第参話 報奨
褒美は何がよいか、と問うたのに、男は、
「では、お耳を頂戴できませんか?」
と答えた。
罵声でざわつく中で、記憶の彼方から似た光景を引っ張り出す。
ああ、またあの男であったか。
◇
以前もこの男に「褒美は何を?」と問うたことがあった。ところが、
「今の音は……?」
と見当違いの質問を返してきたのだ。
「姫さまの御身に関わる手柄ですので、褒美は姫さまご自身から」と言われ、決められた言葉をかけ、相手も決められた要求をして、それを了承するだけのくだらない儀式だったはずなのに。
長い挨拶と口上に飽き、どうせ御簾越しで見えないからと、むかしむかしのやさしい声とわずかに擦るような足音を思い出して、少しだけ余所見をしていた。いつの間にか挨拶は終わっており、促されて声を掛けたのだけど、そのせいで揺れた、かすかな音が、その男に届いてしまったようだ。
報奨の場とはいえ、一介の護衛が発した無礼な質問。わたしはまだ記憶の空をなかば漂ってぼんやりしていただけなのに、その沈黙は怒りと受け取られてしまった。眉をひそめる侍女たちを手で制して、端的に答える。
「ただの耳飾りです」
無礼を咎めるより余程、この方が手間がない。先を促すように黙ると、男は一瞬の沈黙ののち、
「では、その耳飾りを」
と答えた。
今度こそ、その場にいる全員が色を変えて怒鳴った。身につけているものを所望するなど、あまりにも分を越えた要求だからだ。
ばかなひと。確かにこれは高価な真珠がたくさん連ねてあるけれど、それでも型通りの報奨よりずっと安価なのに。
わたしは左耳の飾りをはずし、顔を朱に染めて怒りに震えている侍女に突き出した。侍女は驚いたけれど、わたしがさっさと立ち上がったので、慌ててそれを受け取った。
たかが耳飾りくらいで、騒ぐほうが面倒臭い。なにもかも、どうでもいい。
房を出るとき、背中の向こうで、耳飾りが男の手に渡るすずやかな音がした。
◇
耳飾りの次は耳。この男はまた、妙なものをねだる。みな青ざめているけれど、これはただの言葉の綾だ。
「言いたいことがあるのでしょう。構わないからこちらへ」
ざわめきを断ち切る冷めた声で言い放つと、誰もが不満を口の中で繰り返しながら、それでもしぶしぶ
もったいぶりながら御簾が持ち上げられ、平身低頭する若い男の姿が見える。
「顔を上げて、早く済ませてください」
わたしの命に従った彼を見て、他には何も見えなくなった。
あなたは……!
わずかに弧を描いたまなざしは、わたしの驚きを予想してのものだった。背が伸び、声が低くなり、取り巻く環境が変わっても、昔と変わらぬ真っ直ぐな瞳と、芯の強さが現れた口元。
衣擦れの音をさせながら、彼が近づいてきて、すぐ目の前でもう一度深い礼をとる。話を聞くだけならば、この距離で十分。けれど、
「……望みは『耳』なのでしょう?もっと、こちらへ」
着物どうしが触れ合うほどに近づき、「では、お耳を」と右側に回られると、気配が一段と濃くなった。
熱い吐息とともに囁かれたのは、とても懐かしくやさしく、身分など関係なくこの人にしか許していない言葉。それは長い間沈黙を続けてきたわたしの心を、高らかに鳴らした。間近で見つめる瞳は、あの頃と変わらず、わたしだけを映して揺れている。
「あなたになら、両耳を切り取って差し上げたって構わないのに。わたしのすべてを望んではくださらないの?」
「もう私には、姫さまをいただけるような身分はありません。こうして、ただ一度想いをお伝えできれば十分です」
「だったら、もう生きている甲斐などありません」
彼はそっと抱き締めるように、自分の胸に手を添えた。
「生きてください。これからどのように生きられても、どなたに嫁がれても、いちばん大事なものは、十年以上も昔にいただいておりますから」
褒美によって、吐息が届くほど近づくことができたけれど、それでもわたしの瞳に浮かぶ涙を、拭ってもらうことすらできない。あまりに隔たった距離に、わたしは絶望したというのに、彼の心はそれでも変わらなかった。
長いやり取りを不審に思ったざわめきに気づいて、彼は静かに離れる。腰元で、あのすずやかな音が鳴った。
下げられていく御簾の隙間から、切実な声が滑り込む。
「望む形ではなくなりましたが、お側におります。ずっと」
褒美を与えるのは、わたしだったはずなのに……。
何かを問う声や、罵詈雑言、わたしを呼ぶ声もあったけれど、それらはまるで蝉時雨のようにただの景色に溶けた。
わたしの心には、残された約束と彼の少しだけ擦るような歩みに寄り添って揺れる耳飾りの音以外、届かなかった。
了
芳一類似譚 木下瞳子 @kinoshita-to
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