終章
地下の倉庫に戻ると、あらかたの荷物をリュックにまとめ終えた律子が、床の上で胡座をかいていました。
「行きましょう」
「そうか」
律子はそれだけつぶやくと、よいしょと重そうなリュックを担ぎあげながら立ち上がりました。
「氷花の荷物はないのか?」
そういえば、わたしはここから逃げ出すのでしたよね。いろいろな考えが脳内を駆け巡っていて、そこまで頭が回りませんでした。
「別にそこまで惜しいものはありませんし、大丈夫ですよ」
階段を登っていく律子の背中を追っているなか、数歩前進するたびに地下で眠る佐川さんの遺体に睨みつけられているかのような錯覚を背後から感じ、どきっと思わず身震いして、なんども振り返ってしまいます。
地上までたどりつくと、鋭い日光が目に突き刺さりました。眩む目をこすってある程度視力を回復してから海の方を見ると、潮が見事に引いていて本島まで続く砂の道ができていました。
重たいリュックを背負っているのに、律子はまったくバランスを崩さずに颯爽と険しい斜面を降りていきます。わたしはうっかり足を踏み外してしまわないように、しっかりと足場を確認しながら慎重に彼女の後に続きます。そして、ついこの前までは海の底だった地点まで無事に降りることができました。辺りには色とりどりのヒトデや海藻があたりに散らばっており、強い潮の香りが鼻をつんつんと刺激します。
「急いでくれ氷花。できるだけ早く誰かと連絡を取りたい」
安堵のため息を漏らす暇も与えてくれないみたいですね。崖を降りただけでもうくたくたです。
「はいはい」
砂の道を進むとぬめった地面に足跡がくっきりと埋め込まれますが、それは度々押し寄せてくる波にすぐにかき消されてしまいます。
「幸……」
どうも彼女のことが気になって別荘の方角へ振り返りました。
「おい、足が止まっているぞ。どうかしたのか?」
「幸さんはどうなっちゃうのでしょうか?」
「私たちの証言と指紋などの証拠をもとに少年院行きになる」
ずばっとなんの躊躇もなく言い切る律子。まあ、間違ってはいないんですが。
「律子はそれでいいと思うのですか?」
「罪を犯したものは、それ相応の罰を受けるべきだ」
「ですが……」
律子はなぜ幸が犯行に走ったのかを理解していないはずです。彼女の視点からだと幸は疑う余地もない血迷った殺人犯……なのでしょうか。普段の幸を知っている律子は、本当に幸があのようなことを理由もなくできる子だと思っているのでしょうか。実はなんらかの事情があったのではないか、と感じているのではないでしょうか。
確かに動機がなんであれ、彼女が犯した罪はそう簡単に許されていいものではありません。けれど、その動機がわたしを守るためだったとすると、わたしも間接的に彼女の行いに加担しているのではないでしょうか。もとはと言えばわたしが新宮さんを殺してしまったのが事件の発端。わたしだけがなんの罪にも問われずに、悠々と日常へ戻っていいはずがありません。世間がわたしに罪を問わなくても、事実を知ってしまったわたし自身が幸のことを綺麗さっぱり忘れて平然と暮らしていけるわけがありません。
「あの……」
「またどうかしたのか?」
「律子はどうしてわたしを疑おうとしなかったのですか?」
質問には常にすぱっと答える律子ですが、今回は返事が戻ってくるまでわずかな猶予がありました。
「氷花が犯人であるはずがなかったからだ。それ以上でも、それ以下でもない」
確かに普通に考えていれば、わたしが殺人などを起こすとは到底思えないでしょう。ですが、それはあくまでも普通に考えていればであり、律子の物理的な証拠のみを考慮した推理のもとでは成り立ちません。
「いえ、それは違います。わたしには新宮さんを殺すことが可能でした」
「もう何度も言ったが、あの日は最後に部屋へ戻ってきたのは私だ。その時にはまだ新宮の死体はなかった。だから氷花は犯人になりえない」
「幸を連れてトイレに行った時なら、誰にも見られずに殺すことが可能でしたよ」
「……」
「聖堂さんのごはんに毒を盛ることも、わたしには可能だったはずですよね? これは律子自身が言っていたことです」
「……」
「一人で留守番をしていたわたしなら、運悪く律子たちとすれ違って帰ってきた美々さんも簡単に始末できたはずです。佐川さんも律子が瀬高さんを探しに行っている間にわたしが殺せたはずです。つまり、わたしにはアリバイなんてなかった。そして律子もそれには気づいていたはずです。そうですよね?」
「否定はしない」
「なら、どうしてわたしを疑わなかったのですか?」
「氷花が犯人であるはずがないからだ。私はそう断言できるほど氷花のことをよく知っている」
おかしい。律子の判断基準が矛盾しています。
「それでは推理の前提と完全に矛盾しているではないですか!」
「私が作った前提なのだから、私が変更を加えても問題はないはずだ」
「そんな横暴な……」
律子らしくない言い訳です。筋が通っていない。絶対に何かがおかしい。彼女は何かを隠しています。
『ついさっきこれがゴミ袋の中に入っていたのを見かけた』
脳裏に浮かぶ律子の言葉。どうして、今、ここでその言葉に引っかかりを感じるのでしょうか? 何か考えが出かかっているのに、どこかに引っかかっているような気がして、とてつもなくまどろっこしい……。
『律子ですか。こんなところで何をしているんですか?』
『焚き木集めだ』
――思い出しました。
「本当は最初から気づいていたんですよね。新宮さんを殺したのはわたしだって」
「……」
「わたしが新宮さんの水筒を捨てにいったところを、律子は見ていたじゃないですか!」
律子はわたしの主張に対して特に動揺した様子は見せず、落ち着いた趣のまま、返事をしてきました。
「見ていたことは否定しない。だが、私はそれを殺人に当たる行為だとは思っていない。あれは誰のせいでもなかった」
「ですが――」
「それより、一つ聞きたいことがある。氷花はどうしてそこまでして、犯人になりたいんだ?」
「そ、それは――」
「幸を助けたいのか?」
うっ、図星をつかれました。
「まあ、単刀直入に言えばそう……ですね」
「氷花はよかれと思って、そのようなことを言っているつもりなのだろうが、それはただの自己満足だ。自分が抱いている罪悪感を解消したいという、これから先の現実と向き合いたくないという、短絡的思考によって導き出された思いだ。惑わされるな」
「……確かにわたしの考えは、ただの自己満足なのかもしれません」
責任を負いたいという願望。それは律子の言う通り、わたしの自己満足です。けれど、わたしはこの事件を背負って生きていけるほど強くはありません。わたしのせいで数多くの命が奪われたのです。幸はわたしのせいで人生を棒に振ってしまったのです。
強い律子の基準で考えれば、わたしの考えはおかしいのかもしれませんが、弱い人間には諦めて逃げることしかできないことだってあるのです。
「わたしは自首します。事件の犯人はわたしだったと警察に伝えます」
そうすれば、せめて幸は救われる。消極的で臆病者な、なんの役にも立たないわたしではなく、好きな人のために自分の人生すら捧げられる彼女の方が、この世界のためになる人間ではないのでしょうか?
「ダメだ。それは私が許さない」
「どうしてですか?」
「氷花、冷静になれ。自分が何を言っているかわかっているのか? 幸は殺人鬼なんだぞ?」
「わかっています。ですが、わたしより幸の方が価値がある人間なんです」
「悪いことは言わない。今回のことの後始末はすべて私に任せてくれ。ここまでごった返した現状の中で、正しい判断をできるほど冷静に考えているのは私だけだ。家に帰ったらこのことを忘れて、以前のように――」
律子がわたしに背を向けて先へ進みだすのを確認し、わたしは胸ポケットに手を伸ばしました。
「だから、弱いわたしにそれは無理なんですよ」
冷たい刃がバネに弾かれてわたしの指の間をすり抜け、律子の背にその切っ先を向けました。頭の中ではピアノの音が狂ったように飛び回り始め、さっきまで白かった砂浜は血のように赤く染まって見えます。
「律子の死体を持っていき、このナイフを見せつければ――」
『氷花先輩みたいな人は、もっと幸せになるべきなのに……』
一歩踏み込んだところで、急に血が頭から足の底まで一気に引き、荒くれるピアノの音はすずやかな波の音にかき消されました。
「わたしは一体、何を……」
恐怖のあまり、わたしは手に握られていたポケットナイフを海の中へ投げ込みました。すると、とてつもない脱力感に襲われ、両足がバランスを完全に失い、わたしは白い砂の上に座り込んでしまいました。
「どうした、氷花? もう歩けないのか?」
倒れたわたしに気づいて律子が戻ってきます。
「……」
律子に掛けるべき言葉がわかりません。あと一歩間違えれば、今頃わたしたちは……。
「疲れ切っているみたいだな。ちょっと待っててくれ……。よいしょっと」
律子に背負われたわたしは、疲労に屈して眠りこけてしまいました。
赤い砂 庭雨 @niwaame
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