部屋の隅に咲いた向日葵
ミコトバ
前編
「疲れた」
それがここ最近の私の口癖だ。
社会人になった二年目、第一志望だった企業に落とされ、数打ちゃ当たると受けた食品会社に開発部の正社員として採用された。十分恵まれた就職先だけれど、元々やりたかった出版の仕事への未練を断てず、熱意もそこそこに仕事をしていた。きっと上司の評価もそれ相応なのだろう、あまり私に仕事を振ることはなかった。やる気の出ないことをやり続けて、一人になるとすぐに「疲れた」と口に出すようになっていた。何度も辞めようと考えたけれど、親に心配はかけられないし再就職のあてもなく、結局はこの安定した生活を捨てることが怖かった。
「贅沢だよ、ゆき」
大学からの友人である美樹に相談した時、そう言われた。美樹は教師を目指して四年間必死に教職単位を取り続け、何の不安要素もなく大学を卒業した。けれど、地元の教員採用試験に落ち、今は正式な赴任先が決まるまで塾講師をしている。そんな美樹に贅沢だと言われてしまえば、もう言い返す言葉もなかった。私は贅沢だ。そんな贅沢も要らないくらい、もう疲れた。
金曜日、くたくたになって古いアパートの自室に帰ってきた。立付けの悪いドアを無理やり閉めて鍵をかける。下駄箱のすぐ上に取付けてあるスイッチを押して、部屋の明かりをつけた。狭いワンルームが照らされる。玄関からすぐ近くの浴室の前を通り過ぎ、リビングに入って、私は目を疑った。
「なに、これ」
リビングには小さなテーブルと小さな座椅子、テーブルを挟んで向かい側に小さなテレビが置いてある。その座椅子の奥、部屋の隅、外の物干しスペースとを隔てる窓のすぐそばに、一輪の向日葵が咲いていた。
花はまっすぐ私を見つめていた。黄色い綺麗な向日葵、その根元を見ても根を巡らせられるような土は見当たらなかった。床にでも根付いているのかと思ったけれど、そんな風でもないし、抜いてみようにもまるで動かなかった。
「どうすんのよこれ……」
途方に暮れた私はスマホを取り出し、『向日葵 部屋 生えた』と検索する。いくつか出てきたのは室内で向日葵を育てる話ばかりで、部屋に突然向日葵が生えたなんて話はひとつも無かった。諦めて座椅子に座る。嫌でも気になる存在感を放つその向日葵を見て、思わずため息をついた。
そこで、私は気がついた。向日葵が私の溜息に合わせて、その花を垂れたのだ。偶然なのか、それとも。私は大きく息を吸ってみた。しかし向日葵に変化はない。どうやら呼吸に合わせて動いたわけではなさそうだ。では、私が頭を下にしたからだろうか。そう思って思い切り俯いてみたけれど、やっぱり変化はなかった。溜息に反応し、けれど呼吸や頭の上下は関係ない……ということは。
「……私の、心」
きっとこの向日葵は、私の感情に反応したんだ。この不可思議な現状に落ち込んだ私に反応して、この向日葵も花を下に向けた。よく見れば全体的に活力が感じられない。きっとこれが、今の私の心なんだ。
「向日葵なのに、こんなに元気ないなんて。なんか、バカっぽい」
そう呟いて笑顔を作ってみたけれど、向日葵は下を向いたままだった。
朝、目が覚めてから向日葵のことを思い出した。部屋の隅に目をやると、昨日初めて見た時のように花は真っ直ぐ私を見つめていた。どうやら寝たことで私の心もリセットされたらしい。意外と単純だな、私。
「おはよう向日葵」
ふざけて話しかけたけれど、もちろん反応はなかった。だけど不思議なもので、この向日葵が俯くのを見たくないなと思った。それが私の心に関係するのなら尚更だった。せっかくこんなに大きな向日葵なのだから、元気よく咲いていて欲しかった。私がこの向日葵のために出来ること……。
「仕事、頑張るか」
いつもより気合を入れて、この向日葵のために。そう意気込んで私は会社に向かった。
気持ちの持ちようで景色も変わるなんて聞いたことがあったけど、どうせ迷信だろうとバカにしていた。だけど今の私が見ているのはいつもの通勤風景であって、そうでなかった。
今まで色のなかった世界に、突然眩しいくらいの色彩が散りばめられていた。こんな小さな目標でここまで変わってしまうのか。人の心って、大きくて危うい。そう感じた。少し眩しすぎるくらいの風景に圧倒されながら、私は今までにないくらいの活気を得て仕事に取り組んだ。
退社するまで一切のけだるさを感じず、自室に帰ってきた時にそれが錯覚でないと確信した。部屋の向日葵は今朝見た時よりも花を大きく咲かせ、色はより鮮明な黄色になり、力強く私の方を向いていた。
「綺麗だな……私の向日葵」
思わず口に出た。恥ずかしさと一緒に、今日一日私がここまで明るく心を保っていられたことに感動した。これがいつまで続くかは分からない。けれど今の私なら、美樹に贅沢だとは言わせないだろう。そんな自信にも満ちた気持ちに満ちていた。机に置いたスマホかが鳴り出す、その時までは。
着信は実家からだった。滅多に電話などよこしてこないから、途端胸に嫌な予感が広がった。数秒画面を見つめて、恐る恐る通話ボタンを押す。
「……もしもし」
「あ、お姉ちゃん! やっと繋がった」
出たのは三つ年下の妹だった。その声にこもった感情が、いいものではないということが分かった。
「どうしたの、こんな時間に」
「あ、うん……あのね、お母さんが……お母さんが倒れたの」
「……え」
「今日の夕方頃、買い物帰りに急に倒れたみたいで、たまたま近くを通ったご近所さんが救急車呼んでくれて、それで……」
妹から大体の話を聞いて、電話を切った。母は、くも膜下出血だった。とても受け入れられない話を、途中から泣き出した妹の声で伝えられ、結局は何が何だか分からないままだった。とにかくすぐに実家へ帰ることにした。
電話の翌日、私は地元に着いてすぐに母の入院する病院へ向かった。意識がまだ戻らず、直接の面会はできなかった。父と妹、祖父母と五人で実家に戻った。その日の夜、病院から電話がかかってきた。母の他界を知らせるものだった。
ー続くー
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