後編

母は優しくて、おおらかで、少し変な人だった。私が小学生だった頃、あまり人と話すのが得意でなかったせいで軽いいじめにあっていた時期があった。皆の前で何かを発表する時に声が小さいやらなんやら野次を飛ばされたり、何人かの男の子が私のところへ寄ってきて話しかけ、答えるとわざと大きな声で「聞こえなーい」と言っては笑ったりしていた。それがつらくて、ある日の朝母に言ったのだ。

「もう、学校行きたくない……」

母はなんとなく私の事情を察していたらしく、その日は何も言わず私が学校に行かないのをそっとしてくれた。もうこのまま行かないでいいや。そんなことを考えながら一日を過ごし、次の日。朝になって母は寝ている私をたたき起こした。

「ほら! 起きな、学校行くよ」

「え、でも私」

「いいからほら」

無理やり布団を剥ぎ取られ、それでも動き出す気になれずベットに座ったままの私に母は言った。

「そうやって下ばかり向いてたら、声も届かない。人の笑顔を見られない。綺麗な青空も、明るいお日様も、静かなお月様も、なーんにも見えないよ」

母は普段見せない真剣な顔で私に言った。口調は優しかったけれど、言葉は重く心に乗っかった。困ったように母を見つめる私に、今度はニカッと笑って言った。

「ゆきは美人さんなんだから、自信持ちなさい! あんたが前向いて過ごせば、見える景色も変わる。心も変わる。まわりの人だって、みんなあんたを見直すよ。下を向いてる人には、いいものも悪いものも見えないんだから! 」

母は太陽のように明るかった。そんな母を見ていたら、不思議と元気が出てきた。日光を浴びる向日葵のように、私は母を見て前を向くようになった。勇気を出して学校に行った。いつも下を向いて歩いていた通学路も、下を向いて入っていった教室も、少し目線をあげてみればまるで違った景色だった。ああ、世界はこんなにも色とりどりなんだ。アスファルトの灰色と、机の茶色だけで塗られた私の世界は一気に色鮮やかになった。自然と表情も柔らかくなる。目を見て話をするだけで、声もハツラツとした。からかってきた男の子達も、私を見て態度を変えた。

「なんだ、明るいヤツじゃん」

そう言ってニッコリ笑ってくれたことがとても嬉しかった。

私も、太陽に救われた向日葵だった。



上京してからはお正月と誕生日くらいにしか顔を合わせていなかった。普段元気な母も段々力無くなっていたのを私はどこかで分かっていた。でも言い出せなかった。太陽の光が、弱くなっているなんて、認めたくなかった。それを知ったら私も萎れてしまう。また下を向かなければならなくなる。それが怖かった。でも、母は死んでしまった。私の見つめ続けた太陽は、遠く大きい雲に隠れてしまった。どこに光を探せばいいのか分からない。こんなに萎れた向日葵わたしに、あの部屋の向日葵の道標になる資格はない。いや、もうとっくに枯れているのかもしれない。

通夜と葬式を済ませ、仕事に戻るためにも私は自室に戻った。暗く光を閉ざした部屋を、照明がぼやっと照らした。部屋の隅にはまだ向日葵があった。花は床を向き、色も褪せた黄色になっていた。

「枯れたないんだ……」

なんでだろう、こんなに悲しいのに、こんなに心が暗いのに、私の向日葵は枯れることなく見苦しく咲いていた。中途半端に自分を保って、まだ心を飾っていたんだ。そういえば私、お母さんが死んでから一回でも泣いたっけ。

「……うう……うああああ……ああああ」

途端、涙が溢れだした。母の死ではない、自分の心の哀れさに泣いているのだ。情けない。自分がとことん情けなかった。どこか薄暗い部屋の真ん中で泣き崩れる私を、向日葵は俯いたまま見つめていた。花びらが涙のようにヒラヒラ落ちた。

シャワーを浴びて落ち着きを取り戻したけれど、心にぽっかり空いた穴はそのままだった。何もせず座椅子に座り、ボーッと何も映していないテレビを見ていた。部屋に置いてある時計の針の音だけが部屋に鳴っていた。このまま、枯れてしまおうか。水だけあっても花は生きていけない。光を失くした私に先なんて……。

またホロりと涙が落ちる。拭うこともせず頬を伝うそれが唇に触れた時、鞄の中のスマホが鳴った。出るのどうか一瞬躊躇った。だけどここで出なければ一生後悔する、どこかでそんな予感がした。画面には実家の番号が表示されていた。

「もしもし、お姉ちゃん? 」

「うん……どうしたの」

「あのね、さっきお母さんの携帯電話見てみたら、動画が残ってたから送るね」

「え、わかった」

「お母さん、なんでか分からないけど、もう自分が長くないって察してたんだと思う。一人一人にメッセージ、残してたんだ。私にも、お父さんにも、おじいちゃんとおばあちゃんにも。もちろんお姉ちゃんにも」

「お母さんが……」

「じゃあ送るね、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

電話が切れ、すぐに妹から動画が送られてきた。再生ボタンを押そうとする手が震えた。もしかしたら私は、本当に枯れてしまうかもしれない。この動画を見たら、今度こそ……。手を降ろし、スマホをそっと置こうとした、その時だった。



ーー顔を、上げなさい。



どこか遠くで、けれど耳元でそっと囁くようなそんな声が聞こえた。

「……お母さん? 」

返事はなかった。きっと逃げるなって言っているんだ。お母さんが最期にくれた言葉を、ちゃんと受け取らなきゃ。

私は再生ボタンを押した。



「ゆき、元気ですか。私は……元気じゃないです。もうすぐこの世界から消えてしまうかもしれません。不謹慎だけど、なんとなく分かります。だからこうしてメッセージを残そうと思いました。……あんたは小さい頃から人見知りで、前を向いて歩くのが苦手だったね。小学生の時学校を休んだ日のこと、まだ覚えてる。私はすごく不安だった。この子はもう外を見なくなるんじゃないかって。でもあんたはちゃんと前を向けた。笑顔で人と話して、景色を見て歩くことを覚えた。私はとても嬉しかった。でも最近また下を向くようになっていない? この間会った時にもあんたは下を向いてた。顔じゃなくて、心がね。私は体の具合が良くなくて、最近は病院通いだけど、それでも前を向くことだけは忘れてないよ。下を向いたらもう、顔を挙げられなくなりそうだから。きっとあんたは私を見ようと顔を上げてたんだろうけど、もう私はいなくなる。これからは自分で作るんだよ、自分だけの太陽を。向日葵みたいに明るいあんたなら、きっと晴れ空を見つけられるよ。じゃあね、ゆき」



母は昔みたいに笑って、動画は終わった。

私はようやく泣いた。お母さんが死んでしまったこと、その悲しみがやっと素直に表れた。ずっと私のことを分かってくれていた。私が太陽を求めていたことも、向日葵であったことも、そして今は私が太陽になる番なんだということも。

「お母さんに言われたら、もう前向くしかないじゃん」

答えるように呟いた。不思議と涙も止まって、笑顔になった。嬉しかった。私はもう大丈夫なんだ。一人でも咲いていける、太陽はもう心の中にある。だって、そうじゃなきゃこの部屋に向日葵は咲かないのだから。

「もう大丈夫、ほら、私は元気に咲ききった。次は太陽になるの。あなたを、元気に咲かせるための」

私は向日葵に言った。さっきまで枯れかけだった向日葵はみるみる元気を取り戻し、鮮やかな黄色の花を堂々と咲かせていた。



次の日、目が覚めると向日葵は無くなっていた。突然空いた空間に寂しさを感じながら、そっと胸に手を置いた。元気に咲いてて、私の向日葵。そう心で呟いてカーテンを開けた。空は快晴、眩しいくらいに輝いた太陽が世界を照らしていた。

「綺麗……私も、負けないんだから」

大きく伸びをしてもう一度空を見つめた。私の部屋に、明るく大きな太陽が光を差し込んでいた。

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部屋の隅に咲いた向日葵 ミコトバ @haruka_kanata

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