黒の竜騎士と星の魔道士

綾織 縁

三年目

 光が瞬く星間のような、闇が凝る深海のような、方角も引力もない泡沫のような世界で、俺は両腕でただ彼女の体を抱いている。





 +





 その廃墟に一歩足を踏み入れた途端、アステルは辺りの空気が変わったのを肌で感じた。

 それは雰囲気の話ではなく文字通りで、それまで静まり返っていたはずの空気が、侵入者の感知と同時に細かく振動し始めている。

 すぐに振動は音となった。腹の底に鈍い重低音が響いてくる頃になると、ひび割れた石畳に降り積もっていた粉塵が煙のように立ち上り始め、天井からはパラパラと細かい石の破片が降ってくる。

 それまでじっと佇んだまま辺りを観察していたアステルは、髪にかかったそれを軽く手で払った。そして、背に負っていた長杖を抜く。

 霊木から削り出された、僅かに光を通す白色の杖肌を、アステルは掌で滑らせた。それは美しい光沢を纏ってはいたが、表面を飾る意匠も、握りを調整した様子もなく、結晶が隆起した頭部分に魔法円が刻み込まれているだけの、簡素というよりは無骨な魔法杖。

 アステルは廃墟の正面扉から一歩だけ踏み入った所、薄暗い広間の入口に立っている。正面には天井まで聳える巨大な女神の像。その足元の左右には、像背後の建物内部に繋がっているのであろう重厚な扉が、錠を落とされ戸を閉ざしている。アーチ状の天井にはステンドグラスが嵌められた天窓があり、その広間はどうやら教会だったようだ。

 昔は煌びやかな場所だったのだろう。そう思わせる空間だった。

 今では所々崩れ落ちた壁面からむき出しの梁が覗き、恐らくこの建物内で最も重要な女神像も損傷が激しく、その優しげな微笑に影を落としている。

 年月の経過のみでこうなったのか、あるいは――。


(来た)


 アステルは床に散らばったステンドグラスの破片から視線を上げた。憶測したところで特に意味はないが、きっと荒廃の一助にはなっているであろう“原因”の音が、近づいてきている。

 今や建物内に充満し、肌を痺れさせるほどになったそれは、羽音だ。高速で空を切る羽音が、無数に重なり合って膨大な唸りとなり、アステルの鼓膜を叩いている。

 アステルは杖を振り上げた。

 轟音とともに女神像ごと石壁を突き破り、巨大蜂の群れが姿を現したのは、それと同時だった。


対消滅エクシス!」


 針を剥き出しに一直線に襲いかかってきた先頭の蜂が、一瞬早くアステルが生成した魔法障壁に激突した。

バチンと電流が走ったような音が走り、弾き返されたその蜂は空中で何とか体勢を立て直す。

 それを目にした他の蜂たちは、素早く高度を上げて進軍を止めた。アステルも障壁を解いて改めて見上げれば、まるで一つの別の生き物かのように一塊となった蜂たちが、天井をすっぽりと覆い隠している。

 その塊を構成する一匹一匹が、両腕一抱えもあるほどに巨大だった。そんな彼らが生み出す羽音は相当なもので、直接相対した今、ビリビリとした重圧が全身にかかる。もともとはスズメ蜂だったのであろうか。魔性を帯びて魔物となった異形の生物は、敵意に複眼をぎらつかせていた。

 確かに彼らの縄張りに侵入したのはアステルの方だ。けれど魔物となった生物は、他の生物を見境なく襲うという性質がある。

 別離の森の廃墟に棲みついた魔物の群れを退治して欲しい。

 それが今回の依頼の内容だった。

 スズメ蜂たちは攻撃の機会を伺っている。

 しかし再び彼らが動き出す前に、フレイが先に杖を振った。

 口の中で素早くスペルを唱え終えると、軌道を描いて杖の石突を石畳に突き立てる。キン、という金属と金属がぶつかったような高い音が響くのと同時に、巨大な魔法円が蜂の群の下方に浮かび上がった。

 その時、蜂たちが危険を感じたのかどうかは分からない。

 彼らが何か行動を起こす前に、アステルは魔法を発動させた。


星炎フレア


 閃光とともに、白炎が魔法円から湧き上がった。

 高温さゆえに白く輝く炎は一瞬にして蜂の群れを飲み込み、彼らを瞬く間に灰も残さず焼き尽くす。

 薄暗かった廃墟の中が、目を細めるほどの眩い光に照らし出される。

 炎が消え、一瞬肌を舐めた高熱が去ったあとには、辺りを圧迫していた音が嘘のように消え、静寂が戻っていた。

 あっという間の決着。

 アステルは小さく息を吐いた。

 ぐるりと広間内を見回して敵が残っていないことを確認すると、杖は手に持ったまま、もう片方の手で腰元のポーチの中を探る。今回の依頼を引き受けた時、依頼主から渡されたこの廃墟の古い見取り図を引っ張り出した。

 この広間の奥に、まだこの廃墟にはいくつもの部屋があった。右か左かどちらにするか束の間迷って、結局アステルは女神像の右足側の扉に足を向ける。

 依頼はまだ終わっていない。働き蜂は先ほどの群れが恐らく全てだろうが、まだこの建物内に必ずいるはずの彼らの生みの親――女王蜂を探し出さなければならない。

 アステルは呟くようにスペルを唱える。掌の上に小さな火球を生み出すと、扉に掛けられた頑丈そうな錠に向けて、それを放った。



 氷漬けにした女王蜂の亡骸を後ろに追尾させて廃墟から出ると、真上から降り注ぐ陽光の明るさにアステルは目を細めた。長い間放置され荒れ放題になっている敷地を、錆びて崩れかけた鉄柵が囲んでいるのが、高く伸びた雑草の間に見え隠れしている。

 その敷地の真ん中あたり、水の枯れた噴水の淵に腰かけている人影を見つけて、アステルは声を上げた。


「フェリン、戻ったよ」


 俯いて何かに集中しているようだった人影は呼びかけに気付くと、弾かれたように顔を上げた。


「アステル! 大丈夫だった?」


 彼女がこちらを振り返ると、豊かな赤毛がふわりと広がった。

 手袋を嵌めた手には工具、膝の上には何かのパーツ。

 その様子はもしかしたら、彼女の背中を覆う艶やかな髪や、長い睫、宝石のようなグリーンの瞳とは、一見ちぐはぐに見えるかもしれない。けれど列記とした魔機工師である彼女が暇を見つけては機械いじりに没頭している姿は、アステルにとっては日常風景の一部のようなものだった。

 彼女と別行動を取ることにやはり不安があったアステルは、その変わりない姿を見て安堵の微笑みを浮かべた。


「フェリンこそ、何もなかった?」

「うん。最初だけよ、私が蜂を見たのは。あの薬、効果抜群みたい」


 アステルがフェリンの方に近づいていくと、草の青い匂いに交じって、彼女が今まさに「あの薬」と言った錬金薬の香りがツンと鼻孔を刺激した。ここへ来る時、虫除けに効くと仲間が持たせてくれた薬だ。

 その時、笑顔を浮かべていたフェリンがひっと引き攣った声を上げる。アステルの背後をふわふわと追従する、女王蜂の亡骸に気付いたようだ。


「アステル、それをこれ以上私に近付けないで」

「ふふ、わかってるよ」


 フェリンが大の虫嫌いであることを、アステルは十分承知している。だからこそ廃墟には一人で入り、彼女と別行動をしていたのだが、最初に二人でこの敷地に到着した時に、実はすでに蜂と一戦交えていた。

 哨戒役だったのだろう一匹の蜂が、突如草むらから飛び出してカチカチと警戒音を鳴らすのを目にし、フェリンが耳を劈くような悲鳴を上げたのはつい小一時間ほど前のことである。

 ちなみにその哨戒役の蜂は、フェリン謹製の魔動雷撃器により、アステルが手を下すまでもなく消し炭になっていた。


「はやく袋に詰めて載せちゃって」

「はいはい」


 噴水から立ち上がって後退り、アステルから十分に距離を取ったフェリンは、固い声でそう言うと親指で背後を指した。

 そこには魔動式の荷車が停めてある。

 アステルは彼女に言われた通り、大き目の麻袋に女王蜂を収めると、魔動具や工具が積載された荷台の隙間にそれを置いた。

 振り返るとフェリンも地面に広げていた荷物を纏め終わったようだ。革製の彼女のトランクはいつもぱんぱんに中身が詰まっているのだが、彼女はその細腕に似合わずひょいとそれを持ち上げると、快活ににかりと笑う。


「じゃあ次の現場、行きますかー」


 今日こなす予定の依頼は蜂退治だけではない。

 アステルは彼女に頷き返して、ふと空を見上げた。雲一つない気持ちのいい青空の真ん中で、太陽が燦々と輝いている。

 そんな太陽からまるで隠れようとするかのように、地平の近い空の端で、異星ヘラは今日も白く浮かんでいた。



 ◆◆◆



 それを最初に“ヘラ《憐憫の女神》”と呼び始めたのは、戦争で息子を亡くした母親だったと言われている。

 それは天体の装いをしているが、空に浮かぶ太陽や月とは異なる存在。宇宙よりもずっと近いところ、ノル大陸の上空に浮かび、心を癒す淡い光で人々を照らし続けている。

 ヘラが出現したのはおよそ300年前。世界の半分が戦火に飲み込まれた黒嵐戦争の終結の際に、初めて存在が確認されたという。

 その当時、ノル大陸の中心に広がる広大な平原――ステラー平原は、死地だった。

 黒嵐竜エヴォルドとの最後の決戦場となったそこで、兵士も、竜も、夥しい命が失われた。死闘の末にエヴォルドの討伐は果たしたものの、払った犠牲の大きさに、勝利を喜べる者は一人としていなかった。

 そんな彼らを照らす光があった。

 いつの間にか彼らの頭上には、眩く輝く白い球体が浮かんでいた。それがどこから来たのか、いつからそこにあったのか、誰も分かりはしなかったという。

 ただ一つ確かだったのは、その光には癒しの力があったということだ。その光に照らされると不思議と悲しみが和らいだ。失意の底にいた僅かな生き残りの兵士たちは、優しい光を心の支えにして祖国へと凱旋した。光は天へと昇って第二の月となり、彼らの旅路を導いてくれたという。

 あまりの戦場の悲惨さを太陽神アーゼが憐み、分身を使わせてくださったのだと人々は思った。

 それから300年たった今でも、いつしかヘラと呼ばれ始めたその星は、癒しの光を放ち続けている。



 ◆◆◆



 全ての依頼を完了させ、アステルとフェリンが皇都に戻ってきたのは、ちょうど太陽が地平に隠れてすぐくらいの頃だった。


「ただいま! 帰ったわよー」


 魔道士ギルドの紋章が刻まれた扉を開けるなり、フェリンは良く通る声を張り上げた。光魔法による灯で照らされたギルドハウス内は広く、たくさんの魔道士たちで賑わっている。一歩中に足を踏み入れると、その喧噪と微かな錬金薬の香りがアステルたちを包んだ。

 フェリンの声に気付いた少なくない数の魔道士が、こちらを振り返って口々に「おかえり」と返してくれた。フェリンはとても人懐っこくて、物怖じしない。そんな彼女の隣で、調子はどうだったと声を掛けてきてくれるギルドメンバーたちにアステルが照れ笑いで返事をするのも、またいつもの光景だった。

 活気のあるエントランスを抜けて、アステルとフェリンはハウスの端に向かった。

 等間隔で黒いタペストリーが提げられた壁際、ダイヤ型の大きな窓の真下。そこには分厚い樫の木で出来た大きな円卓と、椅子が4つ。その椅子の内二つはすでに埋まっていて、アステルたちが近づいていくと、黒髪の青年の方が先に顔を上げた。


「ただいまロクス、帰ったわよ」

「知ってる。全部聞こえてる」


 すぐさま返される、どこかぶっきらぼうな声。フェリンはそれでも満足そうに笑顔を浮かべた。

 真っ黒でつんつんとした短髪が特徴の、ロクスと呼ばれた彼は、フェリンの幼馴染だ。若干呆れが混じった仏頂面は不機嫌そうに見えるのだが、これが平常時の彼の顔である。そんなロクスにアステルも「ただいま」と告げると、彼はアステルには「おかえり」と返した。

 ロクスの前には様々な色や形の鉱石が並んでいた。ルーペ付きのゴーグルを付けて、左手にはハンマーを持っているあたり、彼も彼の仕事に没頭していたところだったのだろう。

 彼は魔装技師だった。

 その彼の反対側で、もう一人の仲間が、読みふけっていたらしい新聞を閉じる。それまで広げられた誌面にすっぽりと隠れていた姿が、そうして露わになった。


「お前の声は市場の端と端でも聞こえるからな」


 悪戯っぽいというよりは意地悪そうな笑みを浮かべて、彼――レフが言った。黄金色の長髪を頭の後ろで一つに結い、同じ色の口髭を蓄えている彼は、小人である。


「レフ、薬をありがとう。すっごい効果あったわよ」

「当たり前だ。わしの目利きした薬だぞ」

「そうね。あんな草むらの中にいたのに、蜂どころか蚊の一匹も寄ってこなかったわ」


 椅子の上にクッションを乗せ、やっとのことで机の上に胸から上を出している姿からは想像し辛いのだが、レフはこう見えて非常に優秀な商人だった。経済面の知識はからっきしのアステルたちに代わり、フェリンやロクスが使う素材の仕入れや、依頼の引き受け管理まで、全て彼一人で取り仕切ってくれている。

 蜂退治の依頼の際、フェリンを守ってくれていたあの錬金薬も、彼が調達したものだった。


「それで、成果はどうだ」


 レフがアステルに向き直ってそう尋ねてきた。アステルは一つ頷いて、腰元のポーチの中を探る。


「全部上手くいったよ。えーっとまず、蜂の巣になってた廃墟は、もう危険はないはず。一応倒した女王蜂を持って帰ってきてるし、念のために最後にレフの薬を撒いておいたから、人が入っても大丈夫だと思う」

「うむ」

「それから、魔物化したグリズリーの討伐も完了。最後にこれが一番時間かかっちゃったんだけど、例のネックレス、見つかったよ」


 そう言って、アステルはポーチから探し当てたそれを、ジャラリと音を立てて円卓の上に置いた。それを見るなり「おお」とレフが歓声を上げ、ロクスも興味をそそられた様子でゴーグルを額に上げる。


「……ああ、依頼の品で間違いないな。でかしたぞアステル」


 数秒の沈黙のあと、レフはにんまりと笑みを浮かべた。真っ赤なルビーが嵌められた重いネックレスが、無骨な卓上で場違いに輝いている。

 これはアステルとフェリン二人がかりで、日没までかかってようやく谷底から見つけ出したものだ。物探しの依頼はたまに受けるが、広い谷底で小さなネックレスを探すのはもとより、道中で遭遇しては襲い掛かってくる魔物たちの対処で、とても骨の折れる依頼だった。


「この依頼の報酬だけで、一か月分の給料くらいにはなるぞ」

「ずいぶん太っ腹な依頼主なのね」

「ああ、なにせ星神教がらみの曰くつきのネックレスらしいからな」


 皇府も執念深いものよ、と鼻で笑うと、レフはネックレスを大切そうに懐にしまった。

 星神教というのは100年程前に廃教となった宗教団体のことだが、アステルはあまり詳しくない。ただ危険な思想のもとに破壊活動を行い、当時の皇府による粛清を受けたという話は聞いたことがある。


「依頼主が皇府、ねぇ。改めて思うけど、あんたの人脈どうなってんのよ」

「わしを舐めるでないわ」

「はいはい。そんな人がどうしてこんなところで、極小ギルドの受付係なんてやってんだか」


 フェリンがため息交じりに言った。それを聞いて、アステルは何となく振り返って魔道士ギルドの中を見渡した。

 ここは魔道士ギルド所有のハウスだ。しかしここで魔道士として登録しているのはアステルだけで、他の三人は魔道士どころかギルドメンバーですらない。けれどレフの人脈と手回しによって、活動拠点としてここを間借りさせてもらっている。

 アステルたち四人のギルドハウスは、この円卓だけだった。


「で、お前たちはいつまでそうやって突っ立ってるんだ」


 ロクスの声に、アステルは再びみんなに向き直った。


「ああそうだった! ちょっとあんたたち、今日が何の日かわかってる?」


 その時突然そう声を上げたフェリンに、ロクスとレフは露骨に顔を顰めた。アステルもそっと一歩だけ彼女から遠ざかる。今の声はきっと、賑わう魔道士ギルド中に聞こえたことだろう。


「あー、みなまで言うな。ちゃーんとわかっとる」


 苦笑しながらそう答えると、レフは机の上に散らばっていた新聞や書類を脇に寄せ始めた。ロクスも文句を言いたそうにしながらそれにならうと、円卓の上に広いスペースができる。


「ディナーなら7時にここに届けてもらうことになってる」

「あら、さすがレフ、用意がいいわね。ちなみにそれって料理だけ? お酒は?」

「もちろん酒もだ。喜べ、今年もいいやつを用意してやったぞ」

「レフ、あなたって最高ね!」

「もっと言ってくれ」


 レフとフェリンがそうやってじゃれあう横で、ロクスが無言で自分の隣の椅子を引いた。そして視線だけをアステルに寄越してくる。「そういうことだから座れ」と言っているようだ。

 どうやら祝宴の準備はもう済んでいるらしい。それならとアステルが勧められるがまま席に着くと、フェリンもようやく同じようにアステルの右側の椅子に腰を下ろした。

 改めて、四人で円卓を囲む。


 (そういえば……)


 ふと、アステルは思い返した。三年前にどんな机を買おうかという話になったとき、円卓がいいと言ったのはアステルだった。

 アステルはぐるりとみんなの顔を見回す。

 レフ、フェリン、ロクス。こうしてみんなの顔が良く見えるから、アステルは円卓がいいと思ったのだ。


「……今年もみんなでお祝いできてうれしいね」


 そう言ってアステルが笑うと、三人はそれぞれに、それぞれらしい表情を返してくれる。


 今日はアステルたち四人だけのギルドの、三年目の結成日だった。

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