第弐話 寿縛

 そこには墓地ほどのぬくもりもなく、ただき静謐だけが降り積もっていた。

 肌を滑るのは、時折揺れる蝋燭の灯りと、視線、そして針とたがえそうに細い筆の穂先だけ。僧は、花嫁の衣装、まして肌になど決して触れることなく、精緻な文様を描き続けていた。真珠の粉と銀を溶いた特殊な塗料は、元より白い肌の上でも発光するような存在感を放っている。


「疲れましたか?」


 嫁入りの前夜、花嫁は緋、牡丹、山吹、常磐、碧、藍、たくさんの色を内に羽織り、そのすべてを純白で覆い隠した姿で寺に籠って祈りを捧げる。そして僧によって首の付け根をぐるりと一周、文様を施されるのだ。

 首の右側から始められたそれは、正面を回り、今その声は花嫁の真後ろにあった。僧からは、生き物の発するなにものも感じない。衣擦れの音も、呼吸の振動も、感情も、なにも。あるのは冷静な穂先の感触だけ。


「大丈夫。だから、もっとゆっくり描いて。間に合わなくて構わないから」


 聞こえぬはずはないのに、筆の運びは変わらず。ちらと薄目を開け見た鏡には、人の手で描いたとは思えないほど細かく、狂いない文様と、人ならぬほど気配のない僧の姿があった。

 乾くとひと月は消えない、というその文様は、描いて間もない時ならば水で消えるらしいが、一度として彼が直したことはなかった。花嫁が肩を震わせても、息を呑んでも、僧の筆にいくばくかの緩みを与えることもできなかった。それどころか、塗料を含ませる以外は止まることなく筆は動き続け、読めぬ文字とも、絵ともつかぬ文様をひたすらに描いていく。正確な円も、対となる螺旋も、まるで肌の上にある下書きを、ただなぞるかのように。


「これに、どんな意味が込められているか、ご存知ですか?」


 穂先が滑る右側後ろで、色のない声がした。


「幸福を願う、と」


 嘲笑うがごとく、くるりと小さく筆が走る。


「幸福……これは魔除けです」

「魔除け……」

「草花、呪文、紋、あらゆる魔除けの要素が複雑に組み込まれた文様です」


 蜘蛛の巣にも似たそれは、まるで肌を捕らえ食い込むようにも見える。



 闇がもっとも深くなる頃、首の右側で走っていた筆が、ついに止まった。


「魔除けって、何から花嫁を守りたいのでしょうね」


 突然人の気配をさせた僧から、生え際の産毛をわずかに震わせるだけの呼気が届く。祈りを捧げた姿勢の花嫁に、その表情を知るすべはない。ことりと筆を置く音が、初めてこの部屋に響いた。


「嫁入りの儀式が満月の夜、とされている理由も、なぜだか知っていますか?……ああ、でも今夜は曇ってきましたね」


 ゆっくりと顔を向けると、わずかに微笑んだ彼と視線が合った。そのまなじりは、筆を持った時のそれとはまるで違う。


「天の加護は、なさそうです」


 生々しき欲の発する色香を受けて、花嫁は、一心に合わせていた手を、ほどく。


「わたしが、ずっと祈っていたから。闇を」


 月下で輝くはずの文様は、蝋燭の灯りで不穏に揺らめいた。

 僧は、一度置いた筆を手に取り、たっぷりと水を含ませる。そして描き終えたばかりの文様の上に一閃、鋭く走らせた。穂先から溢れた滴が、首筋から白い衣の内側へと滑り落ちていく。


「私がこの仕事を選んだのは、今夜のためでした。あなたに許嫁がいるとわかった、あの幼い夏の朝です」


 熱い親指で強く擦ると、完璧に施された文様が、切れた。

 後に残るのは、紅い指跡と熱。


「魔除けの魔とは、誰のことだと思いますか?」




 朝日は、厚い雲の向こうで昇った。弱々しい明るみが差す部屋には、消えた蝋燭と、針と違えそうに細い筆と、牡丹、山吹、常磐、碧、藍、そして純白の衣。


 僧と花嫁と、激情の緋の衣は、天の加護の届かぬ、雲の彼方。




 了




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