第2話

 現代魔術の発展は増加と圧縮の積み重ねの歴史であった。人々はより簡素な形での魔術を求め、また魔術的平等を訴える世界的な気運の高まりに研究者たちも応えざるを得なかった。それまで主流であった機能分化と並列起動法の無秩序な進行によって、収拾不可能なほど千々に乱れた近代魔術の反省を生かし、別の視野からのアプローチが始まった。『請願』への介入である。

 魔術とは理解だ。この一言によって魔術的なるものの特徴は全て言い表すことが出来る。本書で重ね重ね記しているとおりである。乱暴な言い方をすれば、現代魔術はその理解を放棄した。言うまでもないことだが、魔術の基本的な構造は、共有――請願――実行という三つの段階からなっている。近代魔術は『実行』のプロセスに着眼し、成功とは言い難いお粗末な結果を残した。中世まで6系統12カテゴリだった(諸説あるがここでは『近代魔術大綱』を引用した)樹形図を、現代を迎える頃には12系統129カテゴリまで肥大化させたのがその象徴であろう。しかし、その現代においても『請願』という次元に対象がすり替わっただけで、本質的な〝改善〟の手段は変わっていない。変化したのは、枝分かれが一つの枝の内部で起こるようになった、ということだけである。木は枝打ちをされ以前よりすっきりとした外観を保つようになった。しかしその幹の内側で蠢きながら伸び盛る梢の様相は、グロテスクと言うほかない。



                          『狩人の魔術』第3章より




 


 術本の〝読解〟とは言うが、実際のところ『読む』というよりは『観察する』と言った方が作業内容としては正確と言える。術本にも様々な形態があるが、このところ自分が観察を試みているのは特定の術式の発動プロセスを丸ごと保存し、誰でもその術式の『起動過程の』再現が出来るという代物だった。

 いわゆる現代魔術に該当するものは基本的にその過程・構成を知らなくても起動できる。術者が専門的な知識を必要とせず、複雑で高度な魔術を扱えるように何世紀にも渡って術の改良が続けられてきた成果だ。逆に言えば、ある術式を改良しようと思って術の内部構成を改めて見てもさっぱり分からない、ということがざらにある。原理の簡単な汎用術式ならいざ知らず、特定の分野に特化した専門的な術式となると読解は更に難しい。無論、そういった分野に携わる人々は身を投じる前にある程度の知識を身に付けることになるのだが、業種によってはそうおいそれと実際の術式を使えないものもある。その最たるものが軍用術式だ。狙撃術式の構造分析をしたいからと言ってぽんぽん撃ちまくる訳にはいかない。競技用のものと違い、出力を実際と同じにしないと意味が無いからだ。

 そういう時に、仮想的に発動プロセスを再現してくれる術本のありがたみを実感する。霊素を流し込むだけで記録されている術式の動きがつぶさに分かる。なによりそれを外部環境で再現することによる客観性が得られる。すなわち観察だ。これが非常に大きい。敢えてここにただし書きをつけるとすれば、軍用術式を記した術本のほとんどが困難な閲覧条件下にあるということぐらいか。

(比較すると照準補正、誤差修正、自動追尾辺りが術式への負荷が大きいところかな。やっぱりユーティリティの改善が進むにつれて『請願』が混濁するのは避けられないみたいだ。いや、これだけの機能追加を上手く収めているってことなのかな)

 ジルに貸与された本に記されているのはおおよそ10年ほど前の、とっくに実用を離れた古い魔術だ。しかし、術式の根本的な構造は変わっていない。むしろ術者への補助機能が付与されていない分、構造の把握がしやすい。

(請願の方法自体を変えないと駄目かもなあ……資料が足りないな)

と思いいたり、方向転換したのが一週間前のことだ。この時点で長引きそうな予感はし始めていた。

「それで何冊か請願研究系の論文を読んだ上で、改めて『狩人の魔術』の内容を著者に質問をしにきたというわけだ」

「初歩的な内容な気がしてちょっと気が引けるんだけど。ご本人に聞くのが一番早いと思って」

「使えるものはなんとやら、だね。いいよ、ちょうど手が空いてるし、質疑応答といこう」

わざとらしく両腕を組んだジルは、お気に入りらしい肘掛けのソファに身をうずめる。小さな板状の映声機――声を文字情報として自動で保存する魔導具だ――を見せると頷いた。板は手を離れ、モビールのように天井近くで弧を描く。

「自分の研究の進捗は共有した通り、狙撃魔術の発動プロセスにおける『請願』の簡略化。でも、誓言自体は物凄く洗練されてて、正直素人が手を出してどうこうできる代物じゃなかった。だから請願のしかた、つまり術の構成要素の組み上げを改善しようとしてるんだ。具体的にはプラスアルファの部分、補助系統との噛み合わせを考えてる。実際に何通りか再構成してみたのがこれ」

スケッチブックに圧縮図式として複写した試作術式を手渡すと、何やら得体の知れない球と直方体が歪に重なった物体が細い光線を複数本放ち、読み取りのようなことを始めていた。

「実地の勘、っていうとちょっと学問的にはおぼつかないけど。方針としては、整合を無視できるものと無視できないものに分けて、無視できる部分は最大まで誤差を許容させてみた」

「なるほど。確かにこの辺りの調整は実戦経験がものを言いそうだ。術式を組む人間は大抵学者で、前線でドンパチやった経験のない者がほとんどだから、この視点は重要だ。ただ個人の感覚に基づくものは一般化させるときに注意しないとね。君の言う通り」

舐めるように図を追っていた謎の物体が満足したのかふっと掻き消えた。同時に特有の紅い金属光沢を纏った棒状の記存管――非物質を保存するための試験管――が2本、3本と二人の間に浮かぶ。恐らく術式の構成要素ごとに分解したのだろう。要素と言っても概念に近いものなので、モノのように扱うにはかなりテクニックを要する。さすがにアカデミー一年目にして学位を取っただけのことはあるようだ。

「さて。初めに断っておくと、私はこの種類の術式に関して言えば専門的な知識があるわけじゃない。多少一般的な議論になるのは大目に見てほしいな。その上でいくつか確認していきたいんだけど……」

ほっそりした白い腕が記存管を脇に押しのけると、一つの立像を呼び出した。羽の生えた人型、ひらひらとした服装。いわゆる天使のような風貌。ただし顔が無い。袖の中も空っぽだ。

「精霊、だね」

「この国では一番オーソドックスな形態かな。このタイプが雛型としては多いけど、文化圏によってかなり見た目は違ってくる」

精霊像はフローリングの床に音も無く着地する。30センチほどのそれは、足元で奇妙な存在感を醸していた。

「というのは、精霊にとって見た目は割とどうでもいいことだから。大事なのは『精霊がいる』という事実であって、その他は大して魔術に影響しない。とか言うと精霊教の熱心な信者が怒鳴り込んでくるから人前ではうかつに言わない方がいいよ、ほんとに」

「遠回しな経験談をありがとう」

「……ええと。『請願』の最適化を考えるとき、よく引き合いに出されるのが数式だ。同じ事柄を示すならなるべくシンプルに。誓言が複雑になればなるほど精霊の理解が遅れ、承認されにくくなる。精霊の理解とは術者の理解。承認の可否は理解しているかどうか。そういう図式だね。この狙撃術式で言うなら、『どの目標に、どんな軌道で、どんな弾を、どのぐらいの威力で、どのぐらいの頻度で』、とかをとうとうと並べ立てるわけだ。そしてそのあれこれを全て説明し終えたら、精霊が術式を実行してくれる」

「でもそれだと長すぎるから、誓言をシンプルにする……」

「そう。そこだよ。シンプルにするのは誓言であって『請願』じゃない。今ここに君の術式の三つの構成要素、『請願』がある。『目標』『弾種』『威力』かな」

視界の隅に追いやられていた記存管が精霊像の頭上で横に整列した。

「この一つの『請願』は、非常に細かな下位の関連事項をひとくくりにしたものだ。威力とか照準補正とか、その他もろもろはこの三つの中に分類され、まとめられている。言い換えれば、多量の誓言からなる一つの『請願』を、短い複数の『請願』に置き換えるということ。実際に使用するときはこの三つを再び一つの上位『請願』に置き換えて、狙撃術式として使うことになる。でもね。これは本当に『請願』を簡素化したことになってると言えるかい?」

「多すぎる誓言の代わりに分かりやすくて大きな『請願』を置けば、やっぱり理解の速度は早まるんじゃないかな。必要とされる知識とか経験が少なくなるから思考そのものを簡素化……あれ、ちょっと待って」

よどみなく流れていたはずの論理に何かがせき止めるように引っかかった。

魔術とは精霊に『請願』することで実行される。『請願』の内容は誓言で決まり、それはシンプルなほどいい。だから誓言を整理して分かりやすい『請願』をする。これは何をしている作業かと言えば、それは思考の洗練だ。これは正しい。順当な手順だ。しかし、

(そうだ。別に誓言を洗練したいわけじゃない。むしろしなきゃいけないのは――)

「目的を履き違えてる。簡素化するなら、術の選択の段階から見直さなきゃいけなかったんだ」

「狙撃術式の“意義”はなんだい? 狙った相手の生命活動を停止させることだろう。その過程を絞り込んだだけのことだよ。精霊というのは術者自身だ。つまり、あれこれ説明しなくても君自身が理解していれば精霊は理解している。『請願』の簡素化とは、言い換えれば共有する理解のレベルを引き上げること。狙撃術式がどんなものかを一定以上理解していれば、究極的には『あいつを殺せ』の一念で済むはずだよ。それだけで精霊は数キロ先の目標だけを正確に射抜いてみせる。理論上はね」

滑らかに語る彼女の言い回しに、時折開いては細々と読み進めている『狩人の魔術』の数節がよぎった。あの本の要旨は、本人に怒られるのを覚悟で言えば『原始時代に使われていた魔術の矛盾に対する解釈』だ。近年の考古学研究は、これまで人類が魔術をまだ持っていなかったとされていた時代にも魔術が存在していた痕跡を発見した。が、発見したは良いものの現代の魔術理論では当時のヒトがどうやって行使していたのか説明できないのだ。これまた要約すると脳の発達の問題だという。これに対し彼女の示した解答は『魔術はもっと簡単なものだった』というものだ。今の解説のように。

「でもそれだと根本的な解決にはならないよね? 実際にそれをやってもたぶん誰もまともな狙撃術式を発動させられない。術式の構造を完全に近い状態で把握していないと、精霊に暗黙の了解を得られない。とてもじゃないけど兵士全員がそこまでの知識を持つのは……」

「不可能じゃないよ。軍より上、国が教育システムを見直せばね。それに従って士官学校のカリキュラムを組み直せばいいんだ。安易に雑多な魔術を詰め込むより、基本的なものを数個極めた方が結果的にはずっと戦果を出せるはずだ。というより、これが出来る国が戦争に勝って、出来ない国が負けるんじゃないかな」

「……つまり、僕みたいな無教育のゲリラが前線で粘るようじゃ、先は見えてるってことか」

「たぶんね」

そう言ってのけた声は驚くほど平坦だった。暗に出身国の敗戦を指摘されたことに怒っているわけではないし、反論するつもりも無かった。彼女の言葉は正しいと思った。最近身に付けつつある教養がそれを後押ししていた。気になったのはその論調の背後にある姿勢だった。

「脱線するんだけどさ。ジルは、魔術は人にとってどうあるべきだと思う?」

「――、上手い聞き方だね。もうちょっと論点がズレてたら軽く腹を立てなきゃならなかった。君相手にそんなことはしたくない」

ならよかった、と数秒前の自分を褒めながら付け加える。この本を出版して以降、作者であるジルの周囲で世間がどのような論陣を敷いたか、そして彼女がどのように反応したかは聞き及んでいた。やはりこの手の話題はナイーブな領域のようだ。

「一般的な解答をすれば、『分からない』だろうね。世の中の魔術研究者の大半はその答えを求めて全生涯をかけるようなものだから。わたしのような若輩者がおいそれと口にしていい問答じゃない。けど、一応その端くれとしての矜持で答えるなら、『人にとって拓かれるべきもの』だと思うよ」

「研究されてしかるべきもの、ってことでいいのかな」

「言ってみれば無限に続く巻物みたいなものなんだよ。ブラックボックスをやっとのことで開けたらまた次の箱が出てきて、そんなことを何千年も続けてきた。それでもまだ目前には次の未知が残されている。次で終わりかもしれないし、まだまだ続いているのかも知れない。歴史的に見れば今現在使われている魔術体系なんてほんの一時のものでしかない。魔術それ自体は普遍的なものだけど、その理解は全く流動的だ」

くるくると回る細い指に弄ばれるように精霊像がでたらめに動き回り、やがてストンと落ちて掻き消えた。

「だからこそ、いちいちその時々の理論に目くじらを立てて反論するのは非生産的で意味の無い行為だと思っているよ」

 ジルという作家が世間であれほどまでに注目を浴びたのは、その出世作である『狩人の魔術』の内容が非常に“研究志向”だと解釈されたからだ。彼女が事例研究として取り上げたのは殺人のための魔術であり、それを魔術理論の新たな可能性の象徴として紹介したインパクトは大きかった。理論構築に当たっては常識など厭わないという姿勢を明確に打ち出したことで、それまで曖昧なままだった研究者倫理が再検討されることになったのだ。

隣国との全面戦争に明け暮れている今、この国では軍事研究に対する意見は真っ二つに割れている。推進派と否定派、それぞれに有力な貴族家が付き、不毛な論争を繰り広げてきた。そこへ投じられたこの一石は、世論を大きく推進派に傾かせた。理由は勿論、本の内容でもあった。しかし、そんなことはあくまでおまけでしかなかった。

「まったく、何の為に家出をしたのか分かったもんじゃない」

 不機嫌そうに頬を膨らませる彼女が、なぜ『ジル』とだけ名乗っていたのか、その理由を僕はまだ知らなかった。……だったが、ジルにとっては不本意な形で、僅かこの二日後に明かされることになる。

「結局苛立たせちゃったみたいだね?」

「うーん、やっぱりこの手の話題は精神衛生上良くないな。止めにしよう」

「僕の方こそ、配慮が足りなかった。今後は控えるよ」

結論から言えば、『この手の話題』を吹っ掛けてくる人物が社会には事欠かない、ということだった。




 隠遁生活、と言われると否定できないが、感覚的には立場を変えただけのつもりでいた。別に地方の田舎町である必要はなかったが、少なくとも家族の影響が無い所でなければならなかった。消去法で選んだ結果が、ここだ。

 それも今となっては正解だった。人付き合いをルシディアを除いて完全に断ち切れたのが功を奏した。一人でいることが好きというより、昔から他人の存在を疎ましく感じていた。いつだって頭の中は考えることで一杯だというのに、その思考を中断されるのが何より嫌だった。わたしほど貴族の家に生まれたことを悔やんだ子供もいなかっただろう。

 だから、この唯一無二の安息地を侵そうとする輩には断固としてお帰り頂くことにしている。基本的には。無論イリムにもその旨は伝えている。にもかかわらず、緩やかな坂道を越えて帰ってくる彼の隣に一人の男が連れ添っていた時は何事かと身構える羽目になった。が、それも一瞬のことで、見覚えのある男の顔を視認するなり、今度は次に待ち受けている展開が容易に浮かんでげんなりさせられることになった。やはり外からの来客は良いことが無い。

「アカデミーの教授でジルとその方面で話があるっていうから、ちょっと僕だけでは判断がつきかねて」

件の男を玄関先にとどめ、少し小声になりながら二人で応対について語る。”あの男”が来たということは、多少気を使わなければならなかった。

「……追い返してくれても構わなかったよ。でもまぁ、こうなっては仕方ないか。イリム、ちょっと買い物を頼んでもいいかな。自走筆のインクカートリッジが切れた」

「分かった。急ぎじゃないよね? ちょうど街の図書館に行くところだったし、夕方には戻るよ」

そう言ってさっさと借りていた本を家の共有格納空間から携行用の方へ移し替え始める。対人評価は至極辛口だと自負しているがそれほど彼の存在を苦痛に感じないのは、この察しの良さかもしれないと改めて気づかされていた。

 そうしてとんぼ返りをして家を去った彼と入れ替わりに、放置されていた男が敷居をまたぐことになった。

「君は助手が欲しかったのか。意外だな」

「誰にでも気まぐれはありますよ、リコノクス卿。随分とご無沙汰していましたが、相変わらずご壮健そうですね」

「ある優秀な後進のおかげで仕事の話が絶えないものでね。形だけでも壮健でいなければならない。この歳になると楽とは言えないな」

無言で廊下を渡り、居間ではなく離れの空室の一つに招き入れると、窓の他にはシンプルな木イスが二つあるだけの空間で向かい合った。まるで何かの尋問のようだ。

「さて。あなたが来たということは何の要件かも察しています。本題だけを、手早く済ませましょう」

「君にお茶のサーブなど期待してはいない。とは言ってもこの場で私が話すべき新しいものは特に無い。再三書簡で送った通りだ。最も、目すら通していないようだが」

彼のめくる手帳のページには、煌々と紅い金属光沢を放つ文字が躍っていた。エレメント・ライン――霊素帯を利用して遠隔地と情報交換をする魔導システム――を利用した交信では、術の終了すなわち到達が確認できるまで元の媒体に送ろうとした文字情報が残る。

「通さなくても分かる内容なら通す必要はないでしょう。いくら情報が付け足されようとも、主旨が同じならそれに対する返答も同じものです」

「次回の総合学会で超然派の票が三分の一を割るとしてもかね」

「……随分と切り崩されたようです」

「私は何もしていない。むしろ君の影響の余波が響いてきている」

「誤読している方が多いのは筆者としては悲しい限りですね」

「受け取り方は個人の自由だ。それこそ、君の言う巨視的態度ではないか」

「物は言いよう、という言葉を身に染みて感じますね。自由であるからこそ、わたしが気にすることでもありませんが」

「自国の戦争の勝敗に無関心であり続けることは、君にとってもマイナスだとは思わんのかね。敗戦して真っ先に糾弾されるのはクランダリアだ。同じような顛末を辿った貴族家がどうなったか、知らぬ訳ではあるまい」

「何度も言っているでしょう。私はもうその性は捨てた。そのための『狩人の魔術』だ、と」

老けが込んできた男の白髪交じりの頭越し、閉め切った窓の外に二羽の小鳥がせわしなく歩き回っている。小さな虫を食べているようだった。

「それに、第4家格の実質的な当主である貴方がそのような弱気な発言をしていていいのですか。引きこもりの女子一人を口説いている暇があったら、前線に赴いて士気でも挙げたほうがいいのでは?」

「フン。幹部の反応などたかが知れている。前線に来る暇があったら君の元お父上を説得してこい、と追い返されるのが関の山だ」

「その通りですね。説得の対象は私ではなく、元父上だ。いずれにせよここで貴方が得るものはありませんよ」

「君が捨てたのが本当に名前だったなら、私も渋々そうしただろう」

「……というと」

「確かに君は貴族から一市井になったかも知れぬ。だが、もしまた民衆の面前に立てば、彼らは君を『誉れある第一家格のジル・クランダリア』として認識するだろう。そういうものだ。――君が捨てたのは名前などではない、ただの立場だ。いい加減に分からない振りをして逃げるのは止めたまえ」

戯れていた小鳥が不意に飛び立ったのは、男の諭すような声でも無ければ、私が椅子を立った音に驚いたからでも無かった。魔術的に遮音処理が施された空間内の音を、聴覚を持つ生物は聞き取ることができない。小鳥が対抗術式を使えれば話は別だが。触れた窓の桟は日の光でじわりと熱を帯びていた。

「クランダリアを嫌ってはいません。逃れたかったのは貴族というシステムだったから。しかし、第一家格の血統に連なる人間は、そう易々とその呪縛を脱せるものではない。だからこそ私は、あえて『狩人の魔術』を魔術の戦争幇助を示唆するような文面で記した。頑健な保守派であるクランダリアの一子が書いたとするには看過できないレベルで。そして思惑通り私は異分子として家を出ることに成功した」

「だから、君自身の本意ではない言いたいのかね」

「推進派としての意見はあくまでわたし個人の目的のために語った、言わばミスリードです。中立的な目線で読めば魔術への大観を貫いていることは読み取れるはず。仮にもアカデミーの筆頭教授を務めている貴方に分からないとは言わせませんよ」

「確かに。ただ、そう読まない自由も私にはある。それを忘れているのだよ」

「解釈するのは自由です。でもわたし自身は――」

「――君自身の意見など求めてはいない。何か勘違いをしてはいないかね、ジル君」

ゆらりと古風な礼装に身を包んだ老身が身を起こした。こちらを振り向いたその瞳は、少なくとも私を見てはいなかった。

「私達が欲しいのは『保守派のクランダリアに連なる人間が推進派に賛同した』という事実だけだ。その旗印に相応しい立ち位置にいる者に、相応しい振る舞いを求めている。もう一度言おう。君の真意がどこにあろうと、知ったことではない。国難に際し、貴族家の人間として正しい行いをしたまえ、ジル・クランダリア。アカデミーに復帰し、自身の理論を正式に打ち立てるがいい。それを我々はアカデミーの総意として認めよう」

「……同じ言葉を、父上に言えますか」

「必要とあらばそうしよう。今更言ってどうなるとも思えんがね」

しばし立ち居に迷ったあと、立った時と同じように静かに席に着いた。数十歳離れた人間の言葉は多少なりとも重みのあるものだ。天秤の皿を傾かせるには十分なほどに。もし反対側に居座っているものが私のちっぽけな我儘だけだったなら、均衡は崩れていたのだろう。

「考えはまとまったかね」

「はい。お陰様でくすぶっていた決意が固まりました」

「ふむ。わざわざ出向いた甲斐があったか」

「後ほどアカデミーに一筆入れましょう。総合学会の前に、個人的に話せる場をつくって頂きたい」

「私の方から対応するように伝えておく」

急すぎる申し出を一つ返事で承諾する彼の態度は、自身に対する障害を歯牙にもかけていない様子だった。いくら貴族家の人間と言えどもアカデミーの内部に限れば無効なステータスだ。評価を決める研究者としての実力も確かに高いが、並ぶ者も多い。

「あまり口出しが過ぎると他の教授に睨まれませんか?」

「なに、君の心配することではない。もとより、君の呼び戻しはアカデミー全体の望みだった。その時賛成したことを都合良く忘れたとは言わさんよ」

来た時と同様に伸びた背筋でドアに歩くと、開け放した戸口の向こうに男の姿が半身に消える。その頃になって、今思い出したと言わんばかりに声だけが振り返った。

「念のため確認させてほしい。ジル君、君は推進派の為に論陣を張ってくれると、そう思っていていいのだな」

「ええ。いい加減、ストーカーまがいのお誘いにもうんざりしていたところなので」

「フン……、その調子でいい。君はそのまま、他を寄せ付けぬ弁舌を存分に振るってくれたまえ。楽しみにしている」

言葉尻は足音と共にフェードアウトしていった。廊下の途中で自前の転移魔術を使ったのだろう。せめて家の外に出てから使うのが礼儀だろうと思わなくも無かったが、礼儀についてとやかく語る口は持っていなかった。

「やれやれ。せわしないことだね」

おんぼろな外見の割にスムーズに動く窓を開けると、爽やかというには少し冷え込んだ風が身を浸す。

(……せめて小鳥を使うならこの辺りの生態は調べておいて欲しかったな。きみの故郷の鳥は地味で判別しにくいけど、流石にこの辺りの鳥と区別がつくよ)

こういう詰めの甘さを見せつけられるたび、わたしもまだまだだなと思い知らされる。結局のところ、これはわたし自身の問題でもあるのだから。




「で? 何か感想はあるかい」

その日の夕方、替えのインクに加えてジルの好物のいちじくを持って帰宅すると、第一声で詫びを入れた。腕が鈍らないように定期的に作っていた偽装型の盗聴術式の一部を消去し忘れたらしく、偶然会話を拾ってしまったというのが実際なのだが、それでも聞き続けるべきではなかった。別に怒ってないよと彼女はあっさり流したが、その話題を引っ張ってくるあたり気にしているのだろう。

「少し、意外だった。ジルは何があっても自分の意見を曲げることは無いと思っていたから」

「んー、曲げたつもりはない、と思ってるよ。ちょっと方針を変えたってところかな。彼の言うことも間違いではないしね」

「それにしてはあの教授もずいぶん好き勝手言ってるように聞こえたけど。だってあれ、要は自分たちのためにジルの権力を使えっていうことで、それを国を引き合いにして最もらしく正当化しているだけじゃないか」

「うん。そうだね」

フォークで根菜を口に放りこみながら、こともなげに彼女は首肯した。

「貴族家っていうのは元々そういう性質があるから。国民議会の決めた政策をマスコット化したのが貴族、なんて揶揄されるのはそういう事だよ」

「それでジル自身は納得してる?」

「するもしないも、わたしはもう貴族家の人間じゃないから関係の無い話だよ。当人たちが納得してるならそれでいいんじゃないかな」

「でも今日の話だとアカデミーの人達はそう思っていないみたいだ」

「わたしに直接的な政治権力が無いのは確かだよ、周りの人が勝手にわたしの言葉に重みづけをしているだけで。そういうのはほっとくのが一番なんだけど、そうも言ってられなくなってきた」

面倒なことにね。そう言う口振りはどこか自身の置かれた状況を俯瞰しているようでもあった。読み返した本の展開がつまらない場面を迎えようとしている時のように。ポタージュから立ち上る湯気がわずかにその表情をにじませていた。

「ところで、君の明日の予定を聞いてもいいかい」

「今日借りてきた本を読んでいると思うよ。特に外出の予定はないかな」

「じゃあ悪いんだが留守番を頼むよ。ちょっと半日出てくる」

「珍しいね」

本当に珍しいことだ。彼女は滅多に家から出ない。物流がエレメント・ラインで代替されたことで(お金さえあれば)大抵のものは居ながらにして手に入るご時世だから、というのもあるだろうが、それにしてもだ。

「……先週も出てたぞ。週一で小さな子供相手に魔術教室みたいなものをやってるんだ。教室と言っても街の公園で遊びながらやるようなボランティアだけどね」

「そういえば意外に子供好きとか、ルシディアが言ってたような」

「嫌いじゃないよ。少なくとも大人よりは」

また意地悪気に微笑む様子を見ていると何やらこの件に関しても一物抱えていそうだが、あまり深く追求しないことにした。人には人の楽しみがあるというものだ。

 ごちそうさま、と口元を拭う手元の皿にはほんの少しの食べ残しも無い。こういう所に育ちの良さが窺えるような気がして不思議な気分にさせられる。普段は随分とぞんざいな態度と口ぶりにもかかわらず細かい所作で過去の彼女が垣間見えるのは、むしろ意識的にそうしているのではないかと感じるほどだ。

「あれ、というか明日はルシディアが来る日じゃなかったっけ?」

「……そうだったかな」

――依然、単に極端な天然だという説も捨てられないわけだが。


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魔術の黄昏と少女の哲学 Greenmagnet @magnetia

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