スペース
月緒 桜樹
完全なる無色
“心の空白”には、何が在る?
こんなに痛むのなら、何かがあるはず。そう思い始めて、長い時が経った。
さぁ、見せてもらいましょうか。この“心の空白”を。
その手段を、手に入れることができたから。準備はできている。……さぁ、教えてもらいましょうか。
調えられた鏡の向こうに、殺風景な部屋を見た。それは、この場所の虚像。
その鏡の向こうで動き回る自分自身を、静かに見詰める。――こっちに来て。もっと、もっと、この手が届くところまで!
そして、その腕をやっと捕らえた。
「――――っ?!」
酷く驚いた表情で、振り返る。自分にしか思えない人間に唐突に腕を捕られれば、誰だって驚くだろう。少しだけ、申し訳無いと思った。
――まぁ、今からもっと非道いことをするのだけれど。
ひとつ息を吸い込んだ。やや気が引けることをして、“自分”を気絶させる。その額に手を押しつける、と。
――その手が、沈んだ。
はっきりとした感覚を味わって、叫ぶ。
「――ああ!」
やっと、自分の精神世界が見られる。その感動に震えた。
***
辿り着いた世界は、完全なる無色だった。透明と言うのも不可能だった。
――“透明”とは背景を透過するために、そう言えるのであるから。
故に、この世界は不可視だった。
見えなくとも感覚は研ぎ澄まされていたから、周囲の状況は手に取るようにわかったのだけれど。
――ふと知覚した。
誰かが、泣いている。
この感覚は、きっと、蹲って泣いている。
歩いていくと、“泣き声”に出逢った。“泣き声”は、蹲って泣いていた。
そして。
彼――或いは彼女――は、泣き声で構成されていた。
と言うのも、人間の気配ではなかったのだ。濃密な音の気配。纏っているのは湿っぽい空気。すすり泣きや慟哭や――、表現しきれないほど数多の泣き声で構成されているのである。
「…………君は」
顔を上げたような気がした。ひっく、としゃくりあげる音が聴こえた。
誰なの? と言葉を継ごうとして。
気づいた。
これは、幼い自分だ。
すすり泣く声は、幼くないものも在ったけれど。間違いなく、自分だと思った。
だから、違う問いを放る。
「何故ここで泣いているの?」
ひっく、と言った。
「ここから、出られないの。ここで、ずっと食べなくちゃいけないんだよ?」
何か役目でもあるのだろうか?
そこで、歯形のついた物体が、“泣き声”から放射状に転がっていることに気づいた。勿論、視界は無であったけれど。
それは、“記憶”だった。
痛みを内包した記憶ばかりが、欠けて眠っている。
宙にはまだ欠けていない記憶が漂っていた。何でもない記憶は、段々と透き通って消えていく。鮮やかなのは、新しい記憶に、幸せな記憶の断章。
そして――、苦痛の記憶。
ふっ、と手が伸びて。掴んだ痛々しい記憶を、泣きながら食べている。
当たり前だ。
こんなものを食べて、苦痛に顔を歪めないはずがない。味わう度に、奈落に突き落とされる。常人には耐えられようもない。
憐れだった。
その作業は自衛のためのものだ。だから、逃れることはできない。
この幼い“泣き声”が、“役目”のために犠牲になろうとしている。それが、憐れでならなかった。
「もう……、もう、いいよ」
「よくないんだよ? ねぇ、そろそろ帰りなよ」
涙混じりに、そう言った。
強がっているようにしか、見えなかった。
「どうせ、忘れるんだよ? そうでしょ? ここで知ったこと、全部忘れるんだよ?」
悲痛な、叫び。そんな悲しい運命は、否定したかった。
「――忘れないよ。帰っても忘れない。全部抱えて、生きていく」
「――――無理だよ!!」
きっと、労いの肯定が欲しかったはずなんだ。
「例え忘れたとしても……無意識が、覚えてるから。絶対に」
「――――――」
「また、君に逢いに来ていいかな?」
目を見開いたようだった。数瞬の間の後、こくりと首肯したのを知覚した。
瞬きすると、そこには色が元通り在った。そして……もう、悲痛な声も聴こえない。
***
きっと、これ以上の話は語る必要が無い。ただの蛇足なのだろう。
だから、この記録を公開するのはここまでにしておこうと思ったのだ。
結局、その光景――視覚は皆無だったので表現の仕様が無い――は朧気にしか覚えていない。詳細に書いてある記録を読んでも、曖昧な霞は拭えなかった。
けれど。
あの日、痛むのはただの“空白”なんかじゃないと知った。
それだけでも、あの苦痛に満ちた毎日を過ごす“泣き声”は、救われてくれないだろうか……。あれ以来、そう祈っている。
痛むのは、無意識に殺してしまった記憶と、無意識に押し込められた最前線の存在だ。
――まただ。
また、今日も狂ってしまいそうなほど痛い。
それでも、痛みを抱えても、生きなければならないと思った。その度に、あの幼い自分が、必死に自分自身を守ろうとしていたのを思い出すから。
スペース 月緒 桜樹 @Luna-cauda-0318
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