芳一類似譚

木下瞳子

第壱話 返礼

 わたしが泣いて帰ると、母はよく言ったものでした。


「たくさん泣きなさい。涙が悲しい出来事を遠くへ運んでくれるから」


 そうして、わたしの髪の毛に指を滑らせながら、ふんふんと鼻歌を歌うのです。もの悲しい、それでいて包み込むようなあたたかい旋律です。それは母がよく聞かせてくれる、お伽噺の中に出てくる琵琶の旋律でした。



 ある少女が、悲しみで心をいっぱいにして、けれどそれをどうすることもできず、家を飛び出しました。そして道端で、流しの琵琶弾きに出会うのです。琵琶弾きは、老人にそれはそれは悲しい歌を聴かせていて、老人はさめざめと泣いています。

 不思議なことに、その老人は何度もお礼を言って、わずかばかりのお金をおいていなくなりました。そこで少女は琵琶弾きに言うのです。


「つまんない歌。どうせ聴かせるなら、もっと楽しい歌にすればいいのに」


 琵琶弾きは最初、少女の方を見ませんでした。ただ目を閉じているのではなく、見えないようなのです。それでも確かに顔を少女の方に向けて、やさしい笑みを浮かべました。よく見ると、痩せて粗末な着物を着ていても、きちんと繕われて穴はないし、頭も剃刀できれいに剃られています。


「泣きたいときには、たくさん泣くといいんですよ。涙が悲しいことを遠くに運んでくれますから」


 琵琶弾きは、もの悲しくもやさしい旋律を奏でます。少女の背中を、ゆっくりさするような音色でした。

 少女の目からは、流せなかった涙が、やっと道を見つけたように流れました。そして琵琶弾きの言った通り、悲しかった気持ちはだいぶ小さくなったのです。

 少女は老人の気持ちがようやくわかりました。それで、自分も何か琵琶弾きにお礼がしたいと思いました。琵琶弾きの足元には、お金や、野菜や、着物など、お礼の品々が並んでいたからです。

 けれど、少女には彼に渡せるものが、何ひとつありませんでした。お金はもちろん、簪ひとつ、金平糖ひと粒ありません。

 だから少女は、こころを渡すことにしたのです。自分の中にあるあたたかい気持ちのすべてを、琵琶弾きに。


 そんなお話です。母がいつも幸せそうに話す、大好きなお伽噺です。



 母の膝をびしょびしょに濡らしてその旋律を聴いていたわたしは、やさしい声にいざなわれるように、いえ、単に泣きつかれただけかもしれませんが、とにかくいつも眠ってしまいました。

 目が覚めて「あの続きは?」とねだっても、母は、「あのお話はあれでおしまい」というのです。


 そんなことがたびたびありました。

 わたしには、父がありません。この辺りは地震や川の氾濫といった災害が多く、またわたしが産まれる前には大きな戦もありましたから、親のない子など珍しくはありませんでした。

 それでも、黒光りする艶やかな髪と黒曜石の瞳を持つ母と、髪も瞳の色も薄い私はまったく似ておらず、そのことを揶揄する声は絶えなかったのです。それは他人ではなく、むしろ身内から向けられることが多いものでした。

 けれど母だけは、いつも愛しそうな目でわたしを見て、慈しむ手でわたしを撫でます。


「あなたの髪も目も、きれいな栗色で私は好きよ」


と。だからわたしは思うのです。


「もしかして、わたしの髪や目は、父さまに似ているの?」


そう問いかけると、母は、


「そうねえ。おそらく」


とひどく曖昧なのです。父について、母の返事はいつもそのようなものでした。

 だからと言って、わたしはさみしくはありませんでした。家は裕福な方で、生活に困ったところもないし、何よりも母から父の分まで愛されていましたから。わたしにとって、父が誰かなど、些細なことでした。


 でも一度だけ、母の悲しそうな顔を見たことがありました。

 あの日わたしはひとりで庭で遊んでいて、そこに流しの琵琶弾きが通りかかったのです。秋のやわらかな陽を背に受けて、冬囲いを待つ生け垣の外をゆっくり歩いていました。もの悲しくやさしい歌を歌いながら。

 それはあまりに幻想的な光景で、あのお伽噺にそっくりだったので、わたしは嬉しくなり、ついからかってしまいました。


「つまんない歌。もっと楽しい歌にすればいいのに」


 琵琶弾きはぴたりと歩みを止め、声の主を探しました。本当にお伽噺と同じで、目が見えていないらしいのです。着物はちゃんと繕われ、頭は剃刀できれいに剃られています。

 琵琶弾きはわたしのいる辺りに顔を落ち着けると、やさしく微笑みました。


「泣きたいときにはたくさん泣くといいんですよ」


 ああ、やっぱり!この琵琶弾きも、あのお伽噺を知っていました。

 わたしは母にも教えてあげたいと思ったのですが、琵琶弾きがさっと顔を別の方向に向けたので、わたしもそちらを見ました。

 庭の入り口に母が立っていました。立って、黙ってこちらを、琵琶弾きを見ていたのです。今にも泣き出しそうな顔でした。けれど、それを必死に堪えている顔でした。

 母ならば、泣きたいときには泣いた方がいいと、よく知っています。涙は、悲しい出来事を遠くへ運んでくれるのですから。

 それなのに、母は決して泣きませんでした。まるで、遠くへ運びたくない想いを抱き締めているように。

 わたしは、琵琶弾きは実は見えているのではないかと思いました。それくらい確かに、母の方を向いていたのです。

 けれど、去り際、目の前に飛び出しているひめりんごの枝にぶつかって、小さな傷を作っていたので、私の思い過ごしだったのでしょう。枝をどけてあげると、琵琶弾きは深々と頭を下げました。


「お礼に、昔、私がいただいたものを、あなたに差し上げます。それから、私の分もいっしょに」


 琵琶弾きは最後にそう言って、私の髪をひと撫でしました。その手は一度頭を外れて空を切り、探すようにして私の髪にたどり着きました。母のそれと同じように、慈しむような心地よい手でした。

 ふと、瞼に隠されたその目はどんな色なのだろう、と思いましたが、わかるはずありません。


 琵琶弾きの言葉の意味を母に聞いても、やはり、


「さあ?どういう意味かしらね」


と答えるばかりです。


 わたしはあの琵琶弾きから、何をもらったのでしょう?

 だけどきっと、何かいいものに違いない。そう思うのです。






 了

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