第9話

 日が沈みかけ、西の空が真っ赤に染まる頃。グロッタ鉱山窟から少し離れた空き地で、ライゼル達は駆動車の受領を済ませていた。

「かっけぇーッ!」

 ライゼルが目の前にして興奮を抑えきれないのも当然だ。今、一行が乗り込もうとしているのは、トッドの工房の職人により改修された駆動車なのだが、国内を見てもこの改修型はごく限られた台数しか現状存在してしない品物だ。輝星石をこれでもかと贅沢に使用して強化された外装、のみならず機械仕掛けが駆動する事により損耗を免れなかった箇所も、木製から輝星石仕様に取り換えられている。かなりの硬度を誇る輝星石の部品となれば、【牙】でいたずらに傷付けない限り、損傷する事はおよそ考えづらい。故に、生半可な衝撃で故障する事はないと言える。

 そんな随分と様変わりした駆動車に、ライゼル程ではないが、僅かに昂るベニュー。

「こんなに見た目が変わるものなんですね」

 只でさえ駆動車なぞ見慣れぬ有難い物であったというのに、更に稀少な鉱石を使用しての改修された物となると、自分達がこれに乗って王都まで行けるなんて信じられない出来事だ。西日を受けて赤みを帯びた光沢を放つ駆動車は、まるでそれその物が芸術品かのように思えた。暮れなずむ草原に映える、現代技術の粋。

「元々、改修予定ではあったが、実際目の前にすると腰が引けるな」

 最新鋭の駆動車を前に、流石のビアンも俄かに浮足立つ。未だ王都近郊でしか配備されていない最新型である為、地方の官吏であるビアンにとっては、それを担当しているというのはちょっとした優越感でもある。

 そんなビアンを余所に、駆動車の周りをぐるりと一周回りながら、ライゼルは駆動車をまじまじと眺める。

「見た目以外に、何か変わった所ある?」

 いつもなら大抵の疑問に答えを提示するビアンだが、今回のこれに関しては初めて目にするものだし、専門外である。

「職人連中が説明も半ばで帰って行ったからな。外装以外は特に分からん」

 受領する際に説明を受ける手筈だったが、後からやってきた班長の一言で、一目散に職人全員が帰ってしまったのだ。

「ソノラちゃんの誕生日会に招かれたって班長さんが仰ってましたね」

「会そのものよりご馳走が目当てだったんだろうがな。まぁ、運転方法に違いがある訳でもなさそうだし、特に問題はないだろう」

「うんうん、トッドとソノラは仲良くなれて、俺達はかっこいい駆動車に乗れる。良い事尽くめだよ」

 楽観的にそう言い放つライゼルに、ビアンは真面目な面持ちで、釘を刺す。

「そうだな、せっかく駆動車が整備されたし、これからは余計な事に時間を取られたくないものだな、ライゼル?」

 詰るようにビアンが言って聞かすが、まるで気にしていないライゼルは、颯爽と後部座席に乗り込む。

「ビアン、早く出発してよ」

 誰よりも先に駆動車へ乗り込んだライゼルは、そうビアンを急かした。

 ライゼルが、言って素直に聞くような人間ではない事は重々承知しているビアン。懲りた調子で運転席に乗り込み、ベニューもそれに遅れて後部座席へ乗り込んだ。

 いつものように発進準備に取り掛かりながらも、視線は後方のライゼルへ向けるビアン。

「まぁ待て。先に地図で進路を確認させろ。確か、お前は持っていたよな?」

 ビアンが差す地図とは、ライゼルがフィオーレにて支給品として受け取っていた全国地図の事である。ベスティア王国の地理が事細かに記載されており、現在流通している地図の中では最も信頼性が高い。方位や縮尺がほぼ正確に書き記されているともっぱらの噂だ。

「あるよ、背嚢に入ってる。これでしょ?」

 ライゼルから手渡された地図を受け取り、ビアンは繁々とそれを凝視する。

「グロッタがここだから、次はアバンドを経由して、その後は…こう進路を取る訳か」

 独り言ちるようにして順路を確認するビアン。大雑把な地理は頭に入っているが、正確な経路となるとやはり地図に頼らざるを得ない。

 ビアンが運転席に腰掛けたまま地図を広げている為に、後部座席の姉弟からはどこをどう通るのかちっとも分からない。

「どうビアン? もう王都に着きそう?」 

 そのライゼルの見当違いな問いに、車を走らせ始めようとしていたビアンのこめかみが疼く。

「お前が何も分かっていないのはこちらも重々承知だが、もしそうなら輝星石の出番がなさそうな事くらいは気付こうな!」

 先程、受領したばかりの輝星石の出番が未だない事を指摘され、ライゼルもまだ道程は長いのだと理解する。

「そっか。その地図だと今どの辺?」

 後ろから覗き込もうとするライゼルに見えるように、ビアンは地図で現在地を指し示す。

「ここがグロッタだ。王都までの道程のおおよそ半分と言ったところだな。ここから鎮守の森を迂回する順路で、アバンド、サフリズ、アクロを辿り、学園都市スキエンティアの先のダール渓谷を抜けたなら、ようやく王都が見えてくる」

 一つ一つ丁寧にこれから立ち寄る集落をなぞりながら、王都クティノスまでの道を示すビアン。操作方法は従来通りのようで、ビアンは慣れた手付きで運転し始める。そして、独り言ちるようにぼやく。

「今日でフィオーレを出て一週間くらいか。ミールから航路が使えていたなら、既に王都へ到着できていただろうな」

 食の街ミールの港から出航できていれば、三日程の船旅を終える事で水の都ヴェネーシアに到着していた想定だ。そして、そこから北へ向かって一日も駆動車を走らせれば、王都クティノスへ到着と相成るはずだった。

「そうなんだ…まぁ、それはそれでいいや」

 そう言って、気楽な調子で座席に深く腰掛けるライゼル。まだ最終的な目的地に辿り着かないと知った途端に、ライゼルから逸る心も失せたようだ。

「どうしたの? ライゼルは王都へ行って一旗揚げようとしてるんじゃないの?」

 ライゼルの落ち着いた様子を訝しむベニュー。村を出たいと言ったライゼルの動機を知っていれば、この様子には違和感を覚えざるを得ない。

 ライゼル自身も己の野心の為に王都へ行く事を望んでいたはずだ。異国民の一件に巻き込まれる以前から、役人を足代わりに使い、王都を目指そうとしていたライゼル。村を出る為の資金として、役人ビアンに見咎められるだけの銀貨を貯蓄する程に、少年の外への特に王都への関心は高かった。

 なのに、今の様子を見るに、然程王都への到着が遅れる事を気に掛けていない様子だ。その証拠に、ライゼルはこう言ってのける。

「船で王都へ向かってたら、フウガ達やトッド達、それにオノスのじいちゃんにも会えなかっただろうしさ。そう考えたら、遠回りでも良かったって思うよ」

 ムーランでの件がなければ、ライゼルは自身の行動を顧みるようにはならなかっただろうし、フウガとグレトナに出会っていなければ、自分の中で当たり前になってしまっていた夢を再認識する事もなかった。それだけでなく、トッドとソノラや班長達の姿に、在りし日の母フロルと姉弟やフィオーレの皆の姿を重ねる事もなかっただろう。

 回り道をする羽目にはなったが、それでも得た出会いを思えば、むしろ幸運だったとライゼルは感じている。村を出てからの出来事が、全て自らに刺激を与えてくれていると実感できている。

 ただ、ライゼルがそう考えているからと言って、ビアンもそう考えているとは限らない。

「おいおいおい。お前がしみじみと懐かしんでるその突発的な事件諸々がなければ、余計な時間を食われずに済んで、今頃はダール渓谷手前のスキエンティアくらいには行けていたであろう事を忘れるなよ」

「なんだよ、俺の所為かよ!?」

「全てとは言わないが、概ねお前が原因の事ばかりだ、ライゼル。お前がきっかけになっていないのはミール大火くらいだぞ」

「違うじゃん! オライザのはビアンが大巨人を説得できなかったからだし、船に乗れなかったのもビアンが買い食いしてたからだし、ムーランのは止まった風車にビアンがもう少し早く気付いてたら面倒な推理をせずに済んだし、そういういろんな遅れが無かったら地震が起こる前に輝星石を受け取れてただろうしさ!」

「最後のは結果論だろ。それに、そもそもの原因を振り返れば、お前がテペキオンをなまじ退けたからこそ、妙な異国民に付き纏わられる事になったんだろうが」

 ビアンのその一言には、ライゼルも黙っていられない。

「カトレアさんを助けちゃ駄目だったの?」

「駄目ではないが、他にやりようがあったかもしれないだろう」

「例えば?」

「あの時のテペキオンの狙いが明確ではなかったものの、不服ではあるが、向こうの要求を飲むとかな」

「その要求がカトレアさんを連れていく事だったら、やっぱり俺は戦ったよ」

「ならば、代案を出す。例えば金銭を渡して引き下がらせるとか」

「役人なのにそんなこと言うんだ」

「安全が保障されるなら、手段としては検討の余地が十分ある。それに、国家間でもその手のやり取りは往々にしてある」

「ふ~ん。でも、やっぱりテペキオンは他人の言う事に耳を貸す性分じゃないと思う」

 どこまで論じても、あの時の最善策は、やはりテペキオンを実力行使で追い払う事だったように思える。二度に渡り会敵したテペキオン、これまでの様子から交渉に応じるような殊勝な男とは思えない。

 姉弟が村を発つ事となった発端である、テペキオンによるフィオーレ襲撃事件。これに関しては、ライゼルには避けようがなかった事だ。実際にテペキオンは『狩り』なる行為を為す為に、フィオーレに訪れた。その因果を抹消しない限り、ライゼル達はどうあがいても王都へ向けて出立する羽目になったはずだ。

「そうだな。恨み言を聞かすなら、あの異国民達だな」

「本当だよ。何の用でフィオーレに来たんだか」

 テペキオンがフィオーレで『狩り』を開始したのは只の偶然だったのか。それとも、何かの選定の理由があった上での来訪だったのか。いずれにしろ、異国民全体の行動原理は依然不明だ。

「異国民に関して、未だに分からない事が多いですもんね。王都へ着いても、何と報告申し上げたらいいか…」

 自分達が体験した事をそのまま話しても、御伽噺にしか思われないのではないだろうかと、ベニューは僅かに不安に駆られる。

「そうだな、俺も早く馳せ参じねばとは思っているが、実際何と言ったらよいやら。信憑性を損ねない為のお前達参考人な訳だが、どこまで信じてもらえるか、ってところだな」

 何の説明もなく、これまでの戦闘状況を話し始めても、王城の人間には何の事だか要領を得ないだろう。とは言え、推論を基に話しても呆気に取られるのが関の山かもしれないが。

 とにかく、ビアン達だけの報告では、王国は様子見に徹するだけに留まる可能性も十分に考えられる。すぐにでも対策を講じてもらうには、根拠が少なすぎるのだ。

「他の町にも異国民は来てないかな? 他の話もあれば、王様も信じてくれるはずだよ」

 ライゼルが言及したのは、他にも自分達のように異国民と遭遇し、王国に迫る危機を陳情すべく王都を目指す者の存在。それはもちろんビアンも想定済みだ。

「まさか、遭遇例が俺達しかないという事はないだろう。俺達がこれまで出会った四人が他の町で同様の事件を起こしているか、あるいは、それ以外の異国民がいて他の集落でやはり事件を起こしているか。どちらも可能性としては全くない訳じゃないだろう」

 テペキオンとルクは、初対面時からライゼルに執着するようになっていたが、異国民四人が何もライゼルがいる集落ばかりを訪れている訳ではないだろう。むしろ、その四人がいた場所にライゼル達が鉢合わせたと言った方が正確か。いや、ルクとクーチカは初め、テペキオンによる証言を基にライゼルを追って来たから、一概にそうとは言えないが。

 それにしても、鉢合わせた異国民がいるように、同時刻に他の集落にはライゼル達が遭遇しなかっただけの異国民がいると考えられる。

「他の異国民がいる可能性ですか?」

「そうだ。奴等は【牙】すら凌駕しかねない異能『翼』を有しているとは言え、まさかたった四人でベスティア王国へ乗り込んできていると思うか? 目的こそ不明だが、何か為すにしても四人では明らかに戦力不足だろう。この王国には何人の牙使い(タランテム)がいると思っている? 現実、異国民一人ずつであればライゼル一人に妨害され撤退を余儀なくされている有様だからな」

 例えば、ティグルー政権を脅かす事が目的だとしたら、その目論見が明るみになった途端に、国はその鎮圧に乗り出すだろう。治安維持部隊アードゥルがまず総動員を掛け、それでも対処できない場合は各地の有力者に戦力を募る事だってあるかもしれない。どういう形で戦う事になるかは定かではないが、単体では脅威的な異能を持っていたとしても、ベスティアという大国を相手取るなど土台無理な話だ。

 ただ、その点には納得できるが、今の発言が敵情を正確に把握しているかと言えば、ベニューは小首を傾げる他ない。

「ライゼルが退けたというより、それぞれ何か事情があって立ち去ったようでしたが」

 リカートはオノスの治療を優先し、先のクーチカは娘達を案じ、テペキオンは地震の影響を考慮して、ルクに至っては戦闘継続を面倒くさがっているようにすら見えた。四人とも十分に余力を残した状態での撤退。ライゼルの【牙】に屈した者は一人していない。

「確かに、結果的にオノス誘拐以外は阻止できたが、どの異国民も一筋縄ではいかない連中ばかりだ。道中のアードゥル隊員にも確認したが、あんな異能は誰も見た事がないそうだ」

 テペキオンは真空波を自在に生み出し、クーチカは体の自由を奪う麻痺毒を操り、リカートは有機物無機物問わずを問答無用に石榑に変えてしまう能力を有している。ルクはその特殊な能力を明かしていないが、常識外れの怪力を有している事がベニューの証言から窺える。

 どれも既知の【牙】の効果とはかけ離れているというのは、やはり非常識な代物なのだという証明とも言える。殴、斬、刺、打、射のいずれかであれば、その行為がもたらす結果は容易に想像できる。だが、異国民が振るう【翼】の能力は、その予備動作からはどのような結果をもたらすかは、初見で見破る事はほぼ不可能だ。秘匿された状況であれば、一撃必殺になりかねない脅威だ。

「もし他にも異国民がいるとしたら、他の【翼】があるってこと?」

 これまでの情報を整理すれば、まだ見ぬ異国民が複数いる可能性があり、その各人がこれまで同等の【翼】を有している事になる。只でさえ誰一人攻略できていないというのに、だ。

「その覚悟はしておいた方がいいだろう。極力、避ける方向では行きたいが」

 断っておきたいのだが、ビアンとしては不可避の状況でなければ、異国民と真っ向から戦うつもりはない。飽くまで目的は、王国に事の次第を陳情し、事態を解決してもらう事。自分達で全ての異国民と対決し、解決を図るつもりは更々ない。

「でも、目の前で困っている人がいたら…!」

 異国民に対するビアンの姿勢を聞いた上で、ライゼルは自身の主張を譲らない。ライゼルの夢は、皆の笑顔を守る事。目の前の涙を見て見ぬふりする事など、ライゼルには到底不可能な話だ。

 ビアンも言われずともライゼルの意志は承知している。故に、前言通りに妥協案を提示する。

「また同じ問答を繰り返す気か。有事の際はその都度、俺が判断する。お前は特に、戦力差の見極めを怠る癖があるからな」

 ビアンの折衷案に、納得がいった様子でないライゼルは独り言のように不満を漏らす。

「未知の相手なんて誰も推し量れないじゃん」

 と、食い下がって見せるようでいて、その実ライゼルはビアンの事を態度以上に信頼している。回避の方針を示したものの、いざとなればライゼルや救いを求める人達を無碍にしたりしない事を知っている。

 ビアンもライゼルから預かる信を確かに感じ、肩を竦めて笑って見せる。

「運良く誰かの目撃情報がある事を祈るしかないさ」

「結局は、行き当たりばったりじゃんか」

 ビアンも気休めでしかない事は重々承知だ。そもそも、能力を視認して生き延びた者がいれば、それが必殺の異能でなかった事の証明にしかならない。警戒すべきは、一撃必殺の能力の方だが、それを目の当たりにして生きていられない事は容易に想像できる。結果、一撃必殺の異能の情報は、ほぼ手に入らないだろう。

「少しでも対策を練られるよう、各経由地で情報収集を徹底しなきゃな」

「おう。まずはここ、アバンドだ」

 こうして、大幅に改造された駆動車を駆り、一行は次なる経由地アバンドを目指す。走り出してしばらくすると、夕陽も地平の彼方へ沈み、王国には夜が訪れていた。

 車の後部座席と運転席を繋ぐ小窓から、返してもらった地図を眺めるライゼルは、ビアンに声を掛ける。ライゼルの手にする輝星石が放つ仄かな明かりで、うっすらとだが地図を確認する事が出来る姉弟。

「次のアバンドってどんな町なの?」

 問われたビアンは、少し考えを巡らせた後、ゆっくり言葉を紡ぐ。視線はしばらくは見えない目的地へ向けつつ、その地へ思いを馳せながら。

「そうだな。強いて言うなら、ベスティア南部の首都、と言ったところか」

「そんなに栄えているんですか?」

 もちろんベスティア王国の首都はクティノスであるが、比喩としてアバンドを南部の首都と例えるビアン。その表現に、思わずベニューも口を挿む。人混みにあまり慣れていないベニューは、都会に対しやや気後れしてしまうのだ。

 そんな思いを知らずに、ビアンはベニューの質問に対し、端的に答えを返す。

「栄えているというより、とにかく人が多い。職業従事者だけで言えば、王都クティノスといい勝負かもしれんな」

「ミールよりも、ですか?」

「あぁ、食の街ミールよりも多いぞ。定住者だけで言えば、の話だが」

 以前立ち寄った食の街ミールは、観光地としての色合いが強い。その為余所から訪れる者も多いのだが、それと変わらぬ数の業者がいるので、そもそもミールに暮らし店を構える者達も大勢存在する。

 そのミールに勝る人口の都市と言うのだから、南部の首都と言うのは言い得て妙かもしれない。クティノスを除けば、これ程栄えた都は他にない。

「どうしてそんなに人が集まるの?」

 アバンドに人が大勢住んでいるというところまでは理解できたが、では何がアバンドを大都市足らしめるのか、ライゼルは気になって仕方がない。地図の上にはその理由は記されていない。だが、ビアンに問えば大体の答えは得られる。

 当然、ライゼルがそう尋ねて来る事はビアンも予想済みで、順序立ててアバンドの概要を説明し始める。

「第一に交通の要衝だという事がある。今でこそミールから船が出ているが、一昔前までは陸路のみだったからな。ここに立ち寄る者が大勢いて、それを顧客にした商売が当たったというところか」

 つい最近、どこかで似たような場所をライゼルは見た記憶がある。

「グロッタの宿場町みたいなもの?」

 その問いにビアンは意外性を感じていた。平素の様子から考え足らずと思われがちなライゼルだが、今回は当たらずとも遠からずの答えを導いている。端的な理解はベニューが目立つと思っていたが、存外この姉弟は似た素養を持っているのかもしれない。いや、名にし負うフロルの血を鑑みれば、当然かもしれないが。

「成り立ちは非常に酷似していると言える。お前にしては上出来だ。じゃあライゼル、ここで問題だ。グロッタに人が集まったのは何故だ?」

 改造駆動車の走りが余程快適なのか、ご機嫌なビアンは興が乗ったらしく、面白がるようにライゼルへ問いを投げた。

 それを受けてライゼルも、自ら知り得る限りの見聞で答えを捻り出す。

「石を掘るんだろ? それが目当てで人が集まったって」

「その通りだ。輝星石が産出するという理由があって、グロッタにはこぞって人が集まった。同様に、これから立ち寄るアバンドも、要衝ってだけでは南部の首都だなんて呼ばれない。何か理由があるはずだ。並んだとして精々がグロッタ程度だろう」

「そっか、他に人を集める何かがあるってこと?」

「いいぞ、その調子だ。もしかしたら、お前達の場合だと十年前に見たきりになるのかな」

 ライゼル達を答えに導く為に、小出しにして助言を与えるビアン。お前達、という事は、ライゼルとベニュー姉弟二人の事を指している。ビアンが知る姉弟の過去。はて、姉弟はこれまで何を話したろうか?

 ライゼルもそれを頼りに、自身の過去の記憶を探る。

「母ちゃんが死んだ年か。何かあったっけ?」

 ライゼルが無意識の内にベニューに水を向け、ベニューもライゼル同様に知恵を絞る。

「十年前だと、交通網の整備でしょうか?」

「それだとオライザ組の話になるが、これから向かうのはアバンドだ」

「アバンドにある、十年前にフィオーレに来た人…?」

「覚えてないか? レオン前国王が交通整備と並行して全国的に施行したものがあっただろう?」

 そこまでの助言をもらえば、姉弟もようやく思い出せる。

「全国的に…そうです、国による戸籍管理が始まったのも十年前です。その時に」

「あぁ、思い出した。白い服着た人達から、なんか粉を掛けられた」

 戸籍管理もそれ以前より実施されていたが、十年前から更なる制度が設けられていた。その際に、姉弟はとある職業の集団を目にしている。

「だいぶ答えに近付いているな。戸籍管理に必要な物は何だ?」

「家!」

「惜しいが、厳密に言えばそれじゃない」

 完全なる間違いではないが、都市間の往来の自由化している現状では、物件単位で管理するのは適当でない。ビアンが言っているのは、もっと個に区別された最小単位に割り振られている物だ。

「[[rb:身分証 > ナンバリングリング]]ですね」

 ベニューの言う通り、新しく設けられた制度と言うのが、戸籍管理する為の身分証なのだ。

「その通りだ。身分証を発行できるかどうかの検査を、前国王は『[[rb:教会 > エクレチア]]』に委託したんだよ」

「じゃあ、今向かってるアバンドにあるものって」

「そうだ、王国に二ヵ所しかない王立教会、内一つがこの先のアバンドにあるんだ」

「教会! 俺、行ってみたい!」

 と、大袈裟に興味を示してみたものの、ライゼルは教会が如何なる組織なのか、実体験を以てはほとんど知り得ていない。十年前に一度見た切りで、それ以外だと書物でしか触れる機会がなかった。

 ライゼルの希望を聞き、ビアンはいつもより落ち着いた調子で答える。宥め賺すというより、面白がっているような印象。

「今のお前が行って益があるとは思わんぞ?」

「なんで?」

「お前はフィオーレからの道中で、どれ程星脈を酷使した? お前が一日二回の使用に耐えられるからと言って、それが健常な星脈とは限らないんだぞ」

 ビアンの指摘が何を意味するか、ライゼルにも察しがついた。そして、思い当たる事柄を恐る恐る口にしてみる。

「もしかして、俺の身分証が没収されちゃうの?」

「その可能性は否定できないだろうな。もしそうなってしまえば、お前は配給物資を受け取れなくなるだけでなく、都市間の往来にも制限を掛けられる。特にアバンドは輪無しの出入りを厳しく制限しているから、もし中で没収されたら、二度と外に出る事は適わないという訳だ。お前が王都で何をやろうとしているかは知らんが、その身分証がなければその舞台にも立てない事を念頭に置け、と忠告してやる」

 身分証を持たないという事は、ベスティア国民ではないと見做され、国からの補助を受ける事が出来ない。のみならず、治安維持の為に主要都市では出入りを制限する事もあり、アバンドもその例に漏れない。教会のあるアバンドの町で身分証を剥奪されたとなれば、補助を受けられないまま、ずっとアバンドから出られないという事を意味している。

 ただ、ビアンの言っている事は真実であるが、まさかその危険性があるなどとビアンは微塵も思っていない。その証拠に、現にライゼルは【牙】を生成し続けている。そんな余力の有り過ぎる星脈が、教会から見咎められる筈がない。先のは単なる牽制、言わばライゼルに対する子供騙しに過ぎない脅し文句だ。

 だが、ライゼルには効果覿面だったようで、後部座席から運転席へと通じる小窓に身を乗り出しながら、

「ビアン、俺、教会に用はないから! 何だったら、アバンドにも寄らなくていいから!」

「そういう訳にもいかない。言ったろ、交通の要衝だと。情報収集には最適の場所だ。それに、お前達の話す『星詠様』についても聞き込みをしたい。故に、どうしてもここを避けて通る事は出来んのだから、お前が大人しくしているしかないな」

 ビアンの狙い以上に効果があり、これならアバンドでは余計な時間を割かれる事もなさそうだと、ビアンは顔を綻ばせる。

 ただ、ベニューは、何故そこまでのライゼルに対する抑止効果があったのか、独り思案する。いや、着眼点としては、何故ライゼルは身分証を取り上げられる事を嫌がったのか、という事。

(ライゼルの夢は、みんなの笑顔を守る事。行き来を許されなかったら、各地に赴けない。だから、嫌がった? 自分がやりたい事が出来ないから?)

 そう推論を立ててみたが、未だ納得できていない自分がいるとベニューは理解している。先のそれも理由の一つではあるのだろうが、ベニューが腑に落ちないのは、身分証のもう一つの恩恵が気になっているからだ。

(多分、あのお金が関係してるんだろうなぁ)

 ベニューは、ライゼルが背嚢にしまっている硬貨にこそ、その答えが隠されていると睨んでいる。

 その根拠は、もちろんある。あれは、ライゼルが初めて配給物資として求めた物の一つであったからだ。金額にして、配給以前の物と合わせて、五十万[[rb:lect > レクト]]だ。一万レクトに相当する一エラムの金貨を四十九枚、そして千レクトに値する銀貨を十枚、ライゼルは保持している。

 今回の配給まで、ライゼル個人として配給物資を申請した事は一度もない。ライゼルの労働の対価は、大抵が野菜や穀物であり、生活に必要な物であった。なので、現物支給には特に問題もなかった。

 だが、ある日を境に、最低限の食材以外を全て出荷に回すようになった。いくつもの家庭の畑作業を手伝い、その対価に貨幣を求めるようになった。ライゼルの労働量が、フィオーレ村の貨幣保有量を超えた事で、配給物資に頼り、銀貨を集めるようになったのが事の顛末だ。

 ベニューが分かっているのはそこまでであって、その先、つまり使用用途までは聞かされていない。

 これまでの道中でも使おうと思えばいくらかは使えたのだが、イミックへ支払った治療費以外に経済活動をしていない。小屋一件を建てて尚余る程の貨幣を、金額にして五十万レクトを未だに蓄えたままなのだ。

(高額の買い物をするつもり? それとも長期的に使うつもり?)

 そのどちらも今の段階では有り得そうだ。まず初めに思い付くのが高価な物の購入。次に何かの活動に専念できるよう当面の生活費を用意したか。

 ただ、ベニューが頭を悩ませる最大の要因は、そのどれを検討しても、ライゼルがそんな計画性を持ち合わせているとは、到底思えないのだ。村の外の市場を一切知らず、生活に掛る経費を計算した事がないライゼルが、先の事を考えて行動しているとは、とても考えにくいのだ。

 思考を巡らしても堂々巡りになるばかりだと思い知ったベニューは、意を決してライゼルに問う。

「ねぇ、ライゼル。そのお金は何に使うつもりなの?」

 これまで貨幣について考えていたベニューと違い、ライゼルからすればそれは突飛な話題だった為に、面食らってしまう弟。

「俺が大人しくするのが、無駄遣いに繋がると思ってんのか?」

 怪訝な表情のライゼルに、ベニューは更に続ける。

「ううん、そうじゃないけど。そういえば、これまで寄り道する事はあったけど、お金を使う事はなかったなって」

 ライゼルは、なんだか責められているような気がして、つい言い訳めいた返答をしてしまう。

「そりゃ、食事も寝床もビアンが用意してくれるんだから使いようがないじゃん」

 仄かに悪びれる様子を覗かせるライゼルに、ベニューもつい詰問する態で畳み掛けてしまう。

「じゃあ、どうしてライゼルはそのお金を貯めて、そしてこの御遣いに持ってきたの? もしかして、御遣いが終わってから必要な物なの?」

 例えば、王都近郊に長期滞在する際の部屋代に充てるつもりとか。もしそうならお金はいくらあっても足りないだろう。フィオーレに帰るのにも運賃は必要だが、あの麻袋いっぱいに持ち運ぶ必要はない。あれだけの金額をわざわざ携帯するのには、何か意味があるはずなのだ。少なくとも、家を空ける為に置いていけなかった、という理由ではないはずだ。不測の事態に備える意味合いは、平素のライゼルから考えづらい。何か明確な理由があるはずなのだ。

 姉の問いかけはライゼルにとって突然ではあったが、ただライゼルからすれば答えに窮するものでもなかったらしい。その証拠に、ライゼルは訝しがりながらも平然と言ってのける。

「俺、村の外の事を全然知らないんだぞ? 何にどれだけお金が掛かるか分からないだろ?」

「もしもの備えに? それだけ?」

 思わずそう訊き返してしまうベニュー。さっきのベニューの問いかけに臆するような態度は何だったのだろう? それにしても、ただの備えにしては、あまりにも金額が高いと。

 だが、ライゼルは何度問われても、そうだとしか言いようがない。

「村長やカトレアさんに聞いたら、外に行くにはお金が必要だって」

「いくら貯めればいいって?」

「ううん、村長も外の相場はよく分かんないって。俺だってちゃんと訊いた上で貯めたんだから、ベニューもそんなに怒るなよ」

 どうやらライゼルは、自身の無計画さを詰られているのだと勘違いしたようだ。ベニューにそんな意図はなかったが、ある意味考えなしで集めていた事に、ライゼルは後ろめたさもあったようだ。

「…そう、だね。怒るつもりはないんだけど」

 なんだか。なんだか、真剣に考えていた自分が情けなくなってくる想いだ。これだけの貯金額を達成するには、目指す何かがあるものとばかり考えていたが、まさかの言葉通りにベニューの考え過ぎであったのだ。

「これって多いの?」

 脱力するベニューの想いなど露ほど知らず。更には、持ち主であるにも関わらず、その価値を全く理解していないライゼル。これまで使わなかったのは、節制などではなく、どれ程の貨幣価値があるかを知らなかったからなのだった。

「えっとね、私達の家で言えば、二年分の食費を賄えるよ」

「すげー!」

 そう、ライゼルが感嘆の声を漏らした通り、実際凄いのだ。野良仕事など単価の高い仕事ではないにも関わらず、たった半年で五十万レクトを貯めてみせたのだ。野良仕事以外にも、様々な手伝いに精を出したが、これ程勤労意欲に燃えた少年も他にないだろう。

「私はてっきり、ライゼルには何か決まった使い道があるんだと思ってたよ」

「とりあえず、貯められるだけ貯めたって感じかな。でも、ご飯も寝床もビアンが都合してくれるから、使う機会もないし」

 それを聞いたビアンは軽口を叩く。

「金は天下の回り物と言ってな。お前が貯め込んでいても仕方ないから、経済を循環させる為にここは一つ大きな買い物をしたらどうだ?」

「駆動車って買える?」

 ビアンの冗談を真に受け、購入する候補を挙げるライゼル。

「流石に駆動車は無理だな。その五、六倍は必要になってくる」

 ベニューの申請を受けその貨幣を運んできたビアンは、ライゼルがいくら所持しているかを知っている。

「じゃあ、ビアンがこの金額持ってたら、何に使う?」

 話題を提供した手前、答えを渋るにはばつが悪い。問い掛けられ、自分なら、と思案するビアン。

「そうだな、俺なら本を買う。その為の資金に充てたい」

 何か予想を立てていた訳ではなかったが、それでも予想の範疇の外にあるビアンの答えに、ライゼルは思わず素っ頓狂な声を上げる。

「えっ、まだ勉強するの?」

 ライゼルから見れば、ビアンは博識そのものである。そのビアンがこれ以上何を学ぼうというのか、皆目見当が付かない。

 そんなライゼルを、ビアンは叱るような口調で窘める。

「愚か者。人間、学ぶという事に終わりはない。俺にも知らない事はまだまだあるし、時代が移れば明らかになる不思議や変化する常識がある。俺はそれを自分の目で確かめていたいんだ。本当にそれで正しいのかって」

「何言ってるかよく分かんないんだけど。それが正しいかってどういうこと?」

「例えば、今は駆動車こそが最優の移動手段であるが、更に技術革新が起これば、今以上に生活は良くなるかもしれないだろう?」

 そう言いながら。自らが掲げたそれは、ある意味、ライゼルが実践する「未知に対し疑って掛かる」精神かもしれないと、ビアンは思う。ライゼルを見ていると、まだまだ自分は常識に囚われている、と反省させられる。

 そんなビアンの想いなど知る由もなく。ライゼルは、ビアンの言葉の真意を考える。

「ん? ビアンは速い車を作りたいの?」

 ライゼルの突拍子もない答えに、ベニューも自らの推理を提示する。

「そうじゃないよ、ライゼル。例えばって言ってたでしょ。ビアンさんは、みんなの生活がよくなる方法として、一つの例を挙げたんだよ」

 ただ、ベニューの答えも的を得ていない。ビアンから言わせれば、二人とも純粋に過ぎるというものだ。

「はっはっは、そんな立派なもんじゃない。これは、俺が許せないからやりたいだけだ。前提に他人の幸福を掲げている訳じゃない」

 何が可笑しいのか要領を得ない姉弟だったが、ベニューは山彦のように尋ね返す。

「許せない、ですか?」

「そうだ。まだ俺が知らない事は数多くあって、その事に精通している専門家も世の中には山ほどいるだろう」

 建築の分野で言えばゾア、医療で言えばイミック、絵画ではフウガ、歴史ではグレトナ、鉱物の採掘や加工でならば班長とトッド、染物ならばフロル。これまで姉弟が出会った中でも、一芸に特化した専門職の者達が大勢いる。そのいずれもが、万人が到達できる訳ではない域まで己を高め、得難い技能や知識を有している。それは称賛に値する成果だ。

 ビアンはそういう人物達を引き合いにし、こう続ける。

「そういう連中は、尊敬に値すると同時に、一方では鼻持ちならない」

「嫌いなの?」

「どちらかと言えば、そうだ。天賦の才というものは、俺の心の柔らかい部分を必要以上に刺激するからな」

「負けたって感じになるの?」

 ビアンが何を言わんとしているかは分からないが、あまり前向きな物の見方ではないという事だけは、ライゼルにも感じられる。

「その捉え方で問題ない。だが、俺にも矜持がある。第一人者にはなれなくていい、各分野で一枚でいいから噛ませろ、と俺はそう言いたい」

「安い矜持…」

「言ってろ。だがな、専門家としてその道を究めずとも、その概要を知っていれば、他の分野で転用できるかもしれない。それは専門家にはできない領分だ」

 専門家ではないビアンが為そうとしている事。思えば、ライゼルは単純にビアンを博識だと認識しているが、のみならず学園都市スキエンティアに於いて好成績を修めている人物でもある。であるなら、姉弟はまだ、ビアンの教養の片鱗しか見ていないかもしれない。

「技術や知識の転用、ですか。考えた事もありませんでした」

「…と偉そうに言ってみたが、まだどれも簡略化できていない。つまり、どの分野に関しても大枠の部分すら理解できていないのが現状だ。大金があって王立図書館の蔵書を買い占めでも出来たら、この国の知識が俺だけで独占できるのだがなぁ~」

 そうぼやくビアンの夢が、果たして大いなる野望なのか単なるせこい企みなのかは判断に困るが、それでもこれまでライゼルでは思い付かなかった用途には違いない。ライゼルは頭の片隅に、その事を留めておく事にした。

「ふ~ん、それがビアンのお金の使い道か」

「まぁ、焦って決めるような事でもない。お前が使いたいと思う事を見つけた時に、その麻袋の口を開けてみろ」

「そうだね。今は何も思い付かないし」

 そうこう話している内に、ようやくアバンドへの到着となる。グロッタの町を日暮れに出発し、今は草木も眠る真夜中の事であった。

 グロッタからの道中、二,三台の駆動車と擦れ違ったのみという事を鑑みれば、夜間の往来の行き来は稀な事なのかもしれないと姉弟は感じていた。時間帯の所為もあったろうが、グロッタへ向かう時と違って、遠くから町灯りが見えるという事もなかった。駆動車外装の輝星石の輝きが無ければ、今日の内にグロッタを発つ事は出来なかったかもしれない。

 日付を跨いだ頃ようやくの到着となった、ベスティア南部の首都と名高い都市、アバンド。外周を背の高い赤煉瓦の壁に囲まれているが、その外壁の高さを越えて姿を覗かせる町の象徴である礼拝堂は、この町を語る上で欠かせない。深夜の月明かりを受け、白亜の聖堂は更に神秘的に映る。多くの信者が、あの建物を目指してこの地へ集うのだとビアンは話していた。

「大きな門だね。ミールのと比べても倍くらいあるんじゃない?」

 駆ける車の先を塞ぐ、立派な構えの門。高さは二階建ての家屋と同程度、幅は駆動車同士で擦れ違うにしても十分な余裕があり、姉弟がこれまで見たどの都市にもこれ程巨大な門は存在しなかった。

「戦時中の名残だな。元々は当時の国軍の南方司令部として扱われていた町だからな」

「交通の要衝だから?」

「そうだろうな。ここを押さえておけば、南部からの王都への進軍を阻止できるし、反乱軍への物資運搬を一方的に絶てる。ゾア頭領でもなければ、こんな見事な城壁はそう突破できんだろうし」

 ビアンが車に制動を掛けると、駆動車は徐々に移動速度を落とし、門の前にゆっくり停止する。

「こんな時間に駆動車を走らせる役人も珍しいな。しかも、改修型とは何か訳ありか?」

 夜も更けての到着に、町の入り口に構えるアードゥル隊員からの挨拶もやや怪訝な色を含む。

「急ぎ王都を目指しており、その道中に立ち寄らせてもらった。なぁに。救世主ノイすら怒らせかねない札付きのガキを連れているんでな。敬虔なウォメイナ教信者の就寝中に来させてもらったんだ」

 ビアンが冗談めかしてとぼけるのを、番兵二人も特に咎めるでもなく、三人の身分証を確認すると、門を開き始める。掛ける言葉の割に、不審者への警戒はそれ程厳重ではないように感じられる。それだけ身分証への信用度が高いという事なのか。

「ノイの加護があらん事を」

 日中であれば開け放たれている門扉だが、夜も更け日付も変わろうかという今となっては、閉ざしているのが常だ。なので、深夜の通行に際しては、門の脇に作られた通行口を利用する。駆動車程度なら通れる大きさであり、大人二人もいれば開閉可能な扉だ。

 大扉と違い、大掛かりな絡繰り仕掛けを用いていないが、それでも、しんと静まり返る町の空に、ゆっくり動く門扉がわずかだが軋むような音を立てる。

 その様子を横目に見ながら、ライゼルは隣にいる姉に小声で耳打ちする。

「おい、ベニュー。言われてるぞ」

「何言ってるの。まごう事なくライゼルの事でしょ」

 ビアンが口実に使った人物の正体を巡って姉弟が言い合っている内に、脇の扉が開け放たれる。

 こんな夜更けに自分達の為だけに仕事をさせてしまった引け目からか、ビアンは挨拶もそこそこに車をすぐ発進させる。

 番兵達に見送られ門を抜けると、左右に揺れる緩やかな曲線を描きながらずっと先まで続く、アバンドの街道が見える。それを挿むのは所狭しと立て並ぶ複数階建ての家屋群。多くの人がこの町に住んでいる事が一目で分かる程に、人数に対して土地面積が足りていない。街中を走る最中も路地の間から見える小路の方にも、同様の建物が並んでいる。

 加えて、町の入り口すぐから、これまで訪れた集落とは違う、都会らしい工夫が為されている。というのも、歩行者と駆動車の道路が区分され、整備されているのだ。駆動車の幅四倍くらいの大通りとなっており、中央の二台分の往来が駆動車専用の道路、左右外の往来が歩行者専用の歩道となっている。余談だが、門の幅が駆動車二台分なのは、検閲の為に速度を落とさせる狙いがあっての事だとか。

 故に、無事に検閲を済ませたビアンが駆る駆動車は、中央の道路上を走り、アバンドの中央へ向かっていく。

 これまでの集落であれば、それ程に駆動車が走っていない為区別の必要もなかったが、こと南部一の都市アバンドでは、整備してなければ渋滞や事故は免れない。その必要に迫られる程、この町の交通量はとてつもなく多いという事になる。

 夜の町に若干の肌寒さを覚えながら、ベニューはふと街並みの感想を漏らす。

「夜じゃなかったら、ものすごく賑わっているんでしょうね」

「そうだな、広場ではいつも市が開かれていて、ミールに負けない盛況ぶりと聞く」

 駆動車の車輪が石畳の上をカタカタと音を鳴らしながら進んでいく中、大通りを抜け広場に出た所で、異様な光景を目の当たりにする。

「こんな真夜中に、子供…?」

 ビアンが見咎めたのは、広場に敷設された噴水の周りで水浴びに興じる十数人の子ども達の姿だ。年頃もまばらで、下は一人で歩くのも覚束ないのか手を引かれている3歳くらいの男の子に、上はその子の傍らにいる年長者らしい15,6くらいの少女。その範囲の少年少女達が、周囲に配慮して声を潜めているだろうが、僅かに歓声を漏らしながら戯れている。大都会のこの町に於いて、どの子も粗末な衣服を着ており、アバンド市民にあるべき物が身に付けられていない。

「あの子達は何やってんの?」

 それはもっともな疑問だった。このような夜更けに幼い子ども達が出歩いている事もそうだが、決して気温が高くない真夜中の現在。こんな時間帯の寒空の下、水浴びをしようとする心持ちが一行には理解できない。

 そんなライゼルの素朴な疑問に、ビアンが確信めいた推理で答える。「おそらく、大衆浴場を利用できない孤児が、湯浴み代わりに水浴びをしているのだろう」

 衣服が濡れる事も厭わず戯れる子ども達を見つめながら、彼らの正体と行動について言及するビアン。

「孤児って何? あれはお風呂なの?」

 噴水という建造物を初めて目にしたライゼルは、都会には随分大っぴらな浴場があるものだと不思議に感じていたが、その印象はすぐに修正させられる。

「そうじゃない。噴水は人々が憩う場に作られる装飾設備であって、あの場で体を清めるのは適切な行為ではない」

「じゃあ、いけない事なんだ。『孤児』だとそうするものなのかと思った」

 彼らの素性に心当たりのないライゼルは気安く言い放つが、ビアンはふと言葉を探す。

(姉弟には、特にライゼルには説明しない方が面倒が少なそうだ)

 心の中でライゼルの性格を考慮し企みを持ったなどとおくびにも出さず、ビアンは駆動車を駆る。

「事情は察するが、見逃せば治安悪化に繋がる事は目に見えている。宿探しの前に雑用をこなすか」

 そう独り言ちて、そのまま広場中央の噴水目指して走らせるビアン。

 だったが、駆動車の走行音に気付いた年長らしき少女は、自分達に接近してくるそれを認め、素早く子ども達に声を掛け誘導する。

「みんな! 役人が来たわ! 早くウチへ帰るよ!」

 その指示が飛ばされた瞬間、先程まで無邪気に戯れていた少年少女達は、アードゥル隊員顔負けの素早さで瞬く間に路地裏へ走り去っていく。水に濡れた体を拭く暇もなく立ち去った為に、辺りの石畳は水浸しになっている。指示を出した少女も、駆動車の方を警戒しながら、手を繋いでいた男の子を抱きかかえ、建物の陰に身を顰めるようにして姿を消した。

 誰もいなくなった広場入り口に車を停め、車から降りたビアンは辺りを見回す。

「駆動車を見て、金持ちでなく『役人』を連想するって事は、自覚はあるって事か」

「自覚?」

 後部座席から身を乗り出し、車外のビアンに問い掛けるライゼル。

「さっきも言ったように噴水で沐浴など褒められた行為ではないが、人目を憚ってこの時間にいるという事は、自分達が良くない行いをしているという自覚があるって証拠だな。その部分に心配りが出来るというのだから、根っからの無法者という訳ではなさそうだが」

「でも、ビアンを見て逃げたって事は反省していないかも」

「俺を、というよりは、駆動車を、だな。夜間に往来を駆動車が走るのは珍しいだろうが、全くない訳じゃない。それなのに、あの少女は駆動車の所有者を役人と断定していた」

 断定したのも、確信があったというより、少しでも可能性があるなら、という理由からだろうとビアンは考える。富豪と役人の二択があるなら、より年少者達に状況を知らすには例え間違っていたとしても、後者を伝達するはずだと。

「怒られるんですか?」

「その程度では済まないかもな」

 今でこそ放置の姿勢を取っている市政が、保護の名目の下、拘束する可能性だって無きにしも非ずだ。この町にいる孤児は、共通の理由で今の生活を余儀なくされているのだが、市民が彼らに対し悪感情を募らせれば、教会も何らかの動きを見せるだろう。

「そして、少なくともあの中で年長らしい少女は、その危険性を理解している。なのに、沐浴なんてそんな危険を冒してまでする事か?」

 と、そこまで言って、口が過ぎたとビアンは踏みとどまり、ライゼルの方をちらりと横目で見やる。

(まずい、しゃべり過ぎたか? 少女達の事情を知れば、首を突っ込みかねんぞ)

 様子を窺われたライゼルだったが、ビアンの心配も余所に、思いの外関心を示していない。

「そうなんだ。異国民ほどじゃないけど、変な連中もいるんだね」

 ライゼル自身が好まない沐浴の話題であった事と、グロッタでの二度に渡る【牙】使用による疲労の為、先の少年少女達にそれ程興味が湧かなかったようだ。

 まだ好奇心を発揮する様子のないライゼルに俄かに安堵しながら、ビアンは再び駆動車の運転席に乗り込む。

「この時間に空いてる宿屋もそう多くない。探すのも手間だから、今日は詰所の宿直室を借りよう」

 異国民に関する情報共有する主な目的もあったし、ついでに先の孤児の目撃情報を伝える必要もあり、ビアンは役人の駐在所へ車を走らせる。

 詰所に着くと、そこにいたアバンドの役人に大まかな事情を話し、夜も更けているという事もあり一旦休む事となった。


[newpage]


 翌朝、アバンドの駐在所の宿直室で目を覚ましたライゼルは、日課の鍛錬の為に、まだ人気のないひっそりとした町へ繰り出す。昨夜少し立ち寄った広場が手頃な広さだった事を覚えており、自然と足がそちらを向いたのだ。

「この路地の先が噴水のある広場だったはず…」

 昨夜の記憶を頼りに広場を探していると、目当ての場所を見つけた。フィオーレの広場の何倍も大きい都会の広場。空気が澄んだ朝の静寂に包まれた空間。広場の周りを取り囲む建物の陰で、広場はやや薄暗かった。

 ただ、どうやら先客がいたようで、その人物はライゼルの来訪に気付き、そちらを見やる。

「見掛けん顔っちゃね」

 先に早朝の広場へ来ていたその人物は、遅れてやってきたライゼルを一瞥し、そう声を掛けた。

 やや赤茶けた髪の短髪に、細めの体格でライゼルより上背の高くビアンくらいの身長だろうか。年の頃もビアンよりやや高そうだが、柔和そうな顔つきで童顔のようにも見え、正確な年齢は分かりにくい。ライゼルに見分けが付いたかは定かではないが、彼は30才を超えるアバンド市民だ。

「俺はライゼル。フィオーレから来た。あんたは?」

 やや不躾な物言いのライゼルだったが、青年は然程嫌そうな顔もせず、ライゼルの問いに応じ、名を名乗る。

「ルーは、じゃなかった、ワタシは? ボクは? ルーガンっていうったい」

 定まらぬ一人称の男性が名乗った所で、改めてライゼルは問い直す。

「ルーガンはこんな朝早くに何をやってるの?」

 その問い自体はライゼルに対しても同様の事が言えるが、ルーガンと名乗る男はとりあえず素直に答える。どうやら人の良い人物のようだ。

「体を動かしとったとよ。この時間ならそんなに人はおらんけん。で、フィオーレ出身のライゼルは何で来たと?」

「俺は王都へ行く途中でアバンドに寄ったんだ。それと、朝は鍛錬をするのが日課なんだよ」

 その一言二言の中に、関心を寄せる語がいくつか散見したが、ルーガンは柔和な顔のまま。王都へ向かう理由や鍛錬を積む理由には言及しない。

「ははは、そんならルーと一緒たい。そんなら、いきなりで悪かばってんが、付き合ってくれんね?」

「付き合う? 何を?」

 初対面の人間からの突然の申し出に面食らうライゼル。その様子に少し悪びれてみせるルーガン。

「ちょこっと手合わせをお願いしたかばってん、どうね?」

 手合わせ、とその男性は言った。この国において忌避される暴力に繋がりかねない行為を、この教会のお膝元アバンドでやろうと提案してきたのだ。飽くまで試しにといった調子だが、それにしても普通であれば良識を疑われる発言だ。

 ただ、ライゼルは背徳的だなどとは微塵にも思わず、即決で賛成の意を示す。

「おっ、いいね。ベニューもビアンも外での手合わせは禁止するから、最近は実戦でしかいろいろ試せないんだよね」

 俄かに戦意を剥き出しにするライゼル。起き抜けなのにこの申し出を快諾する辺り、やはりライゼルは強さへの執着が強いと言わざるを得ない。せっかくの機会とばかりに、戦意を高揚させる。

「わかるわかる。ルーもレンデ達の目を盗んでやらなんけん、気持ちは分かるばい」

 ベニュー、ビアンとは? レンデとは?等とそんな興味のない話は互いにしない。二人の最大の関心事はたった今決まった。お互いの境遇に共感しながらも、両者ともじりじりと間合いを測る。特に合図を出す訳でもなく、既に手合わせは開始されているのだ。二人だけしかいない早朝の静かな広場に、俄かに緊張が走る。周囲の屋台の幌も、噴水の水も、ただただ彼らが相対するのを見守っている。この場に、手合わせを咎める者は誰もいない。

 先に仕掛けたのはライゼルだった。一足飛びで急接近できる間合いに入った瞬間、持ち前の瞬発力でルーガン目掛けて飛び掛かり、顔面を捉えんと拳を突き立てる。

「思ったより速かばい!」

 先んじたライゼルの攻撃動作を見切り、その場で上体を後方に逸らす事で回避するルーガン。その間も両拳を胸の前に構えたままで、眼前の中空で無防備を晒しているライゼルを攻撃範囲に捉えている。

「まずは一発」

 ルーガンは先の状態から一歩も足を動かさず、腹筋や背筋の力だけで上体を後方から起こし、更にその動作の中でライゼルの無防備な右側面に軽く握り拳を当てる。これは、手合わせである為に威力は最小限に留められる、という事を暗に示しているようだ。ライゼルも一応は寸止めするするつもりで右腕を放っており、ルーガンもそれを察している。

 ライゼルも反撃を受けた事を理解し、着地と同時に制動、そして再び離れ距離を取る。

「ルーガンにも避けられたかぁ。村の外にはエクウスやベナードみたいなのがゴロゴロいるんだな」

「へぇ、ライゼルはルーみたいな反射神経の持ち主を他に知ってるとね。こらぁ、ルーもうかうかしとられんね」

 虚を突いた訳ではなかったが、それでも無駄のない予備動作で初撃を仕掛けたというのに、ルーガンにはいとも容易く避けられてしまったライゼル。

「それなら、これでどうだ!」

 そう言いながらライゼルは、またも跳躍し、右腕の大振りを仕掛ける。

「何ねそれは。見せ掛けにしても、判り易過ぎるばい」

 ライゼルの露骨に大きな攻撃動作に、ルーガンもそれが見せ掛けだとすぐに看破する。あれ程の初速を見せたライゼルが、裕に知覚できる程の速度で攻撃を仕掛けてくるとは考えられない。これは飽くまで牽制であって、本命の一撃はまだ隠されているはず。ルーガンはそう感じた。

 大振りの拳がルーガンを殴り付けんとする寸前で、ルーガンはその腕の外側へ華麗な足捌きで移動する。対象を失い伸び切ったライゼルの右肘に、ルーガンも握り拳を添えて反撃を抑止する。現在の距離と姿勢では、肘で突くしかライゼルに攻撃手段はない為、それを封じられた今、ルーガンは先よりも容易に脇腹へ優しい一撃を入れる。

「もう二発入れたばい」

 無傷のまま、二連発を喰らわせる事に成功したルーガンは、この後のライゼルの動きに注意する。先の大振りは明らかに本命ではない。何か誘い出す為の見せ掛けだったに違いないのだ。なのに、ライゼルは特に何するでもなく、容易く二発目をもらった。

 未だ意図の掴めぬライゼルの挙動に思考を巡らせていると、ルーガンの見舞った拳が離れ始めた瞬間、不意にルーガンはライゼルより問われる。

「あのさ、これってズルかな?」

 言うが早いか、ライゼルは近接の間合いに入っているルーガンに足払いをし、体勢を崩させる。ルーガンも油断していた訳ではなかったが、加減した攻撃の直後だった為に、咄嗟に体が反応しない。これが手合わせでなければ、闘争本能で無意識の内に回避できただろうが。

「そりゃ良かばい」

 手を地面に付き、その腕を軸に大きく下半身を回転させる事でルーガンの足場を崩したライゼル。先の見せ掛けは、ルーガンを硬直させた状態で射程圏内に収める為の呼び水だったのだ。

 文字通りルーガンは足元を掬われ、その場に尻餅を突いてしまう。

 すかさずライゼルは、中空にある不可視の何かを掴む仕草をした後、その棒状の何かを振るい、座り込んだルーガンの眼前で寸止める。

「まいった、って言うなら良かと?」

「先にいろいろ決めてから始めればよかったね」

 二人そう言い合って、脱力する。どうやら、この瞬間を以ってひとまず手合わせは終了したようだ。

「今、振り被ったのは【牙】のつもりね?」

「おう。俺の【牙】は、これぐらいの長さの広刃剣なんだ」

 両手を広げ、自らの【牙】の寸法を伝えるライゼル。幅の広さ、刃渡りの長さに鍔の形状と事細かにそれらを伝える。

 それを受けて、ライゼルの【牙】が自らに与えたであろう痛手を考慮するルーガン。

「じゃあ、ルーは斬られて負けって事たい」

「でも、俺は二発ももらっちゃった訳だし。だって、ルーガンも【牙】を持ってるんでしょ?」

 その一言にルーガンは目を丸くする。何故、目の前の少年は、初対面の名前程度しか知らぬ相手の事を、牙使いだと断定したのだろう? 唐突な発言に、ついルーガンは呆けてしまった。

「なしてルーが牙使いって思ったと?」

 問われたライゼルは、釈然としない面持ちで答える。

「確信はないんだけどね。拳を向けるルーガンから物凄い殺気を感じたから。手合わせで良かったって今更ながらホッとしてるよ」

「ふふふ、良い勘しとるね、ライゼル」

「何笑ってんの、ルーガン?」

 急に笑い出すルーガンに何が可笑しいのか分からないライゼル。

「さっき、卑怯かどうかライゼルはルーに訊いたたい? あれは何をズルって思ったと?」

「攻撃喰らった直後の反撃だったから、これが本当の勝負なら痛みとか衝撃とか受けていただろうから、さっきみたいには上手く出来なかっただろうなって」

「なるほどね。これはちゃんと規則を決めてやった方が面白かったばい」

 一人納得したように頷くルーガンに、ライゼルは問い直す。

「どういうこと?」

「ライゼルが言った通りたい。これが真剣勝負ならどっちが勝っとったか分からんかったってこと。それでも、一つだけ自信を持って言える事があるばい」

「何?」

「三発」

「えっ?」

 ルーガンはただそれだけを短く言い放ち、その言葉の意図が分からず、ライゼルは思わず間の抜けた声を漏らす。

「あと一発で合計三発。それが全部入ってたらどうやったってルーの勝ちばい」

「握り拳三発で?」

「信じられんかもしれんばってん、ルーが三発以内で沈められんかった人間はおらんばい」

「すごい自信じゃん。俺、ルーガンと真剣勝負してみたい!」

「機会があればしたかばってん」

 そう言って、名残惜しそうな表情を浮かべながら、ライゼルの後方に視線を向ける。釣られてライゼルもそちらに視線を送ると、町の住人達が目覚めたのだろう、広場を囲むようにして立ち並ぶ家屋群の窓が採光の為に次々と開けられる。いつの間にか空も白んできている。アバンドの町に朝が訪れていた。

 さすがに【牙】を用いての対決となると、人目に付くのは非常にまずい。昨夜のビアンによる脅しもあり、教会の厄介になる事だけはどうしても避けたいライゼル。

「良い鍛錬になったよ。ありがとう、ルーガン」

「こちらこそったい」

 簡単な挨拶を済ませ、二人とも人目を憚るようにして、それぞれの寝床へ帰っていった。

(殴る【牙】かぁ。見てみたいけど、寄り道はビアンが許してくれそうにないもんなぁ)

 駐在所までの帰り道、ライゼルはどうにかルーガンの【牙】を見る事が出来ないか、思いを巡らせ続けた。


[newpage]


 ライゼルが駐在所へ戻ると、難しそうな表情を浮かべるビアンがいた。木製の椅子に腰掛けながら、机に突っ伏している。ライゼルの帰宅に一瞥を向けるが、特に何も言葉を掛けない。傍らに立つベニューも、困ったように苦笑いを見せるばかりだ。

「どうしたの? 朝から眉間にしわ作っちゃって」

 体を動かし気分爽快なライゼルとは対照的に、起き抜けにアバンド役人と情報交換したビアンの気分は、なかなか優れない様子だった。それはアバンドの役人から聞いた話が原因だった。

「ここアバンドではないが、しばらく東に進んだアクロという町で連続怪死事件が起きたのだと」

「連続怪死事件!?」

 朝からもたらされる不穏な話題に、さすがのライゼルも眉を顰める。

「詳しい事は分からんが、来訪者含む村にいた男性の死体が発見される事件が、立て続けに三件起きているそうだ」

 田舎町ではなかなか聞かない物騒な事件だと思いつつも、現場であるアクロの名は耳に馴染みがあったライゼル。

「アクロって、アクロ攻防戦のアクロ?」

 母から過去の大戦について聞かされている姉弟は、ゾアやオノスと言った英傑の逸話に詳しい。故に、足を運んだ事のない場所も、大戦に纏わる地名であれば、概要くらいは知っている。

「存外歴史に詳しいよな、その通りだ。今となっては、その名残もほとんどない丘の村だが、何故そんな場所で怪死事件なんて…」

 かの大巨人ゾアが勇名を馳せるアクロ攻防戦の舞台で、容疑者不明の事件が起きている事に、ビアンは頭を悩ませているようだ。

「俺達もその事件を調べるの?」

 ライゼルの突拍子もない質問に、間髪入れずにビアンは突っ込む。

「何故そうなる? 既に管轄の役人とアードゥルが調査している。俺が懸念したのは、その事件に異国民が関わっていなければいいな、という事だ」

 この情報を伝え聞いた時「異国民と関係あるか定かではないが」という前置きを受けているが、ここ数年で耳にした事のなかった事件を、ここ数日だけで既に数件をビアンは実際に見聞きしている。勘繰りたくなるのも無理はない。

「じゃあ、どうするの?」

「俺達は、どうもしない。俺達が立ち寄る頃までには解決している事を祈るのみ、だ。基本的な方針は昨夜話した通り、回避の方向で行く。これは肝に銘じておけ」

「『俺達』は?」

 ビアンの言った言葉に耳聡く反応するライゼル。

「あぁ。ここアバンドの役人とアードゥル隊員が、近日中に派遣されるそうだ。幸いこの町では異国民による事件は起きてないが、周囲の集落から目撃情報や被害報告がいくつか寄せられている。そして、その報告会を今日にでも行うらしい。その話が纏まれば、アバンドを中心にした集落群のアードゥル隊員が、異国民の関与していそうな事件を一斉に洗い出すそうだ」

 傍で話を聞いていたベニューも、ふと疑問が湧いたらしく口を挿む。

「どうして今まで動きがなかったのでしょう?」

「ベニューに言われると、どうも咎められている気がするな。曰く、信憑性がなかったそうだ」

「信憑性ですか?」

「お前達も、もし【翼】を実際に見た事がないのに、それが存在すると伝え聞いても、俄かに信じられないだろう?」

 仮に異国民との面識がない状態で、【翼】なる物の存在を特性を聞かされても、絵空事としか捉えなかっただろう。重力から解き放たれ、挙句、超常現象を引き起こす。実際に初めて目にした時だって、何を信じて良いやら分からなかったくらいだ。

「それは確かにそうですね」

「俺達が遭遇した件と違い、犯行現場を目撃した者が皆無だった事が、更に事態を遅くさせたんだろうな。烽火でも上がれば、早めに動いていただろうが」

「でも、それは誰も危ない目に遭わなかったってことでしょ? よかったじゃん」

「確かにそうとも言えるが」

 ビアンが口を濁した事には、理由がある。ライゼルが結果的に良かったと判断した『遭遇例がない』という事象。それは即ち、経験則がないという事であり、まだ外敵による侵攻への覚悟が備わっていないという事でもあるのだ。現に、昨夜の門番達は深夜に訪れる一行に対し、特別な警戒を取っているようには見受けられなかった。ある意味で平和呆けしているとも言える。既に幾度も異国民と相対してきた自分達とは違い、例えばこの町の人間には、現実的な危機感がないかもしれない。そう考えると、一抹の不安が残るビアンなのだ。

 ビアンが口篭もった機会に、ベニューは先程から気になっていた案件についてビアンに尋ねる。

「そういえばビアンさん、訊いてもいいですか?」

「どうした、改まって?」

「これで私達姉弟のお役目が果たされる、という事になるのでしょうか?」

 もし、アードゥル隊員による調査隊が再編されれば、それはつまり当初の予定通りに、国家へ異国民の脅威に関する報告をしたという事であり、聴取を済ませたという事になるのではないか。王都への報告も彼らが代行してくれるというのであれば、姉弟の果たす役目はもうない。現状を鑑みて、ベニューはそう考えたのだ。

 もしそうなら、一行の旅はここで終わり、また元の道を引き返し、それぞれの帰る場所へ戻っていけるのではないか。姉弟はフィオーレへ、ビアンはオライザへ、と。

「その可能性は十分にあるな。実際に異国民の存在を関知し、対策が講じられるとなれば、俺達がわざわざ王都へ出張る必要もない訳だ。加えて言うと、お前達の今日の会議への出席も必要もない」

「なんだよ、それ。王都へ行くの楽しみにしてたのに」

「わがまま言わないの。お使いは果たしたんだから」

 王都行きが遅れるのは許容できても、行かないとなると途端に不満そうなライゼル。そして、そんなライゼルを宥めすかすベニュー。

「このまま話が纏まれば、この町でお前達を解放するのもやぶさかではないが、自分が管轄する集落の子どもを遠い地で置き去りにするのは忍びないからな。またフィオーレまで送り届けよう」

 異国民の脅威は依然として存在し、特にライゼルは格別敵視を受けている。このまま、姉弟だけを返すのはあまりにも無責任だ。ビアンはちゃんと姉弟を送り届けるつもりでいる。

「ありがとうございます。回り道だとビアンさんは仰いましたが、結果的に良いように転びましたね」

「まったくだ。途中で気付くべきだったな。フィオーレ以外の余所でも遭遇例があったのだから、こうなってもおかしくなかった、と」

「じゃあ、最初からアバンドを目指してれば良かったってこと?」

「フィオーレを立った時点では、こんなに異国民が流入しているとは思わんかったしな。奴らの悪事が認知され始めて来たからこそ、結果的に首都へ行かずとも国家組織が動いてくれる訳だ」

 旅の終わりを予感させるビアンの言葉に、ライゼルは感慨深げな思いがこみ上げる。

「駆動車の旅もここで終わりか。ねぇベニュー、約束覚えてる?」

 約束。それはボーネの村で交わした、姉弟の今後の方針について相談するという事。予定ではもう少し先の事であったが、幸か不幸かその機会は予想より早く訪れた。

「うん、これからの事はちゃんと二人で考えよう」

 もちろんベニューも心得ている。約束を有耶無耶にして、ライゼルをフィオーレに強制送還させるつもりはない。むしろ、ベニューも村の外を知る事によっていろいろ考えさせられた。ライゼルと意見を交わし、今後の方針を熟考したい。

 と、そうこうしている間に、アバンドの役人がビアンに声を掛ける。

「オライザの。本日出席してもらう聴取だが、午後一時から行う予定だ。それまでは街を自由に見学してはどうだ?」

 突然の提案だったが、ビアンとしてもそれは有り難い提案だった。

「アバンド観光か。確かに、こういう機会でもなければ、立ち寄らない町だしな。」

 俄かにその気になるビアンに、アバンドの役人はこの土地のらしい施設観光を勧める。

「せっかくなら教会にも立ち寄るといい。ここまで無事に来れた事を、救世主に感謝せねばな」

 アバンド役人が指す救世主とは、伝説に名を遺す救世主ノイの事である。大昔に起きた未曽有の大災害から人々を救った英雄ノイ。後の復興と再建は彼の辣腕によるものと王立図書館所蔵の書物には残されている。その資料によれば、ノイが新たに興した国がこのベスティア王国であり、王族はその血を代々受け継いでいるとかいないとか。

 その国での生活規範を記した書物を、後の時代の王家お抱えの編纂家ウォメイナが解読し布教したものが、現在広く知られているウォメイナ教だ。

 一行も約一名の例外を除き、ウォメイナ教を順守する敬虔な信者だ。恭しく礼拝するのが当然の責務だろう。

「あぁ。では朝食を済ませたら、時間まで出歩かせてもらう」

 席を立ち、朝食の配膳に向かおうとするビアンに、更にアバンド役人は確認をする。

「そういえば、ひとつ」

「なんだ?」

「この町では喧嘩賭博が行われているが、それは承知しているな?」

 姉弟にとっては耳慣れぬ単語であったが、ビアンは既知の事であったようで、淀みなく会話が続けられる。

「あぁ。闘技大会の予選を兼ねているアレか。賢王と誉めそやされるティグルー閣下が、何故あのような野蛮な催しを許されるのか理解できないが」

「そうは言うが、閣下自らこの企画を御推奨なされているそうだぞ。あまり迂闊な事を言うんじゃない。これから王都へ向かうのであれば尚更な」

 その土地の人間からの忠告だ、ビアンも本意ではないが軽んじるつもりはない。

「あぁ。肝に銘じておこう」

 アバンド役人とのやり取りも終わり、改めて外へ向かおうとするビアンの進路に、喜色満面のライゼルが待ち構える。

「ビアン、あのさ」

 ビアンもそう問われる事は想定済みで、小声でその好奇心を制す。

「昨日も話したが、お前が余計な事に首を突っ込んだり、妙な事を口走ったりすると、教会の注意を引く事になる。後で話してやるから、とりあえずここを出るぞ」

 いつも以上に真剣な表情でビアンに諭され、気勢を削がれたライゼルは、素直に首を縦に振る。

「お、おう」

 そして、詰所を出た一行は、街へ繰り出す事にした。

「さて、会議まで時間はある。勧め通り、教会へ…」

 ビアンの言葉を遮るように、ライゼルがビアンへ潜めるようにして声を掛ける。

「…ねぇ、さっきの喧嘩賭博と闘技大会って何?」

(先日の脅しが利き過ぎてるのだろうが、さすがに興味もなくならないか)

 ライゼルの様子が気になりながらも、ビアンはその問いに答える。

「そうだな、【牙】を使うというのがどういう事か、お前が考え直す良い機会かもしれない」

 ライゼルが望む望まざるに関わらず、これまでの戦局を預けてきたビアンが言うのはややお門違いかもしれないが、それでも前途ある少年の未来を思えば、これは絶好の機会かもしれないとビアンは思うのだ。

 ライゼルが夢を叶える為に用いようとしている手段が、如何に自らを滅ぼす行為であるか。その実例を目の当たりにさせてやるのが、大人の役目だとも考える。その為であれば、教会へ向かう途中で道草を食う事くらいは、お目こぼしの範疇だ。

「いい機会? 何の?」

 ビアンが何を言わんとしているか分からないライゼルだったが、ビアンは構わず続けて話す。

「闘技大会は追々説明するとして、喧嘩賭博については実際に見た方が話が早い」

「見られるの!? やった!」

 極力寄り道を禁止していたビアンが、意外にもあっさり承諾した。その事をそれ程気にせず、素直に歓喜するライゼル。ビアンも何らかの意図があっての事だが、それを勘繰る程に思考の冴えるライゼルではない。

「確か、中央広場で行われるんだったか。朝食を済ませたら、ちょうど始まる頃合いだろう」

 今日の予定を決めた一行は、適当な食事処に入り、朝食にありつく。流石は南部の首都と呼ばれるだけはある、穀物、野菜、果実ともに豊富な種類の品目が用意されている。これを見るだけでも、他の集落と比較して物流が発展している事が見て取れる。

 見慣れない物も多かったが、それよりもライゼルの関心を惹いたのは、先の役人同士の話題に上がった結果賭博だ。食卓の彩よりも、血気逸りそうな行事に関心が向けられる。

「それはどこであるの? いつ始まる?」

「店を出たら、ちょうどいい頃合いじゃないか? ともかく、今はちゃんと飯を食え」

 そうして、朝食を済ませた一行が、広場へ向かおうとしていた頃、通りは多くの人で溢れていた。駆動車の走行道路も解放されての全面歩行者道路に変更されているにも拘らず、右も左も人人人。いろんな首輪が見受けられる事から、様々な集落から人が集まっている事が窺い知れる。

「これがアバンドの賑わいなんですね」

 ダンデリオン染めやそれ以外の洋装の者も大勢見受けられる。服飾文化に関してもさすがは都会と言ったところか。目の前の色とりどりの人波に、圧倒されるベニュー。色彩的には鮮やかな景色であるが、人数で言えば、まるで芋洗いのように人がごった返している。

「喧嘩賭博は、王国公認な上に、法を巡視する教会のお膝元で行われる娯楽だからな。聖なる場所で営まれる野蛮な行為だ、背徳感と相まって熱中する者も少なくない。礼拝ついでに見物していく他の集落の人間もいるだろうから、いつも以上に混み合うだろうな」

「俺も熱中する!」

 まだ始まってもいない上に会場に到着すらしていないというのに、ライゼルはかなり興奮している。思えば、牙使い同士の戦いを演じた事はあっても、それを傍から眺めていた事はないライゼル。一度機会はあったが、その時は気を失っていて、結果を聞くに留まっていた。

 そんな昂りを見せるライゼルとは対照的に、ベニューは何やら考え込んでいるようだ。

 その様子に気付いたビアンが、ライゼルの隣を歩くベニューに声を掛ける。

「この矛盾が納得できないか?」

「はい。ウォメイナ教で禁止されている行為を、何故その教会がある町で行うのでしょう?」

「正しい反応だ。だが、俺がいろいろ言って聞かすよりも、実際に見てみれば分かる」

 これまで言って聞いた試しがなかった、と言いたげな調子で、それ以上の言葉を継げないビアン。

「わかりました」

 ベニューもそれ以上は訊かずに、ビアンの言葉通りに実践してみる。見れば分かるとビアンは言った。ならば、実際にその現場を見ればいいのだ。

 人の群れが徐々に広場へ収束していく。周囲を歩く人々の間隔も近くなっていき、自然と歩みも遅くなる。という事は、目的地が近付いているという証拠でもある。

「見えて来たぞ。あれがそうじゃないか?」

 ビアンに促され進む先に目を凝らすと、確かに高台となっている舞台が拵えてある。木板で組まれた舞台で、足場が成人男性の胸の高さまであり、一辺が大人の身の丈四人分の四角形となっている。その辺上には柵が設けてあり、内部に入った者の移動を一定に制限してある。広場中央に位置しているので、おそらく四方を観客が囲んで見物するものなのだろう。

「あれはゾア頭領のとこの武道場で見た陣みたいなもの?」

「そうだろうな。対戦者両名は、限られたあの中で闘う事になる。喧嘩賭博の趣旨から考えても、周囲の観客に見せる向きがあるんだろうが」

 そう聞かされ、ライゼルは娯楽として楽しみにしている面が強いが、ベニューはやはり納得できない。衆人環視の中で【牙】を用いての戦闘を行わせ、治安は悪化しないものか、と。例えば、ライゼルのように強さを求める理由を持った者が、何らかの影響を受け、危険な行為に及ぶのではないかと危惧してしまうベニュー。

 しかし、そのようにすぐに思い付くような懸念事項を、国家や教会が気付いていないとは思えない。千年王国と謳われるベスティア王国の頂点ティグルー国王が、そんな迂闊な人間であるはずがない。

 であれば、その対策は十分に講じてあるという事なのか? 法の順守に煩いビアンが平静を保っているという事は、つまりそういう事なのだろう。ベニューは半信半疑のまま、喧嘩賭博の見学に同行する。

 一行の中に期待と不安が入り混じる中、人の群れを掻き分け、ようやく舞台脇まで到着した三人。脇と言っても、舞台からは間に数人を挿んでいる為に間近ではないが、十分に登壇している姿を確認できる程度には見晴らしも良好だ。あとは始まるまでしばらくこの場で待機する。

 目的地に到着し辺りを見回すと、植木で縁取られた広場の外周にぐるりと屋台が立ち並んでいるのが見える。食の街ミールとはまた趣きが変わっていて、飲食物に限らず、鉱石をあしらった装身具や染物なども売られている。各地方の名産品がこれでもかと持ち寄られているようだ。出店の賑わいが、この行事への期待感を更に盛り上げる。

「俺達の後からもどんどん人が増えてくるね」

「噂以上の人出だが、どうやらあいつの人気がその理由らしいぞ」

 ビアンの指し示す先には、今回の対戦者の似顔絵が描いてあった。やや赤茶けた髪色の短髪に、細めの顔の輪郭の男性。描き手の受けた印象だろうか、柔和な表情の中に、穏やかさとあどけなさが入り混じっており、年の頃は分かりにくい。

「ん、どっかで見たよ~な?」

 見覚えのある似顔絵にライゼルが注視していると、周りの観客の雑談が耳に入る。

「次勝てば九連勝か。夢を見させてくれる奴だよ、全く」

「今じゃ人気が高くて、みんながあいつに賭けちまって倍率が上がらねえぜ」

「初め見た時は大した事なさそうだったが、この連勝を見たらその実力も確かだって思い知らされるよな」

「どんな奴が来たってあいつにはかないっこねえよ。倍率が低くても、確かに返ってくるこの男に、俺は賭けるぜ」

 しばらく看板に張られた似顔絵を眺めていたライゼルも、自然とその牙使いの話に耳を傾けている。

「すごい強いんだって。俺も闘ってみたい!」

 強さはライゼルの最大の関心事。それだけ評判の男にライゼルが興味を持たぬ訳がない。もちろん、勝負の相手という対象として。

「止せ。もしもの時はベニューと二人掛かりで組み伏せる。な、ベニュー?」

「分かりました。お手伝いします」

「やめろよ、ベニュー。目が笑ってないところ、母ちゃんに似て来たぞ」

 静かな調子でベニューに牽制され、ライゼルもこれ以上は迂闊な事が言えなくなる。

 ただ、それ以外の話題、むしろ疑問は自然と口を吐く。

「あと、賭けるって何の話?」

「賭博と言ってだな、相反する複数の物事の結果を占う際に、どちらになるか検討してその一方の結果に金銭を賭けるんだ。すると、その成否次第で、掛け金が配当に応じて返されたり、反対に没収されたりするんだ」

「へぇー、楽しそう!」

「もちろん参加者にも、勝てば賞金が与えられる。高額な金銭が動く見世物は、他の都市でもなかなか見られないだろう」

 そもそも賞金の出る娯楽など、ベスティア全土を見ても、この喧嘩賭博だけだろう。このような興行自体、まだ全国的に見ても数が少ないと言える。

「賞金、それが牙使いの人達の参加理由ですか?」

「時代が違えば、武勇を競い名を馳せる事にあったろうが、今は賞金が目的だろうな。国から最低限の保障を受けているというのに、貪欲な奴らだとつくづく呆れる」

 ビアンが言っているのは、この国における牙使いの雇用保障についてだ。

 一般的に牙使いは、国からの仕事を任される事が多い。その稀有な能力を以て、他の者では為し得ない作業をこなしていく彼らには、国も大きく期待している旨がある。故に、保障という対価を払い、彼ら牙使いを雇用している。ただ、ライゼルのように【牙】保有を役人に申請せず、雇用登録していない牙使いも少なからず存在する。

 仕事に【牙】を用いず、飽くまで戦う為の手段と捉えるライゼルは、喧嘩賭博に大いに興味がある。

「出れば、強い牙使いと戦えるんなら、俺だって出たい!」

「大会当日であれば、もう募集も打ち切られているだろうがな。それに、俺の保護下にいる間は観戦だけで満足しておけ」

「そうなのか。じゃあ、今回は存分に見るぞ」

 これまで見聞きした事のない娯楽に、ライゼルは興味津々だ。ただ、金銭が動くという事はあまり意識しておらず、目新しさに惹かれ訳も分からず興奮していると言ったところか。

 そして、ライゼルの質問が呼び水となり、ベニューの疑問も引き出す。

「賭博も法律で認められているんですか?」

 賭博という行為は、純粋な経済活動ではなく、生産的な行為ではない。個人間で金銭が行き交うだけで、何も新しい物を生み出していないのだ。

「基本的に賭博は禁止されているが、半年に一度この期間に開催が限定されている喧嘩賭博に関しては、特例で許されている。掛け金の上限も国に規定されているし、教会の仕切りもあるしな。賭場に参加したからと言って、個人間で大きな損益はないって事さ。治安部隊も駐在している町だから、法を犯す真似をする気も起こさんだろうしな」

 法によって十分に整備されている事は理解できたが、ベニューにはビアンの説明の中で引っかかる事があった。

「教会が主催なんですか?」

 法律や抑止力で万全を期している訳だが、その労力を払って開催する理由が、教会という組織からベニューは連想できないのだ。禁止する方向で働きかける方がよっぽど自然な形と思える。

「教会は飽くまで監督役だ。見るに堪えない凄惨な戦闘を行うようなら、監督権限を持つ教会から中断を余儀なくされる事になっている。つまりは歯止め、これが教会の役目だ」

「なるほど」

「そして、主催者についてだが、お前達に分かりやすく例えるなら、ゾア頭領やドミトル公のような地方の有力者が半年ごとに持ち回りで開催しているという話だ」

「国から指名されるんですか?」

「いや、立候補制だと聞いている。彼らも必死だよ。この賭場を成功させれば、便宜を図ってもらえるかもしれないからな。今回はコミテリアの領主が主催者らしい」

(国家が開催者に便宜を図る? って事は、開催すると、国家に利益があるって事?)

 さすがにこの問いをビアンにぶつけるのは憚られる為、ベニューは遠回しに訊き出していく。

「でも、運営するのも簡単じゃないですよね?」

「その通り。ただやればいいってもんじゃない。この賭場を任されるという事は、国からの信頼を預けられているという大変名誉な事であるが故に、その運営に当たっては最大限の配慮をしなければならない。事件や事故が起きては、主催者である自分の名前に傷が付くからな。これでは却って損をする形になる」

「開催する側の利はなんとなく分かりましたが、どうして喧嘩賭博にこうも人が集まるのでしょう? 金額も高額でないとの事でしたので、射幸心を煽られている訳じゃないんですよね?」

 直接的な言葉が使えない分、どうしても回りくどい訊き方になってしまうベニュー。それが却ってビアンの注意を引いてしまった。

「どうしたベニュー? 随分と熱心に尋ねるじゃないか。フィオーレの代表になって、更に六花染めの知名度を上げる為に賭場を利用しようという腹か?」

 もちろんビアンもベニューにそんなつもりがないのは承知だが、ベニューがここまで賭博に関心を持つのが意外だったのだ。故に、そんな軽口を叩いた。

「いえ。その、どうしてミールよりも人が大勢集まるのかなって」

 ミールには食という求心力があり、人間の三大欲求の内の一つであるそれは十分に求心力足る理由を持っている。故に、食の街ミールに人が集まるのは理解できる。

 では、このアバンドはどうだ? 交通の要衝で、南部唯一の教会があって。でも、それだけで賭博に集まるだろうか? 礼拝のついでに、利の少ない賭博に出かけようという心持ちになるだろうか? いや、考えづらい。

「どうして、か。それは俺も同じように思うよ」

 これまでとは違い明確な答えを返さないビアンに、ベニューも思わず問い直してしまう?

「ビアンさんもですか?」

 釣られてライゼルも口を挿む。

「なんで? 【牙】同士の戦いが見られるじゃん」

「そうだ、滅多に御目に掛れない光景だ。だから、しっかり見ておけ」

 半ば煙に巻く形でその話題を終わらせるビアン。その態度は、実際に目にする事に意味があると雄弁に物語っている。これ以上語るつもりはない、とそう切り捨てたようなものだ。

「おう、もちろんそのつもりだぜ」

 ライゼルは特に気にする様子もなく、言葉通りに受け取ったが、ベニューは違う意図を感じている。決してビアンは今回のそれを有難がったりなどしていない。むしろ、先の役人の前で溢したように、疎んじている事が分かる。それを自分達姉弟に見させる意図。それは一体何なのだろう?

 ここまでいろいろ賭博について尋ねたベニューだが、まだ得心には至らない。主催者に益があり、参加者も賞金がもらえる、そこまでは分かる。だが、観客が集まる理由に思い至らず。加えて、教会が後ろ盾になり、国家が推奨する理由も分からない。未知とは恐怖の対象だ、ベニューには今回の催し物が不気味で仕方がないのだ。

 ベニューが俯き加減で物思いに耽っていると、突然周囲の観客から歓声が上がった。


「「「うぉぉおおおお!」」」


「なになに!?」

「話題の牙使いの登場らしいぞ」

 衆目が注がれる舞台上には、一人の男が登場している。先の看板に描かれていた似顔絵の男。ライゼルが見覚えのあった牙使いの男。

「あれってルーガン?」

 そう思わず壇上の男の名をライゼルが口にした時、舞台袖から陽気な調子の男の声が聞こえてくる。

「さぁてお立合い。今年もこの期間に連日開催される路上格闘なワケだけど、もうこの男の顔と名前は覚えただろうー? なにぃ、もう見飽きたって? そう、なんたってこいつは八戦連続で勝ち続けている常連牙使い、ルーガン・ブレだぁああっ!」

 陽気な司会進行の男に煽られて、観客も各々大声を張り上げる。老若男女問わずが声を上げている所を見るに、余程の人気を勝ち得ているのだろうか。ベニューは、やはりこの光景に納得がいかない。

「そして、その連勝記録を妨害せんと名乗りを上げたのが、この男! 大巨人ゾアの下に身を置き、天下に並ぶ者なしと称された無双の古兵(ふるつわもの)! 長槍のファブラ・オライザ!!」

 そう紹介を受けた男は、呑気に片手を挙げ、観衆の声に応える。大きめの体躯に日に焼けた黒い肌。短く刈り上げられた髪型で、揉み上げと顎髭が繋がった、精悍な顔付きの40歳前後屈強な男。それがこの度ルーガンに勝負を挑む牙使いだ。余裕に満ちた呑気さとは裏腹に、剣呑な雰囲気をその瞳に隠し持っているようにも見受けられる。

「あれは、まさかオライザのファブラ殿か? どうなってる!?」

 独り言ちるように驚嘆してみせたビアンに、ライゼルは問い掛ける。

「知ってるの?」

「あぁ。オライザで米作りをしている勤勉な方だ。牙使いだとは聞いていたが、まさか喧嘩賭博に参加しているとは」

 ビアンの記憶が正しければ、ゾアから一区画の田畑を預かる信に厚い人物だ。

「強いの?」

「オライザ組ではないから、人前で【牙】を行使する機会はほとんどなかったはずだが」

 政府から建築土木を一手に任されているオライザ組に所属していないという事は、国家からの職を請け負っていない、ライゼルと同じ珍しい部類の牙使いらしい。ただ、その点にそれ程の関心はなく、ビアンがやや口篭もるように言い切らなかったのを、ライゼルは見逃さない。

「はずだが?」

 水を向けられ、ビアンはゆっくりと言葉を選びながら紡ぐ。

「はずなんだが、あの人は稲刈りに【牙】を使っていたらしい疑惑が掛けられている」

「ダメなの?」

「駄目というか、穢れる恐れを考えたら、無暗に使うものじゃないだろう? 石包丁もある訳だし、手間を考慮しても、益と害の均衡が取れていないじゃないか」

 穢れを最大に禁忌とするベスティア国民が、受けられる補償以上の【牙】行使を行うとは考えづらい。にも拘らず、ファブラと呼ばれる牙使いの農夫は、農作業に【牙】を行使している可能性があるという。

「それで、結局強いの?」

「話が逸れてしまったが、俺から言えるのは、どうやら【牙】捌きに余程長けているとか。あのエクウスが手放しで評価したと言えば、その凄さが伝わるか? オライザ組ではない只の農家でしかない牙使いを、だぞ?」

 エクウスの名を引き合いに出しても、評価されたのが仕事量であれば、特筆に値しない。だが、鞭の【牙】を自在に操るエクウスが、その【牙】の取り回しに関して才があると見込んだのだ。これは、余程の手練れと見ていいだろう。

 エクウスの実力を、審判役として間近に見ていたベニューは、思わず生唾を飲み込んでしまう。

「長槍の、と渾名されていましたね。という事は」

「そうだ。司会役が紹介した通り、ファブラ殿は長い得物の【牙】を使う。そんな取り扱いの難しそうな【牙】で遠近自在に周囲の稲を刈り取るんだから、その熟練度が窺い知れる」

「エクウスが認める牙使い、か。ルーガンとどっちが強いんだろう?」

 ファブラの素性はビアンにもたらされた情報により大方見当が付いた。では、一方の対戦相手はどうだ?

「八連勝を記録する時の人らしいじゃないか。何も喧嘩賭博で名を馳せなくてもいいだろうに」

 この発言からも、ビアンが喧嘩賭博に陽性感情を抱いていない事が分かる。

「早く始めてくんないかなぁ」

 ライゼルの願いが通じたとかではなく、対戦する二人が所定の位置に着いた事を確認した為、司会進行役は勿体付ける事なく高らかに宣言する。どうやら喧嘩賭博では、陣に入って開始が告げられてから、【牙】を発現させるのが決まりのようだ。この辺りは、ライゼルがオライザで体験した試合とは異なっているようだ。

「それでは、試合開始ぃッ!」

 司会進行が開始を告げると、両者同時に先んじらんと【牙】を顕現させつつ接近する。挑戦者ファブラは噂通りの長槍を、そして相対するルーガンはと言えば…

「あれは、手袋?」

 周囲が開戦に沸くのとは対照的に、一行は呆気に取られる。今朝、組手を交わしたライゼルは、誰よりも拍子抜けする思いだ。

「全然、強そうに見えない…」

 ライゼルがそう漏らした通り、ルーガンの【牙】は手をぐるっと覆っただけの厚手の布のようにしか見えない。両手をそれぞれ握り拳の形で包み込んだ形で発現された【牙】。万物から影響を受けない【牙】の特性を以てしても、それで相手を組み伏せる事が適うようには到底思えないのだ。

 初めて見るルーガンの【牙】を目にしたライゼルの脳裏に、今朝のルーガンの言葉が蘇る。

『三発。あと一発で合計三発』、『ルーが三発以内で沈められんかった人間はおらんばい』

(どうやって、あんな【牙】で三発以内に倒すんだろう?)

 ライゼルがそう疑問を抱く間にも、ファブラの長槍がルーガンの腕目掛けて刺突させられる。

 今回の勝負も、以前ライゼルがオライザで体験したような規定での取り組みとなっている。相手を殺傷するのが目的でなく、飽くまで相手の【牙】を喪失させるのが目的である。【牙】の消失の確認、あるいは、教会から派遣された監督役が戦闘継続不可能の判断を下す事で、試合は決着するのだ。

 故に、心臓を一突きなどという訳にはいかず、直接【牙】である布手袋を狙うファブラ。

「もらったっ!」

 エクウスの鞭捌きを彷彿とさせるような素早さで、ファブラの長槍による突きが繰り出される。

 柄の長さがある分、有効射程の範囲はファブラが広い。そして、長槍の扱いに慣れているファブラは、曲芸じみた動きさえも危なげなく高速で行える。つまり、腕の長さしか有効射程がないルーガンを近付ける事なく、自身の思うままに攻撃を繰り出せるのだ。反対に、ルーガンは引っ込められた長槍を追って接近しようものなら、体全体を相手の有効射程範囲に収めてしまう事になる。熟練の槍使い相手に、それは単なる自殺行為に過ぎない。

 それが分かっているルーガンは、相手が繰り出してきた際の機会を窺い、反撃する形で槍への攻撃を狙う。

「ルーもたいっ!」

 自身の手元に向かって伸びてくる長槍に合わせ、構えた腕を曲げたまま後ろへを引くルーガン。相手の攻撃に合わせ、反撃する為に力を込めているようだ。槍の先端でも、横っ面を叩けば、ルーガンの【牙】には損傷は加えられない。しかも、上手いこと【牙】を吹き飛ばせば、ルーガンは反撃を警戒せず、【牙】または本人を狙って攻撃を仕掛ける事が出来る。

 その予備動作に、ファブラは目敏く気付いている。いや、そうするであろうと予測した上でルーガンを誘導していたのだ。

 挑戦者側のファブラは、これまでの試合を見て、既にルーガンの戦い方を知っている。足を止めて、上体を逸らす事で回避する手法を。なので、気付いたというより、目論見通りに動いている事を確認したのだった。

「いや、もらったのは、やっぱり私だね!」

 野太い声でそう断言するファブラは、自身の腕が伸び切る直前に軌道を変える。どう変えたかというと、ルーガンが待ち構える腕の外側、つまり反撃時にルーガンが力の込めづらい肘の外側からの攻撃に切り替えたのだ。ファブラの【牙】は、長い柄の先端に尖った刃物のような突起物が付いている。突き刺す事も出来れば、ビアンが先に示したようにその刃先で薙ぐ事も可能なのだ。

 急に軌道を変更され、ルーガンは先の攻撃に合わせての反撃が出来なくなった。しかも、ルーガンの右側へわざと外したファブラの【牙】の切っ先。おそらく、長槍を引く動作で斬り付けるのだろう事は、ルーガンにも察知できる。

(こんな長物を器用に取り回して。ルーには出来ん芸当たい…ばってんッ!)

 有効射程の広い【牙】の弱点を見出したルーガンは、一足飛びでファブラとの距離を詰める。

「これなら、どがんね?」

「いい判断をしてるよ」

 伸びている長槍の側面を通り抜け、ファブラの懐へ入るルーガン。これには、ファブラも堪らず称賛の言葉を贈る。

 ルーガンに接近を許してしまえば、長槍の先端の突起物は、ルーガンに向けられない。どうにか先端を手元まで手繰り寄せれば、その切っ先を向ける事は可能だが、有効射程の長さという優位を捨ててしまっているし、そんな持ち方では扱いづらくて仕方ない。結果的に、ファブラは初撃を完全に外した事になる。

 その隙を突いて、ルーガンは【牙】による渾身の殴打を仕掛ける。一足飛びで接近した勢いで、やや前のめりに屈んだ姿勢のルーガンは、胸の前に構えた腕を真下から振り上げ、ファブラの顎に炸裂させるつもりだ。

「緒戦はルーが勝っとるばい」

「まだだよ。暫定権利者さん」

 ルーガンの【牙】を纏った握り拳がファブラの下顎を捉えんとした瞬間、ルーガンから低く短い呻き声が漏れる。攻撃をしているはずのルーガンが、何故かその場で硬直し、痛みを覚えている。

「ぐぉ…」

 懐に入ったルーガンであったが、ファブラは持ち手の柄でルーガンの後頭部を殴打していたのだ。

「作業効率が悪いと、仲間から怒られてしまうからね。どんな風にも取り回せるように、普段から心掛けているんだよ」

 ルーガンが懐に飛び込んだ段階で、握り方を変え、反撃の準備を整えていたファブラ。ルーガンの奇襲じみた反撃も、ファブラにとっては風に戯れる稲穂のようにしか感じられていない。長槍で整えてやれば大人しくなる、そんな他愛ない存在。ファブラの涼しげな表情からは、それ程の余裕が感じられる。

 この高速で行われるやりとりを注視していたライゼルは、その妙技に思わず唸る。

「咄嗟に動作を変えた!? すげぇ!」

 驚嘆する弟の傍らで、ベニューは冷静に見識を述べる。

「ううん。ファブラさんって人は、最初からそうなるよう狙っていたんだよ。あれを見て反応できちゃうルーガンって人もすごいんだけど、初撃の動作はどうしても目を奪われがちだから、余計に誘導されちゃうのかも。それにしたって、あの細かい槍捌きには拍手を送るしかないんだけど」

 ファブラの実力を疑っていないビアンだが、それを評するのがこの姉弟だと、やや持ち上げが過ぎるように思える。

「お前達も同じような事が出来そうな気がするが?」

 ビアンが訝りながら問いを投げるが、ベニューは首を横に振る。

「私達の風読みの力では、避ける事は出来るかもしれませんが、それに合わせて反撃するなんてとても…」

「フィオーレで会った時、姉弟で組手をやっていたじゃないか。あの時は、予知しているように避けて、それと同時に反撃していただろう? 同じ事じゃないのか?」

 その意見にライゼルは、姉と同じで否定的な立場を取る。

「う~ん、俺とベニューじゃ早さが足りないかな。俺も体は鍛えてるけど、あんなに素早く、しかも柔らかくは動けないよ」

「なんだ、その、柔らかくって?」

「お二人とも器用過ぎるんですよ。私やライゼルは決まった型を反復で練習しているから、練習している通りにはできますが」

 例えば、ライゼルの場合は『[[rb:蒲公英 > ロゼット]]』、ベニューの場合は『花吹雪』を、事前に自身の技として習得している。故に、経験に乏しい戦闘時においても十全とその技を発揮できる。

 しかし、先の二人はそうではない。ルーガンは、後手に回ってもその攻撃に対する最適解を瞬時に叩き出し実行できている。一方、ファブラは誘導こそしているが、いくつかの選択肢を想定し、その中から相手が選んだ手段を冷静に処理している。

「つまり、お前達は事前に決まっているものを、ファブラ殿達はいくつかの選択肢の中から、という違いか」

「そうですね。グロッタの時も、クーチカという人が攻撃に徹していたらどうなっていたか」

 ベニューに供された話題に、ビアンはつい先日の戦闘中の事を思い出す。なんとか抵抗せんと立ちはだかってくれたベニューだが、相手の出方次第ではあの時点で手詰まりだった可能性があると思うとぞっとしない話だ。

「あの時クーチカに見舞った『花吹雪』も、練習していたからこそ、か」

「はい。ライゼルは意外と対応力がありますが、それでも対処が単純なので見破られると弱いですね」

「えっ、俺、何気に見下された?」

 思わぬ点から自身を詰られ、それをライゼルは問い詰めるが、ベニューもビアンも相手にしない。

「となると、この勝負、どちらが読み勝つか? という訳か」

「御両人とも素早さは互角、ですが、狙いはそれぞれ違うようです」

「狙い?」

 同じ試合を同じように見ていたはずなのに、ビアンとベニューでは着眼点が違ったようだ。

「はい。ファブラ選手は、相手の【牙】を直接攻撃しようとしていましたが、ルーガン選手は牙使い本人を狙っているようでした」

「長槍も刺されると痛そうだが、あっちの拳もまともに喰らえば身体に応えそうだ。【牙】の破壊をするまでもなく、牙使いその人を気絶して戦闘不可に持っていこうという腹積もりか」

 如何に強力な【牙】を有していようと、所有者が戦闘行為を続けなければ、まさに言葉通りの無用の長物となってしまう。ルーガンの先の攻撃から、狙いがそれだと読み取れる。

「ルーガンも頭殴られて、気を失ってそうだけど」

 三人が両者の分析をしている間にも、試合は続けられている。だが、さっき見事に返り討たれたルーガンは、仰向けになって伏せたままだ。

「もしかして、ルーガン負けちゃった?」

「いや、【牙】が消失しない限りは、決着はつかないはずだ」

 ビアンの言う通り、ルーガンは倒れたままだが、まだ試合の裁定は下されていない。ルーガンの両拳にはそれぞれ【牙】が残っている。

 これでまだ戦闘継続中とは思えない格好のルーガンに、ファブラは構えを解く事なく声を掛ける。

「無防備な相手に、私も手は出しづらいから。早く起きてくれると助かるな、暫定権利者さん」

 ファブラの挑発めいた言葉を受け、黙っていられなかったのか、ルーガンはゆっくりと起き上がりながら、構え直す。

「ルーは暫定でもなく、ちゃ~んと十連勝して賞金をもらうばい。あんたはもらえなくて残念ばってんが、素直に諦めてもらえるならルーも助かるっちゃん」

 構え直してはいるものの、先の衝撃がまだ頭部に残っているのか、万全の状態ではないルーガン。相手を嗾けようとするも様になっていない。

「どうして倒れ伏してた暫定さんが勝ち誇った顔してるんだい?」

「だって、あんたの【牙】が大したことなかったけん」

 この言葉には、余裕をもって事に当たっていたファブラも、こめかみが疼いたようだ。

「なんだって?」

 対峙して相手の力量は十分把握できているはずだろうルーガンは、懲りず更に減らず口を叩く。

「棒遊びが得意みたいばってん、それじゃあルーには勝てんとよ。あんたはルーの拳を完全には避けきらん」

 言うが早いか、再び両手を顔の前に構えた状態で、前のめりに走り出すルーガン。

 とはいえ、先んじられたファブラも完全に不意を突かれた訳ではなく、その挙動は十分に目で追えている。先のように懐に入られまいと、長槍を振り回しながら待ち構える。

 そして、その間も、ファブラは先のルーガンの言葉に応じる。

「避けるのが勝負ではないさ。例え、いくらか殴られたとしても、その頃にはその貧相な布袋をズタズタに引き裂いてやるぞ」

 ファブラは、長槍のちょうど真ん中辺りを軸に、車輪が回転しているかのように眼前で回転させ、ルーガンの接近を拒む。こうする事で、ルーガンは迂闊に手を出す事が出来ない。もし、ファブラまで手を伸ばそうものなら、あの高速で回転する長槍に手を絡め取られてしまう。

「どうしてもルーを近づけたくなか訳たい?」

「違うぞ。私はさっさと暫定さんを倒して賞金をもらいたいんだ」

 ファブラは絶え間なく長槍を回転させ続け、そのままルーガンの方へとにじり寄る。結果、ルーガンは後退する事を余儀なくされ、舞台の果てに追いやられる。

「そこから跳び降りれば、これ以上痛い想いをせずに済む」

「別に痛いのとかは、どうでもよかったい」

 これまでの八戦を無傷で勝ち上がってきた訳ではない事は、ファブラも観客達も知っている。相当な痛手を負う試合だって何度かあった。それなのに、そう強がってみせるというのは、なかなかな胆力と言わざるを得ない。

「ほお、大した度胸じゃないか」

「ルーもここで引けん理由があるけんね。あんたもあるとじゃなか?」

 勝負の最中の問答だったが、それは意味のあるやり取りと感じたファブラは、槍を振り回しながらもそれに応じる。

「闘う理由か。私も働きが認められ、ゾア頭領より格別の褒美を賜る事となった」

「褒美? ご馳走ね?」

「違う、更に大きな田畑を任されるようになったのだ。これは私が【牙】を使い働いた事へ頭領殿が報いてくれたのだと思っている」

「前置きが長かね」

「より広大な土地を作業するのに、皆の分の農具が足らんでな。新たに調達しようにも元手がいる。その資金に充てようと参加を決めた」

 ファブラの参戦理由を一通り聞いたルーガンだが、不服そうな顔を浮かべ、それを隠す様子全くがない。

「つまり、偉か人から認められたあんたが、より良か生活を送る為に、ルーからこの賞金を奪おうって、そう言いよると?」

「そろそろ妄言は止したらどうだ? 暫定権利者さんは参加資格の暫定であって、賞金取得の暫定じゃないんだぞ?」

「そがんね。もう終わらせてよかばい。あんたと話す事はもう無かけん」

「では、望み通りに!」

 既に活動限界線までルーガンを追い込んでいるファブラは、更ににじり寄り、不可避の状態に追い込んでいく。器用に回され続ける長槍は、徐々にルーガンへ迫っていく。

「私の槍の前に倒れろ!」

 気迫のこもった一喝と共に、鋭い突きが繰り出される。回転動作も結局は見せ掛けに過ぎず、本命はこの一撃なのだ。回転の動きから突然一直線に伸びる軌跡。繰り出される瞬間の予測も然る事ながら、大きな円の動きから点への変化への反応も対処に困る。これもファブラの誘導作戦の内なのだろう、大きく動きを見せておいてからの、小さな点に変化する得物。一瞬、消えたかのように錯覚してしまうファブラの【牙】。

「こすいやり方ばい」

 そう悪態を吐きながら、なんとかその点を目で追い、回避と同時に左腕で外へ押し出し、身体へ向かって来ない肘の外へとその一撃を受け流すルーガン。両腕は胸の前に構えた状態で、腕の甲のみで内側への侵入を拒む。更に接近する事で、出だしの速度で負けてしまっては引く際の薙ぎでは間に合わない。いや、もし間に合ったとしても、ルーガンの突進を止める事は適わないだろう。

「―――やるな。だがッ!」

 何度も似たような手法で回避を許すファブラではない。先端による攻撃を回避されたと悟った瞬間に、持ち手を引っ張った後で中心を軸に素早く回転させ、柄の方で接近するルーガンの横っ面を引っ叩く。

「がぅぉほっ」

 ルーガンも予想外の反撃に一瞬速度が落ちるが、それでも必殺の間合いへの侵入を試み続ける。

 ファブラも止まらぬルーガンへ更に殴打の連続を浴びせ続ける。ルーガンの【牙】を消失させる程の一撃は、この距離ではどう足掻いても繰り出す事は出来ない。この間合いから引き剥がせなければ、ファブラは確定的な勝ち筋を見出せない。

 それはルーガンも百も承知である。この間合いを保ち、張り付いていれば、向こうの有利をぐっと減らす事が出来る。半ば泥仕合に持ち込む算段に見えるが、戦況を鑑みるにルーガンにはこれが必勝の策に思える。

 ファブラは小船の櫂を漕ぐように、槍の先端や持ち手の部分で、何度も何度もルーガンを殴打する。張り付かれては足を叩き、まだ食い下がるようなら胸を打ち、更に迫るようなら突起の付いた先端で腹を殴り付ける。距離を取ろうと、何度も何度も打ち付ける。

 だが、それでも。何度打ち付けても、ルーガンという男の執念を振り払う事は出来ない。

 その内ファブラは、全身青痣だらけ、流血箇所も多数見られるこの男の姿に、畏怖すら覚えていた。

「どうして、倒れない!?」

「ルーは! あんたと違って後が残っとらんとよ!」

 果たしてそれは、今の立ち位置を言っていたのか、それとも別の意味が込められていたのか。

 定かではないが、ただ一つ、その場にいた者が確信して言える事がある。

「おい、ファブラの槍が吹き飛ばされたぞ!?」

 群衆の中から誰かが叫んだように、ルーガンの拳が長槍を大きく弾き返したのだ。ルーガンの気迫に圧されたファブラはいつの間にかルーガンの槍への反撃に対する注意が疎かになっており、その隙をついてルーガンは連続で繰り出される殴打による防御を突き崩した。

「―――これで、ルーの…」

 ずっとファブラの反撃に晒されていたルーガンは、ここに来て今日一番の足捌きを見せる。両腕を胸の前に構えた姿勢で上下左右に上体を何往復も揺さぶり、ファブラの視界から外れ続ける。ルーガンの華麗な足運びも相まって相手の動きを見失っているファブラ。そんな完全に無防備な状態を晒しているファブラなど、今のルーガンにとっては格好の的でしかない。

 次にファブラがルーガンの姿を捉えた時は、既に彼は右腕を大きく後方へ反らした状態で、ファブラの眼前を木の葉のようにふわりと浮いて滞空していた。

 それは今回の喧嘩賭博の常連なら誰もが知る、ルーガンの必殺の構え。これまでの八戦全てを制してきたルーガンの決め技。

「…勝ちばい!」

 全体重の乗った渾身の一撃が、ファブラの顔面を見事に捉え炸裂する。何ら防御できなかったファブラは、その衝撃で後方へ勢いよく倒れ、更に後頭部を木の床へ打ち付ける。既に意識は失っており、白目を剥いた顔を晒しながら、取り溢した【牙】は跡形もなく消失していた。

「決まったー! この勝負も見事制し、ルーガン・ブレは怒涛の九連勝だぁ~~~ッ!」

 監督役が確認せずとも、結果は明らかだった。【牙】の消失、対戦相手の失神という二つの勝利条件を叩きつけ、ルーガンが勝利した。割れんばかりの大きな歓声は、勝利者であるルーガンに送られる。

 四方からの賛辞に片手を挙げ応えながら、ルーガンは気を失ったファブラへ最後の言葉を掛ける。

「…ルーはね、必要とされる場所が他にあるとなら、ここには上って欲しくなかとたい」

 誰にも聞こえぬ囁くような声でそう漏らした後、全身から一気に力が抜けたのか、その場に膝からがくりと崩れ落ちるルーガン。

 その様子を見ていた観客の声援は、たちまちどよめく声へと変わっていく。

 終始試合を観戦していたライゼルも、一向にに起き上がらないルーガンが心配になる。

「大丈夫かな?」

「何を呑気なこと言っている。あれだけの傷を受けて無事なものか」

「そうだよね、早く処置をしてもらわないと」

 試合の熱に浮かされて惚けた事を口走るライゼルだったが、直後に正論を突き付けるビアンの言動が揃っていない事に気が付く。ビアンはライゼルの腕を力強く握り締めたまま、決して放そうとはしないのだ。

「何で俺の手を掴んでるの?」

「お前なら、この状況を見て飛び出して行きかねないからだ」

「どういう事だよ?」

 ビアンが懸念する事が何なのか要領を得ないライゼルを余所に、教会の者らしき白衣を身に纏った人物五名が舞台に上がる。その動きは、ゆったりとしていて、非常に落ち着いた様子だ。決して急ぐ事はせず、冷静な心持ちでいるのが離れていてもよく分かる。

 その内二人は、気絶しているファブラに何か粉を掛けたかと思うと、青白く発光するのを確認した後、彼を担ぎ舞台を降りていく。

 残りの二人が同様の処置をルーガンに施したが、発光現象は限りなく淡い光だ。そして、二人の男は首を振り、もう一人の男へ短く何かを告げた。

 それを伝え聞いた、取り分け堂々とした立ち振る舞いの男は、突然周囲の民衆に向かってこう話し始める。

「本日、ここに集まった敬虔なウォメイナ教信者へ告げる。この者の憐れな姿を見給え。【牙】を争い事に用いる事がどれ程愚かな行為か、よく理解できるだろう」

 姉弟二人は、この語りを唐突に感じていたようだが、それ以外の周囲の人間はそうは思っていなかった。むしろ、この説法を待っていたかのように、頭を垂れ、瞼を伏せ、静かに耳を傾けている。

「何言ってんだよ…?」

 独り言ちるライゼルの視線の先では、教会の者が更に続ける。

「輝星石の粉塵を掛けても、このように僅かな輝きしか見せない。それ程までに星脈が弱り切っているのだ。これを恐れるなら皆の者は、牙使いであれば節度を保ち、【牙】を持たぬのであればこれまで通り健やかに暮らし、救世主ノイが作りたもうた平和な日々を過ごすのだ」

 そこで教会の者が言葉を区切ると、皆恭しく頭を下げ、祈る仕草をして見せる。

 ライゼルはその光景を異様だと感じた。負傷者の介抱よりも、説法を優先させる異常さ。優先、いや、むしろこの話の通りなら、誰も近付こうとはしないのではないか?

「おい、早くルーガンを治療しろよ」

 その言葉が舞台上の白衣の人間達に届いていないのか、その者達は説き終えると、速やかにその場を後にする。ルーガンは床に伏したまま試合後の状態でそのまま放置されている、この異様な光景。あれ程の声援を送っていた群衆も今は静かに、救世主ノイへ祈りを捧げている。誰もルーガンを見ている者はいない、揃ってアバンドの象徴である白亜の聖堂へ体を向けているのだ。

「これが、教会が支援する理由なんですか?」

 ライゼル同様に、この町の、いやこの国の人々の在り方に背筋が薄ら寒く感じながらも、ベニューはそう問わずにはいられなかった。願わくば、否定の言葉を待ちたかったが、ビアンは眉一つ表情を変えず、こう返す。

「そういう事だ。外を知らないお前達は、腑に落ちない事もあるかもしれないが、こうやって皆が平穏な生活を営んでいる。愚かな行為を目に焼き付ける事で、自らを戒めるんだ。こうする事で規律を順守する意識が定着するんだよ」

 ビアンは言った、これは戒めだと。ファブラが【牙】を失う事で勝負は決した。だが、勝利を手に掴んだ男は、満身創痍の状態でその場に倒れ伏したまま。その内に【牙】も維持できなくなり、唯一傷のない箇所である素手を晒して倒れ伏している。なのに、誰からも介抱されたりしない。闘いにより傷付き、そこで無様な姿を晒している事が、この舞台に立つ者の役目なのだ。ファブラは、まだ健全な星脈を保持していた為に、その役を免れたが。

「ルーガン!」

 その様子に居ても立ってもいられないライゼルは、ビアンの手を振り解き舞台に上り、そして寝そべっているルーガンに肩を貸す。

「大丈夫、ルーガン!?」

 まさか、誰かが自分に手を貸してくれるとは思っていなかったルーガンは、驚いた表情でその人物の顔を見る。

「あらま、今朝の…」

 ルーガンはすぐにライゼルの事を思い出す、今朝自分が手合わせをした少年だと。

「おう、ライゼルだよ。それより、怪我の手当てをしなきゃ」

 医学の知識がないライゼルが見ても、ルーガンの様子は酷い有様だ。いろんな箇所に失血や痣などが認められる。ベスティア国民が忌み嫌う、穢れに結び付く悪しき怪我。

 しかし、当の本人は見た目とは裏腹にあっけらかんとしている。痛いには違いないが、ライゼルの一般的な考えからかけ離れた言動に慣れないのだ。これまでも何度も試合後に舞台上で倒れている事はあったが、ここまで登って自分を心配してくれた者は只の一人もいない。

「ははは。この教会のお膝元の町で妙ちくりんな事を言うとるばい」

 ライゼルには、ルーガンが何故笑っていられるのか理解できない。ただただ、心配で仕方がないのだ。

「何が可笑しいんだよ? ルーガンの家まで連れて行くよ。家はどこ?」

 怪我している自分を嫌悪せず、支えようとするライゼルに、ルーガンはいつの間にか心を開いていた。早朝の時点で、提案を快諾してくれる稀有な存在だと感じていたが、衆目を気にせず自分に手を貸すこの少年は、余程の変人か大人物か。

「それなら、お願いするったい」

 肩を貸し、ルーガンの身体を抱えながら、舞台を降りるライゼル。そして、降りた二人にすぐに手を貸し、ライゼルの反対側を支えるベニュー。

 そんな二人の姉弟を、周囲の人間は侮蔑の目を向ける。

「自分から穢れに近付いてるわ、何なのあの子達?」

「あいつらも孤児か?」

「それにしては、身分証もあるし、六花染めなんて洒落た物を着ているわ」

「だったら、何だ、こないだの男の仲間か? ほら怪我を治療するとか言ってた。確かイミックだったか」

「なんにせよ、頭のおかしな奴には違いない。可哀そうに、あそこの孤児と一緒に穢れてしまうんだなあ」

 口々に浴びせられる非難の言葉だったが、ライゼルは耳に入ってないのか、構わずルーガンの家へ急ぐ。

「ルーガンの家はどこ?」

 そうルーガンへ向けたライゼルの問いに、傍まで来ていたビアンが本人に代わって何故か答える。

「おおよその見当はついている。向こうだ」

 ルーガンの事を知らなかったビアンが、何故住所を知っているのだろう? ライゼルには分からない事だらけだ。

「何でビアンが知ってるの?」

「俺も町の人間と同じ考えを持っているからだ」

 その返答に、ライゼルは納得しかね、ルーガンは力なく苦笑する。

「どういうこと?」

「へへへ、参ったばい」

 周囲から奇異な物を見るような目を向けられながら、一行は広場を離れ、ビアンの案内でルーガンの家を目指す。

 広場から離れること数分、いくつか路地を抜けて、どんどん町の外れの方へ進んでいく一行とルーガン。どんどん奥まった細い路地を行き、もうこれ以上先には町の外壁しかないのではないかとライゼル達が思った頃、ようやくビアンは道案内を終えて、立ち止まる。

「ここで間違いないか?」

 目の前の建物を眺めながら、疲弊しているルーガンに問い掛けると、その家主は弱々しく笑う。

「そうばい。よく分かったたい」

「…もしかしたら、と思っていたが。この町で『お前達』が住めるとしたら、ここしかないだろうと思っていた」

 ビアンが先導し着いた場所、南部の大都市アバンド内とは思えない程に寂れた建物が建つ町外れ。家というよりは小屋と形容した方が似つかわしいような粗末な建物。築年数から見ても、四,五十年と言ったところだろうか。おそらく戦前に建てられ、今となっては管理されなくなった備蓄庫だろうとビアンは見ている。

 全体的に経年劣化しており、所々に木板で穴を塞いでいる箇所が見受けられる。主たる通用口であったであろう大扉は完全に塞がれており、その脇にある勝手口が現在の玄関口のようだ。元炊事場が玄関とは、随分当時と違う用途で使われているらしい。

 少し視線を巡らせれば、天窓のような物に目が行く。建物の高さは二階建て相当であり、吹き抜けになっているのか、はたまた屋根裏部屋がこさえてあるのか。当時の国軍の食糧や備品を保管していたであろうから、相応の広さを求められた施設だろうが、そこに今、このルーガンという男が『家族』と暮らしているとなると、住居としては些か広すぎるのではないだろうか、とも思われる。が、ビアンは妥当だと踏んでいる。

 建物傍にはぐるりと積み石の塀に囲われた庭のような空間があり、そこに立てかけられた竿竹に何着もの染物が干されているのも、ビアンにここがルーガンの家だと得心させる材料になっている。

「中に入るよ? 誰か家族と一緒に暮らしてる?」

 ルーガンの家が目の前のそれだと分かり、ライゼルが扉を開けようとした途端、中にいた何者かによって先んじて、かつて勝手口だった玄関の戸は開けられた。

「あなた、誰?」

 警戒するように扉から半身だけ姿を見せた少女は、訝りながらライゼルの顔を見た後、肩を借りて辛うじて立っている隣の男に気付き、声を上げる。

「ルーガン!? どうしたの、その怪我!?」

「勝ちはしたとばってんね…」

 一目で怪我の具合が分かる程に、ルーガンはひどく傷付いている。少女は慌てて玄関から飛び出し、ルーガンの元へ駆け付ける。

 そんな少女にライゼルも乞い願う。

「俺、ライゼル。ルーガンの手当てしてあげたいんだ。道具を貸して」

 少女は一瞬逡巡した後、ライゼルを害為す人物ではないと判断し、警戒を解く。

「わかったわ。中に入って」

 少女が家の中へ、ルーガンを抱えた姉弟を招き入れる。ビアンもそれに付いていき中へ入る。

 建物の内部は、思ったよりも狭かった。というより、内部をいくつかの立て板で仕切って部屋を分けていると言った方が正確か。素人目から見ても不細工な作りの壁がいくつか配され、だだっ広いだけの倉庫が住居らしい体裁を保っている。ただ、仕切りが天井まで届いてはいないので、隣の部屋の音や光は漏れている。現に、隣から何やら物音が聞こえてくるのだ。

 そんな事を気にしながらいると、少女はいくつかの布を敷いた長机を指してこう告げる。

「そこに掛けさせてて」

 少女は三つの長机をくっ付けて誂えた寝台を案内すると、自分は足早に部屋の奥へ道具を取りに向かう。

 そして、それと入れ違いの形で、わらわらと十数人の子どもが扉の向こうから現れる。年齢もまばらで、着ている服は随分とみすぼらしい少年少女。どうやら彼らが先程の物音の正体らしい。

「ルー、どうしたの? けがしてるの?」

「お日様みたいな頭のお兄ちゃんがいる」

「おにいちゃんたち、だあれ?」

「ルーの友だち?」

「お姉ちゃんもいる。あそぼ、あそぼ」

「やめろよ、レンデに怒られるぞ」

「きれいな染物だぁ。見せて、見せて」

 次々と喋る子ども達にライゼルは困惑する他ない。こんなに口々に話しかけられても挨拶に困る。特に、ライゼルは年少者と接する機会が全くない為、どうしていいか分からない。

「この子達はルーガンの家族?」

 そう向けられた問いに、どこか誇らしげに笑うルーガン。

「へへへ。そうたい、ルーの家族ばい」

「家族ったって…」

 流石のライゼルも、この人数を見れば困惑するしかない。母と姉しかいなかったライゼルからすれば、この人数は想像の範疇を越えている。フィオーレ村で言えば、およそ五世帯分の人数に当たるだろうか。

 そして、レンデと呼ばれる少女とルーガンの二人以外の全員が、身分証を身に付けていないのだ。国家の臣民である証を持っていない子供が、これ程大勢存在しているというのだ。

 二の句が継げないライゼルに代わり、治療道具を持ってきたレンデが言う。

「ルーガンは、私達『家族』を養う為に、こんな無茶をやっているの」

 やや怒気の込められたような物言いのレンデ。ルーガンの傷口を濡らした布巾で拭いながら、非難めいた愚痴を漏らす。

 そんな様子のレンデに、ライゼルは思わず声を掛ける。

「怒ってるの?」

「怒ってるわよ! 他に方法がないからって、だからってルーガンがこんなにボロボロになる必要はないじゃない」

 レンデの厳しい叱責に、ルーガンも諭すように反論する。

「レンデ、ルーは好きでやっとるけん」

 しかし、レンデは年上のルーガンの反駁さえも許さぬ勢いで言い竦める。

「ルーガンは黙って手当てを受けて」

 激しい剣幕で捲くし立てるレンデを見て、ビアンは含みを持たせた物言いで口を挿む。

「確かに、これだけの『輪無し』を養おうものなら、喧嘩賭博に手を出す他ないな。真っ当な働き方では、とてもじゃないが食わせてやれないか」

「その言い方は止めて頂戴。この子達は何も悪くないわ」

 ルーガンの怪我を治療しながらも、ビアンの発した『輪無し』という言葉に鋭く反応するレンデ。

「非がないだけだ。悪い所は確かにあるだろう。だから、首輪を没収された、あるいは与えてもらえなかった」

 ビアンが指している悪い箇所とは、おそらく[[rb:星脈 > プラネットパス]]の事であろう。ライゼルもこれまでの経緯からその事は察する事が出来た。

 ビアンの厳しい言葉にも物怖じせずレンデは言い返す。

「身分証がないからって何よ? ウチの家族はちゃんと生きているわ」

 レンデの反論に、識者であるビアンは説得力を以て指摘する。

「死に損ねているだけだ。不完全な状態でいる事を、この国では生きているとは言わないんだ。教会で一番初めに習う事だぞ?」

 教会がそう説いている、この国では余りにも大きな影響力を持つ事実だ。当時の事は窺い知れないが、現代のウォメイナ教は、政治、科学、医学、歴史、文化とあらゆる分野において多大な影響力を持っている。生活規範を記していただけの只の本だった頃とは、その在り方がだいぶ変容している。

 そのウォメイナ教を用いたビアンの指摘は正論で、隙が無さすぎる余り、家族を非難されたレンデからの不興を買う。穏やかな調子のルーガンも、これには不快感を示しているようだ。

「この子達の境遇を分かってて、よくそんな事が言えるわね」

「確かに、ライゼルのお連れさんは意地悪な人ばい」

 ビアンに詰られている当事者達は、役人の身分証を付けた男に対し、明らかな抵抗感を示している。

「そうだよ、ビアン。さっきからすげえ嫌な態度だ」

 ライゼルも、こうも高圧的に言い竦めるビアンには、あまりいい印象を持たない。普段の面倒見がいいビアンとは、真反対の態度に見える。

「そう見えるのは、お前が何も知らないからだ」

 ここまで来て、目の前の少女達と昨夜の素行不良児達が結び付いてないのも如何なものかと、ビアンはライゼルに対し呆れた表情を見せる。孤児については詳しく話さなかったとはいえ、もう少し勘を働かせろ、とも思うビアン。

 ただ、学のない事は真実であるが、何かを知ったからと言って、この認識がひっくり返るとは、ライゼルには到底思えない。この孤児と呼ばれる少年少女達を詰るビアンが悪者扱いされて然るべきと考えるライゼル。

「どう見たって、ビアンが喧嘩を売っているようにしか見えないよ」

 ライゼルとビアンの言い合いに変わった所で、ようやくレンデは一行に問い掛ける。

「そもそも、あなた達は何なのよ?」

 レンデの問いに、まだ言い足りないライゼルも、ビアンとの言い合いを中断させる。

「俺はライゼル。ルーガンとは今朝知り合った」

「私はライゼルの姉のベニューです。アバンドには王都への道中立ち寄りました」

「ちなみに、私はこの姉弟の保護者だ。この二人が手を貸してくれなければ、そのルーガンとかいう牙使いは、教会の模範的な教材にされて晒し者のまま放置されていたぞ。不躾に名を問う前に、二人に言うべき事があるだろう?」

 姉弟は素直に名乗ったが、ビアンは名乗る代わりに少女の非を詰る。

 少女も突き付けられたその正論に渋々ながら応じ、一行を睨み付けたまま名乗り始める。

「私はレンデ。ルーガンを連れて来てくれた事には感謝するわ。でも、この子達やルーガンをこき下ろすような真似を、私は許さないわ」

 家族を侮辱されたのだ、レンデが怒るのも無理はない。真正面から向けられる敵意に、思わずたじろいでしまうライゼル。

「俺もベニューも、そんなつもり全くないよ」

 ただ、ビアンは全く意に介してない様子で、先程から継続して説教を続けようとする。

「どうやら、そこの少女は勘違いしているようだ。ライゼル、お前もいい機会だから併せて教授してやる」

「何を?」

「ウォメイナ教の教えを、だ。そのレンデとかいう少女は、ここの子ども達が差別を受けている認識でいるみたいだが、それは間違いだ。ウォメイナ教に伴う国の方針は、むしろ彼らを救う為の物だ」

 ライゼルを出汁にしてレンデ達を非難しようとしているのか、これを機にライゼルへ教育しようとするのか定かではないが、ビアンは知らずライゼルを話の中心に引っ張ってしまっている。

「いい加減な事を言わないで。ただ、星脈が良くないからって、身分証を取り上げて」

「少女こそ、いい加減な事を口にして、この田舎者に間違った知識を与えないでくれ」

 ビアンとレンデの言い合いに、いつの間にか巻き込まれてしまっているライゼル。

「それって俺のこと?」

「もちろんだ。お前も、そこの少女の考え方と同じ気持ちだろう?」

 突然、立ち位置を問われ途惑うも、ライゼルの在り方はいつもと変わらない。

「よく分かんないけど、星脈が悪いとそんなにいけないの?」

「お前は正直だ。だからこそ、教え甲斐がある訳だが。その通りだ、お前は知らないからこそ誤解している」

  ビアンは言う、無知が誤解を生んでいるのだと。

「誤解?」

 山彦のようにライゼルが返すと、ビアンはそれを受け解説を始める。

「この星脈は、人間が人間として生きる為に必要不可欠な物なんだよ」

 ビアンは、こう続ける。

 人間は生まれた段階で、完全な『命』の状態(自然な形)として生まれてくる。

 だが、生きていく中でそれが徐々に完全でなくなっていく。徐々に体からムスヒアニマが失われていく事が、一般的に老いなのである。失われる早さは、人間の寿命くらいの期間が掛かる。なくなる過程で、体の機能が落ちていく。全て無くなる前に死亡する為、全てのムスヒアニマを失った状態がこれまで確認された事はないのだが。

 ただし、それは星脈のない大昔の人間の話。星脈が備わっている現代を生きる我々は、星脈というムスヒアニマ予備庫、兼、生命維持の補助装置という役割を持つ臓器を持っている。

 どういう事かというと、星脈は常に満たされるように、地殻からムスヒアニマを吸い込む機能と、吸い上げたムスヒアニマを貯め込んでおく機能を有している。星脈が空っぽの状態から、およそ一日を掛けて充填し終えると言われている。

 人間が食事で摂る事の出来ない栄養素を補給してくれるムスヒアニマを、自らの体内に保持する事で、人間は健康的に日々を送る事が出来るのだ、と。

 救世主の時代の人間は失っていくだけのムスヒアニマだったが、新たに備わった星脈があれば、自動的に補充が可能なのだ。

 ムスヒアニマは、人体を自然な状態、先の言葉を用いれば完全な命として維持させる性質を持っている。なので、ムスヒアニマを失いさえしなければ、多少の怪我や病気は自然治癒できてしまう。もちろん外的要因で体の機能が損なわれたら、死んでしまう訳だが。姉弟が知る中で言えば、ドミトルやフロルのように。

「と、以上が星脈の性質と機能だ。分かるか?」

「大昔の人は【牙】が出せなかったけど、星脈がある俺達は【牙】が出せる。そういう事?」

「だいぶ、大味な理解だが、とりあえずそれでいい。【牙】に関しては余剰な機能と見る説もあるが、つまりは本来は不要な【牙】を出せるくらいには、お前やルーガンは元気が有り余っているって事だ」

 ビアンのある言葉に、長机の上で仰向けに倒れるルーガンは眉を顰める。

(不要、てね。役人さんはよう言うね)

 一方、ライゼルは然程気にせず、むしろ誇らしそうだ。

「【牙】と元気は俺の自慢だから」

 話の本筋を覚えているのか、褒められたと思い胸を張るライゼル。

 だが、レンデはようやく終わったビアンの指導に辟易している様子を見せる。

「じゃあ、何? 長々と高説垂れてくれて、結果的に私の家族を元気じゃないって言いたいの?」

「そういう事だ、何も間違っていない。誤った認識を持つ者を説得するには根拠が必要だったから、これほど長くなってしまったが」

「元気じゃなくても、健気に生きてるわ。それに、この子達は誰にも迷惑を掛けていない」

「レンデと言ったか。せっかく身分証を持っているんだ。夜中に出歩いて水浴びなんて真似は止めて、アバンドの教育機関に通う事を勧める。君には、その権利がある」

 昨夜の件を咎める態で、レンデに学習機関への入所を進めるビアン。

 が、もちろんレンデはそれに素直に応じるはずがない。

「話をすり替えないで」

「すり替えてなどいない。にわか仕込みでそれだけ弁が立つなら、ちゃんと教育を受ければ立派なベスティア臣民になれる」

「何よそれ、ふざけてるの?」

 レンデの言葉尻を取り、ビアンは更に少女達の過ちを追及しようとする

「その言葉、そっくりそのまま返そう。さっき君は、誰にも迷惑を掛けていないと言ったが、本当にそう思っているのか?」

「もちろんよ。この子達はただ生きているだけ。理不尽な境遇にもめげないし、他人の目を気にして昼間は出歩かない分別だって持ってる。誰にも迷惑がられる言われなんてないはずよ」

 この発言を受け、昨日自分でもライゼル達に聞かせたように、この少女達は根っからの悪人ではないのだとビアンは再認識する。ただ、だからと言って追及を止めるつもりは更々ないが。

「星脈不全という境遇には同情もするがな。ただ、その孤児達はどうしようもなく迷惑を掛けている」

「わからないよ、ビアン。ちゃんと教えてよ」

 知らないものを前提に話が進んでいる為か、ライゼルにはビアンが何を言いたいのか見当が付かない。

 ビアンもそれを酌んで、言葉を尽くして丁寧に解説する。孤児達が侵す過ちの被害者について。

「勿体付ける理由もないから教えてやる。身分証を持たないから生活支援も受けられない、身体の機能が万全でないから働いて稼ぐ事も出来ない、そんな誰からも必要とされない孤児達を養う為に自分の身を犠牲にしているルーガン・ブレという牙使いだよ」

 それを聞いたライゼルは、ようやくビアンが意図する事を理解する。そして、俄かに怒気が湧いてくる。

「ビアン! 俺、怒るぞ。まるで、その子達に死ねって言ってるみたいだ」

 感情的に責めるライゼルに対し、飽くまでもビアンは冷静に対処する。普段接する時とは異なる、一歩線を引いた雰囲気のビアン。まるでその態度は職務中だと公然と謳っているようだ。

「ウォメイナ教ではそう推奨している。不完全な生は苦でしかない。その命を速やかに地殻へ返し、ムスヒアニマを地上へ戻すんだ。そうすれば、次の新たな完全な命の為にムスヒアニマが使われる」

 もしビアンの言葉が正しければ、ライゼルが守りたいと思う対象が、ライゼルの手の届かない所で笑顔とともに失われようとしている。突然突き付けられた真実に、動揺を隠しきれないが、ライゼルはそれでも食い下がる。

「何かをできなきゃ生きてちゃいけないの?」

「自活できないという事は、他人の足を引っ張る事に他ならない。我がベスティア王国ではそれを良しとしていない。国の為に働いた者にこそ、その恩恵は与えられるべきだ。俺は、国家は、何か間違った事を言っているか?」

「じゃ、じゃあ、イミックに診てもらえば。病気が治れば星脈も元に戻って身分証も…」

「ミールで会った男か。あの男が何かできるとは思わんがな。事実、お前の怪我の治りが速いのは、ムスヒアニマの特性のおかげだ。イミックという男の処置のおかげで、怪我が治る訳じゃない。治癒力を高めるムスヒアニマの、更に言えばそれを蓄える星脈が健全だからこそお前は怪我をこさえても元気なんだろうが」

「だったら、星脈を治せる人を探して…」

「いい加減にしろ。ウォメイナの教えにもあるように、俺達の身体を構成し、星脈に蓄えられるムスヒアニマは、万物を自然の形に留めようとする性質を持っていると言われている。そのムスヒアニマでさえどうにもできんのに、それに生かされている人間に何か出来る訳ないだろう。それに、医術の研究は、現在この国では禁止されている。星脈をどうこうしようなんて行為は、禁忌そのものだ」

 今のライゼルが捻り出せる知恵は、せいぜいがこの程度だ。突然知った負の状況を、通りすがりのライゼルが容易く打開する事は適わない。

「それじゃあ、その子達は…」

 徹底的に打ち砕かれる意見に、流石のライゼルも気勢が削がれる。ビアンの徹底した否定につい目を逸らすと、その視線の先にはルーガンの家族である孤児達がいた。

(この子達は、みんな生きてちゃいけない? だったら、この子達の笑顔はどうなる?)

 そう自分に問いかけても、辿り着く答えは最悪の未来しかない。ビアンがライゼルに説いた教えでは、彼らの笑顔は無残にも奪われてしまう外ないのだ。

「非情なように思えるかもしれんが、ずっと昔からそうやってこの国は上手くやってきたんだ。一時の情に流されて秩序をないがしろにするな、ライゼル」

「ビアン…」

 諦めかけたライゼルに代わり、声を上げる者がいた。今回の当事者であるルーガンだ。

「なぁ、お役人さん」

 とりあえずの処置が終わり、全身に包帯が巻きつけてあるルーガン。軟膏薬などこの家に常備されているはずもなく、ただ水で拭い、傷口を塞いだに過ぎないが。

「ルーガン、立ち上がったら駄目よ」

 起き上がろうとする彼を止めようとするレンデだが、ルーガンは優しくそれを拒否する。

「大丈夫ばい。それより、勝手に話を進めんでほしかったい」

 現在、確かに部外者であるライゼルとビアンばかりが言葉を交わしている。当事者であるルーガンの想いはまだ語られていない。

「ルーガン?」

「お役人さんの話は、半分合ってて半分間違っとるばい」

 自信を以て今回の一件をライゼルに説いてきたビアンは、その物言いに過敏に反応する。

「どこだろう? ご教授願いたい」

 ルーガンもそれを受け、端的に告げる。ビアンの常識では想定できなかった可能性について。

「よかばい…お役人さんは、ルーの事を抜かして考えとる」

「いいや、ちゃんとルーガンという牙使いの犠牲を考慮して説明したはずだが?」

 大勢の孤児を養う為に、身を粉にして働くルーガン。ビアンはそれを犠牲と呼称した。

「それたい。ルーは犠牲になっとるなんてちっとも思っとらんばい。ルーはこの子達と一緒にいたいけん、喧嘩賭博に出場する。ただそれだけっちゃん」

 全身傷だらけの男は、衒う事なく堂々と言い放つ。ビアンが苦手とする、自信に溢れた人間の態度。

「まさか、家主がそもそも誤った認識だったとはな。そのまま傷を負い続ければ、間違いなく辿り着く先は穢れだ。飯の種にしてきた【牙】を失い、挙句身分証の没収だ。それでもいいのか?」

 ビアンは、今後更に状況が悪化すると示唆している。ルーガンまでもが身分証を没収されれば、もう真っ当な職に就く事は適わず、揃って餓死するしかないという事だ。身分証がないという事は、おそらく【牙】も失っているだろうから、今以上に生活は苦しくなるに違いない。

「それしか今日を生きる方法はないけん。それに、それでこの子達が笑ってくれるなら、ルーは何度でも戦うばい」

「ルーガン…」

 家族を不安がらせまいと、力なくではあるが笑って見せるルーガンに、これ以上かける言葉が見つからないライゼル。

 試合の疲れはまだ残っており、ルーガンの挙動からも疲弊が見て取れる。ルーガンは再び仮設の寝台に横になる。

「さすがにルーも疲れたけん。このままここに寝かせてもらうばい」

 そう言って横になったまま目をつぶるルーガン。本当に眠ってしまったようで、寝息が聞こえてくる。

 彼を気遣うレンデは、声をやや潜めて、一行に退去を求める。

「もういいでしょう? 用がないのなら出て行って頂戴」

 そう言われると、流石のライゼルも退くしかなく、一行は素直にルーガンの家から出て行く。扉が閉められた途端、中からは錠を掛ける音が聞こえた。

 と同時に、表情こそ見えなかったが、扉越しにレンデの申し訳なさそうな声が聞こえた。

「ライゼルだっけ? ルーガンを連れて来てくれた事。それと、私の家族の事で役人に怒ってくれた事、ありがとうね」

「別にいいよ。それより、ルーガンにお大事にって伝えて」

 慌ててそう告げたライゼルだったが、レンデの返事はなかった。

 そして、外に出て市街の方へしばらく歩いた後、ふとライゼルは一言。

「どうにかしなきゃ!」

 それを聞いたビアンは、いつも通り逸るライゼルに対し、努めて冷静に対応する。

「履き違えるなよ、ライゼル。趣味で人助けをするのは一向に構わんが、フィオーレに返すまでは、俺の保護下だ。勝手な真似をするなよ」

「分かってる。でも、話を聞くくらいはいいでしょ?」

 快諾こそはしなかったが、ビアンももう会議へ出る時間だ。

「聞いてどうなるものでもないだろう。とにかく、俺は食事を摂って、そのまま会議へ出席する。お前達もこれだけ渡しておくから、昼飯に行ってこい。但し、町の外へ出る事も、町中で面倒を起こす事も許さん。いいな?」

「はい、わかりました」

「…おう」

 細い路地裏を通り再び詰所へ戻っていくビアンを姉弟が見送ると、その傍に見知らぬ一人の少女が佇んでいた事に気付く。黄緑色の髪で、前髪を飾り紐で結んでいる8歳程度の年の頃の少女。衣服も随分粗末な物を着ていて、アバンドどころか町外れの寂れた景色にすら馴染めていないみすぼらしさだ。

 気配を一切感じさせずその場にいた少女に、ライゼルは思わず驚き声を上げる。

「おわっ、なに、君?」

「らい…がぁ…」

 少女は、ライゼルのすぐ傍でただ一言ぽつりと漏らした。

「えっ、何? 君は誰だよ?」

「らい…がぁ?」

 何を言おうとしたのか、少女が口にするその言葉が自分の名前に似ていた為に、ライゼルは名を呼ばれたと思い、少女の間違いを指摘する。

「がぁ? 俺はライゼルだぞ。ガァじゃなくてゼル、ライゼル」

「ライゼ、がぁ?」

「がぁじゃなくてル! ライゼル! ル! ル!」

 少女はライゼルの六花染めの裾を摘まみながら、どうやら何かを訴えようとしているようだ。

「らい、ぜる?…が、じゃない。らいがルー…?」

 ここまで言葉が通じないとなると、もしかしたらこの子はライゼルの名前を呼んでいる訳ではないのかもしれない。むしろ、そもそも初対面の人間なのだから、ライゼルの名前を呼ぶ可能性の方が圧倒的に低いと先に気付くべきだった。

「ルー?」

 『ルー』と言えば、ルーガンの一人称で、子ども達からの呼称でもあった事を、ベニューは思い出す。

「もしかしたら、その子もルーガンさんの家族なんじゃないかな? 身分証を持ってないみたいだし」

 ベニューが指摘するように、その少女は首輪を付けていない。この町で首輪を付けていない子どもとなると、自然とルーガンの家が連想される。身分証を剥奪された孤児達が。

「ルーガンは中で寝てるだろ? さっきいなかったのか?」

 思えば、この少女には見覚えがない。いや、先の子どもを適当に選んで見せられても、覚えがある確証はないが、それでもこの緑髪の少女には確かに覚えがない。先程はどこか出掛けていたのだろうか?

「でも、昼間は外に出かけないってレンデさんが…」

「じゃあ、この子は迷子?」

 そこまで言って、その緑髪の少女に身分証がないのを思い出す。ウォメイナ教では、星脈不全の者に身分証を与えず、死を推奨しているとビアンは言った。であれば、目の前にいる少女は、捨てられたのかもしれない。肉親に、家族に、ここへ置いていかれたのかもしれない。

 上手く意思疎通が図れない少女を若干疎ましく思い、「家に帰れよ」と、そう言いかけてライゼルは口を噤んだ。もしかしたら、この子には帰る家がないのかもしれない。どうしようもなくてライゼルに声を掛けたのかもしれない。そう考えると、一瞬でもその子を邪険に扱おうとした自分が恥ずかしくなってくるライゼルなのだった。

 ライゼルの服の裾を掴んで離さない緑髪の少女に、困った姉弟は再びルーガンの家の戸を叩く事にした。

「一応、レンデさんに訊いてみよう」

「また大声で怒鳴られなきゃいいけど」

 戸を叩いても、誰かが出てくる様子はない。おそらく、ライゼル達が戻ってきただろう事は察しているが、対応するつもりはないのだろう。姉弟に対する印象はそうでなくても、散々嫌味を言っていったビアンに対する印象は最悪だ。ルーガンの容態を鑑みるに、悪意を持つ人間を再び相手にしようとは思わないだろう。家を仕切っているらしい態度のレンデが、家主の看病に追われている事を思えば、それも仕方のない事かもしれない。

「ルーガンの家族かもしれない女の子が外にいるんだ~。ビアンはもういないよ~」

 先より大きな声で家の中の者へ訴え掛けるが、やはり返事はない。子ども達が反応する様子もないという事は、レンデが徹底して玄関に近付けさせないようにしてるのだろう。腕白盛りの子ども達がちゃんと躾けられている所を見るに、なるほど、レンデは家族からの信が余程厚いのかもしれない。

 ただ、そうなると、この緑髪の少女は依然身元不明のままだ。ルーガンと関係があるのかないのか、それすら分からない。この少女が自分の事を話してくれればいいのだが。

「どうする?」

 ライゼルがベニューにそう問うた途端、尚もライゼルから離れようとしない緑髪の少女だったが、途端に腹の音が鳴る。

「なんだよ、飯をたかろうって魂胆かよ。仕方ない奴だな」

 素性を明かさないのは、後ろめたいからなのか何なのか。ともかく、身体が食事を要求しているという事は窺い知れた。腹が満たされれば、何か話す気になるだろうか?

「連れて行くの?」

「しょうがないじゃん。置いていけないだろ」

「それもそうだね」

 そう言って、ベニューはライゼルの背嚢の口を開ける。

「えっ、何すんの?」

「この格好で出歩かせたら、それこそレンデさんに怒られちゃうよ」

 言いながら、背嚢から何やら取り出したベニュー。そして、それを少女に掛けようとしている。

「まだルーガンの家族か分かんないけど」

 詰所へ連れて行こうとも考えた姉弟だったが、姉弟の理解者であるビアンでさえあの態度だったのだ。おそらく、アバンドの人間は、より厳しい言葉で、態度で、この少女を苦しめるだろう事は容易に想像できた。

 であれば、こうする事が最善だとベニューは考えたのだ。

「ほら、これで大丈夫でしょ」

「六花染めの首巻きか。いい感じじゃん」

 少女の肩には六花染めが巻かれており、身分証の有無が一目では判りづらくなっている。余程目立つ言動をしなければ、わざわざ確認される事もないだろう。

「ふわふわの色々♪ きれい!」

 少女も自分の肩に掛けられた鮮やかな染物を見て、俄かに表情を綻ばせる。

「どう? 気に入ってくれた?」

「うん、ありがとぉ♪ えっとぉ…」

「私はベニュー。どういたしまして。それじゃあ、お昼ごはんに行こっか」

「うん!」


[newpage]


 飲食店の中で腰を据えて食事をする事は、普段であれば大いに歓迎する作法だが、今日はこの謎の少女を連れているという事もあり、さすがに憚られた。

 なので、広場に出ていた屋台で、ベニューが三人分の食事を買いに行き、ライゼルと少女は路地裏の脇に設置してある長椅子に腰を掛けて待つ事にした。少女は特に怯えている様子でもないのだが、ライゼルの腕の裾を放そうとしなかったのだ。自分より年下の人間と接した事のないライゼルは困惑するばかりだったが、ベニューは少女を弟に任せ、広場へ向かった。

 ベニューを待つ間、ライゼルは再度少女との意思疎通を試みる。鳴り続けるお腹を抑えながら、半開きの口でどこか一点を眺めながら呆けている少女に、隣に座るライゼルは話しかける。

「名前はなんて言うんだ?」

「わからない。名前もらってない」

 決して悲観的ではなく、あっけらかんとして言い放つ少女。空腹が意識を逸らしているのか、それ以上は語らない。

 もらってないとは妙な言い方だと思ったが、そう思うのは自分が外の事を知らないからかもしれない。ライゼルはそう思うと、少女を責める気が萎えた。

「なんだそりゃ。身分証もなくて名前も知らないなんて。じゃあ、ルーガンは知ってる?」

「るう、がん?」

 少女は山彦のように返すが、変なところで区切る為か、ライゼルの知るルーガンに結び付いていないようだ。

「そう、ルーガン。牙使いのルーガン」

 ライゼルがその名を言ったところで共通認識とはならないようで、少女は小首を傾げるばかり。まるでルーガンを知らないような素振りを見せる。

「るぅ? んがるぅ? るーがんは、ライゼル?」

「俺じゃないって。分かんないなら、まぁいいや」

 と、これ以上は無理だと判断し、意思疎通を投げ出すライゼル。他人助けはライゼルのやりたい事ではあるが、どうも目の前の少女は困っているようには見受けられない。どちらかと言えば、楽しそうですらあるように見受けられる。困惑するライゼルを茶化しているとかではなく、共にいる時間を純粋に無邪気に楽しんでいるかのような。子どもとはこういうものなのだろうか? 人生経験の浅いライゼルには及びも付かない。

 程なくしてベニューが食事を携えて戻ってくる。両手には、三人分の葉に繰るんだ麺包がある。

「おもしろそうな軽食があったから、それを買ってきたよ」

 ベニューが購入してきた物は、甘辛く煮詰めた野菜などの具材を、小麦粉の生地で包んで焼いた麺包だった。

「なにこれ? 初めて見た!」

 普段であればライゼルが口にしていたであろう感想を、緑髪の少女は歓声と共に漏らす。

「これはね、中に具がたくさん入った麺包だよ。食べてみて」

「うん」

 元気よく返事をして、受け取った麺包に大きくかぶりつく緑髪の少女。

「どう?」

「おいしい。ベニュー、いっぱいおいしい!」

「それは私じゃないけどね。なんだか、この子の反応を見てると、ライゼルを見てるみたい」

 微笑ましい少女の仕草にベニューは俄かに和んでいるが、引き合いに出されたライゼルはあまり面白くない。

「せめて、小さい頃のって付けろよ、お姉ちゃん野郎。俺、こんな頭悪そうな言い方しないぞ?」

(…あっ、その辺は自覚無いんだ)

 語彙力に関して言えば、ライゼルも人に言える程ではないと思うベニューだったが、それは口にしないのが本人の為だと口を噤む。

「それで、この子から何か訊き出せた?」

 ベニューは黙々と頬張る少女を指してライゼルに問うが、ライゼルは首を横に振る。

「ううん。自分の名前もルーガンの事も分からないって」

「じゃあ、もしかしたら本当に捨て子なのかも」

 姉弟は思い出す、以前ビアンから聞かされた、子どもを捨てる親もいない訳ではない事を。実際にルーガンの家の孤児を目にしているので、存外すぐに納得できた。自分の名前を知らないというのも、家族と離れた事による動揺が原因かもしれない。この明るく振舞う仕草も、落ち込んだ気分を紛らわせる為の緒力なのだとしたら、それはあまりにも不憫に過ぎる。

 ベニューに尋ねるような口調で、ライゼルは少女の処遇を溢す。

「この子は、ここには置いていけないよなぁ」

「もしかしてライゼル、この子を連れて帰ろうと思ってる?」

 ライゼルの様子から、ベニューもライゼルがどう考えているか大方の予想が付く。身寄りのないかもしれないこの子を、ライゼルは放っておけないのだ。

「連れて帰るというか、親になってくれる人を探すっていうか」

 言いながら、それが難しい事はライゼルも十分理解している。星脈が弱っているから身分証を取り上げられた、身分証がないから実の親からも捨てられた、そんな子どもを他人がどうこうしてくれるものだろうか? 答えは否だ。ライゼルもその事は、今回の事で嫌というほど思い知らされた。ルーガンという特殊な例を除き、そんな人物はこの国には存在しないだろう。

「そっか。じゃあ、私達だけで探すのは大変だから、星詠様に力を貸してもらおう」

 意外にもライゼルのやらんとする事に否定的な態度を取らないベニュー。先程、ライゼルがビアンから散々叩きのめされているというのも多少は考慮しているだろうが、それよりもこの町の異様さを目の当たりにしたベニューは、自分なりにこの問題から逃げずに向き合いたいとするライゼルを見守ってあげたいと思うのだ。

 姉が候補に挙げた人物についてライゼルは吟味する。

「う~ん、確かに星詠のばあちゃんなら、何か占ってくれるかも」

 姉弟が助力を乞おうと考えた人物。それはフロルの古い知人であり、更に師と仰ぐ人物。ライゼルもベニューも、その名はその星詠様に占って名付けてもらっている。この少女が本当に自分の名を持たぬというのなら、星詠様に名を授けてもらうのもいいかもしれないと、姉弟は考えた。

「なぁ、ちっこいの。もしこのまま身元が分からなかったら、鎮護の森…えぇと、リエースに連れて行くかもだけど、それでいいか?」

「ん~、りえ~す? それはライゼル?」

 果たして、自分に関係する話だと分かっているのか。当事者意識皆無の様子で、ぺろりと麺包を平らげる少女。先程から、何かとライゼルと関連付けようとする不思議な言動。惚けているのか何なのか、定かではないが少なくとも悪意は感じられないので、こういう子なんだと納得するライゼル。

「もういいよ。それより、ベニュー」

「うん?」

「俺さ、ルーガン達のこと、何とかしてあげたい」

 こうライゼルが切り出した時点で、ライゼルがどう考えているかは察しは付いたベニューだが、敢えて全てを汲み取らず、問い返す事でライゼルの感情を明文化させる。

「どういうこと?」

 問われたライゼルは、理解が得られなかったと判断したのか、やや不服そうに言い返す。

「どうって、ルーガン大変そうだったじゃんか」

「それは分かるよ。でも、私達に何か出来る事がある?」

 飽くまで手段を、方法を問い質すベニュー。弟の気持ちは十分に理解しているが、だからといって甘やかすのがライゼルの為になるとは考えていない。思考を巡らせる事、それこそがライゼルを導く指標となると信じている。今回のアバンドの件も、姉弟にとってはこれまで未知だった事態だ。世間の常識に囚われないライゼルの心を、姉であるベニューは尊いと思う。ただし、世間に蔓延する固定概念を払拭、ないし新たな価値観を他者に提示するには、気持ちだけではどうにもならない。ベニューは汲んでやる事はできるが、他の大多数の人間までもが全てライゼルの味方という訳ではない事を、ライゼルに実感させなければならない。それは、ライゼルにとっての兄貴分であるビアンがよくやっている事だ。

 そんな思いのベニューを余所に、突きつけられた課題にライゼルは必死に頭を悩ます。

「例えば、フィオーレで畑仕事を一緒にやるとか」

「無理だと思うよ。だって、あの子達は身分証がないから、この町を出られないんだよ?」

 このアバンドから出ようとするなら、門番が警護する外門を潜らなければならない訳だが、身分証剥奪の憂き目に遭った孤児ではそれも適わない。彼らは、ずっとこの町で暮らす事を余儀なくされている。

「じゃあ、一緒に暮らして俺達が働くとか」

「それは、ライゼルが第二のルーガンさんになるってことじゃない?」

 第二のルーガン、というよりも、ライゼル自身がそもそもルーガンと非常に酷似した立場や存在ともベニューは感じるが、今はその点に関して追求しない。それを身内である自分の口から言うには、随分と勇気が必要だから。

 ベニューの言葉を、却下されたと受け止めたライゼルは、負けじと代案を提示する。

「だったら、やっぱりイミックを探す。イミックなら何とかしてくれると思う」

 ここまで真剣に思考を巡らせている点を考慮すれば、力になりたいという想いは本物なのだろうし、ベニューも及第点をあげたくなる。だが、決してベニューを頷かせられるだけの満足いく答えではない。

「言いたくないけど、それは他力本願じゃないかな?」

「ビアンといい、ベニューといい、俺を言い負かせる最大の難敵め」

 ライゼルの真剣さの度合いを十分に確認できたベニューは、ここでようやく助け舟を出す。

「ここで私達が頭を悩ませてても仕方ないよ。ルーガンさん達の実情や家族がどう思ってるかを訊いてみない事には、何もわからないよ?」

 ベニューの提案に頷きながら、同意を示すライゼル。

「ベニューの言う通りかも。じゃあ、ルーガンの所へ行ってみよう。この子の事もあるし、今度は玄関をぶち破ってでも」

「そこまではしなくてもいいから。話だけでも聞いてもらおう」

 姉弟も少女に遅れて食事を済ませ、改めて三人で町外れのルーガンの家へ向かう。

 再度ルーガンの家を訪れた三人だったが、少なくとも家に入ってすぐの部屋には誰もいないようだった。扉越しに聞き耳を立ててみるが、しんと静まり返っている。扉の取っ手に手を掛けたが、錠が落ちたままで閉まったままだ。

「ルーガンさんの容体が思わしくないのかも」

「そっか。じゃあ、また明日、出直そう」

 仕方がないので、姉弟は緑髪の少女を連れたまま、アバンドの詰所へ戻る事にした。


[newpage]


 詰所へ戻ると、またもや眉間に皴を寄せるビアンがいた。

「お役所仕事してると、いつもご機嫌斜めだよね、ビアンって」

「好きでこんな顔してるんじゃない。俺も異国民関連の事件では、お役御免と思っていたばかりに」

「どうかされたんですか?」

 ビアンの今後の動向は姉弟にも影響する。何が起きたのかベニューも把握しておきたく、口を挿んだ。

 尋ねられたビアンは、やれやれといった調子で事の次第を説明する。

「さっき行われたのは会議でなく俺への聴取だったらしくてな。各集落へは今日招集をかけたから、本格的な会議を明日に設ける事となった。そして、これまで遭遇した異国民の戦力分析と対策検討をする事になったんだが、それを俺中心でやると言い出したんだ」

 その嘆きを横で聞いていたアバンドの役人が口を挿む。

「当然の帰結だ。オライザのあんたしか、その【翼】なるものを見た事が無いんだ。他の証言なんて、精々が空を自由に浮いていたってことぐらいだ。そんな目撃情報で、分析や対策考案が出来る訳がない」

「分かってる。分かっているから、拒否しなかったんだろうが」

 どうも気が立っているように見えるビアンの様子に、ライゼルは深く考えずに問い掛ける。

「ビアンはそれ嫌なの?」

 自分が姉弟の前でらしくない態度を取っていたと反省したのか、ビアンは姿勢を正し、ライゼルに応じる。

「嫌というか、責任が重すぎる。他の集落でも目撃情報があると聞いていたから、皆が俺達同様に情報を持っていると思っていたのだが」

「他では異国民との戦闘がなかったんだ?」

「どころか、まともに接触したのが俺達だけだそうだ」

 という事は、異国民が重んじる名前の扱いについても知らない、むしろその名を知り得ていないのだろう。それは、情報入手に随分と開きがあるようだ。

「その功績を買われて、オライザの官吏は、王都まで出向と相成った訳だ」

 アバンド役人が付け足したその事実に、ライゼルはビアン本人にその件を問う。

「じゃあ、結局王都まで行くんだ?」

「お前達に関しては、どうするか検討中だがな。先遣隊が先程王都へ大まかな報告を持って行った。これは当初俺達がやろうとしていた事だな」

 王国に迫る脅威を確認したという報告。本来はビアン達がそれをするつもりだったが、各地での異国民の目撃により、それは大都市アバンドの者がそれを代行してくれた。

「って事は、ビアンは他の仕事で王都へ行くの?」

「あぁ。他の地域も巡りながら、異国民に関する情報を収集せよ、との事だ。その人員編成が明日の会議で行われる」

 経験を買われたビアンを中心に、対異国民の組織を編成するのだろう。ビアンが抵抗感を示すのも頷ける話だ。

「ここに来て会議ばかりだね、ビアン」

「まったくだ。何が経験を買って、だ。アバンドが南部の統括支所でなければ、こんな面倒は引き受けなかったのに」

 ビアンの今後の動向は確認できた。先の話しぶりからは、姉弟はその人員に含まれていない様子だ。そもそも、一般人なのだから当然と言えば当然だが。

「ビアンとはここでお別れってこと?」

「おそらく、そうなるだろう。なに、心配するな。お前達の事は、アバンドの役人がフィオーレまで面倒を見てくれる」

 そう唐突に別れを予見させられたライゼルは、縋るような目をビアンに向ける。

「えっ、ちょっと待ってよ。お別れの前にお願いがあるんだけど」

 ライゼルが慌てた様子で引き留めるものだから、ビアンは自分との別れを名残惜しんでいるのだろうと解釈した。

(別離を惜しんでくれるか。意外とかわいい所があるじゃないか)

 と、思ったのも束の間、

「ルーガンの事がまだ解決してない!」

 自身とは関係ない話題で引き留められ、ビアンも思わず面食らう。

「寂しいとかそういう事じゃないのかよ?!」

「それはあるけど、その前にちゃんと解消しておきたいんだ」

 予想だにしなかった件を提示され、ビアンも思わず脱力したが、そもそもその件に関わる気はない。

「それはお前が勝手に問題視しているだけだろう」

「だって」

「褒められた行為ではないが、あの様子から察するにあの牙使いもそう何度も闘えない。となると、真っ当な職でしか稼ぎを得られない訳だが、普通に働いていてはあの人数を養う事は不可能だ。レンデという少女が出稼ぎに出ても、焼け石に水だろうな。あの二人が自らの過ちに気付き、孤児を追放するのが唯一の手段だ」

 ルーガンの家族が背負わせられている状況は苦しいものに違いないが、ライゼルは一つ違和感を感じる事に気付いた。

「あれ? 強制執行とかじゃないんだ?」

「難しい言葉を知っているじゃないか。孤児を匿う事は、褒められた行為ではないが、法で禁止されている訳でもない。飽くまで自然である事が鉄則。国家が孤児の命を直接奪うような真似はしない」

「そうなんだ」

 どうやら何の手法も残されていない訳ではなさそうだ。何か思案してるらしいライゼルにベニューは問う。

「だったら、どうするの?」

 国家が関与しないのであれば、まだ方法は残っているかもしれない。そう考えたライゼルは、ベニューに自分の考えを述べる。

「明日の朝一番にルーガンの家へ行こう。ルーガンと話をしなきゃ」

 具体的な事は何も言わないが、どうやらライゼルの中で指針は決まっているようだ。ベニューは現段階でそれを問い質す事はしなかった。それよりも、先にビアンに話さねばならぬ事があったのだ。

 話題が一旦途切れた丁度その時、ビアンが姉弟に連れられてやってきた少女を見咎める。

「その六花染めを着た女の子は誰だ? 迷子か?」

「えっと~」

 ライゼルがどう答えていいか考えていると、さっと横合いからベニューが助け船を出す。

「そうなんです。ルーガンさんの家の子で、ちょっと喧嘩して居づらくなったみたいで。今晩だけ預かろうと思うのですが…」

 単に迷子としてしまえば、ここにいる役人が身元を調べようと首輪を確認するだろう。だが、身元が判明していると言えば、孤児という印象は良くないにしても、これ以上の追求は免れられるかもしれない。

 ベニューの詭弁に渋面のビアンだが、他にやる事が立て込んでるからなのか、それ程咎める様子はない。

「なんだ、ベニューもあの牙使いに影響されたか? 親切は美徳だが程々にな。明日の朝には絶対に帰すように」

「わかりました。お目こぼし感謝します」

 ベニューが謝意を告げると、ビアンはまだ仕事が残っているのか、姉弟を詰所の広間へ置いて、隣の会議室へ入っていく。

 これ以上出歩く理由もなかったので、姉弟は緑髪の少女と一緒に宿直室へ籠る事にした。

 部屋にあった椅子に腰掛けながら、ライゼルは再び思案する。

「さて、どうするかな」

 寝台に緑髪の少女と並んで腰かけるベニューは、ライゼルの独り言を気に掛け、問い掛ける。

「この子のこと?」

「それもそうだけど、俺達の事もだよ」

「ライゼルはどう考えている?」

「これまでは王様に異国民の事を知らせるのが、みんなの笑顔に繋がると思ってた。だから、ここまで来た訳だけど」

 そこまで言って一旦言葉を区切るライゼル。その先はまだ明確に言語化できる程、自身の中で固まっていないようだ。

 そんなライゼルの様子を察し、言葉を継ぐベニュー。

「もうそれは達成されそうだから、ライゼルのやりたい事はなくなった?」

「…という訳でもないんだよ。具体的に何をしたいって決まってないんだけど、待っていればみんなが笑顔になれるかって言ったら、そうじゃない気がするんだ」

 例えば、今直面しているルーガンの家族の事。今は手詰まりの状況に思えるが、もし法律が変われば、状況はいくらか変わるかもしれない。加えて、先のグロッタでの地震への対策も無視できない気がするし、それらを加味すればミールでイミックが王都に対し快く思っていなかった事も思い出される。

(外の世界は分かんない事だらけだけど、王都へ行けば何か見えてくるのかなぁ…?)

 腕組しながら考え込むライゼルに、ベニューはぽつりと漏らす。

「前々から思ってたけど、ライゼルのやろうとしてる事って難しい事だよね」

 肯定でも非難でもない只の感想。ベニューは純粋にそう思った。そして、ベニューが是非を決めなかったように、ライゼルもその是非については言及しない。

「難しいかどうかは分かんないよ。なんていうか、ほっとけないから」

 これはどんな場面に遭遇しても変わらないライゼルの基本姿勢。これさえ見失わなければ、ベニューはそれ程ライゼルの行動を不安視していない。

「そうだね。この子の事も放っておけないから、一緒にいられる内は身元を探してあげよう」

「おう」


[newpage]


 翌朝、ライゼルが先日と同じように広場へ出掛けるが、ルーガンの姿はなかった。容体が回復しなかったのか、それとも大事を取ってか。いずれにせよ、昨日の疲労が影響している事には違いない。鍛錬を積む間も、ルーガンの事が気掛かりで、いつも程は身が入らなかったライゼルであった。

 鍛錬を終え、また詰所へ戻り、朝食を摂るライゼル。そして改めて姉弟は、六花染めを纏った緑髪の少女を伴って、三度ルーガンの家へ向かう。大通りから脇の路地裏に入り、狭い路地を抜けた先に目的の場所はある。先日、行き返りを歩いているので、迷わず順調に行く事が出来た。

 しばらく三人で歩いて家の前まで来ると、何やら揉めている様子の男性と少女の姿があった。

 先に気付いた緑髪の少女は、そちらを指さしながら興奮した面持ちで姉弟に問うてくる。

「ねぇ、ライゼル。あれもライゼル? ベニューもライゼル見える?」

 繰り返すこと何度目になるか、緑髪の少女の誤った認識に、ライゼルは飽くまで丁寧に指摘する。

「何言ってんだ。ライゼルは俺。あれはルーガンとレンデだろ? 本当に知らないのか?」

 向こうに見える二人の様子から、この少女を自由にさせてると話がややこしくなりそうだと判断したベニュー。先んじて少女に言い含めておく。

「あなたの事もちゃんと訊くから、少しの間大人しく待っていてね?」

「は~い♪ ライゼル見てる」

 はしゃぐ少女の話は途中で中断させ、ルーガン達の元へ駆け寄る姉弟。緑髪の少女も素直に大人しく付いてくる。

 その間も、ルーガンとレンデは組み合っている。怪我の具合が良くないからなのか、ルーガンの身体にはまだ包帯が巻き付けられている。ライゼルの回復の度合いと比べて、治りがやや遅いように感じられる。それだけムスヒアニマが足りていない、つまり星脈が衰えてしまい霊気を吸い上げられていないのかもしれない。

「レンデ、放しなっせ」

「嫌よ。行かせられる訳ないじゃない」

 ルーガンの腕にしがみ付き、一歩たりとも歩かせようとしないレンデに、ライゼルは声を掛ける。

「どうしたの、二人とも?」

「どうしたもこうしたもないわ。ボサッと見てないで手伝いなさいよ」

 昨日のやり取りで、ライゼル達への不信感を払拭したレンデは、ライゼル達に協力を要請する。が、今の事情を知らぬライゼルはただ困惑するばかり。

「手伝えったって」

 突然の事に何が何だか分からずにいると、観念したのかルーガンはレンデを振り解くのを止めた。

「レンデが我侭ばっかり言うとたい」

「何が我侭よ。こんな状態で、闘える訳ないじゃない」

 呆れ気味に言ってのけるルーガンと、本人以上に容体を心配し、頑なに放そうとしないレンデ。余りにも二人の態度に温度差があり過ぎて、ライゼルは事態を把握できない。

「闘う? 誰と? 何で?」

「昨日見たんでしょ、喧嘩賭博よ。こんなに怪我してるのに、ルーガンはまた出ようっていうのよ」

 見るからに昨日の傷が癒えていないルーガン。立って歩く事でさえ、僅かに表情を歪ませる。

 それも放っておけない事案だが、ベニューは先の話の聞き捨てならない点について言及する。

「あの喧嘩賭博は連日開催されるんですか?」

 ライゼルという例外を除き、一般的に【牙】は一日に一度しか発現できない。厳密に言えば、これは保証された使用可能回数ではない。つまり、一日一回の制限だからと言って、牙使い全員が毎日一度ずつ現界させられる訳ではないのだ。【牙】を持っていても万全の状態でなければ、ライゼルのように頻繁に【牙】を生成する事はおよそ難しい。

 ルーガンの素養は定かではないが、主催者は連日開催する運びを取っている。【牙】の回数制限に関しては、広く知られた事実だ。教会のお膝元であるアバンドにおいて、無知故の愚行であるとは考えられない。

「そうよ。あの主催者は、参加者の人権なんてお構いなし。お金が必要な牙使いの足元を見て、開催期間の一カ月間、どんどん戦わせようって試合日程を組んでいるのよ。他にも参加を控えてる人だっているだろうに優先的にルーガンの試合を組むの。ふざけた話だわ、最低限の休息しか与えないなんて」

 どうやら、この喧嘩賭博の開催に当たっても、一筋縄ではいかなそうだ。参加者の行動を管理していないという事は、別に逃げ出しても構わないという姿勢なのだろう。このままルーガンが不参加になれば、試合の進行に差し支えるだろうに、それを憂慮しているようには到底思えない。どころか、選手の安全面を考慮しているかどうかすら怪しい所だ。まさしく、牙使いを使い捨てしようと考えているのかもしれない。参加者の足元を見て、賞金という動機で闘わせているのだ。

「逆ばい、レンデ。一カ月しか稼ぐ事が出来んとだけん、いっぱい闘える方が良かたい」

 ルーガンはそう言ってのけるが、今の状態のルーガンを参加させる事は、あまりにも酷な話だ。この逼迫した状況を知ったライゼルは、ここへ来た当初の事情、つまり緑髪の少女の事を忘れ、協力を申し出る。

「俺、ルーガン達の力になりたい。お金が必要なら、いくらかあげられるよ」

 金銭に頓着しないライゼルは、その持ち合わせている五十万レクトを差し出すつもりでいる。

 だったが、そう言葉を掛けてくれる事は有り難いが、ルーガンはそれには応じない。もし麻袋いっぱいの貨幣が手元にあれば説得力を持たせられたろうが、今は詰所に背嚢を置いている。今の時点ではその証拠を提示する事は出来ないのだ。

「悪いけど、子どものライゼルが持ち歩く金額じゃ、家族全員を食べさせる事は無理ばい。ルーの家族が笑顔で暮らすには、あの賞金が必要とたい」

 そう語るルーガンの目は、この場の誰も映してはいない。その目は、これから手にせんとする賞金だけを見据えている目だ。他の物は眼中にない、そう物語っている。

「家族の笑顔?」

 余裕のない真剣な形相に不釣り合いな言葉だと、ライゼルは感じた。先日のルーガンなら似合いの言葉だが、今のルーガンでは纏う雰囲気が違い過ぎる所為か、違和感すら覚えてしまう。

「そうばい。九回分の賞金でも、次の半年間を食い繋ぐには心許なかとよ。あと一回、十回分がなかなら、暗い顔で暮らさなん」

 この喧嘩賭博において、十連勝とは大きな意味合いを持っている。およそ、辿り着く事の出来ない前人未到の偉業であり、それまでの賞金に加え、更に金額が上乗せされるのだ。より多くの賞金を望むのであれば、ルーガンがそれに手を伸ばさない理由はない。

 闘って勝利を収め、賞金を手にする。こうやってこの家族は食い繋いできたのだと、だから邪魔をするなと言外に語るルーガンの言葉。

 ライゼルは、その圧力を感じながらも、問わずにはいられない。

「その次の半年はどうするの?」

 これまでの努力の成果が家族の笑顔である事は理解できるが、同時にルーガンの負傷という不具合も生じているのも事実だ。何年も続けられる事ではない。

 だが、それを分かってか分からずか、ルーガンは頑として譲らない。

「もちろんルーが闘うばい。ルーを必要としてくれとるあの子達が待っとるけんね」

「それっておかしいよ!」

 先日ビアンは言った、ルーガンという牙使いの犠牲が考慮されていない、と。なるほど、本人が全面的に認めようとしないのだから、レンデ以外の子ども達はその事が頭から抜け落ちてしまっているのだろう。この家族の中でルーガンを止めようとしているのは、実情を知るレンデだけ。レンデだけがルーガンの犠牲を憂いている。

 ライゼルの否定の言葉を、ルーガンは煩わしそうにやり過ごす。

「ライゼルもルーに説教しに来たと? 悪かばってん、もう行かなんばい」

 そう言って、再び歩き出すルーガン。昨日の怪我も満足に癒えていないだろうに、彼のその後ろ姿にはその場の誰にも有無を言わさぬ気迫が感じられた。腕を掴んでいたはずのレンデは打ちひしがれていて、いつの間にかその手を放してしまっていた。

 徐々に小さくなってくルーガンの後ろ姿に、何も言えない皆に代わって緑髪の少女が謡うように告げる。

「あっちのライゼル行っちゃった。あっちのライゼルどこに行った?」

「ごめんね、もう少しだけ。ね?」

 さすがにこの状況では、この少女の身元を確認する事は出来そうにない。もうしばらく少女には大人しくしてもらわなければならない。

「ほ~い」

 緑髪の少女は、素直に返事をし、静かに事の次第を見守っている。関心事がそちらに移ったからか。いや、そもそも何に関心を持っているか、判りにくい態度ではあるが。

 この場にそぐわない明るい調子の緑髪の少女をベニューが宥め賺すと、自然と空気は重くなり、ルーガンの居なくなった玄関先はしんと静まり返っている。

 しばらくして沈黙を破ったのはライゼルだった。

「ねぇレンデ、止めなくていいの?」

「…け、ない」

「え?」

「あんな風に言われたら、止められる訳ないじゃない!」

 突然、涙声で大声を張り上げるレンデ。急な出来事にライゼルは当惑してしまう。

「どうしたの、レンデ?」

 レンデが感情的になっている状況がいまいち腑に落ちないライゼルを余所に、レンデは更にこう続ける。

「ルーガンはやっと居場所を見つけたのよ」

 少女は感情を整理しているのか、訥々と語り始める。二人の関係とルーガンの過去を。

 ルーガンはレンデの従兄に当たる存在で、同じブレ村に住んでいるという事もあり、レンデが幼い頃から親しくしていたそうだ。畑仕事に忙しい大人の代わりに、ルーガンがレンデの遊び相手になる事はしばしばあった。年は離れていたが、面倒見のいいルーガンに、レンデは良く懐いていたという。

 ルーガンの家は、小麦の名産地ブレ村でお湯屋を営んでいるのだったが、ルーガンは家族から疎んじられながら生活していた。というのも、ルーガンはおそろしく要領が悪く、不器用で、才のない男だった。牙使い故に火を恐れ釜戸の番が出来ないのは仕方ないとはいえ、【牙】の形状も鋭利な刃物でない事も相俟って薪割りに向かず、番台に座らせても金銭の勘定が合わない事はしばしばであった。

『ティグルー様と同じ牙使いだってのに、なんだお前の穀潰しっぷりは。せっかく授かった【牙】も何の役にも立ちやしねえ』

『そうねぇ、何も仕事が務まらないんじゃあ、それこそ輪無しの孤児と変わらないじゃないか』

 何を任せても満足に仕事をこなせず疎んじられ続けたルーガンは、自分は必要とされていない、ここは本当の居場所ではないと考えるようになった。

 そしてある日、ルーガンは家を出て、故郷を離れる決心をした。

 それを知ったレンデは、昔から良くしてもらっていた事もあり、放っておけず一緒に同伴する事にした。それがつい二年前の話、レンデ13歳の時の事である。

 村を離れる日、レンデはルーガンに問うた。

『どうしても家を出なければならないの?』

『どこかに、ここじゃなかどこかに僕の居場所があるかもしれんったい。誰かに認められて、誰かに必要とされる、そんな場所がどこかにあってもいいはずばい。そこを見つけるのがいつになるかは分からんばってん、僕はそれを探したかったい』

『いつかも、どこかも、誰かも、何も決まっていないのに?』

『だけんばい。だけん、行ってみたかとばい』

 出発を迎える朝、ルーガンはそう言って、レンデに向かって笑ったみせたそうだ。

「何も出来ないくせに、よく独り立ちできると思ったわねって道中何度言う事になったやら」

 幼馴染の悪態を吐くレンデだが、言葉ほど悪感情を持っているようには見えない。気付けばいつの間にか、喋りも淀みなくなっている。

「でも、結局アバンドまで一緒に来てるじゃん?」

「レンデさんは、ルーガンさんを大切に想っているんですね」

「そうじゃないわ。何にもできない独りぼっちのルーガンが可哀そうだと思っただけよ」

 姉弟の溢す感想にも、レンデは安易に同調したりしない。どうやらレンデという15歳の少女は、真意の透け易い気難しさを持った少女のようだ。

「よく分かります」

 家族の情にほだされて、つい甘くなってしまう経験はベニューにもあり、レンデの言葉に同意する。

 だったが、ライゼルは、可哀そうという言葉に気を取られる。

「おい、それって俺のことか!?」

 ライゼルは間髪入れずに問い掛けるが、ベニューはこれを無視し、レンデに水を向ける。

「レンデさんがルーガンさんと一緒に村を出たのは分かりましたけど、あの子達は?」

 何も初めからあんな大所帯だった訳ではないとレンデは話す。

 初めの一人は、アバンドの近郊で出会った。ブレから少し西へ進んだサフリズ、その更に西へ歩く先にこのアバンドはある。そのサフリズを過ぎて関所を越えた先の街道の途中だっただろうか。道の端にある小さな雑木林の、その中の一本の大きな木の洞の中に、その男の子はいた。雨風を避ける為ではあろうが、決して良い環境とは思えない。おそらく親に捨てられたであろう事はすぐに分かった。身体や粗末な服は泥に汚れ、体臭もひどく、一目で孤児だと判別できた。その証拠に、首に身分証がなかったし、何日も食べていないのか随分と痩せこけていた。放っておけば、数日と経たずに死ぬ、無意識にそうレンデは感じた。それが家族を迎える最初の出会いだった。

「それで、レンデは、ルーガンはどうしたの?」

「私は何もしないわよ。元々、生活能力のないルーガンを世話する為に付いていったんだもの。余所の事を心配する気なんてこれっぽっちもなかったわ」

 そう口では否定するレンデだが、昨日の一幕を見ている姉弟には、それが照れ隠しだという事がよく分かる。本当にこれっぽっちもなかったなら、昨日ライゼルはレンデの剣幕に圧倒されたりしていない。レンデは、ルーガンと同等かそれ以上に子ども達の事を愛しているし、子ども達もそんなレンデを愛しているように見受けられる。

 何もしないと言いつつも、今は一緒に暮らし、固い絆で結ばれている。

「でも、今一緒に暮らしてるって事は…」

「お察しの通りよ」

 姉弟の予想通り、当時のルーガンは孤児を拾って食事をさせた。なけなしの所持金から最低限の衣服を買い与えた。人の少ない時間帯を狙って、風呂屋へも連れて行った。

 関所を越えてからアバンド市内に到着するまでに、そんな事が四回あり、ルーガンにはレンデも合わせて五人の家族ができた。

 そんなある日、ルーガン達は、今住んでいる古びた倉庫を見つけた。初めは食糧庫かとも思ったが、不便な町外れにそれを置く理由も考え付かない。後で知った事だったが、そこは戦時中の備蓄庫だったらしいが、今は遺棄されている建物なのだという。そして、薄汚れた窓から内部を窺うと、そこには無断で生活をする数人の孤児達がいた。

「じゃあ、ここはルーガンの持ち家じゃないんだ?」

「今となっては誰が所有者かも分からないんだけど。身寄りのないあの子達と、半ば戸籍を捨てた私達にはちょうどいい物件だったわ」

 当初はルーガンを、自分達を取り締まる役人かとも勘違いしたが、ルーガンの人柄に触れ、同じ境遇の子ども達と出会い、その家に隠れ住んでいた四人の少年少女は、ルーガン達を快く迎え入れた。こうして、ルーガンとレンデは、孤児達とこの家に住むようになった。

「む? それだと数が合わないよね?」

「そうよ。ここで暮らすようになってからも家族は増えたわ」

 そこに居を構え生活するようになったルーガンは、教会へ通い、奉公するようになった。教会内の清掃や周辺の除草作業など、不器用なルーガンでもなんとかこなせる仕事を、一生懸命にやり続けたルーガン。偏に家族の為にと必死に働いた。

 そんな日々の中で、駆動車に揺られて教会へ連れられてくる沈鬱な表情の家族の姿を、作業中のルーガンは度々見かける事があった。その家族は、村での星脈検診に引っ掛かり、再検査の為に子供と共にその集落の役人に連れられていたのだ。

 各集落では、新生児が誕生した場合、役所に戸籍登録の申請が行く。と、同時に役所から教会へも、星脈検査の要請が入るのだ。新生児の星脈を調べる日に併せ、その集落に住む全員の星脈を再検査する事が法律で定められている。健全な星脈を維持しているかどうか、不定期ではあるがこういう機会に教会の者が検査している。

 連れて来られた子どもは、その時の検査で、星脈不全の兆候が見られ、南部唯一の教会があるアバンドへ出向してきたのだ。

 そして、改めて教会で検査を行ったが、星脈不全と診断され、役人と両親の立ち合いの元、戸籍と身分証を剥奪されたのだった。両親も、教会の意向には逆らえず、泣く泣く子どもと引き裂かれる事になってしまった。「手放さなければ、ウォメイナの教えに背き、穢れを蔓延させる事に繋がりかねない」と、教会の人間に半ば脅しを掛けられては、穢れを恐れるベスティア国民は従わざるを得ないのだ。首輪を失った子どもを家へ連れ帰るも、隣人から酷い差別を受けたという前例もある。穢れを嫌うベスティアにあっては、どんなに家族の情が深かろうとも、共に暮らす事は到底適わないのだ。

 その様子を見ていたルーガンは、教会を出て家路を帰るその家族の後を追った。程なくして、たった一人で泣きじゃくりながら途方に暮れている子どもだけを発見した。ルーガンがその子に両親の所在を問うたら、自分を置いて帰ったと嗚咽交じりに話したそうだ。

 非のない子どもが最後に見た家族の顔は、自分と同じく涙を流す両親の顔だった。愛しい我が子を手放さなければならない理不尽さ。国が定めた法により、離れ離れなってしまった家族。それを思うと、ルーガンは心が引き裂かれる思いなのだ。

 ルーガンは身分証没収のその日の内に、その捨てられた子どもを温かく迎え入れた。そして、向こう数カ月の内に、同じような事が五回あった。こうして、今の家族構成に至る、とレンデは話す。

 これまでの経緯を語るレンデは、呆れたような物言いだったが、どこか誇らしげでどこか照れくさそうでもあった。身内の善行だったからか、それとも別の理由があったからか。

「ルーガンが見つけた居場所は、ここだったんだ」

「少なくとも私はそう思ってるわ。独りぼっちの子どもを決して放っておかない、それがルーガンなのよ。伯父さん達も知らない、ルーガンの一番の良さはそれなのよ」

 冒頭にあっさりと流されたので問おうか迷っていた事柄に、思わぬ形で答えを得たライゼルは、得心の行ったように大袈裟に頷いてみせる。

「あぁ、レンデも昔は独りぼっちだったんだ」

 ライゼルにその気はなくても、何だか見下されたようで、レンデは途端に腹を立てる。

「誰もそんなこと言ってないでしょ!」

 そうは否定するものの、レンデが同伴するに至った根拠に、十分な確証が得られているとライゼルは考える。

「でも、今の話を聞いてたら、レンデがルーガンの傍にいる理由って、昔独りぼっちでいた所を構ってくれたから…」

 平素のライゼルからはおよそ似つかわしくない推論に、もう隠し立てできないと悟ったレンデは堪らず音を上げる。

「えぇ、そうよ! [[rb:絆 > ほだ]]されたのよ、嬉しかったのよ! だから、こうやって一緒に生活してるのよ!」

 フィオーレ程ではないが、ブレの村も子どもが大勢いる訳ではなかったらしく、そんな中で遊び相手になってくれたルーガンは、稀少な存在だったとレンデは言う。

 頬を赤らめて弁解するレンデの様子に、ベニューはぼんやりと本筋から離れた別件について思いを巡らせていた。

(今のって取りようによっては、結婚の申し入れにも取れるんじゃ…?)

 確かに、直系でない三親等より離れている者であれば、ベスティアの法律でも結婚は可能であるのだが。既に弟が他人の恋路に首を突っ込むという野暮な真似をしている為、これ以上の野暮を重ねてはならないとベニューは一時的に黙する。

「そっか。ルーガンはやっぱりいい奴じゃん。トッドも【牙】があって良かったって話してたし、【牙】っていいもんだね」

 勝手に納得するライゼルだったが、レンデはそれを厳しく否定する。

「いいえ、ルーガンに【牙】なんて必要ないわ」

 ルーガン達を取り巻く問題はここにあると、ライゼルは直感的に理解している。家族の実情と、彼らが抱く思いは、矛盾めいた齟齬を来している。ライゼルはそう感じている。

「ルーガンには家族を養う為のお金が必要なんだろ? じゃあ、尚更【牙】が必要じゃん」

 ライゼル自身ももし【牙】を持たなければ、これまで遭遇したどの事件も解決できなかっただろう事は自明の理だ。だから、【牙】に対しては、かなり肯定的な考えを持っている。

 だが、レンデはそうは考えていない。

「お金も必要だけど、それ以上にあの子達にはルーガンが必要なのよ。【牙】で戦うルーガンじゃなくて、優しい等身大(ありのまま)のルーガンが必要なのよ。それなのに、ルーガンは…」

 おそらく、これこそがルーガンとレンデとを擦れ違わせている、齟齬の原因なのだろう。レンデは共にいる時間を必要と考え、ルーガンはこれからを生きる糧を必要と考えている。

 だが、擦れ違う原因には、もう一つの要素が加味されているともライゼルは感じている。

「昨日の喧嘩賭博を見てると、なんていうかルーガンは楽しんでいるようにも見えた」

 その指摘に当然レンデは反論すると姉弟は思ったが、少女は力なく目を伏せるのみ。

「分からないけど。でも、戦う事が恐い訳ではないみたい。もしかしたら、やりがいすら感じているかもしれない…」

 レンデの推測を、ライゼルは咀嚼するように検討する。

「心のどこかで、ルーガンは喧嘩賭博を居場所にしてるってこと?」

 ライゼルの推論が呼び水となって、これまで聞きに徹していたベニューも口を挿む。

「こういう言い方をすると、ルーガンさんに失礼かもだけど。必要としてくれる子ども達の為という大義名分と、他人から称賛を受けたいっていう承認欲求が合致した、っていう感じかな」

 ベニューのそれに関しても、レンデは否定しない。これまで気付かないように、努めて目を背けていた事実に、打ちひしがれているようだった。

「私の考えが甘かったのよ。どうせルーガンは逃げ出すと思ってたから」

「喧嘩賭博の事ですか?」

「これまで何も出来なかったルーガンが、よ? まさか逃げずに戦って、その上勝ってくるなんて思いも寄らないじゃない。去年初参加した前々回は、その次も勝って二勝を挙げたわ」

 やや自己弁護めいた態度には触れず、ライゼルは内容の真偽を確認する。

「喧嘩賭博はレンデが焚き付けたんだ?」

「焚き付けた…そうね、そうかも。私もルーガンが心配でアバンドまで付いてきたけど、正直生活力はないし頼りなかった。だから、ルーガンの甲斐性が見たくて、私が勧めたの。ルーガンも牙使いなんだから、出てみたら?って」

 事の始まりがあまりにも安直過ぎて、思わず開いた口が塞がらないベニュー。

「それでその気になっちゃったんですか? 単純というか何というか」

「誰かに認めて欲しかったのよ、ルーガンは。元々、労働に向かないってだけで、【牙】そのものは健全だったから、武を競えば劣る所はなかったのかも」

 手先は不器用だが、【牙】だけは頼みとしている。まるで自分のようだとライゼルは先以上に親近感を覚えている。

「それまでルーガンは【牙】を使って闘った事あるの?」

「ある訳ないじゃない。法律で禁止されている行為よ? 特別な場所や機会じゃなきゃ、そもそもできない事よ」

「でも、ルーガンさんには闘う素養があったんですね」

「生まれつきじゃないとは思うわよ。運動神経は特別悪くなかったけど、そんな荒事に向いてる性格でもなかったし。試合は一度も見た事はないけど、ルーガンはずっと努力してた。勝てるよう、強くなれるように、毎朝の鍛錬を日課にするようになったわ」

 ルーガン本人は家族を慮って早朝の時間帯を選んでいたが、家人であるレンデは毎朝の外出に気付いていた。当然だ、レンデは他の誰よりもルーガンを一番気に掛けているのだから。

 レンデよりもたらされるルーガンの話は、ライゼルに一層関心を湧き起こさせる。

「俺も毎朝やってるぞ。今朝もやってきた」

 妙なところに関心を示すライゼルに、改めて怪訝そうな目を向けるレンデ。

「そうなの? 初対面からそう思ってたけど、やっぱりあなた変ね」

 言葉の上では罵っているが、態度はだいぶ柔らかい。自らの身の上話を聞かせようと思うくらいには、レンデも姉弟に心を開いている。だからこそ、このように砕けた態度でやり取りができている。

「変じゃないだろ。強くなるのは、俺の夢を叶える為の最低条件だから」

 さも当然のように言い放つライゼルだが、レンデには全然合点がいかない。このベスティア王国では、久しく武力は求められていない。約四十年前の内乱が過去になりつつある今、強さに関心を持つライゼルは誰の目から見ても珍妙に映る。

「強くなれば、あなたの夢が叶うの? 争い事が禁忌とされるご時世で?」

 ライゼルの事を深く知らないレンデはそう一蹴するが、ライゼルは飽くまで真剣に思いを語る。

「そうだ。みんなの笑顔を守るには、俺が強くならなきゃだから。母ちゃんと約束したし」

 ライゼルのその言葉に、ふとレンデの表情が曇った。

「約束…まさかね」

「どうしたんですか?」

「いえ、ライゼルの話を聞いて思い出したの。そういえば、ルーガンとも約束って程じゃないけど、そんな話をしたなぁって」

「どんな?」

「前回の、だから半年前かしら。四戦目に当たった相手が物凄い強い人だったみたいで、昨日みたいにボロボロになって帰ってきたの。その時は自力で帰って来られたから、昨日ほどじゃなかったけど」

 その時の事を言いながら思い出したのだろう、それ程でないと言いながら、僅かに心を痛めている面持ちを見せるレンデ。

「それで?」

「その姿を見て、急に怖くなって、私言っちゃったの。『出るんならもっと強くなって。怪我だらけのルーガンなんて見たくない』って」

 本心を言えば、一切争い事に関わらないでくれた方がいい。愛する家族が傷付く所なんて目にしたくない。ただ、必要に迫られているのであれば、それすらも撥ね退けてしまう安心感を与えて欲しい。幼い頃にルーガンによって孤独から救われているレンデは、ルーガンに再びその頼り甲斐を期待したのだ。

「そっか。ねぇ、ベニューもおんなじこと考える?」

 何の気なしに姉に振るライゼルだったが、どの口で、とベニューは視線でライゼルを刺す。

「…言ってもいいけど、言ったらちゃんとその言い付けを守ってくれる?」

「…訊かなかった事にする」

 薄々ではあったが、ライゼルもベニューに心配を掛けてしまっているとは感じている。それを自ら墓穴を掘り、訊き出してしまうとは、痛恨の極みである。

「さっきから、あなた。まるで参加者みたいな口振りじゃない」

「出られるかな?」

 レンデの問いを、まるで参加を促されていると感じる辺りがライゼルらしい。強さへの飽くなき探求心が、そちらへ思考を誘導させているのかもしれない。

 レンデもまさかライゼルが参加できるとは思っていないが、一応知り得る限りの情報を与える。

「牙使いである事と、何か観客の目を引く要素があれば、選ばれやすいってルーガンは言ってたけど」

「へぇ、そうなんだ。ルーガンはどうやって選ばれたの?」

「よく分からないけど、【牙】の形が珍しいからって。大方、強そうに見えないルーガンの【牙】を晒し物にしようって魂胆だったんでしょうけど」

 その予測は大方が正解している。教会は、信仰心を煽る為の道具として、喧嘩賭博を利用している節がある。孤児と関係があるルーガンは、教会にとって格好の布教教材だったのだろう。

「でも、ルーガンは努力を重ねて九連勝したんだ。すごいじゃん」

「こっちは気が気じゃないわよ。主催者が参加者の体調なんて一切考慮してない中、無事で帰られる訳ない荒事やって。昨日だってあなた達が連れて来てくれなかったらと思うと…本当、感謝してるわ」

「おう」

「レンデさんの気持ちよく分かります。家族なんですから、心配ですよね」

 耳が痛い姉の言葉を遮りたかった訳ではないが、ライゼルはふと頭をよぎった疑問を口にする。

「ねぇ? もしかして、レンデはルーガンが闘ってるところ、一度も見た事ないの?」

「そうよ。とてもじゃないけど見てられないわ。多かれ少なかれ、家族が痛い目に遭うのよ」

 これまで一通りの事情を聞いた上で、改めてライゼルはレンデにこの質問をぶつける。

「じゃあ、レンデはどうしてルーガンを止めないの?」

 この無神経とも取られ兼ねない発言には、さすがにレンデも憤慨する。

「あなた喧嘩売ってる? 話、ちゃんと聞いてた? 頭おかしいんじゃないの?」

 だが、ライゼルもこれまでの話を無視して言ってるのではない。二人が抱える事情を踏まえた上で、そう問うているのだ。

「聞いてたよ。その上で分からないんだ。心配してるって言いながら、結局ルーガンを行かせてるじゃん?」

「どこまで私を虚仮(こけ)にすれば気が済むのよ!? 故郷では、ブレでは、家族からすら必要とされなかったルーガンが、何をやらせても満足にできなかったルーガンが! 自分の居場所を見つけて、家族を作って、必要とされて、やりたい事を見つけて…それを私が、やめてなんて、言える訳ないじゃない」

「なんでだよ」

「余所者のあなたに何が分かるっていうのよ!?」

「わかんねぇぞ。俺はルーガンの家族じゃないから。何が本当のルーガンで、どうするのが家族にとって正解なのか。でも、レンデなら。ずっと傍にいたレンデなら何か言ってあげられるんじゃないのかよ」

 実を言えば、レンデにだって、どんなルーガンが本当のルーガンだとか、何をすれば家族が幸せになれるとか、そんな事は分からないのだ。幼い頃ルーガンに見出した優しさは、もしかしたら自分の勘違いだったのかもしれない。何も満足に出来ない、役立たず、それが現実のルーガンなのだろう。自分の居場所が故郷以外にあると信じて、当てもなく飛び出すくらいには無計画で。やっと見つけた才能らしきものも、時代に合わない喧嘩という蛮行。そんな甲斐性無しに憧れ、想いを寄せ、ここまでやってきた自分は、酸いも甘いも知らなかった小娘なんだと思い知らされる事もあった。

 ただ、ルーガンに伝えたい事もあった。感謝してると、傍にいる事を許してくれた事を。今日この日まで寂しいと思った事は只の一度もない。親元を13歳で離れたレンデだったが、新しく出来たたくさんの家族のおかげで、独りぼっちでいる瞬間なんて一時もなかった。ルーガンがいて、弟や妹のような子ども達がいて、レンデの毎日は幸せだった。

 そして、感謝すると同時に、「おつかれさま」も言わなければと思っている。これまで独りで傷付き、家族を養ってきたルーガンに、これ以上無理をさせたくないと。ルーガンを知らぬ間に追い詰めていたのは、自分が一方的にルーガンに寄せる期待だったんじゃないのかとも考えずにはいられないのだ。

 自分は孤独を解消させてもらったというのに、ルーガンにはつらい役回りを押し付けてしまった。

 自分に甘えがあったから、覚悟がなかったから、今尚ルーガンを苦しめてしまっているのだと、どうしようもない程にレンデは自己嫌悪に苛まれる。

「―――ルーガン、私、わたしっ…」

 顔を両手で抑えながら涙を流すレンデ。ルーガンに言葉を掛けてあげられるとしたら、誰かがルーガンを救えるとしたら、それはレンデを置いて他にいない。その事を、只の通りすがりであるライゼルから指摘されては、レンデにはこれ以上言葉がないのだった。

 ベニューは、涙を流すレンデの背中を優しく擦りながらも、ライゼルにきつい口調で語り掛ける。

「今のは、ライゼルも半分は責任放棄してるからね」

 責任放棄と、ベニューは言う。ライゼルもその言葉には思い当たる事があったようで、ややたじろいでしまう。

「何がだよ?」

「本当は昨日訊こうと思ったんだけど。ライゼルはルーガンさんに会って何を話そうとしてたの?」

「ルーガンの家族を守ろうとする姿、カッコいいと思った。俺だったらビアンにあれだけ言われたら、何も言い返せなかっただろうし。だから、俺に出来る事ないかなって相談するつもりで最初は来た」

「最初は?」

「うん。レンデと話してたら、カッコ悪いとも思ったからやっぱりやめる」

「格好悪い?」

「だってそうだろ? ルーガンは家族の為って言いながら、家族を、レンデを悲しませてる。俺は、それは間違ってると思う」

 自分の事は棚に上げて、と詰りたくなる気持ちを抑えて、ベニューは一旦の理解を示す。

「なるほど。でも、そこまで来てようやく及第点だよ。それで、ライゼルはどうするの?」

 ベニューも、ライゼルがお節介焼きなのは十分に承知している。ただ、その上で、ライゼルのお節介が誰の為に、どんな目的で為されるのか見定めなければならない。それはライゼルの一方的な親切の押し売りになっていないか、当人達がそれを望んでいるかどうか。ライゼルの夢を応援する立場のベニューは、舵を取る役割も担っている。

 問われたライゼルは、思い付いた先から言葉にしていく。

「ルーガンがこれ以上戦わなくていいように、病気をどうにかするか、他の仕事を探すとか…」

 苦しい言い逃れである事は、ライゼルも分かっている。だが、それを判って尚ベニューは追及の手を緩めない。

「それは、ライゼルにどうにかできる事なの?」

 結局は他力本願の解決策しか提示できないライゼルに、厳しい態度で問い詰めるベニュー。その、問題を解決しようとするあまり、その答えにはライゼルという主体性が存在しない。それが先に言った責任放棄についての解説だ。裏を返せば、今回の件は手の尽くしようがないとライゼル自身が諦めてしまっているとも取れる。

 それは、ライゼルの夢を応援したいベニューにとっても気の毒な事だが、そこまでは弟に聞かせるつもりはない。弱気な自分を押し殺してでも、弟を叱咤激励せねばとベニューは思うのだ。

 一方、問題解決にライゼル自身の力が必要とされていない点について追及され、ライゼルは言葉に詰まる。

「それは、その…」

「だったら、あなたはレンデさんを傷付けただけ。ルーガンさんを格好悪いなんて言う資格ないよ」

 姉の言う事は一々正論である。だから、その指摘を否定する材料をライゼルは持ち合わせていない。

「じゃあ。だったら、どうしたらいいんだよ?」

 ルーガン達の力になりたいという想いは本物に違いない。だが、それを基にした行動の指針がまだ導き出せていないライゼル。

 そんな様子のライゼルに、ここに来て先の咎めるような態度とは打って変わって、優しく諭すようにベニューは語り掛ける。

「私はね、どうしたらいいかじゃなくて、ライゼルがどうしたいかが大事なんだと思うよ」

「俺がどうしたいか?」

「フウガさんに教えてもらったんでしょ? それをビアンさんに宣言してたよ、ライゼルは」

 それはグロッタの宿場町での事を指している。ライゼルもすぐにその事を思い出す。

「フウガ…そうだ、どうすればいいか分からない時、俺はやらずにいられない事をするんだ」

「そうだよ、ライゼル。それで、ライゼルはどうしたい?」

 何かを閃きかけたライゼルに先を促すベニュー。

「俺は、レンデを悲しませるルーガンを止めたい。応援したい気持ちもあるけど、何よりもレンデが泣くのは、家族の為にならないと思う」

「そうだね、ライゼルはそう考えたんだね」

 それが正しいのかどうかは誰にも分からない。ただ、決して誰かを傷付けるだけという結果には終わらないはずだ。何かが好転するはずだと、ライゼルは自分を信じて前を向く。

「おう。俺、広場に行ってくる!」

 そう告げて、瞬く間に駆け出すライゼル。狭い路地を気にせず疾走し、瞬く間に大通りの方へ駆けて行った。

「ライゼルといく~♪」

 緑髪の少女も連なって走り出そうとしたが、咄嗟にベニューが腕を取る。

「あなたはまだここにいて。まだあなたの事を確認してないからね」

「おうっ♪ ライゼルのまね、おうっ」

 一頻り涙を流し、レンデはようやく落ち着いたのか、泣き腫らした目でベニューを見やる。そして、やや険のある、それでいて落ち着いた調子で、レンデはベニューに尋ねる。

「あなた、ベニューさんって言ったかしら?」

「はい」

「本当に…私を無視して勝手なこと言い過ぎよ。あなた達、姉弟」

「自覚はしています」

 ベニューの悪びれない様子に、文句を言う気が失せたのか、レンデはふぅと溜息を吐いてみせ、更にこう続ける。

「こうしちゃいられないわ。あなたの弟が何をするつもりか知らないけど、それはライゼルの役目じゃないわ。ずっと傍で見守ってきた私の矜持がそれを許さないんだから」

「えぇ。私達の家族がどうするか、見守りに行きましょう」

「少し待ってて頂戴。家の子達にちゃんと留守をするように言いつけて来るわ」

 一旦家の中に戻ろうとするレンデの背中に、ベニューは慌てて声を掛ける。

「そういえば、言いそびれていたんですが、この子はレンデさんの家族ですか?」

 呼び止められたレンデは、怪訝そうな顔でベニューを見つめ返す。

「どの子よ?」

 明らかに怪訝そうな表情を向けられ、さすがのベニューも物怖じしてしまう。

「さっきから私の隣にいるこの子なんですけど」

 ベニューが隣にいる緑髪の少女を指し示すが、尚もレンデは表情を変えない。

「あなたの妹じゃなかったの? 頭の楔が抜けたような喋り方、ライゼルそっくりよ」

 レンデがあまりにも隣の少女に関心を示していないものだから、ベニューもまさかとは思っていたが。

「近所で見かけた事もありませんか?」

「少なくとも、ウチの家族じゃないわよ?」

「そんな…」

 ベニューの驚きを隠しきれない反応に、向けられたレンデも困惑する。

「驚かれても私が困るんだけど。ウチの家族はみんな家の中にいるわ。あの子達は日が昇っている内は絶対に外へは行かないからね」

「じゃあ…」

 隣の少女へ視線を向けても、緑髪の少女は不思議そうに見つめ返すばかりで何も答えてくれない。

「じゃあ、あなたはどこの子なの?」

 ベニューが心から湧いて出た疑問をつい漏らすと、少女は急に広場の方へ視線を向ける。かと、思ったら、次の瞬間には、その方向を目指しトテトテと駆け出し始めた。

「ライゼル見えなくなった。ライゼルどこ?」

「待って、レンデさんが…」

 ベニューの制止も聞かず駆け出していく緑髪の少女。戸惑うベニューにレンデは随伴を促す。

「いいわ、先に行ってて。私も後から行くから」

 こうしてベニューと緑髪の少女も、ライゼルに遅れる事数分、広場を目指す事になった。

 一方、レンデは家の中へ。扉を開けると、一斉に子ども達の視線はレンデに向けられる。

「ルーはお出かけした?」

 外の顛末を知らぬ子ども達に、レンデはいつものように言い付ける。

「今から私は留守にするけど、ちゃんと家の中にいて仲良くしてる事。いいわね?」

 聞き飽きた定型文に子ども達も素直に応じる。

「わかってるよ、レンデ」

 だったが、ふともたげた疑問を子ども達は口にする。

「でも、どうして今日はレンデも外出するのさ?」

「十れんしょうだから?」

「わたしも見たいなぁ。レンデおねえちゃんだけずるい」

 各々言い分はあるようだったが、今は一刻も早く広場へ向かわなければならないレンデ。

「今日はルーガン最後の闘いになるかもしれないからよ。私がちゃんと連れて帰ってくるから、いつも通りいい子で待ってなさいね」

 真剣な表情で言い含めるも、子ども達はいまいち要領を得ていない。これまでと変わらず、ルーガンが外へ出て帰って来るだけ。そこに、レンデが加わっただけだ。

 この意味が理解できるようになるのはもう少し後かもしれない。そう思ったレンデは、短く別れを告げると、家を飛び出した。

「じゃ、行ってくる」


 そして、ベニュー達から更に遅れてレンデが広場へ向かった訳だが、彼女が到着した頃には既に喧嘩賭博が開始されようとしていた。のみならず、舞台上には予想だにしなかった人物が登壇していた。

「ライゼル!? どうしてあなたがそこにいるのよ?!」

 連勝中で優先参加資格を有しているルーガンは当然としても、まさかライゼルが飛び入り参加しているとは思わなかったレンデ。思わず開いた口が塞がらない。

「どんな手を使えば、こんな事が出来るのよ…」

 舞台の上で相対して向かい合うライゼルとルーガンの姿に、肩の力が抜けるレンデ。口振りからライゼルも牙使いという事は察しがついたが、こんな事になるとは予想だにしなかった。

 そんなレンデに、舞台付近から声を掛ける者がいる。緑髪の少女を連れたベニューだ。肩には先程までは見受けられなかった背嚢が掛けられている。鮮やかな六花染めを着こなすベニューの持ち物にしては、その背嚢はやや無骨とも言えた。

 そんな事を気に留めながらも、レンデは人の間を縫って、急いで二人の傍へ駆け付ける。

「レンデさんも間に合ったんですね」

「ねぇ、何するか分からないとは言ったけど、こればっかりは本当に予想できなかったわ。どうやって潜り込んだの?」

「弟は牙使いですから」

「いえ、そういう事じゃなくて。前日には参加希望者の中からルーガンの対戦相手が既に選ばれていたはずよ。それなのに、ライゼルが代わりに参加してるってどういう事よ?」

 詰め寄るレンデに、やや困り果てた様子でベニューは応じる。言葉の途中でちらりと肩に掛けた背嚢を見やりながら。

「交渉したというか、押し切ったというか」

「コミテリアの主催者ってそんなに融通が利く人間なの?」

 その答えでレンデが納得してくれるならベニューとしても有り難かったが、どうもそうは行かないみたいだ。レンデの問う声に、鋭さが感じられる。勝手は許さない、先もレンデがそう宣言したのをベニューは覚えている。

「え~と、手段を明かせば、ライゼルが持ってる五十万レクトと私の六花染めの独占販売権を担保にしたんです」

「えっ! 五十万レクト?! っていうか、『私の』六花染め?!」

 急に告げられる衝撃的な情報に、レンデの理解は追い付かない。ライゼルが出場する為に五十万レクトを担保にしたと言い、更に付随させた六花染めの営利権はベニューにある、つまりベニューは六花染めの開発者なのだと言う。あまりにも突拍子もない話にレンデは目が点になってしまう。

「言ってませんでしたが私、二代目フロルを名乗らせていただいてる染物屋です」

 レンデも六花染めの事は知っているが、まさか偶然知り合った然程年の変わらぬ少女が二代目フロルとは思いも寄らなかった。人は見かけによらないと言うが、これ程この言葉がしっくりくる例はないだろう。実際、レンデはフィオーレ出身と聞いて、自分の故郷ブレよりも田舎だと思っていたくらいだ。フィオーレは花の村として有名だが、それが六花染め開祖に直結するとは限らない。

「そうなんだ。あなた、有名人だったんだ」

「有名かどうかは分かりませんが」

 事実、これまでベニューはフィオーレやボーネ以外の余所で、「二代目フロルだ」と言い当てられた事はない。流布してる訳でもないのだから、当然と言えば当然だが。

 そんなベニューの自己評価などお構いなしに、レンデは今回の動機について尋ねる。

「…どうしてそんな有名人の姉弟が、そこまでしてくれるのよ?」

「放っておけなかったからです。レンデさんもルーガンさんも素敵な人ですから。家族を大切に想う二人の手助けがしたかったんです」

 そう衒いもなく言い切られては、謙遜するのも野暮ったく思えてしまうレンデ。

「そう言ってくれるのはありがたいけど、五十万レクトなんて返せないわよ?」

「返す?」

 ベニューに山彦のように尋ね返され、意図している所が伝わっていないのかレンデは不安になる。

「だって、ライゼルはわざとルーガンに負ける為に、そんな無茶な担保を出してまで出場してくれたんでしょ?」

 そうすればルーガンは、これ以上の怪我を負わず、十連勝分の賞金を得られる。そういう腹積もりでライゼルが対戦相手として参加してくれたのだと、レンデはそう解釈している。

「え~と…」

 だが、その予想を聞かされたベニューは、申し訳なさそうに目を伏せている。

「違うの?」

 レンデがベニューに問い直したその瞬間、司会役によって両者の紹介が行われる。

「今日はみんなも知っての通り、ルーガン・ブレの十連勝が掛かった大一番なワケだが、その対戦相手がとんでもないヤツと来たってんだから驚きだ。何を隠そう、この少年。あの一世を風靡したダンデリオン染めの生みの親フロル、その伝説の染物屋フロルから【牙】を受け継いだ息子、ライゼル・フィオーレその人だぁ!」

 司会役の紹介が俄かに信じられないのか、周囲の観客達はじっとライゼルを見つめる。

「あれがフロルの息子? って事は六花染めの二代目フロルか?」

「フロルの名前は女のものだろ」

「染物屋の息子なんて、こんな節目の一戦に出していいのかよ」

「昔、母から聞かされたのだけれど、フロルって人は物凄い【牙】の扱いに長けた人だったらしいわ」

「オライザじゃ有名な話らしいな。俺の親父もそんな事を言ってたぜ」

「そうだそうだ、確かあのゾア頭領がその腕を見込んで、オライザに工房を用意してやったとか」

「腕ってのはどっちの事だい? 染物かい、それとも【牙】かい?」

「どっちでも構わんさ。少なくとも、どこの誰とも知らない奴が出るよりはずっとマシさ」

「それに聞けば、主催者が初めて飛び入り参加を認めた牙使いらしいじゃないか。少しは期待できるんじゃないか?」

「子どもにしては良い肉付きだ。きっと働き者に違いない」

「そうだな、若い牙使いってのは思えば初めて参加するやもしれんな。これはもしかすると、大番狂わせもあるぞ」

「おいおい、まだ【牙】も拝んでないってのに、気が早いんじゃないかい?」

「こりゃ、楽しみになってきたな。まだ賭け直せるなら、小僧に賭けてみようか」

 フロルの息子という肩書の所為か、俄かにライゼルへの期待が高まりつつある会場全体。唐突な組み合わせ変更に当初は不満の声も漏れ聞こえてきたが、代わりに現れたのが有名人に縁のある者と知って、興味が湧きつつあるようだ。

 観客の視線が壇上の二人に注がれ、いよいよ開戦の時が迫る。

「それでは、これより試合開始だぁっ!」

 司会役により試合開始は告げられ、直後周囲から大きな歓声が湧き上がる。

「なに、どうしたの?!」

 試合そっちのけでベニューに問い詰めていたレンデは、咄嗟に舞台上に視線を送る。何故、これ程の歓声が沸き起こるのか、レンデには想像できない。これから繰り広げられるのは、袖の下を見せ合った二人による茶番劇ではなかったのか?

 そう思い込んでいたレンデが目の当たりにしたのは、ルーガンとライゼルの【牙】が真っ向から全力でぶつかり合ってる様だった。

「何やってるのよ!?」

 試合開始直後、両者は即座に【牙】を発現させ、それとほぼ同時に、ライゼルは自慢の広刃剣で斬り掛かり、ルーガンは厚手の布袋を纏った拳で殴り掛かった。どちらも手心を加えているようには全く見受けられない、まさに真剣勝負そのものだった。

「ねぇ、どういう事? ライゼルはルーガンを助けてくれるんじゃなかったの?」

 理解しがたい状況に、レンデはベニューに答えを求めた。そして、ベニューもそれに真摯に答える。

「はい、助けようとしています。ライゼルが思う形で、あなた達の家族を救おうとしています」

 レンデは目の前の少女の正気を疑う。下手すれば、隣にいる緑髪の幼女の方が信用できそうだと思える程に。

「意味が分からないわ。どう見たって、邪魔をしようとしているようにしか見えないもの」

 レンデがベニューに抗議を入れている間にも、舞台上の二人は激しく【牙】を激突させる。華麗な足捌きから繰り出される瞬きも許さぬルーガンの高速の拳技に、ライゼルも『花吹雪』を以て対抗する。共にあらん限りの技を駆使しての熱戦。見ている観客にも、二人の熱が伝わってくる。

 そんな激闘を余所にベニューは静かにこう告げる。いや、唯一の肉親が激しい戦いを演じている最中にあって胸中穏やかではなかっただろうが、努めて落ち着いた口調でレンデに聞かせる。

「ライゼルは言ってました。誰かを守る為に、誰かを悲しませるのは間違ってるって」

「何よそれ。ルーガンの対戦相手に同情しろってこと? 私達家族全員が生きる為には、この方法しか…」

「そうじゃありません。さっきもライゼルが言いましたが、いえ私も同じ気持ちなんですが。誰より心を痛めているのは、レンデさんじゃありませんか」

 その言葉は先の姉弟のやり取りで言われていた事で、レンデもその場で耳にしている。

「それはライゼルが勝手に言って…いいえ、私が勝手に傷付いてるだけって話よ。私の事は今はどうでもいいの」

「いいえ、ライゼルは他の誰でもないレンデさんを救おうとしているんですよ」

「私?」

 改めてそう伝えられても、レンデには今目の前で繰り広げられている激突には到底結び付かない。ルーガンとライゼルが闘う事が、自分を救う事に繋がると言われても、もはやちんぷんかんだ。だが、ベニューは当然の帰結とでも言わんばかりに、迷わずこう結ぶ。

「だから、今こうやって本気でぶつかり合ってるんです。レンデさんの想いを、ルーガンさんにぶつける為に。ウチの弟、見た目通り言いたい事は臆せず言っちゃえる性質なんです」

「ライゼルは何をしようっての…?」

 お節介にもレンデが秘め続けた想いを勝手に汲み取り、ライゼルは舞台上にてそれをルーガンにぶつけようと肉薄する。拮抗する形で競り合う二人、自然と距離も詰まっている。

「見損なったぞ、ルーガン」

「ルーの何が気に入らんと? 同情してくれたんじゃなかとね?」

「同情なんてするか。少なくともルーガンには絶対しない」

 何故ライゼルがこんな事を言い出し、自らの十連勝を阻もうと立ち塞がるのか、ルーガンにはその理由が全く分からない。それも当然だ、ライゼルがレンデから話を聞いた事など知らないのだから。

「なんね、気持ちのいい男の子って思っとったのに。裏切られた気分ばい」

「俺だって、ルーガンがこんなに分からず屋とは思わなかったよ」

 ライゼルが斬り込んでも、ルーガンの左拳に剣を打ち払われ、もう片方の拳による逆襲がライゼル目掛けて迫ってくる。ライゼルは追撃を止め、しっかりと間合いを取り反撃を警戒する。

 以前からベニューに指摘されていた通り、単調な攻撃では戦闘経験のある相手には通用しない。少なくとも、喧嘩賭博で怒涛の九連勝を誇るルーガンのような手練れには、いとも簡単に対処されてしまう。

「どんな手を使って喧嘩賭博に潜り込んだか知らんばってん、ルーは絶対に負けられんとたい。痛い目見る前に降参してくれんね?」

「それじゃあ、俺が参加した意味がない」

 そうなのだ。ライゼルは為すべき目的を見出して、この舞台に立っている。そして、闘いの最中であるが、実はルーガンもそれに強い関心がある。対戦相手がどんな想いでここに立つのか、特に縁が全くない訳ではないライゼルとなると、俄然興味が湧いてくる。

「へえ、どんな目的があってライゼルは参加したと?」

 試しているのは、ライゼルの真意か実力か。会話の最中にも、攻撃の手は止めないルーガン。

「レンデを泣かすルーガンを叩きのめす。ただ、それだけだ」

 牽制にと繰り出される軽めの拳撃をしっかり捕捉しながら、ライゼルもその拳を打ち払い、反攻に出る。

 ルーガンの拳を祓った勢いそのままに、上段まで振り上げ肩に担ぎ直し、そこから一気に振り下ろす。

「おぉりゃッ!」

 大振りの反撃だった為に、僅かではあったが、俊敏なルーガンには姿勢を整える猶予があった。斬りかかるライゼルの【牙】を、咄嗟に両腕を襷掛けの形に重ねて受け止めるルーガン。

「悪かとは思っとるよ。家族の元を離れて『僕』なんかの為に付いてきてくれて。苦労ばっかり掛けてしまっとる。ばってん、こうやって戦ってお金を稼ぐ事で、レンデには恩返しができるったい」

 力の乗った剣戟を耐える事に夢中で、ルーガンはつい素の一人称を漏らしてしまう。

 ライゼルが届けんとするレンデの想いは、まだルーガンには届いていない。それが歯痒くて仕方がないライゼルは、吼えると同時に競り合いを中断する。

「何でそうなるんだよ!」

 二人は改めて距離を取り、足を止めて互いに構え直す。その間にも、荒くなった呼吸を整え、次の攻撃に備えるライゼルとルーガン。

(ったく。さっきはまともに歩けなかったくせに、どこにそんな余力があるんだよ)

 次の準備を整えながらも、ルーガンの見た目からは想像できない俊敏さに、心の中で悪態を吐くライゼル。今、目の前にいる相手は、本当に連日の戦闘に傷付き、疲弊している男なのだろうか。レンデの心配など思い過ごしだったのではないかと疑いたくなる程に、相対しているルーガンは手強い。弱みにつけ込むつもりなど最初からなかったライゼルだが、ルーガンの余りの勇壮振りには流石に文句の一つも言いたくなる。

「こんな無茶ばっかりしてるから、レンデが心配するんだろ。少しはレンデの事を気遣ってやれないのかよ?」

 先に息を整え終えたルーガンは、ライゼルにぶつけられた問いへの答えを、拳に乗せて浴びせに掛かる。自身の本心を吐露する度に、連打が、乱打が、ライゼルに襲い掛かる。

「僕は何も出来ん穀潰しばい。実家の仕事も、家事も、碌に出来た試しがなか。ばってんがこれなら、薪割りにも向かん僕の【牙】でも活かせるって思ったったい。ずっと背中を押してくれたレンデに、ようやくかっこいい所が見せられると思ったたい。だけん…」

 そこで一旦言葉を区切ると、改めて引き絞った握り拳にぐっと力を籠める。

「だけん、絶対に負けられんとばい」

 その揺るがぬ闘志を受け、ライゼルも【牙】に霊気を充填させる。グッと握られた広刃剣が、青白い光に包まれる。

「なんでだよ。なんでレンデの気持ちを分かってやらないんだよ」

 先に動いたのは、ルーガンだ。これまでの試合でも見せた事がない俊敏な走破で、ライゼルに急接近、そしてその勢いのまま拳を前に打ち出す。その動作を風読みの能力で察知したライゼルは、咄嗟に剣で防御しルーガンの速攻を防いだ。

「妙な言い掛かりつけてルーの家族の邪魔をせんで欲しかったい」

 初撃を受けたのはいいが、それはルーガンの速度を上乗せさせた渾身の一撃。剣で防御したとはいえ、その衝撃全てをいなし切れていないライゼルは、若干姿勢が後方に倒れてしまっている。

「しまったっ」

 僅かに生じたその隙を逃さず、流れるような動きで次の攻撃動作に入るルーガン。拳を打ち出す最適の間合いを測ると同時に、その踏み込んだ足に体重を乗せる。

「まずは一発目!」

 上半身に捻りの加えられて放たれる、一連の勢いの伝わった一発。これまで何度か躱してきた来た拳だったが、ようやくライゼルはこの一撃を見舞われる事になる。形容するなら、まるで全速力の駆動車に衝突されたような、これまで受けた事のない衝撃。先日姉が披露した『花吹雪』とは比較にならない程の威力が、ライゼルの右脇腹を襲う。

「ぐぅううッえぇぇっ」

 破壊力抜群のこの一撃には、堪らずライゼルも顔を歪める。直撃を見届ける観客からは、思わず歓声と拍手が送られる。今日この場に集まった観客達は、このド派手な一発を楽しみにしていたのだ。

(これ、三発も保たないヤツじゃん…)

 ライゼルの脳裏に、先日のルーガンの宣言と有言実行とが、同時に思い出される。彼は三発で十分だと言った。それを受けた者は誰一人として立っていられなかったと。実際、昨日対戦したファブラは、三発受けるまでもなくたった一発を受け失神した。ただの一回で大の大人を気絶に追い込む一撃を、ルーガンは有しているのだ。その抜群の破壊力は、ライゼルの腹部の激痛を以て十分に証明された。

(…ヤバい、まともに立ってらんないや)

 余りの破壊力に、最大級の危機感を持ち始めたライゼルだが、一方でルーガンも事実追い込まれていた。

 というのも、実は、この三発で沈めるという宣言は、ルーガンの【牙】の制限回数に由来している。その制限というのは、右左それぞれの拳が最大威力を放てるのが、それぞれ一発だけに限られているというもの。もし、片方のみで二発目を打ち込んだなら、その時点でルーガンの【牙】は霧散してしまう。【牙】が衝撃に耐えられないのではない、ルーガン本人があるいは星脈が、【牙】を維持していられないのである。もし、これが連日開催でなければ、その危惧も必要なかったろうが、元々【牙】を日常的に使う機会のなかったルーガンは、大会の度に無理やり毎日発現させていた為に、ルーガンの星脈は人並み以上に疲弊していたのである。

 故に、満身創痍のルーガンが勝利を収めるには、片方一発ずつ計二発と自壊覚悟のもう一発の合計三発以内に、相手を戦闘不能に追い込むという一択しかないのである。三発目を行使した時点でどちらか片方の腕の【牙】は失われているが、独立した二つの【牙】という稀有な【牙】である為に、どちらか一方でも十全に残っていれば問題ないという裁定が下されている。

 この裁定はルーガンに大きな利をもたらしている。もしこれがなかった場合、更に自身に制限を掛け、二発以内に相手を下す、あるいは、余力を残した状態で戦うか。ただ、全力を使わなければ、【牙】は維持できるだろうが決定打を打ち込む事は出来ないので選択肢から除外される。一方前者は、弱った星脈を持つルーガンには荷が勝ち過ぎている為、更に勝利を収める事が困難を極めるだろう。

 つまり現在のルーガンは、残る右腕の一発と更に自壊覚悟のもう一発でライゼルを無力化できなければ、勝利条件を満たせず敗北となる。勝つには、最終的に最低どちらか一方の【牙】を残した上で、相手を無力化させなければならない。これが、ルーガンが三発で勝負を決める事に拘る理由である。

 ただ、ルーガン自身は現状、回数制限をそれ程足枷だとは感じていない。むしろ、先の一撃に十分な手応えを感じ、残り二発で過不足なく仕留められると確信している。

 見た目以上にライゼルへの負荷は大きく、大きくふら付きながら仰け反った後も、立っているのがやっとであった。

 が、こんな逆境でこそ啖呵を切るのがライゼルである。

「約束通りなら、あと二発しか打てないってのに、俺はまだピンピンしてるぞ。どうする? 先に二発喰らってあげようか?」

「強がりもそれだけ言えるなら大したもんばい。言ったはずばい、三発喰らったらライゼルの負け、って。そっちこそ、先に攻撃を仕掛けた方が、後で言い訳考えんでよかばい」

 確かに先程の啖呵は強がりであったのだが、それよりも今のライゼルの状況を明確に言い表している。陣の外で見ていたベニューはそれに気付いている。

(ライゼル…痛みがひどくて、もう攻撃を仕掛ける事も出来ないんだ)

 ライゼルの脇腹に炸裂した左打撃は、ライゼルの行動を制限する程の威力を有していたのだ。常人であれば、内臓に取り返しもつかない障害が残っていたであろう事は明白である。ライゼルの程よく鍛えられた筋肉の壁と二倍の星脈の修復機能を以てして、辛うじて致命傷を避けられたという所か。

 見事な一撃を決めたルーガンは、一旦距離を取り、構えを解いてみせる。

「倒してしまう前に、ひとつ聞いてよかね?」

「もう勝った気でいるのかよ、気が早いぞルーガン」

 ライゼルも言い返すが、先の一発が試合を大きくルーガンに傾けたのは判然とした事実である。その証拠に、ルーガンが試合を中断させた事を、勝負に水を差されたと感じ野次を飛ばす観客もちらほらいる。

 不満げな声を漏らす観客達の中で、レンデもルーガンの突飛な行動に愚痴を溢す。

「こっちは無事に終わってほしいのに、何を雑談始めてるのよ」

「陣の外にいる私達は痛くも痒くもないはずなのに、結構根性が要る役回りですよね」

「覚悟、してきたつもりだったのに。ルーガンはいつもこんな事を…」

 初めて見る喧嘩賭博は、目を覆いたくなる程の壮絶な光景だった。牙使いによる激しいぶつかり合い、特に先のライゼルが受けた一撃は思わず目を逸らしてしまう程の衝撃があった。

 直視していられないレンデに比して、ベニューは真剣な面持ちのままずっと壇上の二人の様子を見つめている。

「存外、本人達はあっけらかんとしてますよ。私達の気持ちなんて二の次にして」

 男だからか、それとも牙使いだからか。舞台上の二人は家族の心配を余所に、自身が頼みとする【牙】を存分に揮っている。ベニューはなんとなく、その二人を勝手だなと思う。

「ベニューさん、平気そうね。そっちの楔の抜けた子もその子で平気そうだけど」

 凄惨さを理解しているか怪しい緑髪の少女は別としても、ベニューは眉一つ動かさず試合を見守っている。レンデはそれが不思議でならない。

「いや、これでもなかなか応えているんですよ。ただ、私が弟の為に出来る事はこれしかありませんから」

 母との約束もあるが、ライゼルを想うと、ただ傍で見守っている事しかベニューには出来ないのだ。それが今のベニューの精一杯の応援なのだ。

「根性がいる役回り、ね。あなたが二代目フロルなんだって、だんだん納得できたわ」

「お褒めに預かり光栄です」

 同じ気苦労を知る者同士、冗談めかして労い合う。

 そして、そんなそれぞれの家族を余所に、ルーガンはライゼルに問いを投げる。

「ライゼルは学校は行っとる?」

 向けられた質問の内容に面食らうライゼル。それは真剣勝負の最中に交わさなければならない話題だろうか?

「何だ急に。行ってないけど」

「じゃあ、働きよる訳たい。ライゼルは【牙】を仕事に使いよる?」

 どうやら最初の質問は話の枕だったらしく、本題はこっちにあると見たライゼル。【牙】の単語を出すルーガンに、只ならぬ圧を感じたのだ。

「いいや。必要ないもん」

 ライゼルが畑仕事をするのに、【牙】を用いた事は一度もない。ベニューがそう躾けているというのもあるが、ライゼルにとって【牙】は農具なんかではない、自信の誉れだ。活躍の場所はそこではない。

「必要ない、か。剣は引く手あまたの【牙】だと思うばってん?」

「外の仕事がどんなか知らないけど、それは多分俺のやりたい事じゃない。俺の夢はそこにないと思う。だから、ルーガンのいう仕事ってやつに【牙】は使わないと思う」

 ライゼルが自身の本心をつらつらと述べると、それを聞いたルーガンは何やらひとりでに納得したようだった。

「つまらん問答に付き合わせて悪かったね。もう終わらせるばい、ライゼル」

 自分の答えがどうルーガンに響いたか分からないライゼルだったが、ルーガンはどうやら自己解決したらしい。

 その様子を確認し、ライゼルも再び構え直す。

「ようやく仕合う気になったか。ほら、打って来いよ、ルーガン」

「それなら、お言葉に甘えさせてもらうばい」

 言うが早いか、即座に攻撃動作に移るルーガンは、ライゼルの重心が高くなっている事に気が付いていた。先の一撃を受け、辛うじて立っているという事を、その佇まいから見抜いているのだ。

 ただ立ち尽くしているだけの対戦相手など、ルーガンにとって格好の的でしかない。ライゼルが足捌きで抵抗できないのであれば、ルーガンはいくらでもライゼルを料理できる。ルーガンから見て、ライゼルの【牙】の攻撃範囲や質量を加味した衝撃が厄介だったが、それはライゼルが五分に動ける状態での話。両足を踵まで地に付け、棒立ちの状態で突っ立っているライゼルなど、もはや何の障害でもない。

 それを証明するかのように、いとも容易くライゼルの懐に潜り込むルーガン。ライゼルも辛うじてその動作に合わせて下段から切り上げての不完全な『蒲公英』で迎撃するが、ルーガンはそれすらも左半身を前に向けた姿で躱し、同時に次の攻撃の予備動作を完成させる。

「今度は右かっ」

 回避動作と同時に完了していた予備動作。右腕を大きく後方へ引きながら上半身は右後方へ捻り、右足で踏み切った下半身は、左足を大きく前へ振り出した状態で宙に浮いている。

 観客達は知っている。それは、その試合がルーガンの圧勝で幕引く時の合図だと。やや、血気逸った観客の一人が先走って、突然大声で叫ぶ。

「勝った! 十連勝達成に賭けてよかったぜー!」

 その絶叫が呼び水となって、ルーガンの勝利に賭けていた観客達は、地鳴りのようにどよめき出す。決着の宣言は出されていないにも拘らず、割れんばかりの歓声が会場中に響き渡る。

 この場にいる誰もが試合の決着を予感した。必殺の構えを取ったルーガン自身も、それを初めて見るレンデも。

 ただ、数百人いる会場の中で、例外がたった二人。ライゼルの意図に気付いたベニューと、狙い通りにルーガンを誘い出せたライゼル。

「はあぁぁぁあああーーーッ!」

 完全に観客はルーガンの一気呵成に心を掴まれている。中空でそのとどめの一撃を放たんとする男の勇姿に、皆が目を奪われている。

 それも一因にあったかもしれない。周囲の大歓声が遮った所為でルーガンの耳には、ライゼルの勝利宣言が届かない。

「もしかしたらズルかもだけど、それでも俺の勝ちだ」

 不敵な笑みを見せるライゼルは、ルーガンの【牙】がその顔面を捉える寸前に、振り上げた自身の広刃剣を引き戻し、胸の前に立てて構えてみせる。

 この防御が間に合った事は、ルーガンとしても予想外だったが、対処できない程の事ではない。防御の上から殴り付け、剣ごと吹き飛ばすのみだ。

 それを実行すべく、体重を乗せた拳でライゼルの【牙】を殴り付けるルーガン。ライゼルも間一髪で直撃は免れたが、剣に衝撃が走った瞬間、ライゼルの【牙】は形を失い、霧散する。先程まではライゼルの前面部を隠していた広刃剣が消失し、ルーガンの視点からはライゼルの全身がようやく曝け出された事になる。拳を遮る障害を排除した事は、ルーガンにとって勝負を決める大きな要素だ。

「これで二発!」

 本来であれば、ライゼルの【牙】が消失したこの時点で試合は決着しているはずだが、皆が試合の熱気に当てられ、魅入ってしまっている。皆が望む決着とは、どちらかが派手に討ち取られる瞬間の事だ。【牙】がなくなったのでそこまで、とは行かないようだ。少なくとも、十連勝の節目、加えてフロルの忘れ形見の試合がこんな形で決着するのを、観客達は望んでいない。

 【牙】を犠牲にする事で辛うじて逃げ延びたライゼルも、剣を攻撃と体の間に挟むのに間に合っただけで、姿勢を整えるには至っていない。衝撃に押され、数歩よろけるように後退する。

 ルーガンもライゼルとの決着を、【牙】消失という形で迎えるつもりはない。自らの信念に真っ向から異を唱える少年。この相手を実力で打ち倒す事に、ルーガンは価値を見出している。

 ライゼルを倒すなら、宣言通りに三発目を打ち込んでから沈めたい。二発目は剣に威力を半減されたが、それでも一発目の衝撃はライゼルを回避不能に追い込んでいる。もう一発あれば、十分に戦闘不能に追い込める。

「約束通りの三発目ばい。覚悟して喰らいなっせ!」

 そして、その三発目が勝負を決めんとライゼルに向けて打ち込まれる。

「聞こえなかったのかよ、もう俺の勝ちが決まってんだぞ」

 ライゼルが後方へよろけた事で少し距離が空いていたが、攻撃直後に容易く着地してみせていたルーガンは、すぐさま追い打ちを掛ける為に急接近していた。

 もうライゼルには自身を庇う【牙】はない。加えて二発目を喰らった直後なので立て直す事もままならない状況。この間も浴びせ続けられる歓声が、ルーガンに勝利を確信させる。

 十連勝はもはや状況に過ぎない。このライゼルという最後の障害を排除する事が、ルーガンには何よりも成し遂げたい事だ。気さくで初対面から好印象を抱かせる人物。加えて、恵まれた【牙】を持ちながらも、それを有用に活用しない妬ましい人物。そんな人物が、ルーガンの行いを非だと断じて【牙】を向けてくる。そうなれば、ルーガンが打倒ライゼルに拘り闘志を燃やすのは、至極当然の事であった。自分が信じる道を邁進する為、自分の居場所を守る為、立ちはだかる障害を打ち倒す。

「これで終いばい!」

 どう足掻いても、防御も回避も意味をなさない。この間合い、現在のライゼルの状態では、どちらを選択しても最後の一撃を喰らって、沈むのが必定―――そうなるはずだった。

「―――なんで、そこに【牙】があると…?」

 ルーガンの最後の一撃はライゼルの眼前で静止し、未遂に終わる。何故、この戦況が覆されているのか、当のルーガンは全く見当が付かない。

「俺がズルしたからだよ。真っ当に戦ってたら、勝てなかっただろうけど」

 ルーガンがライゼルを下す事で決着すると誰もが思ったが、実際には再度現界したライゼルの広刃剣の柄による、ルーガンの腹部へ殴打が見舞われていた。

「歯痒いかね」

 予想だにしなかった反撃に、悔しさに満ちた表情で崩れ落ちるルーガン。倒れ込むと同時に、ルーガンの拳からは【牙】が消失し、傷一つない綺麗な素手を晒している。

「俺だって『蒲公英』を使えないくらいに追い込まれたんだ。せっかくの舞台で使わせてもらえなかったこっちが悔しい想いさせられたよ」

 ライゼルにとって『蒲公英』は家族の絆の力だ。余所様の事情に首を突っ込んだ責任として、自らの家族を象徴する『花吹雪』や『蒲公英』で引導を渡したかったが、そんな事に拘っている余裕はルーガン相手にはなかった。

 満身創痍のルーガン相手に、まともに戦えなかったライゼル。もしルーガンが万全だったならば、この逆転劇さえ許してもらえなかった可能性が濃厚だ。オライザ二強のエクウスやベナードにも引けを取らないライゼルすら圧倒してしまえる素養を、この傷だらけの男ルーガンは有していたというのだ。そんなルーガンにごく潰しと自称されては、【牙】を最大の頼みとしているライゼルの方がよっぽど立つ瀬がない。

 とはいえ、結果的に劣勢を覆し、勝利を収めたのはライゼルだ。終盤に掛けて余りにも目まぐるしく変化する状況、そして最後の土壇場になってひっくり返された勝負に、観客は思考が追い付かないが。

「なんでルーガンがおっ倒れてるんだよ?」

「今のはどうなってやがんだ!?」

「小僧の【牙】が消えて、ルーガンがとどめを刺したんじゃないのか?」

「でも、男の子の手には【牙】が確かにあるわ」

「ルーガンの【牙】はないぞ。それにもう起き上がろうとしない」

「という事は、つまり…」

 ようやく皆も状況が呑み込めてきた。途中不可解な現象を目の当たりにしたが、舞台上を見れば結果は一目瞭然。ライゼルが【牙】を保有したまま逃げ延び、ルーガンが【牙】を消失させているのだ。

「おいおいおい、誰がこんな結果を予想できたー?! ルーガンの十連勝を阻止し、勝ち遂せたのは、飛び入りの少年牙使い、ダンデリオン染めフロルの秘蔵っ子ライゼル・フィオーレだぁッ!」

 劇的な逆転勝利を収め、勝利の宣告を受け、大きく拳を天に突き上げるライゼル。

 もし審判がベニューであったなら、ライゼルの【牙】消失の時点で、試合を終わらせていただろう。本来の規則に従い、適正に決着を付けていたはずだ。

 だが、今回は矢継ぎ早に行われる攻防に司会役含め周囲の人間の目が追い付いていなかった。加えて、見世物としての色合いが多分に強かった為に、わざと決着を先延ばしにした事も原因にあるだろう。その結果、ライゼルの違反行為は周囲に認知されず、ライゼルの勝利という結果に導いた。そもそも、【牙】を連続生成できるなど誰も想像できないので、ライゼルの【牙】が実際に消えたのではなく、視界から見えなくなっていたという認識に自然と脳内で書き換わっている。皮肉な事にライゼルの不正行為を疑う者は、ウォメイナ教が根強く信奉されているこのアバンドには誰一人としていないのだ。そんな芸当は、敬虔な信者にとって夢物語でしかないのだから。

 いや、そもそもそんな些事に誰も拘っていない。それよりも、この結果が俄かに受け入れられないのだ。予想だにしなかった、飛び入り参加の少年による十連勝の阻止に、観客達は言葉を失ってしまっていた。

「終わった、の…?」

 同じく呆然と立ち尽くしていたレンデを余所に、勝鬨を上げる勝者ライゼル。

「よっしゃぁぁあああ!」

 両腕を天高く突き上げ、胸を反らした後、続けて大きく息を吸い込み、

「これでっ、話を聞く気になったかーーー!」

 皆が俄かに結果を受け入れられない状況だというのに、突然その風雲児が声を張り上げるものだから、余計に困惑するばかりだ。

 そんな反応を余所にライゼルは更にこう続ける。

「お金を稼ぐ事がそんなに大事か? 家族よりも大事なものかよ? レンデに散々心配かけてる癖に、何が犠牲になっとらんばい、だ。恰好ついてないんだよ!」

「ライ…」

 一方的に罵倒を浴びせ、ルーガンに言い返す暇も与えないライゼルは、更にこう続ける。

「一人で背負い込むなよ。そんな独り善がりの頑張り方じゃ、心配するに決まってるだろ、だって家族なんだぞ!」

 あまりにも無遠慮に投げかけられる言葉の連続に、流石のルーガンも黙っていられない。

「言ったばい。こうするしか方法はなかったって」

「あるだろ。実際、こうやって当面の生活費は確保できたんだから」

 ライゼルはそう言いながら、舞台からよろよろと降りると、この試合の賞金とライゼルが担保にした五十万レクトを役員から強引に奪い取る。そして、それを抱えたまま再度舞台上に上がり、座り込んでいるルーガンの前にドサッと落とす。

「これだけあれば、ルーガンの家族の二か月分の食費にはなるだろ?」

「どういうつもりね?」

「俺が勝ち取った賞金と担保を、ルーガンに貸したげるって言ってるんだ」

「それを受け取る理由が、ルーにはなかばい」

 安い矜持で拒否しているのではない。通りすがりのライゼルに、そこまでの負担を負ってもらう理由がないのだ。役人に同伴し、王都へ赴く田舎町の姉弟というのは、何か余程の理由があるのだろう。そんな自分達と変わらぬ程度の訳ありの子どもから恵んでもらうなど、気が引けて仕方がない。

「じゃあ、その代わりに俺と約束してよ。もう喧嘩賭博には出ないって。レンデを悲しませたりしないって」

「それはレンデが言いよったと?」

 先程からライゼルはやたらとレンデの名前を繰り返していると、ルーガンは気になっていた。自分を打ち負かす程のライゼルの信念は、どうやらレンデに起因していると察するルーガン。試合中も、何かと家族を引き合いに出して、ルーガンを責めていた。

「ううん。レンデは言えなかったって。お金の事もあったけど、家族の為に頑張るルーガンも応援したいからって」

「そうばい、約束したったい。負けないでって、出るんだったら強くなってって」

 レンデの言葉は、ルーガンにとって決して軽んじる事の出来ないものだった。不確かで不鮮明な自分探しに付き添ってくれたレンデの存在は、ルーガンにとっての最も大きな心の支えだった。甲斐性無しな自分を、初めて頼りにしてくれた女の子。ルーガンを男にしてくれた女の子。そんな存在から預けられた期待を裏切る事など、ルーガンには到底出来なかった。

「それは…」

 ライゼルの否定の言葉を遮って、少女の陳謝が会場中にこだまする。

「ルーガン、ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃないの。試すような言い方してごめんなさい」

 珍しく会場に訪れているレンデの存在にも驚いたが、突然の告白にはルーガンも更に困惑を隠しきれない。

「レンデおったと? それに、試すってどういう事か分からんばい?」

「もう闘わなくていいよ。ううん、もう自分ばかり傷付けるのはやめて」

「レンデ、外野が勝手に言いよる事なら気にせんでよかよ。ルーはこれくらいどうって事なかけん。今日は負けたばってんが、まだ明日からも候補には残るし」

 レンデに心配を掛けまいと強がってみせるが、それを見透かしているレンデは小さくかぶりを振る。

「違うの。もうルーガンは一人で闘わなくていいの。私が、私が覚悟を決めたから」

 そう宣言するレンデの瞳は真っ直ぐにルーガンに向けられている。ルーガンもその眼差しが持つ意図を酌もうと、舞台端まで這いずり寄る。

「覚悟って何のことね?」

 ルーガンにとって、今日は何から何までおかしな事ばかりだ。突然対戦相手が変更されるわ、その相手は先日手合わせした少年だわ、その飛び入り参加の少年に十連勝を阻止された挙句、初めて試合を観戦に来たレンデからは何やら重要な事を告げられようとしている。彼女の真剣な面持ちを前にして、思わず固唾を飲むルーガン。

 そして、意を決したレンデは、大きな声でこう宣言する。

「私、あの子達のお母さんになる!」

 それは、もしかしたら、まだ考えが足りないと一蹴されかねない一言だったかもしれない。

 レンデが告げたのは、これまでの庇護される立場でなく、ルーガンと共にあの子ども達を養うという決意。子どもと言っても、中にはレンデと然程年の変わらぬ子だっている。加えて、彼らは皆望まぬ形で家族を失っており、言い換えれば彼らの元々の両親も、放したくはなかったが教義故に手放さざるを得なかったはずだ。それを差し置いて、母親を名乗るというのは、余りにもおこがましい行為なのかもしれない。

 だが、レンデが伝えたかったのは覚悟の話だ。ルーガンに連れ添っているだけの少女でなく、大人の女性として家族の為に力になりたいと思ったのだ。それは十年前、ベニューがライゼルの事を思って働き始めた時、ベニューも似たような事を思ったに違いない。家族に対して愛情のみならず、責任を持つ事もまた必要なのだとそう悟ったのだ。

 決めたからと言って何かが劇的に変わった訳でもない。現状、レンデは手に職を持たぬ少女に違いないし、どこか働き口に当てがある訳でもない。子ども達の母親代わりとなり、養おうと思っても、今のレンデでは一銭も稼ぐ事は出来やしないだろう。ライゼルのように畑仕事が出来る訳でも、ベニューのように染物が作れる訳でも、ビアンのように国家に使えている訳でもない、ただの子どもでしかないレンデ。

 だが。それでも。それでもレンデは変わろうと思い、その一歩を踏み出した。きっかけをくれたライゼルの前で、何よりも他ならぬずっと傍で見守ってくれた最愛のルーガンの前で、決意表明を果たしたのだ。

「母親てね。ルーでもそれは言いきらんかったばい」

「…ダメ、かしら?」

 突然の告白だったが、ルーガンは脱力して力なく笑う。それがどういう心境を表しているのか分からず、僅かに不安になるレンデ。

「何ば言いよっとね。これまでだってレンデはみんなば見守ってきたじゃなかね。レンデならみんなから好かれるお母さんになるばい」

 それはルーガンからの、最大級の信頼の証。ルーガンもまさか自分一人でここまで生活できたなんて思っていない。レンデの支えがあったからこそ、自分は喧嘩賭博において結果を出せたと思っている。

 ルーガンからのお墨付きをもらえたレンデは、最後にこの一言をルーガンに突き付ける。

「じゃあ、ルーガンが…あなたが、みんなのお父さんになってあげて?」

 レンデが精一杯の勇気を振り絞って伝えたこのお願い。意味合いとしては婚姻の申し入れと解釈しても差し支えない物だったろう。

「父親? ルーが、あの子達の?」

 何から何まで予想だにしない事ばかりで圧倒されるばかりのルーガン。そんな彼に、ライゼルは野暮もここに極まれりと言った調子で返答を促す。

「ねぇ、ルーガン。これはレンデの我侭かな?」

「甲斐性無しの男が、やっぱり甲斐性見せ切らんかったけん言わせてしまった、お願いばい…」

「多分、レンデがようやく言えた事なんだよ。だから、ちゃんと聞いてあげて?」

 ライゼルの後押しが無かろうと、ルーガンはレンデに対しこう答えていただろう事は想像に難くない。

「レンデ、こぎゃん頼りなか僕に付いてきてくれてありがとう。これからも世話掛けると思うばってんが、ずっと一緒におってくれるね?」

 ルーガンからの申し入れに、レンデは溢れる涙を堪える事が出来ない。幼い頃に憧れた人から認めてもらえた事、そして何よりも、ずっと抱いていた気持ちに応えてもらった事が、レンデを感極まらせるのだ。

「はい。よろしく、おねがいします…」

 陣を仕切る棒の隙間から、涙ながらに頷くレンデを優しく抱き寄せるルーガン。自分の為に大きな決心をし、自分の言葉に心から涙する少女を前にして、ルーガンは誰に向けるでもなくバツの悪そうに独り言ちる。

「僕は、本当に何もできない男っちゃね。こんなに近くにおって気付かんとだけん」

 それを受け、傍らにいたライゼルは、ルーガンを擁護する。

「ルーガンがそれだけ一生懸命だったって証拠だよ。ルーガンがこれまで家族を守ってくれてなきゃ、俺は知らないまま通り過ごしていたし」

「…あのたい、ライゼルがさっきから言いよるそれは何ね?」

「どれ?」

 ルーガンには、ライゼルが語るレンデの気持ちという事柄とは別に、もう一つ気になる事があった。ルーガン達の事情を知っていたとはいえ、玄関先でも金銭を融通すると言っていたあれは、何の理由があっての事だったのだろう。

「ライゼルがルー達を助けるのが当然みたいな言い方に聞こえるとばってんが?」

 そうルーガンが問うと、衒う事なく真面目な様子でライゼルは答える。

「だって、俺はみんなの笑顔を守るのが夢だから」

「みんなっていうのは、み~んなね?」

「そうだよ。王国中にいるみんなだよ」

 この言葉には、ルーガンも自分との器の違いを思い知らされる。家族の事で手一杯だった自分とは異なり、ライゼルは王国中の皆の事を案じているというのだ。昨今の異国民の事件が関係しているんだろうか。それはさておき、とてもじゃないがルーガンはそんな規模で物事を考えた事はない。だが、実際に通りすがりにルーガン達の為にと行動してくれたライゼルの姿勢に嘘偽りはない。

「わかったばい、他の方法を考えるけん。それに、借りた恩は絶対に返すばい」

「おう、楽しみに待ってる」

 ライゼルとルーガンが和解した頃合いで、主催者の男が壇上へ上ってくる。

「ちょっとちょっと。勝手に盛り上がってるところ悪いんだけどさぁ。次の試合を組みたいから、ライゼル君、また参加してくれない? もちろん今度は担保なんていらないからさぁ」

 ライゼルの出場に際してそれ程好意的でなかったはずの主催者が、今度は次回の参戦の交渉にやってきた。

「なんで?」

「君みたいな看板選手を探してたんだよ。ここだけの話、教会の指図を受けてたら、あんまりお金にならないんだよ。私と組んだら、絶対に損はさせないよぉ?」

 含みのある勧誘を仕掛ける主催者だったが、ライゼルはあまり興味を示していない。

「遠慮しとくよ。今回はルーガンが心配で出たのが理由だし。強い奴と戦ってみたいけど、一番はそれじゃないし」

「一番って何だい?」

 問われ、ライゼルは自信たっぷりに返答してみせる。自らの野望を語るのに怖じるライゼルではない。

「おう、俺はまだまだ外の事を知らない。だから、これからもいろんな所に行って、いろんなことを知らなくちゃ。そうでなきゃ、みんなを守れない」

「何言ってんの、君?」

 説明不足の宣言に主催者が呆気に取られていると観衆の中から声を上げる者がいた。、

「いいや、よく言ったライゼル。お前はそんなつまらん客寄せの置物に収まる器じゃない」

「ビアン」

 主催者の言葉を遮り、ライゼルを称賛したのは、会議に出ていたはずのビアンだった。

「あれ程、大人しくしておけと念押ししていたはずなのに、何故かお前の名前を役人の噂から耳にしてな」

 ビアンは何人かの会議出席者を引き連れ、市民達が開けた道を通り、ライゼルが立つ舞台の傍までやってくる。その一団には、一行が厄介になっているアバンド役人の姿もあったし、見覚えのある顔がちらほら見受けられる。

「俺って有名になってた?」

 取り上げられる話題が母フロルばかりで、自分は注目されていないんじゃないかと密かに心配していたライゼルは、少しその評判にも関心があった。

「この結果が広く知られれば、余計にな。ただ、あれだ、もう今日は【牙】を出せないとなると、早くアードゥル編隊に帯同した方がいいだろうな」

 ビアンは先の試合を見届けており、ライゼルが『二度』の使用制限を迎えている事を承知している。もし、この状況を異国民に付け込まれようものなら、明確に敵視されているライゼルは反撃する術もなく窮地に立たされる。本格的に警護してもらう必要に迫られているのだ。

「アードゥル編隊? 帯同? どういう事?」

 ただ、ビアンは『保護してもらう』ではなく、『帯同する』と言った。これだとフィオーレに帰るのとは違う向きの意味に捉えかねないのだが。

 ライゼルが小首を傾げていると、それを察したビアンが説明を加える。

「お前にも捜査協力が要請されたんだ。これまでの異国民との戦闘経験を買われたのもあるが、決め手は先の一戦だな」

 隣にいるアバンドの役人が、頷きを以て同意する。

「見せてもらったぞ、その実力。いや、我々だけではない、各地の首長もご覧になられた」

 気付けば、そこには見知った顔の青年もいる。青み掛かった髪色の、少し大きな耳の温厚そうな顔立ちの青年。ライゼルとは顔見知りの人物だ。

「ずっと鍛錬は継続しているようだね、ライゼル」

「リュカ!? どうしてここに?」

 思い掛けないリュカとの再会に、歓喜交じりの声を上げるライゼル。

「ライゼル達が出発した日に、代表襲名が行われてね。その変更届にアバンドへ来ていたら、何やら会議があるらしく、そのままビアン殿と同席したという次第だよ」

 先代頭領ゾアから家督を譲られ、オライザの代表となったリュカは、統括支所であるここへその報告に訪れていた。その際、出席を乞われ、会議へ参加しビアンと同席していたのだという。

「そうなんだ」

 ライゼルがリュカとの再会を喜んだように、リュカも密かに嬉しかったりする。自らに道を示した少年は、別の地でもその姿勢を貫いている。その事が、リュカに気を引き締めさせるのだ。

「君の勇姿を見るのは、これで二度目だ。相も変わらず胸の熱くなる戦いぶりだったよ」

「へへっ、あの時よりもっともっと強くなったから、今度はエクウスやベナードにも負けないぞ」

 あのライゼルとの試合以来、それまでに増して技を磨くようになったと伝えてしまうと、次の話題に移れないと悟ったリュカは、それ以上は余計な言葉を継がない。

「そのようだね。時に、ルーガン殿」

 ライゼルとの話の途中で、唐突に対戦相手であったルーガンに水を向けるリュカ。

「若い地方の首長様が、ルーに何の用ね?」

 先の試合を見ていたリュカは、ライゼルの相も変らぬ奮戦に興奮したが、それと同程度にルーガンの戦いぶりにも目を見張った。時代が違えば、例えば戦時中であれば英雄になれたかもしれない、と思うのはやや不謹慎かもしれないが。父ゾアが見ていれば当時のオノスを彷彿とさせていたであろうルーガンの勇壮振りに、歴戦の英傑達の輝かしい功績を知るリュカでさえ驚かされたのもまた事実である。

 そんなルーガンに対し、とある申し入れをするリュカ。

「私はオライザの新代表リュカ・オライザと申します。突然ではありますが、ルーガン殿の力を見込んで、お願いがあります。我々、オライザ組は近々アバンド周辺の施設改修に着工します。その際に、あなたの力がお借りできればと考えていますが、如何でしょう?」

「ルーば雇うって言うと?」

「もちろん【牙】を行使しての作業となれば、十分な保障も致します。オライザ組の職人同様、作業配分は私が管理します。是非アバンドの為に、ご助力願いたいのです」

「ばってん、その稼ぎじゃ子ども達を食わせてやれんばい」

 そう気落ちするルーガンだったが、遠くの方からルーガンを呼ぶ大勢の子どもの声がする。

 そちらを見やると、ルーガンの家の子ども達全員が、大挙して広場に押し掛けていたのだ。

「ねぇ、ルー、レンデ。僕達の星脈、元気になったよ」

 これまで頑として昼間の在宅を徹底していた子ども達がやってきた事も信じがたかったが、それ以上に彼らが口々に告げるその内容もやはりルーガンには信じがたい事だった。

「何ば言いよると?」

 これは真っ当な感覚による反応だが、子ども達はそれでも冗談だとは言い直さない。飽くまで真実なのだと主張する子ども達。

「本当だよ。体の調子がすごくいいんだ。僕だけじゃないよ、みんなも」

「どういう事?」

 突然現れた孤児達に驚いた以上に、星脈不全が回復したと話す彼らの言動に余計驚かされてしまうルーガンとレンデ。

 その言葉を真に受けた訳ではないが、大挙してきた孤児達によるこの騒動を鎮めるには、検査するのが手っ取り早いと判断したアバンドの役人。携行していた輝星石の粉塵を取り出し、孤児の一人の腕に掛ける。

「少し診せてもらうぞ」

 粉を掛けしばらく様子を見ていると、他の市民と比べ遜色ない程度には星脈が輝きを取り戻している。星脈不全とはこれまで長きに渡って不治の病とされてきた障害だ。孤児達から身分証を奪ったその日、間違いなく教会は彼らの星脈不全を確認したというのに。前代未聞の出来事に、役人はじめウォメイナ教信者は皆絶句する。

「何故だ、一度は失われたはずの光が、元に戻っているだと?」

 俄かに信じがたい出来事が目の前で起こり、アバンド役人は平素の冷静さを欠いている。動揺しながらも、続けて他の子ども達にも同様の検査を実施すると、先の子と同じく星脈の輝きを取り戻している。

「これは救世主ノイがもたらした奇跡か、それとも教えに背く凶兆なのか…?」

 もしこれが何らかの予兆なのだとしたら、と思うと、気が気でないアバンド役人。

「教会の審査を待たないと何とも言えないが、驚いたな」

 と言いつつ、確かに不思議な現象だが、それに近い稀有な現象を、ビアンは何度も目撃している。それは全て異国民に関する出来事であった。もし今回の件に異国民が関連していたとなると、それは見逃せない事態だ。

 俄かに歓喜する孤児達に向け、ビアンは問い掛ける。

「誰でもいい、答えてくれ。治ったのはいつだ? その時、誰か傍にいなかったか?」

 ビアンの問いに、数人の子どもがこう答える。

「いたよ、知らない男の人」

「庭で洗濯物を干してたら、声を掛けられた」

「どんな奴だった? 何と言われたんだ」

 ビアンのやや急かすような口調の問いに、レンデに次いで年長者であろう11、12歳くらいの少年少女が答える。

「外套の頭巾を被ってたから顔は見えなかったけど、男の人の声だった」

「『君達の穢れを不才(ふさい)が預かろう』って言って、みんなの手を擦っていったの」

「そうすると、治ったという訳か。情報が少なすぎてどうも判断が付かないが」

 情報量としては圧倒的に不足しているが、子どもが見聞きしたものをどれ程信用してもいいか分からない。参考程度に留めておくのが賢明だろう。

「それで、今そいつはどこにいる?」

「さぁ? 気付いたら、いなくなってたよ」

「まぁ、そうだろうな」

 今回の場合、被害らしい被害がなかった為に、その者を不届き者として捜索する事は出来ないが、一層輪無しの出入りの制限を強化してもらう必要がありそうだ、とビアンは考える。【翼】で自由に空中を行き来できる異国民に対し、どれ程効果があるかは分からないが、注意喚起をしておくに越した事はないだろう。

 子ども達の証言を踏まえ、ベニューは自身の推測をビアンに伝える。

「異国民の仕業でしょうか?」

「不思議現象だと、そう考えたくなるよなぁ。穢れを預かるか、一体どんな狙いがあって治療なんてしたんだ?」

 その人物が異国民かどうかは定かではないが、疑わしき者が近辺に滞在しているらしい事を知れただけでも、前進には違いない。以前、ミールでの無銭飲食事件の際も、酒を飲んで怪我や病気が治るという不思議な事が起きていた。その件も、今回の件と関連があるかもしれない。今後も調査が必要だ。

 一方、ライゼルは先の話で分からなかった点がある。

「ねぇ、ビアン。『不才』って何?」

「不才とは自らの能力を遜って使う一人称だ」

 自らの素養をひけらかさず、謙遜して用いる一人称。これまで遭遇してきたどの異国民にも似つかわしくない、謙虚な態度。

「じゃあその人は、その不思議な能力を大した事ないって思ってるのか」

「自己評価なんて知らん。そいつが何者で何をしようと企んでいるかが重要なんだよ。まぁ、手掛かり程度にはなるか」

 元々、異国民移管する情報を得る為にアバンドに立ち寄っていたので、結果的には無駄足ではなかったのかもしれない。

「さっそく新しい情報を得られたね」

「喜ばしい事かどうかは定かではないがな。それはともかく、ルーガン氏を取り巻く諸事情は解決の方向へ向かってるみたいだが?」

 様々な要素が絡んでいる所為で話の本筋を見失いかけたが、ライゼルがお節介を焼いたルーガンに関する諸問題はほぼ解消された形となった。

「ルーの知らんところで何が起こりよるか分からんばってん。誰に感謝していいやら」

 自分の与り知らぬ所で様々な事が起こり、置いていかれている気分のルーガン。だが、彼が望んだ以上の結果が現実となっている事には、喜びを隠せないのも事実だった。

「ルーガンが頑張ったからだろ。もっと胸を張れよ」

「ありがとう、ライゼルも首長さんも、みんなありがとう」

 レンデが皆にお礼を言っている間に、ベニューには素朴な疑問が首を擡げていた。

「もし、本当に治っていたとしたら、その後この子達はどうなるんですか?」

 その言葉を耳にした誰もが思い至る。元々は身分証を没収された為に、家族から引き離されたのだ。仮に身分証を再発行されたとして、その後は? 再び元の家族がいる故郷へ帰ってしまうのだろうか?

 当事者である子ども達も複雑な心境である。元の家に帰れるとしても、ここで出来た新しい家族とは離れ離れになってしまうのだから。絆が生まれた、友情を育んだ、苦楽を共にした、この家族達に別れを告げなければならないのだから、手放しには喜べないのだ。

 そんな彼らに真っ先に声を掛けたのは、他の誰でもないルーガンだった。

「喜ばんね、家族のところに帰られるとばい。待ってる人達がおるとだけん、そこに帰るのが本当ばい」

 そこには、子ども達の大好きなルーガンの優しい笑顔がある。不器用ながらも彼らを守り続けた、家族の大黒柱の温かい言葉が、子ども達に向けられる。

「ルーガン」

 改めてその優しさに触れ、子ども達には込み上げて来るものがあった。

「ルーはレンデとずっとこの町におるけん、いつでん遊びに来なっせ」

「うん、大人になったらアバンドで働きたい。ぼく、学校でいっぱい勉強する」

 いつか彼らが成長し、この町に戻ってくる事が、ルーガンに対する親孝行なのだと子ども達はそう信じている。

「何言ってるの。まだしばらくは再検査や手続きでこの町にいるはずよ。全て終えて家を出るまでは、このレンデお母さんがビシバシ躾けていくからね、覚悟しなさい」

「レンデおかあさん?」

「ねぇ、ルー。レンデが変なこと言ってるよ?」

「変じゃなかとばい。それにルーもお前達のお父さんになったとだけん」

「「「なにそれ!?」」」

 概ねの不具合を解消したルーガン達を見てふと力が抜けたライゼルだったが、どうしても気になる事が一つあり、ビアンに尋ねる。

「ねぇ、ビアン」

「どうした?」

「星脈が治って良かったって思うよ? でも、ただそれだけでこんなに違うもんなのかな?」

「何が言いたい?」

 言葉足らずなライゼルの所為で、意図する所を図り損ねるビアン。

 ライゼルは更に言葉を尽くして自らの疑問をぶつける。

「さっきのこの子達と何が違うの? 俺には一緒に見えるよ。それなのに、穢れてるとか穢れてないとか。それって周りが勝手にそう決めつけてるだけじゃないの?」

 ライゼルから見れば、ただ輝星石の粉塵が反応したかしなかったかだけの話、言い換えれば、光ったかどうかしか変化していないと思うのだ。本質的には何も変わっておらず、周囲の態度だけが変わったようにしか見えないのだ。そこにいる少年少女達は、昨日ライゼル達に興味を以て接してきた彼らと何ら変わり映えしないというのに、役人達は地度を軟化させた。もちろん喜ばしい事ではあるが、釈然としない。

 ライゼルの感覚のずれを認識しているビアンは、諭すように説明する。

「周りの人間も気分で言ってるんじゃない。ちゃんとした根拠に基づいて選定している。それが法であり、指針だ。お前の場合、理解するにはもうしばらく時間が必要だろうが」

「そうなんだ。そうなのかな?」

 自分の無知を心得ているが故に、感覚のみでの反駁をこれ以上は止しておくライゼル。ビアンは根拠があると言った。それを理解しない内は、ライゼルが見当違いな物言いをしている可能性の方が高い。より多くの事を知らなければならない、密かにライゼルはそう強く意識するようになっていた。

「さて、ライゼルの世話焼きごっこも片付いたようだし、出発の段取りでも組むか」

 ビアンがそう安堵した様子で溢した途端、突然、どこからともなく悲鳴が上がる。女性の甲高い悲鳴、男性の戸惑う声、それが周囲に伝播し、広場の皆の視線が上空に向けられる。

 皆の視線の先にいたのは、背に【翼】を有した異国民の男二人、一人は不愛想な表情の巨躯の大男、一人は仮面で素顔を隠した赤髪の男。そのどちらもライゼル一行には見覚えがある。怪力の巨漢ルクと仮面の男リカートだ。

「ビアン殿、もしかしてあれが…?」

「あぁ、【翼】を持つ異国民だ。巨漢と仮面男、どちらとも厄介な実力者だ」

 その姿を目にしたライゼルは、条件反射的に食い掛かる。

「ルクにリカート、オノスのじいちゃんはどこにいる?」

 一緒くたに纏めて異国民に敵対心を向けるライゼル。それを受け、二人の異国民も中空よりライゼルに、冷ややかな視線と我が身による影を落とす。

「下郎に話す訳がなかろう。またも牙使いを奴隷の身に乏しめ、仕合わせ興じるとは。やはり貴様を生かしておくべきではなかったな」

「努々、忘れるなと忠告したはずだぞ。その名の重みを知れと」

 二人揃って以前の因縁を持ち出し、ライゼルに対し敵意を向けている。周囲の市民達は、試合が決して以降、目まぐるしく変化する状況に何が何だか。もう理解が追い付かない。

 そんな中でも、当事者としての自覚を持っているビアンは、思わず舌打ちしそうになる。異国民に対する部隊の編成が間に合っていない事もそうだが、何よりも文句を言いたいのは、【翼】を有する異国民が当然のように連れ立っているこの現状に、だ。 

「まさか、奴らは本当に協力関係にあったのか」

「『[[rb:有資格者 > ギフテッド]]』と称するあの人達は、同じ意図を以って行動しているって事ですか?」

 異国民の姿を確認し、ライゼルとビアンの傍に駆けつけていたベニューは、この現状を加味してビアンへそう問い掛けた。

「どうだかな。少なくとも、テペキオンとクーチカはそうは見えなかったが」

 ついその可能性を否定したくなるのは、この敵戦力を目の前にして無意識の内に現実逃避したくなる為だろうか。

 ただ闊歩するだけでボーネ村に大きな被害を出したルクと、あらゆる物を石榑に変えてしまう異能を持ったリカート。どちらも揃って強敵で、ライゼルはこの二人に対しての必勝法を持ち合わせていない。過去の対戦においても、ルクもリカートも自ら退いた為に、一行は辛くも生き延びている。

「ビアン殿、どうしますか?」

 偶然居合わせる事になったリュカではあるが、彼もまた牙使いである。有事の際は、人を導く立場として、その力を振るう覚悟がある。

 異国民との会敵に一日の長があるビアンは、心構えを説き、行動方針を告げる。

「聴取も交渉も不可能と思え。実力行使に出たいところだが、奴らの実力は会議で伝えた通りだ。怪力と石化、今ここでその力を振るわれたら負傷者どころか死人が出る」

 広場にはまだ大勢の人間が残っている。ここで戦闘行為に発展すれば、被害が出るのは火を見るより明らかだ。

 非常事態と判断したアバンド役人は、市民に対し避難を促す。

「外敵の襲来を確認。ただちに市外へ避難されたし。繰り返す―――」

 喧嘩賭博を監視していたアードゥル隊員達も市民の誘導を率先する。有事の際の手際は流石のものだ。

「烽火を上げろ。伝達役は周辺警護に当たっている者に連絡せっ。外門を全て開放させろ」

 アバンド役人の迅速な指示があり、事態が呑み込めない一般市民も避難を開始する。

 そして、逃げ惑う民には目もくれず、ただ真っ直ぐにライゼルを見下ろすルクとリカート。

 騒がしい周囲とは対照的に、ルクは落ち着いた調子で口を開く。

「アルゲバル、いや貴様自身はライゼルと名乗っていたか」

「ようやくちゃんと覚えたか。俺もお前がボーネでしでかしたこと忘れてないぞ」

 ライゼルがルクに指をさし咎めると、隣のリカートが代わりに応える。

「それはこちらの台詞だ、下郎。卑しい行いばかりに手を尽くす外道めが。そこの牙使いも貴様が嬲ったのだろう?」

 リカートが指し示す先に、舞台を降りて、レンデに支えられているルーガンがいる。ライゼルは思わず、自分の事を棚に上げてルーガンを叱る。

「ルーガン、レンデ、なんでまだここにいるんだよ? 早く逃げなきゃ」

 ルーガン達に避難を急かし庇おうとするライゼルだったが、後ろから首根っこをアバンド役人に掴まれ、引き下げられる。

「少年、それは君にも同じ事が言える。協力を要請したが、君はしばらく【牙】が使えないだろう」

「そうだけど…」

「ここは我々に任せてもらおう。オライザの、一先ずこの姉弟の保護を」

 大人として官吏として姉弟の身の安全を確保する事が優先と、身体を張ろうと勇んで前へ出るアバンド役人。

「私も助太刀します。ビアン殿はライゼル達を連れて逃げてください」

 リュカも一集落の代表として、この町の事を捨て置く事は出来ない。特に、ライゼルの前で情けない姿は、とてもじゃないが晒す事は出来ない。

「すまん、恩に着る」

 すぐさまビアンは他の市民に紛れて、姉弟やルーガン達の家族を連れて、町の外を目指しひた走る。ビアンには自分のすべき事が分かっている。あの異国民の狙いは、他でもないライゼルだ。そのライゼルを安全な場所まで逃がす事が最優先事項なのだ。

 痛む体に鞭打ちながら必死に走るライゼルと、その弟を支えながら伴走するベニュー。降って湧いた緊急事態に失念してしまっていたが、ずっと傍にいたはずの緑髪の少女の姿が見当たらない事にベニューは思い至った。

「そういえば、あの子は?」

「もうとっくに逃げたんだろう。俺達も急ごうベニュー」

 この時、緑髪の少女の姿は広場になく、おそらく既に避難したのだろうと姉弟は考えた。現れた時も突然だったが、いなくなるのも突然な少女だった。

「逃がさん」

 一目散に逃げ出すライゼル達を、ルクは追跡しようと【翼】を躍動させようとする。が、その前には、大槌の【牙】を構えたリュカが立ち塞がる。

「行かせません。ライゼルの夢の邪魔は、僕が許さない」

 追跡を妨害しようとする者の出現に、ルクは隣で浮遊するリカートに、視線を向けずに短く問う。

「どうする?」

「我は地上において、理由は定かではないが、飛行と石化を同時に行使できん。『怪力』の、貴様があの下郎共を追え。我はここで虐げられておる者を解放してゆく」

 立ち塞がろうとするリュカを、ライゼルに与する悪党と認識したリカートは、ふわりと地上に降り立ち、ルクへ追跡を促した。

「物好きな奴だ…いいだろう、ライゼルの追跡は私が行く。他の邪魔者の排除は貴様の領分だ」

「我ら二人で当たる事でもあるまい。時間が惜しい、始めるぞ」


 ルーガン達とは途中で分かれ、詰所の方へ走るベニュー、そして満足に走れないライゼルを背負って走るビアン。

「俺に肉体労働させた事、覚えてろよ異国民共」

 息も絶え絶えに悪態を吐くビアンの背中で、町の出入り口とは違う方向へ逃れている事に、ライゼルは疑問を持つ。

「どうしてこっちへ?」

「向こうは空中を移動できる【翼】を持っているからな。駆動車がなければ、その内追い付かれる」

 【翼】による驚異的な移動速度は、ソトネ林道でのクーチカの飛翔にて確認済みだ。地形を無視しての空中の移動が可能な相手に対し、地を駆けるしかできない自分達では、速度においては到底太刀打ちできない。だが、駆動車を用いれば五分の速さで逃走できるかもしれない。

「そっか、駆動車か」

 ライゼルが納得した所で、ビアンは路地裏の入り口にライゼルを下す。

「お前達は一旦ここで待ってろ」

「ビアンはどうするの?」

 ライゼルの体重から解放され、ようやく楽になったビアンは、両腕や背中を伸ばしながら息を整える。

「お前を背負って走るより、俺が駆動車を取りに行った方が速い」

「なるほど」

「異国民に見つからないよう、物陰に潜んでおけ。俺が呼んだらすぐに出てこい」

「わかりました」

 ビアンはしばらく先の詰所へ急ぎ、姉弟は路地裏の木箱の陰に身を潜める事にした。

 物陰からでは視認できないが、大通りの方ではまだ逃げ遅れている人々の声がする。烽火を見て、誰かから異国民襲来の報を聞き、慌てて家を飛び出したのだろう。

「喧嘩賭博の後じゃなきゃ、俺が闘うのに!」

「さすがに二人も相手にはできないと思うけど」

 息巻くライゼルと宥めるベニュー、そしてその隣には再びあの少女が姿を現していた。

「ライゼル! また会えた♪」

 喜色満面にはしゃいで見せる緑髪の少女。今がどれだけ危険な状況か、全く理解していないようだ。

「ちっこいの? 逃げたんじゃないのか?!」

「ううん、ライゼルどっか行ったから、追いかけてきた」

 平然と言ってのける少女に、大きな影が落ちる。それはここまで追い掛けて来ていたルクによる影だった。

「ライゼルがそこにいるのか?」

 目標である人物を呼ぶ声を聴き、狭い路地裏を覗き込もうとしている巨漢の異国民ルク。

「げぇっ、ルク!?」

 居場所を突き止められ、一気に窮地に追い込まれるライゼルとベニュー。加えて、覗き込む際にルクが手に掛けた家屋の煉瓦が崩れ、姉弟の頭上に降り掛かろうとしている。

「避けろ」

 飛び退く事で間一髪に落下する瓦礫から免れた姉弟と緑髪の少女。慌てて飛んだのがルクの脇を抜けた先の大通りだった為に、袋小路に追い込まれずに済んだ。

 そしてその様子は、駆動車を回収してきたビアンからも確認できている。

「まったく、大人しくできないクソガキがぁ!」

 未だ逃げ惑う大勢の人で溢れる通りを、ビアンの駆動車が全速力で疾走する。突然の強硬手段に周囲の人々は悲鳴交じりに避けていき、そこにはまっすぐ伸びる一筋の道が出来る。その先にはベニューに支えられたライゼルと、それに迫るルクがいる。

「お前達、飛び乗れ!」

 通りに出たライゼル達と再び追い詰めるルクの間を遮るように、駆動車が走り抜ける。急接近したその時を見計らって、後部座席へ飛び乗るライゼル達。先に飛び乗ったライゼルを後から飛び込んだベニューが押し、なんとか強引な乗車に成功する。ルクも想定外の手助けに、またも逃走を許してしまう。他の異国民と比べ、鈍重な動きのルク相手だったからこそ、出来る荒業だったろうが。

「おのれ、ライゼル」

 最高速度のままぐんぐん距離を引き離していく駆動車。幾度か角を曲がった後、後方を振り返る姉弟には、建物が視界を遮っているという事もあり、ルクの姿は確認できない。

「危機一髪だったな」

 一旦の危機を脱し、ビアンは早鐘のように鳴る自身の鼓動を抑えようと深く息を吐く。

 そんな神経をすり減らしたビアンに対し、いつもの調子でライゼルは言ってのける。

「ビアン、戦わないの?」

「誰が、誰と、だ? 今のお前じゃ返り討ちに遭うだけだ」

 ライゼルの発言は余りにも的外れだったにしても、何も【牙】を有しているのはライゼルだけではない。その事実に思い至っているベニューは、弟に代わりに続ける。

「この町には他の喧嘩賭博参加者が待機していました。助力を願えないでしょうか?」

 この開催期間中、各地の力自慢達がこぞって集結しているのだ、その力を当てにしない手はないとベニューは考える。

 だが、その案はアバンドの実情を知ったビアンによって却下される。

「会議に出て分かった事だが、この町の大多数にとって、異国民の事件は対岸の火事なんだよ」

「当事者意識に欠けるという事ですか?」

 例えば門番は、異国民による被害が各地で報告されているにも拘らず、ビアン達が夜分遅くに訪れた事を特に咎める事はしなかった。外敵への警戒意識が薄い証拠だ。

「驚く程にな。どこまで真剣に捉えているか」

 加えて、観客達は目の前で仕合っているにも拘らず、その危険が自らにも及ぶ恐れを考慮していない。教会という存在が、必要以上に彼らに安心感を与えてしまっているのだ。教会のお膝元で法を犯す者などいない、今日気が守ってくれると、そう信じ切ってしまっているのだ。

「観客の皆さんがまさにそうでしたね」

 こればかりは仕方のない事かもしれないと、ビアンもアバンド市民を責める気をなくす。彼らに落ち度がある訳ではない。全ての原因は、突如としてベスティア王国に闖入してきた異国民にあるのだから。その存在さえなければ、アバンド市民はこれまで通りにしているだけで何も問題なかったのだ。

 それを思うと、戦わないという選択肢は、何よりも最善の法だったようにもビアンは思う。

「それに、多くの人間にとって【翼】は未知の存在だ。経験則のない者に異国民と、特にリカートと対峙させるのはあまりにも酷だ。大勢の被害者が出るだろう」

「じゃあ、俺達がルクを引き付ける訳だ」

「本来ならば御免被りたい役回りだが、状況が許してくれないしな。それにしんがりを務めてくれたリュカやアバンド役人達にも顔向けできん」

 幸か不幸か、ルクとリカートという戦力を分断する事が出来た。ただでさえ厄介な『有資格者』なのに、それが二人も揃ったとなると、如何程の戦力になるか。

 リカートの相手を任す事になったリュカやアードゥル隊員達の事も心配だが、これが取り得る中での最善の策だったと今は信じたい。

 結果的にこちらで引き受ける事になったルクは、ライゼルの乗る駆動車を追い掛けんと、【翼】を展開し、後方上空から追跡している。しばらくは姿を見せていなかったが、駆動車がアバンド市街を出て少し進んだところで、町の中から離れていても人だと認識できる巨体が浮かび上がっているのが確認できた。

 こちらからその姿を確認できたという事は、向こうもこの駆動車に気付いているだろう。そう上手くいくとは思っていなかったが、完全に撒く事には失敗したという訳だ。

 唯一の対抗策であるライゼルの【牙】に頼れない現状、逃げの一手しかビアン達には選択肢がない。

「今の所、向こうに飛び道具は確認されてないが、ないとも言い切れん。どこかに身を隠せる所があればいいが」

 潜伏先を検討するビアンに、地図を開いたベニューは、最寄りの集落を提示する。

「鎮護の森はどうでしょう? 一旦は、視界を遮る事が出来ます」

 深い森となっているリエースならば、上空からの追跡を困難にさせる事が出来るかもしれない。一度、姿を隠す事が出来れば、そう簡単に発見には至らないだろう。

 それに、噂ではあそこには誰も住んでいないと言われている。ただ、フロルの師匠である星詠様なる人物が住んでいるとは姉弟の言だ。

「リエースの森か。結局、『星詠様』に関する情報は、アバンドでは何一つ得られなかったが」

 一番近い集落であるアバンドでも、リエースに人が住んでいるという情報は得られなかった。会議の場でもそれとなく聞いてみたが、誰もめぼしい情報を持っていなかった。ビアンが分かったのは、あの土地に関して誰も何も知らないという事くらいだ。

 そんな不確定な情報のみしか持ち合わせていない現状だが。楽観的にもリエース行きを提案する者が約一名。

「行こう♪」

 そのあまりにも無責任な発言に、ビアンは目くじらを立てる。

「おい、ライゼル。そう簡単に言うがな?」

 咎められるライゼルは、自身に非がない事を主張する。

「ねぇ、ビアン。今のは俺じゃないよ?」

 そう弁解するが、ビアンは聞く耳持たない。

「お前だろうがベニューだろうがどっちでも構わん。俺が言いたいのは…」

 危機的状況において、いい加減な事を言うその心持を説教しようとするビアンだったが、ライゼルはそれすらも遮り、主張する。

「いや、ビアン。俺に先に言わせて」

「事は一刻を争うんだぞ。俺の判断で道を決めるぞ」

「そうじゃなくて」

 あまりにもしつこく食い下がるものだから、ビアンはだんだん辟易してくる。

「一体何に拘っているんだ?」

 やや嘆息交じりにそう問いかけると、後部座席の姉弟から衝撃的な事実が告げられる。

「そうじゃなくて、この子が付いてきちゃってるんだよ」

 何故だか。何故かは分からないが、後部座席のライゼルとベニューの間に、六花染めを首に巻き、満面の笑みを浮かべている緑髪の少女がいるのだ。

「ぬぅわぁにぃいいいいいい!」


To be continued…


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