第8話
ある一人の男が、土砂の中に閉じ込められている。数十分前に起きた地震に因って、男がいる鉱山窟の通路が塞がれてしまったのだ。数人の作業員と共に現場へ来ていたのだが、運悪くその男一人だけ取り残されてしまい、今に至る。
坑道に閉じ込められた男の名は、トッドと言った。このグロッタの町で、鉱物の細工加工を生業にしている男だった。鉱物の町グロッタでは資材に事欠かず、その分仕事も充実していた。周りからは羨望の眼差しを向けられる事もしばしばだったが、たまたま現場へ向かった日に限って崩落に巻き込まれてしまうのだから、あまり運は良くないのかもしれない。
(何も今日のこの日に地震が起きる事もねえだろうに)
自らの不運を嘆いてみるが、それでも状況は変わらない。相変わらず、瓦礫の向こうに声を届ける事も適わず、道は閉ざされたままだ。鉱員が同伴してこの場へ訪れていたので、こちらの非常事態は把握しているだろうが、トッドにはこの状況を打破する方法はそう多くないように思える。その数少ない方法も、工具のないトッドの側からは、結果的に何もないのも同然なのだ。ここは大人しく、救助を待つしかない。
(おやっさんにはまた迷惑を掛けちまうなあ)
閉ざされた壁の向こう側で、トッドから申し訳なく思われているなどとは露知らず、壁の前で立ち尽くす中年の男がいる。トッドが信頼の念を込めておやっさんと呼ぶ、この坑道での作業を取り仕切る班長だ。
外へ救助の協力を仰ぐ為、数人の作業員を遣いにやった中年男性は、彼らを見送った後、土砂で塞がれた穴の前に立ち、共に残った一人の若い青年に声を掛ける。
「どうだ、通れそうか?」
「いいえ、駄目そうです。手前側の土砂は工具を使えば、何とかなりますが…」
中年の男性の問いに、若い青年が首を振り、そこまで言いかけて掘削用具の円匙を片手に言い淀む。
答えられた班長も、大方の予想がついていたようで、青年作業員の意図を酌む。
「そうか、輝星石の木箱まで倒れちまったか。こりゃ厄介だな」
中年男性には容易に予想できてしまう。班長がいる通路は一間と半分の高さがあり、トッドが閉じ込められている空洞には搬出するのみとなった木箱が積んであった。大方、その木箱が先程の地震で崩れ、土砂と共に通路の入り口を塞いでしまっているのだろう。【牙】並みの硬度を誇る輝星石が道を塞いでいては、普段使っている木製の円匙や鋤や鍬では如何ともしがたい。土砂ならともかく、山積みになった夥しい量の輝星石を前にしては、押し退ける事はもちろん、砕いて道を開く事も適わない。
「班長、どうします? トッドさんのご家族に連絡を入れますか?」
「いや、それはいい。それよりも、アードゥルが来るまでに作業の準備をするぞ」
そう指示されるが、青年作業員には、何故家族に連絡を入れようとしないのか分からなかった。安否不明だから、余計な心配を掛けまいと配慮しているのだろうか。事情に通じていない青年はそう解釈し、訊き直す事はせず指示された作業に入る。
閉じ込められているトッドと付き合いの長い班長は、傍らにいる青年に聞こえるか聞こえないかの声で独り言ちた。
「そりゃあ言えねえよなぁ、トッド」
[newpage]
時を同じくして、坑道の外では、ライゼル達が鉱山窟の大穴への降り口に到着する。
テペキオン襲来と地震の事後処理に時間を取られたが、ビアンが早急に現地の役人に引き継ぎを済ませたので、昼過ぎには一行はグロッタの宿場町からこの採掘場まで移動してこられた。
一行の眼下に広がるのは、まるで山を逆さにしたかのような形と広さの幾尋も深く開けられた大穴と、その斜面から水平方向に掘られたいくつもの横穴だ。大穴はフィオーレ村をすっぽり覆える程に巨大で、この土地に働き手が集中しているというのも頷ける。大穴の斜面に沿って架けられた木組みの桁は螺旋状に穴の底面まで下っていき、そのあちこちに作業員の姿が見える。
…のだが、どうやら様子がおかしい。なにやら事故が起きているようだった。作業着を着た男達が右往左往している。何か慌てているようだが、事が起きている現場はその場からは見当たらない。
「どうしたんだろ?」
初めて訪れる町がミール等とは違った意味で騒がしい事に、敏感に反応するライゼル。ライゼルの目から見ても、陽気な様子でない事は窺える。
「さっきの地震の影響だろう。崩落したか、あるいは生き埋めになったと言ったところか」
ビアン自身もこのグロッタの事情に通じている訳ではないが、近年頻発している地震の事もあって、オライザに届く役人の定時連絡の中にあったグロッタの事故事例をいくつか耳にしていた。
「それって大変な事じゃないの? 助けに行かなきゃ」
ビアンは意外と素っ気なく言ってのけるが、災害が発生したという事は、誰かが困っているかもしれないのだ。そう思うとライゼルは居ても立ってもいられない。
どこで何が起きているかも定かではないまま走り出そうとするライゼル。
「待て待て。ここの人間はそういう事態にも慣れている。俺達が出張る必要はない」
グロッタにも役人の駐在所があり、治安維持部隊アードゥルが派遣されている。有事の際の対応を一手に担っている彼らがいるのだ。通りすがりの自分達が首を突っ込む必要はない。
「本当に?」
ビアンが宥めようとしても、ライゼルは簡単に納得しない。実感のない物事に対しては懐疑的というのが、ライゼルの基本的な在り方だ。ミールの焼き玉蜀黍も然り、自らが体験した事でなければ腑に落ちない。特に、人命に関する天秤を前にしては、諦めが悪くなる。
「しつこい奴だな。いいだろう。どうせ輝星石を受領しに詰所へ行く。その時に今回の被害を尋ねよう」
「うん、そうして。どうしようもなさそうだったら、俺が行くから」
その土地の人間でどうしようもない事を、何の根拠があってライゼルに対処できるのだろう? ベニューとビアンはそう突っ込みたかったが、野暮は言うまいと特に言及しなかった。
一行が詰所へ行く道中も、やはり作業員達は桁の上を忙しなく動き回っている。やれ道具が足りないだの、やれ方法が悪いだの、現在発生している不具合に対し四苦八苦している様子だ。
「本当に俺が行かなくても大丈夫?」
「おい、大層な自信家ライゼル。お前は落ち込むのか大口叩くのか、どっちかにしろ。いいか、このグロッタには、お前が鼻水垂らしてる頃から働いている熟練者が大勢いる。地震だって今回が初めてという訳でもないんだ。心配せずともちゃんと上手く解決してくれる。加えて、俺達はやらなければならない使命がある。それを忘れるなよ」
「そうだよ、ライゼル。どうしようもない時だけって約束だったでしょ?」
「おう。じゃあ、早く詰所に行って訊いてみよう」
これ以上、何も情報がないまま言い合いを続けるのは不毛だと察したライゼルは、先を急ぐ事にした。詰所の外にも人だかりができており、どうやら地震やテペキオンの騒動による被害を報告しているようだった。中には家屋を壊された者もいたようだ。
「あの人達、大丈夫かな?」
「案ずるな。国が補償してくれるはずだ」
「そっか。[[rb:身分証 > ナンバリングリング]]があるもんね」
そうして駐在所までやってきた一行だったが、どうやら事はビアンが楽観視している程に甘い状態ではなかった。
「なにぃ、輝星石が受領できないだとーーー!?」
久しぶりのビアンの絶叫が、鉱山窟内の詰所中に響き渡る。
「先の地震で保管庫の担当者が生き埋めになっていて、掘り出すには時間が掛かりそうなんだ」
「それは気の毒だが…俺達は何も大量に必要としている訳じゃないんだ。谷越えに必要な上等な石を三つ分けてもらえればそれでいい。それくらいなら都合できるだろう?」
「すまない。輝星石の管理は厳にされている。いい加減に譲渡したとなると、こちらの首が飛ぶ」
「いい加減なものか。先程、手続きを済ませたはずだ」
ビアンの指摘に、役人も冷静に説明を加える。
「説明が足りなかった。トッドという加工屋に手続書を渡せばもらえるんだが、そのトッドが先の地震の影響で、坑道内に閉じ込められてしまったらしくてな」
「加工屋がわざわざ現場に足を運んでいたのか?」
「滅多に工房を離れない人物だが、今日に限って運悪く。現場の作業員達が救助に当たってるらしいが、救出の連絡がないという事は、まだ掘り出せてないんだろう」
「もう地震から数時間経つぞ? 何故こうも手間取っているんだ」
先にも示した通り、地震に因る土砂崩れは然程珍しい事ではない。住民が混乱に陥り、都市機能が麻痺するという事ももちろんない。坑道内は、簡易ながらも耐震施工もされており、被害は比較的軽微である。加えて、その災害対応にも慣れている者ばかりが揃っている。であれば、まだ解決の目途が立っていないというのは不自然な話だ。
「それは、事情があってだな…」
ビアンの厳しい追求に、グロッタの役人も弱り果ててしまう。彼らも作業が遅れている原因は分かっているのだが、それを口にしてしまう事を躊躇っているようだ。
「『厳に管理されて』いる保管庫の担当者が閉じ込められているのだろう? これは鉱石の町グロッタの最優先事項じゃないのか?」
「この町は、なにも輝星石だけで成り立っている訳ではない。他にもやらねばならん事があるのだ」
そのもどかしい様子に焦れてくるビアンの隣で、我慢できなくなったライゼルが声を上げる。
「困ってるんだったら力を貸すよ。俺、[[rb:牙使い > タランテム]]だから」
ライゼルの提案を受け、話題が逸れた事に俄かに安堵した様子のグロッタの役人。ビアンと接する時とは違い、役人然としてライゼルを諭す。
「この町にも牙使いは何人かいる。それには及ばない。当事者トッドも【牙】を有する加工屋だしな」
「でも、まだ助けを待ってるんでしょ? じゃあ、早く助けてあげてよ」
その救助に人員を割けない理由は、先程ビアンに回答できなかった件と合致している。詰所の前の人だかりに言及しないという事は、その対応に追われているから、という理由ではなさそうだ。
その内容をおいそれと口外する訳にはいかない役人は、突然強気な態度に急変し言い返す。
「こちらの事情に口を出さんでくれ。一等級の輝星石なら第五階層で掘り出してる最中だよ」
ややぶっきらぼうに言い放たれたその言葉に、ビアンは耳聡く反応する。
「そうか。確かにこのままここにいても埒が明かない。直接、その第五階層で受領するとしよう。では、その手続書に判を押してくれ」
ビアンが早口に捲し立てると、役人はやや不服な表情を浮かべたが、これ以上食い下がらないとする一行の意向を受け、素直に応じる。
「復旧作業に人手を割かれている。作業の邪魔だけはしないでくれ。それと、受け取り次第、早々にグロッタから立ち去ってくれ、いいな?」
「こちらも用が済み次第、出立する。代わりに、物騒な異国民が再度現れなければいいがな」
先のテペキオン襲来に絡めて、警戒を怠らぬよう皮肉交じりに言い含める。それは、こちらは余所の事案に協力したというのに、そちらは情報公開を渋るのか、という皮肉が込められていた。
[newpage]
詰所を出た一行は、釈然としないながらも件の第五階層に向かう。
「何か言えない事情があったようですが」
「余程、都合の悪い事なのだろうな。役人である俺も一緒くたに門前払いだ」
役人同士が情報交換するのは、どの集落においても常である。だが、先の役人は何か恐れを抱いている様子で、情報開示を渋った。
「そうなると、一番可能性が高いのは勅令を受け秘匿しているんだろうが、鉱石の町で隠さねばならん事とは何だ?」
やや独り言ちるようにして呟くビアンに、ライゼルは質問を向ける。
「ビアンでも知らない事があるの?」
「当然だ。特にミール以東は最近は出向いてないからな。最近の情勢に関しては噂程度にしか知らん」
オライザに配属されてからは、ほとんど管轄地を離れていないビアン。フィオーレへの物資運搬とごく稀に王都へ出向くしかオライザから出る事はなかったと記憶している。
「そうなんだ」
「ともかくだ。許可はもらっているんだ。第五階層の坑道へ行くぞ」
一行の眼下に広がるのは、全八層からなるグロッタ窟。大きく穿たれた穴の内周を螺旋状に下りていく木組みの足場。台車が通れる程度には幅があり、一行はその上を並んで歩き、第五層を目指し下りていく。
道中ビアンが話すには、上層階は比較的に生活の中で目にする鉱石が多く、下層階は先日のミュース石などの稀少な鉱石が採掘されている、とのこと。様々な種類の鉱物がこのグロッタ一か所で採れるとして、ベスティア王国最大の産業の町として栄えているというのだ。
「ねぇ、石を掘り出して何に使うの?」
「なんて考え足らずな質問を。いいか、鉱石がもたらした文明開化は近代のベスティア史を語るのに欠かせない要項だ。例えば、お前達は馴染みがないかもしれないが、王都近郊の都市の身分証は大体この手の宝石があしらわれている」
そう言って、ビアンは紐に繋がれた自身の身分証を持ち上げる。
確かに、ライゼルもビアンのそれが自分達の物とは随分違うと気にはなっていた。
「ビアンの出身ってコトンだっけ?」
「そうだ。まぁ俺の場合は、出身地云々ではなく、役人の身分を指す装飾が施されている訳だが。さっきのグレトナの身分証は、なかなかお目に掛れない貴重な物だぞ。なんたって、王族に仕える名家のそれだからな」
「へぇ、じゃあグレトナってすごいんだ」
「名家の子女ともなれば、深い教養を身に付けているだろう。ライゼルとは違ってな」
「染物はできないけど、フロル流喧嘩術なら…!」
ビアンの安い挑発に乗り、ライゼルは握った両手を前に構えるが、間髪入れずベニューに窘められる。
「やめなさい、ライゼル。でも、確かにフィオーレでは装身具を付けている人は稀ですね。鉱石と言えば、私も村長の家でいくつか見掛けた程度です」
「そうだな。今回受け取りに行く輝星石も、フィオーレでは村長の家にしか備え付けてないな」
おおよそ全国的に普及している輝星石による照明だが、田舎のフィオーレには村長宅に設置されている程度だ。これは、有事の際に首長宅が避難所になるから、という理由からだ。だが、これまでにフィオーレの皆が村長宅に集ったのは、ライゼルが産まれた時くらいであろうか。
「俺も見た事ある。灯りの代わりになるやつ。ぽわぁ~って光って綺麗だった」
「輝星石の一般的な利用方法は、燃料要らずの灯り代わりだ。グレトナの髪留めやイミックの粉塵なんかは珍しい用途だな」
ビアンは、粉塵や装飾品としての用途を例外的と言い切る。
「という事は、今回私達が必要としているのは…」
「しばらく先にはなるが、ベスティア最大の難所ダール渓谷を越えるには、燃料を必要としない灯りが必要なんだよ。補給も見込めない状況だろうしな。いずれ谷越えにするに当たって、輝星石は必要なんだが」
そこでやや言い淀み、困った表情を見せるビアン。
ビアンの困り顔に、その理由へ思い至ったライゼル。
「現地では調達できないの?」
「その通りだ。政治的な理由で、谷の東側には輝星石の支給は制限されているんだ。だから、どうしてもここで都合しておく必要があったんだ」
政治的な理由、そして、それに対する明確な不満をビアンが漏らさないという事は、王の意向でそう手配されているのだろう。ベニューは口にはせず、一人得心が行った。
ライゼルも特にその事について言及しない。どちらかと言えば目の前の状況に興味があるから、という感じだ。
「そっか。じゃあ、早く受け取りに行かなきゃだね」
そうこう話している内に、どんどん下層へ降りていく三人。大穴の内周のに敷設されている木組みの桁を何周かやり過ごし、ようやく目的の階層へ辿り着く。
「第五階層ともなると、随分下まで降りてくるもんだなぁ」
ビアンの声に釣られて姉弟が見上げると、空が大きな円形に切り取られているように見える。まるで巨大な天窓を見上げているような気分になる。
こうまで高低差があると、もはや別世界にいると錯覚してしまうが、この階層にも人の声がする。
「ねぇ、そこに人がたくさんいるよ」
ライゼルが示した方向には、確かに大勢の作業員がいた。なにやら、相談事をしているようだ。
「取り込み中のところをすまない。ここで輝星石を直接受け取るよう詰所で指示された。三つもらえるか?」
許可印の押された手続書を見せながらビアンがそう話しかけると、一同渋い表情で一行を見やる。
「あの役人も何を考えてるんだ。人の命が危ないって時によ」
非常事態と取れる言葉に耳聡く反応するライゼル。
「命が危ないってどういう事?」
「どうもこうもねえ。この坑道の奥に仲間が一人閉じ込められているんだ」
ライゼル達は先程土砂崩れで生き埋めになっている人の話を聞いている。すぐに先の件の事だと一行は察する。
「じゃあ、早く助けてあげなきゃ」
「助けてえのは山々だが、土砂と一緒に輝星石が道を塞いでるんだ」
それを聞いたビアンの顔は、一瞬で険しくなる。それ程までに事態は深刻なようだ。
「【牙】でしか加工できない輝星石が道を塞いでいるとなると、相当まずいな」
「どうしてまずいの?」
輝星石の性質をよく理解していないライゼルには、何が不都合なのかよく分からない。
代わりに、ベニューが理解を示す。
「普通の工具では、どうしようもないという事ですね」
ベニューの端的な理解に、班長は首肯を以って応じる。
「お嬢ちゃんの言うとおりだ。硬い上に大量に積んであったから全部を撤去しようとなると三日は掛かっちまう」
「迂回路を掘る事は出来ないのか?」
ビアンが代案を提示するが、班長は溜息交じりにかぶりを振ってみせた。
「途中までやってみたが、壁の中にも掘り出してない輝星石があって、結局運び出してる内に日を跨いじまう」
どうしても早く事態を解決してもらい輝星石を受け取りたいビアンは、大きな危険を伴う案を提示してしまう。
「では、危険な方法かもしれないが、【牙】はどうだ?」
そこは流石長年の経験を持つ職人。危険性と成功率を見極めており、この案も却下する。
「仲間が閉じ込められている空洞には逃げ場がねえ。もし衝撃で崩落しちまったら元も子もねえ」
「そうか、八方塞がりか」
「そういうこった」
どの案も現状を打開し得るだけの見込みがない。ビアンも班長も徒労感のこもった表情を見せる。
が、そのすぐ傍に、諦めていない少年が一人いる。
「ねぇ、何をお利口ぶって諦めてんのさ? 中に閉じ込められてるのは仲間なんでしょ。やれる事をやろうよ」
その無遠慮な一言に、努めて冷静な班長も怒気を込めて反駁する。
「なんだと?」
「すみません、うちの弟が失礼な口を利きました」
ついカッとなって勇み足を踏んだが、ベニューが割って入った事で班長も平静を取り戻す。
「…いや、お嬢ちゃんが謝るこたねえよ。何も間違った事は言ってねえ。だが、坊主。救助には危険が伴うってのは分かってんだろうな?」
「危険?」
「そうだ。どの方法で助けるにも、更なる事故に巻き込まれる危険性が少なからずある。中のあいつを助けるには、何人もの人間がここに身を置かなきゃならねえ。下手すれば、一人を助ける為にここにいる全員がおっちんじまう。おらぁ、ここの責任者だ。みんなの命を預かる身で下手な真似は出来ねえ。坊主にはその覚悟があるのか?」
覚悟を問われ、しばらく俯き思案するライゼル。
僅かに逡巡してみせた後、ライゼルはいつも通りの調子で臆面もなくこう言い切ってしまう。
「わかった。じゃあ、俺だけでやるよ」
さすがにこの発言には、ライゼルの言動に慣れつつあるビアンも面食らってしまう。
「ライゼル、何言ってんだ!?」
その言葉に耳を疑ったのは何もビアンだけではない。この場を取り仕切る班長もライゼルの正気を疑う。
「おいおいおい、坊主は話を聞いてねえのか? 方法がねえって言ってんだよ」
「方法がなくても、ここにはみんなと、助けたいって思うみんなの気持ちがあるじゃんか。ここで諦めたら、今から誰も笑わなくなるでしょ!」
どんなに否を突き付けられても、真剣な様子で言い返すライゼル。ライゼルがしたいのは方法の検討ではない。絶対に助けたいのだという意思表示だ。
「坊主…」
「俺は絶対に諦めない。みんなの笑顔は俺が守るから!」
根拠もなく諦めの悪さを見せる若造に、班長もついに折れてしまう。
「坊主の言う通りだ。そう毎年毎年、仲間を連れていかれて堪るかってんだ。なぁ、みんな」
「おぉー!」
ライゼルや班長に乗せられ、気勢を上げる抗夫達。
だったが、ビアンは至って冷静に問い質す。
「だが、ライゼル。実際、やりようはあるのか?」
「たぶん」
「多分か。まぁ、お前の事だから何の根拠もないとは思っていたが」
その反応に、想像通りと脱力するビアンだったが、意外にもベニューはそうは思っていない。今回ばかりは、ライゼルにも考えがありそうだと察している。
「いえ、そうでもないと思いますよ」
「どういう事だ、ベニュー?」
「風が生きていれば、可能性はあります」
ライゼルとベニューには、今回の事故に似た状況に遭遇した経験則があった。それは、姉弟が幼き頃。フィオーレ村の広場にある釣鐘にライゼルが悪戯をした時の事である。
好奇心旺盛な子供だったライゼルは、毎日聞こえる鐘の音に興味を持ち、とうとうその釣鐘を抱く時計台によじ登らんとしたのだ。
ライゼルの不在に気付いたベニューにより未遂に終わったが、時計台の周りで何やら良からぬ事をしてたという話を村長から聞いた母フロルによって、躾を施される事となった姉弟。この際、ライゼルを止める事が出来なかったベニューも同罪として一緒に罰を受けたのだが、その躾というのが、人の頭ほどの大きさの石を積んで作られた時計台の中に閉じ込められる、という事だった。
「お前達らしいというか。それで、それがどう関係する?」
その大まかな話だけでは、今回の件とどう結びつくのか理解できないビアンに、ライゼルは思い出話の続きを聞かせる。
「時計台の扉も閉められて、夕飯まで我慢しなきゃならないのかぁって思ってたんだけど、塔の中に風が吹いててさ」
「風だと?」
もちろん、誰もが風と知覚できる程の空気の流れがあった訳ではない。フロルの英才教育を受け風読みの能力を身に付けた姉弟だからこそ分かる、僅かな空気の揺れが塔の内部にあったのだ。
ライゼルはその外部からもたらされる気圧の変化に、外へ通じる箇所があるのだと本能的に理解した。そして、自分の感覚を頼りにその場所を見つけ出すと、そこには僅かな隙間が確かにあったのだ。
「まさか、その隙間があれば出られるなんてふざけた事を言うつもりじゃないだろうな?」
「違うよ。こっからが今回役に立ちそうな事だから、ちゃんと聞いてて」
当時の姉弟は、考えた。隙間があるという事は、それは周囲の石を動かせるかもしれない、と。当然、時計塔の石は無計画に積まれた物でなく、石と石とが嚙み合うように置かれている。その為、当時のライゼルの脱出計画は失敗に終わり、ベニューを巻き添えにした上で目一杯に反省をする事となった訳だが。
「重さの掛かっていない部分の石を動かしていけば、人が通れるだけの通路ができるかもしれないと思うんだけど、どうかな?」
「う~む」
その提案を受けた班長は、その案を吟味するように小さく唸る。周りの作業員達も半信半疑の様子だ。
「仮に、坊主達が風を読む事が出来るとして、瓦解する危険はどう考える? 均衡を保っているように見えて、些細な刺激で崩れる場合だってある。今のままじゃ博打が過ぎるってもんだ。絵空事じゃこいつらは動かせねえ」
班長は、背に控えている作業員達の命を預かっている。迂闊な事で危険な目に遭わせる訳にはいかない。二次災害に巻き込まれたとあっては、それこそ意味がない。
そう問われるライゼルだったが、不思議そうに班長を見つめ返し、小首を傾げる。
その反応は、まるで班長が素っ頓狂な事でも言ったかのような態度で、班長は戸惑ってしまう。
「俺が言った事、ちゃんと分かってるんだろうな?」
「うん。わかってるよ」
「だったら、なんで首を捻ってる?」
「だって、おじさんが変なこと言うから」
「変な事だと?」
この問答をライゼルと班長が続けていても埒が明かないと判断したベニューとビアンは横から口を挟む。
「風の通り道は、私と弟が探します。ですので、重さが掛かっているかどうか、どの石を動かせばいいかの判断は皆さんにお願いします」
「…なっ!?」
「そういう事だ。あなた方は長いこと坑道で働いているこの道の専門職だろう? だったら、その腕と矜持を見せてもらいたい。ここの役人が我々の協力の申し出を断るほどだ。期待していますよ」
「へんっ、言ってくれるじゃねえか」
一行に嗾けられた作業員達の目が、火が灯ったように輝き出す。通りすがりの素人に挑発めいた事を言われては、黙っていられないのがグロッタの抗夫達だ。
「よぉしっ、班員は全員準備に掛れ。おめえ達は片っ端から台車を集めてこい。それと補強用の木材も忘れんな」
早速、皆が作業に取り掛かる。作業員が勢いよく掘り出していくと、しばらくして山積みになった輝星石の壁が徐々に見えてくる。
「どうだ、穴は抜け道は見つかりそうか?」
「あるよ。この辺からほぼ真っ直ぐの方向で届いている」
ライゼルの見立てにベニューも首肯を以って肯定する。
姉弟が示す個所の周辺の石を慎重に調べる抗夫達。この段階でも加減を誤れば、積まれている石が雪崩れ込んでくる危険性がある。本当に重みが掛かっていないか、動かしても安定しているかどうか、長年の経験で判断していく。
姉弟の読み通りに取り除ける石もあれば、支えを嚙ませないと均衡を保てない箇所もあり、進行の度合いはそれ程早くはなく若干焦りの色も見えてきていた。
空気の抜け道があるという事は、中の要救助者にも少なからず酸素が行き届いているはずだが、それでも作業をしている仲間達も息苦しさを感じている。充分な酸素量ではない事が窺える。救出が遅くなれば、酸素欠乏の恐れだってあるのだ。皆の心は逸る。
それでも、班長だけは冷静さを失わず、周囲に慎重な作業を促す。危険な状況下での作業経験が豊富なのだろう、心配する気持ちは人一倍強いだろうに、そんな様子はおくびも出さず、安全箇所の判断と除去作業を繰り返していく。
「よし、向こうに届いたぞ」
一旦の除去作業を終え、一様に安堵の息を漏らす抗夫達。だが、まだ要救助者の姿を確認した訳ではない。それに、まだ危険な作業は目の前に残っている。
「さて、後は中に入って連れ出すだけだが…」
そこまで言って思案する表情を浮かべる班長。何かを決めあぐねている様子を察して、ライゼルが挙手をする。
「俺ならここを通れるし、いざとなったら【牙】で何とかできると思う」
「ふ~む、体格的には坊主かお嬢ちゃんが適任なんだろうがな」
そう言って、目の前の輝星石の壁に開けられ、地面に接したまま向こうへと繋げられた横穴を改めて覗き込む班長。
実際に掘り出してみて分かった事だが、壁の厚さは成人男性の身の丈くらいの長さ。それに対し抜け道の径は、除去した分の石の代わりに噛ませた木材の為、大人が入ると身動きが取れなくなるくらいに狭い。大人の体格であれば、両腕を体に添わせた体勢なら抜けられるが、匍匐前進は不可能と言ったところか。中の男性は綱で結んで引っ張るから構わないとしても、自力で入るには大人の体格では難しそうだ。
「穴を拡げようにも、これ以上動かすと崩れて穴が塞がっちまいそうだ。坊主、ここはおめえさんを男と見込んで、頼まれてくれるか?」
「おう、もちろんだぜ」
ライゼルは奥まで届く十分な長さの綱を持って、横穴の中を這いずりながら進んでいく。先に大人では難しいと記したが、前を見ようと頭を上げると輝星石にぶつけてしまうし、途中に噛ませてある支えに触れないように神経を研ぎ澄ませたりと、ライゼルであってもなかなかに困難な進入となった。
「意外と、大変かも」
そう呟きながら少しずつ前へと進んでいくと、壁の向こうにライゼルの頭が飛び出た。
「抜けた! いた!」
壁の先へ着いた瞬間に、どうやら今回の被災者らしい人物を発見できた。年の頃は40才前後だろうか、他の抗夫とは少し違った作業着を着ている。その男性は、横になっており、どうやら気を失っているようだ。
「おじさん、大丈夫?」
ライゼルの声掛けに対する返事はなかったが、呼吸はしており、命の心配はなさそうであった。
「今、助けるからね。もう少しだけ我慢してて」
聞こえているかも分からない励ましを続けながら、ライゼルはその横たわる男性の身体に綱を巻き付けていく。
「坊主、トッドは見つかったか?」
「うん。でも、気を失ってるみたい。綱を巻き付けたから、引っ張って」
括り付けた方とは反対側の綱を、壁の手前に残っていた作業員達が慎重に引っ張り、気絶している男性を引きずり出す。
彼らの手に掛る人一人分の重み。その手繰り寄せる際の負荷は、仲間を救い出せるという実感に他ならない。徐々に近付くその救助者に、グロッタの抗夫達は歓喜にも似た掛け声を上げ始める。
「体が抜けるまでもう少しだ。気を抜いて石の下敷きにしてくれんじゃねえぞ」
「班長の方が嬉しそうな顔してるじゃないですか」
「そうだぜ、おやっさん。トッドさんに見られずに済んでよかったッスね」
若い衆の冷やかしを笑い飛ばす、班長と呼ばれる中年の男性。
「トッドにまで死なれちまったら、ウチの班の稼ぎがぐんと落ちちまうからなあ」
「そりゃあねえぜ、班長」
お互いに軽口を叩き合いながらも、綱を手繰るその顔は真剣そのもの。この現場で少なくない仲間の犠牲を体験してきた彼らだったが、決してその別離に慣れたりしない。仲間との絆を信じ、仲間の命を軽んじたりしない。
「トッドが出てきた。早く休憩所に連れていけ。飽くまで慎重にな」
「ウッス」
石を運び出していた台車に気を失ったままの男性を乗せ、坑道の外の小屋まで一人の若い男が連れて行く。
「残った連中で後片付けだ。たらたらやるんじゃねえぞ」
抗夫達が撤収作業を始めた頃、ライゼルも先程の横穴を通ってベニュー達の元へ戻ってきた。
「おつかれさま、ライゼル」
「おう。トッドって人が無事みたいで良かった」
弟をベニューが労い、ライゼルも当然の事と言わんばかりに素面のまま応える。
「全くだ。加工する職人がいなければ、原石のまま持ち帰らなきゃならんからな」
「えっ、トッドがそうなの?」
ビアンの仮定への嘆きに、意外そうな顔を向けるライゼル。
「さっきの詰所での話を忘れたか? 一人だけ違う作業着を着ていただろう。あれはここの抗夫とは別の、輝星石を製品に加工する職種の人間だ」
言われて、ライゼルも詰所での話と現状が完全に合致してくる。
「そういえば、さっきの人も牙使い(タランテム)だって役人さんが言ってた。見てみたい」
そうせがむライゼルの傍らに、各員に指示を終えた班長がやってきた。
「おめえさん方には世話ンなったからなあ。是非グロッタが誇る職人芸を見てってくれ。トッドが目を覚ましたら、家まで案内するぜ」
「いや、こちらとしても先を急ぎたいのだが」
渋る返答のビアンに対し、班長は何か企むように顎を擦り問い掛ける。
「役人さん、アンタここまでどうやってきた? まさか歩いてなんて言わないだろう?」
「もちろんだ。オライザから駆動車に乗ってここまで来た」
駆動車と聞いて、企む班長の眼は更に怪しさを帯びる。
「輝星石を人数分欲しがるって事は、行先は王都だな?」
「その通りだ。故あってクティノスまで急いでいる。余計な時間は取られたくないんだ」
そこまで説明しても班長に引き下がる様子はなく、むしろ更に詰めてくる。
「じゃあ、尚更ここに留まるべきだぜ、お役人」
「何故?」
「オライザからって事は、旧式の駆動車じゃあねえか?」
班長の問いにビアンは頷く。
「確かに、クティノスに配備されてる最新式の物ではない」
「ほら見やがれってんだ。そんなんで王都まで辿り着けるもんかよ。巷じゃ妙な異国民が入り込んできやがって何があるか分かったもんじゃねえ。【牙】にも劣らぬ力を持ってる奴らがうろついてるってんなら、駆動車も輝星石で改良した方がいいんじゃねえのかい?」
国内に出没している異国民の脅威は、実際に遭遇しているビアンの方がよく分かっている。
例えば、先の三つ編みの女との戦いを想う。こちらが車で逃げて、それを異国民の女が飛翔し追撃するという状況があった訳だが、仮にテペキオンが三つ編みの女の代わりにいたとしたら、逃げ遂せる事もなくその場で木っ端微塵にされていただろう。三つ編みの女が破壊力を伴う攻撃をして来なかったから、なんとか無事に逃げ遂せたものの、先程のテペキオンのような者がいる事を思えば、駆動車の耐久性は存外脆い。
そうは言っても、ビアンは二つ返事で答える事が出来ない。
「それはそうだが、あいにく持ち合わせがない。それに、あれは国より支給されている備品だ。勝手に手を加える訳には…」
「何言ってやがる。これは仲間を助けてくれたお礼だ。お代なんて取るつもりは更々ねえよ。それにな、各地の駆動車は随時補強していくよう、元々お達しがあったはずだぜ」
「そういえば」
役人の定時連絡の中に、そういった内容の事項があったはあったが、王都から離れたオライザでは、それも先の話だろうと高を括っており、失念していたビアン。
その傍らで、何やら駆動車に新たな改造が施されるとあって、ライゼルは俄かに歓喜する。
「ねぇ、お願いしようよビアン。母ちゃんが言ってた、他人の親切は素直に受け取りなさいって」
「こういう時ばっかり母さんの言い付けを持ち出さないの」
ベニューに叱られ、ライゼルは大人しくなったが、ビアンの返答を待つ班長の目はなかなか注視を止めない。
「…どれくらいで出来るものなんだ?」
「そうだな、足回りと外装だけなら、三時間ってところだな」
「そんなに早く済むのか?」
「トッドの所の職人を全員借りたら、あっという間だぜ」
「おい、本人の了承もなしに…」
「そんじゃあ、さっそく車を回収して工房へ持って行こうじゃあねえか。案内してくれや」
[newpage]
班長に半ば強引に連れていかれる形で、宿場町に停めてあった駆動車を回収し、工房へ向かう一向。
その途中、先程の救助された男性トッドと同じ作業着を着た十数人の集団とすれ違う。
「おやっさん、その人達かい。ウチの親方を助ける手伝いをしてくれたってのは」
どうやらトッドの工房の職人達らしく、その中の一人がそう尋ねると、班長は親指を立てて、その人に向ける。
「そうだ。オライザから遠路はるばるやって来て、通りすがりに人助けをする最高に熱い奴らだぜ」
「なんだその雑な紹介は」
ビアンが呆れるのも意に介さず、班長は更に続ける。
「今からおめえさんらにやってもらいてえのは、この人らが乗ってきた駆動車の改良だ。トッド工房の腕を存分に揮ってくれや」
それを受け職人達は、手にしている工具を掲げるようにして、声を上げる。
「当然だぜ。親方の命の恩人とあっちゃ、いい加減な仕事は出来ねえよ」
「オライザの役人さんに俺達の腕前を知ってもらうってのも悪くねえな」
その様子に満足げに頷きながら班長は、駆動車の位置を伝える。
「駆動車は入口脇の広場に停めてある。材料はウチの連中に運ばせているから、好きなだけ使ってくれ」
材料とは輝星石の事なのだろう、厳に管理されているという話は何だったのかと一行は疑問に思ったが、彼らの勢いに負けて口を挿めない。普段は規則違反に厳しいビアンも、グロッタの事情に精通はしていないので、深くは追及しない。
「おやっさん、好きなだけなんて言ってたら親方にまた怒られますよ」
「違いねえや。がははは」
本気なのか冗談なのか、豪快に笑い飛ばす班長と工房の職人達。ライゼルは彼らにも興味を持ち、声を掛けようとするが、何か言いたそうなライゼルに気付いた工房の職人が会話の先を取る。
「よお、ボウズ。わかってるぜ、望み通りのかっけーヤツに仕上げてやるからよ。お前らは恩人だからな」
「俺らは気にしねえが、親方の言い付けで役人に睨まれるような事は出来ねえ。そんな俺らの代わりに坑道へ出向いて親方を助けてくれたお前らには、本当に頭が上がらねえよ」
「役人の野郎、アードゥルを派遣するから工房の人間は待機だなんて言っておきながら、結局助けてくれたのは現場の人間と行きずりの子どもだってんだから、全く信用ならねえよ」
「まあ、余計な愚痴を聞かせちまったが、ボウズ達には感謝してるって事だ。その恩はしっかり形にして返すぜ」
ライゼル達が口を挿む間もなく、職人達は挨拶もそこそこに駆動車の元へ向かっていった。
半ば捲し立てられるように御礼を告げられたが、一行は自然と悪い気はしなかった。むしろ、好感が持てたくらいだ。
「気の良い連中だったな」
先の彼らに、オライザ組のような温かさを感じたビアンは、独り言のようにそう溢す。
「はい。トッドさんという方が、皆さんから慕われているんだなぁと感じました」
ベニューはこれから顔を合わせるトッドという人物と話すのが楽しみになっていた。
「輝星石の受け取りが終わったら、俺、見に行きたい!」
職人達の勢いに負けて言い損ねていた欲求をライゼルが口にした所で、班長は改めて道案内を再開する。
「よっしゃ、もうすぐでトッドの工房に着くぜ」
トッドの工房は、鉱山窟の入り口からぐるっと大穴の反対側に回った所にあった。搬出口から大穴の反対側にあり、鋼材等の運搬の際にはやや不便な立地だが、他に大きな工房を構えられる空間を確保できる場所がなかった為に、ここに建てたのだと班長が教えてくれた。
「大きな建物だね。デイジーおばさんの商店よりずっと大きいよ」
ベニューの漏らしたように、一行の目の前には大きな工房がある。先程ライゼル達が救出したトッドの持ち物で、グロッタ唯一の輝星石を加工可能な職人が集まる工房だ。雇っている職人の数もグロッタ最大で、その事もあって輝星石の管理を任されている。班長は「デカい責任を負わせて逃げられねえように役人連中が囲ってんのさ。面白みのない奴だが、仕事だけはぴかいちだからよ」と冗談めいて話していたが、グロッタの産業を鑑みれば、そういう政治的意図もあながちない訳ではないのかもしれない。
工房の搬入口脇にある出入口の扉をビアンが開けると、先程救出した男性トッドがいる。
トッドは一行に気が付くと、入り口まで歩いてくる。
「さっきは世話になったらしいな。この工房で加工屋をやっているトッドだ」
「こちらこそ、駆動車の改修をやってもらい感謝する。私はビアン。そして、ベニューにライゼルだ」
ビアンが姉弟の紹介までを済ますと、トッドは姉弟の[[rb:身分証 > ナンバリングリング]]に目をやる。
「ほお、その身分証は初めて見たな。どこの物だったか?」
「俺達はフィオーレから来たんだ。王都へ行くのに輝星石ってのが要るらしくて取りに来たんだ」
「そうか。ならば、間の悪い時に来てしまったな」
トッドが先の地震を指しているのは、ライゼルにもすぐ分かった。
「ううん。ちょうど良かったよ。トッドを助ける事も出来たし」
「変な奴だ」
トッドがライゼルに対し一言漏らすと、ビアンはふと頭を過ぎった疑問を口にする。
「変と言えば、あなたこそ何故洞窟にいたんだ? 聞いた話では工房の人間はめったに立ち入らないと聞いていたが」
問われたトッドは、答える煩わしさと助けてもらった恩義を天秤にかけた後、一つ溜め息を漏らし、こう続ける。
「私事だ。発注分以外に輝星石が必要になったので取りに行っていた。それも災難に遭っただけで無駄足になってしまったが」
トッドが肩を落として見せた瞬間に、またも工房の玄関口が開かれた。そこから姿を見せたのは、先程ライゼル達をここまで案内してくれた班長だった。工房の裏手にある保管庫から、加工済みの輝星石を取って来てくれてたのだ。
「ほれ、お役人。ご所望の品三つだ」
「何から何まで、本当に感謝の念に堪えない」
「いいって事よ。どうせ、トッドの様子見がてら、こいつを届けなきゃいけなかったんだしよ」
そう言って、先程の輝星石とは別にもう一つ、まだ加工されていない輝星石を作業着の内側から取り出し、トッドに差し出す班長。それは本来であれば、トッドが特定の手続きを踏んでようやく持ち出せるものだ。
「おい、おやっさん。わざわざ持ってきてもらって有難いが、役人に見つかれば事だぞ?」
グロッタの輝星石全体の管理を任されているトッドが目の前にいるとはいえ、班長のお節介はだいぶ勝手が過ぎるようだ。
注意を促された班長はどこ吹く風で笑い飛ばす。
「そんなヘマ、俺がするかよ」
(この連中、俺が官吏という事を忘れているな?)
そう突っ込もうとしたが、急に班長が真面目な調子で語り出すものだから、ビアンは機会を逸してしまった。
「何の因果か、あいつの命日にまた地震が起こるんだもんな」
班長がやや気落ちして言うのに対し、トッドもただ一言力なく答える。
「そうだな」
それ以上トッドが続けないのを察した班長は、雰囲気を紛らわせようと笑って茶化す。
「ここ最近は忙しくって仕方ねえ。地震が起きたおかげで作業も休止だ。役人もてんやわんやで出荷も出来ねえだろうよ。トッド、今日くらいは家族とゆっくりするといい」
「何が地震のおかげだよ。こっちは死ぬ想いをして、挙句おやっさんが勝手に請け負った仕事に人手を持っていかれているんだ。ゆっくりなんてしていられない」
「こりゃあ一本取られたなあ」
特に悪びれる事もせず笑い飛ばすと、すぐにいつもの調子に戻り、玄関へ足を向ける。
「お役人方も、向こうの作業が終わるまでトッドの仕事っぷりを見ていくといい。今日のこいつは、一段と気合を入れて仕事するだろうからなあ」
そう言い残し、工房を後にする班長。見送りながら、ベニューは呟く。
「洞窟にいる時とは違って、賑やかな感じでしたね」
班長の印象については早々に切り、新たな話題を切り出すビアン。
「元々、そういう性質なんだろう。それよりも、だ」
ベニューもビアンが言わんとする事はもちろん察しており、首肯を以って応じる。
「はい」
ベニューとビアンは意思疎通を図り、目で合図を送り頷き合う。そして、同時にライゼルの方へ視線を送る。
すると、二人の予想通りにライゼルが目を爛々と輝かせ、トッドに問い詰める。
「ねぇねぇ、どうして今日だと気合が入るの?」
班長が含みを持たせた言い方をした段階で、ライゼルがその話に食い付く事は容易に想像ができたベニューとビアン。ライゼルも予想に違わず、強い関心を示す。
「やっぱりだな」
「やっぱりですね」
問い掛けられたトッドも、どう言っていいか分からず言葉を濁す。
「それはだな」
先程は天秤の針が義理に傾いたが、今回はなかなかどちらに傾くという訳でもない。という事は、先程問われた質問以上に『私事』という事になる。もちろん、それをトッドが公言していない為にライゼル一行は知る由もないが、どうやら、この圧迫力を無視できる程にトッドの面の皮が厚いという事もなさそうだ。
「今日はソノラの、娘の誕生日なんだ」
それがトッドにとっては答えなのかもしれないが、ライゼルとしては説明不足に感じられる。
「そのソノラって子の誕生日ならどうして気合が入るの? 俺は誕生日だからっていつもより鍛錬に身が入るって事もないよ。だって、いつも本気でやってるから」
ソノラに関して興味があるのかないのか、今の話題に関係のない話をのべつ幕無しに語るライゼル。
勝手気ままに喋るライゼルを余所に、ベニューはトッドの背後で物陰に身を潜めている存在に気が付く。
「もしかして、さっきからこちらをじっと見ているあの女の子がそうなんですか?」
そう言ってベニューが水を向けた先に、4歳くらいだろうか、幼い少女の姿があった。建物の柱の後ろに姿を隠し、頭だけを出して無言のままこちらを見やっている。
ベニューの気付きに続き、皆もそちらを見やると、少女は緊張しているのか、その場で立ち尽くしている。
「ソノラ」
トッドが少女の名を呼び手招きする。が、ソノラはすぐに住居区間の奥へ引っ込んでしまった。
その反応にトッドがやや肩を落とす。
「今の女の子が娘さん、ソノラちゃんですか?」
ベニューがそう聞くと、トッドはバツの悪そうな顔でぎこちない笑みを浮かべた。
「あぁ、まあ一応」
その不自然な態度に違和感を覚えたライゼルは、すかさずトッドへ問いを投げる。
「ねぇ、一応ってどういうこと?」
「それはだな」
「よせ、ライゼル。他人には他人の事情がある。あまり首を突っ込むんじゃない」
そうビアンが窘めるが、トッドはかぶりを振って小さく溜息を吐いてみせた。
「構わない。実は私と血は繋がっていない、去年死んだ親友の子供なんだ」
先程はそれ程気にも留めていなかったが、誰かが似たような事を言ってたと、ビアンは思い出す。
「そういえば、抗夫達が言ってたな。去年亡くした仲間がどうとか」
「そうか。聞いたのか」
自分が閉じ込められている間に作業員達から聞いたのだと早とちりするトッドだが、ライゼルは首を横に振る。
ビアンもここまで首を突っ込んでは、今更他の話題にも移れないと考え、詳しい話を乞い願う。
「聞いたという程しっかりは訊いていないが。その、なんだ。ウチのライゼルが知りたがりな性分で。もし差支えがなければ、去年の件を聞かせてもらって構わないだろうか?」
「面白い話ではないがな」
そう答えた後、トッドは感情のこもらない声で淡々と語り出した。曰く、親友がいた、と。
その親友は、トッドと並ぶ職人で、古くからの友人でもあった。切磋琢磨し合い、お互いに尊敬し合える理想的な友であった。
その友には家族があり、娘がいた。それが先程姿を見せたソノラだった。親友とその妻の間に生まれた娘は、すくすくと育ち、元気に成長していった。
そして、今日よりちょうど一年前にその悲劇は起こった。
その日、ソノラは3歳の誕生日を迎えた。グロッタには三つを数える年齢になった女児に、守り石を贈る風習がある。その為、腕に自信のあった親友は、その為の石を自ら調達し加工した上で、愛娘に贈ろうと考えていた。
だが、その幸せな家族を悲劇が襲った。頻発こそすれど比較的被害の少なかった地震が、これまでに例にないくらいの被害をもたらしたのだ。そして、その崩落によって、共に坑道へ出向いていた夫妻は命を奪われた。
今回同様、現場の仲間達が必死の救出活動を行ったが、土砂に押し潰されており発見した時には既に事切れていたという。
そして、それ以来一人残されたソノラを、トッドが引き取るようになったのだ。
「どうしてトッドが引き取る事になったの?」
「遺言をな、聞いた気がしたんだ」
「どういうこと?」
「あいつの遺体を見た時に、言われた気がした。娘を頼むって」
その時の光景が脳裏を過ったのか、語るトッドの顔は若干曇る。命を落とした友人夫妻の最期の姿は、それ程までに色濃く印象に残っている。
「我が子の事を想わない親がいるものか。きっとあなたがソノラを引き取って、その友は安心して眠っただろう」
「どうだかな」
ビアンの気休めに、トッドは安易に同意しない。
「何故? 下世話な話だが、あなたの工房は繁盛していると聞く。その家主が育ててくれるとあれば、何の心配もないだろう?」
トッドはグロッタ最大の工房を構えており、収益もその規模に比例して高額だ。つまりは、トッドの家計は比較的に裕福と言える。
だが、トッドにとって幸せを測る尺度は金銭などではない。
「見ただろう、さっきの様子を。あの子は俺に全然懐いていないんだ」
「元々引っ込み思案な女の子だったんじゃないですか?」
ベニューも気休めに近い言葉を掛けるが、やはりトッドは納得しない。
「あいつが生きている頃は、そうでもなかったようだ。むしろ、随分なおてんばだったと聞いていた」
「一年か。俺達の場合だと、借りてた畑を耕し始めた頃か」
ソノラの状態を、在りし日の自分に重ねるライゼル。それを聞いて、ビアンも思い出した。
「そういえば、お前達も両親を亡くしていたんだったな」
「父ちゃんの事は知らないけどね」
「母を亡くした時は私達も辛かったです。でも、フィオーレ村のみんなが家族みたいに接してくれたので寂しくはなかったですよ。きっとソノラちゃんもトッドさんが一緒にいてくれるから寂しくは思ってないはずですよ。ただ、少し時間が掛かるだけなんだと思います」
この言葉は気休めでもない、ベニューの本心だ。実際の当事者からの言葉は、トッドにもよく響いた。
「君らこそ辛い経験をしただろうに、大人の私が気を使わせてしまっているな。すまない」
「俺の家族はベニューしかいないけど、今は父ちゃん代わりにビアンがいるし、寂しくないよ」
「何が父親代わりだ。せめて、兄貴分と言え」
ライゼルとの認識の差に、間髪入れず指摘を入れるビアン。その様子にを見て、トッドも僅かに肩の力が抜けた。
「そうだな、私もあの子に寂しい想いをさせてばかりではいけないな」
俄かに気力を取り戻したトッドは、おもむろに先程受け取った輝星石を工房の台の上へ持っていく。そして、慣れた様子で【牙】を発現させる。
刃渡りが広げた掌ほどの短刀で、ライゼルの【牙】と比べると随分小さく思える。が、刃物としての冴えは、ライゼルのと同等あるいはそれ以上かもしれない。伊達に長い事この加工業をやっていない。
「それがトッドの【牙】かぁ! なんか強そう!」
「なんだ、その野蛮な感想は。ここ最近頻出しているらしい異国民に毒されているようなら、教会へ行く事をお勧めする」
トッドの言う通り、ライゼルの発言は一般的には物騒極まりない。争い事は忌避される世間に於いて、下手をすれば人格を疑われかねない発言だ。
ただ、ライゼルの生い立ちを聞いたトッドは、無知なだけなのだろうと察していたが。
「強そうなものは強そうじゃん。輝星石ってこんなに切れるもんなんだね。俺も何度か試してみようかな…」
「[[rb:牙使い > タランテム]]でその発言であるなら、尚更ウォメイナの教えを説いてもらった方がいい。今の時代にそぐわない生き方だ。役人さんもそう思わないか?」
争い事は忌避される時代に武力を基準にするなど、トッドには信じられない話だった。もちろん役人ビアンも同じ一般的な考えを持つ。
「その通りだ。だが、こいつは言っても聞かないし、異国民が跋扈している現状、頼らざるを得ないんだ」
トッドも救出されてから、先のグロッタの宿場町に現れた異国民の件は聞き及んでいる。地震発生以前から、坑道の外が何やら騒がしいとは思っていたが、まさか天下の往来で大立ち回りを演じている連中がいるとは予想だにしなかった。
ただ、事情が事情という事は、トッドもよく分かっている。いけないと分かっていても結局使ってしまうというのは、身につまされる話だ。
「頼らざるを得ない、か。確かに、私もこの力がなければ、ソノラに食べさせてやれないかもしれなかったな」
トッドの独白めいた言葉に、ビアンは過剰に反応する。
「おいおい、その発言こそ聞き捨てならないな。先代国王が即位されて以降、[[rb:身分証 > ナンバリングリング]]を持つ全ての人間に仕事が斡旋されているんだ。そのおかげで、食いっぱぐれる事もなく、安定した生活を送れるんじゃないか。加工業への保障は厚いが、だからと言ってそれ以外をないがしろにしている訳ではない。労働の対価は平等に与えられている」
臣民全てが身分証により戸籍管理されており、上納品を納めればその見返りとして支給品を受け取れる。国に仕える事で過不足なく対価を得られるこの構造は、広く臣民に受け入れられ、安寧なる生活の基盤となっている。
その制度にまるで落ち度があるような発言を、官吏であるビアンは見逃せなかった。
「お役人から見れば、私は不敬な臣民か」
「そうじゃない見方があるのか?」
ビアンとトッドの剣幕に、口を挿む事を憚られる姉弟。
そして、態度を咎められたトッドは静かにこう答える。
「では、ひとつだけ。都市間の交通網は王国中に巡らされ、人手や資材を掛けて整備されているというのに、何故この鉱山窟の安全対策は一向に進まないんだ?」
「そんなはずはない。先程私も現場を見たが、耐震工事もなされていたし、作業従事者に対する注意喚起も行われている。国として出来る対策は、万全のはずだ」
「何が万全なものか。この一年だけを見ても、何人の人間が死んだと思っている?」
「自然災害による被害だ。全てを防ぐ事は出来ん」
「そういう事が言いたい訳ではない。事故が起きても、ここの役人どもはある一定の場所からは立ち入らせようとしない。許しがあれば、もっと基盤を安定させられるかもしれないというのに、だ」
トッドのぶちまける不満の中に、ビアンは耳聡く反応を示す。
「どういう事だ? 工事に制限が掛けられているのか?」
「言った通りだ。何かを隠しているんだろうが、それをここの住民にすら明かそうとしない」
ビアンもつい先程、何かを隠匿しようとする役人の姿を詰所で見た。もしかすると、ビアンが知らないグロッタの事情があるのかもしれない。
「役人の私も同じような扱いだった。別件に人手が割かれているとか何とか」
「私達の生活に影響を与えない範囲であれば、隠し事に興味などないが。アードゥル隊員もそちらに連れていかれたようだしな。治安維持の旗印が聞いて呆れる」
トッドが漏らす厭世に、ビアンも治安維持部隊アードゥルの動向に疑問を持った事を思い出す。
「そういえば、異国民の件を対応していた隊員達も、地震後は持ち場にはいなかったな」
「そういう事なんだろう。異国民襲撃に地震発生と私達の生活が脅かされている事より、よっぽど熱心な事案があるのだろう、連中には。事故の予防策に講じるでもなければ、その対応を徹底するでもない。その結果が、今日の私や去年のあいつだ」
「じゃあ、言えばいいじゃん。どうして仕事をちゃんとしないのか、って」
ライゼルがそう言ったものの、事態はそんなに簡単な事ではない。ライゼルの言葉に、トッドに代わりビアンが答える。
「アードゥルは国王直属の組織だ。厳密に言えば、率いているのはセイトラスという人物だが、命令系統の頂点は国王ティグルー閣下その人だ」
「それがどうしたの?」
「分からん奴だな。アードゥルが事故や事件よりも隠されている何かを優先しているのは、ティグルー閣下の御命令だという事だ。まさかとは思ったが、本当に勅命を受けていたとはな」
「それじゃあ、王様はグロッタの人達を大事にしてないってこと?」
「閣下は思慮深い御方だ。何の理由もなく臣民の命を軽視したりしない」
「何か理由があれば、命を軽んじていいの?」
「そう言ってるんじゃない。何か余程重要な事がグロッタにはあるのだろう。その土地の人間にすら知らされていないのだから、俺なんかに知る由もないだろ」
ややつっけんどんな物言いになってしまうビアン。ライゼルの質問が煩わしいというより、それに対し正確に答えられない立場にいるのがビアンにとってはもどかしい。本来であれば、情報共有できているはずなのだが、王命によってそれが適わなくなっている現状だ。
そんなビアンを余所に、トッドは更に続ける。
「構わんさ。グロッタに住む私達は、自分達で生きていく。国王が何を考えているのかなど関係ない。仕事があって、ソノラを養っていければ、それに越した事はない。私達はまだましな方だ」
「どういうこと?」
ライゼルには、トッドが言わんとすることが分からない。故に尋ねた訳だが、返ってきたのは質問だった。
「フィオーレにはいなかったか? 輪無しは」
初めて聞く言葉に、山彦のように返すライゼル。
「輪無し?」
その事情に詳しいビアンが、トッドに代わり説明する。
「所謂、身分証を持たない国民の事を指している。お前達が知っている人物だと、オノスがそれに該当するな」
「そういえば、オノスのじいちゃんは身分証付けていなかった」
「おそらく[[rb:星脈 > プラネットパス]]が十全に機能していないんだろう。教会の検査に引っかかった者は、身分証を剥奪され、臣民としての国の保障を受けられなくなるんだ。お前達も十年前に検査をしているはずだ。その証がお前達の首にある身分証だ」
「受けたけど。どうして? どうして星脈が元気じゃないと、身分証を取られるの?」
「それはウォメイナ教の教えにあるように、星脈を持たないという事は不完全な命と見做され、生を全うする事は出来ない。故に、星脈を持たぬ者は次の命に希望を託し、早く人生を終えるよう勧められている」
「つまり、早く死ねってこと?」
「言葉を選ばなければ、そういう事だ」
「ひどい!」
「何が酷いものか。星脈がないという事は、生命の源であるムスヒアニマをその身に宿す事が出来ないんだぞ? つまりは穢れた状態が続いているという事だ」
ビアンの解説に付随する形でトッドも加勢する。
「少年も[[rb:牙使い > タランテム]]なら感覚的に理解できるはずだ。【牙】を出現させ、[[rb:星脈 > プラネットパス]]を酷使した時の事を。星脈を持ってないという事は、あの状態が生きている限り永久に続くという事だ」
そう言われてライゼルは、【牙】を過剰行使した際の倦怠感を思い出す。あの身体が鉛になったかのような如何ともしがたい虚脱感には覚えがある。あれが常態化しているとなると、余程酷なものだと理解できる。
「星脈って後から作れないの?」
「心臓を増やそうとするくらい無理な事だぞ。そもそも備わっていないのが異常な事なんだ。そういう連中を健常者と同じように扱う事は出来ないさ」
「それは思慮深い国王様が決めた事なの?」
今のライゼルの皮肉めいた物言いは、自分の影響だろうかとビアンは反省する気になる。
「お前を王都に連れて行くのが嫌になったぞ。そうだ、前国王がお決めになられた事だ」
お上が決めた事、そう言い聞かせてもライゼルの溜飲が下がる訳もなく。
「なんか納得できない。そんなに星脈って、身分証って大事なの?」
その質問には、ビアンではなくトッドが答える。
「この国で生きていく上で、何よりも大切だ。星脈が、延いては【牙】があったからこそ、凡庸な私でも人並みに生きていける。これがなければ、私はソノラを引き取る事なんて出来なかったな」
改めて身分証の事を意識したライゼル。これまで着用が義務付けられていたから、ずっと身に付けてはいたが、それ程この存在を意識した事も、有難がった事もない。ただ、何の気なしに身に付けていた物。そう考えれば、ダンデリオン染めや六花染めの方がよっぽど愛着がある。
首に付けられた、出身や身分を表す物。人体を統制する脳がある頭と、臓物を内包した胴体を繋ぐ、『首』に付けられているという意味を考えれば、自ずと納得できるものだとビアンやトッドの大人達は思っている。
何故、手や足などではなく首なのか。それは、手足がない者も存在するだろうが、首がなくては生きてはいない。逆説的には、生きている者には皆、首がある。だから、生きている者に与える身分証は、首に装着するよう義務付けられている。それを持たぬという事は、このベスティア王国では死んでいるものと見做されていると同義だ。
「本当に?」
先程から問い続けるライゼルであったが、この問いは何を意図したものかビアンもトッドも、延いてはベニューさえも見当が付かなかった。どの話題の何に琴線が触れたのだろう?
「ライゼル、今のはどの事について確認しているんだ?」
「ソノラの事だよ。トッドは、【牙】がなかったら本当にソノラを引き取らなかった?」
トッドは今日一番に弱り果てる。これまでの食い下がる部分と若干異なる気がしたのだ。国の在り方に疑問を持つというなら、トッドにも理解できる話だが、まさか自分の思考の是非について問われる事になろうとは。最も私的な部分の為、トッドは何と答えていいやら挨拶に困る。
「何度も言っているが、私はそう考えている。【牙】による経済活動は、他の職業と比較しても好待遇だ。もちろん気枯れの危険性も考慮せねばならないが、他の才能を必要としない能力というものはこれ以上にない強みだ。それがないとなると、私のような凡俗は、とてもではないが子を養うなど…」
トッドが言っている事は、ライゼルには理解できないが、ビアンやベニューには共感できる。
例えばビアンの場合、己の劣等感を払拭する為に勉学に励み、結果的に学園都市スキエンティアでも好成績を修める事が出来た。だが、生まれながらにして【牙】を持っていたなら、どうするかは定かではないが今とは違った職業選択をしていたとも思うのだ。実際そうしたように、他人から距離を取るような形で、官吏を目指したりはしなかっただろう。
ベニューも、【牙】の有無を問わず母と同じ染物屋にはなっていただろうが、それでも【牙】を持つ自分を夢見た事が一度もないという訳ではない。二代目フロルを名乗ってはいるが、未だその知名度は母に遠く及ばない。自分にも母のように【牙】があれば、【牙】を発現し得るだけの強い意志があれば、母のような稀代の天才になれるのではないかと夢想した事もある。
ただベニューもビアンも、今の自分を特別卑下していないし、むしろ誇らしく思っているくらいだ。他と比べて見劣りしない個性を、魅力を自身もまた持っているのだと気付かせてくれた存在があるから。
その二人が視線を注ぐ先に、まだトッドの言葉が腑に落ちてないライゼルがいる。
「【牙】は俺の自慢だし、なかったらこれまで出来なかった事も今以上にあったろうけど…う~ん」
上手く呑み込めず、腕組しながら首を捻り出す始末のライゼル。
この話題の行く末がどこへ向かうやら分からなくなって来た頃、会話を交えながらも作業を続けていたトッドの手が止まる。
「完成だ」
そう言ったトッドの手には、輝星石を削って作られた守り石がある。
「それがソノラちゃんへの贈り物なんですね」
一息ついてみせるトッドの手から、[[rb:霊気 > ムスヒアニマ]]が霧散し、【牙】はどこへともなく姿を消した。
「ああ。もう今日はこれ以上他の作業を進められなくなってしまったが」
一度【牙】を発現させ、既に消失させた為にもう今日はこれ以上の加工作業を行えない。ただ、それ以上は言葉を続けなかったが、言外にそれを完成させる事が出来た達成感がトッドの表情から窺える。輝星石に細かい切れ込みが入れられており、まるで花弁のように見える。霧散したトッドの霊気を受け、仄かに光を放つ姿はどこか幻想的だ。
その完成した守り石に一行が見惚れていると、工房の裏口からこちらを見ている誰かにトッドが気付く。
「ソノラ、こっちへおいで」
「……」
そう呼び掛けられても、扉に姿を隠し、一行に近付こうとはしないソノラ。
「はじめまして、ソノラちゃん。私はベニュー」
「俺はライゼル」
初対面の自分達がいる事で、警戒しているのかと思ったベニューが自己紹介をするが、それでもソノラは身動き一つせず扉の後ろから顔だけ覗かせ、姿を見せない。
「いつもこんな調子なのか?」
「元々、私に懐いてはいなかったが、最近は特に寄り付かない。守り石製作の準備を始めてからは、まともに口も利けていない。恥ずかしい話だ」
ビアンの問いに溜息交じりに答えるトッド。ソノラと上手く意思疎通が図れていない事が、彼に余計な重圧を与え、父親の役割を全うできていないと落ち込まさせるのだ。
「ソノラちゃん、見て見て。綺麗な石があるよ、近くにおいで」
綺麗な石、という言葉に反応したのか、おもむろに身を乗り出してソノラはそれを確認しようとする。
「なんだ、興味あるんじゃん」
思わずライゼルが漏らした言葉に間髪入れず、
「ない!」
と言って、また扉の向こうへ引っ込んだソノラ。
「死んだお前の父さんから聞いた。ソノラは守り石が欲しいとおねだりしていたみたいじゃないか」
「……」
「あいつが贈ろうとしていた物とは違うかもしれないが、私なりに精一杯作ったんだ。受け取ってくれないか?」
「いらない! ほしいっていってない!」
ソノラはトッドに近寄らないどころか、丹精込めて作った守り石の受け取りを拒否したのだ。これには流石に心を痛めるトッド。
ソノラのあまりの強情ぶりに、ライゼルも口を挿まずにはいられない。
「父ちゃんがソノラにって作ってくれたものだぞ。本当に要らないのか?」
だが、改めて確認しても頑として拒否するソノラ。
「いらないもん! ソノラはわがままじゃないもん!」
「これくらいの事を我侭だなんて私は思っていないぞ。それに、一度手に取って見てくれたら、後は仕舞っておくから。な?」
そう諭しながら歩み寄るトッドだったが、その守り石に焦点が合わさったソノラの目からは、大粒の涙が零れている。
「いやあ~!」
突然大声を上げたかと思うと、ソノラは工房の勝手口から裏の保管庫の方へ飛び出してしまった。
「あの子、どうしたの?」
「尖っている物が怖かったとかでしょうか?」
一行が疑問を口にしている一方、トッドはがくりと肩を落とす。幼い故にその守り石の意味や価値が分からないにせよ、目の前でこうも拒絶されてしまっては、トッドは立つ瀬がない。
「ねぇ、ソノラを追い掛けなきゃ」
ライゼルに促され、皆が裏口から外へ出る。そこは開けた場所を大きな岩をぐるりと並べて囲んで作った保管庫だった。岩で作られた外壁は大人の身の丈の倍以上あり、加えて手や足を掛けられそうな場所もない。不届き者が盗みを働こうにも、これを乗り越えていくには骨が折れそうだ。
…のはずなのだが、そこにはソノラ以外にも誰か人がいた。もちろん班長ではない、その輪郭は女性の物だ。
「おや。余計なおまけが付いてきたよ」
そこには、先日ソトネ林道で相対した三つ編みの女がいる。ただ、一緒に行動していたと思われる、行商の格好をした少女達の姿はなく、単独でこの場に訪れていた。おそらく岩場は【翼】を使って飛び越えてきたのだろう。
「お前はこないだの異国民!」
「ソノラちゃんをどうするつもり?!」
ライゼル達が訪れた時、ちょうど三つ編みの女が、ソノラの手を取り、【翼】を展開しようとしている所であった。
「私好みのいい子を見つけたと思ったら。私も覚えているよ、地べたを寝転がっていた男に、私に痛い思いをさせた獣擬き、そして可愛い『ライゼル』」
「ん?」
三つ編みの女からの呼称に戸惑いを覚えたライゼルを余所に、トッドは娘を取り返すべくにじり寄る。
「どこから侵入したかは知らないが。その子は、ソノラは私の子だ。こちらへ返してくれ」
「まったく、男ってのはどいつもこいつも私を苛付かせてくれるよ。どうして私からこの子を奪おうとするかねぇ?」
「妙な事を言うな。その子の親族がいない事は確認できている。だから、私が引き取ったんだ」
トッドが自らの正当性のある親権を主張すると、三つ編みの女はいやらしい笑みを浮かべる。
「アンタが父親だなんて、それこそ信用に足らない話さ。なんせ、この愛らしい子は何かに怯えた様子で外へ出てきたんだよ? そして、そこから現れたのがアンタ達さ。という事は、この子はアタシに助けを求めたんじゃないのかい?」
三つ編みの女は視線を促し、女に手を取られたソノラが抵抗する素振りを見せない事をトッドに見せつける。その直後、ソノラは意識を失ったかのように急に倒れ、ぐったりとした様子で女に抱きかかえられる。
「ソノラに何をした!?」
突然気を失い、立っていられなくなったソノラを見て、トッドは女を問い詰める。
ソノラが倒れる様子を見たビアンは、経験則からあれが何かを推測する。
「麻痺毒だ。あの女は神経に障る液体を所持している。おそらく娘は、それで体の自由を奪われたんだ」
「その子にひどい事をするな!」
ライゼルも、その麻痺毒に侵されたビアンの症状を知っている。それを年端も行かない幼子に振るうなど、正義感に燃えるライゼルが見逃せる行為ではない。
女も女で、ライゼル一行には因縁めいた感情を憶えている。
「お前達こそ。私はお前達がした愛娘達への仕打ちを忘れちゃいないよ!」
「よくもぬけぬけと。聞けば、ライゼル達は木に括り付けただけだろう」
ビアンも姉弟から少女達への対処を聞いたが、心優しい姉弟らしい安全な方法での無力化だった。
だが、女はそんな事で許すつもりはないらしく、どんな手段でさえ愛する娘に手を出した事実がそもそも認められない。
「それを許せないって言ってんのさ、薄汚い男共!」
三つ編みの女の怒りは頂点に達したらしく、侮蔑の言葉から間髪入れずに再度麻痺毒を振り飛ばしてくる。どこかから取り出した様子はなく、振り翳した手から直接飛び散っていた。リカートの石化能力やテペキオンの真空波を見た後だと、素直に事態が飲み込める。女の【翼】の能力は、手から麻痺毒を生み出す事に違いない。
「避けろ」
一か所に集まっていた一行は、ビアンの合図と同時に離散し、飛び散る麻痺毒を回避する。事前に女の挙動を察知していたライゼルとベニューが、ビアンとトッドの手を引く形で補助したので、難なく躱す事が出来た。
「ビアン、あれは誘拐でしょ?」
「そうだ。ソノラは未成年で、保護者のトッド殿が承諾していないとなると、あの女を現行犯として取り押さえる必要がある」
ライゼルとビアンのやり取りを耳にしながら、こめかみを振るわせる三つ編みの女。
「誰がアタシを捕まえられるってんだい。[[rb:有資格者 > ギフテッド]]を舐めるんじゃないよ」
テペキオン同様に己の矜持を見せる三つ編みの女。そして、それは決して驕りなどではなく、自ら頼みとする【翼】への自信に他ならなかった。
女は予備動作もなく瞬時に展開した背中の【翼】をはためかせ、大きな風をライゼル達にぶつける。その間もソノラは女の腕に抱かれていたが、どうやらそちらには何の風圧も掛かっていないようだ。気を失ったままだが、風が当たっている様子でもない。つまり異国民の女は、腕の中のソノラを庇いつつ、任意の方向に風を向ける事が出来るようだ。
「うおっ」
「きゃっ」
さすがのライゼルとベニューもこれには反応が遅れた。人間の挙動であれば、ある程度の推測は立てられるが、【翼】という異物に対しての慣れがまだそれ程ないのだ。これまで【翼】を目撃したのも、今回を含めまだ六度だけだ。風の流れから異国民の動作を予測するには、背に生えた一対の【翼】に対する理解がまだ足りないのだ。
突風に煽られ、姿勢を崩すライゼル、ベニュー、ビアン、トッド。上半身が後方に仰け反り、仰向けに倒れかける。
女はその隙を逃さず、四人に対し急接近を仕掛ける。テペキオン程の高速移動ではないが、体勢を崩している四人の懐に飛び込むのは容易な事であった。そして、鼻歌でも歌うような軽やかさで、尻餅を突いているライゼル、ビアン、トッドの首に麻痺毒を塗布する。寸分の狂いなく塗りつけられたその液体は、三人の喉元をぐっしょりと濡らした。
「―——かっ、は…」
「どうだい、アタシの魅力に痺れただろう?」
三つ編みの女が微笑を湛えて見つめる先に、もがき苦しむ三人の姿があった。
ベニューが咄嗟に駆け寄るが、三人は声にならない呻き声を上げるばかり。塗布された喉から徐々に麻痺が進行し、体の機能を鈍らせていく。結果、三人は呼吸が困難になっていた。
「あんな一瞬で…皆さん大丈夫ですか?」
症状を伝えようとするビアンだったが、喉の神経が麻痺し呼吸がままならず碌に返事もできない。それは、ライゼルとトッドも同様だった。自らの両手で首を指圧するが、その箇所に感覚がない。自身の喉には何の感触もないのだ。
「うふふふ、煩い男共は静かになったね。じゃあ、この子と一緒に行こうかね、『ライゼル』」
障害を難なく排除し、ご満悦の表情の三つ編みの女。まるで我が子を愛しむかのようにソノラを抱きかかえながら、ゆっくりとベニューに近付く。
(動けるのは私一人、どうする?)
ベニューはこの状況を努めて冷静に分析する。前回もソトネ林道で相対したこの女性は、同胞であるテペキオンやルクからライゼルの事を聞いて、付け狙っている。今回はたまたま遭遇したに過ぎないが、ソノラに加え、ライゼルをも連れ去ろうとしている。
(これがテペキオンっていう人が言ってた『狩り』?)
フィオーレでの一件以来、これまで戦局を担ってきたライゼルが無力化された。加えて、姉弟を引率しているビアンにも指示を仰げる状態ではない。現状、ベニューが独りで判断し、独りで行動を起こさねばならない。
(今、優先すべき事は何? ソノラちゃんを取り戻す事? でも、後ろの三人も放っておけない。じゃあ、誰かの助けを呼びに行く? いや、その間にライゼルやソノラちゃんを連れ去られちゃうか…)
大声を出し周囲に非常事態という事を知らせる事も検討したが、それをした後の相手の行動が読めない。ソノラだけを連れて逃げ去るのか、それともベニューを素早く始末しようとするのか。
考えれば考える程、ベニューの心はざわついてくる。自分の判断と行動に、ここにいる皆の命運が掛かっているのだ。意識しなくとも重圧が迫ってくる。自分がひどく緊張しているのだと実感させられる。
(優柔不断な私め。こんな時にまで悩み倒しちゃうかぁ…じゃあ、もうあれしかないや)
結局、諸々の要素を考慮した結果、その全てを放棄し、何も考えないという手段を取る。
(考えても答えが出ないなら、考えずに行動できるライゼルを真似すればいいんだ!)
考えすぎる自分では答えが出せずとも、常時考えて行動しないライゼルを模範にすれば、活路が見出せると、ベニューは結論付ける。
(こんな時、ライゼルならきっとこうする!)
様々な事象が展開されており、考慮せねばならない事は少なくないが、ベニューに戦闘の構えを取らせる最大の理由が弟の身を案ずる心だという事は間違いない。本人はライゼルから行動指針を借りたつもりでいるが、結局ベニュー自身で答えを出しても、変わらなかったはずだ。
「ライゼルは夢を叶えるんです! あなたと一緒には行きません!」
「強がってみせる表情も愛らしいじゃないか。なに、愛娘達も最初は我侭を言ってたけどね、すぐに[[rb:母親 > アタシ]]の言う事を素直に聞くようになったもんさ」
「?」
三つ編みの女の物言いに、疑問符が浮かんだが、そんな事を気にしている場合ではない。目の前に脅威が迫っているのだ。致死性こそなさそうだが、成人男性をも一瞬で無力化できる麻痺毒を保有している女が、ソノラの身柄を拘束した上で、次はライゼルを名指ししている。否応なしに、ベニューの喉は緊張でひり付く。
「さぁおいで、『ライゼル』」
「そうはさせません!」
背に【翼】を生やしたままの異国民の女が、ベニュー達に向かって歩を進める。
と同時に、ベニューは女との間合いを詰める。ライゼルに負けず劣らずの瞬発力で、二[[rb:間 > けん]]程離れていた女の懐へ進入。今の所、女が反撃する様子はない。それを見たベニューは、成功を確信した上で得意技の発動姿勢に入る。
「母さん直伝―——」
狩る側として油断していたのだろう、女はまさかベニューが攻撃を仕掛けてくるとは思っていなかったようで、ベニューの接近に対し、何の構えも取っていない。
であれば、隙だらけの相手に対し仕損じるベニューではない。ソノラにぶつけないようにと配慮し丁寧に体運びをしつつも、同時に弟を守らんと気負う余りに、勢いの良さと思い切りの良さが見えている。
躊躇なく詰め寄ったベニューは、駆ける勢いを殺す事なく上半身を後方に捻り、両の手首を腰の位置まで引きながら重ね合わせ、握り拳に力を溜める。その淀みない一連の動作の後、駆け足は力を伝える軸足に変化しており、最後に着地した足で踏み込み、姿勢を整える。下半身の関節を痛めかねない無茶な動作だが、フロルに鍛えられたベニューであれば造作もなく行える。
もしこのベニューの姿を、フロルを知る者が見ていたら、フロルへの潜在的恐怖を思い出していただろう。事実、ライゼルは呼吸困難とは別に息苦しさを憶えたし、目前にそれが迫っている三つ編みの女は、あまりの迫力に射竦められてしまった。
故に、この一撃は避けようがない。ベニューが当然のように生み出した無理のような道理が、積み重なって必中という結果を生み出す。
「―——『[[rb:花吹雪 > はなふぶき]]』!」
掛け声と共に両手の握り拳を一気に開き、まるでそれは花が咲いたかのようだ。その繰り出された花の掌底にベニューの全体重が込められ、三つ編みの女の腹部に見舞われる。ライゼルの『蒲公英』のように、相手の身体に霊気を流し込む事は出来ないが、接触した部分から拳圧のようなものが体を通り抜け、一陣の風のように吹き抜ける。その様子が風に靡く花びらのように見える事から、『[[rb:花吹雪 > はなふぶき]]』と命名されていた。
フロル直伝の技を受け、女は堪らずソノラを放してしまう。
(伊達に母ちゃん直伝を謳ってないや…さすがベニュー)
弟のライゼルも、喉の不具合を忘れ、思わず身震いしてしまう。目の前で鮮やかに披露された大技は、まごう事なき母のそれなのだから。
技を放ったベニューは、女が溢したソノラを地面に落ちる前に掴み抱きかかえる。ソノラの存在があり、技の命中にだいぶ神経を使ったが、女がソノラを抱きかかえていた為に両手が塞がっていたの事も、ベニューの大技成功に一役買ったのだから差し引きはとんとんだ。
「トッドさん、ソノラちゃん取り返しました!」
敵の攻撃を受け負傷している弟に代わり、トッドとソノラの笑顔を守ったベニュー。振り返り見せるその表情には、安堵と共に誇らしさが見える。
のだが、それを受けているトッドや延いてはライゼルとビアンも、未だ険しい表情のままだ。
「そっか。まだ苦しいんですよね」
普段荒事をやらないベニューが異国民の女に仕掛けたのも、元を辿ればこれまで戦闘を一手に引き受けていたライゼルが無力化されたからだ。地に伏す三人は、口の中に溜まった唾を飲み込む事も出来ず苦しそうだ。
気を失っているソノラを抱えたまま、三人の口内から唾を吐き出させるベニュー。それでも残る不快感はあるだろうが、これで唾液が詰まって窒息する事はないだろう。
だが、それでも苦痛が治まらないのか、話せない代わりに何やら目でベニューに訴え掛けてくる三人。
「どうしたら…」
そう思案するも、何か手段が見当たる訳ではない。
その時ふと思い至る。八方塞がりになりはしたが、何も独力で解決しなければならない訳ではない。今この場には、その能力を行使した異国民がいるではないか。そう、分からなければ尋ねればいいのだ。答えを知る者がそこにいるのだから。
そう、いるのだ。ここには、解毒法を知っており、ベニューからの一撃を受け、ベニューに対する手加減を捨てた者が。
それは、ベニューが持ち主に治療法を問おうと、背後を振り返ろうとしたその瞬間だった。
「初めての反抗にしては、随分思い切りがよかったわ」
ベニューが振り返った先には、苦痛に顔を歪ませながらも、依然脅威として存在する異国民の女がいた。
「えっ!?」
ベニューも、まさかあの一撃を受けて意識を保っていられる者がいるなど、想いも寄らなかった。思いの外に会心の一撃だったので、その女が常識外れの異能【翼】を有する予測不能な存在だという事を失念してしまっていた。
そのせいで、女の接近にわずかに反応が遅れてしまう。風読みの能力も、ベニューが対象に集中していなければ機能しない。完全に注意が逸れてしまっていた為に、女の気配に気付けなかったのだ。
そして、ベニューに手が届く距離まで近付いた女は、優しくベニューの胸に触れる。触れた指先からは、赤黒い光を帯びた麻痺毒の液体が。そのまま、ベニューの六花染めに浸み込んでいく。
「あっ、ぁあ…」
ベニューはその麻痺毒を初めて受けた訳だが、その様子はこれまでとは明らかに違っている。これまで乳白色だった液体が赤黒い光を放っているのもそうだが、女の手からその液体を付着させられた瞬間、ベニューは途端に全身から力が抜けるのを感じた。
ソノラどころか自らを支えられないベニューは、その場に頽れる。気絶しているソノラは、ベニューの腕から滑り落ち、仰向けに倒れたベニューの胸の上に凭れ掛かり眠り続ける。
女がベニューの顔を覗き込むように、無抵抗の少女を真上から見下ろす。
「これはね、これから『ライゼル』とソノラがアタシの『娘』になる為の儀式さ。怯える事はないよ。心を委ねればいいだけだよ」
「い、いやぁ…」
気を失っているソノラは当然だが、ベニューも女がやらんとすることに抵抗する事が出来ない。足掻こうにも、体は効かず、更に徐々に意識が遠退いていくのだ。まるで景色に靄が掛かっていくようで、意識を保つ事が出来ない。女の言う通り、心を委ねてしまう。
「さぁ、ゆっくりと目を瞑るんだよ。次、目を開けた時、その目に映るアタシがお前達の母親さ」
その秘密は、ベニューとソノラにのみ付けられた液体にある。見た目こそライゼル達が掛けられた物とほとんど差異はないが、その効果には雲泥の差がある。ベニュー達に塗布された麻痺毒は、これまでの物とは比べ物にならない程に、その対象者の体を蝕んでいく。ライゼル達の時とは違い、体の自由を奪うのではなく、心を支配する。それがこの三つ編みの女の【翼】の本領。
(だ、めだ。わたしが、あきらめたら、だめなの、に…)
ベニューの想いとは裏腹に、彼女の瞼はゆっくりと閉じていく。この行為がどれだけ危険な事か直感的に理解しているというのに、抗えない。【翼】の常軌を逸した力の前には、人の意志とはあまりにも無力だった。
ついにベニューは瞳を閉じて、女の術中に嵌ってしまった。最後の砦であったベニューも無力化されてしまったのだ。
誰にも邪魔されずに目的が達成されようとする現状に、女は思わず笑みを溢してしまう。
「生意気な小僧共は地に伏し、『ライゼル』とソノラはアタシの『娘』になる…こんな愉快な画が他にあるかい」
状況に満足がいった女は、最後の仕上げに取り掛かる。背の【翼】を大きく広げたかと思うと、ゆっくりそれでベニュー達を覆い隠す。
「『ライゼル』もソノラも、その可愛らしい目をお開け。そして、アタシの顔を見るんだ。お前達の母親の顔をね」
眠る二人の少女に恍惚の表情を向ける女の傍らで、ビアンはこの状況を打破しようともがいていた。
(どう考えても、これは危険な[[rb:呪 > まじな]]いの類だろ。あの時の少女達もこれを喰らってしまったのか…!)
先の【翼】で覆い隠す行為が、術の発動姿勢なのか、それとも、秘め事であるが故に人目を憚っている心理からくる行動なのかは定かではないが。この状況を見て、ビアンには思い当たる事があった。それは、ソトネ林道で遭遇した行商風の少女達の事である。
(この女は、自分が気に入った少女達を誘拐しては、呪いで支配下に置いていたのか。だから)
以前出会ったあの少女達には、意思のようなものが感じられなかった。おそらく、この【翼】の能力によって、意志や感情を支配されていたのだろう。有機物無機物問わず石化させるリカートの能力を思えば、精神を支配する程の危険な【翼】があっても不思議ではない。
これから行われようとする行為が如何に危険かを十分に理解する事は出来たが、それを阻止する手立てが今のところ見当たらない。
唾を出してもらい僅かに楽になったが、やはり徐々に息苦しくなっていく三人。もがいた時に首から胸部へ垂れていたのだろう、気付けば麻痺は胸部まで侵攻していて、もはや十全に呼吸ができない状態に陥っている。
(万事休す、か…)
ビアンが諦めかけたその時、その傍らで青白く光る何かが目の端に止まる。
(おいおいおい!?)
息も絶え絶えに苦渋の表情を浮かべるライゼルが、右手に[[rb:霊気 > ムスヒアニマ]]を漲らせているのだ。ベニューの身に危険が差し迫っているこの土壇場で、ライゼルは刃向かう力【牙】を求めているのだ。
先日ミールで経験した渦の中心での無呼吸状態よりなお過酷なこの状況。喉元、正確に言えば下顎から肩部や胸部に至るまでを麻痺させられて、本来ならばまともに【牙】を扱える状況ではない。
「おっえぉおおおーーー」
言葉にならない咆哮を上げながら、青白い光を更に発光させるライゼル。そして閃光が収束した暁に、その右手には広刃剣が握られている。
その様子を傍から見ていたビアンには、ライゼルが何をやろうとしているか想像がついた。いや、ついてしまった。
そしてビアンの予想通りに、ライゼルは【牙】精製後も霊気を体内に掛け巡らせる。
霊気はウォメイナの教えに於いて健康の指標。気を充填させる事で、自らの体組織を活性化させようと、ライゼルが考えてやったかどうかは定かではないが、ビアンはその可能性があると期待した。今回地上から通常の半分以下しか吸い上げられなかったが、それでもこれは、破格の星脈を持つライゼルだからこそ、出来るかもしれない荒業ではあった。
ただ、偶然の産物か、ライゼルの体内の麻痺毒は徐々にではあるが中和されていっている。これは、術者の女にすら想像できなかった事ではあるが、【牙】と【翼】の関係同様に、ライゼルの体内のムスヒアニマと女が掛けた液体とは、相反する性質を持っているのだ。少量の液体と体内を巡る霊気という量による差で、ライゼルの霊気が麻痺毒を凌駕しつつあるのだ。
それでも、完全に体の自由を取り戻した訳ではない。なんとか立ち上がり、反抗に打って出るのが関の山だ。
そして、ライゼルが霊気を循環させている間にも、女はベニュー達の支配を完遂する最終段階に入っていた。
「邪魔をするんじゃないよ、[[rb:牙使い > タランテム]]。アンタはこの後で姉の手に掛って死ぬんだからね!」
「[[rb:おえおええあいぃあいいああぅっ > おれのねえちゃんになにしやがる]]!」
ライゼルの怒気の込められた一閃が、二人を包む女の【翼】を強襲する。
が、三つ編みの女も、ただ無防備な姿を晒している訳ではなかった。少女二人を包むように展開していた【翼】には防御の役割も持たせていた。女は自らの【翼】に麻痺毒を纏わせており、先のテペキオン戦の風の檻同様に、赤黒い光がライゼルの【牙】での突破を拒んでいる。これも所有者に対しては害を為さないのだろう、鉄壁の護りを十全に果たしている。
「ふんっ、ぐぅ!」
赤黒い光の守りを破ろうと、それを為し得るだけの霊気を集中させようとするが、思ったように【牙】へ注ぐ事が出来ない。
麻痺により体が利かないのもそうだが、ここに来てライゼルの[[rb:星脈 > プラネットパス]]が悲鳴を上げているのだ。
それもそのはず、ライゼルは先程のテペキオンとの戦闘に続き本日二戦目であり、更に先の戦闘で霊気の再充填を行ってしまっている。
これは、同日二回以上の【牙】の使用に当たる。そもそも、二回分の発動に耐えられるライゼルが常軌を逸した存在ではあるのだが、そのライゼルを以てしても限度を超えた発現には星脈が保たなかったのだ。
「ちっくしょー、ねえちゃんをかえせぇ!」
すぐ目の前で唯一の肉親が、悪漢の手に落ちようとしている。だが、それを阻止するには力が足りない。
「そんならっ!」
せめぎ合う【翼】から広刃剣を離し、無防備な背中や頭部を狙うが、この動きにも【翼】は反応して防御してみせる。所有者に指一つ触れさせる事なく、防御の役割を全うし続ける【翼】。狙う箇所を変えても、突破を阻んでくるのだ。
歯痒い想いで必死に打ち破らんとするライゼルの脳裏に、嫌な想像がこびり付く。もし姉が、ソトネ林道で出会った少女達のようになってしまったら? 彼女達のように無気力で無感情な存在になってしまったら?
(嫌だ! そんなベニュー、見たくない!)
彼女達が三つ編みの女の術によって、望まぬ同行を強いられているのは同情する。精神を支配され、操り人形と化している彼女達の姿は、ただただ憐れだ。姉を、唯一の肉親にそんな感情を抱きたくない。
もし『愛娘』と呼ばれる彼女達から真意を訊き出せたなら、その時は力になってあげたい。
だが、その前に。これ以上、そんな不幸な少女を増やさせない。しかも、その内の一人はたった一人の肉親ベニューだ。
(目の前で家族を失うのなんて、もう二度とごめんだ!)
込められるだけの霊気は、全て【牙】に注いだ。ライゼルの身体には、最低限の霊気しか残っていない。これ以上、大地から霊気を吸い上げようものなら、星脈が異常を来すだろう。
だが、それ程までに、限度いっぱいに強化した【牙】を以てしても、三つ編みの女の儀式を妨害するに至らない。如何に広刃剣の刃を押し付けても、女を押し退ける事も出来ない。
「無駄な真似を。さぁ、『ライゼル』、ソノラ。瞳を開いて、新しく生まれ変わるんだよ」
このグロッタで見つけたソノラ、そしてソトネ林道からずっと目を付けていたベニューを、いよいよ自らの『愛娘』に加える事が出来る。手こずりはしたが、それは詮無き事。成就する事を思えば、安い骨折りだ。愛でる対象が増えるという事実の前では、その苦労さえも心地いい思い出となる。
「ソノラは長い目で育てるとして、『ライゼル』にはすぐにでもアタシの手伝いをしてもらおうじゃないか。アタシに一撃を喰らわす程の体捌きができるんだ。これからの娘探しも捗りそうだよ。フフフ…」
二人の少女を手籠めに出来ると確信しきっており、悦に浸りながら勝手に少女達の今後の人生設計を考え始める三つ編みの女。
その姿にライゼルは、得も言われぬ恐怖と、抑えようのない怒りの念を覚えた。
「ベニューは、俺と王都に行くんだよ。その後の事は一緒に考えるって約束してんだ。お前が勝手な事を言うなよ」
「煩いガキだねぇ。憎らしいアンタは、また痺れさせて動けない所を嬲り尽くして、『ライゼル』手ずから殺させるから。楽しみに待ってるんだよ」
「ふざけんな! 弟の俺に手を挙げた事はたった一度しかないんだぞ」
「一度も二度も大した違いはないさ。その二度目で死ぬってだけ」
「返せ! 俺の家族を返せぇっ!」
「無理な相談さ。もうアタシの娘なんだ」
ライゼルの悲痛な叫びも虚空に消え、ベニューとソノラがしたり顔の女に篭絡されるその時。
一人の男の腕が、少女達に覆いかぶさる女の胴を抱きかかえる。
「ソノラに、私の娘に手を出すな!」
その力強い一括と共に、女を両手に抱え、大きく投げ飛ばすトッド。ライゼルが【翼】を引き付けていた為に、他の防衛手段がない女は、トッドに対し生身を晒す他なかったのだ。
「トッド!」
「少年の言う通りだ。これ以上、あの輪無しに勝手な真似はさせんぞ。私達の家族を守る為に」
「おう」
ライゼルとトッドは、二人して未だに眠り続けるベニューとソノラを背に庇うようにして立ち、女に向かって身構える。
その後方で、ようやくビアンも麻痺から解放され、完全とまではいかないが体の自由を取り戻す。
「以前喰らった時も、作用は強かったが持続性はそれ程なかったな。ベニューが時間を稼いでくれてなければ、今頃どうなってたか」
保護した少女を異国民にかどわかされたとなれば、どんな処罰を受けるか分かったものではない。いろんな意味で肝を冷やしたビアン。
「おい、役人。何を暢気な事を言っている? 輪無しの女は未だ健在なんだぞ」
その指摘を受け、ビアンも女に視線を向ける。ライゼルとトッドは身構えたまま、ずっと注視していたが、しばらく動けずにいた女は、ようやく上体を起こしゆっくりと立ち上がるに留まる。まだ十分な距離を保ったまま、反撃に移る様子はない。
「二度目だよ? アンタがこうやってアタシの邪魔をするのは。地上の屑風情が、しかも汚らわしい男の分際で。アンタ一体何なんだい?!」
三つ編みの女の怒りは、既に頂点に達していた。再三に渡るライゼルによる妨害に、業を煮やし続けていた女の堪忍袋の緒がついに切れた。
ライゼルも、二組の家族を引き裂こうとする異国民の女に対する怒りが抑えられず、言葉の意味を然程考えずに感情のままに言い返す。
「俺はライゼル! 母ちゃん譲りの【牙】が自慢の16歳だ、覚えとけ!」
ライゼルの頓珍漢な名乗りに、三つ編みの女は呆気に取られつつも、驚愕する。
「アンタが、ライゼル…?」
「おう。お前、さっきからベニューの事をライゼルライゼルって。気味が悪くて蕁麻疹が出たぞ」
ここに来て、三つ編みの女はようやく自身の心得違いに気が付く。ソトネ林道でビアンが指していたのは、この小憎らしい[[rb:牙使い > タランテム]]の少年だったのだ。テペキオンが熱を上げている人物だと、同胞のルクから聞いていたので、余程魅力的な人物なのだろうと三つ編みの女は思った。そうして、ソトネ林道で黒髪の少女を見た時、その少女が『ライゼル』なのだと誤って認識したのだった。
「なんておぞましい! こんな小汚い男の名を、アタシは、アタシは…」
ライゼルという名が少年の名だと再認識した女は、絶望に苛まれたような表情を浮かべる。
「[[rb:星詠 > ほしよみ]]様がくれた名前になんてこと言うんだ。アルなんとかって妙ちくりんな呼び方したり、間違えて覚えてたり。失礼な奴らだよ、まったく」
そうふて腐れて言うライゼルの愚痴も届いているのかいないのか、女は急にキッとライゼルを睨み付け、こう告げる。
「この醜態は、アンタを嬲り殺し、ベニューを手に入れる事で雪ぐ」
「させるかよ」
間髪入れないライゼルの否定に、三つ編みの女のこめかみは更に疼く。
「『疾風』の奴がアンタに拘る理由が分かったよ。アンタはとびっきり腹が立つガキだわ」
「なんだそれ。そんな理由で殺されかけたのか、俺」
ライゼルの気の抜けた独り言を余所に、息を吐き呼吸を整えた女は、こう告げる。
「いいわ。ひとまずソノラを預けておこうかしら。アタシが迎えに来るまで大事に育てて頂戴」
「何度来ても同じ事だ。娘は絶対に俺が守る」
「下らない虚勢だね。地上の『獣擬き』を他の『[[rb:有資格者 > ギフテッド]]』共がもう少し間引いて、仕事がやり易くなってからまた迎えに来るよ。もちろん、アンタはテペキオンより先にアタシが殺してあげるわ。覚悟してなさい」
その鋭い殺意を向けられたライゼルは、【牙】を構えたまま問い返す。
「なんだよ、逃げるのか?」
「もうお目覚めのようだしね。また手籠めにしようと思ったら、アンタ達をまた黙らせなきゃいけない訳じゃない? これ以上、『愛娘』を待たせる訳にはいかないわ」
(時間切れ、という訳か)
撤退する意思を見せている女に、俄かに安堵するビアン。あちらは大した痛手を受けておらず、一方こちらの戦力は、無能力のビアンと今日は【牙】を使えないトッド、それにもう搾りかす程の霊気も残っていないライゼルだけなのだ。戦闘を継続するには分が悪すぎる。ここで手を引いてくれるのであれば、身柄の確保が難しい現状を鑑みれば、ビアンとしては好都合だ。
だが、ライゼルの戦意は未だ衰えず、女の悪行を詰る。
「もうこれ以上女の子達を誘拐するな。っていうか、今、無理強いしている女の子達を放してやれよ」
「親子の絆で繋がれてるアタシ達を引き裂こうだなんて。やっぱりアンタは殺すべきだわ」
「どの口が言うんだ…」
女が先程しようと試みた行為は、女が思うそれには当てはまらないのかもしれない。
「よく覚えておきなさい、獣擬きのガキ。次に相対した時がアンタの最期。この『洗脳のクーチカ』が直々に嬲り殺してあげるわ」
女は屈辱を感じながらも、堂々とそう宣言した。
(コイツも名前を名乗った?!)
自らの名を告げる事をあれほど嫌っていた[[rb:有資格者 > ギフテッド]]が、自らの異名を名乗った。それはつまり、テペキオン同様にこのクーチカも、ライゼルを標的に定めたという事だ。
「次も何も。今からぶっ倒して、女の子達の居場所を吐かせてやる」
そう言って切り掛かるライゼルの太刀筋を、余裕を持った動作でふわりと浮上し躱すクーチカ。
「アタシが殺しに来るまで、精々生き延びる事ね、アルゲバル」
クーチカはそう言い残し、周囲に配された岩を軽く飛び超え更に天高く飛翔し、西の方角へと姿を消した。保管庫の内側からだと途中までしか姿を追う事は出来なかったが、どうやら依然見た眩い光を伴う移動手段は用いていない様子だった。
ともあれ、クーチカの誘拐を阻止する事が出来たライゼル達。【翼】の羽ばたく音も聞こえなくなり、どうやら本当に立ち去った様子で、戻ってくる様子もなさそうだ。
「さっきの輪無し女は、もう来ないのか?」
「おそらく。娘達の元に急いでるのは本当らしいし、標的をライゼルに定めたのだから、我々がここを立ち去りさえすれば、ここに戻ってくる事はないと考えられる」
「そうか」
一旦の安全は確保できたらしいが、まだベニューとソノラの安全が確認できていない。唯一の家族を失う恐怖を覚えたライゼルは、気が気でない。
「ねぇ、ビアン。二人とも大丈夫なのかな? 変になっていないかな?」
「断言はできないが。あのクーチカとかいう女が引き下がったという事は、【翼】による妙な呪(まじな)いが失敗したと考えていいだろう」
「本当に?」
「断言できないと言った。ただ、もし成功していたのであれば、クーチカ本人が言っていたように、ベニューを手駒にしてお前を襲わせていただろうしな。成功していれば、そのまま共に逃亡も出来ただろうし。今ここにベニューと娘がいるって事は、お前とトッド氏が各々の家族を守り通したって事なんじゃないか」
そう言われて、ライゼルとトッドはそれぞれの家族に目を向ける。横たわり、意識こそ失っているが、普段の眠っている様子と変わりない。いつもの姿でそこにいる。少なくとも、ソトネ林道で見た少女のようではなさそうだとライゼルは思った。
その姿を見ると、まだ確信は得られないが、二人は俄かに実感できる。唯一無二の家族をこの手で守ったのだと。
「ありがとう、少年。お前が戦ってくれなかったら、私はソノラを失っていたかもしれない」
「こっちこそありがとうだよ。トッドが最後の最後で手助けしてくれたから、ベニューもソノラもおかしくならずに済んだんだ」
満身創痍のライゼルは、ベニューの安全が確保された事を確認した途端、その場に座り込んだ。
それと対照的にビアンはようやく立ち上がり、疲れた顔のトッドに声を掛ける。
「子を思う親の力、しかと見せてもらったよ」
「そうだろうか。私はこれまで父親らしい事を何一つやってあげられていないが」
先の拒絶を思い出したのか、俄かに気落ちし、伏し目がちに視線を落とすトッド。
「そんな事はないだろう」
「そうだよ」
ビアンとライゼルが促す先に、いつの間にか目を覚まし、大きな泣き声で不安な想いを訴える、幼い少女がいる。横たわるベニューの腕から離れ、地べたに座り込んだまま嗚咽交じりに声を上げる女の子。
「ソノラ」
「おとうさん、おとうさん…」
ただただ、安心を与えてくれる存在を求めて、その安心の持ち主を呼び続けるソノラ。
その姿を見たトッドは、目から溢れる物にも構わず、最愛の娘の元へ駆け寄り、不器用ながらも優しく頭を撫でつける。
「怖い思いをさせて、ごめんな。私が、父さんが守るから」
「おとうさん…おとうさん、おとうさん」
泣きじゃくるソノラとそれをあやすトッド。家族の温もりを再確認している傍で、ライゼルはベニューのすぐ傍まで移動する。
「おい、起きられるかベニュー。まだ痺れるか? どこか怪我してないか?」
どうやら既に意識を取り戻していたようで、ライゼルの声掛けに、横たわり目を閉じたままベニューは応じる。
「うん、大丈夫だよ。ライゼルが助けてくれたから。ありがとうね」
「当たり前だろ、家族なんだから」
弟のその言葉を受け、やはり目を閉じたまま、喜色満面に微笑むベニュー。
「うん。私、ライゼルと家族で本当に良かったって、改めて思ったよ?」
思いがけない姉の言葉に怪訝な表情を向けるライゼル。
「変なベニュー。やっぱりまだおかしいんだろ?」
「ふふっ、どうかな?」
そうおどけてみせて、ようやくゆっくりと瞳を開く。すると、先のように虚ろな目ではなく、ベニューのいつも通りの優しい瞳がそこにはあった。
目を開き、自分の顔を覗き込むライゼルの目をしっかり見据え、ベニューは言葉を紡ぐ。
「ぼんやりだけど。さっきのこと、覚えてる。目を開けて、そこにさっきの人がいたら、私は私じゃなくなってた。多分、私の想いとか記憶とか夢とか全部奪われて…そんな風になるはずだった」
ベニューは意識が無いながらも、先程の事態を漠然とだが理解できていた。
「あのクーチカっていう異国民はそんな感じで言ってた」
そうだと断じる事は出来ないライゼル。確証がないというのもそうだが、言い切ってしまうには、言葉にするには余りにも恐ろし過ぎる仮定だ。それは、ライゼルにとっても、ベニュー本人にとっても。
「気を失っていた間、周りの事はよく分かっていなかったけど、目を開けるのが、意識を取り戻すのがとても怖いっていうのは分かったんだ。だからさっきも、気が付いてしばらくは…目を開けられなかったよ」
優しい微笑みを湛えるのとは裏腹に、ベニューは自身が感じた恐怖を吐露する。
「ベニュー、怖い思いしたんだ」
「うん、ちょっぴり。でも、ライゼルの声を聞いたらね。怖いのもどこかに行っちゃった」
そうやってやはり笑顔をライゼルに向ける姉。ライゼルはその笑みに、母の面影を重ねる。
「あ~、俺も少しだけ分かるかも」
ライゼルはふと、母を亡くした日の事を思い出す。
あの日、ライゼルとベニューは、フィオーレ村の近くの野原で遊んでいた。いつも通りにただ駆け回ったり、草の上に寝転がったりと、他愛ない遊びをして過ごしていた。
が、突然ベニューが悲鳴を上げた。ベニューは、ライゼルの背後に迫る『何か』の存在に気付き、大声を上げたのだ。悲鳴を上げたという事は、恐ろしい何かだったのだろうが、ライゼルもベニューも幼かった為に、それが何だったのかは全く覚えていない。
ただ、それが姉弟に近付いている事だけは確かだった。脇目も振らず逃げる姉弟を、ただただ追い掛けてくる『何か』。姿形は記憶していないが、本能的に逃げなければ、と思わせる何かがあったはずだ。
だが、不運な事に、逃げる最中にベニューが転んでしまったのだ。慌てて立ち上がろうとする間も、その『何か』は一直線に姉弟を追い詰める。姉弟は、窮地に立たされていた。
この危機的状況に、幼き日のライゼルは姉を庇い、『何か』の前に立ち塞がった。
何故なら、その日から遡る事ちょうど一年前頃に、少年は母にある宣言をしていたのだ。皆の笑顔を守るのが自分が掲げる夢なのだ、と。母の口癖を真似て語った夢ではあったが、それでも幼きライゼルが抱いた尊い理想であったに違いない。
誰よりも優しい心を持ち合わせた少年は、姉の危機と自らの危険とを天秤に掛ける事をしなかった。姉を守る為に、恐怖を抱かせる『何か』に立ち向かうライゼル。
だったが、【牙】を使える訳でもない只の子供のライゼルに何かできる訳もなく、いとも容易く弾き飛ばされてしまった。それを見て、自分達では太刀打ちできないと理解したベニューは、ライゼルを置いて助けを呼びに村へ走った。
そこから先は、ただ無我夢中で『何か』に抵抗をし続けたライゼル。何をどうしたとか、反対に何をされたという事は全く覚えていない。とにかく、ベニューを追わせてはいけない、とただそれだけを考えていた気がする。
そして、どれくらい時間が経った頃か、母フロルが駆け付け、こう言った。
『よくお姉ちゃんを守ったね。それにアンタも無事で良かった。上出来だよ、ライゼル』
と、ライゼルが憶えているのは、そこまでだった。大きすぎる恐怖感に襲われた事、そして母が助けに来てくれた事で緊張の糸が切れ、その時点で気を失ってしまった。
次にライゼルが目を覚ました時、『何か』の姿はそこになく。苦痛に耐えながら自分の無事を喜んでくれる母と、泣きながら謝罪の言葉を繰り返す姉が傍にいて、その周りを囲むように村のみんながいたと、朧気ながらに記憶している。
(あの時、母ちゃんとベニューが俺の傍にいて、すげぇ心強かった)
迫り来る恐怖にどうなる事やらと思ったが、やはり家族が傍にいてくれる事が、一番の安心をもたらしてくれると再確認できた。生きていたから、改めて家族の温もりを尊い物だと思えた。家族の存在が、どんな恐怖も吹き飛ばしてくれる。やはり、ライゼルの最大の味方は、家族に違いない。
(やっぱり母ちゃんはすごい。最後の最後まで俺達を守ってくれたんだもんな)
それまで、母が躾の際に振るう暴力に対し、恐怖しかなかったが、この日を境に母の強さに対して憧れを抱くようになった。最も身近で、ライゼルが知る限り最も高みに位置する存在。
(俺の夢への原点は、やっぱり母ちゃんなんだよな)
そして、目を覚まして間もないライゼルと、まだ泣きじゃくるベニューに、母はいくつかの話を聞かせた。
『いつかさ、アンタ達が大きくなったらさ、世界中を旅して回りたいね』
当時姉弟は、その意図が分からず、世界?と山彦のように返した。
『そうだよ、世界だ。このフィオーレだけじゃなくて、王国中を旅して回って、行く先々で花の種を蒔いてさ。そうしてベスティア中をフィオーレみたいに花で埋め尽くすってのも悪くないだろう?』
まるで子供のように無邪気に笑って語る母に、姉弟も賛同した。自分も行きたい、と。
『もちろん。私一人で行くつもりなんて更々ないさ。ベニューとライゼルと、三人で行くんだ』
他には?と姉弟が投げかけると、苦笑した後、少しだけ真面目な表情をした。
『カトレア達も連れて行くかい? もうその頃には結婚して子供がいるかもしれないけどさ…そっか、星詠のばあちゃんは連れて行かないと駄目だね。ばあちゃんが居てくれないと、何かと面倒も多そうだ』
馴染み深い人物の同伴も、姉弟を大いに期待させた。母が語る未来が、とても待ち遠しく思えたのだ。
『ホント。ずっとアンタ達と生きてたかったねぇ…』
姉弟が聞き逃すくらいの小さな独り言を呟いた後、嘘のように穏やかな顔で、母は静かに息を引き取った。享年26歳の事であった。二人の幼子を残し、世を儚んだ。
かくて、姉弟は最大の心の支えを失い、試練の日々が始まった。
ただ、そうではあったが、ライゼルにとってベニューがいてくれた事、ベニューにとってライゼルがいてくれた事が、如何に重要だったかは計り知れない。
「俺さ、ベニューがいなくなるかもって考えた時、すごい嫌な気持ちになった」
「そうなんだ。ごめんね、ライゼルを不安にさせちゃったね」
「ううん、責めてる訳じゃないし。ただ、ベニューがいるから、俺はいつも通りの俺でいられるんだって、そう思った」
これはライゼルの衒いのない真っ直ぐな気持ち。どこか感謝の念が込められていたかもしれない。今回の事に限らず、これまでの事全てに対し。
「そっか」
「フウガとグレトナ、トッドとソノラみたいに、俺もベニューがいないと困る」
「ライゼル…」
柄にもなく弱気な事を言っている弟を見て、心の底から心配してくれたのだろうと察する事が出来た姉ベニュー。であれば、ベニューには弟へ掛けてあげたい言葉がある。
「何言ってるの、ライゼル。そんなの当り前じゃない」
「うん?」
「だって私達、家族なんだよ」
それだけで良かった。不安に思った事も、恐れを抱いた事も、その繋がりさえあれば、きっとまた乗り越えられる。二人は信じている、母が教えてくれたその結び付きを。
そこでベニューは、ふと思い至る。ライゼルが本音を吐露したが、この場にはまだそれが出来ていない者がいる。ベニューはその存在を知っている。
「そういえば、トッドさん」
「なにかな?」
「私、気を失っている間に、ソノラちゃんの声を聴いた気がします」
「ソノラの声?」
そんな筈はなかった。ベニューが気を失っている間もずっとソノラは声一つ上げていない。その場にいた誰も、ソノラが泣き声を上げるまで、ソノラの声を聴いていないのだ。
だが、それでもベニューはソノラの気持ちを代弁する。
「お父さんがいなくなるって。それがとても怖いって」
「私がいなくなる…?」
ベニューが突然声を掛けた事も、その話の内容も、トッドにはどういう事だか理解できなかった。眠っている間に同じく眠っていたソノラの声を聴き、その言っていた事が自分がいなくなることが怖い、だと? 初めは目の前の少女が寝惚けているとしか思えなかった。
だが、ベニューは続けてこう願い出る。
「ソノラちゃんの気持ちを、聞いてあげてください」
「ソノラの気持ちを?」
まるで。まるで、あなたは娘の気持ちを考えていない、と詰られた気分だった。そして、思えばそうなのかもしれないとも。
自分の胸で泣きじゃくるソノラをゆっくり離し、トッドは努めて優しく話しかける。
「何か言いたい事があるのか?」
「…ううん」
問われたソノラだが、首を何度も横に振り否定する。どこか知られたくない本心を秘め隠すように、強く強く否定する。
見兼ねたベニューは、ソノラに優しく諭す。
「言っていいんだよ。私だっていっぱい我侭を言ったもん」
ベニューはクーチカに対し、ライゼルの傍にいるのだと啖呵を切った。それはベニューなりの我侭だったようだ。
「でも、そしたらおとうさん『も』…」
年上の自分がそうしたように、ソノラにも吐露を促すが、ソノラは頑なに納得しない。まるで、何か大事な誓いを守っているかのように。
でも、ベニューは『聴』いたのだ。ソノラの声を、ソノラの想いを。だから、根気強くソノラを説得する。
「ううん、いなくならないよ。私とライゼルで掴まえててあげるから。ライゼル」
傍から見ている三人には何の事だか分からない。だが、どうやらベニューとソノラの間で意思疎通は図れているようだ。何も言葉を交わしていないはずの二人が、それぞれの声を聴いたと言っているのだ。
「よく分かんないけど、こう?」
乞われたライゼルは、何が何やら分からないままベニューの指示通りにトッドの腕を掴む。反対側をベニューが掴み、トッドは両腕を掴まれた形になる。
「何の冗談だ?」
「決して冗談なんかじゃありません。こうでもしなければ、ソノラちゃんは言えないんです。お父さんに伝えられないんです」
トッドが咎めてもベニューは決して真剣な表情を崩さない。よく分からない状況に困り果てていると、意を決したようにソノラが言葉を紡ぎ出す。
「あのね、ソノラね。おとうさんといっしょがいい。ずっといっしょにいたい。まもりいしもがまんするから」
突然の娘からの告白に、顔が綻んだのも束の間。直後に湧いた疑問に首を傾げる。
「何故、我慢する必要があるんだ?」
途惑うトッドにベニューは一喝する。
「そこじゃないんです。ソノラちゃんの気持ちを知ってあげてください!」
自分は何故この少女に責められているのか、トッドはもう訳が分からない。要領を得ない話だが、少女は真剣で、娘も切なる表情でこちらを見ている。とても無碍には出来ない。心を決めて、真面目に耳を傾けるトッド。
そんな父に、ソノラはこれまで胸に秘めていた不安をぶつける。
「ソノラがわがままいったから。だから、『おとうさん』とおかあさんがいなくなったんでしょ? だから、まもりいしがほしいっていわないから。だから、だから…」
堪えきれず再び瞳に涙を湛える娘の姿を見て、トッドは自分の鈍さを恥じた。ソノラが自分に懐かない理由に、
ついぞ娘に言われるまで思い至らなかったのだから。
「自分の所為で両親が死んだと、そう思っていたのか?」
まだ4歳になったばかりの少女が、自分の気持ちを押し殺し、我侭を我慢してきた理由。それは、自分の我侭が最愛の両親を殺したと思い違えてしまっていたからだった。
ソノラは、昨年両親が亡くなる前に、守り石の話をしているのを耳にしていた。それに心惹かれたソノラは両親にねだった。綺麗な石が欲しいと、純粋な子供の願いを両親に告げた。
そして、その愛娘の願いを叶える為に、両親は坑道に入り、命を落とした。
それ以来、ソノラは恐れるようになった。我侭を言ってしまえば、その相手がいなくなってしまう、と。両親を亡くした自分を引き取り、新しく父になってくれたトッド。優しい彼の存在に寂しさも多少和らいでいたが、それに伴ってまたあの恐怖が蘇るのだ。彼もまた、自分の我侭の所為でいなくなってしまうのではないかと。
自分を引き取り育ててくれる養父に甘えたい気持ちもあった。だが、いなくなっては欲しくなかった。何故なら、ソノラは新しい家族として、トッドを愛していたから。自分をいつも案じて見守ってくれていると実感できていたから。
甘えたくても甘えられず、愛する故に距離を置くという苦しい一年を過ごしてきたソノラ。そんな彼女は、両親との別離と深い結び付きがあった守り石を渡され、養父であるトッドさえも自分の前からいなくなってしまうと錯覚してしまったのだ。
「なにか、なにかソノラの為に父親らしい事をしようと思っていたが、どうやら裏目に出ていたようだ。私はやはり父親失格だな」
自嘲気味に力なく漏らすトッドに、間髪入れず喝を入れるライゼル。
「そんな事ない!」
「少年…」
「そんな事ないだろ! ソノラが目を覚まして一番初めにしたのは何だよ。トッドを呼んだんだよ。お父さんって、トッドを探したんだよ」
「それは…」
「もう自分を追い込むのは止めにしてはどうだ。その子に必要なのは、守り石でも、ましてや【牙】で稼げる者でもなく、ずっと傍にいてくれる貴方なんだ。私はそう思うがな」
「ふぐっ…」
泣き崩れそうになるトッドの腕を左右から姉弟が掴み、しっかりと支える。
「ソノラちゃん、おいで!」
「お前の父ちゃんはどこにも行ったりしない。お前の父ちゃんは、ここにいるぞ!」
ライゼルとベニューは、ソノラに促す、自分の気持ちに正直になれ、と。
「そうだ。子供が親に我侭を言ってはいけないなんて法律はこの国にはない。思う存分、父親の胸に飛び込んで来い!」
その声援に後押しされ、ソノラは小さく一歩を踏み出し、その弾みで愛する父に向って一直線に駆け出す。
「おとうさぁん」
ソノラはトッドの胸の中へ飛び込み、トッドも姉弟が直前に解放した事で自由になった両腕で、ソノラをぎゅっと抱きしめる。
「ソノラ、ずっとおとうさんといる!」
「もちろんだ。ずっとずっと傍にいるから。ソノラは私の大事な娘なんだから」
トッドは、涙に濡れた目を更に真っ赤に泣き腫らす。ちょうど職人達が作業完了の報告にやってきた時だった。
親子がお互いの蟠りを解消したその晩、トッド宅でソノラの誕生日会が行われた。
一仕事終えた工房の職人達や、班長を始めとする抗夫達も駆け付けた。ただし、その場にライゼル達の姿はなかった。今日の内にクーチカが戻ってくるとは考えづらいが、元々先を急がねばならない身であった為に、輝星石を受領し、新品同然に修理改造を加えられた駆動車を受け取り、一行は既に次の目的地アバンドに向けて出立していたのだ。
一連の立役者を余所にトッドの家では、居住区のみならず工房の空いている場所を開放して、卓や椅子が並べられ、たくさんの料理が用意されている。
「こんなにめでてえ日はねえな。トッドが死に損ねて、ソノラは一歳年を取ったってんだもんな。ようし、おめえら。今夜は無礼講で、トッドの奢りだ。好きなだけ飲んで好きなだけ食ってくれ」
班長の乾杯の音頭に、わっと湧き上がる一同。
「よっ、親方太っ腹!」
「御馳走になります、トッドさん」
職人達も抗夫達も、誰が主役だかちゃんと理解しているやら。トッドやソノラそっちのけで、飲めや歌えやで盛り上がっている。
だったが、盛り上がってくれる分にはトッドも構わなかった。先も班長が言ったように、今日はおめでたい日だ。元々、明るい雰囲気が得意ではないトッドだけでは、賑やかに執り行う事も出来なかっただろう。
そんな不器用な父は、娘の隣で食事をよそう。
「ソノラ、どれか食べたいものはあるか?」
「これたべたい」
トッドにとっては、こんな当たり前のようなやり取りが、そこはかとなく幸せを実感させてくれる。当たり前の親子にように振舞える事が。
「そうか、ソノラは天ぷらが食べられるのか」
「『ゆきのした』をあげたの、おいしい。これまたたべたい」
今日の料理は、職人の中で料理が得意な者が用意したのであって、トッドが作った訳ではない。これまで仕事に感(かま)けて料理はやや疎かになっていた。だが。
「ようし、父さんがこれから毎日ソノラの好物を作るからな。楽しみにしてなさい」
「うん♪」
娘が心置きなく我侭を言えるようになったのだ。それに応えずして何が父親と言えようか。料理は得手ではなかったが、ソノラとこれからを暮らす為にも、練習しなければと心に誓うトッド。
そのトッドの隣で、ソノラはふと気になった事があり、それを父に尋ねる。
「あのね、おとうさん」
「なんだ?」
「あのおねえちゃんたちは、だれだったの? おともだち?」
「―——彼らは」
そこで一旦区切り、どう説明していいものか悩んだが、すぐに辞めた。
「彼らは、守り石の精だったのかもしれないね」
トッドの家の飾り棚の上に、今日トッドからソノラに贈られた守り石が置いてある。その隣には、ソノラの実父夫妻の肖像画が飾ってあり、その中の二人は優しく微笑んでいるようだった。
(きっとお前達が彼らを遣わせてくれたんだろう。心配させてしまっていたな。だが、もう安心してくれ。大変な毎日でも二人で懸命に生きていくさ)
トッドが亡き親友夫婦に誓いを立てる。ソノラと生きていく明日を、より一層幸せな日々にしていく為に。
こうしてとある親子が新たな道を歩み始めたのも、家族の温かさを知るライゼル達があったから。
ではあるが、そんな事を本人達はおくびにも思わず、改修された駆動車に乗り、次なる経由地アバンドを目指すのであった。
To be continued…
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