)がれてしまう。

 少し落ち着いたライゼルに、ビアンはより歩み寄って自分の考えを聞かす。

「同族嫌悪とは言ったが、どうやらそれだけでもないような気もするんだよ。どうだライゼル、何か心当たりはあるか?」

 改めてそう問われても、言語化するには難しい。感情が邪魔しているというのもあるが、ライゼルはどの言葉を用いればいいか判断に迷う。

「分からない。ただ、なんとなく…ベニューがフィルに構うのが嫌だ」

 ビアンはその答えを、意外だと感じた。

「ほう? お前はフィルに対し妬いている訳だ」

「俺、妬いているのかな?」

 ビアンはそう表現したものの、嫉妬という表現は正確でないような気もするのだ。これは決して恥ずかしい為に認めたくないのではなく、なんとなく腑に落ちないのである。

 ただ、ここまで来ると、本人ではないビアンは気休めを言う事しかできない。

「そういう事なんじゃないのか? いや、なんとなくお前に似合わん感情のような気もするが」

「なんだろう。ベニューとフィルが一緒にいると、なんだか、ごめんって気持ちになる」

(ごめん、か。これは本当に意外な答えだったな)

 先程の嫉妬もライゼルからは連想されない感情ではあったが、その次に提示された罪悪感はそれ以上に似合わないようにビアンは感じるのだ。

 少年が姉に罪悪感を抱く理由は、ライゼル本人の中にあるのだろうか? 気になったビアンは、先を促す。

「何故だ?」

 先より素直な様子で、ライゼルはその質問に返事を返していく。

「フィルが面倒を起こすと、ベニューにも迷惑が掛かるだろ。それがなんとなく嫌なんだ」

「俺はその勘定に入っていないのか?」

「う~ん、ビアンにはあんまり思わない」

「何という言い草だ、と言いたいところだが、フィルが仕出かす件に関しては、お前に非はない訳だから、お前が気に病む必要はないと思うが…」

 ビアンが途中で言葉を濁した事が気になり、ライゼルはビアンの顔を窺うように覗き込む。

「なに?」

「なるほどな、と思った訳だよ。お前だってもうおおよそ気付いているんだろ。後は、お前がそれを口にするかどうか、だ」

 ビアンはこれまでの姉弟の関係から、なんとなくその理由に思い至った。ビアンには抱かない罪悪感だが、姉には抱き。原因が自分でないにもかかわらず、何故姉に対してその感情を抱いてしまうのか。ライゼルもとうとうそれを自分の口で語る時が来た。

「多分、フィルは昔の俺に、何も出来なかった頃の俺に似ているんだ」


 一方、その頃。村の外れの林の手前まで、二人はやって来ていた。

「フィルちゃん、待って」

 祭の賑わいから離れた所まで走ってくると、フィルは一旦足を止めた。それでも、呼吸は荒いし、感情は昂ったまま。

 ベニューも呼吸を整えて、再び声を掛けようとした時、フィルが先んじる。

「ライゼル怒ってた。フィル怒らせた。ライゼル、フィルを嫌いになった」

 立ち尽くしたまま嗚咽交じりにそう語るのを、ベニューは優しく抱きしめ頭を撫でつける。その昔、弟にしてあげたように。

「ううん、なってないよ。ライゼルはフィルちゃんを嫌いになんかなってないよ」

 それを聞いたフィルは、鼻水を啜った後、窺うようにしてベニューを見上げる。

「本当?」

 フィルを安心させる為という側面も多分にあったが、『自分を戒める』為にも、ベニューはこう言葉を選んで言い聞かせる。

「うん。ライゼルが怒ってるのは、『自分に』だと思うんだ」

 ベニューが意図を込めた言葉選びだったが、フィルには額面通りだったとしても、その意味が分からない。

「ライゼルはライゼルに怒ってる?」

 フィルを抱きしめたまま、ベニューは首肯を以って応じる。

「多分。私がそう感じさせちゃったから」

 ベニューがそう思うのには理由があった。幼い頃の、母を亡くしたばかりの頃のライゼルは、自分への劣等感に押し潰されていた。母を救う事は出来ず、姉の力になれない自分の不甲斐なさ。

 その遠因を生み出したのは、他でもない自分なのだとベニューは自覚している。何者かに襲われた時の事を、ライゼルはほとんど覚えていないと話している。が、それでも。そうだとしても、あの時あの場に残ったのが自分であれば、ライゼルに余計な責任を感じさせずに済んだのではないだろうか。最愛の母の死の原因が自分の弱さなのだと、間違った認識を与えずに済んだのではないだろうか。

 その後の事についても、そうだ。生きる為とはいえ、道具も揃っておりすぐに始められるからとはいえ。姉弟が生きる糧を得るのに、何も染物を選択する事はなかったのではないか。母の思い出に直結するそれだ、ライゼルが意識しない訳がなかった。姉の力になろうとする心優しいライゼルだったが、皮肉な事に弟には染物の素養が備わっていなかった。母の代名詞とも言えるダンデリオン染め、それに挑む事もなくその道を断念した。

 それらの挫折を、無意識であったにせよ与えてしまったのは、他でもない自分自身だとベニューは考えている。

「私の余裕のなさが、ライゼルに辛い思いをさせちゃってると思うの」

 ライゼルは一言もそういう風に姉を詰った事はない。姉が原因で自分が落胆したなどとは一度も口にした事はない。おそらく、ライゼルはそう言う風に考えない。だから、ベニューはその事を謝る機会をこれまでずっと逸し続けている。

「なんで? ライゼルはベニュー嫌いじゃないよ」

 ベニューが何故そのように考えているかなど当事者ではないフィルには知る由もなく。ただ、短い期間で見た姉弟のやり取りからの素直な感想を述べる。実際、ベニューもその認識については、同意見だ。

「そうだね、私もそうだと思う。だって、ライゼルは優しいからね。本当は人の所為になんかするような子じゃないんだよ」

 フィオーレの悲劇の件も然り、今回のフィルの件も然り。自分に不都合があったからと言って、他人にその原因を押し付けるような理不尽な人間ではない。むしろ、この王国中の笑顔が脅かされるかもしれないと危惧し、それを守るのは自分の務めだと信じて疑わない奇妙な理不尽さを持つ、それがライゼル・フィオーレだ。

 姉が誇らしく思うそういった部分を、フィルも同様に好ましく思っているようで。

「フィル、ライゼルすき。ライゼルといるとあったかい」

「あったかい? どういう事?」

「わからない。けど、フィルはライゼルといっしょが嬉しい。ライゼルといっしょだとフィルは楽しい、で、あったかい」

 たとえ明確な理由がなかったとしても、姉にとっては弟の事をそう思ってくれるだけで嬉しいものだ。まるで自身を誉めそやされているような気がして、ついついベニューは頬が緩んでしまう。

「フィルちゃんは本当にライゼルが好きなんだね」

「うん、ライゼルすき! ライゼルみたいになりたい!」

「ライゼルみたい、かぁ…」

 フィルが言う『好き』が恋愛感情のそれでないとしても、その対象になりたいとするのは自然な感情なのだろうか。憧れと解釈するならば、自然なような気もするが。ベニューにはそれが自然かどうかは判断できない。

「フィルはどうやってライゼルになれる? なにしたらフィルはライゼル?」

 先のフィルの言では、何故ライゼルに対して好意的なのかは分からなかった。でも、それでもライゼルに対する興味関心が非常に高い事だけは確かに窺える。そして、何よりもライゼルの事を好いている。それはベニューにとっても喜ばしい事だ。ビアンと同様に、フィルもライゼルの友人になってくれたらと、ベニューは密かに思っている。

「う~ん、どうやったらなれるんだろうね?」

 問われて実際に言葉にしようとすると、これがなかなか難しいもので。フィルをそっと胸から離したベニューは、少女の両肩を両手で押さえたまま、どう伝えていいか言葉を探す。

 例えば、ベニュー自身も有事の戦闘の際、何度かライゼルの思考を模倣しようとした事がある。圧倒的窮地に立たされた場合、当たり前の手段が通用しない時、ライゼルならどうするか。ライゼルなら何を考えて行動するか。変に考え込んでしまうベニュー自身には出来ない事でも、きっとライゼルなら無理やりにでもやってのけてしまう。ライゼルなら目の前の壁も乗り越えていける。だから、ライゼルの思考を借りてみたのだ。

 ライゼルはベニューに劣等感のようなものを感じているようだが、実際はベニューこそがライゼルの行動力に、迷わない強い意志に憧れている。ライゼルが有するその才能は、間違いなく母から譲り受けている。

 ただ、先のベニューが実践した方法論をフィルに説いた所で、少女の疑問が解消されるとは考えづらい。しばし、ベニューは思案に暮れる。

「ベニュー、わからない?」

 自身に添えられた手を擦りながら、ベニューの様子を窺うフィル。

(昔、ライゼルがこんな風に私を心配してくれた事があったっけ)

 ベニューが思い出したのは、ライゼルが何の前触れもなく元気を取り戻し、母の墓柱(ヴァニタス)がある丘から大慌てで帰ってきた時の事だった。「大丈夫?」とか「元気分けよっか?」などと真っ直ぐこちらをじっと見つめる弟の瞳。今のフィルを見ていると、当時のライゼルが思い出されて、自然と胸が温かくもなり、きゅっと締め付けられるようでもあり。

 喋られなければ、このままの状態で時間を費やしてしまいそうだと我に返ったベニューは、ふと逡巡してみせた後で。

「どうすればいいかは分からないけど、どうなっていればライゼルに近付けるかは答えられるかも」

 その可能性を示唆されたフィルは、逸る心を止められない。

「フィルどうなる? どうなってライゼル?」

 少しの間をおいて、ベニューはゆっくりとこう紡ぐ。

「ライゼルはね、優しいんだよ」

「『優しい』が、ライゼル?」

 山彦のように返すフィルに、微笑んで見せるベニュー。

「そう。困っている人を見つけたら、すぐに駆け付ける。困り事が分かったら、それをどうにかしようと頑張って。もし、どうにもならなかったとしても、困っている人を独りぼっちにはしない。その人が笑顔になるまで傍に居てあげる。それがライゼルなんだよ」

 独りぼっちでいる事の辛さを知るライゼルは、決して困っている人を放っておかない。自身が独りぼっちになった経験と唯一の肉親を独りぼっちにしてしまった経験を持つライゼルは、その辛さに他の誰かが襲われそうになった時、傍に駆けつけ、一緒に不安と戦ってあげるのだ。例え、解消できなかったとしても、ずっと傍に居続ける。その為に必要としたのが、母を越えるような『強さ』。それを以てして、自身が掲げる『みんなの笑顔を守る』という夢を叶えるのだ。

 ベニューが語るライゼル像を一通り聞き終えた後で、フィルはおずおずとベニューに尋ねる。ベニューに対して恐れは抱いていないと思うが、どこか躊躇いの色が見える。

「それはフィルも?」

「ん?」

 唐突なフィルからの問いかけだったが、一瞬ベニューは意図を図りかねた。尋ね返そうとしたら、フィルが再び問い掛けてくる。

「フィル困ってたら、ライゼルはフィルのそばにいる?」

 自分以外の事なので、断言するのもどうかとは思ったベニューだが、敢えて自信を持ってこう言い切る。

「きっとそうだと思うよ。ライゼルが守りたい笑顔の中には、きっとフィルちゃんの笑顔もあると思う」

 ライゼルの語る『みんな』は本当にみんななのだ。分け隔てなく、誰も彼もをその対象に含んでいる。フィオーレのみんなはもちろん、これまでの道中で出会ったみんな、これから出会うみんなの笑顔を、ライゼルは守ろうと奮闘するだろう。それだけは違える事なく、本人ではないベニューでも約束できる。その彼の信念を応援する事が、弟への最大級の信頼の証なのだから。

 その答えを得たフィルは、しばらく黙したまま逡巡してみせ、首を傾げる。

「フィル…えがお?」

 フィルも普段からライゼルを見るばかりで、ライゼルに認知されている事を意識した事は多くなかった。いざ、ライゼルが言う『みんな』の中に、

「そうだよ、守るものがなくっちゃライゼルも頑張れないでしょ? だから、私もフィルちゃんも笑顔でいなくっちゃ」

「うん、フィルえがお♪」

 緑髪の少女が花を咲かせた途端、ベニューは何者かの気配を察して振り返る。

「気に入りませんねぇ」

 振り返ったその先を見る事は適わず。声が聞こえたと思った瞬間、ベニューは自身の耳を疑った。いや、耳だけでなく、目も手も、いや全身の感覚を疑わざるを得なかった。

「ベニュー、どうした? どこか痛い?」

 急に頽れるベニューを前にして、フィルは動揺が隠せない。蹲るベニューに何と声を掛けても、何の返事も返ってこないのだ。

「どうして…?」

「それはですねぇ、『穢れ』の影響による感覚遮断を受けているからですよ」

 その声に振り替えると、謡うようにして得意げに語りながら、ベニューの後方からゆっくりと近付いてくる男の姿がそこにあった。外套の頭巾を目深に被った青年。先程、誰かの話題に上がっていたが、フィルはそれを記憶してはいなかった。

 年の頃は20歳前後と言ったところか。外套の内側には真っ白な衣服が見受けられる。今フィルやベニューが着ているような黄色味がかった無地ではなく、染み一つない純白の衣服。そして、首には王国民の証である首輪が装着されていない。その出で立ちをフィル以外の一行が視認していたなら、誰かを連想していたはずだ。例えば、テペキオン。例えば、ルク、クーチカ、リカートといった異国民の面々を。

「誰?」

 その男の顔にフィルは見覚えがなく、仮にベニューがその姿を確認していたとしても覚えはない。一行が初めて目にする男が、この場に意味ありげに現れたのだ。

「不才には名乗る程の価値はありませんよ。それに、不才よりお連れ様のベニュー・フィオーレの心配をしたらどうですか?」

 男が言う通り、今はより関心を向けるべき相手がフィルの傍らにいる。

 呼吸はあるようだが、フィルの呼び掛けに応答はなく、視点はただ一か所に留まるばかりで、周囲を確認する様子もない。明らかな不審人物が目の前に現れたというのに、警戒どころかその存在に気付いてすらいないようである。

 普段とあからさまに様子の異なるベニューを前にして、フィルは目の前の男に救いを求める。

「ベニュー、具合悪そう。助けて」

 少女の、ある意味では的外れな懇願に、男は歪な笑みを以って応じてみせる。笑みと呼ぶには、随分と気味の悪い、愉悦に塗れた表情。

「フフフ、そういう訳にはいきませんよ。ベニュー・フィオーレには『穢れ』の苗床になっていただきますので」

 純白の衣の上に外套を羽織った男は、少女の願いを拒否し、代わりに自分の望みを口にした。

「けがれ? なえどこ?」

 男が言わんとする事がフィルには全く伝わらず、ベニューが置かれている危機的状況が一切理解できていない。が、お構いなしに男は、自らの素性と所業を愉快そうに明かしていく。

「そうです。不才の【翼】は、『有資格者』の中でも『吸収』を司ります。その能力でこの地上の各地で穢れを収集し、先程ベニュー・フィオーレにそのいくらかを流し込みました。只人に抗えるものではありませんから、五感の全てが機能していないでしょう」

「五感って?」

 フィルとしては単純に言葉の意味を問うただけだったのだが、男はそれを驚嘆と解釈したらしく、更に上機嫌になっていく。

「そうです、何も見えず何も聞こえず、その自身に掛かる風圧や体重すら感じない。つまりは、この世に存在している感覚を全て無くしてしまっているのですよ。ですから、貴方の声も届きません」

 男が饒舌に語ってみせた後、ようやくフィルはベニューの容態を知る事となった。穢れと呼ばれるものを体内に注入され、その影響で体の感覚を無くしてしまっているという。

「だめ。ベニューがそれ嫌」

「不才としましても、別段ベニュー・フィオーレ個人には何の恨みもないのです。飽くまでも不才の目的はライゼル・フィオーレなのですから」

 ここに来て、その男の口からまさかその名を聞く事になるとは思っていなかったフィル。

「ライゼル? ライゼル知ってる?」

「えぇ。ライゼル・フィオーレ、ダンデリオン染めのフロルの忘れ形見、姉はこの六花染めの二代目フロルことベニュー・フィオーレ。地上の人間に発現する【牙】を有し、それは剣を象っている」

「・・・お?」

 既知と未知の情報がないまぜになっていて、処理に時間が掛かってしまうフィル。おそらく、ライゼルの身辺を調査し、それを披露しているのだろうが、その意図はいまだ不明だ。アバンドにて大勢の前で、その素性を知られたライゼルなので、今話した事くらいは、知られていても何ら不思議ではない。

 理解が追い付かないフィルに更に嗜虐性を煽られながら、ベニューに縋るようにして寄り添うフィルの周囲を、男はぐるぐると歩き回り始める。

「性格は、姉が評するには優しいとの事でしたが、不才から見ればただのお節介。不必要な行いです」

 身振り手振りを以て、ライゼルの在り方を乏しめていく男。そんな厭味ったらしい不遜な態度に、フィルも堪忍袋の緒が切れる。

「要る! ライゼルがすること、優しいこと。要らないじゃない!」

「いいえ、余計なことをしてくれましたよ、ライゼル・フィオーレは!」

「お?」

 突如激昂してみせる外套の男に一瞬気圧され圧倒されるフィル。

「彼は不才の計画の邪魔をしました。ミールと呼ばれる繁華街での火災、本来であれば更なる穢れを集められるはずでした。アバンドの捨て子達からわざわざ集める必要もないくらいにね」

 男は自らの主張が如何に正しいか、大袈裟に芝居がかった調子で言いくるめに掛かる。先日の火災を引き合いに出し、ライゼルの消火活動を否定するこの男からは、どこか狂気のようなものを感じられる。

「ミールは知らない。アバンド、フィルがライゼルと会ったところ」

 フィルが漏らした言葉に、耳聡く男は反応する。

「そういえば、後になって知った事ですが、あの町にもライゼル・フィオーレはいたそうですね。不才には理解できない野蛮な拳闘に興じていたらしいですが。でも、おかげで回収の邪魔をされなかったので、その事については特に咎めるつもりはありませんがね」

 そうなのだ、この男はミール大火を引き起こした張本人であり、アバンドにて孤児達から穢れを『引き取った』人物その人なのだ。どうやら穢れを生み出す事を目的として、暗躍していたらしく、ここに来てライゼル一行に接触を図ってきたのだ。

「ライゼル、悪いことしてない。ライゼル、優しい」

「優しい? 不才の邪魔をする人間が、ですか?」

 自らの行動に罪悪感を感じていないのか、平気な顔をして被害者ぶってみせる外套の男。

「困ってるだったら、ライゼルに言う、がいい。ライゼル、助けてくれる」

「いいえ、不才は特に困っていません。何故なら、今日の仕上げで『必要分』の穢れは回収できそうですので」

 そう得意げに語る男の口の端が持ち上がった。

「『ふさい』、困ってない?」

 フィルというたった一人の観客の為に、この凶行に於ける司会進行役は、盛り上げんとばかりに声を張り上げる。それに釣られて彼自身の気分も高揚しているようだ。

「おかげさまで。これから、多くの穢れが集まります。正確に言えば、この祭りなる催しを利用して、不才が持っていた穢れを増殖させます。その苗床は、この村に集まった全ての人間です!」

「ふさい、何する?」

 フィルが問うと、外套の異国民は片目を瞑ってみせる。

「特別に教えて差し上げましょう。昨夜、不才は蕃茄と呼ばれる赤い果実に、不才が有する穢れのほとんどを注入しました」

 昨夜の不審人物の正体は、この異国民の男だったのだ。盗むでもなく、悪戯をするでもなく、それ以上の悪行を、穢れを蕃茄に仕込むという行為を行っていたのだ。

「なんで? それすると、どうなる?」

「あの果実、理由は存じませんが、互いに人間同士が投げてぶつけ合うそうじゃないですか。それに穢れが内包されていたら、その祭に参加した者全てが穢れに汚染されてしまいます。そこで横たわるベニュー・フィオーレのようにね」

 具体的な例として、自分に何が起きているかも分からず、ずっと動けずにいるベニューを出した。ベニューは、男の言が正しければ、この会話さえも聞こえていない。つまり、この村に迫っている危機とその実行犯を知覚しているのは、フィルだけだ。

 フィルもその自覚を強くした訳ではないが、俄かに危機感を煽られる。この男は、罠にはめる対象を参加者全員と明言しているのだ。それには、ベニューのみならず、ライゼルやビアンも含まれているだろう。

「ライゼル、ベニューみたいになる?」

「そうです、あの果実をぶつけられた者は皆、穢れに蝕まれます。そして、人々は死に絶え、穢れはますます増えるでしょう」

 正直に言えば、今起きている事の半分もフィルは理解できていない。だが、それでも、大好きなライゼル達にその災いが降り掛かろうとしている事だけは分かる。

「それが、要らないこと!」

 フィルには、そう断じる事が出来る。その行為からも、それを為さんとするその男からも、『あったかい』は感じられない。ひんやりしたぞわぞわだけが感じられる。

 ただ、フィルにそう指摘されたところで、男は一切気に病む様子はない。

「いいえ、不才には大量の穢れが必要なんです。そうしなければ、他の『有資格者』の皆さんに先を越されてしまいますから」

 外套の異国民も何かを急いているようだが、そんな事はフィルだって斟酌にない。

「だめ。ライゼル困るは、フィル嫌だ」

「それも、いいえ、です。ライゼル・フィオーレは不才に行った事への報いを受けてもらわなくては。ミールでの件が成功していれば、そもそも今回の件は必要なかった事です。原因はすべて、ライゼル・フィオーレにあります」

 この事態の責任を、男はすべてライゼルに押し付けようとしている。ドーロは言っていた、ライゼルが助けなければミールという町は大変な事になっていたと。御礼を言っていた。感謝をしていた。

「違う! ライゼルは優しいをした。ライゼルが悪い、じゃない!」

 双方は互いの主張を譲らず、平行線を辿るばかり。だが、時間は刻一刻と過ぎていき、より不利になるのは一行の方だ。その証拠に、と言わんばかりに、外套の異国民は勿体付けて言う。

「貴方の主観を不才に押し付けないでください。それに、いいんですか?」

 そう言って、未だ横たわり返事のないベニューの方へ、フィルの視線を促した。

「ベニュー・フィオーレがこのまま穢れきってしまいますが。無論、不才としては大歓迎なのですが」

「ベニュー助ける。ライゼルが『いる』!」

 そう思い立ったフィルは、先の来た道を必死に直走る。

 その懸命に走っていく後ろ姿と横たわるベニューとを交互に見やりながら不敵に笑う。

「見ものですね。伝達能力に優れているとは思えないあの少女が、どうライゼル・フィオーレに事情を説明するのか」

 もちろん、この不才を自称する男は、フィルの行動の成否など斟酌にない。予想では、ライゼルはフィルの話をまともに取り合わない。どころか、神経を逆撫でされ、余計に険悪な雰囲気になるだろう。そして、そんな中で始められる催しを眺めながら、フィルが話していた絵空事が真実だと気付かされる。が、そうなっては後の祭り。参加者は皆、目に映らぬ穢れに侵され、ベニュー同様、このラトマティ村ごと穢れの苗床にされるのだ。それが、この男カラリスの思い描いた、ライゼルを絶望の淵に陥れる為の最悪の物語。わざわざ回りくどい仕込みを施してまで準備した、自らに捧げる愉悦の蜜。

「フフフ、精々悔いて死ぬといいですよ、ライゼル・フィオーレ…」


 物語の舞台は、再び祭の会場となる広場に戻る。そこには、自らの劣等感を吐露するライゼルと、それを真摯に受け止めるビアンの姿があった。

「何も出来なかった頃のお前に、か。それはまたどうしてそう思う?」

「やること為すことが全部裏目に出る。そういうところが、似てると思う…」

 過去の自分を振り返ると、まさしく今日のフィルと重なって見える。やりたい気持ちが誰よりも強く、なのに誰よりも不器用なフィル。年相応と考えれば、仕方のない事かもしれない。ただ、ライゼルが彼女を受け止められる程に大人ではなかったというだけの話だ。

「なんだ、あの子に悪意がないって事はちゃんと分かっているじゃないか」

「でも、それでもあいつは足を引っ張る。それに、あいつは家族でも何でもない。ビアンだって言ってただろ、関係ないんだから連れて行くつもりはないって」

 ライゼルはフィオーレから始まる一連の事件を実際に経験しているし、その過程で姉ベニューもビアンに代わりその現場を見守る事もあった。その姉弟を連れて、報告へ上がるのがビアンの務めだ。そこには一切の疑念の余地はない。

 だが、フィルは違う。異国民の事件と直接関係している訳でもないし、今後必要な協力者になるとも思えない。むしろ、お荷物でしかない。今日の一日だけでこれだけ振り回されてしまう始末だ。王都までと考えると、その苦労は想像すらしたくない。

「その通りだ。どこか預かってくれるところがあれば、すぐにでも置いていきたいくらいだ」

「だったら」

 ライゼルの声を遮り、ビアンは更にこう続ける。

「だが、それは飽くまで俺の意見だ。お前はどうなんだ、ライゼル?」

 ビアンが問うているのは、あの少女を、フィルと名付けられた少女を、このまま見捨てるかどうかという事。これ以上同伴させないという決断をするなら、あの少女をこの町に置き去りにするという事に他ならない。身分証を持たず、その由縁からおそらく星脈に不具合を来しているであろう少女を。異国民の騒動に紛れてアバンドの外へ連れ出し、名前まで与えた。何やら自分に好意的な感情を向けてくれている少女を。ライゼルがどうするかという事。

 最初は、決してそういうつもりはなかった。アバンドのルーガンの家の子だろうと思って、少しの間だけ同伴させていた。ルーガンに返すまでのほんの少しの時間だけ。孤児達の話を事前に聞いていたから、情報から困っているのだろうと思って。

 でも、実際はどこの誰かも分からず、異国民襲撃の騒動の中、仕方なくリエースまで連れて行った。星詠様なら、何か分かるかもしれないと期待して。だが、結局、フィルについては何も分からず、名前を付けてもらうに留まった。そこから先の少女の展望はまるで決まっていない。

「どうって…?」

 問われたライゼルは、返事に困るしかない。ライゼルとしては、素直な気持ちを言えば、フィルを遠ざけていたいのだ。過去の劣等感を彷彿とさせる少女をこれ以上一緒に連れていく事に、否定的な感情さえ抱いている。出来るものなら、どこか適当な場所に預けていきたい。

 確かに、緑髪の少女を連れて行くかもしれないと言い出したのは紛れもなくライゼル本人だ。アバンドにて一緒に昼食を取りながら、少女の境遇を憂いた。だったが、それはライゼルの勘違いで、少女は一切困ってなどいなかった。これまでどうやって生きて来たのか疑問ではあるが、それでも少女自身は助けを求める素振りは一切見せていない。ライゼルの基準で言えば、笑顔を失っていない。

 それを考えると、これ以上ライゼルが面倒を見なければならないかというと、その限りでもないように思えるのだ。アバンドから連れ出した事には、多少の責があるとはいえ、異国民襲撃という非常事態の事であった。なんなら、これからアバンドに送り返す事だって不可能ではないはずだ。ラトマティの役人も、そしてフィルも嫌がるだろうが、フィルを身元不明の孤児として保護してもらえば、星脈の有無の確認の為にアバンドに送り返される。その後の処遇を決めるのは、教会の判断であり、この国の規則だ。その点に関してはきっとビアンも文句は言わないはず、とライゼルは密かに思う。

 フィルにも事情があるのだろうが、それに関してライゼルに責任があるかと言えばそうではないはずだ。この国に生きる人間が、この国の法律に従って生きるという事は、至極当然の事なのだろう。輪無しの身であるフィルは今後苦労する事も多いだろうが、それはフィルの物語であるはずだ。

 そう考えている事が表情にも出ていたのだろうか、ライゼルを見つめるビアンの表情がやや険しくなった気がする。

「無責任な真似はするなよ。結果的に、ここまで連れてきた挙句、名前を与えたのはお前達姉弟だ」

 連れてきてしまった事も誘拐略取に当たるだろうが、そもそもの身分がはっきりしないので、法に照らす事も難しい状態の少女。だが、名前を与えた事は、これは大きな意味を持っている。法律の話ではない、人の在り方の話だ。名を与えられて、初めて物事は他者から認識される。フィルという名をもらって、ようやくこの世に生まれ落ちたのだ。

 ではあるのだが、名付け親は星詠様であるし、提案したのはベニューで、願い出たのはフィル本人だ。この件に関しては、ライゼルは全く関与していない。これに限って言えば、ライゼルは反駁する事が出来る。

「それはベニューの所為だろ」

「だろうな。だから、ベニューはフィルを放っておかなかった。お前と違ってな」

 ビアンが責めているのは、先程の事だ。フィルはライゼルの罵声に耐えかねて、この場から逃げ出した。ベニューがそれを追い、ライゼルはこの場にビアンと共に留まった。だから、ずっとこの問答が続けられている。『あのライゼル』が、未だに行動を起こしていないという事が、しつこいと感じられる程にビアンの追及の手を緩めさせないのだ。

「なんだよ、ビアンは俺にどうさせたいんだよ?」

 ライゼルのその問いに、ビアンは突然畏まった態度で応答する。

「『私』がライゼルに望むのは、王都にて異国民関連の事件について陳情する事だ」

 これは、公的立場に於いてのビアンの意見。ビアンの本心とはかけ離れている。本来であれば、『友』として掛けたい言葉は山ほどある。だが、それをビアンの口から言ってしまっては、ライゼルの為にならないとも思うのだ。ライゼルが自分の弱さに気付いたのなら、後はそれをどう受け止めるか。そしてその先でどんな道を選択するか。ライゼル自身が動かねばならないのだ。その為になら、ビアンはいくらだって言葉を尽くしてやれる。

「それは約束したからやるよ。だから、それをやればビアンは文句ないはずだろ」

 いつになく後ろ向きなライゼルだが、ビアンは彼を見限ったりはしない。ソトネ林道で、ライゼルがビアンを見捨てなかったように。自棄になっていた自分を一喝してくれた友の傍を離れない。

「グロッタの宿場町でだったか、お前は言ったじゃないか。『どうしたらいいか分からない時、俺はやりたい事をやる』ってな」

 それはあの町でフウガとグレトナを救った事で、悩みを断ち切ったライゼルから聞いていた言葉であった。大通りで、異国民テペキオンと戦闘している折。それまで行動の指針について悩んでいたライゼルだったが、目の前にいる困っている人達を見て思いを新たにし、やはり自分は問題を解消する為に行動したいと言ったのだ。

「言った。それがどう関係するんだよ?」

 確かにそう口にしたが、今の状況とどう結びつくのかライゼルには及びが付かない。

 そんなライゼルに、ビアンは呆れもせず、真剣な面持ちでこう続ける。

「分からないなら、何度でも問うぞ。お前はどうしたい、ライゼル?」

「―――俺は…」

 ビアンの投げかけた問いにライゼルが答えあぐねていると、そこへ息を切らして走ってくる一人の少女の姿があった。肩に鮮やかな六花染めを巻いた緑髪の少女、先程喧嘩別れしたフィルであった。

「ライゼルー!」

 見るからに大慌てで戻ってくるフィル。そこにベニューの姿はないが、ライゼルは一瞥向けただけで、フィルに対しぶっきらぼうな調子で、第一声をこう放つ。

「なんだ、謝る気になったか?」

 肯定的な回答が返ってくると半ば勝手に思っていたライゼルだったが、フィルは予想外の事を告げる。

「ライゼル、大変になった!」

「何が?」

 突然そう告げる言葉足らずなフィルに、ライゼルも端的に問い返すしかない。今の『ライゼル』は呼びかけに過ぎずやはり言葉足らずなのか。あるいは、その主語がライゼルだったのか。

 何からどう伝えていいか分からないフィルは、端的に今の状況を説明しようと試みる。

「真っ赤なのが悪い」

「は?」

 ライゼルは思わずそう漏らすしかない。今の伝え聞いた事だけだと、真っ赤なものが悪くなって大変になったらしい。そこから推測できる事も多くないが、ライゼル自身に思い当たる事はなく、どうやら先程の『ライゼル』は只の呼び掛けだったらしい。

 ライゼルの呆気に取られた様子を心配してか、フィルは更に言葉を尽くす。

「広場にあったあれが、だめに、ベニューみたい…多分、まずい!」

 そこまで聞いて、ライゼルはフィルが広場の蕃茄について言及しているのだと察する事が出来た。

「お前、まさかつまみ食いしたのか!?」

 ライゼルの詰め寄るような問い掛けに、フィルは首を大きく左右に振って否定する。

「フィルしてない。だって、あれ多分おいしくない」

 あの大量の蕃茄には、不才と称する異国民が穢れを注入したと言っていた。実際に食してはいないが、それが美味しく頂けるものではない事はフィルの想像の範疇である。美味しいままであれば、とんだ麻薬に違いない。植物などの毒とは、自らを守る為に生まれ持っているのであって、他者を自発的に害する為に備わっているものではないのだ。

 だが、ライゼルはフィルの伝えたい要点ではなく、他の場所に気が逸れてしまう。

「食べてないってんなら、どうして味の事が分かるんだよ」

 今日のフィルを見ていると、ライゼルにはどうしてもフィルが真実を語っているようには見えない。ただ、自分の責を逃れようと、言い訳をしているようにしか見えないのだ。

 フィルもベニューや蕃茄の状況を知って欲しい一心で、ひたすらに思い付くまま言葉を紡ぐ。 

「『ふさい』が言ってた、『けがれ』入ってるって。『ふさい』が入れたって」

「夫妻? ドーロのおじさんとポモのおばさんの事を言ってんのか?」

「違う、フィル初めて見た。でも、ライゼルを知ってた」

「俺を?」

 あの異国民は、明確な敵意をライゼルに対し向けていた。敵意なんてものをフィルは知りはしないが、それでもライゼルに良くない事が怒ろうとしている事だけは理解できた。そうなっては欲しくないから、拙いながらも説明を止めない。

「ライゼルに嫌な事するって。だから、ベニューでなえどこ…」

 そこまでフィルが、自身が見聞きした事を説明した訳だが、要領を得ないライゼルは焦れて、会話の主導権をフィルから奪ってしまう。

「おい、さっきから訳の分からない話を続けてるんじゃないぞ。なんにせよ、さっきの事は謝る気はないんだな?」

「え?」

「そんで、つまみ食いした事も認めない訳だ?」

 どうやら誤解されている事が分かったフィルは、必死に弁解しようとする。

「ちがっ、ベニューあぶな…」

 だが、散々振り回されたライゼルはそれ以上何か発する事を許さず。

「もう、うんざりだ。もうお前に付き纏わられると迷惑なんだよ」

「ライゼル…」

 説明を続けようとするフィルの話を中断させたライゼルを、横合いからビアンが制止する。

「ライゼル、フィルは何か伝えようとしているじゃないか?」

 そう促されても、今のライゼルは聞く耳を持たない。

「何を? 自分がやった事を認めたくないから、他の事で誤魔化しているんだろ?」

 頑なにフィルを許そうとしないライゼルだったが、その推論も、ビアンの気付きによって意味合いが僅かにだが変化する。

「端的に言うぞ? ベニューがここにいないのは何故だ?」

 フィルを追い掛けていったベニューは、フィルが戻ってからも姿を見せていない。それは何を意味するのか。

「こいつがまた勝手に仕出かした事の尻拭いをやってるんじゃないの?」

 こう意固地になってしまっては、ライゼルとフィルを和解させるには時間が掛かりそうだ。それよりも、ベニューの所在を確認せねばと、ビアンは考える。フィオーレを発って一度ベニューだけが別行動を取った時の事が、ビアンの脳裏を掠めたのだ。これまでの異国民からすれば、ベニューは憎きライゼルに繋がる手掛かりだ。ライゼル程じゃないにしても、その存在は無視しがたいものだ。もし、遭遇していたとなれば、それはベニューの身に危険が迫っている事を意味している。

「何があったにせよ、ベニューが心配だ。探しに行くぞ」

「おう」

 ビアンの提案に首肯を以って応じるライゼル。だったが。

「だめ! ライゼルは優しいをして。みんながたいへん」

 あらん限りの力でライゼルの腕を抱きしめ、この場から行かせまいとするフィル。

「また邪魔を…フィル、もう許さねぇからな!」

 自分の腕にしがみ付くフィルを引き剥がそうとするが、なかなか振り払う事が出来ない。力の差は明らかだが、その差を埋めんばかりの気迫がフィルからは感じられる。絶対に為し遂げんとする強烈な意志がそこにはあるのだ。

「ライゼルが優しいじゃなきゃ、みんなが、みんなが」

 是が非でもライゼルを放そうとしないフィル。何が彼女にここまでさせるか分からないが、それでも何か必死に伝えようとしている事だけは見て取れる。

「全く要領が掴めんが。そこでお守をしていろ、ライゼル。俺はベニューを探してくる」

 このままでは埒が明かないと判断したビアンは、ライゼルへフィルと共にこの場へ留まるよう言い含め、ベニューの行方を捜しに向かった。

 飽くまで抗するフィルにほとほと愛想が尽きたライゼルは、自らの意思を少女に伝える。

「くそ…この際だから言ってやる。俺はお前みたいな、人に迷惑を掛けても知らん顔している奴が大嫌いだ。テペキオンやクーチカみたいな、そんな自分勝手な奴が許せない。そんな奴らの為にみんなの笑顔が奪われるってんなら、俺は【牙】を使ってみんなを守る」

 少し乱暴な言葉遣いもあるが、笑顔を守るという事に偽りはない。ベニューがフィルに聞かせた通りの内容を、ライゼル自身がそう宣言してみせたのだ。

 それを見て、フィルは満足げに頷き、両腕に力を込めながらも、不器用な作り笑いを浮かべてみせる。

「うん、ライゼルがライゼルしたら、みんな笑顔。フィルも笑顔」

「…会話にならねえじゃねえか」

 ライゼルがフィルの必死の妨害によって動けない状況を強いられていると、ラトマティ村名物である蕃茄投げが、いよいよ開催されようとしている。

 改めて見てもその蕃茄の量には、驚かされる。これでも収穫の一部でしかないのだが、国内の一般的な集落の一年分の消費量に当たるのだから、相当な量である事には違いない。積み上げた蕃茄を解放する為の装置が披露され、その介抱された蕃茄を一日にして消費し切る名物的な催しが、もう間もなく執り行われる訳なのだ。

 祭の役員だろうか、二人の男性が絡繰り仕掛けの傍に侍り、その装置がいよいよ披露されようとしている。

「結局、間に合わなかったか」

 目新しい催しに自らも参ずるつもりでいたライゼルだったが、ベニューやビアンはどこかへ行ってしまい、挙句自分は訳も分からずフィルに拘束されていて、とても参加できる状況ではない。

「だめ、間に合わないだと笑顔なくなる」

 自らライゼルの動きを制限しているフィルが、不可解な事を宣うのだから、ライゼルとしてはいよいよ閉口したくなる。

「お前が楽しみたいだけだろ」

 もはやこれ以上何かを言い返す気も失せてしまったライゼルは、少し離れた広場に見える蕃茄の山を見つめる。

 すると、村長の合図を以て、舞台に設置された機械仕掛けが作動する。壁の役割をしていた大きな柵の一辺が、ゆっくりと地面と平行になるように傾けられていくのだ。それに伴い、舞台に積まれていた大量の蕃茄は、柵という支えを失い、一気に崩れて広場中へ転がり広がっていく。それなりの高さから転がり落ちていく蕃茄は、まるで堰き止められていた川のようで、その真っ赤な運河は、ラトマティの広場を一気に赤一色に染め上げた。それと共に開催を待ち侘びていた村内外の参加者が雄叫びのような歓声を上げる。今まさに、祭りは最高潮を迎えようとしている。

 その様子に興奮したのだろうか、ライゼルを掴んでいたフィルが、今度はそちらへ行くよう促してきたのだ。

「ライゼル、早く行く」

 そうは言われても、自分だけフィルと参加する訳にもいくまい。ビアンの言い付けもあったし、何よりフィルと二人でなんて、とても楽しめる気がしない。厚かましいフィルの態度に、もう頭が痛いライゼル。

「ビアンがここに居ろって言ってただろ」

 まともに取り合おうとしなライゼルの姿を見て、フィルはライゼルを心配する。

「ライゼル、疲れてる? 優しいできない?」

 おそらくライゼルを気に掛けての行為なのだろう、ライゼルの頭を振ってみたり、お腹の辺りを擦ってみたり、背中を叩いたりするフィル。

 もうフィルの行いを咎める気にもなれないライゼルは、解放された途端に、しゃがんで足を投げ出し地面に座り込んだ。

「おう、もういい加減疲れたよ。こんなんで優しくなんか出来るかよ」

 そう吐き捨てたライゼルは、フィルから見ても憔悴しきっているように見える。ベニューは「自分に怒っている」と慰めてくれたが、それでもライゼルが「優しく」できていないのは、フィル自身に原因があるように少女も十分理解している。自分の一挙手一投足が彼を苛つかせている。不器用で無知な自分が、ライゼルを「やさしい」ではなくさせてしまっているとフィルも痛感している。

 そう自覚したフィルは、不意にライゼルを叩いてみたりする手を止め、蕃茄の川を見据える。

「わかった、じゃあ、フィルがやる!」

 そう言った途端、六花染めを首に巻いた少女は、露店が並ぶ通りを突っ切り、広場目掛けて駆けて行く。人の波を掻き分けて、フィルはその蕃茄の川の川岸へやってきたのだ。

「なんなんだ、アイツ…」

 支離滅裂な言動が続くフィルに付いていけないが、それでも今の様子は先程までの無邪気にはしゃぐフィルとは何か違っていたように感じる。

 思えばフィルは頻りに、優しくしろ、とライゼルに言っていただろうか。まるで、自分がそうではないとでも言われているようだったと、ライゼルは離れた所からフィルを眺めながら、そう感じていた。

「俺だって…お前じゃなきゃ優しくしようと思えるんだよ…」

 ビアンが再三言おうとしていた事。おそらく、逃げるな、と言う事なのだろうと。察しの悪いライゼルだって、それくらいの事は、重ねて言われずとも分かっている。自分の弱い部分から目を逸らさず、ちゃんと向き合えと、そう言っているのだ。二度しか顔を合わせていないドーロにも看破されるくらいだ。今の自分は余程、自分らしくないのだろう。そう思うと、ライゼルは余計に気が滅入ってくる。

 だが、どうにも出来ないという諦念が頭から消えてくれないのだ。ライゼルが自覚している通り、フィルの姿を通して見えてくるのは、何者にもなれない自分の弱さ。どうしようもない、過去から与えられ続ける負の遺産。フィルが傍に居ては、ライゼルは過去の記憶に苛まれ続けてしまうのだ。

(あいつがいると、俺は昔の事を思い出してしまう。ベニューに迷惑を掛けてばかりの、情けない俺が見えてくるんだ)

 フィルに何の罪もないのは分かっている。フィルの様子は無邪気そのものだ。ライゼルに対してはむしろ好意的ですらある。理由こそ定かではないが、ライゼルへの関心が高い。その事は、ライゼルにとっても満更ではない。

 だが、その無邪気さが却って、ライゼルの柔らかい部分を見透かしているようで、恐れさえ抱かせてしまっているのだ。【牙】を扱えるようになって、強くなったとばかり思っていた自分だったが、本当はそうでない。昔の、母を亡くした頃と変わらない、守られる側でしかない自分。フィルを傍で見ていれば見ている程、その想いは強くなってくる。どうしようもない程に、フィルは昔の自分自身にそっくりなのだ。

 誰かの為にと動いても、何かに興味を示しても。その想いは空回りし、相手に迷惑を掛けるだけ。染物に興味を持ち、引き裂いてしまったフィルは、母の言い付けを守らず外遊びをして、自分のみならずベニューまで叱られる結果にしてしまった自分だ。喉を潤さんと思っても焼酎を飲ませてしまったフィルや、焼き物を抱え、落としてしまったフィルは、姉の仕事を手伝おうとして結果的に後片付けを増やしただけの自分だ。何者にもなれないどころか、姉に、ベニューに迷惑を掛け続けるだけのちっぽけな存在の自分。

(でも、今はそうじゃないだろ。ビアンだって頼りにしてるって言ってくれた。あいつとは違う!)

 このまま、フィルが一行から離れていったなら、ライゼルは自身が望むように強い自分になっていけるはずなのだ。フィオーレでテペキオンに立ち向かっていった時のような。オライザで不利な条件を飲んででも熟練の牙使いに挑んでいったような。大抵の牙使いでは到底適わない、ミールでの消火活動に当たった時のような。グロッタで、アバンドで、リエースで…これまでのように夢を叶えるべく邁進していけるはずだ。

(本当に?)

 ふと疑問が脳裏を過った。これまでに経験のない自問自答。行動の指針に悩む事はあっても、一度決めた事に疑問を持つ事は、もしかしたらライゼルにとって初めての経験かもしれなかった。

(まだ『決めて』なかったのか?)

 何がその疑問を思い起こさせたのだろう? ぼんやりとだが、その理由にライゼルは思い至る。見つめる視線の先に、その答えが、自分がいたのだ。

 その自分は、広場中に広がる蕃茄を川に足を突っ込み、手当たり次第に踏み潰して行っているのだ。小さい足で、時には小さい手で、次々にその熟れた蕃茄を潰していく。少女による圧力を受けた蕃茄は、その柔らかな皮膜を破かれ、中から飛沫を噴出させる。フィルが狂ったように真っ赤な川で踊ってみせる度に、少女が羽織った無地の外套は赤く染め上げられていく。

「おいおい、お嬢ちゃん。まだ蕃茄に触っちゃいけねえぜ」

「そうよ。開始の合図が鳴らされて、それから互いに投げ合うのよ?」

「流れも知らない余所者か。なぁ、アードゥル。このままじゃあ始められない。摘まみ出してくれ」

 待機していた参加者の中から、しきたりを無視するフィルを排除するよう要望が上がり、その場に居合わせたドーロがフィルに近付く。辺りを見回しながら、ビアンの姿が見えない事を訝しがっている。

「オライザの役人達はいないのか?」

 ドーロがひょいとフィルを抱きかかえると、持ち上げられたフィルは手足をばたつかせ、必死に抵抗する。腕を叩き、腹を蹴り、ドーロからのげれようとしてみせる。

「だめ、だめ。止めるはだめ!」

 フィルの奇怪な行動に、ライゼル以上に何も事情を知らないドーロは困惑するばかりだ。

「どうしたんだ?」

 フィルは自分だけが知る事情を、顔見知りのドーロに訴える。

「ライゼル疲れてる。フィルが優しい、する!」

 ドーロの腕を振り解けないフィルは、またあの言葉を口にしたのだ。

(さっきから連呼してる『優しい』って何だ?)

 フィルが足掻いてみせた所で、大の男であるドーロは僅かに手こずった程度で、フィルを抱えたまま会場から遠ざける。

「フィルが優しくするー! フィルがやるー!」

 昔の自分を彷彿とさせるあの少女は、何についてああも激しく主張しているのだろう。ライゼルにはそれが分からない。それは彼女が、一行や周囲からの心証を損ねてまでも拘らなければならないものなのだろうか?

「何をしようってんだ?」

 それでも。周囲にも、ライゼルにすらも理解してもらえないフィルは、それでも自らの心に湧きあがった思いを口にし続けるのだ。肺に溜まっているありったけの空気を、その感情と共に爆発させる。

「フィルも、なりたい…ッ! ライゼルみたい、優しくなりたいぃぃーーー!」

『本当に?』

 少女の心からの叫びを目の当たりにしたライゼルの耳に、そう尋ねる誰かの声が再び聞こえた。聞こえたような気がした。

(俺は…何をする?)

 その疑問が、ライゼルの思考を支配する。他の事は考えられず、その文字列だけが頭の中をぐるぐる渦巻いている。焦点は合わず、視界にはぼんやりとした景色が見える。ドーロに連行されていくフィル。その足元には潰された蕃茄。そして、その中から漏れ出でる赤黒い霊気の残滓ような物。今の状況を示唆するものが、いくつも情報として視覚に訴えてくる。

 と、何か直感めいたものが鋭く駆け巡ったが、それでも脳内で反芻されるあの疑問。

(俺はどうしたい? 俺は何を、どうすればいい?)

 容(かたち)を保てなくなった蕃茄から、どこかで見た記憶のある物が確認できた。本能的に、それが『良くない』物だという事を、ライゼルは即座に察する事が出来た。連鎖的に、その赤黒い霊気はテペキオン戦やクーチカ戦で発生していた事も思い出す。次々に状況とフィルの訴えとがライゼルの脳内で符合していく。奇怪と思われたフィルの言動も、なんとなく腑に落ちていく。

 それでも。物事に理屈が付けられて整理されていくけれども。それでも、ライゼルの頭の中には、さっきからおんなじ疑問がぐるぐるしているばかりだ。

(俺は、俺は…ッ!)

 少年は突如として走り出す。同時に右手にはムスヒアニマを収束させる。青白い光の奔流が、少年の右腕に纏わりつき、そして、彼の星脈を循環した霊気は、【牙】としての形を得て実体化する。

「どいてろおおおぉぉぉおおお!」

 目の前の人波を掻き分けるでなく、ひとっ飛びで越えたライゼルは、蕃茄の絨毯への着地と同時に、得意技『蒲公英』の発動姿勢に入る。

 見知らぬ少女のみならず、またしても突然男の子が乱入してくる騒ぎに、他の参加者は息つく暇もなく驚かされる。

「なんだ、この男の子は?」

「蕃茄投げに【牙】なんて持ち出しやがったのか?」

「おい、アードゥル。あのガキを何とかしろよ」

 乞われたドーロは、フィルを抱きかかえながら呆気に取られるしかない。自分の見知った者ばかりが、こうも立て続けに祭を邪魔にしに掛かるのだ。フィルはともかく、ライゼルがそんなバカげた行いをする者ではないと知っているだけに、ドーロは動揺が隠せない。

「フィオーレの少年、何をやっているんだ…?」

 呆然とするドーロの疑問を余所に、ライゼルは『蒲公英』で、広場中に散らばっている蕃茄を吹き飛ばす。自身を軸にして、独楽のように回転しながら【牙】を振り回し、転げ落ちている蕃茄の川を薙ぎ払っていく。

「狂ってやがる。これじゃ台無しだぜ」

「ん? …おい、あの男の子の足元は何だ?」

 一方で、その異様な光景を眺めていた参加者達は、ライゼル以外の異様な『モノ』を発見する。ライゼル自体は、その行動に理解を示せないだけであるが、『それ』に関しては、何故それがこの地に存在しているのか理由に及びが付かない。

「腐って…? いや、あの蕃茄、『穢れ』てるのか?!」

 誰かの気付きが呼び水となって、そこに居合わせた皆の視線はライゼルから一斉に『そちら』に移っていく。

「じいさん、あれって…」

「間違いない、ずっと昔に見た事がある…あれは穢れた土地に生った作物と同じじゃて」

 戦後。荒れ果てた土地故に作物が実らなかった時代。穢れによって汚染された作物は、その形を保つ事なく『乖離』していったと各地で言い伝えられている。そして、数十年の時を経て、同じ現象がこのラトマティ村で再現されてしまったのだから、周囲の人間はおぞましさを憶えずにはいられなかった。ライゼルやフィルが祭に水を差したのとは違う次元で、嫌悪感を露にする参加者達。

 だが、何やら穢れたらしい蕃茄の周りには、先のそれのみならず、土地の人間でさえ初めて目撃する現象がある。

「あの赤黒い光は…?」

 男が指摘したのは、蕃茄とは違う赤の色。暗い色を帯びた赤い光。

「穢れは見えないのが道理。あれは、穢れとは異なる何かだ。未知なる、何か…」

 村人が言うように、穢れとは不可視の物質。今、目に見えているそれは、蕃茄に害を為した穢れとは異なる事だけは分かる。

 それらの事実を知りこそしないライゼルだが、その赤黒い霊気には覚えがある。人を不幸にしようとする連中が纏わせていた、ムスヒアニマと対を為す霊気。この国の人間に害を為すと認識されているもの。

「誰も触るんじゃないぞ。俺がこの悪い霊気を消してやるから」

 ライゼルが【牙】を振るう度に、蕃茄に纏わり付いていた赤黒い霊気は消滅していく。テペキオン戦では、霊気同士が相殺していたが、今の赤黒い霊気が残滓のようなものなのだからだろう、ライゼルの星脈を通したムスヒアニマによって、ことごとく滅却されていく。

 目の前に蔓延している赤黒い霊気を斬り払う事に夢中になっているライゼルを、フィルは少し離れた場所から見つめている。その有らん限りの力で剣を振るい続けるその人の姿から、目が離せなくなってしまっている事には気付けず、ただただ魅入っている緑髪の少女。

「あれが、『優しい』の時のライゼル…」

 目の前で一心不乱に剣を振るうライゼルの姿に、フィルはベニューの言葉を思い出していた。

『そう。困っている人を見つけたら、すぐに駆け付ける。困り事が分かったら、それをどうにかしようと頑張って』

「うん。ライゼル、ほんとうに来た。フィル困ったからライゼルきた」

 ベニューが話していた事は、決して嘘ではなかった。姉が、弟にそうあってほしいと願うと同時に、絶対にそうなのだという信頼を寄せた事。困っている人を見捨てない、例えそれが喧嘩の最中の相手だったとしても、だ。

 フィルは困っていた。ライゼルを怒らせてしまうし、異国民がベニューに悪さをするし、それはライゼルにも及ぶらしいし。かと言って、それを上手く伝えられないし、自分で頑張ってもやり遂げられないし。

 だが、そんな時にライゼルが来た。フィルがどうしようもないくらいに困っていたから、ライゼルはひとりで頑張っているフィルを独りぼっちにしないように、「優しい」を行っているのだ。フィルに対し本当に辟易していただろう、気疲れさせてしまっていただろう、だけれど、それなのに、ライゼルは。

「フィルを助けてくれた」

 いや、もはやライゼルの頭から、仲違した事は取り除かれていたかもしれない。状況が伝えるのだ、危険が迫っていると。おそらく、異国民による何らかの目的を持った活動。そして、それは誰かを傷付ける行為なのだと断じる事が出来る。

(何やってんだ、俺…忘れていいようなもんじゃないだろ!)

 過去から追い立てる負の記憶に苛まれていたとはいえ、至上命題である『笑顔を守る』という夢を、ほんの僅かな時間であったが失念してしまった。母や姉に誇れるような、彼女達から誇ってもらえるような人間になるのだと、その為にも夢を叶えて認めてもらうのだと、そう誓ったではないか。

 それなのに、自分は小さな事に拘って、ちっぽけな自分を守ろうとして、他の事が全く見えていなかった。

(フィルは、俺の代わりに笑顔を守ろうとしてた)

 危険が迫っていると判断したが、実際の所は何が起きているのか把握できていない。何やら見覚えのある赤黒い霊気を確認できたのが精々だ。

 だが、思えばフィルは、戻ってからずっと同じ事を繰り返していた。『ライゼルが優しいじゃないと、笑顔がだめになる』、このままではみんなの笑顔が失われてしまう、と。

(しっかりしろって言ってたんだよな)

 自分の心の弱い部分だと思い込んでいた存在は、本当は自らを奮い立たせてくれる夢への原動力だった。その事に今更ながら気付かされたライゼルは、ややぶっきらぼうを装って言い放つ。

「お前に言われてちゃしょうがないよな、フィル」

 やや不愛想な物言いではあるが、フィルから見れば、それは間違いなくベニューが言っていた『優しい』を体現するライゼルなのだ。

『もし、どうにもならなかったとしても、困っている人を独りぼっちにはしない。その人が笑顔になるまで傍に居てあげる。それがライゼルなんだよ』

 フィルが与り知らぬ事ではあるが、ミールにてライゼルは、こんな事を言っていた。『怪我が治った事よりも、俺もみんなも、イミックに優しくされた事が嬉しかったんだよ』と。であるなら、その言葉もまた真だったのだろう、本人も気付かぬ内に、緑の髪の少女は笑みを溢していた。

「おう、ライゼル元気! 優しいがライゼル!」

 一通りの赤黒い霊気を切り捨てたライゼル。肩で息を整えながら、周囲を見渡している。他に見逃した霊気はないか、それを仕掛けた異国民がどこかに潜んでいないか。ライゼルは周囲に気を配っている。

 そこへ、フィルどころではないと、彼女を解放して駆け付けるアードゥル隊員のドーロ。

「これはどういう事だ、フィオーレの少年?」

 問われたところで、ライゼルにも説明は難しく、

「俺にも分からない。でも、異国民がまたちょっかいを出してきたって感じだと思う」

 と答えるに留まる。赤黒い霊気の事も、自分ではどう話していいか分からない。ビアンなら多少上手く伝えられるだろうが、今はこの場にいない。

「異国民…アバンドで報告のあった二人か?」

 ドーロが疑ったのは直近の報告があったルクとリカートの二人だが、まだ異国民の姿自体は確認できていない。飽くまでライゼルの経験則から、そうではないかと睨んでいるだけに過ぎない。

 だが、先程ライゼルが確かに目撃した、為されようとしている悪意の結果。あれが、如何なるものなのか、どのような事態を齎すものなのかは、ライゼルには分かっていない。だが、それでもあれが人の笑顔に繋がらない事だけは断言できる。事実、村の人達は怯えていた。形を保てず崩れていく蕃茄。本当はもっと皆が笑顔になるはずだった。蕃茄の果汁に塗れながら、豊作を祝う事が出来たはずなのだ。 

「それも分からないけど、誰であろうと絶対に許さない」

 そのライゼルの意気込みに対し、異を唱える者が現れる。

「それはこちらの台詞ですよ、ライゼル・フィオーレ!」

 広場に集まっていた皆がその声の方へ向き直すと、そこには背に【翼】を展開し、宙を滑空しライゼル目掛けて接近する者がいたのだ。

「おわっと。あぶねえな」

 宙を舞い、背後からライゼルへ五指による引っ掻きを見舞おうとした何者か。その手は、ライゼルが風読みの能力によって知覚した後に回避した事により、空振りに終わった。ライゼルの右の頬を触れるか触れないかの所を通過していったに留まった。

(なんだ今の…?)

 その爪はライゼルの皮膚に届く事はなかったが、通過した際の風圧の影響か、一瞬視界が揺らいだ気がしたのだ。見ていた景色が大きくずれる感じ。

 咄嗟にその奇襲を避けてみせたライゼルが、その何者かの方へ視線を送ると、どこからか声が上がった。

「おい、あの男。『浮』かんでいるぞ」

 誰かが示したその場所は、先程まで零れんばかりに蕃茄を蓄えていた柵付きの舞台の上の宙空であった。周りの屋台の屋根よりも、舞台の柵よりも高い位置に浮遊するその男。ここまで来ると、ライゼルは自身の予想を疑わない。その男の背にある一対の【翼】が何よりの証拠だ。彼を異国民と示す、絶対の印。

「お前、テペキオン達の仲間だな」

 背の【翼】からすると、その推測はおそらく間違っていないだろう。ついさっき飛翔してきた事、現在浮遊している事からもそう断定できる。

 それにしても、先の背後からの一閃。ライゼルの体感として、疾風と自称するテペキオン程の速さはなかった気もする。何故なら、以前戦ったテペキオンの高速移動はほとんど目で追う事は出来なかったが、今の不意打ちにはなんとか反応する事が出来たから。テペキオンも伊達に『疾風』の名を冠していないという訳だ。

 これまで【翼】を展開した状態で接近戦を仕掛けてきたのはテペキオンくらいのものだが、ライゼルにはその経験則が確かにある。先の攻撃が出し惜しみしていない全力であったなら、五分五分くらいには太刀打ちできるはずだ。

 ライゼルは剣を構え直し、相手をじっと見据え、問い掛ける。

「どうして蕃茄投げを台無しにしようとするんだ?」

 先程の蕃茄の様子から察するに、異国民は何かの意図を以て蕃茄に赤黒い霊気で干渉していた。テペキオンが口にする『狩り』のような目的が、その男にもあるのだろうと推測できる。

「それを貴方が言いますか、ライゼル・フィオーレ。ミールだけでなく、ここでもまた不才の企てを…」

 男が漏らす不満の中に、勤務地の名前があったのをドーロは聞き逃さなかった。

「まさか! ミール大火の下手人はお前か?」

 あの時の放火犯が【翼】を有する異国民であるなら、犯行後の足取りを一切掴ませなかった事も納得できる。ミールの南門を抜けずとも、空から外壁を越えていけばいいのだから。

 目の前の男が、あの大火の容疑者の可能性が高いとなると、ライゼルは更に怒りが込み上がってくる。

「なに? お前、こんな迷惑な事ばっかり繰り返してるのか。よっぽど悪い奴だな」

 もし先の憶測が真実なのだとしたら、その男は、今日のフィルが霞む程に迷惑な存在に違いない。

「全ては必要な事なのです。それなのに…貴方が、毎度毎度邪魔をする!」

 空中に浮いている男が前方に手を振りかざすと、真っ赤な蕃茄の川から、夥しい量の『何か』が男の手へと収束されていく。形として見える訳ではない、何か色を帯びている訳でもないが、確かにそこに『何か』が収束していっている事だけは理解できる。異国民が操る赤黒い霊気とも違う別種の『何か』。全身に巡らされた星脈が疼くのだ、あれには近づくなと。

 男はその何かしらを集める内に、徐々に地面へゆっくりと降りていき、集めきったらしいその時には舞台の上に降り立っていた。そして、ライゼルへ鋭い眼を向ける。

「不才が集めたこの膨大な量の『穢れ』を以て、貴方を壊し尽くしてあげますよ、ライゼル・フィオーレ!」

「お前なんかにやられるかよ、この根暗野郎」

 お互いに啖呵を切り合って対峙する二人。先んじたのは、ライゼルであった。啖呵を切った瞬間に、目の前の異国民目掛けて走り出すライゼル。舞台までやって来ると、その組んでいる足場に足を掛け、その勢いのまま跳び上がり。そして、宙空にて振りかぶった剣を縦一閃、舞台上で不敵な笑みを浮かべた不動の異国民に向かって振り下ろす。その瞬く間に外套の男の頭上から一気に木組みの舞台を叩き割った剣。

 だったが、確かに目で追っていたはずなのに、ライゼルが振るった剣の刃は異国民を切り捨ててはいなかった。ただ、足元の舞台を破壊したに過ぎない。

「あれ? なんで?」

 義憤に駆られたライゼルが事を急いた為に、目測を誤ってしまったのだろうか? 振り下ろした剣のすぐ傍にいる男からの反撃もない為に、改めて距離を取るライゼル。

「どうしました、ライゼル・フィオーレ? ご自慢の【牙】は不才に当たらなかったようですが?」

「それがお前の【翼】の能力か」

 ライゼルも経験則から、先程の攻撃の不発は、相手の【翼】による特殊能力によって引き起こされた事象だと判断する。テペキオンが風を操るように、クーチカが麻痺毒を塗布するように、リカートが万物を石化させるように、その男も何らかの手段を以てライゼルの攻撃を退けたに違いない。

 攻撃を退けられたライゼルに、傍らで見ていたフィルが助言を送る。

「ライゼル、届いてない。違うとこをしてる」

「違うとこ? どういう事だ?」

 フィルが何やら伝えようとしていたが、ライゼルには図りかねる。そして、考える隙を与えず男が仕掛けてくる。

「そちらが来ないのであれば、不才から行きますよ!」

 そう宣言し、軽やかな駆け足で距離を詰める異国民の男。外套の頭巾から覗かせる不敵な笑みは、余裕すら感じさせる。剣を構えるライゼルに対し、得物を持たない丸腰の男は、躊躇いなく接近する。

「その距離は得意な間合いだぞ―――」

 【牙】を向くライゼルに対し無防備とも言える状態で近付く異国民の男。ライゼルは必殺の間合いに入った事をその目で確認すると、丁寧な動作を心掛け、その得意技の名を叫ぶ。

「―――『花吹雪』ッ!」

 リエースにてグルットと散々練習した『花吹雪』。母や姉のそれに比べると、技の精度は及ばないだろうが、それでも相手の動きを見るようグルットから指摘を受け、今まさにこれでもかという程に目を開き、異国民の接近に注視した。ライゼルが独り言ちたように、この間合いは元近衛兵であるグルットですら回避困難な射程距離。

「少女の助言通りですよ、ライゼル・フィオーレ」

 男が口の端をゆっくり持ち上げたかと思うと、ライゼルが放った『花吹雪』は、誰もいない虚空に向けて放たれ、その大気を振るわせた。ただそれだけの結果に終わった。これ以上ないくらいに注視した相手を、技の発動後には見失ってしまっていたようだ。何故そうなってるのかライゼルには分からないが、結果からそうなっていると理解せざるを得ない。

 男はその戸惑いの瞬間を逃さない。

「隙だらけですよ」

 異国民が言う通り、思い掛けない失敗の連続に、無防備な状態を晒してしまっていたライゼル。その隙に男は左拳でライゼルの頬を殴打する。

「いってぇ…また避けられた? いや、俺が外した? なんなんだ?」

 下手に反撃しても翻弄されるばかりと判断したライゼルは、剣を構え牽制しつつ異国民から距離を取る。

 男には、その動作すら可笑しかったようで、にやにやと嫌らしい笑みをライゼルに向ける。

「貴方は不才と戦う気がまるでないようだ。先程から風と戯れるばかり」

 ふざけているつもりは一切ないのに、相手が余裕を感じられる程度には、ライゼルは相手の脅威になり得ていないらしい。考えを巡らせても、埒が明かない。ライゼルは助言をフィルに求める。

「フィル、さっきなんて言ったんだ?」

「ライゼル、ふさい見てない。ライゼルが見てるはちょっと違う」

(目測をずらす能力か?)

 そういうものがあるか定かではないが、想像を超えた超常現象を起こすのが【翼】だ。そういう人を惑わす能力があっても不思議ではない。

「悩んでいますね、ライゼル・フィオーレ。ですが、ここから先は助言無しです」

 そう言って男はライゼルの頭部に向けて手を翳す。何らかの攻撃なのだと察知したライゼルは、右手に握った剣でその手を振り払う、厳密に言えば振り払おうとする。が、その一閃も異国民を捉える事は適わず、目の前を薙ぐような軌道で空を切る。

 何故反撃が毎度不発に終わるのか訳も分からず、またしても無防備を晒す事となってしまったライゼル。目前まで近付いた異国民の五指が、少年の頭部に這うように添えられる形で向けられる。

「次は聴覚を弄って差し上げましょう」

(ん、何か言ったか?)

 外套の異国民が何やら呟いたように見えるが、その声はライゼルの耳には届かなかった。のみならず、つい先程まで聞こえていた周囲の喧騒までもなくなり、静まり返ってしまったかのような無音がライゼルの周囲を支配する。

(静か…?)

 目に映る景色の中には、悦に入ったように喋り続ける外套の異国民の口元や、その奥に見える蕃茄投げの参加者達の心配しているようにこちらを見やる様子、何やらを身振り手振りを交えながら叫んでいる様子のフィルの姿が確認できる。

(フィルの声も聞こえないし、アードゥルの笛の音も聞こえない。つまり?)

 何やら察しがついた様子のライゼルに、外套の異国民はしたり顔でこう告げる。

「ようやくお気付きですか、ライゼル・フィオーレ。不才の【翼】で集めた穢れを以て、貴方の視覚と聴覚を制限しています。右目と両耳の不具合は如何でしょう? なぁんて…聞こえないんでしたね」

 外套の異国民が自らの優位性を饒舌に語ってみせるも、ライゼルには何を話しているのか皆目見当も付かない。分かるのは、異国民が流し込んだ『穢れ』によって、自分の耳が変調を来しているという事だけ。

(耳を悪くする能力って…戦う時に役に立つもんなのか?)

 本当は右目にも異常を来しているが、先の空振りの原因がそれとは気付いていないライゼルは、現在の状態に特に不便を覚えていない。なので、いつも通りに勇んで再攻撃を仕掛ける。

(次はちゃんと当てる!)

 外套の異国民による祭の妨害を終わらせるべく、三度その男目掛けて下段に構えていた剣で斬り上げるライゼル。先よりも鋭い剣筋が異国民に襲い掛かる。この速さなら、余程の運動神経でなければ、脚部あるいは腹部を縦一閃に斬り付けられている。

 が、実際には三度目の攻撃も空振りという結果しか生み出さない。【牙】で切り捨てているはずの異国民は、大した動作もなく易々とその太刀筋を避けてみせているのだ。

「フフフ、もっと無様に踊って、不才を楽しませてください、ライゼル・フィオーレ」

 右目の視力に異常が来しており、その分視界がずれて見えているという事に考えが至らないライゼルは、無意味な攻撃に終始してしまう。異国民の回避が優れているのではない。そもそも、狂わされた遠近感によって、ライゼルがやや手前だったり、横に逸れた場所へ剣を向けてしまっているのだ。

「傍から見れば、ライゼル・フィオーレは不才を前にしてただ舞踊に興じているようにしか見えません。誰からも理解を得られず孤独の内に『穢れ』て絶えてください、ライゼル・フィオーレ」

 外套の異国民が余裕たっぷりに微笑んで見せるのとは対照的に、周囲の人達は時間が経つ毎に不安に煽られていく。舞台の上の牙使いに対し、不明瞭な事があるのだ。

「あの牙使い、どうしてちゃんと当てないんだ?」

「もしかして、さっき言ってた穢れのせいで頭がおかしくなっちまったんじゃ…」

「でも、【牙】が出てるって事は、星脈はまともなんじゃないのかい?」

「なんにせよ、あの異国民に近付いたら、少年みたいにおかしくされちまうぜ」

 ある男の一言をきっかけに、その抱いた不安が一気に伝播し、周囲でライゼルが苦戦する様を見守っていた参加者達は一目散に逃げだしていく。村の入り口を目指すように、その人の群れは流れていく。

「みんなどこ行く?」

 フィルの動揺を余所に、参加者達は異国民に抗するライゼルと、彼を見守るフィルを除き、皆がその場を立ち去ってしまった。

 周囲の者も、異国民の脅威は伝聞でではあるが知り得ている。そして、その脅威に抗する力を自分達は持たぬ事も。その為に、この場にいる誰よりも早く蕃茄の異変に気付き、勇気をもってその元凶を退けようとするライゼルに、皆は戦局を預けるつもりでいた。

 だったが、矢面に立った牙使いの少年が、真っ先に敵の術中に嵌ってしまった。何をどうされているかライゼル本人ですら分かっていないのに、周囲の人間にそれを察せられる訳がない。外套の男は『穢れ』によって、と話していたが、それを可能とする手段があるかどうかは定かではないが、アバンドに集められた情報では、常識を超えた異能を駆る存在がベスティアに侵入しているのだという。未知である事がその恐怖心を余計に煽る。しかも、その異能を操る異国民が、この国の人間が最も恐れる『穢れ』を扱っているとなると、ベスティア臣民のとる行動は、逃走の一択しかなかった。

「フィルとかいう少女、お前も逃げなさい。ライゼルが食い止めている内に」

 ドーロもその判断を非情だと理解しているが、ビアンの話によれば、ライゼルは地方官吏の要請を受けて、作戦行動に参加している。本来は守るべき保護対象であるとはいえ、その任に就いているのであれば、犠牲を最小限に留める為にこの場を託すしかない。ドーロはそう判断して、自らも参加者の避難を優先させる。

 だが、その指示にフィルは首を大きく横に振って拒否する。

「だめ、ライゼルひとりぼっち。ライゼルも笑顔がいい」

「何を言ってるんだ?」

 フィルは、さっきのライゼルの優しさに応えようとしているのだ。異国民の企てを只一人知るフィルであったが、上手くその危険性を伝える事が出来ず、先程まで、ライゼルの定義する所の『笑顔が失われている状態』であった。その事を直接ライゼルから約束されていた訳ではなかったが、ベニューがそう話していたように、ライゼルは理解を得られず孤独になりかけていたフィルの元へすぐさま駆け付けてくれた。

「フィルもライゼルに『優しい』するー!」

 例え、他の参加者が置き去りにしたとしても、フィルだけはライゼルを見捨てたりしない。フィルがなりたいのは、ライゼルだ。ライゼルのような、独りぼっちを放っておかない、優しい人間になりたいのだ。

「よせ、そっちに行ってはお前も穢れるぞ」

「ライゼルが行くだから、フィルも行くー!」

 そう言って一心不乱にライゼルの傍へ駆け寄るフィル。その様子に気付いた外套の異国民であったが、特に制止する事もなく傍観する。フィルの身長よりも高い舞台だが、必死に登っていく緑髪の少女。そしてただ一人、フィルが戦闘の只中に飛び込んでくる事が見えていなかったライゼル。

「ライゼルーーー!」

 舞台に上がりきり駆け寄って来るフィルがそう叫んでいた事も知らぬライゼルだったが、右側から何者かに抱きつかれ、ようやく誰かが傍に迫ってきている事に気付いたのだった。

(ん? いつの間にこっちへ来ていたんだ?)

 戦闘中で視野が狭くなっているとはいえ、自分に近付いてくるフィルに気付かないというのもおかしな話だ。耳が利かない状態に慣れはないが、それが直接の原因とも考えにくい。

(もしかして、耳をやられる前に目をやられてた、のか?)

 自分がフィルの接近に気付けなかったという事は、おそらくそういう事なのだろう。視覚に異常を来している事が事実だとしたら、三度も剣撃を躱された事にも納得できる。

(じゃあ、目に頼らなければ…)

 これはライゼルも知らぬ事ではあったが、フィオーレの姉弟が有する『風読みの能力』は、他の事に意識が向けられている場合、風の流れを感知できる程の効果を発揮しない。今は、現状見えていないライゼル自身の右側には『誰もいない』と誤認しており、更に聴覚を封じられている異常な状態であった為に、無意識の内に僅かに感じていた風の流れを『気のせい』だと勘違いしてしまっていたのだ。

(―――『風読み』でなんとかできるかも!)

 ふぅーっと長く息を吐き、自らの呼吸を整えるライゼル。ゆっくりと瞳を閉じ、心を落ち着ける。

 そして、おもむろに自らの脇に捕まる緑の髪を優しく撫で付ける。

「このもさもさはフィルの頭か? ちょっと離れてろよ」

「いや! フィル、ライゼルが寂しいはいや!」

 フィルにはライゼルの中の打開策を知りようもなく、少女は孤独になりつつある彼の腕に縋りつく。自分だけでも、この人を独りぼっちにしてはいけない、と。先程自分が迷惑を掛けてしまった事への贖罪の気持ちもあったかもしれない。

 だったが、その想いも、放った言葉さえも届いていないはずのライゼルだったが、途端ににやりと笑みを溢す。

「フィル、お前のおかげであいつをぶん殴る方法を思いついたぞ」

「ほんとう?」

 それはどちらに対する問いだったのだろう。お手柄の事か、打開策が見つかった事なのか。どちらだったにせよ、ライゼルの腕を掴むフィルの手からふっと力が抜けた。

 それにより、フィルに言葉が届いていると判断したライゼル、その問いかけこそ聞こえていなかったが、先の言葉に続けてこう告げる。

「せっかくフィルが役に立ったんだ。だから、この勝負勝つぞ…!」

「ライゼル…」

「分かったなら、俺の手を叩け。それが合図だ。そしたら、ちゃんと離れてろよ」

 そっと彼の腕を放し、その腕が手のひらを向けて自分に差し出されるのを確認すると、その自分のよりも大きな手を思いっきり叩いてみせるフィル。

「おう、フィルわかった!」

「よし、そこでちゃんと見てろよ」

 誰かが自分からゆっくりと距離を取っていくのが、ライゼルには風読みの能力によって知覚できる。フィルにちゃんと伝わったらしく、少女が戦闘に巻き込まれない程度の距離まで離れた事が確認できた。

 フィルがライゼルから離れた事によって、再び二人の間には戦闘による緊張感が充満する。

「目が使い物にならない事に気が付きましたか。ですが、それではライゼル・フィオーレには何も見えていないではありませんか」

 外套の男が放つ嘲りを交えたその声さえもライゼルには届かぬが、フィオーレの牙使いが本当に視界を放棄したか、異国民は気にしている。別に目を開けようと思えば、やや不具合が生じているとはいえ、ライゼルにはいつだって瞳を開く事が出来る。ライゼルが目を閉じたからと、迂闊に近寄る程、この異国民も愚かでない。

 そして、その正否を確かめる為に、足元に転がっている蕃茄を一つ適当に拾い上げたかと思うと、途端に両眼を閉じているライゼル目掛けてそれを投げつける。

 綺麗な放物線を描きライゼルの頭部に、その蕃茄がぶつかる直前、瞳を閉じたままのライゼルがそれを斬り払った。

「見えているのですか、ライゼル・フィオーレ?」

 異国民が口にした疑問は当然ながらライゼルには聞こえておらず、ライゼルはライゼルで風読みの能力で感じ取った事を独り言のように漏らす。

「今のは蕃茄を投げたのか。そっか、これくらいの風だと蕃茄くらいの大きさか。そっかそっか…でもなぁ、俺もめちゃくちゃしたけど、これ以上無駄にすんなよなぁ。もう祭は再開できないかな?」

 ライゼルの全身をすっぽりと覆う外套を、斬った蕃茄から溢れた汁が汚したが、ライゼルは特に気にしている様子はない。この期に及んで、祭の開催を心配している辺り、ライゼルらしいというか何というか。

 そして、更に独り言じみた挑発をライゼルは続ける。

「それはさておき、その距離も投げる動きも分かるぞ。そのくらいの速さなら、もう何も当たらねえぞ。もう諦めたらどうだ? そしたら、祭も再開できるかもしれないし」

 普段の調子を取り戻しつつあるライゼルは、ようやくいつも通りの自信満々な態度で、外套の異国民に向けて軽口を叩く。

「ぬぐぅ…」

 ライゼルの曲芸じみた反射に俄かに苛立ってきた異国民は、屋台に並べられてある陶器の皿を数枚取り上げて、再びライゼルに向けて次々と投擲する。

 が、ライゼルはその悉くを打ち払う。その瞬間に陶器の破片が散らばるが、その程度の破片が降ったくらいでは、風読みを基に軽やかな足運びをするライゼルを負傷させる事は出来ない。

「当たらないって言ってんだよ。粉が頭に掛かるくらいだ」

「強がらないでください、ライゼル・フィオーレ。そうやって遠距離攻撃をいなした程度で特にならないで頂きたい」

「ん? おんなじ事ばっかりするって事は…俺への勝ち筋がないのか、お前?」

 図星であった。この外套の異国民の戦闘時における常套手段は、『穢れ』を利用して相手の五感を封じる事のみ。本来の【翼】の能力は『吸収』である為に、他者に対して攻撃的な能力ではないのだ。

「それはこちらを補足できないライゼル・フィオーレも同じこと。貴方はこのまま穢れの苗床になって朽ちていくのです。どうです、怖いでしょう? 命乞いをしてはどうですか?」

 俄かに余裕をなくした異国民は、聞こえるはずもないライゼルに、続け様に言葉を投げる。が、虚しくも返事が返ってくる通りはない。

 後続の投擲物がない事を不思議に思ったライゼルは、そっと瞳を開けて外套の異国民が何かしらを喚き散らしているのを眺めていた。攻撃の手を止め、何やら感情的な興奮した様子で叫んでいる事から察するに…

(図星だったのか。でも、逃げる様子がないって事は、俺を舐めてるな?)

 状況から鑑みるに、異国民の側は、ライゼルに攻撃の手段がないと思っているらしい。確かに、視界不良は先の戦闘でまともに機能しないのは証明済みだし、聴力が奪われている為にフィルの助言に頼る事は出来ない。それらを考慮すれば、ライゼルが外套の異国民を打倒する手段はないと思われても仕方がないかもしれない。

「おい、聞こえてるか。もう俺に勝てないって分かっただろ? なら、降参してこの気持ち悪いのをどうにかしろよ」

 その言葉が異国民の矜持をひどく傷付けた。体に不具合を生じている相手からの勝利宣言。不才と称し、謙遜する者を演じているこの異国民でも、その言葉は許しがたい。

「強がるのもいい加減になさい、ライゼル・フィオーレ!」

 異国民の感情の高ぶりを表すかのように、背中の【翼】も大きくはためき出す。何度かはためかせた後、ライゼル目掛けて地面と平行して低空飛行で接近する。そして、頭部を先行させる姿勢から、純白の衣装を翻しながら腰部を軸に一気に足を突き出す。飛翔による助力を得た跳び蹴りを、舞台上のライゼルに見舞ってやろうという魂胆なのだ。

「そこから落ちてしまいなさい、ライゼル・フィオーレ!」

 完全に目を伏せてしまっているライゼルだったが、風読みの能力は十全に機能している。屋台通りの方から舞台上に向かってくるものがあるとしっかり知覚している。その跳び蹴りがライゼルに届く寸前に、上体を後方に逸らす事でいとも容易く回避する。

「何故?」

「皿より遅いな、なんだこれ?」

 自分に向かってくるものが何かは定かではなかったが、風の流れより人間大の大きな物体であった事は分かっていた。その為、打ち払う事はせずに回避を選択したライゼル。これで、病んだ視力より風読みの能力の方が実用的だと悟る。目を瞑っていたままの方が、先程よりよっぽど戦いやすそうだ。

 ただ、それは特に新しく得た教訓という訳でもない。これまでにも、例えばベニューとの姉弟喧嘩でも目に頼らずに感覚だけで組手を行えていた。

「回避はできるってグルットのおじさんからも言われてるんだよなぁ」

 ムキになった異国民から敵意を向けられているというのに、そう呑気な独り言を溢すライゼル。リエースにて、風読みの能力を回避に使う事は出来ていると元近衛兵グルットから太鼓判を押してもらった。目下の課題は、それを攻撃に転用し、得意技の命中精度を上げる事。

 ライゼルが盲目的に練習してきたフロルの花吹雪の型。それは如何なる時にも効果的な型ではない。飽くまで原型、基本となる形だ。ライゼルはそれを崩し、敵に合わせた間合いや角度、瞬間で打ち込むようにと、グルットから指導されている。ただ、すぐに改善できるような容易なものではないとも念押しされた。そして、その対策も授けられていた。ライゼルはこの戦闘を、その試金石にしようと思い付く。

「まだまだ終わりませんよ!」

 跳び蹴りこそ見事に避けられた異国民だが、依然制空権を支配している。跳び蹴りから【翼】で反転、頭上に幾たびの蹴りの乱撃を仕掛ける。が、その全てをライゼルは身を捩ったりしながら避けてしまう。

「【翼】での動きは、挙動がでかいから避けやすいぞ」

 ライゼルとしては聞かすつもりはなかったが、結果的に挑発めいた言い方になってしまった。それが異国民の癇に障り、神経を更に逆撫でにする。

「ならば、これでどうです?」

 舞台に降りた異国民は【翼】を閉じ、ライゼルと同じ土俵に立つ。そこから、徒手空拳にてライゼルを嬲りに掛かる。

 が、ベニューとの姉弟喧嘩で培われたライゼルの格闘術には到底及ぶものではない。ライゼルは大振りで単調な殴打や足蹴りを難なくいなしていく。右手で殴り掛かられたのを左手で素早くいなし、左足で前蹴りされるのを前方に足を折り曲げ靴の裏で受け止める。腕を掴まれそうになっても、腕を捩りその捕縛を危なげなく逃れる。正常な感覚の風読みの能力があれば、ライゼルはこの程度の男に引けを取らない。

(これなら、まだベニューの方が手強いぞ…?)

 相手が接近戦あるいは肉弾戦を得意としないのだろうという事を、組手を行う内にライゼルは察する事が出来る。というより、これまで自分が指摘されていた諸々がまさしく岡目八目と言わんばかりに見えてくる。体重の乗らない雑な体の運び、拳を振り上げる大袈裟な予備動作、一定の間隔でしか行われない単調な攻撃。まさか、自分がここまでお粗末とも思わないが、もしかすると、ベニューやグルットから見れば自分もこれと大差なかったのだろうか。ライゼルは俄かに恥ずかしくなってくる。

 そうとは知らず、外套の異国民は攻撃の合間にもライゼルを詰るのを止めない。

「おやおや、防御で手一杯ですか?」

 これはライゼルに聞かすというよりも、自分の優位を演出する為の目的が大きいのだろう。なんとか平静を装ってみせる異国民。

 自分の目の前で侮蔑を込めた繰り言が続けられているとも知らず、ライゼルは先のリエースでの特訓を思い出す。その過程で編み出した技の事を。

(こいつ相手ならいくらでも受けられる。いつだって反撃できる。もう一回実戦で試してみるか) 

 待てど暮らせど、自分の反応速度を超える攻撃が仕掛けられない事に、退屈ささえ感じ始めていたライゼル。更に霊気を全身に循環させるが、それは【牙】を発現する為ではない。グルットに見せてもらったあの技を試す為だ。

(霊気を残す、って言ってたな。これくらいか?)

 そう思案しながらも異国民の攻撃を防いでいくライゼル。なかなか当てられない事に気が向いて異国民の男は気付いていないが、ライゼルの全身をほんのりと青白い霊気が包んでいる。視覚的に捉える事は出来ないが、気配として察知できる程の絶妙な加減で放出した霊気。

「そろそろ限界なのではァ!」

 男がこれまで以上に力んでみせた瞬間、ライゼルはほんの少しだけ弛緩させる。そうライゼルが意識しただけであって、本当は緊張状態だったかもしれない。だが。それでも、ほんの一瞬だけ、ライゼルは意図的に『隙』を作ってみせた。

 ライゼルの顔面を狙って右拳を突き出す男も、自らの攻撃に対するライゼルの反応が遅れている事を感じたのだろう。途端に口角を上げ、あからさまに喜んで見せる。

「私が睨んだ通りでしたねぇッ!」

(今だ!)

 これまで男の乱雑なものばかりであったが、この一撃だけは体重の乗った渾身の一撃だった。当たれば、いくら喧嘩慣れしているライゼルと言えども、平気な顔をしていられないだろう。そう、当たりさえすればの話だが。

「喰らえッ―――」

 その発声とほぼ同時に、ライゼルは異国民の視界から姿を消した。奇しくもライゼルが視覚障害によって覚えた肩透かしを、この異国民もライゼルの新技によって味わう事となってしまった。男が殴り付けるつもりでいたライゼルは目の前におらず、代わりに淡い青白い光が霧散している。その光に目を奪われながら、男は勢いを止められず、前のめりに倒れそうになる。

「なっ…」

 一歩勇み足で進んだ左足で踏ん張ろうとするが、結果的にその努力の甲斐はなく。

 背後から響く力強い掛け声、そして遅れてやって来る、男の全身を打ち振るわす大きな衝撃。

「―――花吹雪ッ!」

 いつの間にか男の背後に回っていたライゼルが放った片手の掌底により、背中を激しく突き飛ばされる。

 試すには危険の少ない良い機会だと、狙ってやった『徒花』。まだ完全に習得したとは言えないそれであったが、間合いは悪くなく、角度はやや下方にずれたか、時の見計らいはばっちりの一撃。欲を言えば、【牙】でそれをやりたかったが、それなりに重量のある剣を振り回すには、まだ練度が足りない。とはいえ、相手の虚を突いた、我ながら上手くいった『徒花』からの流れるような『花吹雪』。

 全身を浮かされる程の衝撃を受け、不意を突かれた異国民の男は、抗えるはずもなく、木組みの舞台の上を全身を擦るように滑っていく。先程まで愉悦に歪んでいた顔や、純白の衣装を、舞台の板の上に擦り付けながら。

「ぐはぁーっ」

 男の悲鳴が響く中、聞こえないそれを余所に、ライゼルは技の成功を実感していた。この今相対している男が、例えばエクウスやベナード、ルーガンのような手練れかどうかライゼルには判断が付かない。が、それでもこれから対峙しなければならない異国民達の内の一人である事には変わりはない。その一人に、新しく習得した回避の技『徒花』が上手く決まった。初めてやった時は六花染めを代用したが、今回は自分が放出したムスヒアニマで、相手を誤認させる事が出来た。この技は更に磨けば、必ず自身に有利に働く。ライゼルはその確信を得るに至る。

 そして、ライゼルが手応えを感じている一方、文字通りの手応えを感じられなかった異国民の男。

「これは一体…?」

 舞台の上に俯せに這いつくばる男は、理解が追い付かない。顔面が変形する程の勢いで殴り付けてやるつもりでいたというのに、結果は自分が倒れ伏しているというこの屈辱的な事実。完全な無防備を晒した背後から、高威力の一撃を見舞われた。完全にその少年に出し抜かれてしまったのだ。

 いや、この状態もそうであるが、男に屈辱を与えた最大の理由はそれではない。

「不才は…震えているんですか…?」

 すぐに立ち上がり、体裁を取り繕おうとしたが、腰が抜けて脚が震えてしまって、思うように立ち上がる事が出来ない男。

「『有資格者(ギフテッド)』である不才が…地上の牙使い(タランテム)如きに、ライゼル・フィオーレに恐れをなしているですって…?」

 この異国民の男。卑しい性根を持っているが、決して彼我の力量を分からぬ程の愚者ではない。自らの近接攻撃は一切通じず、たった一発の反撃で打ちのめされてしまった。【翼】で操る穢れこそ有効だったが、ライゼルを無力化するにはその総量が足りていない。つまりは、現状ではライゼルに屈するしかないのだ。

「ふっ、不才の計画では! この戦闘は、行われません。ですので、仕切り直しと致しましょう、ライゼル・フィオーレ」

 立ち上がる事はせず、俯せのまま背中の【翼】をはためかせ、空中に浮かび上がる異国民の男。そうして、舞台から屋台通りの方へと平行移動していく。

「お前、俺が見えないからって逃げてないか?」

 異国民が空中を浮遊して距離を取っている事は、研ぎ澄ました感覚と風読みの能力によって分かる。男の向かう方角から察するに、目指しているのは村の外だ。

「貴方との児戯は、計画が最終段階を迎えたら、改めて…」

「もっかい言うぞ? お前、逃げてるだろ?」

 異国民がどこに落としどころを見出したのか不明だが、ライゼルには皆目見当も付かないどころか聞こえてもいない。ただ、分かるのは異国員の男は、先の一撃をもらって戦闘を中断する判断を下した事だ。ライゼルにしてみれば、先程の花吹雪が決定打になったなどとは思っていない。飽くまで、試しの一発。

 とは言え、このまま継続するのもあまり得策ではないようにも思える。

(『穢れ』の苗床にするって言ってたから、このまま不調が続くのは良くないのか)

 確かにこのまま不調のままというのも不便で仕方がない。穢れに対する一般的な知識を持ち合わせていないライゼルだったが、それが生じさせる不具合は望ましくない。とても歓迎できる状況ではない。

「じゃあ、終わらせっか!」

 ライゼルは目を伏せてまま、真っ直ぐに勢いよく走り出す。両眼をしっかり閉じたままなのに、躓く事なく、躊躇する事なく、それなりの高さの舞台から跳び下り、着地後も同様に走破する。割れた皿も、蕃茄が偏った場所も、まるで見えているかのように避けて通っていく。

「何故です!? 視覚も聴覚も機能していないのにぃーーーー!」

 外套の異国民が憶えた驚愕をライゼルは知り得ず、剣を携えて次こそ討たんと一気に詰め寄る。

「うぉぉぉおおおおおりゃあああぁぁぁーーーー!!!」

 ただ只管真っ直ぐに自身を目掛けて突進してくるライゼルに慄き、慌てて背を向けて退避を急ぐ異国民。先程まで有していた余裕はどこへやら。恥も外聞もかなぐり捨てて、無様な姿を晒しながら、戦意の欠片も見せずに逃走を図る。

「おっ、まだ逃げるつもりか」

 異国民が更に距離を取り逃げ出した事を察したライゼルは、追走しながらも大きく肩越しに振り被り、自らの【牙】を勢いよく投擲する。

「当た、れェッ!」

 このまま逃げる分には、祭の妨害もされないだろうから好都合なのだが、ミールでの前科を考慮すれば、ここで身柄を拘束した方が何かといいはずだ。ビアンならそう指示するだろうと、ライゼルなりに考え出した答え。


 ―――ヒュン!


 力の限りに投げ飛ばされたライゼルの広刃剣は、一直線に外套の男に飛んでいく。

「何のこれしきィ!」

 投擲された剣が届く寸前、咄嗟に背の【翼】を素早くはためかせ、外套の異国民は更に上空へ逃がれる。目標を見失った剣は、放物線を描くも徐々に勢いを失い、通りの中程辺りの屋台の屋根の上に落下し、それを突き破る。

「残念でしたね、ライゼル・フィオーレ。それに迂闊でした。安易に手放さなければ、まだやりようはあったでしょうに…聞こえていないので反省のしようもないのでしょうけどぉ?」

 と、ライゼルの追撃手段が途絶えたと判断した異国民は、宙空でライゼルの方を振り返り、そう言い放った。

 その異国民の調べでは、牙使い(タランテム)は、日に一度しか【牙】を生成する事は出来ない。つまり、ライゼルにはこれ以上、【牙】を以て自分を追う事は出来ないのだ。ライゼル有利な肉弾戦も、【翼】で上空へ飛翔してしまえば、ライゼルにはもはや有効打はない。どうしたところで、これ以上はこの異国民の不利になる事はない。

「さて、邪魔者がいたのでは長居する理由はありませんしね。先に赤い果実の穢れを回収しておきましょう…もちろん、貴方の穢れの回収は最後にさせてもらいますけどねぇ!」

 そう言って、男はライゼルと一定の距離が開いている事を確認すると、すぐさま地面に降り立ち、『吸収』の能力を発動させる。男にとって、この穢れを集める事が第一義である。せっかくばら撒いた穢れであったが、ライゼルの妨害があってはそれも徒労に終わるだろう。それならば、元々集めていた分をすぐさま回収し、この場を撤退する方が理に適っている。時間も穢れも、ここで無駄な浪費をする訳にはいかない。

「もうしばらく苦しんでいるといいですよぉ、ライゼル・フィオーレ。果実に仕込んだ穢れを吸い上げるには、まだまだ掛かりそうですので」

 異国民の男が穢れを回収する間、ライゼルは追い掛ける事はせず、剣を投擲したその場で立ち竦んでいる。突っ立って、再び右腕に霊気を集中させている。地面から吸い上げたムスヒアニマが、ライゼルの星脈を循環する過程で、彼固有のムスヒアニマへと変質し、青白く発光していく。

「ライゼル・フィオーレ、乱心ですか? 今更、その獣臭い光を纏ったところで、【牙】は生み出せたりしないでしょう? 存じてますよ、牙使いの制限を。短い間隔で二度も現界させたら、貴方は気を失ってしまうのでしょう? まぁ、不才としてはどちらでもいいのですが…」

 異国民の男からすれば、このまま見逃してくれるなら、どちらでも良かった。立ち尽くしていようが、星脈の酷使で倒れてしまおうが。

 …のだが、それは異国民の男の思い違いでしかない。ライゼルは追撃手段を無くしてなどいないし、そもそもむざむざと逃がすつもりなど更々ない。

「観念したみたいだな。んじゃ、これでどうだ!」

 ライゼルには穢れが集められている事など知りようがなく、ただ異国民が移動を止め、地上に降り立った事しか分からない。それにより、逃走を諦め、立ち向かう覚悟を決めたものだと、ライゼルも勘違いをしている。

 そして、早期の決着を望むライゼルは、再びこの距離を一気に短縮する手段に出ようとしているのだ。

「何故ェ?! 何故そこに同じものがぁ?」

 外套の異国民は驚愕を禁じ得ない。何故なら、先程投げ捨てたはずの剣が、再びライゼルの右手に握られているからだ。先の一発を回避し、余裕をもって穢れを回収し始めた所に、次の一投が既に構えられている。

「ライゼル・フィオーレェェェエエエ!!!」

 男はその場から動けない。何故なら、今は『吸収』の能力を行使しているからだ。理由こそ定かではないが、【翼】を展開しての飛行と、【翼】による能力の行使とを、同時に発揮する事が出来なくなっているのだ。これは、以前ムーランの風車群の前でリカートも経験した事であった。地上に充満する『獣臭さ』に集中力を乱され、同時使用が適わなくなっているのだ。

 すぐさま『吸収』の能力を中断し、前後上下左右のどちらに回避した所で、ライゼルは既に狙いを定めている為に回避は適わない。改めて【翼】で飛翔しようとするには、一瞬間の隙が出来てしまう。その隙があれば、ライゼルが異国民を仕留めるのは、それ程難しい事ではない。

 であれば、外套の異国民に残された手段はたった一つ。

「ハァアッ!」

 異国民の発する声と同時に、【翼】によって蓄えられていた、不可視の穢れの奔流が男の手から発せられる。目に見えるものではないが、その流れは確かにライゼルまで届き、視覚、聴覚に続くもう一つの感覚に制限を掛ける。

「おろっ?」

 外套の異国民が放った穢れによって、『触覚』を封じられたライゼルは、【牙】を握っている事が適わず、腕を振り抜いた瞬間に、剣を取り溢してしまう。握力が抜けたとかではなさそうだが。

「ライゼル・フィオーレ。貴方に関する情報を、再度洗い直す必要があるようですね」

 これまでの噂話では知り得なかった、風読みの能力や二度の【牙】具現化に耐え得る星脈、そして絞り粕程度の穢れでは屈服できない強靭な肉体。

「手の感覚がないのはすげぇ気持ち悪いぞ。声と目も合わせてどうにかしろ」

 皮膚に何の感触もないという奇妙な体験をする羽目になったライゼルは、思わず目を開ける。この不自然さでは風読みの能力もまともに機能しなさそうだ。

 触覚を奪われ、とうとうライゼルにはその異国民の逃走を阻む手段がない。男が何度か【翼】をはためかせ、宙を浮遊しているのを黙って見ているしかない。

 ライゼルの視線の先で、男は俄かに肩を小さく震わせ始めた。

「冗談でしょう?」

 聞こえるか聞こえないかくらいの呟く声で、そう漏らした外套の異国民。その口元を見て、何やら言葉を発したらしい事はライゼルにも分かる。

「なんだって?」

 ライゼルが戻らぬ聴覚の為に、不便さを感じながらもそう尋ねると、異国民の男は高らかに笑い出す。

「不才の計画を、何度も何度も… フフッ、フハハッ! 愉快な程に不愉快ですよ、ライゼル・フィオーレ!」

 安全圏まで退避できた男が地上に向けて手を翳すと、背中の【翼】から赤黒い霊気が鈍色に発光し出す。それに伴って、ライゼルの身体も復調していった。どうやら、ライゼルの体内に仕込んだ穢れを『吸収』したようだ。

「おぉ、聞こえるようになった。触った感覚もある」

 途端に、景色が変わっていくような気がした。視界が広がり、風の音や流れを感じる事が出来る。一瞬の事だったとはいえ、触覚を失う不便性はなかなか堪えそうだと感じる。あれが、もし更に量を増していたら、ライゼルは五感を奪われ、嬲り殺されていたかもしれない。

 気付けば、半鐘が鳴らされており、村の入り口のある西側には烽火が上げられている。付近のアードゥル駐在所に、非常事態である事を知らせているのだろう。付近の治安維持部隊アードゥルが、間もなくやって来るだろう。

「気が変わりました。この村には穢れを残しません。全て回収します」

 そして、自分の置かれている状況を理解したのだろう。数で押されたら抗せない異国民は、改めて撤退の準備をしている。自身がこの村にばら撒いた穢れを再び回収するようだ。『吸収』の能力を使用している男の【翼】が、再度赤黒い霊気を纏っているのが確認できる。テペキオンやクーチカも能力の本領を発揮する時、同様の状態になっていたのをライゼルは覚えていた。

 男はその際、眉間に皴を寄せ苦し気な表情を浮かべつつ、舌打ちをした。

(やはり、能力の併用できませんでしたか。これは計画に差し障りますね…)

 先のように、危機を招く程の弱点になりかねない要素。能力を併用しようとすると、疲労感が増し、能力制御の正確性を欠いてしまうのだ。その不具合がなければ、ライゼルを圧倒できていただろうに。そう考えると、今回の一件が余計に悔やまれる。

(地上には、プラナヴリルに影響を及ぼすものがありますね。おそらく…)

 一つは、牙使い(タランテム)が有する【牙】なのだろう。あれはこの地上において、他の物質とは異なる要素を孕んでいる。【翼】に干渉し得るだけの特別な力が。だが、同時使用を阻害しているのは、【牙】だけではない。地上へ降りてから常に付きまとう、匂いを帯びた何かしらをその男は感じ続けている。

 男がこの村の穢れを回収しつつ思考を巡らせている間、ライゼルはその様子をじっと眺めている。これまでの異国民は、ベスティア国民に被害しかもたらしていないが、それは使い方次第ではないのかと。

「そうやって、アバンドの孤児の穢れも取ってくれたんだろ? お前、本当はいい奴なんじゃないか」

 無茶なライゼルでも、自分に穢れを扱う事が出来ないのは判る。蕃茄から漏れ出でたのを見た時もそうだし、実際に体に注入された時も、身体が拒否反応を示し続けていた。あれをこの町から取り除いてくれるのであれば、ライゼルにはそれを邪魔する理由はない。

「反吐が出ますよ、ライゼル・フィオーレ。不才が善人? まさか!」

 フィルやベニューの前で、ライゼルの行為をお節介と称したように、この男は善行そのものを良しとしていない節がある。人助けの為に穢れを集めているなどと、勘違いだったとしてもそう認識されたくないと言わんばかりに、善行に対し嫌悪してみせる男。

「じゃあ、何の為に穢れを集めてんだ?」

「飽くまで不才の目的を達成する為です。それまでは貴方の命、まだ預けておきます」

「なんだそりゃ」

 ライゼルが首を傾げた所で、ようやくここら一帯の穢れを回収できたのだろうか、男の表情は幾分か和らぎ、力も抜けていた。ライゼルに捕縛されないようにする為には、一定以上の高度を保ったまま回収を済ませねばならなかったので、同時使用を制限されている男は、普段以上に集中力を求められる羽目になったのだ。

 が、男の内心は見た目ほど穏やかではなかった。一つ気掛かりな事があるのだ。

 この町の蕃茄、ライゼル、ベニューに流し込んだ穢れを全て回収したのだが、それらは「同じ量」しか回収できなかったのだ。この異国民が知る穢れの性質として、地上の人間の肉体を触媒にすれば、穢れは徐々に増殖するという性質があった。確かに、一時間弱程度の期間ではあったが、一切総量が変化しないというのもおかしな話だ。遊び半分に相手をしたライゼルには少量を部分的に、しかもごく短時間であったから見込みはないにしても、ベニューには間違いなくそれだけの時間を掛けている。

(不才以外の何者かが、あの後ベニュー・フィオーレに干渉したとでも?)

 増えこそしなかったが、男が付与した穢れは減ってもいない。つまり、ベニュー分の穢れがこの村の外へ除去されていた訳ではない。その分は確実に男の下へ戻ってきている。この男も知らぬ、穢れの増殖を抑制する要因が、この国にはあるのだろうか。それは、この場でいくら考えても分からぬ事。

 そして、男は改めて自らが狙いを定めた相手を見据える。

「今度会う時は、嬲って嬲って…心も体も壊し尽くしてから殺してあげますよ、ライゼル・フィオーレ」

「お前、その喋る度に名前を連呼すんのやめろ。お前にもおんなじことするぞ根暗野郎」

 再び投げ掛けられるライゼルからのその呼び名。それを男がどう思ったか定かではないが、何やら頷いてから名乗りを上げる。

「…そうですね、不才の名をその脳に刻み付けておきなさい。貴方の魂をも吸い尽くす、『吸収』を司る『有資格者(ギフテッド)』である、このカラリスの名をね!」

 既に先程の【牙】は、取り落とした時点で消失させている。穢れを纏っていた為か、いつも以上に星脈が疲労しているのが分かる。穢れの量、あるいは、蝕まれている時間が増していたら、ライゼルも異国民に抗するだけの余力はなかったかもしれない。

「カラリスだな。覚えたぞ、その名前」

 ミール大火に続くこのラトマティ村での悪事を働いた異国民の名前をライゼルはしかとその胸に刻んだ。

 そこへ、ベニューに肩を貸しながら戻って来るビアン。介添えされながらではあるが歩けるという事は、ライゼルは知らぬ事だが、穢れが回収され五感を取り戻しているだろう事が窺える。

「ライゼル、何があったか説明できるか?」

 ビアンはこちらへ戻って来たばかりで、今回の一件に関しほとんど情報を得ていない。目の前の外套を羽織った男が、目下の警戒対象である異国民という事は、その背中の【翼】を見れば一目瞭然なのだが。

「こいつはカラリスって言ってた。【翼】で穢れを蕃茄に流し込んでた異国民だよ」

 ベニューが肩を借りねばならぬ状況になっているのが気になったライゼルだが、今は異国民を目の前にしている。とりあえず、優先させるべきは情報共有。ビアンがそう順番を付けたという事は、ベニューの容体は大した事ではないのだろう。

 ライゼルからの返答に、ビアンは耳聡く反応を示す。

「穢れを、だと? どういう事だ?」

 これまで星脈の酷使や怪我や病気に関連して注意していた穢れだが、ライゼルの言を信じるならば、敵はそれを操っていたという。ビアンにはそれが俄かに信じられない。目の当たりにしていないビアンでは、当然かもしれない。穢れに干渉できるなど、そのような前例はこれまでにない。

 半信半疑のビアンに、ライゼルは更に説明を続ける。

「蕃茄に入れて、俺も入れられた。けど、あいつがもう全部集めてた…っぽい。さっきは耳が聞こえなくなったりしたけど、今は何ともないから」

「ベニュー、お前が感じたのもそれか?」

 その脅威に晒されていた可能性があるベニューに水を向けるビアンだったが、ベニューは首を傾げるのみ。

「どうなんでしょう? 耳がというより、何が何だか分からない状態で…」

 ビアンとベニューという新しい観客の、想像以上の反応の良さに機嫌を良くしたカラリス。安全圏まで退避した事で余裕を取り戻したのか、いつも通りの饒舌な様子を見せる。

「ご安心を。この集落でばら撒いた穢れは全て回収してあります。何の収穫も得られませんでしたが、最大の障害であるライゼル・フィオーレについて直接いろいろと知る事が出来ました。またの機会に、存分に味わわせてあげますよ」

 そのカラリスのよく回る舌に、稀有な会話ができる異国民だと判断したビアンは、更にカラリスに問いを投げかける。

「テペキオンやクーチカ、リカートも力の源は穢れなのか?」

 これまでそのような推測を持った事はない。だが、それは事態の表層に『穢れ』の可能性が浮上しなかっただけで、例えばクーチカの麻痺毒が穢れに由来すると言われれば、否定する材料はない。現にライゼル一行はその麻痺毒により、呼吸困難や行動不能に陥らされている。今回ライゼルが受けた攻撃と類似する点は少なくないのだ。

 だが、ビアンがそう推察してみせたが、カラリスは得意げな調子のまま首を振る。まるで、真剣に謎解きをするビアンの悩む姿が、愉快であると言わんばかりの様子で。

「それは勘違いです、地上の方。あの方達には不才と同じ事は出来ません。これは不才のみに与えられた、『吸収』の能力によるものなのですから」

 異国民の持つ異能【翼】が穢れに由来するものではない事は知れた。これが確定的な情報かは断定できないが、勿体ぶる様子もなく話してみせた所から、これ自体は異国民にとって隠匿する程の重要な事ではないのだろう。であれば、虚言という可能性は低いはずだ。

 ただ、まだ【翼】に関する謎は他にいくつでもある。その中の一つをライゼルが提示する。

「【牙】に干渉できる、あの赤黒いのは? あれが穢れなのか?」

 今回のカラリスも然り、本領を発揮したテペキオンやクーチカも同様の霊気のような物を【翼】に纏わせていた。ライゼルが放出するムスヒアニマと干渉し合うような反応を見せていたが、あれの正体はいまだ不明なままだ。このカラリスならば、口を割るかもしれないと期待しての問いかけ。

 この問いにもカラリスは特に抵抗感を示さず、穢れの性質に触れる。

「いえ、穢れとはあなた方も知るように、不可視の物であり、手に触れられるものでもありません。『赤黒い』と仰ったそれは、こちらの事でしょうか?」

 穢れのみならず、その霊気に似た何かについても説明しようというのか。カラリスはそう語りながら、背中の【翼】の周囲に、先程のような赤黒い霊気を発生させる。禍々しさすら覚える歪なもの。テペキオンやクーチカも同様の物を生じさせていたとライゼル達は記憶している。

「俺の【牙】とバチバチさせてたやつだ。それもムスヒアニマなのか?」

「いいえ、これは『プラナヴリル』。言うなれば、不才と貴方達を分かつ物、とでも言っておきましょうか」

「どういう事だ?」

 カラリスの例え話の意図を分かりかね問い直すライゼルだったが、カラリスは途端にこれ以上のやり取りを拒否する。

「いいえ、ライゼル・フィオーレ。お喋りはここまで、です。これ以上、貴方にかまけていては不才の計画に支障が出ますから」

 先程からカラリスが何度か口にしている『計画』。それが何なのかは分からないが、これまでの前例から考えるに、きっとこの国に仇為す行為なのだろうという事は容易に知れる。

「逃げるのか?」

 ライゼルの安い挑発にも、ビアン達に知識をひけらかした事で上機嫌になったカラリスは気を取られない。言葉通り、自らの為さん事を見つめ直し、優先順位を再確認したのだろう。ライゼルへの嫌がらせは飽くまで二の次でしかないという事を。

「来るべき時が来れば、不才は改めて貴方を殺しに来ますよ。ですので、不才の計画が完遂するその時を楽しみに待っていてください。それでは」

 カラリスは勝手にそう話を切り上げると、【翼】で羽ばたき天高昇っていく。そして、いつか見た、七色の光の輪が突然現れ、それがカラリスを飲み込んだかと思うと、また何の前触れもなく消えてしまった。先程まで賑わいを見せていた収穫祭だったが、今この広場にはライゼル一行とドーロしかいない。立ち並ぶ屋台に、地面いっぱいに広がっている蕃茄に、異国民カラリスを退ける事に成功したライゼル一行。

「またあの光だ。あれが出ると異国民はいつもいなくなってる」

「まだ連中に関して分からない事は多いが。それでもいくらかの情報を得られた。カラリスという異国民が他の者と違っておしゃべりなのが幸いだったな」

 カラリスを取り逃しはしたものの、穢れによる被害を最小限に抑える事に成功したライゼル達。カラリスが仕込んでいた穢れ全てを回収した事もあり、被害はフィルが潰した蕃茄とライゼルが【牙】で吹き飛ばした蕃茄くらいに留まった。参加者と町ごと穢されていたかもしれない事を思えば、それは微々たる損害だろう。

 加えて、異国民の【翼】の元となる『プラナヴリル』についてもその存在を知る事が出来た。この成果は、今後の対決において重要になってくるかもしれない。結果的に、ラトマティ村の警邏が情報収集に繋がった。

 それはさておき、ライゼルと、ライゼルになろうとしたフィルが、このラトマティ村の皆の笑顔を守った事に違いはない。

「それで。ベニューはどうかしてたのか?」

 こちらへ戻ってきたベニューはビアンに肩を借りてやってきていた。それから何やらあったのだろうという事は想像に難くない。

「多分、さっきのカラリスという異国民にやられちゃったのかな?」

 どうも曖昧な返事ばかりで釈然としないが、ベニューがライゼル以上の穢れを注がれていたとしたら、意識も混濁するものなのかもしれない。ライゼルはそう思った。

「なんともないのか?」

「私は特に。さっきの話が本当ならもう穢れは残っていないだろうし」

 カラリスの言葉をどこまで信じて良いものか判断に迷うが、実際にライゼルもベニューも不具合から解放されているし、穢れを取り除く事が可能というのも実際にアバンドにて実証されている。もし、そんな超常現象を起こせるとしたら【翼】のよるもの、というのが一番腑に落ちる理屈だ。それだけの経験則が一行にはあった。

「気付いた時にはフィルちゃんが傍に居なくて心配したけど、フィルちゃんは何もされなかった?」

 保護者としての意識が強いベニューは、責任感からフィルの事を心配したが、それに対しフィルは満面の笑みで答えてみせる。

「おう! フィルは元気。ライゼルが優しいしたから、フィルは笑顔なった」

 そのどこか誇らしささえ感じられる返事に、喧嘩別れしたばかりの怯えるような様子はフィルには見受けられない。おそらく、フィルの言葉通り、ライゼルは『優しい』行いをして、異国民を退けてみせたのだろう。ベニューは、緑髪の少女の笑顔とライゼルがもたらした結果に、俄かに安堵し肩の力を抜いた。

「そっか。そうなんだ」

 それ以上何か話すのは野暮ったく感じ、ベニューは口を噤み優しく微笑んだ。

 ライゼルやドーロ、それにフィルからとそれぞれに聴取し、ビアンは事態を大まかに把握した。カラリスという異国民が、ライゼルへの逆恨みの為に今回の一件を企てた。その目的の為の手段として利用されたのが、祭に用いられる蕃茄とベニューだったという。

 しばらくして、近隣の集落を巡回していたアードゥル隊員達が駆け付け、ビアンとドーロはラトマティ役人と共にその応対を求められていた。その間、ライゼルとベニュー、フィルは、本来の趣旨とは違う形でぐちゃぐちゃに潰れてしまった蕃茄の後片付けを手伝った。村人は事情が知れると、ライゼルやフィルを非難する事はなく、むしろ感謝の意を示していた。

 おおよその事後処理が済んだ一行は、村の入口の詰所の前にいた。先程、ビアンがラトマティ村の役人に一行が出発する旨を伝えていた。

(ここに留まる理由もないが、これから先どうやって王都を目指したらよいものか)

 ビアンが密かに懸念しているのは、今後の王都までの行程だ。今回のように人の通りが多い所を行き、これまでの異国民達が所構わず悪行を為せば、今回のようにその経由地の人々にも被害が出てしまう恐れがあるのだ。

 無論、その責任は一行にはないが、不用意に大勢を巻き込む事をビアンとしても望まない。今回のカラリスで現在確認できる異国民は五人目だ。しかも、彼もまたライゼルとの因縁を強めてしまった感が否めない。これはビアンにとって憂慮すべき案件とも言える訳なのだが。

「ともかく、よくやったな、ライゼル」

 ビアンはただそれだけを告げると、それ以上ライゼルに何かを告げようとはしなかった。村の入り口に留めてある駆動車の傍へ行って、次の経由地へ向かう為の荷作りに取り掛かり始めようとする。

「ねぇ、ビアン。さっきの事なんだけど…」

 ライゼルがそう呼び止めようとするが、ビアンはライゼルの方は振り向かず、背を向けたまま肩越しに一言。

「俺に言ってどうする」

 ただそう告げたっきり、ビアンは次の準備に取り掛かり始める。

 その姿をしばらく無言のまま見つめた後、無意識の内に姉の方へ視線を送ってしまっていたライゼルだが、ベニューはライゼルと目が合うと、ただ一度きり頷いてみせるのみだった。

 他に頼る相手をなくしてしまったライゼルは意を決して、先程からずっとこちらを見ている、もう一人の人物の名前を呼ぶ。

「フィル」

「なに?」

 名を呼ばれた緑髪の少女は、そう返事をした。その後、ライゼルが何かを話し始めるのをじっと待っている。

 ライゼルも、呼んではみたものの、どう切り出していいか分からない。しばらく思案した後、余計な回り道をせずに、単刀直入に本題から切り出すのだ。

「悪かったな。フィルのこと、いろいろ勝手に決めつけて、怒鳴って…」

 どういう風に伝えていいかは分からないが、何を言わなければならないかは分かる。ライゼルはまずそれを口にしたのだった。

 それを受け、フィルも素直に頭を下げる。

「フィルも…フィルも、ライゼルにごめんなさいする」

「…おう」

 そんな珍しく殊勝な態度のライゼルに、フィルも改めていつもの陽気さを潜め、真剣な面持ちで応えてみせる。

「フィル、いっぱい考えた。フィルはライゼルが怒ることした…と思う。でも、まだどれが怒るかわからない」

「…そっか」

 何ともまぁ素直なんだろうと、傍から見聞きしていたベニューとビアンは率直にそう感じた。普通ならもっと取り繕ったりするだろうに。聞き分けの良い子を演じて、自分に対する心証を良くしようだとか悪知恵を働かせるようなものではないだろうか。そうでない所を見ると、この子は限りなくライゼルに近い感性なのかもしれない。ライゼルがそれを聞いて、改めてどう思うかは別として。

 二人がそう思っている事など露知らず、駆け引きを知らぬもう一方の二人は、それぞれに思い巡らせた事を伝え合う。

「ライゼル言ってた、フィルが何したいか、何なのかを訊いた」

「それは言葉の綾であって。フィルに悪気がないのは…」

 確かにそのような言葉を投げたが、素性を知る意図はなかった。文字通りの言葉の綾、弱い自分を隠す為に使った、飾った言葉の言い回し。本心を悟らせぬよう、拒絶するような強い言葉を選び、用いてしまっていたのだ。 先も詫びたように、その事はライゼルとしても落ち度があったと反省している。

 ただ、フィルはそうは思っていない。その件を掘り返し詰るつもりは一切なく、ただただ真剣に自分が導き出した答えを伝えたいと思ったのだ。ライゼルの言葉を額面通りに受け取り、短い時間ではあったし、慌ただしく変化する状況の中ではあったが、自分なりにいろいろと思考を巡らせたフィル。

「だから、フィル考えた、ちゃんと決めた」

 これまで見せた事のない真剣な面持ちで、フィルは心に誓った決意をライゼルの前で宣言する。

「フィル、優しくなりたい。ライゼルみたいに…優しくなりたい」

 ついさっき、ライゼルが『いつも通り』に為した行いが、フィルにとっては眩しいものに見えたし、心を温かくもしたのだ。ベニューが語った普段のライゼルの姿。フィルが初めて見た、偽りない本来の在り方だ。

「優しく? 今日のフィル、そればっかりじゃん」

 優しくなりたいと言われても、ライゼルにはフィルが何を意図しているか理解できない。本人が考えた結果というのだから、考えたのには違いないのだろうが、その方向性を理解してあげるのはどうにも難しそうだ。

 そんな弟に代わり、賛同の意を示したのは姉のベニューだった。

「フィルちゃんの気持ち、私も分かるなぁ」

「なんだよそれ」

 さっきは助け舟を求めても特に手を貸してくれなかったというのに、こういう時は変に共感してみせたりするベニュー。付き合いが長いといっても、こういう部分はライゼルにもその性格は掴めないのだ。

 当惑するばかりのライゼルを余所に、固く決心したフィルは血気に逸っている。

「フィル、ライゼルになる! 優しいフィルがライゼル!」

「俺(ライゼル)は俺一人で十分なんだよ。俺以外の人間に、俺になられてたまるか」

 姉の思惑も、フィルの指向性も、ライゼルには分からない事だらけだが、その言葉を真に受けて取って代わられるつもりなど更々ない。優しい行いが笑顔を守る事と同義なら、それはフィルの役割でなく、ライゼル自身の役目だと自負している。

 半ば否定的とも取れる反応に、フィルは俄かに動揺する。その判断を突き付けたのは他でもないライゼルだ。フィルにはライゼルしか見えていないのだから、そのライゼルの判断はフィルにとっての全部と言ってもいいのだ。

「えっ! フィル、ライゼルになれない? どうしたらいい?」

「どうするって」

 一旦、そこまで言って、やや気恥ずかしそうにした後、頭を掻きながらライゼルはこう紡ぐ。

「フィルが俺の妹になるんだ。いいか? 俺がフィルのお兄ちゃんになってやる」

「フィル、ライゼルのいも~と?」

 山彦のように復唱してみるものの、どうにも理解が追い付いていない様子のフィル。そして、ライゼルは堂々とした態度で更にこう続けるのだ。

「そうだ、これから誰かに何者かって訊かれたら、そう答えるんだ。それから、今後はライゼルって呼び捨てするんじゃなくて『お兄ちゃん』って言うんだぞ。いいか?」

 ライゼルがそう念押しすると、フィルは彼の妹になる事を承諾し、諸手を上げて喜んだ。

「おう♪ ライゼルはおにぃちゃん! フィル、おにぃちゃんのいも~と!」

 確かにライゼルには、フィルの幼さは拭い去れない自分の劣等感の象徴だったのだろう。だが、そんな昔の未熟だった自分さえも、すぐに泣き出してしまう臆病な自分さえも、救ってみせるのだ。それがフィルの兄になるという決意に繋がったのだろう。

 例えば、アバンドにてレンデが孤児の母になると決意したように。例えば、オライザの首長になる事をリュカが受け入れたように。もしかすると、ベニューが二代目フロルを襲名する事を決心した時のように。ライゼルは、フィルと絆を結ぶ事を決めたのだ。彼女を一人の人間として認め、家族として受け入れ、妹となったフィルを兄として導く事を心に誓った。

『レオンは年長年少も分け隔てなく接し、その上で導いていたぞ』

 グルットはそう語っていた。前王レオンと比較されるとさすがのライゼルも若干怯んでしまう。だが、姉ベニューは幼い頃よりずっとライゼルを、叱り、諭し、見守ってくれていた。出来る出来ないではない、やらなければいけないのだ。それが、これ以上姉の迷惑にならないようにする為の、いや、姉に認めてもらう為の最初の一歩になるのだろう。ライゼルはそう考えている。

 そして、手始めに兄らしい事をせねば、としばし思案した後に思い出したように切り出すライゼル。

「さっきの壺、重かったろ?」

「うん、重かった」

「自分に出来ない事は無理にやらなくていいから。そっちの方がよっぽど助かるぞ」

「わかった」

「それと…俺に飲ませた水筒の中身、覚えてるか?」

「…? 変な匂いの水?」

「そうだ、あれは俺やフィルは飲んじゃ駄目だ。酒っていうやつだ。いいか?」

「うん」

 次に言及しようとしたものを思った時、ライゼルはふとフィルに問い掛けてしまう。

「あの時はどうして手を出したんだ?」

「どの時?」

 腰紐に挟んでおいた破れかけの赤い染物を取り出し、ライゼルはそれをフィルに見せる。破れた部分から繊維がほつれているが、鮮やかな色の手拭いだ。まだ使用用途は少なくない。

「この染物を引っ張ったろ。あれはなんでだ?」

「あ、えと…」

 ライゼルに問われ、フィルは少し困ったように俯く仕草を見せる。何と答えようか迷っているようで、手をまごつかせるばかり。フィルからの返事はなかなか返ってこない。

「あの時は、確か…」

 先二つの件は、ライゼルの手助けの為に行った事なのだと想像できる。だが、最初の染物屋での一件は果たしてライゼルの手伝いになっていただろうか。いや、横合いから手を伸ばす行為が、ライゼルの手助けになるとは想像しにくい。

「なんだ、もしかして欲しかったのか?」

「お!?」

 ライゼルがそう問うと、フィルは俯かせていた顔を一気に上げ、ライゼルの目をまじまじと見つめている。

 その様子を傍目から眺めているベニューは、人知れず悪戯っぽく笑ってみせる。 

(途端に勘が良くなったのかな?)

 ベニューには、フィルが何故あの時に手を出したか、おおよその見当が付いている。自分にも経験のある事なので、ライゼルと違ってそれ程不思議に思う事もなかった。首から下げて衣服の中に仕舞ってある匂い袋をそっと抑えながら、事の次第を見守るベニュー。

 と、やや達観して眺めていたベニューだが、がっくり肩を落とす羽目になる。その原因となる、弟の発言がこれだ。

「欲しかったなら最初からそう言えよ。別に、あげてもいいし」

 ライゼルはそう言いながら、ちょうど半分の所で裂けている手拭いを改めてフィルに差し出す。フィルもほんの一瞬パッと表情が明るくなったが、無言のまますぐにまた俯き出してしまった。

(我が弟ながら、本当に鈍い弟だ…!)

 声にこそ出さないが、弟の勘の悪さにもどかしさすら覚え始めている。

「なんだ、要らないのか?」

 フィルがそれを受け取らない事で怪訝そうな表情を浮かべるライゼルに、最後まで黙っていようと決めていたベニューは思わず口を挿んでしまう。

「それじゃ意味ないでしょ」

「意味ないってなんだ?」

 ベニューもつい口を出してしまったが、ライゼルのそれには返事をしない。飽くまで、ライゼルがどうするかを見届けるつもりなのだから。

 ただ、このままでは平行線を辿る事になりそうだったので、ベニューはフィルの肩をそっと叩いて鼓舞してみせる。

「がんばって、フィルちゃん」

「う、うん…」

(なんで俺は無視してフィルは甘やかすんだ…?)

 何やらを促されたらしいフィルが何か言いだそうとするのを、ライゼルも急かさず待ってみる。すると、少女が絞り出したような微かな声で囁いた。

「フィルも。フィルもそれが欲しい」

「おう、だからやるって―――」

 そうライゼルが言いかけた所で、フィルは首を左右に何度か振ってみせる。

「じゃなくて、おにぃちゃんと同じが欲しい。フィル、おにぃちゃんといっしょがいい」

 ただ単にその綺麗な草木染の手拭いを欲しがった訳ではないのだ。大好きなライゼルが選んだその品を、自分も身に付けたいと思ったのだ。ライゼルとお揃いがいいのだと、少女は訴えているのである。

「そうは言っても、お店の人達は帰ってっただろうし、新しいのはないぞ。それにこれ、破けてるし」

「フィル、いゃ…」

 そう言いかけて、自分の我儘が大好きなライゼルに迷惑を掛けてしまう事を思い出し、フィルは押し黙ってしまう。散々迷惑を掛け、散々怒られた後なのだ。これ以上はフィルから要望を告げるというのは気が引けてしまう。

 少女が大人しく諦めかけた途端、目の前のライゼルが手にした破れかけの染物を更に引き裂き始めるのだ。

「おにぃちゃん?」

「ほら、俺と半分こだ。これならいいか?」

 少女の前に差し出されたのは、片側がほつれた少し不細工な染物。でも、世界で二つとない兄と分け合った大切な品物。これを持っているのは、自分と大好きなライゼルだけだ。フィルが受け取ったそれと同じものが、ライゼルの手にも握られている。

「ありがとう、おにぃちゃん♪」

「おう、いーってことよぉ~」

 フィルの心からのお礼に、ライゼルもさすがに気恥ずかしくって、わざとらしく素っ気ない態度を取ってしまう。余りに不器用な照れ隠し。が、フィルはそれが気にならない程に、ライゼルからの贈り物がお気に召している様子だ。

 そのまま放っておくといつまでもその染物に夢中になっていそうなフィルに、ライゼルが呼び掛ける。

「それは今日の事を忘れない為の物だからな。その事をちゃんと覚えておけよ」

「うん、フィル忘れない。ずっと覚える」

 おそらく、ライゼルとフィルの間に言葉の解釈の齟齬が生じている。ライゼルとしては、今回の失敗を教訓として肝に銘じておくように、と。一方フィルからすれば、もちろん反省の念もあるが、それ以上に、ライゼルから優しくしてもらった事とそのライゼルと家族になれた事の方が、遥かに大きな割合を占めている。ずっとずっと忘れ得ない大切な思い出と、その思い出に纏わる贈り物。

(案外、似た者同士なんじゃない)

 二人の微妙な擦れ違いを微笑ましく感じているベニューを余所に、ライゼルは気恥ずかしさを払拭しようとしているのか、更に兄らしく振舞ってみせる。

「それとな。妹ってのは、兄貴の背中を見て成長するんだ。だから、これからフィルはちゃんと俺を見てろ。俺が手本を見せてやる。出来るだろ?」

「えと、フィルは…」

 平素の天真爛漫な様子はどこへやら、言葉を飲み込み、若干尻込みしてしまうフィル。

 そんな答えあぐねているフィルを見兼ねて、呆れた素振りを見せながら、そっと兄として助け舟を出すライゼル。

「今更、何を日和見してんだ。フィルはずっと俺の口真似をしてただろ」

「え? …うん」

「そうやって、ずっと俺を見てろ。そして、真似しろ。そしたら、優しいかどうかは分かんないけど俺みたいになれるんじゃないか…多分」

 妹という絆を与えた上で、「ライゼルになりたい」というフィルの想いも尊重する。ライゼルにしては、なかなかどうして出来過ぎのような模範解答ではないか。ベニューの想像以上の出来栄えである。

 しかも、これは別の視点から見れば、姉であるベニューに向けた感謝の言葉でもあるのだ。ライゼルは常として、経験則にない事を考えたりする事が決して得意ではない。実際にやった事でなければ、考えも及ばないのがしばしばだ。という事は、だ。妹となるフィルへこれから見せようとする姿勢は、それはつまり、これまでベニューが弟ライゼルに見せてきた姿という事でもあるのだ。これまで自分を導いてくれた姉を倣って、今度はフィルに規範を示さんとするライゼル。

(ライゼルめ~、どれだけ私をにやけさせれば気が済むのよ)

 思わず見当違いな恨み言を口にしてしまいそうなくらいに、頬が緩みっぱなしのベニュー。そんな彼女は、どこまでも背伸びしてみせるライゼルが、どこかおかしくて、とてつもなく愛おしくて。弟の決意を前にして、少し悪戯めいた口調で、こんな軽口を叩いてみせる。

「じゃあ、私はフィルちゃんのお姉ちゃんだね。妹かぁ、嬉しいなぁ~♪」

 そう言いながら、ぎゅっとフィルを抱き寄せるベニュー。フィルも彼女の腕の中で喜色満面に期待のこもった問いを返す。

「ベニュー、フィルのおねぇちゃんになる?」

 その問いに、ベニューもまた、喜びに満ちた声音と大きな首肯を以って応じる。

「なるよ、なっちゃうよ。だって、お兄ちゃんのお姉ちゃんだから、私はフィルちゃんのお姉ちゃんなんだよ」

 二人で喜びを分かち合っている様を見て、何故だか置いてけぼりを喰らったような気がするライゼルは不満を漏らす。

「なんでだよ、ベニューは関係ないだろ」

 だが、ベニューはそんな弟の愚痴すらも意に介していない様子で、

「どうして? 私はライゼルのお姉ちゃんなんだよ。なら、ライゼルの妹は私の妹でしょ?」

 と言ってのける。正論なだけに、手柄を横取りされたような気分のライゼルであっても、その事実を否定する事は出来ない。故に、先の契りは更なる絆を生み出した。独りぼっちだった少女には、一人の兄と一人の姉が、新しい家族が出来たのだ。

「ベニューはおねぇちゃん! フィル、おねぇちゃんのいも~と!」

「ベニュー、それは…」

 これでは何だか、せっかくの決意が台無しというか、茶番になったというか。あれだけ兄貴ぶってみせたというのに、立つ瀬がないライゼル。

「あれ~、ライゼルもお姉ちゃんって呼んでいいんだよ?」

「誰が呼ぶか!」

 おどけてみせるものの、もちろんベニューもライゼルの気持ちを酌んでいない訳ではない。最大級の理解を示し、これ以上にないくらいに喜んでいるのだ。当初は、二人が友達になれば重畳と思う程度だったが、まさかその期待を越えて、家族になるとは思わなかった。その過程で、弟の成長ぶりを垣間見る事が出来た。姉としてこんなに喜ばしい事が他にあるだろうか。

 荷造りを終え、その様子を遠巻きに眺めていたビアンも似たような事を考えていた。回りくどい方法だったかもしれないが、お節介が実を結んでよかったと、今ではそう思っている。思考停止を許さず、迷う方へ促し、そしてライゼルの背中を後押しした。少しは友達らしい事が出来ただろうか。ビアンは満足げに溜息を吐いた。

「俺は家族ごっこに付き合う気はないが、吏員(りいん)としてある程度は面倒を見てやろう」

 少し離れた所からの呼び掛けにも、フィルは嬉々として反応を示す。

「おう! ビヤン! えぇと…」

「ビアンはお兄ちゃんが初めての友達になったんだぞ」

「ビヤン?…は、おにぃちゃんの友だち!」

 ベニューに一枚噛もうとしたビアンだったが、思わぬ不意打ちを受け、気勢を削がれる。

「さすがに呼び捨ては許さん。それに、慣れない内は仕方ないが、ちゃんと発音するように」

 妹の不始末をさっそく尻拭いしようと、思い付きで説教してみるライゼル。

「お兄ちゃんは友達だからいいけど、フィルが大人を呼び捨てにしたら駄目だぞ」

「フィル、なんて呼ぶがいい?」

 代替案をと求められると、年上風を吹かそうとするライゼルも答えに窮する。

「じゃあ、ベニューと同じでいいんじゃないか?」

「おねぇちゃん…? フィル、ビヤンちゃんって呼ぶがいい?」

「おい、兄貴の教育が揮ってないようだ。ライゼル、お前が誰かに教えを説こうなどと十年は早いみたいだな」

 そんな調子で、フィルからの呼び名が定まったところで、一行は次の経由地サフリズを目指すべく駆動車に乗り込んだ。

 これまで、後部座席のライゼルとベニューの間には、取り決めした訳でもなかったがライゼルの背嚢とベニューの手提げ袋が置かれていた。だが、こないだからは緑髪の少女が収まるようになっている。黄金色の髪の少年と黒髪の少女の間が、これからフィルの定位置になっていくのだろう。

 こうして、絆を深めた一行は、ラトマティ村を出発したのだった。


 姉弟の間に座るフィルにベニューは声を掛ける。

「ねぇ、フィルちゃん。今度、裁縫道具が借りられたら、その染物を髪留めにしてあげよっか?」

「フィル、おねぇちゃんみたいなの付ける?」

 フィルが想像したのは、ベニューが付けている木製の髪留めであったが、フィルがもらった布切れでは、それは難しそうだ。代わりに、ベニューは頭の天頂部から一房掴んで、その赤い染物で縛ってみせる。

「この辺をこうやって結べば可愛いかも。ねっ、ライゼル、どう?」

 フィル越しに水を向けられたライゼルは、しばらく眺めて気のない小刻みに何度か頷いてみせる。

「あ~、似合うんじゃないか」

 どことなく我ここに在らずといった気の抜けた返事だったが、フィルはだいぶお気に召したようで、しばらくはそれに夢中であった。水辺に立ち寄ったなら、その水面に映る自分を確認しようと、逸っているようだ。

「早く見たい! リーンさん急いで急いで!」

 そんな調子のフィルを余所に、ベニューは少女越しにライゼルの様子を気遣った。

「…大変だったね」

 そう声を掛けられ、その穏やかな声音が自分に向けられている事を察したライゼルは、姉の方を向かずに独り言ちるように呟く。

「ベニューは楽しそうだ…」

 ベニューの目にそう映っているように、実際に戦闘をこなして体力的にも疲弊していたし、フィルの一件もあって、ライゼルは気疲れしている。だが、その事を捨て置けるくらいには、ライゼルはベニューの様子が気になったのだ。ライゼルがフィルを妹にすると勝手に決めた事も特に咎める様子もない。ビアンも知るように、ライゼルの家の家長はベニューだ。もし、家族の事で何かを決する事があれば、それはベニューの判断に委ねられるはずなのだ。それなのに、ベニューは全くその事について言及しない。ライゼルも、今回の決断を否定されれば、何か反論する気でいたが、こうも簡単に受け入れられては、肩透かしを食らった思いだ。

 ベニューもベニューで、ライゼルがその件に思い至っているのかいないのか、普段通りの様子で答えてみせる。

「フィルちゃんの事? 楽しいよ。ライゼルは楽しくない?」

 姉が何故楽しそうにしているのか分からないから問うたというのに、その感覚の共感を求められてはライゼルには二の句が継げない。

「なんていうか… ベニューは二回目だろ? 一回目もそうだった?」

 あまり自分の口から詳しく話す事は躊躇われる。その為に、少しばかり言葉を濁すライゼル。

 一回目、つまりライゼルが弟として誕生した時の事を指しているのだ。その時も、今みたいに喜んでいたのだろうか。それとも、弟に母親を取られると思って、嫌がっただろうか。とはいえ、当時ベニューも一歳かそこらでほとんど記憶はなかったに違いはない。が、さも当然と言わんばかりの余裕と自信を持ってこう告げる。

「そうだよ。私はライゼルが弟で嬉しいよ」

 新しい妹を挿んで隣に座る彼女は、何の衒いもなく平然とそう言ってのけたのである。気取るでもなく、恥ずかしがるでもなく、照れるでもなく、ライゼル本人の前でそう言ってみせたのだ。

「…そうか。そうなんだ…」

 臆面もなくそう言われてしまうと、やはりライゼルは挨拶に困る。これまで姉弟が一緒にいる事は、お互いにとって当たり前の事だった。そこに感情が乗るとは想像した事はなかった。仮にこれまでを振り返る事があったとしても、頼りにしてたとか、独りじゃなかったから寂しくなかったとか、そういう所だろう。なのに、ベニューはその関係に、時間に、喜びを感じていたのだという。理由を問うたら、姉は答えてくれるだろうか? 一瞬、姉の顔色を窺ったが、ライゼルはその疑問を飲み込み、代わりにベニューからの問い掛けを受ける事となる。

「ライゼルはどう? お兄ちゃんになったんだよ」

 その質問に、あまり時間を掛けて悩む事なく、ライゼルはゆっくりと言葉を吐く。

「しっかりしなきゃと思った」

 ベニューのように、嬉しいとかいう感想は出て来なかった。それが余裕のなさからなのか、それとも完成の違いからなのか、原因は定かではない訳だが。それでも、同じ環境で育った姉とは、自分は違うのだという事を再認識する。今よりずっと幼い頃に、弟との出会いに「嬉しい」と思える姉には、どうやら先の決断を下した今の自分でも、まだまだ及ばないのだと思い知らされる。

 そんな諦念にも似た尊敬の感情を弟から向けられているとは露知らず、静かな心持のライゼルに、ベニューは慈愛に満ちた微笑みを返す。

「へぇ、もうお兄ちゃんの自覚が芽生えてるんだね」

 歓びとも憂いとも言えないこの宙ぶらりんな心を、ともすれば空虚ささえ見え隠れする落ち着かない感覚を、姉はそう名付けた。それが自覚なのだと。

「これが、このざわざわするのがそうなのかな? だったら…」

 特に意味はなかったのだろうが、ライゼルは隣に座るフィルの頭を撫でまわす。所在ない想いが無意識の内にそうさせたのだろう。ライゼルは、誰に視線を合わせるでもなく、ぽつりぽつりと溢していく。

「だったら…さっきの肩書きの話とはちょっと違うんだろうけど、俺はもうちゃんとやれるから、ベニューは俺の心配しなくていいぞ」

 これはライゼルなりの、精一杯の強がりで、背伸びで、つま先立ちで。ベニューはこれまで余程の苦労をしたのだろう。今日のとは比べ物にならないくらいの、あるいは、今日のなんて笑い飛ばしてしまえるくらいの、兄になろうと決心した程度のライゼルでは想像もつかない程の。この17年という生涯には、常にライゼルという重荷が付きまとったはずなのだ。今のライゼルなら、その推測くらいならできる。遅ればせながら、ようやくではあるが。

 それを気付くに至ったライゼルとしては、これ以上姉の負担になりたくなかった。先の決心は、フィルとの絆を結ぶと同時に、姉への感謝と姉からの自立という意味合いも多分にあった。自分を見守ってきた姉と同じような事が出来れば、きっと姉もこれ以上心配する事もないだろう。安心して、自分の人生を歩んでいけると思うのだ。

(俺がいつまでもベニューの手を煩わせてちゃいけないんだよな)

 生活費の稼ぎも、炊事や掃除などの家事全般も、配給品の申請などのお役所仕事も、何でもかんでも任せっきりのおんぶに抱っこではいられない。

 と、ライゼルが意を決して独り立ちを宣言したものの、ベニューは怪訝そうに小首を傾げた後、ライゼルの額を人差し指で軽く突きながら、こう紡ぐ。

「何言ってるの。私はずっとライゼルのお姉ちゃんだよ。大変でも辛くても、嬉しくって楽しいから、私とライゼルはこれからもずっとずっと、姉弟で、家族でいるよ」

(やっぱり、姉ちゃんには勝てねえや…)

 ライゼルの決意も受け入れた上で、ベニューは絆を強調した。別にこれまでの苦労を忘れた訳ではない。幼い身の上で大人並の仕事をこなさねばならない事を辛いと感じていた事も嘘ではない。だが、そうであったとしても、そればかりではなかった事も憶えている。並んで寝そべる近所の原っぱの風が心地いいこと、一緒に食べる食事が美味しいこと、冬の夜に身を寄せ合い温かかったこと、毎日繰り返される「おはよう」や「行ってきます」や「ただいま」や「おやすみ」が、とてもありふれていて、とても尊いものだということ。

 ライゼルがフィルの頭の上に乗せたその手の上に、ベニューはそっと手を重ねてこう続ける。

「ライゼルもそうなんじゃない? もしかして、途中でフィルちゃんのお兄ちゃんを辞めるつもりでいた?」

 あんな格好いい事を言ってみせた直後に、ベニューがからかうような調子で言うものだから、ライゼルはこれ幸いと、ぶっきらぼうを装ってその手を払いのける。

「そんな訳ないだろ。俺は一度こうと決めたら最後までやる男だぞ」

 態度こそ装っている部分が多いが、この言葉には嘘偽りはない。改めて、ライゼルが姉の前で宣言する誓い。それを聞いたベニューも満足そうに頷いて、手提げ袋を膝の上に乗せて、座席の上に座り直し姿勢を正す。

「じゃあ、私も。ライゼルのお姉ちゃんでいられるように頑張らなきゃだね。これからもよろしくね、ライゼル」

「おう、任せろ!」

 ライゼルが腕に力こぶを作ってみせるのを見て、フィルもようやく染物から意識が逸れたようだ。

「えっ、なになに? フィルもよろしくするー!」

 かくして、ライゼル、ベニュー、ビアンにフィルを加えた一行の旅は続いていく。

 蕃茄の花言葉である『完成美』にはまだまだ遠いライゼルであるかもしれないが、もう一つの『感謝』を告げられた事は、彼にとって大きな一歩と言えるだろう。一つの騒動を経て、ライゼルはまた一つ人間としての成長を見せた。今回のように繋いだ姉や妹と絆が少年を大きくさせていくのだとしたら、新しい出会いの度に彼は更なる成長を遂げるに違いない。

 それを思えば、誰が保障してくれる訳でもないが、王都を目指す彼らの前途は明るい。ライゼル達を乗せる駆動車の運転手が、思いがけず鼻歌を歌ってしまうくらいには、今回結んだ絆が素敵なものだったから。これから先の旅路にも期待したっていいではないか。

 そして、一行は大きな期待感を抱きつつ、次の経由サフリズを目指して旅を続けるのであった。




To be continued…

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ライゼルの牙 吉原 昇世 @yoshiwara_akiyo

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