五人目―ⅰ

 人が紡いできた歴史の一番最初から、人とドラゴンは共にいた。

 強靭な体と膨大なマナ、そして叡智を備えた竜は人よりもずっと高度な種族だったが、彼らは人を支配することよりも、共存することを選択し続けてきた。

 時には手を取り合い、時には道を示し、時には傍観する。そんな風に在りながら、両翼で自由に大空を舞う彼らを人々は慕っていた。

 けれど300年前の戦争で、その関係は崩れた。

 後に黒嵐戦争と呼ばれるようになるその戦争は、たった一頭の竜が、彼以外の全ての生命に対して仕掛けた戦いだった。

 黒嵐竜エヴォルド。

 彼は何よりも強かった。

 その黒翼が生み出す烈風のあとに立つ者は一人として無く、咆哮と共に吐き出される火炎は世界の半分を灼いた。

 それでも、その戦争は彼の敗北で幕を閉じた。

 戦いのきっかけは分からない。ただ最後は、一人の人間の兵士がエヴォルドにとどめを刺したと記録されている。

 夥しい犠牲を払ったその戦争から、人は竜を恐怖するようになった。それ以来、人は平地に、竜は山岳に棲家を移し、ほとんど交わることなく生きることになった。



 ◆◆◆



 ハイト・グランドロアは竜と人の混血だった。

 夕焼け色の眼には切れ目のような瞳孔が縦に走り、耳があるべき場所からは、闇色の鱗に覆われた角が湾曲しながら生えている。今は長い外套に隠れて見えないが、その後ろ姿を見れば、腰の低い位置から伸びる尻尾にも気付くことができるだろう。

 彼は今、アーゼアラ皇国の東に広がる山林の中を歩いていた。

 最低限の旅装と、荷物は皮袋一つだけ。左手に構えた身の丈よりも長い槍で足元の下草を払いながら、黙々と、皇都方面に向かっていた。

 ハイトの父は“暴竜”の名高いラースという名の竜だった。その血故か、それとも厳しい鍛錬の賜物か、おそらくはその両方だろうが、日焼けした剥き出しの両腕にはくっきりと筋肉が浮かび上がっている。体躯も逞しく、腕の立つ戦士だと一目で分かるような姿だった。

 けれど、そんな彼は今、困っていた。


(くそ、さっぱり見つからねぇ)


 心中でそう悪態をついて、ハイトはざくりと槍を地面に突き立てる。そうしてもう何度見返したか分からない、ポケットに無造作に突っ込んでいた地図を両手で広げ、溜息を吐いた。


「川なんてどこにあるんだよ。この地図間違ってんじゃねぇのか……」


 今度は声に出して毒づきながらイライラと頭を掻く。羊皮紙でできたその地図には何度も折り目が付いていて、所々擦り切れそうになっていた。手描きで簡略的に記された地図の中程には、赤いインクで目的地を表すバツ印が付けられている。しかし今のところそこへ近付けている感覚は全くなかった。

 アーゼアラ皇国に向かうだけなら、別に問題はなかった。

 ここは背の高い木々に覆われた林の中だが、ジャンプすれば上から容易く皇国の方角は確認できる。しかし皇国に入る前に立ち寄るようにと父に言いつけられた別の目的地があり、その場所が分からずに、ハイトはもう半日ほど同じ場所をぐるぐると彷徨っているのだ。


『アーゼアラに入る前に、必ずこの場所にいけ』


 そう厳かに告げた父の声が耳に蘇る。


「だいたい、こんな広い林の中で一つの石碑を見つけろって、無理な話だろ」


 こんな適当な地図で。

 一人旅のせいで癖になりつつある独り言をまた零して、ハイトは上を見上げた。木々の間から差し込んでくる日差しは段々と黄色味を帯びてきていて、日没がそう遠くないことを示している。

 今日にはもう皇都に入って、久しぶりに屋根の下で眠れるだろうと期待していた。なのにこのままでは今夜も野宿になってしまうと焦りが出てくるが、目的の石碑はまだ見つかりそうにない。

 その石碑が何なのか、その場所に行くことにどういう意味があるのか、父は何も教えてはくれなかった。

 ただ必ず立ち寄れと、大雑把な性格の彼には珍しく念を押してまで言われたものだから、ハイトはそれを無視できずにいる。


(同時並行で、適当な穴ぐらでも探すか……)


 ――そう、何度目かになる溜息をついて、ハイトが諦めかけた時だった。

 音にならない音を立てて、何かがハイトの五感に触れた。


「! ……魔物か?」


 ハイトは地面に突き立てたままだった槍を抜いた。

 本物の竜には劣るものの、人間より遥かに優れた聴覚と視覚を持つハイトは、神経を集中させて辺りを見回す。

 何かがそう遠くない場所にいる。

 それだけははっきりとわかった。

 ハイトは槍の穂先をわずかに上げると、見当を付けた方向へ駆け出した。


 少し走ると、開けた場所に出た。

 密集していた木々が割れて、陽光が直接降り注ぐ広場ができている。その左手にはネズミ返しのように切り立った崖、正面には、恐ろしく透明な水を湛えた湖が広がっていた。

 風はなく、静かなはずの湖面はかすかに波打っていた。

 その波紋の中心に、ハイトはそれを見つけた。


「…………」


 一人の少女が、湖に浮かんでいた。

 淡い色の髪が湖面に広がって、きらきらと日光を反射している。力なく開かれた四肢はゆらゆらと水の中で揺れ、仰向けに日に照らされている顔は酷く白く、眠っているように瞼は固く閉ざされていた。

 その体にはたくさんの傷がついていた。そのうちの決して浅くはないいくつかの傷からじんわりと血が湖に溶け出しているのを見て、ハイトははっと我に返る。

 左側に聳える崖をちらりと見上げてから、ハイトは素早く外套と軽鎧を脱ぎ捨てた。槍は手に持ったまま、ざぶざぶと湖に分け入って行く。水はさほど冷たくないが、進むごとにどんどんと深くなる湖だった。

 そうやって、ハイトが白い彼女の腕を掴んだのと、怪鳥の甲高い鳴き声が辺りに響き渡ったのが同時のことだった。


「!」


 風を叩く音とともに、光にきらめいていた湖面に影がかかった。

 ハイトが空を見上げると、中天から傾いた太陽を黒いシルエットが覆い隠している。左右いっぱいに翼を広げた、大型の鳥の影だ。その影はこちらへと急速に近付いてきて、ハイトは咄嗟に左手の槍を上へと突き上げた。

 ガキン、と硬い音を上げて、ハイトの腕に衝撃が伝わってくる。

 再びけたたましい鳴き声と、ばさりと羽根が羽ばたく音。嘴を穂先に弾かれた怪鳥は怒りの声を上げ、間断を置かず襲い掛かってきた。二度、三度と突き出されてくる嘴や爪を、ハイトは片腕で槍を操って受け流す。

 すぐに水中という戦いにくい場所に不利を感じたハイトは、隙を見て少女の体を抱きかかえると、勢いを付けて水の中に潜った。湖底に両足を付けて屈み込み、一呼吸置いて、一気に真上に跳躍する。

 少女を抱えたまま水飛沫を纏って湖面から飛び出せば、ようやく襲撃者の姿が良く見えた。

 鮮やかな青い羽毛に覆われた巨大な鳥。その姿は美しかったが、頭の両側にある小さな眼は理性を失っていた。


「よっと」


 その鼻面を容赦なく踏み台にして、ハイトは水際まで一息に跳んだ。

 空中で一回転して軽やかに着地すると、乾いた地面に少女の体を下ろして、改めて両手で槍を構える。

 思い切り顔を足蹴にされて怒り狂ったその鳥は、大きく羽ばたいて天高く飛び上がった。

 ひらひらと幾枚もの青い羽根が舞い落ちてくる。

 その一枚目が地面に付くのと同時に、怪鳥は急降下してきた。

 両足の鋭い爪が日差しをチカリと弾く。

 最初の一撃は、槍の柄で受けた。

 重力も味方に付けた巨体から繰り出される攻撃は、それだけの重みがあった。

 しかしそれをハイトは難なく押しのけると、その後も次々に襲い来る攻撃を、穂先、石突、様々な場所で受けては、受けるだけでなく反撃も加えていく。


「こいつを襲ったのはお前か?」


 背後で横たわる少女は目を覚ます様子はなかった。

 生きていることは先ほどの一瞬で確認できたが、あまり長い間放置できる容態ではなさそうだ。


「まぁ、そうだとしても、違ったとしても……お前は今日の晩飯だ」


 ハイトの槍が怪鳥の脇腹を裂いた。

 苦痛の叫び声を上げ、怪鳥の攻撃が一層苛烈になるが、ハイトの動きの方がずっと速い。舞うような動きで穂先が閃き、次々と怪鳥に傷を作っていく。

 やがて怪鳥は劣勢を悟った。

 自身の体よりも大きな翼を広げ、空に逃れようと羽ばたく。

 しかし一度敵と見なした以上、それを許すハイトではなかった。


「悪く思うなよ」


 そんな呟きとともに、最後の一閃が走った。



 ◆◆◆



 パチパチと、火の粉の爆ぜる音がしていた。

 同時に、食欲をそそる良い匂いが鼻腔を擽っている。肉が焼ける匂いだろうか。

 少しの間辺りの様子を探ってから、アステルはぼんやりと目を開けた。何度か瞬きをして目を慣らすと、オレンジ色に照らされた岩の天井が視界に浮かび上がってくる。辺りは仄暗く、光源の揺らめきに合わせて、岩肌の凹凸が作る影もちらちらと揺れていた。

 洞窟の内部のような場所で、アステルは仰向けに寝かされていた。

 ゆっくりと顔を傾けて視線を巡らせると、少し離れたところに火が興されているのが見える。その焚き火の周りには、木の枝に引っ掛けられた衣服と、串刺しにされた肉の塊――。

 そして、片膝を立てた胡座の格好で炎に向かう、見慣れない背中があった。

 アステルは体を起こそうとした。しかしそれよりも早く、彼の方が先にこちらを振り向いた。


「起きたのか」


 焚き火の色とよく似た色の瞳が、一番最初に目を引いた。

 それは精悍な顔立ちをした青年だった。年の頃は、アステルとそう変わらないように見える。


「……ありがとう。助けてくれた、んだよね?」

「まぁな」


 アステルは目を覚ましてすぐに、自分に何が起こったかを思い出していた。

 今日は依頼のために一人で皇都の外に出ていたこと。依頼の内容は中継キャンプまでのキャラバンの護衛という簡単なものだったが、依頼の途中で隣国の武装集団の襲撃を受けたこと。どうやら依頼主と武装集団はグルで、目的はアステルの魔杖の強奪にあったこと。

 油断していたアステルは不意打ちを受け、不甲斐ないことに、やつらの狙い通り杖を奪われてしまった。

 ――ただそこまでなら、不覚をとったものの、大きな問題にはならなかったのだが。


「何があったんだ?」


 そう問いかけながら、青年は立ち上がった。

 脇に置いてあった皮袋を拾い上げ、こちらに近付いてくる。


「……それ、角?」


 しかし距離が縮んだ青年を見上げた途端、思わずアステルは質問に答えるのを忘れてしまった。

 黒い鱗に覆われ、捻るように湾曲したそれはどう見ても――角。そんな角が二本、焚き火のそばにいるときには気付かなかったが、彼の頭の両側から生えている。

 半端に上半身を起こしかけたまま、アステルはその立派な角に釘付けになってしまったが、青年はどうやらそういう反応には慣れているようで、気にした素振りも見せずどかりと目の前で腰を下ろした。


「ああ、角だ。俺は竜との混血だ」

「こ、混血?」

「珍しいかもしれないが、今はそれより、お前のことを教えろ」


 そう言って、蛇のような瞳孔が走る目がこちらを見た。

 アステルは思わず口を噤む。しかしそれは恐怖や好奇によるものではなく、純粋にその眼差しの強さに魅入ったからだった。

 アステルはきちんと居住まいを正した。


「……ごめん。私はアステル。あなたは?」

「……ハイト」


 自分で催促しておきながら、束の間彼はアステルの返答に意外そうな顔をした。

 けれどすぐに元の無表情に戻り、彼は短く名を名乗ると、視線を手の中の皮袋に落とす。彼が口紐を引いて袋を広げると、中から薬草の束や軟膏のようなものが覗いた。

 それを見てようやく、アステルは自身の体を見下ろした。あちこちについた傷が手当てされていることに、今になって初めて気付く。そして、いつもの魔装ではなく、見覚えのない大きな服に身を包んでいることも。


「…………」


 焚き火のそばに干されているのは、どうやら自分が着ていた服のようだ。


「……手当て、ありがとう」


 今は気にしないことにして、アステルは感謝の言葉を口にした。


「ああ」


 素っ気なく答えたハイトは、アステルの密かな葛藤には気付かなかったようである。


「鎮痛薬を使ったからあまり痛まないかもしれないが、だからと言って動き過ぎるなよ。それなりに深い傷もあった」


 袋の中を探っていたハイトは、そう言いながら小さな丸薬が詰まったガラス瓶を取り出した。アステルの手を取って掌を開かせると、蓋を外してその上に数粒を落とす。


「これ飲んどけ」

「何の薬?」

「化膿止めだ」


 納得してわかったと頷くと、ハイトは水筒の水を差し出してくれた。


「……で、何があったんだよ」


 アステルがしっかり飲み下したのを確認してから、ハイトは再び同じ質問を投げかけてきた。

 目覚めてからのこれだけのやり取りで、アステルはもう彼のことをすっかり信用してしまっていた。

 竜との混血だと名乗った彼には実際に角が生えていて、その綺麗な色の瞳の真ん中には人とは違う形の瞳孔がある。今飲んだ丸薬も、袋の中に見えた薬草も、どれも今まで目にしたことのないものだったが、しかしアステルにとってはそれだけのことだった。

 アステルは少しだけ頭の中を整理してから、あったままのことを彼に打ち明けた。


 ――杖を奪われたアステルは、当然盗賊たちを追いかけた。しかしその道中で運悪く、魔物化した大水鳥の巣に入り込んでしまう。大水鳥は普段は大人しく、青い羽根が美しい鳥だが、巣への侵入者には容赦はしない。特に抱卵期ともなればその凶暴性は倍化し、うっかり近付いた旅人が犠牲になることも少なくなかった。

 盗賊たちはアステルの杖だけでなく、その大水鳥の卵にまで目を付けた。

 親鳥の羽毛と同じ色の外殻を持つそれは、その美しさと採取に伴う危険性から、とても希少価値が高い。欲に目が眩んだ盗賊の一人が見つけた卵に触れた途端、アステルたちは親鳥の襲撃を受けることになった。


「その鳥って、あれか?」


 話が一区切りついたのを見計らって、ハイトが親指で自身の背後を指した。

 その先には焚き火に炙られて良い匂いを放つ肉の塊。先ほどアステルを夢の世界から連れ戻してくれたものだ。


「どんな鳥だった?」

「バカでかくて……青い鳥だ」

「それなら、大水鳥で間違いはなさそうだけど、私が襲われたのとは違うかな。魔物化して、すっかり羽根の色が変わっちゃってたから」


 アステルが見た親鳥の羽毛は、どす黒く変色した紫色をしていた。

 アステルは小さく息を吐いた。


「この辺りは大水鳥がよく巣を作るの」

「そうか。あれで通常なら、魔物化したやつは戦い甲斐があるだろうな」


 ハイトのその言葉に頷きながら、アステルは先ほどから気になっていたものに目を向けた。

 焚き火の傍の石壁に、とても長くて重そうな槍が立てかけてある。それは言うまでもなく、ハイトが使う武器だろう。黒曜石のような漆黒の素材でできた穂先は翼を広げた竜の形をしていて、焚き火の光を反射して輝いている。

 彼はとても強いのだろう。ハイトを一目見た時から、アステルはそう感じていた。

 しかし彼もまた、同じようなことを考えていたようだ。


「お前、弱くはないだろ」


 その声にアステルは視線を目の前の彼に戻した。


「杖ってことは、魔道士か」

「うん。――杖を盗られちゃうなんて、失格だけどね」


 アステルがそう言って苦笑いを浮かべると、真顔で「だろうな」と返ってきた。彼は思ったことはそのまま口に出すタイプのようだ。


「杖がなかったにしろ……そんなに強かったのか、魔物化した大水鳥ってやつは」

「うん、強いよ。ただそれもそうなんだけど、私、守りながら戦うのがあまり得意じゃなくて」

「守り?」


 訝しげな声を上げたハイトに、アステルは一つ頷いてみせる。


「あの人たちも一緒に襲われちゃったから」


 あの人たちとは無論、アステルの杖を奪った盗賊たちのことだ。

 アステルの返答を聞いたハイトの顔に、その時はっきりと驚きの表情が浮かんだ。そのことにアステルがきょとんとしていると、彼は数秒沈黙して、それから確かめるような口調で再び口を開く。


「……お前を嵌めたやつを、守ってやったのか?」

「? うん。だって、じゃないと殺されちゃいそうだったから」


 当たり前でしょうとまでは口にしなかったが、そんな気持ちで答えると、ハイトは双眸を微かに細めた。


「――それで、そんな傷を作ったっていうのか?」


 そうして次にハイトが放った言葉には、ほんの少し険が含まれていた。


「それはお人好しを過ぎて、ただのバカだぞ」


 そういうのは俺は嫌いだ。

 そう告げて、夕焼け色の目が射貫くようにこちらを見た。

 アステルは言葉を詰まらせた。まっすぐ過ぎる視線と言葉にたじろぐが、しかし罪悪感を覚えながらも、アステルもまた彼の目を見つめ返す。


「……わかってる。でも、私には決めたことがあるから」

「何を」

「私の手の届く範囲では、誰も死なせないって……」


 そうして、アステルは視線を落とした。擦り傷のついた掌を眺め、軽く握る。

 自分の力量、限界はちゃんと分かっているつもりだった。だからこそあの状況から盗賊たちを無事に逃し、自分自身も大水鳥の巣から脱出することができた。多少の手傷は負ったとしても、大事に至らせることなく自分の力で解決できる――そう、きちんと考えた上での選択だった。

 しかし最後の最後で、アステルは大水鳥の執念の一撃を食らってしまう。

 崖から体が放り出され、冷たい水に全身が包まれるのを感じたのが、ここで目を覚ます前の最後の記憶だった。


「……早死にするタイプだな、お前」

「ふふ、簡単に死ぬつもりはないよ。決めたことと同じくらい、大切なものもあるから」


 顔を上げて笑顔を見せると、ハイトはほんの少しだけ不意を突かれたような顔をした。


「助けてくれてありがとう、ハイト。私は運が良かったみたい」

「……これからどうするつもりだ?」

「もちろん、杖を取り返しにいく。あれは私の宝物だから」


 そう言って、アステルはハイトの背後に目を向けた。

 焚き火の向こうには洞窟の入り口がぽっかりと口を開けていて、宵闇が忍び寄り始めた外の景色が見えている。

 木々が繁る森の中は、暗くなるのが早い。ここで夜を越すつもりのないアステルは、そろそろ動き出さなければと腰を上げた。立ち上がっても、傷は想像以上に痛まなかった。ハイトはとてもいい腕を持っているようだ。

 盗賊たちはどこに行っただろうか。アステルは記憶を辿る。

 彼らは大水鳥の襲撃の際に馬を失っていた。この深い森の中、人の足ではそう遠くへは行けていないはずで、そうだとしたらまだ追跡は難しくない――


「待てよ」


 思考し始めたアステルの意識を、ハイトの声が呼び止めた。

 視線を落とすと、彼もまたこちらを見上げていて、感情の読めない瞳と目が合う。


「俺も行く」


 彼がそう言い出すのを、どこかでアステルは分かっていた気がした。YesともNoとも答えずに次の言葉を待っていると、やがてハイトもゆっくりと立ち上がる。

 改めて向き合うと、ハイトはアステルよりもずっと背が高かった。

 その恵まれた長身から彼はアステルをちらりと見下ろし、そしてすぐに顔を背ける。


「……でもその前に、肉が焼けた。食ってから行くぞ」


 そう言った彼は何故かばつが悪そうだった。誤魔化すように、返事を待たずに大股で焚き火の方に戻っていく彼の後ろ姿を見て、アステルは小さく笑みを浮かべる。

 彼の手で火から上げられた肉は、本格的に美味しそうな匂いを放っていた。少し前からしきりに空腹を訴える腹をなだめるように撫でて、アステルもゆっくりと彼の後を追う。


 この出会いは何か特別なものになるという予感が、アステルを笑顔にしていた。

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黒の竜騎士と星の魔道士 綾織 縁 @ayaoriyoru

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