第10話

『第十話』


「なぁあにぃいいい!?」

 阻む物のないだだっ広い空の下、全速力で駆動車を疾走させるビアンの絶叫が響き渡る。後部座席にいた姉弟ともう一人の少女は、思わず耳を庇うようにして両手で抑えた。

 ビアンが思わず大声を上げるのはいつもの事であるが、それは状況を鑑みれば無理もない話。逃げるようにしてアバンドを飛び出してきた一行が乗る駆動車だが、その背後には脅威が迫っている。それはある意味では、意思を持った災害のようなものかもしれない。突然、アバンドに現れたそれは、ライゼルを目掛けて猛進してくる。

 切迫した状況、その襲い掛からんとする暴力から逃れる為、ビアンは両脚の筋肉の限界を超えて、踏み板を踏み続ける。平坦な道といえど、速度は以前のソトネ林道を抜けた時に相当するだろうか、乗車中の振動による負担は後部座席の『三人』にも掛かってくる。元々、高速移動用の車両ではない為に、後部座席の左右には落下防止の安全装置等は付いていない。ふとした弾みでそこから落ちてしまう恐れだってある。姉弟は、互いともう一人の人物を支えながら、その走行の衝撃に耐えている。

「ベニュー、大丈夫か?」

「うん、私は平気だよ。それよりこの子が…」

「はやい、はや~い」

 ただでさえ、追跡してくる脅威に対して余裕のない一行に、更なる悩みの種が付いてきてしまったのだ。それがビアンが情けなく悲鳴を上げてしまった理由である。

「どうしてこんな羽目になってるんだよ!?」

 事の始まりは、その少女との出会いからなのだろうか。アバンドで知り合った緑髪の少女は、喧嘩賭博が終了する頃には、既にベニューの傍にはいなかった。どこかへ行ってしまったのだとベニューはそう思っていた。

 すると、試合終了後、一行を取り巻く状況は一気に変化する。

 つい先程まで喧嘩賭博に参加していたライゼルと、それを見守っていたベニューとビアン。試合が終わり、対戦相手であるルーガンとの蟠りが解消できた丁度その時、喧嘩賭博が行われていた広場の上空に、見覚えのある男達が姿を現したのだ。

 一人はルク、ボーネ村でライゼルの居所をベニューから聞き出そうと暴れ回った巨漢の異国民。一人はリカート、ムーランにて集落の代表者ドミトル公を殺害した上に過去の英雄オノスを誘拐した仮面の異国民。

 彼らはそれぞれにライゼルへの因縁を持ち、ライゼルへの執着心を見せている。故に、アバンドの町で見つけたライゼルを執拗に追い掛ける。

 ライゼル一行も、捕まればただでは済まないと理解しているので、その脅威から逃れるべく駆動車を駆り東へひた走る。

 駆動車の後方には、現在【翼】を展開させたルクが空を飛翔し、ライゼル達に対しぐんぐんと差を縮めてくる。リカートの姿は見えないが、おそらくアバンドでリュカや役人達が足止めしてくれているのだろうと察する。

(みんな無事でいてくれよ)

 本来、他人を助ける側でいたいライゼルにとって、現状はもどかしい想いを感じるばかりだ。【牙】が使えないばかりでなく、ルーガンとの一戦で痛手を受けており、万全の状態ではない。そんな状況では、ルクに抗する事など到底適わない。

 故に、何も出来ない歯痒さを堪えながら、逃げの一手に出る事を渋々承服するライゼル。

 そんな少年を余所に、ビアンはやや咎める口調でベニューを問い詰める。

「そもそも、ベニュー。朝には返すと約束しただろう?」

 ビアンがこの緊急事態の最中に言及しているのは、後部座席に姉弟と一緒に紛れ込んでいる緑髪の少女についてだ。ルーガン宅の孤児で、故あって姉弟が一時的に預かっていた少女、としてビアンは認識していたが、実際はそうではない。少女は行く当てがなく、ライゼルは面倒を見るつもりでいたが、ビアンはその事をまだ話せていない。

 それもあって、その場限りの付き合いだとばかり思っていたビアンは、昨日の段階では、別段気にも留めていなかったのだ。

 その結果、前述の認識の擦れ違いも手伝ってか、身元不明の少女は、状況も顧みず、ライゼル一行に付いてきてしまっている。

 少女からすれば、ライゼルの誘いに応じてやって来ただけなのかもしれないが、一方ビアンは堪ったものではない。ただでさえ、未成年二人を保護しているビアンにとって、その少女の存在は完全にお荷物でしかない。ビアンにしてみれば、まさか翌日である今日も付いてきているなどとは思いもしなかった。

 そういえば、先程アバンドに異国民が来襲し、避難を始めようとした時も、ベニューは緑髪の少女の所在について言及していたとビアンは思い出す。

(俺の監督者責任、になるのかぁ?)

 姉弟達も、実際に連れていくかどうかという十分な検討していなかったが、成り行き上、気付けば一緒に駆動車へ乗り込んでいた。正確に言えば、姉弟が路地裏に潜んでいたところに、誘いに応じたこの少女が再度やって来たのだった。そこにライゼルを探していたルクが運悪く通りかかり、巻き込まれる形でビアンが駆る駆動車に逃げ込んだ、という運びだ。

 どう言えばいいか迷ったものの、仕方なくベニューはビアンへ現状を伝えるしかない。

「それが、この子の身元が結局分からずじまいで」

「ライゼルといっしょ♪ ライゼルといっしょ♪」

 ベニューの弁明の途中で件の少女が口を挿み、続けてライゼルがそれを遮る。

「今はそんな事どうだっていいじゃん。どうする、ルクの奴ずっとついてくるよ?」

 アバンドの町を出て以降、ルクは背中の【翼】を展開させ、空中を泳ぐようにして追い掛けてくる。ライゼルを標的としている為に、ずっと追跡してくるようだ。

「どうするもこうするも逃げるしかないだろうが。あの怪力には誰も対抗できん」

 一行の唯一の牙使いであるライゼルは、既に本日二度の【牙】の生成を行っている。破格の星脈を持つライゼルといえど、これ以上の【牙】の現界は適わないだろう。

 であるならば、このまま逃げるしか選択肢はない。いつもに増して乗員が多い駆動車を漕ぎ続けなければならないビアン、そう長くは走れないと本人も分かっている。分かっているが故に、焦りは増すばかり。

(奴等がライゼルに拘る理由はなんだ? 私怨を抱く程の因縁もないだろうに)

 どうやら異国民相手に話し合いで解決しないであろう事は、ビアンも了承済みだ。

 だが、改めて思い巡らせても、『ライゼル』を標的にするだけの理由は乏しい気がするのだ。現状までの情報で推察できるのは、ルクがテペキオン経由でライゼルを知り、それ以降執着を見せているという事だけだ。それだけから考察すれば、ルクはテペキオンの復讐を手伝おうとしているのか。いや、ルク自身もライゼルにやり返された経験があるから、その仕返しという線も捨てがたいが。

 何にせよ、ビアンはライゼルを含めたこの子達を見捨てるつもりは更々ない。ならば、今はただ踏み板を漕ぎ続けるしか他にない。

「ビアン、あの異国民にどんどん追い付かれてるよ。疲れたんなら俺が代わろうか?」

「代わってる暇に減速してしまう!」

「いえ、もう追い付かれそうです」

 ベニューが短く指摘した直後、駆動車の後方を飛翔していたルクが、中空を滑るようにして急接近を仕掛けてくる。あの巨体からは想像しづらい速度に、思わずベニューも声を上ずらせてしまったのだ。あの巨体を軽々と浮遊させられる【翼】という物は、余程の力を持っていると見受けられる。

「手間を掛けさせるな、アルゲバル」

 瞬く間に駆動車に追い付いてみせたルクは、その後部の枠に手を掛ける。手を掛けた所で、【翼】を前方に目一杯にはためかせ、空気の抵抗を作るルク。

「車が、走ら…ないぞッ!」

 必死に踏ん張るビアンがそう感じたように、途端に駆動車全体に制動が掛かり、大きく減速してしまう。もし輝星石で補強してなければ、この時点で、ボーネ村のデイジーおばさんの店のように、破壊されていたかもしれない。

 いや、如何に輝星石と言えどもルクの怪力に晒され続ければ、その形を留めていられないやもしれない。現に微かにだが軋む音や罅割れる音が確認できる。【牙】以外では傷付かないと言われる硬度を誇る輝星石だが、それ程までにルクの怪力は人並み外れている。

 その猛威を前にしても、恐れを抱くどころか立ち向かっていくのがライゼルだ。妙な呼称をするルクに対し、何度か繰り返される間違いを指摘する。

「俺はライゼルだって言ってんだろ!」

「ふんッ!」

 ライゼルの指摘など意に介さず、ルクは更に力を込めた。その瞬間、今度は明らかに見て取れる形で、輝星石で補強された外枠がルクの手の形に沿って変形する。

「せっかく新しくなった駆動車に何してくれてんだよ」

 駆動車の前進を阻むルクに、ライゼルはその手を払いのけようと咄嗟に蹴りを見舞う体勢に入ろうとする。駆動車の天板に手を掛け、その両手を軸に反動を付けて飛び蹴りを食らわせようというのだ。

 が、慌ててベニューがライゼルの胴回りにしがみ付き、その無謀な行いを制止する。

「おバカ。以前も同じように剣を掴まれたでしょ。それに体も痛むくせに。ライゼルが掴まったらどうするの?」

 前回のルクとの戦闘で、剣を掴まれその身を危うくした事があったライゼル。その時は、頭部に蹴りを見舞う事で難を逃れたが、またそれが通用するかどうかは定かではない。なにせ、今のルクは背に【翼】を展開している。前回以上の縦横無尽な機動力を有している事は、容易に想像できる。

「でも、このままじゃどっちみち同じだろ」

 確かにライゼルの言う通り。このまま制動を掛け続けられれば、ルクの怪力にビアンの脚力が勝る道理はなく、駆動車という足を奪われ、捕捉されるのが目に見えている。

 加えて、ルクの選択肢としては、この駆動車ごとライゼル達を運び去る事だって適わない訳ではない。むしろ、ルクの怪力と【翼】があれば、そちらの方が手っ取り早そうな気もする。上空に持ち上げられてしまえば、途中で降りる事も適わず、異国民の拠点に連れ去られてしまう恐れだって否定できない。現状確認できている四人の『有資格者(ギフテッド)』を含む異国民達相手など、とても今の戦力では太刀打ちできそうにない。

 つまりは、この僅かながら続いている惰性的前進のある内に、一行は判断を下さねばならない。止まってしまえば、こちらは身元不明の少女含めた皆が危険に晒されてしまう。

 その事を知ってか知らずか、緑髪の少女は相も変わらず賑やかにしている。ライゼルの腕を揺さぶり、律動的な動きを見せる。

「ライゼル大変♪ ライゼル大変♪」

 各々がこの状況に対する有効的な打開策を見出せないと判断し、後部座席にいた姉弟は緩やかに走る駆動車から降り立った。ベニューは身軽に鮮やかに、ライゼルは先の負荷から安定さを欠きながら、地面に着地してみせた。

 ベニューはライゼルを庇い、腕を取り身体を支え補助する。先のルーガン戦の負荷が残っているライゼルは、立つだけでも覚束ないようだ。ルーガンからもらった右脇腹の痛手は未だに残っている。

 その負担を考慮した上で、姉弟二人での対抗策を思案するベニュー。

「この異国民相手にどこまで通用するか分からないけど」

 やや気後れするベニューとは対照的に、ライゼルは窮地の時ほど余計に減らず口を叩く。

「なぁに、フロル流喧嘩術は最強なんだぞ。母ちゃんが負ける所なんて想像できないだろ」

 母から喧嘩の仕方を学んだ自分達であれば、大抵の人間に勝てる。ライゼルには普段からそう思っている節がある。加えて、毎日の鍛錬も欠かしていない、と言外に自信を漲らせているのがライゼルという少年だ。

(…確かに。強く否定できない所が、母さんらしいけど)

 ライゼルのそれは強がりだと分かっているが、言葉通りに捉えれば、ベニューもつい頷きたくなる。自分達が模倣しているのは、何し負うあのフロルだ。もし、母の強さに近付けるのであれば、確かに怖いものなしだとも思ってしまうかもしれない。

 そんなやり取りをしながら地面に着地した姉弟は、駆動車を掴んだまま少しばかり通り過ぎて行ったルクに向かって構えを取る。

 追跡対象が駆動車を離れた事で関心が移り、駆動車から手を離したルクは浮遊したままゆっくりとライゼルの方へ向き直る。急に制動から解き放たれた為に蛇行運転で進んでいく駆動車を背に、ルクは真っ直ぐにライゼルを見据える。

「ようやく観念したか、アルゲバル」

 逃走劇を終え、少し先に森の見える平原の中、真っ向から対峙する姉弟と巨体の異国民。

 こうやって並ぶと改めて体格差に開きがあり過ぎる事を見せ付けられる。一回りも二回りも大きな体躯に、全身にまとわりつく膨れ上がった筋肉。そんな巨体が頭上に浮かび上がっているのだから威圧感は更に増している。

 その圧力を前にしても物怖じしないライゼルは、改めてその呼称に対して言及する。

「お前、他人の話を聞かない性格だって言われるだろ?」

「ライゼルがそれを言っちゃう…?」

 やや間の抜けた姉弟のやり取りの最中に、ルクは背中の【翼】を仕舞い、姉弟と同じ大地に降り立った。

(【翼】を消したって事は、おいかけっこはここまでって事か)

 前回の会敵でも、ルクは【翼】を展開せずに戦闘していた。という事は、ルクもここでライゼルを仕留めるつもりなのだろう、ライゼル自身がそう直感した。

 依然としてルクの【翼】の能力は明らかになっていないが、持ち前の腕力だけで充分姉弟を圧倒できるだろう。二人掛かりで力比べを挑んだところで、ルクは苦にも思わないはずだ。

 そんなルクに先程まで妨害されていた駆動車の操縦手ビアン、負荷がなくなった事に気が付き、後方を振り向くと、駆動車から降りた姉弟がルクと事を構えようとしているのが目に入る。

「どういうつもりだ?」

 姉弟が下りるに至った経緯を知らぬビアンは、少し離れた場所で戦闘態勢に入る姉弟を見やりながらそう独り言ちた。

 姉弟が下りた事をビアンより先に知っていた少女は、ライゼル達の同行を興味津々に観察していた。

「ライゼル何する? その人と遊ぶ?」

 その声音は自らも参加したいという願望に満ち溢れているようにビアンは感じた。

「お前はここにいなさい!」

 状況も分かっていない緑の髪の少女まで駆動車から降りようとしたのを、ビアンはすかさず運転席から半ば身を乗り出し制する。この少女が行っては、それこそ自分以上に足手纏いにしかならない。

 いや、本来であればビアン自身が割って入るつもりだった。これまでは【牙】という戦力をライゼルが保持していた為に暫定的に戦局を預けてきたが、現状ではそれに期待する事も出来ない。ならば、ライゼルに戦わせる理由はない。

 だったが、状況は既に進行しており、引き返す事も止める事もままならない。一行の置かれている状況を知らない緑髪の少女が同行していては、尚更ビアンは動けない状況にあった。

(今は子守りに甘んじる他ないか)

 仕方なく引き下がったビアンが視線を向けるのは、流れの中で引き続き戦局を担う事となったライゼル。痛手を負っているが、ベニューと並び立ち、異国民ルクに相対する。

「大体、お前は俺に何の恨みがあるってんだ。何か言ってみたらどうなんだ?」

「問答無用」

 言葉通りにそれ以上は語らず、実力行使に出るルク。大きく上体を捻り、剛腕を振るわんとする。

 その予備動作を風読みの能力にて察知した姉弟は、二手に分かれ回避、そしてその動作から繋げて左右からの挟撃に移る。尚、その間に姉弟が何かを示し合わせたような仕草は一切見受けられない。言葉を交わさずとも、お互いに何をするかは承知済みだ。姉弟が狙うのは、左右からの『花吹雪』による挟撃だ。

 ルクが繰り出した右腕側に逃げたベニューは、回避動作から繋げて、得意技である『花吹雪』の発動姿勢に入っている。華麗な足捌きと重心移動で、発動姿勢にほとんど乱れはない。

 が、一方のライゼルはと言うと、回避まではなんとかこなせたがその際に半ば体勢を崩している。思いの外、痛みが運動に制限を掛けているのだ。

 その上、残ったルクの左手を警戒して未だ懐に入り込めていない。先程の姉の指摘と体の状態が、ライゼルに珍しく躊躇いを覚えさせている。

「くっ」

 ルーガンから見舞われた衝撃がまだライゼルの脇腹に残っている。俊敏な動きを望む際、それが大きな制限をライゼルに与える。万全の状態であれば、相手の動きなど警戒せずに飛び込んでいくのがライゼルなのだが、自由に動き回れないライゼルは、狙っていた動作さえも躊躇してしまう。

 ライゼルの疲労が見て取れていたベニューは、思わず攻撃動作を止めライゼルの傍へ駆け付けたくなる衝動に駆られる。

(万全の状態でも上手くやれる可能性は低かった。他に手段がなかったとはいえ、こんな状態のライゼルにさせるべきじゃなかった)

 初撃を避けられたルクは、二人が左右に分かれ挟撃を仕掛けてくる事を、ライゼルのほんの僅かな躊躇いの間に察知できていた。自らの左側面に逃げたライゼルに向けて、真下に振り下ろす形での肘打ちを喰らわすべく、やや左腕を持ち上げる。

 その動きを風読みの能力で察知した所で、今のライゼルは体勢を整える事もままならず、とてもじゃないが続けて回避する事は適いそうにない。

 それを見たベニューは、慌てて『花吹雪』をルクの右腹部へ当てに行く。本来、二人で決めればこそこの場を離脱できていたかもしれない技だが、今は危険に晒されているライゼルを救わんとルクの妨害の為に放つ。舞うようにして軽やかに足を踏み、直後勢いよく両手による掌底を勢いよく突き出す。

「ライゼルには触れさせない!」

 ルクの意識が完全にライゼルへ向けられていた為に、ほぼ無警戒だったベニューの側からの『花吹雪』が、やや正確さを欠いた状態だが見事に炸裂する。弟を守ろうとするベニューの想いを込めた渾身の一撃。当初狙っていた挟撃よりかは幾ばくか威力が落ちるだろうが、それでも常人では耐えられない衝撃が体を襲ったはずだ。

 それなのに、

「ふん!」

 まるでベニューの『花吹雪』など当たっていなかったとでも言うように、ルクはそれに対する一切の反応を見せず、肘を曲げた状態で僅かに持ち上げていた腕を、動けないライゼルの脳天目掛けて振り下ろす。

ベニューは渾身の一撃が通じなかった事に動揺を隠せず、ライゼルは繰り出される肘打ちに為す術がない。

 咄嗟に十字に構えた両腕で防御したが、ルクの振り下ろす肘打ちは勢いそのままに、ライゼルの身体を地面に叩きつけた。

「ぐあぁああ」

「ライゼル!」

 ライゼルは背中から地面に打ち付けられ、余りの衝撃に意識が遠退きそうになる。ルーガンの拳と同等かそれ以上の重たい一撃。当たった個所を中心に身体が弾け飛んでしまいそうな、これまでに経験した事のない衝撃が、手負いのライゼルを襲った。

「まずい!」

 ライゼルが伏せられる様子を駆動車の上から見ていたビアンは、さすがにこのままではいられないと判断する。今のライゼルは、戦闘訓練を積んでいないビアンと比しても大差ないくらいに戦力にならない。それならば、ソトネ林道でやろうとしたように命懸けで姉弟を逃がす方が懸命のようにも思えるのだ。

 そう考えたビアンが、緑髪の少女を置いて姉弟の元へ駆け出そうとした、その瞬間だった。

 ―――それは、一筋の何かだった。青白い光の奔流が、駆け出そうとするビアンのすぐ場を通り抜けた。最初は何だか分からなかったが、その現象には見覚えがあった。牙使いが【牙】を生成する際に生じる発光現象。今の光はまさしくそれだった。

 だが、ではその発光現象を起こしているのは、いや正確に言えば【牙】を現界させているのは誰なのだろう? その正体は、疑問に思ったビアン自身ではないのは確かだし、隣にいる緑髪の少女でもない。離れた場所にいるライゼルやベニューでもないとするならば、一体誰なのか。

 そこまでビアンが可能性を検討した段階で、気付けば両刃斧の形として現れた【牙】が、ルクの左肩に刃を立てている。ルクの眼前で【牙】を振り上げた男性は、その勢いのまま飛び掛かり、攻撃を仕掛けていたのだ。

 仰向けに倒れるライゼルの真上で、ルクに対し攻撃を仕掛けている謎の男性。思わずライゼルの口から疑問の声が漏れる。

「おじさん、誰?」

 ライゼルがそう漏らすと同時に、ベニューは咄嗟に距離を取る。いきなり乱入してきた男の存在を察したからなのだが…

(助けて、くれた…?)

 風読みの能力にて、何者かが接近してくる事は知覚できていたベニューだが、その人物の正体に心当たりがない。年の頃は40代に届くかどうかと言ったところだろうか。無造作に切られたであろう髪に、無精ひげ。その容姿から受ける印象とは裏腹に、身に付けている召し物や装身具は、どれも位の高そうな人物が身に付けるものばかりだ。まるでちぐはぐな印象を受ける目の前の男性。ライゼルより交友関係の広いベニューだが、その男性にはやはり覚えがない。状況を見れば、自分達に加勢してくれているようだが。

「ふむ、無傷…か」

 ベニューが逡巡している間にも放たれた男性の両刃斧による攻撃も、ルクを僅かに怯ませただけで、有効打にはなり得ていないようだ。刃を思いっきり当てられたというのに、ルクの身体には傷一つ付いていない。

 不意に浴びせられる攻撃にこそ大した反応を見せないルクだが、突然現れ自らに仇為す男の存在をさすがに捨て置く事はしない。ルクは問いを投げる。

「…何者だ、貴様?」

 不意打ちを喰らわせた牙使いの男性は、ルクの問いには応じず、代わりに姉弟に向かって問い掛ける。

「ばーさんが言ってた『二枚の花弁』ってのはおめえ達だな? んで、このでかいのを追い払えば良い、そういう事だな?」

「花びらって…?」

 突如現れた牙使いは、姉弟の返事を待たずして、地べたに寝そべったままのライゼルの両足を脇に抱えたかと思うと、ライゼルをルクから離すようにして放り投げる。戦闘に巻き込まない為の配慮なのだろう。

 ライゼルも綺麗な放物線を描きながら遠ざけられ、受け身を取る事もままならず背中から地面と再び対面する事となった。

「あいてっ!」

 先程、ルクからの一撃で背中に衝撃を受けたばかりというに、突然現れた牙使い(タランテム)の男からぞんざいな扱いを受け、またしても背中に痛みを覚えるライゼル。

 痛みに耐えるライゼルを余所に、どこか嬉しそうにする牙使いの男。

「待ち侘びたぞ、『たんぽぽ坊や』。そして、そのお姉ちゃん」

 初対面の男は、ライゼルを『たんぽぽ坊や』と呼んだ。姉弟にはそう呼称する人物に心当たりがあった。

「その呼び方、もしかして星詠様の?」

「そうだ、そのばーさんに言われて迎えに来たぞ、フィオーレの姉弟」

 そこまで言われて察する事が出来たベニュー。未だ男の正体には見当も付かないが、男がいう『ばーさん』はもしかしたら分かるかもしれない。ライゼルを『たんぽぽ坊や』と呼ぶ、母の師匠。姉弟が星詠様と呼称する存在。

 どうやら、その牙使いが自分達の味方らしい事が分かり、一安心したベニューは一旦その場を離れ、ライゼルの元へ駆け付ける。

 巨漢のルク相手に臆することなく堂々と立ち向かう男の姿を注視しながら、ライゼルは傍に駆けつけた姉に尋ねる。

「あのおじさんは星詠様の知り合い?」

「そうみたい。私達を助けてくれるみたいだけど」

 半信半疑で姉弟が見つめる先では、壮年の牙使いが姉弟に代わりルクの相手を務めている。

 牙使いの男は、姉弟を逃がす為に先に仕掛けたものの、一応の意思確認を取る。

「おめえさんがやろうとしている事は、この国では犯罪だ。考えを改め、このまま引き下がるなら、私もこの場は見逃してもいいぞ? 私も無暗に力を使えば、罰せられる可能性もあるしな」

 ベスティア王国民が最も嫌悪する『穢れ』を考慮しての提案。だが、異国民であるルクはこれまでの印象通り、交渉に応じるつもりはないらしい。

「地上の人間如きが敷いた法など、我らを縛るに能わず。再び問う、貴様は何者だ?」

 ここに来て、巨漢の異国民は、ライゼル以外の人間に興味を持ったらしい。ルクが投げた問いに、牙使いの男は応じる。

「私はグルット、とある人物に頼まれ、この姉弟に助太刀する。私に名乗らせたんだ、おめえさんも力を振るう者なら自らの名乗りを憚りはすまい?」

 応じつつ、巨漢の異国民への素性の開示要求を行うグルット。だが、案の定すげなく拒否を突き付けられる。

「いや、貴様らごときに聞かす名は持ち合わせていない」

「そうかい、ならば私の【牙】に討ち取られるがいい!」

 そう言うや否や、両手で握った両刃斧を自身を軸に横回転させ振り回す。その【牙】の扱いには慣れているようで、まるで自身の手足かのように自在に取り回してみせている。その淀みない発動姿勢の後、遠心力と先端の刃の自重を利用した一撃を、不動のルクに食わらせる。躊躇する事なく横一閃に振り切ったそれは、ルクの脇寄りの腹部に見事に直撃する。

 が、その一撃は純白の衣服を破いたのみで、その隙間から窺える内側には、またしてもルクの身体への切り傷どころか痣すら出来ていない。常人であれば肉を裂かれ骨を砕かれたであろう一撃だが、まるで、事もなかったような佇まいで、ルクは自らに仇為す壮年の牙使いじっと眺めている。まさに防御の必要はないと言外に語っているようなものだ。

 これには、グルットと名乗る男も驚きを隠せないようだった。

「たまげたな。手応えは確かにあるのに、腫れすらしないとは」

 助太刀に入ったグルットが呆れる程の鉄壁を誇っても、尚ルクには表情というものが見えない。焦燥感も優越感もなく、ただ手間取りたくないという倦怠感のような色だけ。飽くまでライゼル以外は眼中にない。

「我が用があるのはアルゲバルのみ。邪魔をするなら貴様を先に倒す」

 そう言って、下から振り上げるようにしてグルットの身体ごと拳を突き上げるルク。その力は以前、ライゼルを防御ごと吹き飛ばした威力を有している。

「仕掛けてくるかい。だったら!」

 グルットも、ルクの攻撃動作に合わせて、身体を反応させる。そして、その様子を傍から見ていた一行は一様に驚愕する。

「あのおじさん、なんで防御しなかったの?」

 そうなのだ。ライゼルの指摘通り、一回り以上の巨躯を持つルクの剛腕に対し、あろうことか両刃斧で防御の姿勢を取っていない。むしろ果敢に攻撃を仕掛け、その結果返り討たれているグルットと名乗った男。

 前回ライゼルがルクと相対した時、その体格差から真っ向勝負は危険と判断したベニューが、撃ち逃げ戦法を提言していた。隙を窺い攻撃し、相手が仕掛けてきそうな場合は逃げに徹する。そうする事で、こちらはほぼ無傷で相手と渡り合う事が出来る。おそらくそれが体格差を有する相手への定石となる戦い方だろう。

 それなのに、星詠様から遣わされたらしいこのグルットは、その体格的不利を考慮していないのか、真っ向からの打ち合いを演じてみせたのだ。ルクの振りぬく拳に合わせ、振り被った斧を当てに行く。ただ、その結果はルクの桁外れな腕力に力負けして、身体ごと吹き飛ばされるという結果に終わっているのだが。

 不利な勝負を挑んでいると、傍から見ているベニューの目にはそう映る。

「よっぽど力比べに自信があった…のかな?」

 姉弟の見立てでは、あの怪力に対抗できるとしたら大巨人と謳われたゾア頭領くらいだろう。だが、グルットの肉体はその域には達していない。筋肉量は多少目を見張るものはあるが、比較対象がルクでは勝ち目はない。それに上背もビアンと変わらない程度だ。力比べで勝る要素はどこにも見当たらない。

 それを本人も分かった上でやっている。そう思うと、ライゼルは興奮を覚えてしまっている。

「すげー! 俺にもできるかな?」

 無茶な戦いを挑むグルットを、俄かに格好いいと感じつつあるライゼル。

「この間、剣を掴まれたの、もう忘れた?」

「そんな事もあったっけ」

 姉弟がそんな軽口めいた会話を交わしている間も、ルクの剛腕により吹き飛ばされたグルットは二度三度地面を転がった後、すぐさま立ち上がり【牙】を構え直している。相対する距離から、自身を返り討ってみせたルクの拳をじっと見つめている。

「正面から打ち合っても、拳に傷一つ付かないか。まるで全身が【牙】みたいなものだな」

 万物よりも硬質な【牙】でさえ歯が立たないという事は、つまりそれは【牙】並の頑丈さを有するという事でもある。脇腹、拳にと両刃斧を当てたが、そのいずれも損傷を受けていない。

 その事実とグルットが何気なく漏らしたその一言を受け、ビアンはルクの【翼】の正体に思い至ったような気がする。それが真実かどうかは定かではないが、ビアンは恐るおそるその推論を口にする。

「そうか、あの大男の【翼】の能力は、全身を鉱物のように硬化させる事なのかもしれない」

 これまでの異国民で言えば、テペキオンであれば風流操作、クーチカであれば麻痺毒使用、リカートであれば石化と、それぞれの【翼】には特性があり、今回のルクであれば肉体の強化がそれにあたるのではないかとビアンは踏んでいる。

(飽くまで予測の段階だが、テペキオンの飛び道具や他二人のような相手を一発で無力化するような【翼】でないのなら…)

 何かに思い至ったビアンは、転がり土誇りにまみれた格好で立ち上がったグルットに言葉を掛ける。

「斧の牙使い殿、その大男は【牙】に匹敵する【翼】という異能を有している。ただ、見た通りの怪力と異常に硬い皮膚を考慮して戦えば、あるいは…」

 ビアンがそう言い切らない内に、助言を聞き入れたか怪しい様子で、グルットは再びルクに斬りかかる。

「挑む壁が強大であるほど、私はカッコよくなれる! そういう事だな?」

「カッコ…なんだって?」

 話半分にしか聞いていないどころか、見当違いな理解をしたらしいグルットに、思わず呆気に取られるビアン。

 その一方で、ライゼルは違う反応を見せる。グルットの無謀とも思える戦い方に、言葉を失いつつある。

「なんなんだよ、あのグルットって牙使い…」

「そうだよね、力負けするって分かってるのに」

 ベニューが安易に同調する素振りを見せたが、ライゼルはかぶりを振る。

「違うぞ、ベニュー。あれはおじさんの言う通り、カッコいいんだよ!」

「かっこいい?」

 ベニューが意図を汲み取りかねて山彦のように返すしかできなかったのに対し、ライゼルはのべつ幕無しに熱く語る。

「だってそうだろ。あのおじさんは逃げずに立ち向かってるんだよ。初めて会う俺達を守ろうって、必死に戦ってくれてるんだぞ。こんなに優しい人、他にないぞ」

 その勇猛果敢振りを優しいと称するライゼル。ベニューはなるほどと一人合点した。

(ライゼルが言う『強くなりたい』は、こういう事だもんね)

 誰かの為に自己の犠牲も厭わず、脅威に対しても物怖じしない勇敢な精神。それが、ライゼルの言う『カッコいい』と『優しい』なのだろう。ベニューはそう理解した。

 ライゼルが羨望の眼差しを向けるその先で放たれる、グルットの走り込んでからの初撃は、常人の腰ほどもありそうなルクの太い腕に一度は阻まれる。が、続けて二撃目三撃目と防御した側と反対の脇腹や下って脛に次々に入れられていく。そのどれもがライゼルの渾身の一撃に匹敵する威力であり、グルットは次々とその空気を振るわす程の殴打を見舞っていく。

 その間に漏れる独り言のようなグルットの呟き。まるでこの苦境を楽しんでいるかのように、口の端が持ち上げられている。

「人間とは思えない堅牢な防御。如何なる術かは知らないが、賢王レオンでさえかような傑物と競って勝った事はあるまい。であれば!」

 この抜き差しならない状況で、心が弾むと言ってしまうのは不謹慎だろうか。だが事実、グルットの感情は高揚していたのだった。このどうにもこうにも出来そうにない苦境こそが、グルットにとっての試金石である事は確か。自らを高めるには、またとない絶好の機会。

「私はレオンと並ぶ男になれるはず! そうだろう、星詠のばーさん?」

 今は姿なき星詠様へ確かめるように、いや自身に言い聞かすように宣言するグルット。その間も、一度接近して以降、一切ルクから離れる事なく両刃斧による乱撃を見舞い続ける。肩幅に開いた両足で踏ん張り、両手に掴んだ両刃斧であらん限りの力で滅多打ちにしていく。この国のどこかに岩をも切り裂く牙使いがいると噂されているが、あるいはこのグルットがそうなのかもしれない。もしルクが岩であったなら、既に原形を留めていないはずだ。

 だが、ルクの肉体は万物に勝る【牙】に匹敵する強度。その猛攻にも動じる様子はなく、その悉くを受け切っている。もしこれが牙使い同士の戦いであれば、既にどちらかが重傷を負い、勝敗を決しているというのに。損傷を受けないルクの身体を以てすれば、これくらいの戦闘継続は訳ないのだ。

「鬱陶しいぞ、人間」

 そしてルクは、絶え間なく繰り出される連撃の隙を見て、グルットを無力化せんと反撃の機を窺っている。すると、十秒も経たない内に攻撃の間隔が開いてくる。これまでの連打にグルット自身も疲労の色を隠せない。打ち込んでいる全てが全力での攻撃なのだから。ルクはその隙を見逃さなかった。

「ふん!」

 斬りかかってくる斧を片手で受け止めるルク。がっちり掴んでいる為にグルットもそれを振り解く事は出来ない。

「私の得物を奪おうという魂胆か。そうはさせるか」

 グルットも【牙】への霊気供給を断ち一旦消失させれば、【牙】をルクに奪われる事はないのだが、その手段を取ると、次は唯一の対抗策を失ってしまう事になる。故に力尽くでも放してもらわねばならない。

 だが、並々ならぬ握力を以てして、掌に収められた斧をグッと握り締めたまま。更にルクは、もう一方の腕で斧を取り返そうとしているグルット目掛けて拳を振るう。

「どけ」

「何をッ」

 このルクが間近で仕掛ける強襲に、グルットも抗する手段はそう多くない。それは姉弟達にも分かるのだが、何故敢えてその選択を取ったのかまでは理解できなかった。

「拳で対抗?」

「さすがに無茶だろ!?」

 確かに【牙】が自由に使えない状況とは言え、あろうことか、グルットは自らの拳で抵抗してみせたのだ。

 ライゼルの言葉通り、散々その怪力を披露しているルクに、自力で勝つ事は出来ないグルット。握り拳同士が衝突した瞬間、押し負けるのが必定のグルットは体ごと浮かされてしまうのだった。

 ただ、もう片方の手は【牙】をしっかりと掴んで離さない。その握った手を軸に上方へその身を翻したかと思うと、ルクの広い肩の上に両足で器用に均衡を保ちながら立ってみせる。

「…よっ、と」

「『有資格者(ギフテッド)』である我に足を向けるとは無礼にも程がある」

「ようやくその気になったかい?」

 言うが早いか、飛び降りざまにルクの顔面へ蹴りを入れるルク。【牙】でも傷付かない皮膚を持つルクに、生身の蹴りが痛撃を与える事は適わないだろう。だが、視界を塞ぐ不意の攻撃に、ルクは思わず庇うようにして顔を抑えた。その為、グルットの斧は、解放され重力に引かれ地に落ちる。

「…へぇ。そういえば、まだ頭には打ち込んでいなかったぜ」

 中空で蹴りをかました後、見事に姿勢制御し地面に着地、と同時に自らの【牙】を回収するグルット。一瞬、悪戯っぽく笑みを溢したかと思うと、斧を両手に持ち構える。

 そして、一歩後ろへ下がったかと思うと、縦に一回転二回転と斧を振り回し反動をつけ、その勢いで地を蹴ったグルットは、ルク目掛けて飛び上がる。

「どぉおおりゃああぁ!」

 同時に振り上げた両刃斧に勢いに加え更に自重を加えた、グルットが為し得る最大最高威力の一撃を、ルクの脳天にお見舞いする。

「喰らえ、巨樹両断斧!」

 空中に身を投げたグルットが繰り出す縦一閃、例え如何に太い巨木であっても真っ二つに割ってしまう事から名付けられたグルットの得意技だ。

「んぐっ!」

 衝撃の瞬間、鈍い短い悲鳴を上げるルク。強靭な肉体を過信してかほとんど防御らしい構えを見せなかったのが仇になったのか、無防備な頭部へ強烈な一撃をもらい、この戦いで初めて怯んだルク。

「どうだ、私の一撃は!」

 会心の一発に、見舞ったグルットはしたり顔で巨躯の異国民を見やる。が、グルットが誇る最大威力の技が炸裂した訳だが、ルクは怯みこそすれどその場に立ち尽くしている。決して膝を折ったり、地に倒れ伏してなどいない。

「そうか、まともに受ければ響くのか。面倒事が増えたな」

 と、強烈な一撃をもらったというのに、悠長かつ暢気な感想を漏らすルク。

 この中ではグルットを除いて唯一ルクとの戦闘経験のあるライゼルは、その言葉に驚愕を禁じ得ず、ふと湧いた疑問を口にしてしまう。

「面倒くさいから無防備を晒したってこと?」

 撃ち逃げという戦法が有効的だとか、ライゼルの俊敏性がルクを凌駕していたとか、そういう事ではなく、ただルクが防御を怠った、それだけの事であったと。もしそれが真実なら、ライゼル達がルクに勝てる道理はない。ルクに『まとも』に闘われてしまっては、ライゼル達に勝ち目はないのだ。

 そのルクの五体満足な様子には、さすがのグルットも辟易してしまう。常人相手に試した事はないが、決まれば致死級の殺傷能力のある言葉通りの必殺技である。それが通用しないとなると、グルットも頭を抱えるしかない。

「…ふむ、これさえ通じないか。この輪無しの御仁は人間ではないな」

 思わずグルットが漏らしたその嘆息には、傍から見ていた姉弟やビアンも同意である。

 前回、ボーネ村の外で撃退した時も、ライゼルの剣技『蒲公英(ロゼット)』が通用したかに見えたが、一瞬怯ませたに過ぎず無力化するには至らなかった。相手の体内へムスヒアニマを流し込むという追加要素がないとはいえ、先のグルットの大技もライゼルの『蒲公英』同等の威力があると考えると、この程度ではルクを倒す事は出来ないと認識せざるを得ない。もしライゼルが万全だったとしても、それだけで勝ち目があったとは到底思えない。

(冗談じゃないぞ。どれだけ攻撃を喰らっても傷付かない身体だと? そんなもの無敵の能力じゃないか)

 現状を分析するに、非常にまずい事態だとビアンは苦い顔になる。

 救援に駆けつけたグルットの大技を以てしても倒せないとなると、こちらにはこれ以上の対抗策はない。アバンドからの救援に望みを託してもいいが、向こうにも【翼】を有する仮面の異国民リカートがいる。あちらも劣らぬ強敵である事に違いなく、限りなく薄い希望でしかない。つまり、現状助けは望めないという事だ。

「打つ手なし、か」

 リカートのような対象を一瞬で無力化する能力ではないにしても、あの巨体に暴力を振るわれれば牙使いであろうとなかろうと絶命は免れない。一転攻勢、これからルクが反撃に出ればこの場にいる皆が例外なく嬲り殺されてしまうだろう。

「………」

 巨漢の異国民ルクの表情に慈悲のようなものは見当たらず、真っ直ぐにライゼルを射竦めている。ライゼルが手負いだろうと、手心は期待できそうになかった。加えて、先程認識を改め、防御の必要性を確認していた。下手な反撃はもう通じないと考えていいだろう。

 と思いきや、突如として沈黙を破り、ルクは一気呵成と言わんばかりに攻撃に転ずる。

「もう終わらせるぞ、牙使い!」

 大きく振り上げた握り拳をグルット目掛けて打ち付ける。ここに来て突然とも思えるルクの反撃。これまで受けに徹していたようだったルクが、グルットを亡き者にせんとする勢いで拳を振るい始めたのだ。

 グルットを狙って振り下ろした拳も、捉える事は適わず、地面に力強く打ち付けられる。先のようにルクの攻撃に合わせて斧を振りたいグルットだが、ルクが仕掛ける方が一瞬早かった為に、回避という手段を選んだ。この一瞬間に、自らの行動を選択し実践できるのは、グルットが手練れの戦士であるからだ。これが他の牙使いであれば、こうも見事に避けられていない。

「奴さん、ようやく本気を出したという訳か」

 奥の手を出しても、ルクに一矢報いる事の出来なかったグルットには、もうルクを打倒する手段がない。非情な事ではあるが、グルトにはもう勝ち筋が残されていないのだ。

 それでも尚、グルットは退かず、ルクの注意を引き続ける。それが自らの使命だと言わんばかりに、グルットは戦闘を継続している。

 そして、そんなグルットと対照的に、相対するルクは継続を望んでいないようだ。

「焦ってる?」

 傍から見ているベニューにはそう見えた。先程と何か状況が変化したのか、それは外野からは窺い知れない。その心境の変化の理由はルク当人以外には想像も及ばない事だが、どうやらルクは急いているように見える。

「有利なのは異国民の方に見えるけど…」

 グルットの如何な攻撃も寄せ付けない無敵の身体を有するルクが、一転してこの勝負の決着を急いでるようにも取れる。その証拠に、ルクの攻撃は更に苛烈さを増す。

「ヌゥオッ!」

 これまで拳を振り回す事が主だったルクの攻撃だったが、ここに来てその巨躯からは想像しがたい素早い前蹴りを繰り出してくる。ルクのまるで足元に火が付いたような様子から、形振り構っていられなくなった事が推察できる。

 ルクの子どもの背丈ほどありそうな脚による前蹴りが、眼前に迫ってくるというのはなかなかの迫力がある。言ってみれば、人間一人が体ごと突進してくるようなものなのである。それが命中した時の威力たるや想像に難くない。脚一本でそれだけの破壊力を誇るのだから、もしルクが全身で体当たりをしてきたらと思うと、ぞっと寒気を覚えてしまう。

 と、グルット自身もその脅威を感じているが、その恐怖心をおくびにも出さず、自らの【牙】をぎゅっと握り締め、その蹴りに対して討ち取る構えを見せる。

「無茶だ! 受け切れない!」

 ライゼルが咄嗟にそう叫んだのも無理はない。人体の構造からみても、拳で殴るよりも脚で蹴る方が単純な威力は高い。腕よりも脚の方が長いのだから、運動力学的な観点でそうだと断定できる。ライゼルもこういった理屈を熟知している訳ではないが、経験則としてそれを実感している。ルクの蹴りに対し、真っ向から打って出るのは危険だと判断したのだ。

 だが、当のグルット本人は、その構えた姿勢を解かない。ほぼ眼前までルクの足の裏が迫ってきているというのに、防御の姿勢を取る気配は一切感じられない。さすがにこればかりは、どうしようもないと心の中で皆が思った。そう、グルット以外は…

「ぐおっ!?」

 蹴りが見舞われた瞬間、呻き声が上げられた。その声は、周囲の予想に反して、蹴り飛ばされたグルットのものではなかった。むしろ、その蹴りを見舞ったルクがその声を上げる側となっていたのだ。

「どうなってるんだ?」

 ほんの一瞬の間に、ライゼル達が予想していた未来が書き換えられている。誰の目から見ても、グルットはルクによって蹴り飛ばされているはずだった。距離や間合い、姿勢のいずれをとっても、そうなる事が必定だった。

 が、しかし。実際にはそうならず、壮年の牙使いは先程とは違う位置で斧を振り抜いた姿勢を取っており、対するルクは五体を地に投げた姿勢で仰向けに倒れているのである。

「何事だ?」

 現在の状況から察するに、何かを仕掛けられたであろう事は明らかだが、その何かがはっきりしないルク。実を言えば、グルット当人を除くとベニュー以外の人間もないが起きたのか分かっていない。

 辛うじて何が起きたかを目で追う事が出来たベニューは、答え合わせでもするように、視認した出来事をゆっくり言葉にする。

「踏みつけられた…ように見えた瞬間、『何故か』異国民の背後にいたグルットさんが、残った軸足を殴打して、異国民の姿勢を崩させた…のかな?」

 注視していたはずのベニューでさえ疑問符を付けてしまうような、理解の追い付かない出来事。やった事だけを列挙するなら単純である。直撃する寸前まで攻撃を引き付け、それを回避しつつ背後を取る、そして手にした【牙】で軸足を殴り付け、異国民を転倒させた、ただそれだけの事である。

 ただ、どうしてもベニューが理解できないのが、何故その結果が達成し得ているのかである。もっと簡潔に言えば、それを可能足らしめた人間離れした高速移動を、どうやって実現させたのかという謎が、ベニューの頭を悩ませているのである。

「俺にはあのおじさんが踏みつけられたように見えてたんだけど、気付けばルクが寝転がってたぞ」

「私もほとんど似たようなものだよ。避ける動作なんて全然見えなかったもん」

 結果からそう推察した割合の方が、先の考察では多いだろう。実際に認識できた動作は、最後の軸足を狙った一振りくらいのものだ。それ以前の回避は、位置情報からそう視察できるだけで会って、実際に視認した訳ではないのだ。

 仰向けに転ばされたルクも、何をどうされたのかはほとんど分かっていない。強靭過ぎる肉体がほとんど衝撃を感じない所為で、一瞬の出来事であった事も相俟って、残った軸足への殴打を知覚できていないのだ。

 とにもかくにも、あの不動を誇った巨躯の異国民ルクを、地に伏せる事に成功したグルット。数歩後退って距離を取りながら、

「そう何度も出来る事ではないのでな。これで懲りてくれるとありがたいのだが?」

 と、投げかけるが、やはり想像通りとでもいうべきか、転倒したルクに負傷した様子は見受けられない。【牙】のよる斬撃でも傷付かないのだから、転倒させた程度で無力化できる相手でない事は先刻承知だ。

 先の幻のような技でルクを翻弄してみせたグルットだったが、彼の言葉が真実であれば、無敵のルク相手に誤魔化し誤魔化し戦うのにも限度がある。こちらに決定打が無ければ、疲弊しないルク相手にはじりじりと消耗させられるだけだ。

 状況を鑑みて、無意識の内に諦めの言葉が口を吐いてしまうビアン。

「万事休す、か」

 と、そう皆が半ば諦めかけた時だった。ルクはのっそりと起き上がったかと思うと、周囲が警戒するのも構わず、仕舞っていた背の【翼】を突然展開させた。かと思うと、一対のそれをはためかせ、宙に浮かび上がってみせたのだ。

「お?」

 宙に浮かび始めたルクは、無表情のまま真っ直ぐにライゼルを注視しているが、本人は徐々に天へと昇っていく。それを見たライゼルは肩透かしを受け、おもわず気の抜けた声を漏らしてしまったのだった。

「見逃してくれる、のか?」

 ビアンが独り言ちるように呟いた声に応えた訳ではなさそうだが、空へ上り続けるルクはこう告げる。

「消耗し過ぎた。これ以上は『居』られないか」

 表情にこそ感情は見当たらなかったが、その言葉から惜しむような色が見えた。無表情を常としていたルクには珍しい事だ。

 それよりも、未だ何一つ手傷を負っていないように見えるルクが、何かを消耗しているようには思えない一行。体力は然る事ながら、窮地に追いやられた訳でもないので精神も、どちらも消耗してはいないはずだ。アバンドからここまでの飛行動作に体力を消耗した線もなくはないが、それが原因ではないという事は、相対したグルットが一番感じている事だ。ルクの挙動に、疲れのようなものは感じられなかった。

 この場を去ろうとするルクを見やりながら、手にした【牙】を霊気へと還元させながらグルットは言う。

「異国民、この勝負預かってもいいのだな?」

 空を舞うルクへそう問いを投げると、ルクはライゼルからグルットの方へ視線を移し一瞥する。

「グルットとやら、お前の【牙】もなかなかの素養。一考の余地はありそうだ」

 そして、それだけを言い残すと、二度三度と【翼】をはためかせた後、以前も見せた突如現れる虹色の眩い輝きの中へと姿を消した。その直後、虹色の光も瞬く間に収束し、そこには何もない虚空だけが広がっていた。

「助かった、と考えていいのか?」

 ルクがこの場を去り、一旦脅威から解放された一行。アバンドから息つく暇もなく追い立てられ、ここでようやく緊張の糸が切れる。

「あちらが引き下がってくれたのなら願ってもない事だ。だが、まだ追手がいるとばーさんから聞いている。一度、身を隠す意味も兼ねて、鎮護の森へ行こう」

 グルットの提案を受け、一行はそれに従う事にする。ライゼルはまだ疲弊した状態であるし、グルットや星詠様に尋ねたい事がいくらかある。ライゼル個人としては、先程の不可視の技などに興味を惹かれるが、そもそもグルットの素性に関しては、ほとんどが分かっていないのだ。

 そんなグルットが運転を買って出てくれた事もあり、助手席にビアンが、後部座席に姉弟と緑髪の少女が乗り、一路鎮護の森へ赴く事となった。


 グルットがしばらく車を走らせると、目的地である鎮護の森リエースに到着する。傍から見ても全容がわからない程の規模を誇る自然の要塞。森の周りには壕のような堀がずっと続いている。おそらく、鎮護の森を一周ぐるりと囲っているだろうと推測できる。それはまるで外敵の侵入を阻んでいるかのようだ。

「ここが星詠様がいらっしゃる鎮護の森ですか?」

 困った時は星詠様を頼るようにと母フロルから言い含められていたベニューも、この土地を訪れる事は初めてだった。当時の7歳時分、大きくなれば行けるであろうと思っていたが、結局今日に至るまで自発的に村の外に出る事はなかった。

「ここって普段誰も立ち入らないと聞いてたような…」

 確かグロッタの宿場町にてビアンはそう話していた。容易に立ち入れる場所ではないと。森をぐるりと囲んだ堀や、奥も見えぬ程に密集している木々を目の当たりにしては、確かに進入は困難だろう。

 だが、グルットが駆動車を停止させたそこは、他の部分と比べて明らかに人の手が加えられているようだった。

「丸太の橋、これはおじさんが架けたの?」

「そうだぜ。私一人なら訳ないが、おめえさん達を案内するとなると必要だろうと思ったからな。それに、ばーさんがいる中心部までの道もこさえてあるぜ」

 そう得意げに話す牙使いの男グルット。本来であれば誰も行き交う事のない土地である為に、このような橋は掛かっていないし、整備された道どころか駆動車が通れるような木の間もないはずだった。が、グルットは森の木を間伐し通り道を作り、切り倒した丸太で橋まで架けてしまったというのだ。

「この土地の管轄はどこになるんだ?」

 ビアンが気にしているのは、国有地に勝手に手を加えた事だ。個人が許可なく森林を伐採してはならないと定められているのだ。

「心配するなよ、お役人。ここの管理人にはちゃんと断りを入れている」

「管理人とは?」

 ビアンの疑問にグルットはさして気にする様子でもない。

「これから会わせるばーさんだ。この森の事ならばーさんに聞いた方が早い」

 事も無げと言わんばかりに、すっぱりとその話題を切り上げたグルット。代わりに、ライゼルが問いを投げる。

「それは【牙】でやったの?」

 木を切り倒した事を指しているのだが、グルットは得意そうな顔はそのままに、短い言葉を以て問いに答える。

「『ファウナ:グロ』だな」

「ふぁう…なに?」

「まぁ、追々説明してやろう。とにかくばーさんの所へ案内するぜ」

 促されるまま橋を渡り、森の入口へ足を踏み入れた一行を迎えていたのは、まるで何者もいないような静寂だった。

「なんかすごい静かな場所」

「しずかっ、しずかっ」

 厳かな雰囲気を感じ神妙な顔つきになるライゼルと、普段通り愉快そうな緑髪の少女。二人が溢した感想も、木々の中に飲み込まれたかのように、すぐに静けさを取り戻す。以前通過したソトネ林道と違い、本当に誰の存在も認められない静寂さ。まるで別世界に訪れたかのような不思議な感覚。グルットが通した道が無ければ、本当に人間の存在が感じられない、俗世から離れた場所だ。車輪が鳴らす音がこうも似合わない場所があるのかと、姉弟が奇妙さを覚える程に。

「リエースは普段から誰も近付かないという話だが。これだけの自然があるなら、いくらでも資源として活用できそうなものだ」

 ビアンも初めて目の当たりにする森の木々を前に、何故手付かずで保存されているのか疑問が浮かぶ。建築資材は今後ともベスティア王国発展には必要不可欠なものであり需要がある。せっかくの資源を遊ばせておく理由はないはずだ。

 ビアンが抱いたその疑問に答えたのは、一行を先導するグルットだ。森の奥へ進みながら、後方を付いてくる一行にとある書物の名前を提示する。

「おめえさん達は、ベスティア紀を読んだ事はないかな? 役人さんならあるだろう。あれにその答えがあろぞ」

 グルットが口にした、姉弟にとっては初めて聞く単語に、ライゼルは俄かに興味を持つ。

「ベスティア紀って?」

「たんぽぽ坊やも王都へ行くのなら、王立図書館で読むといい。この国の成り立ちや歴史、伝承が記されてある」

「ベスティア紀か。一度目を通した事はありますが、リエースに触れた記述などあったでしょうか?」

 グルットが言うようにベスティア紀には、この国のあらゆる記録が残されているが、ビアンの記憶が正しければこの鎮護の森リエースについて特筆された記事はなかったはずだ。他はある、王都クティノスはもちろん、鉱石の町グロッタ、三大穀倉地帯のブレ、ミール、カラボキ、比較的辺境の地である花の村フィオーレについても。

 だが、リエースの森に関しては、『鎮護』という名しか与えられず、特に紹介らしい紹介もなかった。

「そう、リエースについて全く言及されてはいない、それが答えだ。不思議に思わないか、何故これ程の土地を記載していないのか。地図に名前があるという事は、もちろん認識はしているという事だ。となれば、国は何かをここに隠しているんじゃないか?」

 鎮護、争いを鎮め外敵や災害から護ること。その名を冠しているという事は、ベスティアの歴史において何か重要な事を果たしたであろう事が推察できるが、それでも記録には何も記されていない。千年王国が維持する平和故にその祈りは重視されなかったのか、それとも別の意図があって伏せられているのか。今はそれを知る由もない。

 ただ、グルットの話す事は否定しづらい事実であるが、ビアンにとっては無視できない要素も孕んでいる。

「先から前王の名を借りたり、王国を怪しんだり、随分と不敬な態度をお取りになられる。クティノス出身とは思えぬ言動だ」

 そう言ってビアンが示す先、グルットの首には見覚えのある身分証(ナンバリングリング)が見受けられる。

「あっ、本当だ。グレトナの身分証に似てる。グルットって王都の人なんだ?」

 王都出身者の身に許された、この国で最も豪華な意匠が施されている首輪。それは、グルットがクティノス出身という事を示している。

「あぁ。加えて、前王レオンの大親友だ」

 レオンと言えば、賢王として知られる先代の王様。全国の交通網を整備させたり、身分証制度を推し進めた人物として知られる。そんな人物を親友と称すグルットに、好奇心旺盛なライゼルが興味を持たぬ訳がなかった。

「すげー! 王様が友達だったの?」

 ライゼルが俄かに興奮した事により、隣にいた緑髪の少女も吊られて明るくなる。おそらく、話の内容をあまり理解していないが、ライゼルの様子から楽しい話題と勘違いしているのだろう。

「おーさま、友達! ライゼル、すげー」

「おい、ライゼルは俺。その人はグルット」

 緑髪の少女に横合いから水を差されたが、グルットが前国王レオンを知っているという事実は、ライゼルを興奮させるには十分だった。これ程、興味深く、更に伺う機会もなさそうな話題はないだろう。俄然、ライゼルの興奮は増す。

 それに反して、ビアンは至って冷静、むしろ冷ややかな視線をグルットに送っている。  

「そこまで謀りが過ぎると、私も官吏として仕事をする事になりますが?」

 窮地を救ってもらった恩義こそあれど、忠誠を誓っている王国の頂点の名を騙ろうなどとする人物は、ビアンにとって不愉快でしかない。

 ビアンに如何わしいものを見るような視線を向けられ、グルットも慌てて訂正を入れる。

「おいおい、冗談なんかじゃないぞ。私はレオンの幼馴染かつ側近だったんだぜ」

 その言葉を以てしても、グルットの言は照明されず、ビアンの疑念は増すばかりだ。

「側近? じゃあ、王様に仕えていたの?」

 ライゼルが水を向けた事で、グルットは何やら自分の懐をまさぐり出す。

「レオンが退位するまで、私は王城勤務する身だったんだぜ。ほら、これがその証拠だ」

 そう言ってグルットは懐からとある貴金属を取り出す。綺麗な細工が施された襟章の装身具で、それは王に仕える為に王城を出入りする事を許された物だけが身に付けられるものだ。ビアンもそう記憶している。

「まさか!? それ程の人物がこんな所で何を?」

 もしグルットの証言が事実なら、この人物は地方官吏であるビアンなんかとは比べ物にならないくらいの上級職という事になる。確かに身に付けている衣服は、なるほど決して安くない品ばかりだ。

「もう退役してるがな。レオンが施行した首輪よりも便利でな」

 グルットが話すように、その王宮仕えの証があれば、様々な場面で忖度を受けられるだろう。言ってみれば、国内では王族を除いて名家に次ぐ身分であるという証だ。これを便利と言わす何と言おう。

 これまで出会った事のない元近衛兵グルットに、ライゼルはいつものように頭に浮かんだ疑問をぶつける。

「ねぇ、王様ってどんな人?」

 唐突な質問ではあったが、グルットも嫌がる素振りは見せず、どちらかと言えば喜色満面に語り始める。

「レオンの事か? あいつはなんというか、胸をすくような男だった」

「どんな風に?」

 後部座席の子ども達からは窺い知れないが、グルットは当時を懐かしむように目を細めて語る、前王レオンとの逸話を。

 幼い時分より城下の子どもと紛れて遊ぶ事の多かった当時のレオン少年。王家の子どもでありながらもそれを鼻に掛ける事はせず、他の子ども達と変わらぬ態度で接していた。当時の国王の直系ではない事もあって、終戦直後であったが、幾分外出も容易だったのだと断りを入れつつグルットは続ける。

 追いかけっこやかくれんぼ、影踏みに兵隊ごっこといろんな遊びをやる中で、王族だからと努めてまとめ役になろうとする事はせず、他の一点に異様な執着を見せていたレオン少年。

「何に拘ったの?」

「あいつはな、誰よりも上手でなければと意気込んでいた…ように見えたぜ」

 曰く、一番を目指すのではなく、他人の手本になれるようにと。勝負事で相手を負かしに掛かるのではなく、より上達するように自身を高めつつ周囲を導こうとしていたレオン少年。

 特に兵隊ごっこではそれが顕著だったという。手加減を知らぬ年少者に飛び掛かられても動じる事なく、年長者相手の体格で劣る場合の力比べにも引けを取らなかった。

 そんなレオン少年に城下の子ども達は憧れ、羨望の眼差しを向けていた。グルットもその中の一人であった。

「子供心に、私もあいつのようになりたいと思ったものさ」

「それがおじさんの言っていた『カッコいい』か」

 思えば、ライゼルにはそういう対象はなかったようにも思う。姉のベニューは確かにライゼルよりいろんな事を器用にこなしていたが、特別それを目指すような事はなかったはずだ。自分は姉とは違うという認識もあったし、とある出会いを経て自己肯定の方法を学んだその時、ライゼルがやらんとする事は決まっていたのだ。誰かを模倣し、追い求めるというより、定めた自分の在り方からぶれぬように、抱いた夢を忘れない。

 とは言え、自分になかった対象を持つグルットの話は大いに興味がある。というより、先程ルクへの猛攻を演じてみせたグルットにそこまで言わせるレオン前王にも、という方が正確か。

「ビアンもそんな風に思った?」

「俺がレオン前国王陛下を拝見したのは任命式の時に一度だけだから、グルット殿程は話す事はないが」

 例えば、国王として為した政策ならビアンも知り得ている。国民なら誰もが知る『身分証制度』を提言し推し広めたのはもちろん、全国に及ぶ交通網の整備、それに伴う雇用制度の待遇改善や教育機関の拡充化、経済発展の為に貨幣制度の見直しを図ったのもレオン前国王である。これだけのベスティア史に刻んだ偉業だけを見ても、如何に賢王レオンが優れた政治手腕を持っていたかが窺い知れる。

「大戦後の国王とあってお前好みの武勇こそ少ないが、ベスティアの平和と繁栄を象徴した偉大な国王だったと、俺は記憶している」

「強いかどうかは微妙なのか」

 ビアンから満足のいく答えが得られなかったライゼルは、親友を自称するグルットにいつもの質問を投げかける。

「じゃあさ、前の王様とグルットだったらどっちが強い?」

 平和を望むこの国の考え方にそぐわない基準を持ち出すライゼルの問いであったが、意外な事にグルットはその質問に嫌な顔はせず、笑みの湛えながら答える。

「もちろん、私だ!…と言いたいところだが、レオンには全く敵わなかったぞ。なんせ歴代最強の【牙】使い(タランテム)と称された男なんだから」

 一行は先の戦闘でグルットの強さを目の当たりにしている。相手が常識外れな能力の為に倒す事は出来なかったが、例えばあの猛攻をライゼルが受ける事になっていたとしたら一溜まりもなかったろう。その男でさえ適わないと称される前王レオン。ライゼルの興味はますます湧いてくる。

「歴代最強!? 前の王様の【牙】ってどんなの?」

「残念ながらそこから先は国家機密だ。賊に知られれば国家転覆を計られるかもしれない。いや、誰が来ようとレオンが負けるとは思わないが」

「そんなに強かったんだ、前の王様」

 グルットが手放しで称賛する前王レオンの強さ。それはおそらく王城内部に留められている評判なのだろう。実際、ビアンは前王レオンが牙使いかどうかは耳にした事がなかった。

 ライゼルがレオンの強さに興味を持った一方、グルットは一行が使うとある単語が気になって仕方がない。

「前の、と言うが、私は今でもレオンがこのベスティアの唯一無二の王だと思っているぞ」

 つまり、レオンこそがベスティア王国の頂点に相応しいとグルットはそう言ってのけたのである。国家に忠義を尽くしていた近衛兵が、その発言をしたのである。

 例に漏れず、ビアンはその発言を咎める。

「それは不敬に過ぎるというものだ、グルット殿。現政権はティグルー閣下が統治されておられる。今の時代で賢王と言えば閣下に他ならない」

 ビアンが学園都市スキエンティアを卒業し仕官したのが6年前。その2年後に即位したのが現国家元首ティグルー閣下だ。若干、20歳でこのベスティア全土を統べる王となった人物。一説によれば、強力な【牙】の存在が王位継承を後押ししたとも噂されているが、真実は定かではない。

「ティグルー王か。四年前、突如として戴冠した若き王…」

 何やらティグルーに対して思う所があるらしく、グルットはどこか遠くを見るような視線を送る。

 そして、そんなグルットが無意識に放った言葉に、ビアンは耳聡く反応する。

「突如? 王位継承は予定されていたものではなかったのですか?」

 本来、余程の事がない限り、次代への継承は急がれない。王が急死してしまった場合や政権を担えないと大臣全員が判断した場合を除いて、十分な教育などを行った後に譲位がなされる。

 だが、グルットが言うには、ティグルー即位はその例外に当たるものだったと。

 もし前王が急逝したなどという大事があったなら、国民皆が知る所となっていたはずだ。ビアンは俄かにそれを受け入れる事は出来ない。

 が、グルットは決して訂正する事はなく、持論を展開する。

「私が知る限りでは、今後もレオンの治世が続くはずだった。レオンもまだ40半ばだ、隠居なんて早すぎるだろう」

「言われてみれば、そうかもしれませんが。前国王は今どちらに?」

 ビアンが尋ねると、グルットは初めて一行の前に、何とも言えない悩ましげな表情を晒す。

「わからんのだ」

「わからないって?」

 ライゼルが山彦のように返し、グルットは更に続ける。

「私は各地を巡ってレオンを探しているんだ。四年前、突然ティグルーに王位を明け渡し、行方を眩ませた親友レオンをな」


 結局、駆動車に揺られながら森の中心部に至るまでに、いくつかの分岐路を経由する事となった。

 というのも、この道は元々姉弟を案内する為に作ったものではなく、グルットが森の内部を調査する為にあちこちを切り開いていく内に出来てしまったという経緯がある。その為、だだっ広い森の中には、いくつもの伐採箇所があり、案内された道はその中でも比較的短距離で通れるという道だったに過ぎない。

(管理者という人物は、ここまで大味な間伐を許可したのか?)

 ビアンがそう疑問を抱きながらも、駆動車がグルットの運転で森の中を進んでいくと、急に開けた場所に出る。フィオーレの広場くらいの広さがあるだろうか。そこには、これまで通ってきた道のような切り株はない。元々、開かれている場所なのだろう。

 そして、その開けた空間の中央に、大人三十人が手を繋いでようやく抱えられるかという程の幹の大樹があった。樹齢で換算すれば、如何程だろうか。これまでのベスティアを見守ってきたと言っても誇張ではないような気がする。グルット曰く、この大樹こそが鎮護の森の象徴であり、星詠様の住まう住居なのだと。

 適当な場所に車を停めて、車を降りる一行。そして、そのまま大樹の前までやって来て、自然と皆がそれを見上げると、その木の上から、誰かの声が聞こえる。穏やかな謡うように優しい女性の声音。

「よく来たね。『立ち上がる者』、それに『たんぽぽ坊や』」

 一行を、厳密に言えば姉弟を温かく迎えたのは、星詠様と呼ばれる老女だった。緑髪の少女と変わらぬ程の小柄で、年齢を感じさせる皴を刻んだ顔に、一つ結びに束ねられた真っ白な髪。柔和な笑みを浮かべているからか、それとも元々目が細いのか、眼は見えず瞼を閉じているように見える。

「御無沙汰しています、星詠様」

「おい、ばーちゃん! 俺のおねしょはとっくに治ってるぞ」

 恭しく頭を下げるベニューとその呼び名に抵抗感を示すライゼル。

「おねしょ? ライゼルおねしょ?」

 緑髪の少女も茶化すつもりでもないが、ライゼルが恥ずかしがるその語を楽し気に繰り返す。

 先程、グルットがそう呼称した時は特に疑問も浮かばなかったビアンであったが、予想外の言動を取るライゼルの様子に、改めて尋ねる気になった。

「なんだ、母親のダンデリオン染めから由来しているんじゃなかったのか、その渾名は」

 ライゼルと蒲公英が結び付くとしたら、それは母親フロルだろうとビアンは考えていたのだが、渾名の由来としてはそっちではないらしい。ベニューがその由縁を説明する。

「星詠様が一度フィオーレを訪れた時に、干してある布団を見られた事をきっかけにあの渾名が付きました」

 ここで言う『たんぽぽ』とは、俗にいう赤ちゃん言葉でのおねしょの事を指すとベニューは解説した。蒲公英には利尿作用があると知られており、それが『たんぽぽ坊や』の由来だった。

「ベニューも説明してんじゃないぞ」

「気にするな、たんぽぽ坊や。レオンも昔は怖がりでよく失禁してたぞ」

 ライゼルの恥ずかしい過去に絡めて、比較するのも畏れ多い前王レオンを引き合いに出すものだから、ビアンもグルットに注意を入れるしかない。

「あなたがいると、どうも前国王が気安く感じられてしまうな」

「それも気にするな、なんたって私はレオンの親友だからな。で、ばーさん、言われてた姉弟を連れて来たぜ。約束通り、レオンの行方を教えてもらおうか?」

 ビアンの指摘を意にも介さず、自らの用事を済ませようと星詠様に水を向けるグルット。

 話を逸らされた挙句、内容の見えない話を前に、ビアンは困惑してしまう。

「どういう事だ?」

 その疑問には、グルットに代わってベニューが答える。

「おそらく、グルットさんは星詠様の占いを聞きに来たんだと思います」

「占い? そんなもので行方不明者が見つかるのか?」

 ビアンが懐疑的な態度を取るのも無理はなかった。古今東西、国内を見ても呪(まじな)いの類は決して少なくないが、根拠や理由が明らかになっている事象などほとんどない。例えば、ミールで当てにしたミュース石も、一応の根拠は示されている品物だからこそ使用に踏み切ったのであって、信用度の観点で見れば数少ない例だ。ビアンも迷信を信じる口だが、それは自らの戒める為であって、決して安易に縋ったりはしない。

 そんなビアンに対し、何故だかライゼルは胸を張る。

「星詠のばーちゃんの占いは絶対に当たるんだ。俺やベニューの名前も当てたんだから」

「それは母さんが星詠様に名付けを頼んだからでしょ」

「そうなんだ?」

 これでは星詠様による占いの信憑性は変わらない。そもそも、ライゼルが何と証言した所でビアンは易々と信用しなかっただろうが。

「この人物は王都でも名の知れた人物なのだろうか?」

 ライゼルからは確証が得られそうにないので、ビアンは代わりにグルットに水を向けた。上級職に就いていた人物が当てにするという事は、何かしらの曰くがあるのかもしれない。

 と、ビアンが何か期待して投げた質問だったが、

「いや、初めはレオンの足跡を辿ってここを訪れた訳だが、偶然星詠のばーさんと出くわしてな。占い師だとはつい先日知ったばかりだ。情報をやる代わりにお遣いを頼まれてくれって事だったんでな。その姉弟を迎えに行ったんだ」

 と、グルットも決して星詠様なる人物の素性を知っている訳ではなかった。

「では、その人物がこの森の管理者というのは…」

 ビアンが恐る恐る口にすると、対照的にグルットはあっけらかんと言い放つ。

「森中を調べて回ったが、このバーさん以外に誰も遭遇しなかったし、誰かが住んでいる痕跡もなかった。という事は、このばーさんが管理者というのが当然の帰結だぜ」

(不法侵入者という線はないのか…)

 グルットの無理やりな理論に辟易しているビアンだが、ただそれを否定するだけの根拠を持ち合わせていないのも事実。グルットが開拓するまで進入経路はなかったという。それはアバンドでの聞き込みからも証言が得られている。それなのに、この星詠様なる人物は、既に森の中にいた。という事は、以前から故あってここに住んでいる人物なのだろうと推測できる。それに、目撃証言もとい存在自体は、姉弟やその母親によって鎮護の森という明確な居場所を含めて既に示されていた。法的手続きを踏んでいるかは定かではないが、ここの住人という一点に関しては間違いないのだろう。

 であれば、管轄外のビアンが咎める事ではない。追及するにしても、詰所にて確認してからでも遅くはない。

「管理者云々はさておき。異国民の【翼】の脅威も知らなかっただろうに、よくその程度の信憑性で姉弟を助けようと…」

 ビアンがグルットの軽率さを詰ろうとしたところで、グルットもすかさず反駁する。

「そうは言うが、このばーさんの占いはどうやら本物みたいだぜ、お役人。『この日この地に二枚の花弁が舞う』と予言していて、実際にこの姉弟が来たんだからな」

 グルットはそう弁解しながら、ライゼルとベニューを指さした。

「二枚の花弁、私達の六花染めの事ですね」

 ベニューもそれが自分達を指す言葉だとすぐに理解した。世間でも草木染めを、中でもとりわけフロルのダンデリオン染めとベニューの六花染めの事を『花』と称する事がある。六花染めを身に付けた二人組がこの地に訪れる、確かに根拠としては無視できない内容だ。

 だったが、それでもビアンはやはり腑に落ちない。

「占いなんて当てになるとは思えないが。事実、私も六花染めを羽織っているし、この少女も首巻きにしている」

 もし『四枚の花弁』と事前に告げられていたなら、それなら何とか納得する事が出来たかもしれない。

 そんなビアンの不信感を察してか、白髪の老女は言葉を紡ぐ。

「星は動き続ける…それは人も同じ…」

 曰く、占いは完全ではない、と。実際、星詠様も何もかもを見通せる訳でなく、漠然としたお告げを受けるだけなのかもしれない。それを必要とする者に伝え聞かす事が、星詠様の占いなのだろう。

 いずれにしても、当のお告げを賜ったグルットは、存外あっさりと受け入れているようで。

「まぁ、こんな誰も寄り付かない土地に人が来たってだけでも信用に足ると私は思っている。それに、他に頼る術がないからな」

 そこまで言って一旦言葉を切ると、改めて星詠様の方へ向き直るグルット。

「それでばーさん、レオンはどこにいるんだ?」

 そう問われた星詠様は、やはり瞳を閉じたまま、ゆっくりと言葉を紡いでいく。何かが彼女には聞こえているのだろうか、どこか遠くへ想いを馳せているような優しい声で。

「どこにもいなくて、どこにでもいる…この惑星(ほし)が永遠の住処…」

 その抽象的な漠然とした言葉に、ビアンはやはり首を捻る。

「どういう意味だ?」

「星詠様の占いって当たるんだけど、よく意味が分からないんだ。俺達も実際に起きてから、そういう事か、ってなる感じだったし」

 ライゼルも星詠様の言葉を信じてはいるが、それを他者に伝えようとすると言葉が見当たらない。

 星詠様の言葉に一番馴染みの、あるいは慣れのあるベニューが先の言葉を読み解こうと試みる。

「おそらく、方々を彷徨っているという事ではないでしょうか。この国のいろんな所を前国王様は旅をしていると」

「つまり、何の情報もない、という事が分かった訳だな」

 然程気落ちする様子でもなく嘆息してみせるグルットを余所に、ビアンは姉弟へある問いを投げる。

「お前達の時はどういう内容だったんだ?」

 姉弟が星詠様の占いに全幅とは行かないまでも信頼を寄せるという事は、何か前例があったはずなのだ。母から「信用に足る」と言われただけでは、ここまで疑いなく信じる事は出来ないだろう。

 ビアンが先のように問うと、姉弟はほぼ同時に真っ直ぐビアンを見つめる。二人が一斉に自身を見るものだから、ビアンも思わずたじろいでしまう。

「なんだ、訊いちゃいけなかったか?」

「いや、そうじゃなくて」

 そう弁解し、ベニューの方へ見やるライゼル。

 それを受け、ベニューはビアンへ視線を向けた意図について説明する。

「正確な文言は忘れてしまいましたが、ライゼルの旅立ちを手伝う者が現れるだろうって」

 その当時、まだライゼルは村を出る事を計画していなかったというのに、星詠様は姉弟にそう告げ、実際にライゼルは村を発つ事となった。この占いを知っていたからこそ、それを望まないベニューはライゼルの配給品を代理で受け取ったりして妨害しようと画策していた訳だが。

 そして、姉弟は今現在、その予言で仄めかされている人物を、視線の先の人物だと認識しているようだ。

「まさか、それが俺だと言いたいのか? 冗談じゃない」

 言霊などの迷信を信じる性分のビアンではあるが、先にも断ったように、それは不安要素を事前に想定しておく事で心身への負担を減らす為にという狙いがあるからだ。だが、今回のように、自身に言われもない責があると咎められた場合は話が変わってくる。確証のないその言葉を、疑いなく信じ込む気には流石になれない。それに、その解釈であれば、テペキオンだって旅立ちを手助けした者に違いない。如何様にだって捉える事が出来るとビアンは考える。

 先の言葉を姉弟がそう解釈したからと言って、ビアンはそうは受け取らない。まるで一連の件は自身に責任があると言われているように感じてしまうのも、ビアンがその占いを信用しない一因になっているかもしれない。

「でも、それだけじゃないよ」

「他には何を言い当てたと言うんだ?」

 飽くまで頑なに信じようとしないビアンだが、姉弟にはまだ過去に占いが的中した例があった。

「事前に予言していた訳ではありませんが…」

 ベニューはそれだけ言うと後は口篭もってしまう。

「どうした? 何か言いづらい事か?」

 それ以上、何かを続けようとしないベニューの代わりに、ライゼルが答えを紡ぐ。

「母ちゃんが死んだ日に星詠のばーちゃんがフィオーレに来たんだ。『約束を果たしに来た』って」

 その内容が如何なものかはビアンも分からぬが、ベニューが口を噤んだ理由は判明した。母との死別を思い出してしまったのだろう。

「知らぬ事とは言え、悪い事を訊いた。すまなかった」

 ビアンが自らの行いを詫びる隣で、グルットは首を傾げた。

「おめえさんらの母親はあのフロルだろ? 亡くなっていたのか」

 姉弟がフロルの子どもだという事は星詠様より事前に訊いて知っていたが、存命かどうかは知らなかったグルット。

「はい、母は十年前に他界しました」

「十年前、か」

 十年前、この国では様々な事が起きていた。『フィオーレの悲劇』に留まらず、全国の交通網整備に身分証制度の導入、学園都市での不祥事に伴う変遷、医学界の名門一家のお家取り潰し、とグルットがざっと思いを巡らしただけでも、かなりの事件が発生した時期であった。それらの時代を生きた者としてグルットは思いを馳せている。

 すると、例の如くライゼルがグルットの言葉に対し、関心を示す。

「おじさん、母ちゃんのこと知ってるの?」

「ダンデリオン染めのフロルと言えば有名だからな。私が王城に仕えていた時も、フロルは何度か城を出入りしていたぜ。その頃は私が20半ばだったか。しばらくして姿を見なくなったが、そうかフィオーレに戻っていたんだな」

「王都にいた頃の話はあまり聞かされませんでしたが、確かその頃に母と星詠様は知り合ったんですよね?」

 ベニューに話題を振られた星詠様は、穏やかに微笑んで詩的な言葉で返す。

「そうだよ、風といっしょにあの子に連れられてね」

 それを聞いたビアンは怪訝そうに眉根を寄せた。

「星詠殿は共にフィオーレへは行かなかったのですか?」

 星詠様には身分証が付けられていないので、一目では彼女の出身地を知る事は出来ない。が、まさかここリエース出身という事はないだろう。という事は、フロルと共にフィオーレへ行かずここに留まった理由があると考えた。星を占う事が出来る人物が、国の公式記録に残らない土地で残った理由。ビアンはそれが気になったのだ。

「ここには人がいなかったからね。ちょうど良かったんだ」

 それ以上の何かを伝える様子を見せない星詠様。まるでそれだけで十分説明できたと言わんばかりの様子だ。

「ちょうどいい? それは喧騒が煩わしかったと?」

 ビアンが星詠様に尋ね返した問いだったが、代わりに納得した表情の姉弟達が呟く。

「確かに。母ちゃんといる星詠様って想像つかないかも」

「村長も母と一緒にいると余計疲れると話していました」

 自分より星詠み様を、当然ながら母フロルを知る二人がそういうのだから、本当にそうなのかもしれない。これ以上の追求は止そうと考えるビアンだった。

 それよりも、まだ占いの信憑性が認められた訳ではない。グルットが話題を先の件に戻す。

「その時に、ばーさんと初めて顔を合わせた訳だ?」

 姉弟の母が死んだその日、星詠様はフィオーレの地へ訪れたと話していた。それまでリエースに留まっていたのであれば、村の外へ出た事がない姉弟は、そこで初めて星詠様と対面した事になる。

「元々、母から星詠様の話は聞かされていましたから」

 事の重大さに気付いたかもしれないグルットは、恐る恐る思い浮かんだ事柄を口にしてみる。

「ばーさんは、まさか人の寿命まで占う事ができるのか?」

 神妙な表情を見せるグルットに、星詠様は力なく笑って見せる。

「…そんな便利なものじゃあないよ。星が流れそうだったからね。急いだけど、間に合わなかったね」

 星が流れる、それが死の予兆だったのだろうか。いや、吉兆を占う事は出来ても、明確な未来を見通す事は出来ない、そういう事なのかもしれない。もし自在に占う事が出来れば、もっと早くに赴いていただろうから。

「そうか。ではレオンの安否も占える訳ではないという事か」

 少し残念なような、それでいてどこか安心したような表情を見せるグルット。もし不吉な結果が伝えられたとしてもグルットはそれを信じなかっただろうが、それでも耳にしたくない言葉には違いない。

 グルットが言葉を継がなくなった代わりに、ビアンは先程から気になっていた点に言及する。

「『約束』とは何の事だったんだ?」

 その質問に対しては、姉弟揃って首を捻る。

「ベニューになんかをしてたけど、あんまり憶えてないや」

「多分、私の星脈を診てくれてたんだと思います」

 自信なさげにではあるが、ベニューは推論を告げる。確信を持って言えないのは、星詠様が事の真相を姉弟に伝えていないからなのだが、問い質した所で明確な答えが返ってくるとも思えないので、結局聞かず終いだ。

「ん? ベニューが星脈不全だとは帳簿にもなかったが?」

 ビアンが言うように、フィオーレの名簿に、星脈異常者は記されていない。ベニューに限らず、フィオーレに輪無しと認定された者は存在しない。

「はい、別にそういう訳ではないんですが、おそらく健康指標の確認を」

 星脈は身分証に由来する公的な役割を持つばかりでなく、当人の健康状態を図る指標となり得る。大まかな検査にはなるが、それでも医学の発達していない国内では、その役割は決して小さくない。もし自身が何かあった時の為に、残される姉弟を心配したフロルが星詠様に言伝ていたのかもしれない。姉弟の面倒を見て欲しい、と。

 そして、星詠様は約束通りにフィオーレを訪れたのだろう。フロルの身に何かあったであろう事を占いで察して。残された姉弟の健康状態を確かめる為に。

「へぇ、ばーさんは占いだけじゃなく星脈の診察も出来るのか」

 多才であるからという訳ではないが、それだけの人物であれば占いの信憑性も多少は上がるような気がするグルット。他にも知識の披露なんかがあれば、底無しの傑物に思えるかもしれないと一人空想に耽る。

「それにしても、何故ベニューだけ…いや、ライゼルはそうか」

 ビアンが独り言ちるようにして呟き、ライゼルがそれに胸を張って答える。

「おう、俺はその頃には【牙】を持ってるって分かってたよ」

 当時、発現できてなかったが、母譲りの【牙】を持っているであろうとその星脈の様子から判明していたライゼル。アバンドの町でも触れたが、【牙】を持つ程の人間の星脈が異常を来しているはずがない。ライゼルは検査するまでもなく、健康と判断したのだろう。

「それでベニューを再検査したという事か。まぁ、【牙】の性質は往々にして遺伝するが、そもそも【牙】が発現するかどうかは解明されていない分野だからな。珍しくもない」

 ビアンのどこか慰めるような言葉に、ベニューは慌てて首を振る。

「別に【牙】がない事で気落ちしたりしません。母はそれ以上に確かな思い出を私達にくれましたから」

 そんなベニューをまるで我が子のように慈しむ星詠様もそれに同意する。

「そうさね、あの子は間違いなく二人を愛していたよ」

「おう」

「はい、私もそう思います」

 星詠様からのお墨付きに、ますます母の愛を強く感じる姉弟。

 その様子を傍らで眺めていたグルットだったが、急に背伸びをして、踵を返す。

「さて、結局レオンの明確な居場所は分からなかったから、また探しに行かねば、だな」

 またどこかへ向かおうとするグルットの背中に、ビアンは声を掛ける。

「案外、人里離れた所で静かに余生を過ごされているのかもしれない。そっとしてあげるのも親友の役目とも思いますが」

 その呼びかけにも振り向かないままでグルットは答える。

「何が余生だ。レオンにはまだやる事があるんだ。加えて、レオンは仕事をほっぽり出して居なくなるような奴ではない。何か理由があるはずなんだ」

 あるはず、なければいけない、ないなら今のような状況にはなっていない、とグルットは考える。レオンが治世を任せ、城を去らねばならなかった理由。それは何か必ずあるはずなのだ。

 その理由と親友の行方を捜すグルットは、そう言い残して立ち去ろうとする。

 ビアンもこれ以上何か言うのを止めて、別れを告げる。

「そうですか。遅くなりましたが、助けていただいた事、誠に感謝しています。ではご健闘を」

 ビアンがそう言って手を振り出した時、その横合いをライゼルが駆けて行き、グルットに追い付くと手を取って引き留める。

「待って」

「なんだ、たんぽぽ坊や。帰り道なら印を残しておくぜ?」

 その只ならぬ様子から、帰り道を心配しているのではないとグルットも察し、冗談で返してみせた訳だが。ライゼルが告げるその一言は予想外のものだった。

「俺、おじさんに戦い方を教えて欲しいんだ」


 次の町へ発とうとしていたグルットを引き留めたライゼルは、そのままどこかへ彼を連れて行ってしまった。身内であるベニューや引率者であるビアンの前では気が引ける事をしようとしているのだとすぐに察する事が出来る。「戦い方を」と乞うたという事は、つまり修業を付けてもらおうという魂胆なのだろう。

 相手が良識のある(少なくとも法を順守する素振りを見せた)グルットという事もあり、ビアンも口煩く禁止はしなかった。そもそもライゼルも満足に動ける状態ではないし、無理はしないだろう、ビアンはそう考えたのだった。

「まったく無茶する奴だ。何がライゼルにそこまでさせるのやら」

 許しはしたものの、ライゼルの突拍子もない欲求に、ビアンも理解を示した訳ではない。戦闘行為をしていない自分でさえも、駆動車を動かし続けたが為に脚が筋肉疲労を起こしている。言ってしまえば、パンパンに膨れ上がっているのである。

 ビアンが信じられないと言った様子で呆れてみせるのに対し、ベニューは仕方なく苦笑してみせる。

「ライゼルの強くなりたい病は本人が満足するまで治りませんから」

 フィオーレでの一件以来、【牙】を行使しての戦闘を繰り返してきたライゼルだったが、相手を満足に打ち破った事は一度としてない。どれも相手が慢心していたか運に助けられた戦いばかり。相手が万全の状態で全力で挑んできたら、ここまで辿り着いていない可能性の方が大だった。

 それを思えば、ライゼルが現状に満足していないというのも、少しは理解できるかもしれない。

「ライゼルびょーき♪ ライゼルなおらない♪」

 何の事だか分かっていない様子の緑髪の少女。少女もライゼルに付いて行こうとしていたが、ベニューが諭してここに留まらせている。あちらに同行するよりは、こちらで一緒にいた方が問題は少ないと考えての処置だ。

「そもそも、星詠様に強くなる方法を教わると話していなかったか?」

「そのつもりでしたが、グルットさんの戦い方を見たら…」

 ビアンの言う通り、グロッタの宿場町を出る時には星詠み様に知恵を授からんと考えていたが、先程のグルットの勇猛ぶりを見てしまっては、ライゼルがそこに強さの近道を見出してしまうのも仕方のない事かもしれない。

「ライゼルはそっちに興味を持つ、か。それもそうか…それで結局、占いに頼るのか?」

 ビアンもライゼルの言動に一応の理解を示した所で、問われたベニューは首肯を以って応じる。

「はい。母の言い付けでもありますし。きっと力になってくださると思います」

「まぁ、ライゼルを待つ間手持ち無沙汰というのも具合が悪いしな。訊くだけ損はないだろう」

 アバンドに戻るにせよ、次の経由地へ進むにせよ、ライゼルには帯同の要請が出ている。【牙】を出せるまで星脈を回復させるという意味合いもあるが、ライゼルが王国衛士による特訓で何かを掴むのであれば、願ったり叶ったりだ。これからの道中、より戦闘が激化していくだろう。であれば一行には、否応なしに戦力の充実が求められるという訳だ。その理由があったからこそ、先を急がずこの時間を割いている。

 ビアンが目配せで促すと、ベニューは聳える大樹の上に佇む老女に向き直る。

「この度は星詠様のお力をお貸し頂きたく参りました。星詠様、巷では異国民が【翼】という異能を用い『狩り』なる行為を以て悪事を働いています。この事について何かご存知ではありませんか?」

 ベニューの伝える事柄に対し特に表情を変える様子はないが、星詠様は静かに吟味した後にそれに答える。それが占った結果に降りてきた言葉なのか、元々知り得ていた事なのかは定かではないが、星詠み様は静かにこう告げる。

「七枚の『翼(ヴォラーレ)』が下りて来るよ。もう保てないんだろうね」

 星詠様はそう紡ぐ。表情こそほとんど変わらなかったが、どこか儚むような声音だったのはベニューの気のせいだったろうか。

「ヴォラーレ? それは異国民の【翼】を指す言葉なのでしょうか? それに保てないとはどういう事ですか?」

 矢継ぎ早にベニューがそう問うても、星詠様はそれに対して明確な回答をせず、続けて次の新たな言葉を紡ぐ。

「父に力与えられし子ら…母に眠る命を起こさんとす…」

 然程当てにするつもりはなかったビアンだったが、相変わらずの星詠様節に思わず脱力してしまう。

「その詩的な表現は何とかならないのか?」

「そうですね、星詠様は具体的な事はあんまり…」

 これ以上、星詠様が何かを告げようとしなくなり、ベニューは先の言葉が現状得られる限りの情報なのだと察する。

『父に力与えられし子ら、母に眠る命を起こさんとす』、父と母と子らとあるように、何かを家族に例えているのだろうか。もちろん異国民について問うたのだから、これは異国民の事をこのように例えているのだろうと推測できる。

 当初は乗り気でなかったビアンも、お告げの言葉に何か気になる事があるようで、気付けば推理を開始している。

「『父に力与えられし子ら』というのが異国民を指すのか」

 口にしながら、フィオーレの地でのテペキオンの発言をベニューとビアンは思い出す。確か、『生まれ持つ者(タランテム)』ではなく『有資格者(ギフテッド)』なのだと。

 牙使いとは先天的な素養であるが為に、生まれながらに能力を持つ者として認識されている。そして、テペキオンは同一視される事に拒否反応を示した。それはつまり、生まれついての能力ではなく、誰かに与えられた能力なのだという事なのかもしれない。そう解釈すれば、星詠様の言葉と符合する。

「とすると、『母に眠る命』とは何でしょう?」

 父から力を与えられた『子ら』を異国民とするなら、対となる『母に眠る命』という役割を与えられたものは何に当たるのだろうか。その謎かけを紐解きながら、関連する事柄を探していく。

「言葉通りに捉えれば、赤子という事になるが、それを起こすとは産まれさせるという事か? なんだかしっくり来ないな」

「そうですね。それに眠るよりも宿るの方がぴったりな気がします」

 額面通りの解釈では、何を意味しているのか全く想像できない。となると、視点を変える必要があるのかもしれない。

「では、母が何か別のものを指す言葉になる訳か。命を収める母胎…何かの入れ物、袋、箱、壺、瓶…」

「物だけでなく、『命』を入れるものと言うなら、私達人間も入れ物に相当しませんか?」

 現段階では、『母に眠る命』が何を示す比喩なのか分からない。いくらでも想像は出来るが、断定できる材料はほとんどない。 いくつか候補に挙げたものの中に答えはあるのか、それすら判別しようがない。

「ふ~む、候補を挙げれば切りがないな。ならば、起こすとは何だ? 力を授かった『子ら』を異国民と仮定するなら、つまり起こす事が異国民達の狙い、という事にならないか?」

「テペキオンは『狩り』という行為が目的だと話していました」

 『狩り』、ベニューやビアンには馴染みのない言葉。側近を務めていたグルットなら何か知っていただろうか? ともかく、少なくともベニュー達のような一般的なベスティア国民には、その言葉がどのような意味を指すのか皆目見当が付かない。

 なので、現状は(テペキオン達異国民の行動から推理して)それが何らかの害為す行為だと仮定して話を進める。仮定の上に推論を重ねるのは意味の薄い事だと理解しているが、今はそれしか方法がない。

「その『狩り』が『母に眠る命』を起こす事と同義、になる訳か」

「今の所の情報だと」

「父と母、対になる存在…異国民に能力を授けた『父』とは誰だ? 他国の王か」

 異国からの侵入者という認識も現時点では確証のない仮定でしかない事はビアンも承知の上。ただ、その仮定通りに当てはめても、人間があのような【翼】という能力を生み出し他者に与える事が出来るのか、不可解でしかない。それは人間の業ではない。

「異国民達の首領に当たるのでしょうか」

 ベニューも口にしつつも歯切れが悪い。ビアンと同じく、そんな事が可能なのか疑問視しているのだ。

 星詠様自身も占いは絶対ではないと言っているので、それが外れていたとしても文句はない。むしろ、内容が内容だけに、それが現実では起こらないと言ってくれる方が安心も納得も出来る。

 だが、これまでのほぼ全てを(好意的解釈込みで)的中させているのが、またベニューを悩ますのだ。自分達の推理に抜けがあるのか、そもそもお告げが間違っているのか。確証が一切ないままに始めた推論なので、砂上の楼閣よりも脆い考察だ。

 ビアンもその事は十分に承知だが、否定する事はいつでも出来る。今は、得られた情報から少しでも異国民の素性や目的を読み解かねばならない。望まぬ形ではあるが、ビアンはアバンドにて異国民に関する調査を命じられている。職務に忠実なビアンはここで投げ出す訳にはいかないのだ。

「おそらく、そうなのだろう。ただ、何かまだ忘れている事がありそうな…」

 何もかもが情報不足で釈然としない事ばかりだが、他にも引っ掛かる事がビアンにはあった。だが、それが何なのか、喉元までは出掛けているが言葉として出てこない。

「忘れている事ですか?」

 ビアンが逡巡してみせるが、ベニューもすぐに何か思い浮かぶような事柄はこれと言って見当たらない。ただ、言われてみれば、今の推理には何かが抜け落ちているような気も確かにするのだ。

「あぁ、父母同様に対になっているものが、何かあったような気がするんだが」

 眉間に皴を寄せ腕組しながら思考を巡らすビアンの傍らで、緑髪の少女がその状況さえも愉快そうに、弾んだ声で口を挿む。

「ライゼルは? ライゼルまだ来ない?」

 続けられる推理に興味がないのか、この森のどこかで修業中であろうライゼルを気に掛ける緑髪の少女。

「ん? さっき言ったばかりだから、まだしばらくは…」

 そこまで言いかけて、ビアンは言葉に詰まる。正確に言えば、一旦ライゼルへと移った意識が、何かに気付かせようとしている気がするのだ。

「ライゼル、牙使い、【牙】…」

「ライゼル、【牙】出せない? 大きい人の【翼】見たからびっくりした?」

 この問い自体は見当違いなものだったが、その中の単語は謎解きの鍵になるかもしれなかった。

 少女が知ってか知らずか。【牙】と【翼】はお互いに相反する性質を持っている可能性がある。牙使いの青白い光と『有資格者』の赤黒い光の反発。グロッタの宿場町にてテペキオン戦でベニューがそれを目撃し、鉱山窟の保管倉庫にてのクーチカ戦でビアンもそれを目の当たりにしている。そのどちらもライゼルが相争って起きた事象だ。緑髪の少女が知る由もないはず事なのだが、まさかどこかで見聞きしているとは考えられないので、当てずっぽうなのだろうと然程気にも留めないが。

 それでも、ビアンに直感めいたものを覚えさせるには十分な一言だった。

「…そうか、それだ!」

 緑髪の少女が口にしたその二つの単語により、ビアンは閃く。むしろ、先程までの疑問に少女が正解を突き付けたのという表現が相応しいか。

 ビアンが答えまで導かれたのとは対照的に、ベニューはまだそこまで至っていない。

「どうしたんですか?」

 ビアンは答え合わせでもするように、先程まで展開していた推理を整理していく。

「テペキオンは言っていた、自分達は生まれ持っていないと」

 ライゼルが「『生まれ持つ者(タランテム)』ではないのか?」という問いに、テペキオンは否と答えた。代わりに『与えられし者(ギフテッド)』だと、先の発言を撤回させていた。

「はい、そこから異国民が何者かに力を授かったと推理しました」

「その通りだ。だが、着目すべきは何も異国民の側だけじゃないという事だ」

「と言いますと?」

 ベニューが先を促すと、ビアンは視点を変え、馴染み深い存在に着目する。今はこの場にいない心優しき問題児に。

「『生まれ持つ者』、つまりは牙使いだ。牙使いは誰から【牙】を授かる?」

「一般的には、両親からと言われていますね」

 牙使いの親から生まれた子供は、生まれつき【牙】を持っている可能性が、非牙使いの家庭より僅かだが確率が高い傾向にある。故に、一般的な認識としては、ベニューが言うように、親から授かると言った認識で間違っていない。

 が、ビアンはかぶりを振る。本質はそこにないという。

「そうだが、それじゃない。【牙】の源となるものは何だ?」

「霊気(ムスヒアニマ)でしょうか?」

「そうだ。【牙】の元である霊気は地殻の中に内包されていると言われている。とすれば、なんだか先の謎かけが解けそうな気がしないか?」

 ビアンは今回の謎解きに霊気まで持ち出してきた。なんだか、途方もない話をしているとベニューは感じつつある。

「【翼】持ちと牙使い、大地から生まれる牙使いを『母に眠る命』と解釈できる…という事ですか?」

「おそらくな。では、異国民が誰から力を授かったか。突拍子もない話ではあるが…」

 ビアンに促され、ベニューが至った答え。それは余りにも荒唐無稽が過ぎる。

「地と対を為す『空』!? 異国民は空で生まれたって言うんですか?」

 ベニューが驚くのも無理はない。この世界において、誰が空に住む者がいると想像できるだろう。自分達の想像の範疇の外に住む異国民。ただ、あの【翼】を以てすれば、その絵空事にも一定の説得力が付与されるのもまた事実。否定するには他の根拠が足りない、という方が正確だろうか。

「飽くまで仮説だが、符合する点もいくつかある。実際に奴等は空を自由に駆ける【翼】を有している上、テペキオンやルクは毎度姿を消す時に天を目指すだろう? あながち間違いではないだろう。もっとも星詠殿の占いを全面的に信じるならばという注釈は付くが」

「空からやってきた異国民。俄かには信じられませんが」

「自分で言って何だが、絵空事にしか思えん内容だな。閣下に申し上げるのがとても躊躇われてしまう程に」

 ビアン達の推理が一息ついたところで、ふと星詠様が口を開く。

「懐かしい匂い…未だ容(かたち)だけの命…器だけじゃあ整わないねぇ。それじゃあ、あなたじゃないものね」

 気付けば暇を持て余していた緑の少女は、いつの間にか木の上に上り、星詠様の膝の上に乗って甘えているようだった。星詠様は細めた視線で、アバンドから同伴している緑髪の少女を見つめていた。

「星詠殿は何と?」

「容…多分、この子には名前がないの?って訊いています」

 そう言われて、その時初めてビアンは少女の名について気に掛ける。思えば、誰もその子の名前を呼んではいなかった。

「そういえば、名前を知らなかったな。何と言うんだ?」

 そう問われて少女は即答。

「わかんない。もってない」

 まるで関心のないかのように、そう言い放つのだった。忘れてしまったのか、それとも最初からなかったのか。

 自らの名を命よりも重いと吐く異国民がいる一方で、自らの名前に関心を持たぬ謎の少女。身分証を持たぬ点から異国民である可能性も否定できないが、少女の様子から何かを害する事を企んでいるとは考えづらい。

「預かってくれる所が見つかるまで、名前がないというのは不便だな。なにか適当な名前があれば」

 ビアンが思案する仕草を見せた横で、ベニューがこう提案する。

「星詠様に名付けてもらうのはどうでしょう?」

 そういえば、ライゼルやベニューはこの星詠様から名前を賜ったと言っていた。重ねた年輪を見ても、含蓄のありそうな人物だ、名付け親としてはこの場では間違いなく最適な人物だろう、ビアンはそう考える。

「この子や星詠殿が構わないと言うのであれば」

 ビアンの同意を受け、ベニューは先の提案を枝の上に腰掛ける少女にも持ち掛ける。

「どう? 私とライゼルは星詠様から名前をもらったんだよ」

「ライゼルといっしょ? なまえもらう!」

 ライゼルと同様に星詠様から名前をもらうのが余程嬉しいのか、急に木の上に立ち上がり、大きく両手を天に突き上げる。

 その高揚を少女からの同意と受け取ったベニューは、星詠様に恭しく頭を垂れる。

「うん、そうしよう。星詠様、お願いします」

 求められた星詠様は、ゆっくり頷いた後に隣に立ち上がった少女へ一瞥をくれる。

 どの名前を与えようか思案している、というより、少女の本質へ目を向けている。星詠様が向ける視線からは、そんな雰囲気が感じられた。

「永き時を紡ぎ、自ずから息吹き育つ…其の容は『光受ける命(フィル)』」

「フィルか。素敵な名前だね」

 姉弟の名付け親である星詠様は、その少女に新たな名前を授けた。『光受ける命(フィル)』と。

「フィル…? それはフィルのこと? フィルはフィルになった?」

 一人称が既に名付けられた自身の名前になっている辺り、余程気に入っているのか順応性が高いのか。どちらにせよ、この緑髪の少女改めフィルの素直さが見て取れる。

「そうだよ、フィルちゃん。今日からあなたはフィルちゃんになったんだよ」

 誰もがそうなのかもしれない。名前を与えられ、認識されて初めて、この世界に存在するようになるのかもしれない。そういう事であれば、この少女はフィルとして初めて周囲のベニュー達に認識されるようになったとも言える。身元不明の放浪者ではなく、たった一人の少女として。

「すごい! フィル、はじめてフィルになっちゃった! フィルはライゼルじゃないからフィルになった?」

「誰とも同じじゃない特別な命だから、あなただけの名前をもらったんだよ」

 星詠様がどのような由来でその名を与えたかは定かではないが、もしライゼルと同じ出自で同じ性質で同じ存在であったなら、同様にライゼルと名付けたはずだ。違う名前を持つという事は、その人だけの自我同一性を持っているという事に他ならない。誰とも違うたった一人の存在として。

「星詠様、お世話になりました」

 ベニューが再度恭しく頭を下げると、星詠様は口元を上げ柔らかく微笑む。

「蒲公英は風に乗って種を飛ばす…風がまた吹いた…」

 何事か、あるいは誰かの事に言及したのだろうが。それはベニューにも判然としなかったが、フィルにとっては興味の埒外にある事だ。

「ほしよみさま、ありがとー! フィル、名前だいじにするー!」

 フィルは決して名前に関心がなかったのではない。与えられた事がなかった為に、どのようなものなのか知らなかったのだろう。だが、実際に与えられてからはこの喜びようだ。一つの個として認識されること。それは決して不必要だったのではない。むしろ、名前を呼ぶ誰かを求めていたのかもしれない。フィルにとっては、それがライゼル達だったのだ。

 無邪気にはしゃぐフィルを見て誰かを思い出し、ビアンは所在なさを露にする。

「オライザに着く前のライゼルを思い出して、なんだか腹が立つな」

 初めて友達が出来たと、広くない駆動車の中や天井を喜びながら暴れ回った時の事を言っているのだろう。

 確かにその時の事を彷彿とさせるフィルの喜びようではあるが、若干ビアンの言葉は相応しくない。ベニューはそれを見咎める。

「そんなこと言っちゃうと、あの話蒸し返しますよ?」

 ビアンはまだ答えを保留にしている話題がある。それはビアンにとって忘れたい事だし、ベニューにも忘れていて欲しい話題なので、それを持ち出されると弱い。ライゼルに加え、フィルにまでそれを知られるとなると、ビアンの面子は丸潰れになると本人は考えている。

「ちっ、違う。ライゼルに似て愛嬌があると言ったんだ」

「フィル、ライゼルに似てる? やったー! フィル、ライゼルにフィル教える。早くライゼルのところいこー」

 逸るフィルを横目に、半ば安堵したビアンは、話題を変えるようにしてベニューをちらりと見やる。

「先を急ぎたいのは山々だが。出口までの道、覚えているか?」

「いえ、初見で覚えられるような経路ではありませんでしたし…」

 さすがは自然要塞と言われるだけの事はあり、複雑な道を辿ってきた一行。加えて、その経路もグルットが無計画に切り開いて通した道だ。ベニューも道を覚えていないとなると、鎮護の森から出るには道案内を依頼せねばならない訳だが。

「……」

 星詠様は穏やかに微笑むばかりで、案内を買って出てくれるような気配はない。これまでに一歩も歩いたり、そもそも立ったりしない所を見ると、足を悪くしているのかもしれない。そう思うと、星詠様を頼る事は出来そうにない。

 それに、あの道はグルットが後から作った道なので、星詠様が道案内を出来るとも思わない。

「仕方ない。あの強くなりたい病達が戻ってくるのを待つしかないか」

 

 そして時は少し遡り。ベニューとビアンが星詠様よりお告げをいただいていた頃。リエースの森の中、中央に座する大樹とは少し離れた場所にある開けた場所に、ライゼルとグルットは居た。

「おじさんの【牙】、あれは斧?」

 倍以上の体格差のあったルク相手に、引けを取らなかったグルットの【牙】。それにライゼルは強い興味がある。もちろん自身の【牙】に全幅の信頼を寄せてはいるが、強さそのものに興味がある為に、ライゼルは漠然とした切り口で強さの秘密に迫る。

 問われたグルットも、やや得意げな面持ちでそれに答えてみせる。彼もまた自身の【牙】を誉れと思っている人物なのだろう。

「あぁそうだ。『ファウナ:グロ』の【牙】だ」

「それ、さっきも言ってた。ファウナ? グロって?」

 聞きなれない言葉に、ライゼルは山彦のように問い直す。『ファウナ』も『グロ』もライゼルは初めて耳にした言葉だ。

「私の【牙】は分類上、そう呼称されているんだ。国お抱えの学者が言っていたから間違いない」

 グルットが言うには、『ファウナ』の部分は各牙使いに共通して伝えられていて、後半の部分にはそれぞれ固有の名称が割り振られているのだとか。同じ所属の者の【牙】は、ファウナ:ウルシダエやファウナ:メラノレウカ等と呼ばれ分類されていたらしい。

 クティノスや学園都市スキエンティアには、歴史学や生物物理学などの様々な観点から、【牙】の研究を行う機関がある。先の呼称は、その学者から伝えられた分類上の名称なのだとグルットは話す。

「じゃあ、俺のは?」

 他の牙使いの、言ってみれば二つ名のようなものの話題に触れて、ライゼルがその疑問を口にしない訳がなかった。ダンデリオン染めのフロル、六花染めのベニューと比較して、自分にはそういう通り名がない。もし、自分にもそのような『ファウナ:なんとか』があるなら、それはぜひ知りたい事だ。

 だったが、グルットも少し弱り果てたように頭を掻いた。

「そう問われても、私も分類に明るい訳ではないしなぁ。それに、おめえさんの【牙】を見た事ないんだぜ?」

 如何に王国の近衛兵であっても、【牙】に関する専門的な知識を持っている訳ではない。それに、ライゼルが【牙】を限界出来ない今、知識があったとしても確認のしようがない。つまり、現時点でライゼルのファウナを調べる術はないという事だ。

 それでも、どうしても知りたいライゼルは、知恵を絞って考える。

「なら、母ちゃんの【牙】はどうだろ?」

 グルットはライゼルの母を知っている。そして、【牙】の性質は基本的に子へ遺伝するものと言われている。であるなら、ライゼルの【牙】は、その母の【牙】と同じ分類である可能性が濃厚だ。グルットがフロルのファウナを知っていれば、そこからライゼルのファウナも辿る事が出来るかもしれない。

 どうしても母と同じファウナである事に違いはないが、母がファウナ:何某と名乗っている所をライゼルは見た事がない。であるなら、その名乗りはライゼル固有のものになる可能性は十分にある。ライゼルはそれに期待した。

「フロルの【牙】か。悪いが、私は知らないな。だが」

「だが?」

「フロルは王城に出入りしていたからな。私達と同様に検査を受けているはずだ。研究機関の学者にでも聞けば分かるかもしれないな」

「そっか、王都に行けば…」

 もし尋ねる機会があれば、直接自身の【牙】や星脈を検査するよう懇願しようとライゼルは密かに企んでいた。

 そこで一旦話題が尽きたと判断したグルットは、改めてライゼルに水を向ける。

「それで、私に訊きたい事はそれだけか?」

「そんなはずないじゃん。座学はいいから、代わりに【牙】での戦い方を教えてよ」

 もちろんライゼルの真の目的は、呼称の判別にはない。稽古を付けてもらう事こそが、引率者の居ない離れた場所までグルットを連れ出した理由だ。

 そう目論んでいたライゼルに対し、グルットは飽くまで冷静に応対する。

「【牙】が出せない奴が何を言ってるんだ。それに、まだ体が痛むんだろう? 無理はしない方がいいぜ」

 だが、その程度の事でライゼルは引き下がらない。痛みと天秤に架けたものをグルットに伝える事で説得しようと試みる。

「平気だよ。それに、この機会を逃せばもうおじさんに会えないかもだし」

 グルットが今後赴くのはレオンの手掛かりがある場所だ。となれば、王都から出立してきたグルットが、王都へ向かう予定のライゼル達と再び会う機会はほとんどないだろう。この広い世界で、再び巡り合う確率は、決して高くはない。

 その機会の稀少性に関してはグルットも否定するつもりはないが、素直に首を縦に触れない別の理由がまだある。

「どうして私に…いや違うな、どうして戦い方なんて乞うてくるんだ?」

 この国において、ほとんどの人間に必要ない戦う力。【牙】を戦力として考えているベスティア国民は、オライザ組などの例を含めてもごく一部でしかない。ほとんどのベスティア国民は、【牙】とは働く為の個性と考えている。

 が、『フィオーレの悲劇』で母を亡くしたライゼルは違う。【牙】を最も頼みとする力だと考えている。【牙】こそが自らの理想を成就する為の唯一の手段なのだと。

「俺、強くなりたいんだ。強くなきゃみんなを守れない」

 少年の切なる想いを聞いたグルットは、異国民絡みだとすぐに察する。

(国内に侵入した移民に対する抵抗力を持ちたいと言う事か。この数日間で余程悔しい思いをしたんだろう)

 実を言えば、このグルットの感想も履き違えている。ライゼルは最近強さに執着するようになったのではない。十年前からずっと切実な願いとして抱き続けている事をグルットは知らない。

 勘違いしたまま、グルットはライゼルを諭し始める。

「家族や仲間を守りたいというおめえさんの気持ちは分からないじゃないぜ。だがよ、争いはこの国で禁止されている行為でもある。付け加えれば、穢れの元でもある」

 長い歴史の中で、隣国との衝突もあったし、遠くない過去に内乱だって勃発している。そのように繰り返された争いの歴史を持つ国民は、戦争を忌避するようになった。それを象徴するように、国家は国軍を解体した。確かにベスティア王国は比類なき大国だが、周辺国からの脅威が全くなくなった訳ではない。現に『有資格者』を名乗る異国民が入り込んでいる。

 だが、その危険性を考慮した上で、敢えて国軍解体の選択肢を取った。それは、国全体が争いによる悲しみを望んでいないから、というのが大きい理由だろう。

 その結果、争いを、そしてそこから生まれる穢れを恐れるようになった。

 元々、大昔から存在したものの、それ程信奉者の居なかったウォメイナ教が広く普及するようになったのは、それが契機だったと一般的には知られている。

 だが、それは一般論であって、ライゼルの生き方ではない。

「知ってるよ。でも、やっぱり俺は強くなりたい」

 ライゼルも不勉強ながら、その辺の事はしっかりと弁えている。知った上で、強さを求めているのだ。『フィオーレの悲劇』で母を失い、カトレアやオノス、ドミトル、グレトナ、ソノラが異国民に襲われ、この世界には生活を脅かす脅威が確かにあると知った今、ライゼルは強くならない訳にはいかないのだ。そうライゼルは考えている。

 そんなライゼルの態度に、グルットはやや語調を強くする。

「その法を定めたのは先々代の国王だ。もちろんレオンも今代元首のティグルーもそれを貫いている。これからの時代もベスティアが千年王国であるには必要な法律だ」

 法を理解し順守するという共通認識があるからこそ、平和は維持される。そのように皆が心掛ける事で衝突を回避する事が出来る。

 ただ、ライゼルにはそれだけでは納得できないのもまた事実。というのも、その法が約束してくれるはずの平和には例外があった。実際にそれをライゼルは体験した。法に縛られぬ異国民という存在に遭遇したのだ。

「規則を守っててみんなを守れなかったんじゃ意味がないだろ」

 以前この問答はビアンとも交わした。ビアンは言った、戦わずとも解決できた可能性もあったと。だが、ライゼルにはとてもそうは思えない。これまで見た異国民襲来の場面は、どれもが危機一髪の状況ばかりだった。ライゼルが躊躇していれば、彼らの笑顔が損なわれていた事は容易に分かる。現に、クーチカに誘拐されているであろう少女達は、表情を、感情を失ってしまっているように見受けられる。そんな事はとても許しがたい事だ。

「私も今日初めてその異国民とやらの力を体感した訳だが、確かにウォメイナ教を信仰しない無法者に対する法整備が追い付いていないのも事実だ。たんぽぽ坊やの言いたい事もよく分かる」

 ライゼルが体験した件に似た一幕は、先程グルットもルクとの交戦で確認している。確かにグルットが手を出さなければ、一行がどうなっていたかは想像に難くない。故に、ライゼルが言う事を頭から否定するつもりは流石にない。

「だったら」

「だがな、理由はどうあれ、力を振るえばおめえさんも異国民と同じ『脅威』になり果てる訳だ。法律で暴力を禁止し、ウォメイナ教に従い穏やかな日々を過ごして初めて、私達牙使いは社会に受け入れられる。国家が敷いた法の下でなければ、たちまちに私達は『脅威』となる。今のように恵まれた個性とは認識されず、仕事を斡旋されないどころか迫害を受ける事になる。その事を忘れてはいけないぜ」

 グルットが語るのは、この国における牙使いの模範的な生活態度だ。力を持ったが故に驕るのではなく、法の下に生き、国家の為にその力を生産的な活動に費やし、代わりに対価を受け日々を充実させる。それが望ましいとされる一般的な牙使いの在り方だ。トッドやファブラがその例に当たる。

「…俺も下手したら異国民と同じ」

 ライゼルの中に、暴力を能動的に自発的に行おうとする考えはなかったが、でも、そうなる危険性は十分にあると自覚している。姉と口論になり、姉弟喧嘩が始まると、つい【牙】を出してしまいそうになる事が何度かあった。自分の思うようにならないから、【牙】という暴力で屈服させようとする。そういう野蛮な考え方。

 改めて指摘されて、その危険性に思い至る。ビアンはライゼルの性格を理解しているので、そこまでくどくは言い聞かせなかったが、他の人もそうだとは限らない。往来でむやみやたらに【牙】を発現させ戦闘行為を行う者を、人は無法者と認識し嫌悪するだろう。それはライゼルが望む事ではない。

「であれば、ベスティア国民としての在り方を損なってはいけない。有事の際には、私達のような近衛兵や治安維持部隊アードゥルがいる。餅は餅屋という事だ」

 今回自分が手出ししたのは緊急事態だったからだと注釈を加えつつ、グルットはライゼルを窘める。

 が、ライゼルはそれだけでは完全に留飲を下げる事は出来ない。

「じゃあ、俺もアードゥルや近衛兵になればいいってこと?」

 ライゼルの中で、彼ら国家に仕える衛士達は武力を持つ事を許された特権職として認識されている。では、自分も彼らのようになれば、夢の実現の為に戦う事が出来る、そう考えたのだ。

 ただ、ライゼルの思惑を知らないグルットは、その的外れと思える解釈に、首を捻らざるを得ない。どうして、ライゼルがそこまで主体的に物事を捉えているのかが理解できないグルット。

「何故そうなるのか分からないぜ? 国家に任せようとは思わないのか?」

 グルットが言うように、一般的な考え方なら国営の組織に任せるのが常識的だ。その為の治安維持部隊が設けられているのだから、そこを頼ればいい。

 だが、ライゼルはと言うと、

「うん、思わない」

 と言ってしまう始末である。退役したとはいえ、実際に国に仕え、奉公してきた者を目の前にして、だ。

「信用できないと?」

「信用も何も、俺、王様に会った事ないし。何してんのか知らないよ」

 曰く、ライゼルの生活圏の中にそれ程国威というのは影響を及ぼしていないのかもしれない。生を受けたその時には既に存在した、誰かが作った価値観とそれを基に運営される国家。村の中だけでは、特に気にする事でもなかったが、外の世界を知り、自分とは違う考え方で生きている者達をいくつか目にしてきた。感銘を受ける事もあれば、疑問も持った事もあった。ただ、国王が為している事は、未だライゼルの体感として認知できていない。

 それはライゼルが単に無知であっただけなのだが、先の言葉に、グルットも何か思う事があったようだ。

 グルットは、ライゼルへおもむろに手を差し伸べながら、こう切り出す。

「どうだ、たんぽぽ坊や。私と一緒にレオンを探さないか?」

 思い掛けないグルットからの勧誘。グルットは自身への帯同を提案したのだった。自身が為さん事をライゼルにも手伝うように、と。そう言ったのだ。

 ライゼルは浮かんだ疑問を素直に口にする。

「なんで?」

 牙使いの在り方云々について話していたはずなのに、気付けばグルットから王様探しを要請されていたのだ。訥々な話題の変更に、ライゼルは付いていけていない。

「話したはずだぜ、レオンは私よりずっと強いとな。おめえさんが強くならずとも、レオンさえいれば異国民は何とかしてくれるはずだ」

 知らず、グルットはライゼルの身を案じていたかもしれない。時代錯誤な面白い奴と評する一方、その在り方が危ういとも思っている。そのライゼルを救う為の手段が、自身の目的と合致していると考えるグルット。

 もちろんレオンの独力という事ではないだろう。レオンを慕う者、信奉する者達は、レオンが退位した後と言っても決して少なくないはずだ。レオンの号令が掛かれば、後手に回っている異国民の件も早期に解決できるかもしれない。グルットはそう考えている。ならば、目的が一致しているグルットとライゼルが組んで、前王を探す事も不自然な事ではないと、そういう事だ。

 だが、ライゼルはそういう思惑があるとは気付かず、首を捻るばかり。

「俺、その人のことも知らないもん。探すったって顔も分かんないし」

 無意識の内にライゼルに興味が湧いてきているグルットは、ライゼルの乗り気でない材料の解消に乗り出す。

「肖像画の写しがあるぞ」

 グルットは、懐に忍ばせていた画布を取り出し、それをライゼルに見せる。全国民に知られる存在ではあるものの、その面貌を誰もが目にした事がある訳ではないのだ。それはその確認の為に携帯している写しだった訳だが、受け取ったライゼルは、難しい表情をして、何度かそれを上下にひっくり返したりしてじっと眺める。

「髪の毛と髭がごっちゃになってる。変なの」

 画布には、墨で描かれた男性の似顔絵がある。やや長めな毛量のある髪に、威厳を備えるような蓄えられた髭、凛々しい瞳はなるほど為政者としての風格を兼ね備えているかもしれない。

 ただ、特にこれといった明確な王様像を抱いていた訳ではなかったが、今見せられているその男性の絵姿が果たしてグルットから聞いた『一番強い男』かどうかと言われれば、ライゼルは首を傾げるしかない。胸部より上しか描かれていない為、それしか判断材料はないが、それでも大巨人ゾアの方が体格的にも強そうだと思えてしまうのだ。

 ライゼルの明らかに信用していない顔つきに、グルットも顔を顰める他ない。

「あの役人の真似をする訳ではないが、おめえさんも随分と失礼な奴だな。そうだな、髪と目の色はおめえさんに近いかもしれないな」

 自分に似ている、と言われ、僅かに好奇心という食指が疼きかけたが、ゆっくり力を抜き肩を下す。

「そうなんだ。でも、やっぱり遠慮しておく」

「何でだ? 王様に会いたくないのか?」

 賢王レオンといえば、当時は臣民皆から愛された人物だ。一目適うというなら誰もが会いたいと望むほどの人気を誇っていたというのに、ライゼルは意外にもそれ程の興味を示さない。この場にベニューがいれば、その理由に思い至ったかもしれないが。

「興味はあるけど、今はみんなが心配だから」

「再三繰り返すが、そのみんなが心配というのは、おめえさんがどうしてもやらなければいけない事か?」

「うん、みんなの笑顔を守るってのは俺の夢だから」

 ベニューは耳に胼胝(たこ)ができる程聞かされた常套句だが、グルットには初めて耳にする事だ。その言葉が指す意味を未だ図りかねている。

「みんなというのは、家族や故郷の仲間の事か?」

「何言ってんだよ。みんなってのはベスティアに住むみんなだよ」

 まさかと思って確認してみたが、グルットの予想に違わず、その範囲は全王国民に及ぶとライゼルは豪語する。

「大した理想だ。だが、それならば尚更私の提言は無視できないはずだぜ。先程も言ったように、レオンの行方は依然不明でばーさんからも詳しい情報は得られなかった。私は困り果てている。そんな私の願いを無碍にしてでも王都へ行くか?」

 これはライゼルに選択肢を与えまいとするグルットの画策だ。もし拒否すれば、それは先の理想が虚言という事になってしまい、王都行きを優先させる理由として破綻している事になる。ライゼルが答えに窮し、申し出を受けるというのであれば、グルットとしては願ったり叶ったりだ。レオンを捜し出すという目的により近付けるだろうし、危なっかしいライゼルを傍に置く事で、守ってやる事が出来る。つまり、一挙両得という事になる。

 そうグルットは目論んだ訳だが、ライゼルの反応は想像に反するものだった。

「えっ? おじさん、困ってるの?」

 言うに事欠いて、この有様である。選択肢の前提の部分に疑問を持っているというのだ。

「恍けているのか? それとも本気で言っているのか?」

「いや、俺にはおじさんが困っているようには見えないんだけど?」

 ライゼルは思った通りの事を口にした訳だが、グルットもそれでは納得がいかない。

「私は職を辞さねばならない程に真剣にレオンを捜しているんだぜ。そう見えないんだったら、事細かに説明してやるぜ?」

 家族や友人や職務のあらゆる事を二の次にして、レオン捜索を第一にしているレオンにとって、ここまで理解が得られないとなると、もどかしささえ覚えてしまう。

 ただ、ライゼルも意地悪で先のように言ったのではない。ライゼルには、ライゼルの基準を以て、グルットの事を見ていたのだ。

「それはそうなんだろうけど、なんていうか…おじさんの笑顔はなくなってない気がするんだよね」

 ライゼルが持つ一つの基準、笑顔が失われそうになっているか、あるいは既に失われているか。その場合、ライゼルは自らの信念に従って、人助けに関して尽力する。ある程度の自己犠牲を払ってでも、笑顔を守る為に助力を惜しまない。それがライゼルの行動理念。

 なのだが、そのライゼルから見るに、グルットという男は困っているように見えない、道半ばに諦めて、途方に暮れたりなどしていない。ライゼルなりの表現で言えば、先も本人が言ったように、笑顔が失われていないのだ。

 確かにグルットは決して諦めたりしていない。誰かの力を借りねば、独力では為し得ないなどと微塵にも思っていない。レオン捜索は自分こそが果たすべき役割なのだと思っている。

「私はまだ甘えている、と。そういう訳だな?」

 図星、という程に突き付けられたとは思っていないが、それでもグルットの中に気付きのような何かがもたらされた事もまた事実。

 グルットからの問いに、ライゼルは少し言いあぐねて、やや照れくさそうにはにかんで見せる。

「おじさんのやりたい事に、俺の力なんて必要ないのかも。おじさんの【牙】はそう言ってる気がする」

 【牙】とは、戦う意志の発露とも言われている。その【牙】がまだ輝きや冴えを失っていないのであれば、孤独に思えるグルットの旅路も、まだまだ捨てたものではないのかもしれない。自身が見込んだ男にそう返されたとあっては、グルットもそれを撥ね返す訳にはいかないだろう。

「そうかい、なるほどな。それでは勧誘失敗だ」

 長い立ち話が続いた所為か、ライゼルはやや気が急いている。ライゼルの望みは今より強くなること。それが適わないとあっては、せっかくの機会を不意にした事になる。王直属の兵士に指南してもらう機会など、今後もあるとは限らない。

「それで、結局教えてくれるの? くれないの?」

「それを決める前に、おめえさん達が今後どうするつもりなのかを具体的に聞かせてもらおうか」

 グルットとしても、もし自分が手解きするとして、それは本当に必要な事かどうか見定めておく必要がある。

 問われたライゼルは、今後の展望を話す。ビアンやベニューと綿密に打ち合わせをした訳ではないが、共通認識としてあるのはこれだ。

「アバンドのリュカやルーガン達の事も気になるんだけど、最終的には王都へ行く。で、王様に会って異国民の事を報告しなきゃってビアンが言ってた。そうしないとみんなが危ないままだって」

 一通りの意志表示をした所で、ライゼルはグルットの顔をまじまじと見つめる。

 グルットはその視線の意味を図りかねている。何か言いたそうにしている時、この少年が相手の目をじっと見つめる事があるのは、先の役人とのやり取りで確認している。

「まさかとは思うが、私の誘いは断っておきながら、自分は私を王都へ同伴させようとしていないか?」

 言い当てられたライゼルだったが、特に悪びれる様子もなく、むしろ説得に掛かる。

「王様と知り合いなんでしょ。おじさんが今日の事を話してくれたら、しんぴょーせーがあると思うんだ」

 これまで自分達が体験した事件と今日グルットが相手取った件を報告すれば、王国としても無視できないはずだ。異国民流入に対する措置が取られるはずなのだ。ライゼルにしては、随分と理屈を伴った考え方だ。

 しかし、グルットにも思う所があるのか、決して首を縦には振らない。

「ティグルーの事も知らない訳ではないが。私が何か言ったところで有利に作用するものでもないと思うぜ」

「そうなの?」

 所詮は一兵士、という立場上の問題もあるが、グルットが言いたかったのは恐らくそういう事ではなさそうだ。

「ともかく、だ。私はレオンを探す。あいつがいれば、この事態も収まるだろう」

 グルットがレオンを厚く信頼しているのは十分理解できたが、ライゼルには今の発言がやや気になってしまう。

「その言い方だと、おじさんも今の王様を信用してないように聞こえるよ?」

「おめえさんまで役人みたいな事を言うんじゃない。ただ、他人に聞かす話でもないが、私は今の王国をどうも信用できないんだ」

 嘆息混じりにライゼルを窘めながらも、決して前言撤回しない辺り、グルットの意志の強さを感じられる。

「知ってる人なのに?」

 グルットが抱いた不信感は、ライゼルからしてみれば、フィオーレの村長やカトレアの言葉を疑うようなものだ。ただ、疑う事をあまりしないライゼルにとって、これはあまり適当な例えではなかったかもしれないが。

 ライゼルの非難とも取られかねない疑問に、グルットは努めて真剣な面持ちで言い放つ。

「知っているつもり、だったのかもしれない。言われてみれば、私はベスティアや親友レオンの事だって知らない事があったのかもしれない。それを確かめる為に、やはり私はレオンを探すんだ」

 グルットの目標は決してぶれない。それはライゼルの信念にも通じるものがあるかもしれない。ライゼルが笑顔の為に強さを求めるように、グルットは平和の為にレオンを必要としている。

 そして、ライゼルはふと思い付いた疑問をグルットに投げかける。

「今の王様は、前の王様の居場所を知らないの?」

 前国王の現在の所在だ、一衛士に過ぎないグルットには知らせずとも、その後を継いだティグルー王には伝えてあるかもしれない。ライゼルにしては、なかなか冴えた考えだ。

 だが、それすらグルットはかぶりを振る。その表情はどこか寂しげにも見えた。

「さてな。だが、何と答えられたところで私は疑い続けるだろう。先も言ったように信用してないんだ。となると、親友レオンに直接答えをもらうしかない訳だ」

 だから、見つけるしかないと。グルットはただひたすらにそれだけを為そうとしている。それだけが唯一無二で最短の解決法なのだと信じている。現政権に疑いは持っても、その手段に対しては一点の曇りもない。

 グルットの意固地なまでの信念に、ライゼルも何か思う所があったのだろう。独り言ちるようにして言葉を紡ぐ。

「ちょっとだけわかる。俺もベニューやビアンが言う事なら、そうなんだろうなって思う。たまにそうじゃない時も結構あるかもだけど」

 おおよその部分でライゼルは二人の事を信頼している。ビアンがそれは悪だと断じるなら危険を承知で異国民にも挑んでいくし、ベニューが最善手というのであれば迷いなくその手段を選択する。ただ、概ねという断りは付くかもしれないが。それが後半の部分に言い表されている。

 たまに結構、この辺の言葉選びに、グルットはライゼルの人間性を見た気がする。別に断言してしまっても特に不具合はなかったはずなのだ。それなのにライゼルは言葉を濁すようにして見せた。おそらくこの少年は、嘘を吐く事を知らない、あるいはその必要性を持たないのかもしれない。誰に怖じるでもない、素直な心の持ち主。グルットはそう感じ入った。

「おめえさんは正直者だな。たんぽぽ坊やみたいな国王ならば、私はこんな遠出をせずに済んだんだろうがな」

「俺が王様? なにそれ?」

 不意に向けられる例え話に、顔を顰めるライゼル。それは想いも寄らなかった事だったからだ。

「王家の血筋が途絶えるとは到底思えないが、もしおめえさんが王様になるとしたら、どんな王様を目指す?」

 飽くまで例え話だ、と注釈をつけるグルット。現政権に多少の疑念を抱いているが、それでも今の王家が断絶するなどとは夢にも思わない。今後もベスティア王国を治めていくであろう絶対君主。それが救世主ノイの子孫である王家の一族だ。

 ただ、レオンに似た何かを感じさせる少年に問うてみたくなったのだ。この少年ならば、何を理想に掲げ治世を行うだろう、と。

 思いの外長く続けられる問答だったが、ライゼルは焦れる事なく付き合い、更にその質問に対し即答する。

「優しい王様!」

 端的に答えているようで随分と漠然とした答えに、グルットは肩透かしを食らった思いだ。

「優しいだけでいいのか?」

 もちろん何か明確な政策を期待していた訳ではない。が、あまりにもそれは幼稚というか、稚拙に過ぎるというものだ。年の頃は16歳であれば、もう少し付け足しがあってもいいだろう。

 他の要素を促されたライゼルは、続けて自らの理念を補強する。

「その為にも、強い王様」

 よくよくこの時代にそぐわない概念を持ち出す少年だとグルットは思う。前回の内乱もグルットにしても幼少の頃で馴染みがない。よく親が子に言う「強い子に育つよう」というのは、病に負けない逞しい子に、と願うのであって、「【牙】を磨け」という事ではないはずだ。生まれた時代的にも知らないはずの観念に拘っているという事は、ライゼルの親つまりはフロルがそう教育したという事なのだろうか?

 その答えを探るべく、グルットはさらに突っ込んだ質問を向ける。

「強いというのは、武力を持っているという意味か?」

 しかし、意外な事にライゼルはその問いかけに対し猛反発してみせる。

「どうしてそうなるんだよ。優しくする為に強くなるんだよ。おじさん、他人に優しくした事ないの?」

「人並みにはあるが。どうしたら、優しさと強さが結び付く?」

 何故、突然ライゼルが機嫌を損ねたのかグルットは図りかねるが、その理由を自ら語り始めるライゼル。

「これは、母ちゃんが死んでしばらく経った日の事なんだけど…」

 幼き時分に母を亡くし、代わりに働き出した姉の力にもなれず落ち込んでいた在りし日のライゼル。

 来る日も来る日も、母の墓柱(ヴァニタス)のある丘へ行き、時間を潰す日々を過ごしていた。そこに母の思い出を感じに行っていたとかそういう理由ではなく、ただ一人になりたかったから。その丘へ行けば、ライゼルは独りになる事が出来た。フロルの死を契機に一層奮励するようになった村の人間達は、その墓柱のある丘にあまり近付かないようになっていたから。

 が、その日だけは違った。ライゼルが独り佇んでいると、外套を被った見知らぬ男が声を掛けてきた。

 フィオーレの人間でない事はすぐに分かった。自分の事を知らなかったし、母の墓柱を見てもフロルの名を口にしなかったから。フィオーレの人間であれば、先の事件は皆が知っているはずだった。なのに、その男が知らなかったという事は、土地の人間ではないという事だ。

 何と声を掛けられただろうか、ひとりか?とか退屈そうだな?とか、そんな感じだった気がする。益体のない話。故に、ライゼルは何も答えなかったと記憶している。

 ただ、二三言を無視した後に、何かの場所を尋ねられた。地名だったか名所だったか当時の自分には聞き慣れない名前のものだった事は覚えている。

 が、ライゼルはそれをその人物に教えてあげる事が出来なかった。今となって考えれば、知らぬ事なのだから仕方がないと思うのだが、当時のライゼルはその事にひどく心を痛め、思わず大泣きしてしまったのだ。

 姉の力になれず、通りすがりのその人に対してもまた力になれなかった。こうしてただ時間を潰しているしかできない自分。誰かの傍にいると、その誰かと比較してとても自分が役立たずで矮小な人間なのだと思い知らされてしまう。だから、逃げ隠れるようにして、この墓柱のある丘へ来ていたというのに。ここでも、悔しい想いは付いてくる。払拭できない劣等感。それらは涙や嗚咽と共に自らの内から溢れてくる。

 突然ライゼルが涙したからだろう、その外套の男は少年に尋ねた、何故泣いているのかと。

『おれはみんなのちからになれない。だれのやくにもたたないんだ』

 偽らざる自分の本心。悔しさも歯痒さも綯い交ぜにして生み出された言葉。姉とは違い自分は、母から染色業を継ぐ事も出来そうにない。若干6歳の齢にして急に突き付けられた無力感。自分は何者にもなれないと悟らざるを得なかった少年時代。

 そんな幼き自分の吐露に、男はこう返した。

『優しいんだな』

 ライゼルには、何故男がそう評したのか全く分からない。故に、ライゼルは大声で叫んだ。

『やさしくなんかない!』

 もし自分が優しければ、こんな所で一人で怠けていたりしない。ベニューにみたいに家の仕事に精を出しているはずだ。それを見ない振りするかのように、母の亡骸の眠る丘へ逃げるようにしてやってきたりしない。

 ライゼルはそう強く否定したが、男は小さくかぶりを振った。

『力になれないと、役に立てないと言ったが、本当にそうか? いや、俺にはそれは間違いだと断じる事が出来る』

 男が何を言っているのか分からず、ライゼルは尋ね返した。

『なんで?』

 幼い少年の言葉を受け、外套を被った男は自信たっぷりにこう告げる。

『俺は今、少年が傍にいてくれるおかげで、独りぼっちじゃあなくなったぞ』

 なんだかその人が言うには随分陳腐な言葉に思えたが、確かにそう言った、独りぼっちだと。他に同伴者がいないのは一目見れば分かる事だが、目の前の人物はその事を、その程度の事をわざわざ口にしなければならない程に気に掛けていたのだろうか? ライゼル少年には判然としない。

『おじさん、さみしかったの?』

 自分の問いに、外套の男はまるで誇るようにして胸を張って言い放つ。

『そうさ、俺は寂しかったんだ。尋ね人には会えなかったし、目的の場所も分からず終いだ。これはあれだ、途方に暮れるしか、落ち込むしかない訳だ』

『そうだったんだ…』

 それを聞いて、ライゼルは余計に胸が苦しくなりそうだった。知らぬ事とは言え、辛い思いをしている人を無碍に扱った事。自責の念に駆られそうになる。

 が、ライゼルがそんな思いを抱く間もなく外套の男は続ける。

『だがな、そんな俺の前に少年がいた。こうやって、話し相手になってくれた』

 予想外の答えに、思わずライゼルは反駁してしまう。

『そんなの! むらにいったらだれだって…』

 それはライゼルでなくとも出来る事。何ならライゼル以外の村の人間であれば、目的の場所の事だって答えられるかもしれない。ライゼルにしかできない事ではない。それが理由では、やはり自分を納得させられない。それなら、やはり自分は役立たずなのだと思い知っていた方が、ぬか喜びせずに済む。これ以上、自分に失望せずに済む。自分を嫌いにならずに済むはずだ。

 何故だか必死になって否定したライゼルだったが、男はそれにも首を横に振る。

『違うぞ、少年。俺はもう限界だったんだ。もうこれ以上、どこかへ歩みを進める事なんてこれっぽっちも出来なかったんだ。身体もボロボロだが、それ以上に心がヘトヘトだったからな』

『ほんとう?』

『本当だ。だが、そこには少年がいた。そう、君だ。それに、傍に居てくれたばかりでなく、俺の力になれないと泣いてくれたんだ。こんなに嬉しい事が、救われる事が他にあるか?』

『なかったの?』

『あぁ、なかった! 俺は少年がここにいてくれた事に、心からありがとうを言いたい。ありがとう!』

 男は一方的に感謝を告げるが、むしろ救われたのはライゼル自身なのではないかと思えてしまう。一時でもライゼルの孤独を解消したのは、他でもないその外套の男なのだから。

 そして、男は優しく微笑んで少年の頭にそっと手を置き、こう語りかけた。

『独りぼっちがどれ程辛いか、少年も知っているんじゃないか?』

 知ってるも何も、つい先程までそれを骨身に染みる程に体験していた所だ。心の拠り所を失い、自分以外の人間に後ろめたさを持ち、居場所を失った自分。

『しってる。ひとりぼっちは…あっ』

 そこまで口にして、ある人物の顔が思い浮かんだ。

(おれだけじゃない。ずっとひとりぼっちなのはおれだけじゃなかった)

 たった一人の家族の為に、幼いながらに慣れない仕事を覚え、家事までこなす一人の少女。いや、彼女はそうせざるを得なかった。どんなに辛くとも、死に別れた母との約束を守る為に、懸命に生きようとしていた。もう一人の家族と共に、生きようとしていた。

(それなのに、おれ…)

 ライゼル少年の瞳から一滴熱いものが零れたかと思うと、少年は精一杯に自分を奮わせ、それを両手で拭った。こんな所で泣きべそかいてる場合ではないと気付いたのだ。

 その様子に、外套の男は満足そうに頷いた。

『少年は自分がどうすべきか、もう知っているんじゃないか?』

『うん。おれ、いえにかえるよ』

 突然立ち上がり、家路へ急ごうとするライゼル。が、急にくるりと男の方へ振り返る。

『おじさんは? だれかよんでこようか?』

 先程、限界だったと言っていた。であれば、誰かの助けが要るかもしれない、ライゼルはそう思った。

 だが、男はかぶりを振り、それを断った。

『やっぱり優しいじゃないか、少年。だが、心配ご無用だ。限界を迎える前に少年に元気を分けてもらったからな。これで俺は世界一カッコよくて強いんだぜ!』

 男はその時強がっていたのかもしれない。だが、当時のライゼル少年にとっては、その言葉は真実のように思えた。世界一かどうかは定かではないが、ライゼルにとってその後も忘れられない程に、強くて格好良かった。

『わかった。さよなら、おじさん! ありがとう!』

 別れ際に礼を告げると、ライゼルには聞こえなかったが、『ありがとう』と男も呟いていた。

 そして、家を目指してただひたすらに走った。息を切らして、涙を拭いながら、それでも力強い足取りで家へと急ぐ。

(さいごにしゃべったのはいつ? でかけるまえはどんなかおしてた? おれ、ねえちゃんのこと、ちゃんとみてなかった…)

 丘を駆けおりて村の広場を通り過ぎて、家の前までやって来ると、やや乱暴なくらいに玄関の扉を開けた。

『ねえちゃん、ごめん!』

『どうしたの?』

 物凄い勢いで帰ってきた弟の姿に、目を丸くさせる在りし日のベニュー。しかも、第一声が「ただいま」ではなく謝罪の言葉。確かに、最近のライゼルはただいまと言う事もほとんどなかったが。

『ねえちゃん、おれはねえちゃんとずっといっしょにいるぞ!』

『えっ?』

『げんかいじゃない? げんきわけよっか?』

『どうしたのライゼル? お姉ちゃんちょっと分からないよ?』

『おれ、やさしくなりたい。かあちゃんとのやくそくをまもりたい。ねぇ、どうしたらいいかな?』

 こうして、見知らぬ男との出会いがライゼルを再起させるきっかけとなった訳で、その事を知らない幼いベニューは当惑しながらも、弟が元気を取り戻した事を喜んでいたのだ。

 そして、それ以来、ライゼルは困っている人を見かけると、すぐにその人の元へ駆け付け、手助けをするようになった。力を貸して礼を言われる事もあれば、何も役に立てずに落ち込み反対に気を遣わせる事もあった。だが、一貫してその困っている人を一人にはしなかった。何かが出来るにしても、何も出来ないにしても、ずっとその人の傍に居続けた。独りぼっちは一番辛い、その事を知ったライゼルは、他の誰かにそんな思いをさせないように心掛け続けて今に至る。

「その人が俺は優しいんだって言ってくれた。だから、俺は優しい人で頑張りたい。みんなを独りぼっちにしない、みんなの笑顔を守る。なれるんなら、そんな王様になる!」

 それがライゼルの心に根付いた信念。自分の中に優しさがあると教えられて以降、それは確かにライゼルという人間を形成する上で、一番重要な柱となっている。

「なるほどなるほど。おめえさんが人に優しくしたいというのは分かったが、やっぱりそこに強さは結び付かないだろう? それは優しさとは別物だぜ?」

 グルット曰く、優しくしたいのであれば、その通り善意を施せばいい。そこに、強さという要素は一切介在しないし必要ない、と。

 だが、ライゼルはやや怒気を交えた調子で反駁する。

「関係あるよ。俺、考えたんだ。そしたら、強くなきゃ優しく出来ないって、そこに居られないって」

「どういう意味だ?」

 ライゼル曰く、強さとは死なない為の要素である、と。あれ程強く優しかった母でさえも、もうこの世にはいない。家族の傍にすら居る事が出来なくなってしまっている。どんなに優しい気持ちを持っていても、失われる恐れが付きまとっている。

 であれば、誰かに優しくし続ける為には、誰かの傍に居てやり続ける為には、前提として自分が生き続けなくてはならない。怪我にも病にも負けない強い自分でなくてはならない、と。

「おいおい、穢れの元が恐ければ、自分から近付かなければいいはずだぜ? おめえさんのやっている事は真逆だぜ」

「そうじゃないよ。だって、逃げられない危険だって間違いなくあるじゃん」

 先程ライゼルは言った、規則を守って誰かを守れなければ意味がない、と。グルットはそれを思い出す。

「それは異国民の事か?」

 断定こそしないが、それも危険性の一つと考えているライゼルは、力強く宣言する。

「少なくとも、母ちゃんは誰かに殺された。あんなに強かった母ちゃんでも勝てない何かがあるんだから、俺はみんなの笑顔を守る為にも、早く母ちゃんより強くならなきゃいけないんだ」

 ライゼルの必死の説得は、グルットにある人物を彷彿とさせた。グルットが探し続けている親友の事を。

『いつまで生きていられるか分からないからな。誰もが笑って暮らせる国を、早く作りたいんだよ』

 いつかだったかレオンが言っていた、自分には時間がないと。

「どこかの誰かさんみたいなこと言いやがって…」

「それでも間違ってる?」

(優しくしなければ、という自身が抱いた強迫観念には気付いていない、か。承認欲求か、あるいは贖罪の意識から来るものなのか)

 やはりここまでの問答を推し進めて、ライゼルがそれをしなければならないという義務や責任はない。彼自身がしたいとは言っているが、それが果たしてどこから生まれた意思なのか。

(いや、私も似たようなものか…)

 レオンのように強く格好のいい男になりたいと願った事は、結局は誰かに強制された事ではない。自身の勝手な我侭だ。そして、その目標であるレオンの頼もしさを近くに感じていたくて、各地を放浪している。

 であれば、似たようなグルットが、ライゼルのそれを咎める事は出来るはずもない。

 そう思い至ったグルットは、ライゼルの問いに対し明確な答えは出さず、代わりに力なく笑って、そして俄かに構えを取る。向けられる視線は先程のように柔らかくはない。迫力を帯びた真剣な眼差し。

「戦い方、というよりは自衛手段に近いがな、それくらいなら教えてやろう。ばーさんの話では、おめえさんらを付け狙っているのは一人や二人ではないんだろう? 身を護る術くらいは身に付けないとな」

 何が琴線に触れたのかは分からないが、グルットは俄かにライゼルへ護身術を指南する気になったらしい。ライゼルとしては願ってもない事。咄嗟に構え、教えを乞う。

「よしきた!」

「たんぽぽ坊やは手負いだから加減はしてやるが、真剣にやらないと明日一日は歩けない身体になるぜ」

 言うが早いか、構えた状態からすぐさま疾走し、ライゼルへ詰め寄るグルット。ライゼルもそれを風読みの能力で察する。ライゼルは持ち前の能力を駆使し、グルットの間合いを詰める足の運び、迫る勢いや上体の揺れもしっかりと把握できている。

 故に、グルットの急接近からの掌底突きも、上体を右へ揺さ振りつつ屈ませる事で、すんでの所で回避するライゼル。グルットの突き出した腕は、ライゼルの頭部横を通り過ぎていく。

 その動作の瞬間、仕掛けたグルットと避けたライゼルの視線が交わる。

(相手の目を見る余裕がある、か。さすがはあのフロルの息子だな)

 もし今の掌底を戦闘経験のない者が受ければ、十中八九避けられず直撃する。万が一避ける事が出来たとしても、避ける事に必死で相手の動きに注視する暇はない。つまり、それが出来たライゼルは完全な素人ではないという事だ。グルットも力試しに繰り出した掌底だが、こうも見事に回避されるとは思っていなかった。

 更に相手の目とは、こちらに様々な情報をもたらす。人間とは無意識の内に対象を目で追ったりするもので、そこから逆算すれば、狙いが何なのか、次にどう行動してくるかを読む事も理論的には可能になる。ライゼルがそれを出来るかどうかは定かではないが、素養は十分ありそうだ。

 思わぬ所で見所のある少年に出会ったと、グルットも称賛の言葉を掛ける。

「いい反応だ。なるほど、アードゥル隊員や近衛兵にだってなれるやもしれんな」

 その言葉を受け、自身が欠かさず取り組んでいる鍛錬の成果を褒められたと感じたライゼル。次の手を警戒しつつも、嬉しさの余りに歓喜の声を漏らす。

「本当!?」

 素直に感情を表しつつも、諸手を上げる事はしないのは当然だが、しっかり距離を取り構えを崩さない所は、抜け目ない。グルットの第一印象以上に、ライゼルには素質があるのかもしれない。

「磨けば光る可能性も…次は回避又は防御の後に反撃してみろ。遠慮はいらない、一番自信のある技で掛かって来るんだ」

「おう!」

 気合十分の様子で応じるライゼルに、グルットも闘気を漲らせながら再接近する。接近と同時に振り被ったグルットの右腕。その動作に、今朝【牙】を激突させたルーガン程の速さはない。ライゼルであれば、充分に見切る事が出来るだろう。

 それを裕に知覚したライゼルは、無意識の内に回避行動を始める。身体は多少痛むが、先よりは随分ましになっている。これなら無理なく反撃に移れそうだ。

 殴り掛かってくるグルットの左側へ逃れ、上体を保ったまま回避成功。そして、その勢いのまま負けじと、完全ではなかったが、ほぼ模倣元に近い動きを再現の後に繰り出される、母直伝のとっておき。

 相手の懐まで足を運び、最後に踏み込む右足と同時に繰り出す両手による掌底突き。

「喰らえ!」

「ほう、そいつには見覚えがあるぜ。フロルの得意技『花吹雪』だな」

 当てるつもりで放った得意技だったが、グルットが僅かに身をよじった事であっけなく回避されてしまう。

 ライゼルの反撃を事も無げに回避したグルットは、その腕を掴み、突きの勢いを利用し、ぐるんとライゼルを投げ飛ばす。

「あいてっ」

 今日はよくよく背中に痛みを負う日だと、ライゼルは地面に仰向けになりながら渋面を晒す。

 その顔を上から覗き込むようにして、グルットは先の一連の動きに評価を下す。

「回避までの動きは悪くないぜ。だが、その後の攻撃が単調過ぎる。練習した通りの事をやった、と見て取れる攻撃だった」

 これまでに何度かベニューにも指摘された経験のある事柄。攻撃が単調で、動きが読みやすいとよく言われる。事実、先の攻撃もライゼルの『花吹雪』への導入が、がさつな性格に反して丁寧な為、軌道としては読みやすい。もっとも、戦闘訓練を受けた事のあるグルットだからこそ回避可能なのであって、一般的な牙使いも容易く避ける、という事はないだろうが。

 割と上手くいった実感のあるライゼルだったが、結果はそれに反して不発に終わっている。手応えの割に結果が振るわず、ライゼルは不服そうな声を漏らす。

「練習通りじゃだめなの?」

 毎朝、日課の訓練を欠かす事はしなかったライゼル。その意義がもしかすると失われるかもしれないと考えると、それは本人にとってとてつもなく恐ろしい事だ。目指すべき理想はあるのに、そこに至る手段がない。ライゼルにとって絶望でしかない。

 ただし、それはライゼルが結果を急ぎ過ぎてしまっただけであり、グルットにはその課題に対する助言がある。

「おめえさんのやりたい事が、練習の成果を披露する事なら、目標達成ではあるがな。動きの型は決して悪くない。むしろ、よくここまで修練したと拍手を送ってもいいくらいだぜ。但しその修練、少しばかり想像力が足りなかったな」

「想像力?」

 思い掛けない方向性の助言に、思わず首を捻るライゼル。速さや正確さに欠けると言われれば理解も出来るが、求められたのは予想外の能力。思い描く力が足りなかったと指摘を受けても、ライゼルにはそれがどういう事か理解できない。寝転がったまま、腕組みし考え込む。

 要領を得ない様子のライゼルに、言って聞かすよりも実際に体感させる方が手っ取り早いと、手を引っ張り起き上がらせるグルット。

「何ならこれまでの実戦経験と言い替えてもいい。まぁ、何度かやってみるぞ」

 そう言って、数度に渡り、先のようなやり取りが繰り返される。グルットの攻撃をライゼルが回避あるいは防御、その後の反撃をグルットが避ける。一度としてライゼルの反撃がグルットを捉える事はない。反撃前にルーガンがしていたような上体の揺さぶりを仕掛けた後に『花吹雪』を放っても当たらず。回避中に側面へ回り込むとほぼ同時に仕掛けても、グルットはそれをすんでの所で手を掴む事で防ぎ。お返しとばかりに、グルットの拳を掴んでから回避を制限した上での片手による『花吹雪』を以てしても結果は覆らず。一度としてライゼルお得意の『花吹雪』は、グルットを捉える事は出来なかった。

 全く解決策が見出せない余り、「服が邪魔で動きづらいのかな?」と真顔で言ってのけた挙句、六花染めの貫頭衣を脱ぎ出す始末。さすがにそれは妙案ではないはずとグルットが指摘したが、その可能性を捨てきれないのか、貫頭衣は腰に巻き付けられるに留められている。

 いくつか試行錯誤してみたが、それでも必中の策は思い付かないライゼル。ベニューなら何か妙案を授けてくれそうなものだが、グルットが特訓によって促そうとしている事は、それでは意味がないのだとライゼルも思う。故に懲りずに考え続ける。

「どうして当たらないんだろ?」

 独り言ちるようにして漏らすライゼルの疑問に、グルットは悪戯っぽく笑って見せる。

「理由はいくつか思い当たるぜ。その技、誰かに教わったのか?」

 その質問の意図は図りかねたが、求められれば素直に応じるのがライゼルである。

「母ちゃんのを見て覚えた」

「直接、母親からか。では、どうやってそれを習得した?」

「どうって、言った通りだよ。母ちゃんがやった動きを真似て、出来るだけ同じように繰り返して…」

 ライゼルがそこまで言いかけて、グルットは遮るようにして短く指摘する。

「それが原因だ、たんぽぽ坊や」

「どれ?」

 ライゼルは覚えた経緯を説明しただけで、今の特訓に絡めた逸話は何も言っていない。今の話のどこに原因があるのかさっぱりだ。

 だが、グルットは先の言を訂正する事はなく、むしろその認識の誤りを追及する。

「おめえさんは無意識の内に、フロルのやった通りにしなければならないと思い込んでいる。当時のおめえさんは余程強烈な印象を抱いた訳だ」

「? そうかは分からないけど、家族の中では母ちゃんのが一番威力高かったし、ベニューのは毎回ちょっとずつ動きが違うから真似できないし」

「大体わかってきたぜ…そういえば、フロルは亡くなったと話していたな。なるほど、生前の母の動きをずっと覚えていられるというのも一つの才能だぜ」

 ライゼルの望んでいない才能を褒められても珍紛漢紛なだけである。もはやお手上げ状態に近い。

「おじさんが言ってる事はよく分かんないぞ。もっと具体的に教えてよ。なんで俺の『花吹雪』は当たらないか分かる?」

「答えは今さっき、おめえさんがほとんど言ったぜ。おめえさんは母親の動きをなぞる事に意識が向き過ぎて、相手を見ていないんだ。姉の動きが毎回違うというのは、姉が相手に合わせて当てに行っているからだ」

 グルットが話すには、ライゼルは母の完成された動きを模倣するあまり、応用が利かなくなってしまっているのだと。目指す完成形はそれに違いないが、それが実践でそのまま通用するかは別問題だと。事実、ライゼルの『花吹雪』の導入は毎回固定の姿勢で、それを見ればどの瞬間にどのようにして来るかは読めてしまうのだ。

 反して、(グルットが直接見た訳ではないから確証はないが)姉はその都度相手の様子を観察し、必中の状態に持っていっている。相手の隙を伺い、防御が手薄な部分を探したり。千載一遇の好機と見たならば、例え不格好な姿勢でも十全に最大威力を発揮できるように持っていく。つまり、相手の動きを想定した戦い方なのだ。

 ところが、ライゼルは違う。全く見ていない訳ではないが、相手がどんな状態であろうとも、自分のやり慣れた形で仕掛けがちな癖がある。それを何度か繰り返す事により、相手に癖を見抜かれてしまうのだ。

 その自覚がないライゼルは、つい力を込めて反駁してしまう。

「ちゃんと見てるぞ?」

「あぁ、私もそうだと思うが、結果から見れば不思議なくらいにおめえさんは相手を見ていない。なんというか、相手の攻撃はしっかり見えているようだが、反対に攻撃の際には、それが出来ていない。正確に言えば、反撃は練習通りに同じ動きを繰り返しているだけなんだよ」

「同じって言われても、『花吹雪』の型はこれが正解のはずだし」

 やや不満げに呟きながら、『花吹雪』の動きをなぞるライゼル。これまで精度を磨いていたつもりだったが、その実、単調化させるだけだったと指摘されてはライゼルも言い訳の一つも言いたくなる。

「つまりだ、おめえさんは得意技であるはずの『花吹雪』を、まだ得意になり切れちゃいねえのさ」

「嘘だろ。俺の十年は何だったんだ…」

 グルットの言葉は、これまでのライゼルの努力を否定するようにも聞こえるが、グルットがライゼルに伝えたいのは心を折る言葉ではない。

「気落ちする必要もないと思うぜ。決して全てが無駄な訳ではないんだからよ」

 これまでの稽古があったからこそ、国家の衛士相手にこれだけの立ち回りが出来るのである。決して無意味なんかではないのだ。ミールの町でイミックに言った言葉が自身には適用されない辺り、ライゼルはいつでも自身が勘定に入っていない。

 そこに考えが至らないライゼルの思考は、この特訓が実を結ばなかった場合の未来という明後日の方向へ向かっている。

「でもこのままじゃ、強くならなくちゃ、みんなを守れない」

 これまで誰に対しても自信たっぷりに接してきたライゼルであったが、その根拠となる特訓によって磨いた戦闘能力が、現時点で通用しないと判明した途端、急に危機感が増してきたように思える。楽観視していた訳ではないが、それでも不可能ではないと思っていたばかりに、この認識の誤差が与える影響は決して少なくない。

 と、ライゼルの嘆きを余所に、グルットは先の発言に妙な部分を見つけた。

「ん? 狙われているのはおめえさんなんだろう?」

 因果関係を辿れば、偶然や誤解はあれど、異国民の因縁はライゼルに集約される。断片的でしかないが、グルットもそう聞き及んでいる。だが、ライゼルもそれは認識しているが、危険は自分のみに留まらないと語る。

「そうだけど。戦うのは異国民とだけじゃないじゃん?」

(このたんぽぽ坊やは、何と戦おうとしてるんだ…?)

 このご時世に、例外的に現れた異国民を除いて、誰と戦う備えが必要なのだろう? 四十年前であれば、国家とアネクス人や義勇軍が争っていたが、それはもう遠い昔の話だ。おそらく、もうこのベスティアで武力に頼った世直しは行われないだろう。それ程までに法治国家としてのベスティア王国は安定している、と少なくともグルットにはそう見える。

 ライゼルの発言の意図は分かりかねたが、決して褒められた考え方ではないように思ったグルットは、それとなくその思考を問い質す。

「同伴している役人は、戦闘は極力回避すると言っていなかったか?」

「言ってたよ」

「では、その方針通り争い事は避けるんだな。再度念押ししておくが、私が教えるのは自衛手段だ。おめえさんを一人前の戦士にしようなんて考えは一切ない。死なすには惜しい、精々がその程度の肩入れだ」

 もしグルットが別の何かをライゼルに見出していたなら、今やっているような回避を軸にした戦法など教え込むはずがない。もしそうなら、彼自身が是とする攻撃に特化した戦法を叩きこむはずだ。相手の攻撃に対しても、真っ向から打ち合う防御をしない戦法を。ただ、それを可能足らしめるのは、グルット自身の素養と【牙】の性質に因るところが大きく、ライゼルも同じ事が出来るかは前提として怪しい所だが。

 ライゼルはその事実を分かってか分からずか、グルットの忠告に、謙虚を装いながら、地味に食い下がる。

「うん、それでも強くなれそうだし。だから、このまま教えて」

「教えてとは言うがな。言っておくが、おめえさんの癖はすぐに直るようなもんではないぜ。まずは、その技の認識を変えなければどうにも出来ないだろうな」

「また難しい言い方して。結局、どうすればいいのさ?」

「母親とは違う『強さ』を知るのが手っ取り早いと思うぜ。もしくは、姉に手解きを受けるとかな」

 グルットが提示した解決策は、母の『花吹雪』が全てではないと学ぶ事。現に同じように手解きを受けたはずの姉は応用して使いこなしているという。姉にその方法論を聞けば、案外あっさりと解決するのかもしれないとグルットは考えた。

 しかし、現状を理解できずに根本から呑み込めていないライゼルには、その助言すらも届かない。

「母ちゃんよりベニューの方が強いってこと? さっぱり分かんないや」

 ただ、先も言ったように、今日この場で解決するものだとグルットは思っていない。長い時間を掛けて身に付けた技なのだから、それ相応の時間を掛けて改良していけばいいだけの話だ。

「悩め悩め、たんぽぽ坊や…そろそろ問答にも退屈してきただろう。私から最後の指南だ」

 唐突に切り出されたその話題に、思考を巡らせ続けてきたライゼルはグルットを見やる。

「何?」

「何度か手合わせして分かった事だがな。おめえさんは殊自衛に関しては類稀なる反応を見せる。安寧の時代とは言え、必要な能力だ」

 先程ライゼルが言った「死なない強さ」が起因していると思えば、グルットとしても納得できる。実際は、風読みの能力による恩恵なのだが、グルットはそこまで知り得ていない。

 グルットとしては称賛したつもりだったが、ライゼルはご機嫌ななめだ。

「逃げるのだけが取り柄だって言われているみたいだ」

「…というより、おめえさんが反撃に苦労してるのはそこに原因があるかもしれないな」

「???」

 先程の話では、原因は認識にあると言っていたはずだが、ここに来て新たな問題が提示され、ライゼルも戸惑う他ない。グルットが話すには、こうだ。

「おめえさんが余りにも見事に避けてしまうものだから、相手もそれ以上は下手に深追いしなくなる。つまり、追撃を諦め、おまえさんからの反撃を警戒する訳だ」

 風読みの能力による回避が秀逸すぎる余り、相手は自分の攻撃が不発に終わる事を通常より早く察知してしまうというのだ。その為、相手は次のライゼルの反撃を警戒する。そして、やってくるのが単調な攻撃だ。相手の隙を付けけない限り、ライゼルの攻撃が直撃する事はない。

 ただ、その事実を突きつけられても、ライゼルには対処のしようがない。何故ならば。

「身体が勝手に動くから、自分ではどうしようもないよ?」

 という事である。

 風読みの能力は、注意を向ける事で感覚を研ぎ澄ませる事は出来るが、その逆に知覚を鈍くする事は出来ないのだ。知覚はどうしてもしてしまう。加えて、この能力も危険を察知したら回避する事の繰り返しで身に付いた技能である。習慣化した感覚を突然止めるというのも、なかなか難しい注文だ。

「では、意識的に隙を晒してみたらどうだ?」

「そんな事したら、避けられないじゃん」

「こちらも難しい事を言っていると理解しているつもりだ。だが、それを為し得た先に、おめえさんが望む強さがあると私は思うぜ?」

 半ば挑発されるように嗾けられては、ライゼルもそれを無視する事は出来ない。

「説明要求! もっと具体的に!」

 強くなれる方法が目の前にあるというのなら、貪欲なまでに食らい付いていくのがライゼルだ。

 乞われたグルットは、改めて説明に補足を加える。

「よし、素直さは美徳だ。要するにだ、相手に慢心を抱かせればいい訳だ。自分の攻撃は避けられない、たんぽぽ坊やへ絶対に当たる、とな。必中の攻撃をわざわざ緩める愚者はいないだろうからな」

「ふむふむ」

「これはレオンから模倣した技なんだが。たんぽぽ坊や、一発私に仕掛けてみろ」

 まるで隙を見せるかのように両手を広げて懐を開くグルット。

「じゃあ、遠慮なく!」

 一呼吸の後、瞬く間に詰め寄り、『花吹雪』必中の間合いに入るライゼル。グルットが評する通り、お手本通りになぞっての『花吹雪』は、まさに見事の一言。目にも止まらぬ速さで無防備に待ち構えるグルットを強襲する。

 が、しかし。フロルを倣ったライゼルの『花吹雪』は、何故だか虚空へ向けて放たれていた。ライゼルが的外れな方向に打ち込んだのではない。ライゼルが放ったそこは、先程までグルットが『居た』場所だったのだ。そのはずなのに、グルットの姿はそこになく、薄ぼんやりとした青白い光の残滓が、幻のように霧散する。

「これ、さっきルクに使った技だ…」

 ライゼルが得られるはずだった手応えはそこになく、代わりにグルットに背後を取られるという信じがたい結果を突き付けられてしまった。本日の課題である当てる事に注意していた為か、風読みの能力でも追い切れなかった。ライゼルの脳の、目の前に対象がいるという認識の方が、相手の動きを知覚する作用に勝っていたのだ。つまりは、風読みの力が無効化される程に、動かずそこに居ると思い込まされていたのだ。おそらく、先程のルクも同じような感覚を体感したのだろう。

 必中の間合いでの『花吹雪』が外れた事、更には無様にも背後を取られた事、そして風読みの能力の意外な弱点、それらの事が一気に脳内を駆け巡り、ただでさえ理屈などに馴染みの薄いライゼルは思考が追い付いていない。

「すげぇ、何がどうなってんのかさっぱりだ…」

 そんなライゼルの驚愕を余所にグルットは、固まってしまった少年の肩をぽんと叩き、正面に回った。

「私と同じ動きが出来れば、今のおめえさんでも十分に渡り合っていけるだろうぜ」

 そう励ますグルットの言葉を受けて、未だ状況が呑み込めていないライゼルはようやく口を開く事が出来た。

「今の、どうやって動いたの?」

 ライゼルの関心はその一点に尽きる。どうすれば今の動きを模倣できるのか。そもそも、移動していた事すら感知させないとはどういう事なのか。

「肝要なのは動き方ではない。どのようにして相手に攻撃が成功すると錯覚させるか、だ」

 またしても理屈の話になってしまうと、ライゼルは苦手意識を持たざるを得ない。体感すれば理解も早いが、先の技は目の当たりにした今でも未知の領域にある。

「だめだ、どっちも分かりそうにないぞ」

 とうとう頭を抱えだしたライゼルに、グルットは感覚的な助言を授ける。

「私やレオンは『気を残す』と言っている」

「気って霊気のこと?」

「そうだ、【牙】を出す要領で、霊気を僅かに放出させるんだ。それに気を取られた敵は、ついそちらに注視してしまうという寸法だ。もちろん、【牙】を現界させている時には使えない技だがな」

 星脈を通した体内の霊気を体表に纏わせる事で、霊気の分身を生み出すのが先程グルットが見せた技だ。ほんの一瞬間の事ではあるが、肉体を構成しているものと同じ霊気の塊を、相手はそれを本体と認識してしまう。そちらに注意が向いているので、まさか本体が移動しているなどとは思いも寄らない、という寸法である。人間は視覚から得られる情報が多くの割合を占める。疑似的な霊気の分身は、例え一瞬間の効能とは言え、相手を化かすには十分なのである。

「なるほど。注意を引きつけて…こう、か」

 その説明を咀嚼しながら、先程のグルットの動きを、考え込むような面持ちで丁寧になぞって見せるライゼル。

「すぐには難しいだろうが。試してみるか?」

「やる!」

 その返事を確認したグルットはしっかり構えを見せた後、最初に見せた掌底突きを繰り出す。ライゼルが回避する事に関して秀でた才能を持っている事は確認済み。手を抜かずとも、大怪我になるようなヘマはしないであろうと踏んでの本気の一撃。その掌底一閃を以て、ライゼルの挑戦を試す。

 ライゼルも、自身に向けられるその攻撃を前に、思考を巡らせる。

 グルットは霊気を放出させると言ったが、さすがに【牙】を発現させられる程にはライゼルの星脈も回復していない。では、他の何かで相手に『手応え寸前のもの』を感じさせなければならない。確かなものではないが、その代わりになるようなもの。確信とか予感めいたもの。相手に反撃を気取らせず、防御や回避へ意識を切り替えさせない手法。

(グルットの掌底はもう何度か見た。角度や速さは大体分かる。あとはそれをどうやって引き付けるか?)

 実際にグルットの攻撃が届くまでは一瞬間だったが、その間にもライゼルは絶えず脳内で試行を重ねた。そして、その結果がこれだ。

「このまま大当たりだぜ!」 

 繰り出す最中のグルットも、自らの掌底がライゼルの胸部を捉えると確信する。この距離と間合いや角度に、ライゼルの体勢を加味すると、当たるのが必定。それ程までにライゼルは既に接近を許してしまっている。

 そもそもグルットも一発目で同じ芸当が出来るなどとは微塵にも思っていない。言葉通りに試しでやってみるだけ。この体験を以て、グルットによる戦闘指南を終えるつもりだ。

 手解きの最後に痛い目を見せるかもしれないが、それも授業料として叩きつけるのも悪くない。あるいは、ライゼルの身体が咄嗟に回避を選択するだろう。どちらにせよ、これでお終いだ。

 そんな想いで打ち貫いた掌底。しっかとライゼルの六花染めの感覚が手に残っている。が、予想に反してその手応えは余りにも軽すぎるものだった。

 先程ライゼルが体験した驚愕を、今度はグルットが味わう羽目になってしまったのだ。グルットが狙っていた部位を外してしまった等という事では決してなく、先程の自身がやってのけたようにライゼルもグルットに錯覚をもたらしていたのだ。

「どう?」

 グルットの懐からライゼルの声がした。気付かぬ内に潜り込まれてしまっていたのだった。背後に回り込むには至らないにしても、最初の挑戦にしては十分に出来過ぎた結果だ。

「なるほど、六花染めで霊気を代用したか。それなら【牙】発現中も使えそうだな」

 そう評するグルットの腕にライゼルが着ていた六花染めが包まっている。ライゼルは咄嗟に腰に巻き付けていた六花染めを中空に残したのだ。そして、グルットの拳は、ライゼルを捉える事は適わず、蛻の殻となった六花染めに無意識の内に誘導されていたのだった。

(ここまででも十分驚かされたが…)

 グルットは突きを放った姿勢はそのままに、ちらりと声をした方へ視線を落とす。そこには、ライゼルの『花吹雪』がグルットの腹部の手前で寸止めされている。やや低くなった視線で、上目遣いにグルットを見やるライゼル。

「これで俺も強くなったかな?」

 ライゼルは思考の迷路からの脱却を実感していたし、グルットは少年の成長をますます楽しみに思うようになっていた。

「この技に【牙】が加われば、件の異国民とも渡り合えるかもしれないな。せっかくだ、名前を付けたらどうだ?」

 グルットは自身の技に名前を付けている。先の「巨樹両断斧」のような具合だ。技の名前を叫ぶとより気合が入るし、何より格好いい、グルットは普段からそう考えている。

「今の技の名前? おじさんは何て呼んでるの?」

「特にこれといった呼び名はないな。だが、おめえさんのそれはお姉ちゃんとの合作でもあるだろう?」

 グルットが名を付けていないのは、名があると回避成功後に思わず格好つけて、相手が生み出した隙を無為にしてしまうからなのだが。ライゼルは、この相手の動きを一瞬間だけ封じる技に与える名を考える。

「そうだなぁ…」

 ほんのわずかな時間考える素振りを見せた後、ライゼルは力強く宣言する。

「『徒花(あだばな)』! なんとなくそんな感じ」

 徒花、実のならない花。一般的に、意味のないものという例えとしても用いられる言葉だが、今回の場合は実体のない花としての意味合いで、ライゼルはそう名付けたのだろう。実に当たる本体を逃がす回避の技。

「言い得て妙だ」

 『花吹雪』、『蒲公英』に次ぐ新たな絆の技『徒花』を習得し、静寂に包まれるリエースの森にて、自身が確かに成長できていると実感できたライゼルなのであった。


 その後、星詠様のいる広場でベニュー達と合流したライゼルとグルット。

 すると直後、ライゼルが戻るのを待ち侘びていたフィルが、その姿を見た途端にライゼルの元へ駆け出す。

「ライゼル、フィルはフィルになったよ!」

 フィルがライゼルの手を取り、視線を向けてくる。その程度の事に照れるライゼルではないが、未だに目下の者との接し方がいまいち分からないので、仕方なくベニューに水を向ける。手を解く事はしないが、少女に視線を落とす事もない。

「それがこの子の名前?」

 星詠様の存在と少女の言動から、事の次第が予測できる。少女は星詠様に名前をもらった、と。何故こうも高揚しているかは定かではないが、おそらくそういう事なのだろう。

 おおよその見当はついてるので、特別な説明は要らないようにも思えたが、ベニューは敢えて素気無くあしらう。

「私じゃなくて、フィルちゃんに訊けばいいでしょ」

 苦手意識を持っているだろう事をなんとなく察しているベニューは、助け舟を出さずにライゼルに対処させる。これもきっとライゼルにとっては必要な経験だ思うのだ。

 姉を頼ろうとしたが、その姉には取り付く島もなさそうなので、観念したライゼルは改めて少女に問うた。

「フィルって呼べばいいのか?」

「そうだよ、フィルはフィルだよ!」

「気に入ってるのか?」

「うん、フィルはフィルがいい。ライゼルじゃないフィル、嬉しかったからいっぱいほしよみさまにありがとー言った」

「そっか、じゃあ大事にしなきゃな」

「うん♪ 大事にする♪」

 緑髪の少女は、満面の笑みを浮かべ、ライゼルの言葉に応じたのだった。

 そして、少女の名乗りも済んだところで、既に運転席に座っていたビアンは、ライゼル達を駆動車へ乗り込むよう促す。

「さて、そろそろここを発とう。充分な収穫はあったからな」

 ビアンの言葉にようやく少女の手を解き、駆動車へ向かうライゼル。

「収穫って?」

 ライゼルは知らぬ事だが、ビアン達は異国民に関するお告げを聞き、とある推論を立てている。それがビアンの話す収穫だ。

「星詠殿のお告げだ。閣下に申し上げるには少し勇気がいる内容だがな。道中聞かせるから早く乗れ」

「おう」

 ビアンが急かすと、ライゼル、ベニューに続きフィルも乗り込む。ここで別れるとは思っていなかったが、さも当然のようについてくるフィルに、思わずライゼルは質問を投げる。

「フィルはどこまで一緒に行くんだよ?」

「ずっとライゼルと一緒! ライゼルが行くところフィルも行く!」

 この答えには流石のライゼルも抵抗感を示す。事の重要さを、それに伴う危険性を理解していないような素振りの少女。(ただ、直接フィルに現在置かれている状況を説明をしていないのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが)そんな少女の同伴は、ビアンでなくとも御免被りたいと言いたくなる。

「分かってるのか? 俺達、王都へ遊びに行くんじゃないんだぞ?」

「でも、フィルちゃんは身寄りもなくて困ってるみたいだよ?」

 フィルを放っておけないと言い出したのは他でもないライゼルだ。中途半端に情けを掛けておいて、その責を投げ出すというのは、筋が通っていない。どうするのかが正解かは分からないが、真摯に受け止める必要があるともベニューは思うのだ。

 一方で、ライゼルは少女の様子そのものに疑問を持たざるを得ない。

「俺には困ってるようには見えないぞ。いつだって楽しそうにしてるじゃんか」

「フィル、ライゼルといると楽しい」

 フィルのあどけない笑い声から、その言葉には嘘偽りが見当たらないように思う。おそらく、本心から共にある事を楽しんでいるのだろう。

「じゃあ、それってライゼルがフィルちゃんの笑顔を守ってるって事じゃないかな」

「ベニュー、適当なこと言ってるだろ」

 ライゼルはそう言ってまともに取り合わなかったが、それはこれから気付く事なのかもしれない。とはいえ、ライゼルが思い至るのは、まだまだ先の事になるのだろう。

 そんな他愛もないやり取りをしていると、グルットが駆動車の補助席へ乗り込んでくる。

「レオンは年長年少も分け隔てなく接し、その上で導いていたぞ」

 先程のライゼルの態度を、レオンと比較して詰るグルット。比較対象があの賢王レオンだと、人間の出来ていないライゼルでなくとも霞んでしまう訳なのだが。

「知らないよ、そんなこと」

「そうだよな、実物を見てないんだから。では、実際にレオンを捜しに…」

 ライゼルが突っ撥ねた事に対し、再度グルットは前王捜索へ誘導しに掛かる。

「行かないって言ったじゃん! 俺は王都に行くんだよ。そこで王様と話をするんだ」

「そうだったな。では、お役人。車を出してくれ」

 冗談半分で言ってみたものの、改めてライゼルの固い意志を再確認できたグルット。補助座席にて俄かに脱力し、ビアンへ発進を促した。

「それでは、道の案内をお願いします」

「任された」

 そうして、駆動車は星詠様が佇む大樹を背にして走り出す。物語はまた一つ、進み出したのである。


 そして、彼らを見送る老女は、ライゼルの、そこまで迫りつつある未来を占った。

「千年の都にて、写し鏡の中の自分に出会う…笑顔の護り手であり続けられるかは、自分次第だよ、たんぽぽ坊や」



To be continued…







次話導入部

「グルット殿、実際に会えるものなのでしょうか?」

「下士官に口頭での報告、または書面による報告のどちらかだろうな。一国の王に面会するというのはそれ程の事だぞ」

(それならそれで変に気負わずに済む。むしろそちらが助かる)

「やっぱり難しいのか」


「森の出口までは私が案内しよう。一日に二度も歩くような距離ではないしな」

「こちらもお願いしようとしていた所です。では、出します」



 森の入り口まではグルットも同伴する事となった。

「それじゃあな、たんぽぽ坊や。それに、その保護者達」

「おじさんは、これからどこに行くの?」

「次はグロッタだ。アバンドで聞いた話では、昔レオンが視察に訪れていたらしい」

「グロッタはベスティア産業の中心部だ。公務で訪れたのでは?」

「それはそうだろうが、何か居所に繋がる情報が転がってるかもしれない。行かない理由はないぜ」

「見つかるといいですね、レオン前国王様」

「そっちも気を付けて」

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