魔術の黄昏と少女の哲学

Greenmagnet

第1話



 もし仮に、私達が魔術と呼んでいるものを使えなかったとしよう。5000年近くに渡って人類と共にあったこの能力が、最初から存在しなかったとしよう。この前提の上で紡がれた歴史が現代にまで追い付いたとき、私は一つの空想に思いを馳せる。すなわち、魔術というものが淘汰していった代替と成り得る能力の在り様に、である。

 その力は人類に何をもたらしただろうか。時代をどのように導いただろうか。この魅力的な仮定の世界を語る上で、大いに留意すべき点がある。それは、魔術との比較という視点を第三者のものにしなければならないということだ。私達はこの現世において主体であるがゆえに、この現世の尺度でしかものを語ることはできない。許されるのは、森羅万象とは〝魔術を持つヒト〟が観測し得る限界を意味するという事実を承知しておけるという、この一点においてのみだ。当然、未知の能力を覆うベールをめくることなど出来はしない。ただ、覆い隠されたなにかを、そこになにかがあるという真実を見て取ることに限られる。

 ここで賢明なる読者は虚構の箱庭で立ち止まり、ある符号に気づかねばならない。たった今私が可能の埒外と断じた行為こそ、私達が魔術と呼んでいるものの本質に他ならないということを。その不在こそが、盲目のままに人類が導かれてきたことの証左となりうることを。



『狩人の魔術』序説より






 わたしは今、よく切れる剪定ばさみを持っている。使い心地がいいこともあってもう長いこと使い続けている。ところがそうして使い込むうちに刃こぼれが進んで、切れ味が落ちてきてしまった。さて、わたしはどうするべきだろうか。思い切って新しいものに買い替えるか、あるいは愛着のあるものだからと割り切って、少々厄介な蔓は力を込めて切り落としてもいい。どちらを選ぶこともできるし、どちらを選んでもさしあたって問題はない。だけれども、結局そのどちらも選ばなかった。わたしの指先に現出した紫の糸が伸び、伸びたい放題の蔓と周りの雑草を糸鋸のように薙いでいったからだ。

これこそ人間だけが持つ第三の選択肢。すなわち、魔術と呼ばれているもの。万事においてもう一つの手段を与えるワイルドカード。

 調整が甘かったのか、糸の軌跡に捕まったヒルガオの白い花が一つ、折り重なった草きれの上に転がった。拾い上げると、霊素が尽きたのか氷のように溶けて手のひらから消えていった。

 はさみで丁寧にやっていれば、今の花もあともういくばくか咲いていられたはずだった。だから人は剪定をするときはさみを使い続けるのだろうか? うっかり切りすぎてしまわないように。花々には残念だけどそんなことはない(というか今のはわたしの制御が至らなかっただけだ)。だから特に大きな庭園などになれば手作業ではなく、適切な切断魔術を使って作業が行われている。

ならもう剪定ばさみなど始めからいらないのでは、と考えるのは極めて自然な流れだ。魔術で代用が効くのなら、大抵の場合その方がお手軽だし効率的だ。ところが街角の雑貨店では今でも剪定ばさみが売られているし、だからこそ私の手元にも茶色がかったそれがある。これは何故だろうか? 正直なところ、はさみを使い続けることに必然性はない。ただ何となく、と言ってしまえばそれまでだが、真面目に向き合って思考したところで答えが出るものでもない。物体へのフェティシズムとでも言えばいいのだろうか、それとももっとヒトという種に刻み込まれた根源的なものなのか。

術の得手不得手を別にすれば、恐らく今の世の中にある大半のモノは魔術で置き換えられる。実際、ここ何世紀かの魔導科学の発展で多くのモノが役目を終えていった。それ自体は決して悪いことではない。人間の技術文化は利便性と効率性を追求しながら発展してきた。ヒトという種族が持ち得るポテンシャルを最大限に生かせるのなら、それがベストに違いない。各種のエネルギー資源は有限だし、環境にとって必ずしも良いというわけではないから。その点、霊素は世界全体の人口が極端に減少したりしなければ機能するし、魔導工学の発展で用途も柔軟になり様々な形態での使用環境が確保されてきている。

こうした魔術主導の技術遷移に警鐘を鳴らす者はどの時代においても少なからずいるものだが、その多くは「魔術適正による社会的淘汰」の面から指摘を行っている。

 人間は魔術を使える生物である。それは間違いない。目があり耳があり、口が、鼻があり、魔術がある。使えない、なんてことは無いのだ。ただ、個人が取り出せる霊素の量には大変なバラつきがある。言い換えれば人によって使える魔術と使えない魔術がある、ということ。そしてそれは徹頭徹尾先天的に決定する。いくら知識や鍛錬を積み重ねても覆せない、無情な壁として個々人を分け隔てる。もし仮にこのまま魔導科学が世の中の技術を席巻していけば、次第に高度化する魔術に比例して必要な適正値も上がり、これに対応できない人々が現れる。そうした「低適正者」は文明社会で生きることを否定されてしまうのではないか。社会淘汰説とはそういう理論だ。

 実を言うとこの指摘、つい一世紀ほど前までは妥当とされていて、半世紀ほど前までは国際問題の一つだった。実際この論調が魔導科学の社会的普及を押しとどめたと言われるぐらいだ。が、魔術の進歩は確実に状況を改善してきた。魔導具と術式の研究・改良が進んだ結果、日常的な魔術の行使に必要な霊素の量は大幅に削減された。昨今では、生物学の見地から実証された霊素の最低保障量以内で術式を設計することが当たり前になってきている。

 だからこそ、刈り取った雑草の山にこうして手をかざすだけで灰に出来るし、晩夏の日差しにも焼けることなく外を歩き回れる。昔、それこそ近世ぐらいまでは燃焼魔術にも詠唱を必要としたものだが、今では工業用の大規模焼却にすら対象指定の文言だけで済む(本来はこれすら必須ではないが、術の性格上対象を厳密に規定しないと危険なので)。古代魔術の1~2分にも及ぶ詠唱を行っていた人々が見たら、「これは魔術なのか?」と首をかしげることだろう。

 ただ皮肉なことに、社会淘汰への指摘は一周して正反対の的を射ることになった。つまり、適性の低い者がいるなら高い者もいる。彼ら彼女らは多くの人々が使えない魔術を使える可能性があるのだ。そこまでの大量の霊素を消費する魔術というのは実際、カテゴリがかなり限られている。一部の工業用魔術。特殊な魔術研究で用いられる実験的魔術。そして戦術級以上の軍用魔術だ。人的資源とはよく言ったもので、結局これらの魔術が運用できるかどうか、これらを前提とした施策が取れるかどうかは、単純に高適正者が居るか居ないかにかかっている。必然的に持つ国と持たざる国が現れれば、何が起こるかは明白だった。

一発で国土の大半を焼き払える殲滅術式を扱える魔術師を擁する国と、一般的な軍用魔術のみしか持ちえない国が利害衝突した場合、どうなるだろうか?

 こうなってくると重要なのは優秀な人材の確保であり発掘である…のだが、ここでまた社会淘汰理論の一節が痛烈に効いてくる。魔術適正というものは遺伝する。この事実がどうしようもなく国力を左右してしまう。強い適性を持つ血族を国民に持つ国家はそれが国外に流出することを厳格に阻止した上で、時に外交のカードにもする。政略結婚が現代でもまかり通る理屈がここにある訳だ。というより、国策のあらゆる面でイニシアチブを持つ高適正血族が政的発言力を持たないはずがなく、大半の国家では貴族として特権階級についてきた。自らの血の有用性を保証し続けるために、あえて閉鎖的な掟を自分たちに課しているのだ。近代以降は民主政治のスタンダート化が進んだこともあり、極端な貴族政治は行われなくなったが、依然として政界の影の存在として君臨している。それが良いフィクサーであるか否かで国政の実情が窺い知れるというものだ。一部の国々はそうした血族が国権を支配するという旧態依然とした体制を維持しており、そうした存在もまた他国の血統主義を意識させる要因になっている。

 要するに面倒くさいのだ。「そういう」血族として生まれてきてしまった場合には、特に。いくら家の名を捨て世捨て人の真似をしてみても、結局のところその事実から逃れえることは出来ないのだろう。雑然とした思索をしようとしてこの有様では、何とも救えない。嘆息一つで傍らの小さな倉庫に剪定ばさみを立てかけ、球体上に浮かんだ水の中に手を突っ込んで洗う。この気温なら放っておいてもすぐ乾くだろう。広いつばの白い帽子を頭に載せると、こぢんまりとした庭を後にした。



 小さな丘の谷間から少し頭をのぞかせるように、その質素な一軒家は建っていた。敷地を区切る背の低い木柵の前から眺める全様は、古き良き時代の牧歌的風景を思い出させた。都市化が進んだ今となってはこんな景色に住める人間は限られている。未開発の土地を政府が買い上げていくため、競り勝って確保するにはそれなりの財力が求められるからだ。ただなぜかお金持ちという人種には物好きが多く、わざわざ住みにくい環境に高い金を払ってこういう別荘を建てる人が多いと聞く。これから会うであろう人物もそれなりの変わり者だと覚悟しておいた方がいいのだろうか。

「わたしに用かな?」

だから、ふいに背後――正確には隣を通り過ぎながら――声を掛けられた時には不覚にも虚を突かれた。我ながらぼんやりできるようになったなぁと変に感心する。その間にも声の主は自分の斜め前まで進み、見返すようにこちらに首を向けていた。帽子のつばの奥から届く眼差しは涼しげで、妙に存在感があった。

「ジルさん、ですか」

「いかにも。わたしがジルだ。精霊教の勧誘ならお断りだよ?」

「タダで支給される信徒用のローブの為に、自分が入信したいぐらいなんですけどね。……こちらを読んでいただけますか。アカデミーのテイルストン教授からです」

すっかりくたびれたおんぼろの外套をつまんで見せると、半分隠れた顔からのぞく小さな口元が笑みをつくった。続けて懐から取り出した手帳の一ページが宙に舞い、伸ばしたジルの人差し指の上でくるくると回り始める。しばらく後にページはサラサラと溶け落ちていき、辺りに霊素触媒たるオリハルコンの紅い残滓が揺らめいた。

「やれやれ、あの老獪、口止めの意味が分かっていないな。私がここに住んでいることは秘密だとあれほど言っておいたのに……。まぁいい、大体のところは了解した。三冊とも確かにウチに置いてあるし、貸し出すのも構わないよ。ところで、その前にいくつか個人的な質問をしてもいいかな」

「もちろんです」

「これを読む限り、君はアカデミーの学生じゃないんだろう? その割にはずいぶん教授と親しいようだけど、別件で知り合いだったりするのかい」

「実は今保留生で、来年度の特待生入学を狙っているんです。受験の時の手続きを教授が担当されていて、そこから色々とお世話になっています」

「特待生……ということは総合発表会で研究論文を発表して一定以上の評価を得ないといけないんだったかな。それでこの三冊が必要という訳か。ちなみに研究のテーマは何だい?」

「……狙撃魔術におけるロジック構築の効率化と高速化について、です」

思わずジルの反応を伺う。軍用魔術研究はあまり万人受けするとは言い難い領域だ。そんなものの探究に注力するなどナンセンスだと切り捨てる研究者も少なくない。質問には答えるといった手前、はぐらかすのもどうかと思って正直に答えたが、悪手だっただろうか。

「ふふっ、そうか。だから私にお鉢を回したのか。なるほどね、彼の固い頭も思いの外回る」

なぜか得心のいった様子で失礼な事を言ってのけると、右手にはまったリングを左手で軽く叩いた。瞬時に折りたたまれていた空間が開いて、中から一冊の本が取り出される。

「君の返答次第ではこの本を一冊私から買ってもらうことを条件にしようかとも考えたんだが、おそらくもう君は持っているだろう?」

示し合わせるように自分の格納空間から読み込んでくたびれた本を一冊、手に取った。全く同じ装丁の、全く同じタイトルの本だ。

「だと思った。代わりといってはなんだが、感想、というか意見を聞かせてもらえないかな」

「……、」

思わず返答に詰まる。そもそも返答するべきどうかのところで悩まされる。会話の際に重要なのはキャラクターの一貫性だ。先の応答を踏まえれば、ベストな選択肢は一つだった。

「まだ、意見を言える段階にありません。半分ぐらいしか理解が追いついていないので」

「率直だね。そして妥当な答えでもある。学術資料として読むには、確かに高等院レベルの知識ベースでは厳しいだろうし。まぁ、良しとしよう」

くるりと踵を返すと、ジルは後ろ手を合わせて歩き始めた。

「行こうか。お茶でも出すよ」




 一般的に市販されている空間圧縮魔術の格納空間は4メートル四方。それを複数持って入れば常設する必要のない私物の大半は叩き込んでおける。だから書斎という部屋の存在は完全に趣味の領域だった。

「国内で蔵書があるのはアカデミーを除けばジルさんの個人蔵だけだと聞いて驚きました。そこまでの稀覯本だとは思っていなくて」

細々とした記憶の糸を頼りに本棚を漁っていくと、背表紙のタイトルからそこに編み込まれた英知の断片が蘇るような錯覚を感じる。本を並べて置くという行為に意味を見出すとすれば、この感覚を味わうためなのかもしれない。今考えたことだが。

「本自体はそこまでレアじゃないよ。ただうちの国はどうにも蔵書が振るわないからなぁ……。民間で収集をしているところもあまり無いし、その面では弱いと昔から指摘されてはいるんだけど。改善しようと思っても、こればっかりは時代単位での積み重ねが物を言うから仕方ないかな」

視界の端でお目当てのうちの二冊が身を寄せ合っていた。そっと抜き取ると、分厚い見た目に似合わず重量を感じさせない軽さで両手に収まる。

「二冊あった」

「こちらも一冊ありました」

「よし、揃ったな。すまないね、手伝ってもらって」

「とんでもないです。このぐらいは」

部屋の中央に据えられた年季の入った丸テーブルに集めた三冊が寝転ぶ。ぱんぱんと手をはたくと少しばかり埃が舞った。室内の状態保存と環境管理は自立駆動の術式に任せっぱなしだったが、見直しがいるかもしれない。転じて、久々に日の目を見た古書を睥睨した。

「さて、君はこれらの三冊がなぜアカデミーでは閉架図書で、貸し出し禁止に指定されているか分かるかい」

「魔道具だから、ですか」

「それもあるな。いわゆる魔術本は大抵悪用されるのを防ぐために一定の管理下で利用することが規定されている。モノにもよるけどね。でもこいつらの場合はもっと単純で、物理的に貸し出せないからなんだよ」

自立式の魔術は術式がハードに埋め込まれており、設定された条件を満たした使用者の霊素を勝手に利用して起動する。だから術者が死んでしまっても切れもしないし順当な方法で解除も出来ない、厄介な代物だ。

「領域指定の魔術が掛かっていてね。所有者から一定以上距離が離れると自動的に転移する。具体的にはこの家の敷地内から持ち出すと本棚にお帰りになる」

「貸し出そうにも貸し出せないという訳ですね」

「その通りだよ。そこで君が取れる選択肢は二つ。術式解析を試みて問題の魔術だけを取り除くか、持ち出すのは諦めてこの場所へ足を運ぶかだ。私としては前者をお勧めするよ。もし出来たら、その過程をそのまま研究発表にすれば国から名誉学位が貰えて国際魔術学会のホープになれる」

なぜならこういった保護用の術式は解除することを想定していないから汎用性のある対抗術式が機能せず、ケースバイケースに対応するしかない。つまり一から術式を組まねばならず、解除が死ぬほど面倒だ。それこそ数年単位で掛かる。

「ならしばらく通わせていただくことになりそうです。なるべく早く済ませたいとは思いますが……。ご迷惑にならないようにはしますが、構いませんか?」

「いいけど、そんなに急に決めなくても良いんだぞ。というか、君のご両親に逗留が長引くことへの了解を取らなくて大丈夫かい?」

「その点ならご心配なく。――元々一人暮らしなので」

「……そうか。となるとあとは宿だな。長期滞在となるとそれなりに金額がかさむよ。話の流れから察するに、金銭的な余裕は無いんだろう」

「今近くの街に取っている宿が三泊分なので……そこから先は民泊とか安いところを適当に探します。何か良い場所をご存知でしたら、教えていただけると助かります」

「うーん。……あ、ならちょうどいいところがあるけど、条件だけでも聞いてみるかい」




「……それで、いきなり訪れた学生を泊めることにした、と」

「何かまずかったかな? 助手がいてもいいかなとは思っていたんだ」

研究関連でのね、と慌てて付け加えて多少のデリカシーを演出して見せたが、本当に少量すぎて誤差の範疇を出なかったようだ。部屋の対岸に腰掛ける友人の顔は胡乱げなままだった。

「それにテイルストンからの紹介もあったからね。この二年間で趣旨替えしていなければあの人もわたしと同じ超然派だ、わざわざ刺客を送るような真似はしないと思うよ」

「そもそも見ず知らずの異性と一つ屋根の下で寝泊まりすることに何の疑問も抱かない辺り、危機意識が足りないと言いたいのよ、私は。いくら苗字を捨てたからって、あなたの血が入れ替わる訳じゃない」

「彼がわたしを強姦するとでも言いたいのかい?」

全く想像できない光景の滑稽さに思わず声が漏れる。それを見たせいか、彼女は更に整った顔に苛立ちを浮かべた。

「そう……じゃなくても、あなただって彼に対する評価が変わるかもしれないでしょう」

煮え切らない口調にそういうことかと納得する。この辺りの気遣いが美徳になるかお節介になるかは実に微妙なところだった。無論、友人としては恵まれていることこの上ないのだが。

「わたしの事はいいさ。それよりそっちの方はどうなんだい。先週だったか、晩餐会で婚約者君と会ったんだろう?」

「噂通りの紳士だったわよ。変に裏も無さそうだし……って、はぐらかさないで。私は、割と真面目に――」

「分かってる分かってる。ただ今はこの辺にしておこう。彼のお帰りだ」

玄関先から規則的な足音が居間に向かってきている。何かの符丁のように私達は口を閉ざし、ソーサ―で支えたカップを浮かせて控えめに紅茶を喉に通した。家に置いてある茶葉は全て彼女が持ち込んだものだ。そして今日も彼女が淹れている。妙にこだわりのある父親に仕込まれたおかげで人に出せる程度の味は保証できると昔自負していただけはある、結構な味。

美味しい紅茶が飲めるというのは良いことだ、それだけで一日のうち少なくとも午後の一時間は何があろうと幸せでいられる――と言ったのは、優雅に座している友人の言だ。全く以てその通りだと思う。控えめなノックと若干の空白に続いて、簡素な文様が施された木目調のドアがゆっくりと開いていった。

「おかえり」

「ただいま。……お邪魔じゃなかったかな」

「そんなことないよ、むしろ好都合だ。紹介しておこう、私の幼馴染で、君を除けばここに訪れることを許した唯一の人物だ」

手だけで促すと、彼女はごく自然に完璧な立ち姿を披露していた。淑女教育の賜物というやつだろうか、

「ルシディア・フィランネよ。よろしくね」

「こちらこそ。僕はイリムと言います。ジルさんのご厚意で一時的に助手をさせてもらっています」

互いに軽い会釈を交わすが、間に流れる空気はどこか釈然としていない。二人の境遇ゆえのミスリードだろうが、話を知っている身としてはまた吹き出しそうになる光景だった。

「ああ……その、ふふ。一応わたしから補足しておこう。彼はお隣の戦争孤児なんだ。だから苗字が無いし、君の家のこともあまり知らない。で、敢えて説明すると、そこにおられるお嬢様はこの国の貴族第三家格に当たるフィランネ家のご長女だよ。双方、これで納得はいったかな」

「ちょ、ちょっと待って。『お隣』って、敵国の兵士を――」

「いやいや、彼はそういうのじゃないよ。いわゆる民間のゲリラだ。あくまで地縁的に参加させられていただけで、思想的なものは持っていない」

「そういう問題なの?」

「そういう問題だよ。通りすがりにやってたポーカーに命をベットするかい?」

「……あなたが、そういうなら」

「ありがとう。イリムも気を悪くしないでくれるかな、一応彼女も色々なものに警戒をしないといけない立場にあるからね」

「いえ。初対面の人間を信用しろというのが無理な話でしょうし、ごもっともです。それより、自分の無知で失礼をいたしました。まさか、貴族家の方だとは」

「あー、いいのよ。ここに来ている時はオフのつもりだし、あなたがジルに敬語を使わないように、私にも使わないで頂戴。その方がここの雰囲気に合ってるし、落ち着くから」

「……じゃあ、お言葉に甘えるよ。正直に言うとまだこの国の敬語は完全じゃないんだ。逆に失礼になりそうでひやひやしながら話すのも大変だよ」

「そんなことないと思うけどな。君の発話はネイティブとほぼ遜色ないよ、もっと自信を持っていい」

二人が席に着くと、窓際のテーブルに置かれたバスケットからクッキーを一枚、口に放った。現役のお嬢様はまた何か言いたそうに口をもごもごさせていたが、放っておく。

イリムの国語と言えば、あの話し方は一部の地方に特有の方言だ。特徴は彼の出身国の母語にイントネーションが近いこと。そこまで考えて身に付けたとすれば随分と計画的だが、果たしてこの国の文字も知らなかった人間にそこまで知恵が回るものだろうか。今話題に挙げるべき事柄では無さそうだが。

「ねぇイリム。あなたは高等院まではこの国で卒業したのよね? 非難している訳じゃないのだけれど、よく入学を断られなかったわね」

「断られていたと思う。正直に身分を明かしていたら」

「まぁそうだな。馬鹿正直に『お宅と全面戦争している国から来ましたー』などと言う必要もない」

「偽造したのね……。ウチの国の情報管理能力も大概ですこと」

「出本は言えないけど、作りの出来がいいのもあるとは思うよ。現にジルに見破られるまでは感づかれる気配も無かったし」

「え? ジルにはあなたから話したんじゃないの?」

怪訝そうな面持ちでルシディアがこちらに振り向いた。彼の方はと言えば、席を立ってカウンターでティーポットの茶葉を替えていた。

「機会があったら打ち明けたいとは思っていたんだけどね。ここで働き始めてから三日目ぐらいかな、二階にある望遠術式の調整をしてたら、『そういえば君は隣国で従軍経験があったんだったかな』っていきなり言われてさ。心底驚いたよ」

「どういうことよそれ」

「ほら、彼の左目と左腕、魔導具だろう? 上手いこと隠蔽術式を掛けてあるが、ちょっとその分野に詳しい人間なら何となく察する」

「でもそれだけじゃ戦傷者かは分からないでしょう? 事故かも知れないし、必要も無いのにすげ替える物好きもいるみたいだし」

「望遠術式は基本利き目で使う。普段の所作から彼は左利き。そして研究テーマが狙撃魔術とくれば、ね」

「目視ができない距離で射撃戦をするとよくあることなんだ。逆探知に魔術反応を使うから、利き腕と利き目は狙われやすい。おかげでご覧の有様だよ」

「なるほどね……って、感心していいところなのかしら」

「入国管理のボディチェックの参考にしたらどうだい。対外関係はフィランネ家の管轄だろう」

「はは……お手柔らかに」

問題の人物は引き気味に壁際の丸椅子に腰かけようとしていた。残念ながらフォローに回る余地が無い。

「さて。せっかく顔を合わせたばかりで悪いのだけれど、私はそろそろお暇するわ」

「今日は早いな。何か用事かい?」

「国立第三研究所の暴発事故、知っているでしょ。あの後始末が面倒なのよ。関係者の言っていることがどうにも要領を得ないらしくて」

「あー、最近よく聞くなぁ。暴発絡みの事故は」

「今までも時々あったけど、ここ数ヶ月で起きているのは規模と被害が段違いなのよ。外国でも同じような事例が起きているみたいだし、さっさと手を打たないとこちらに非難が飛んできかねないの」

「でもなんで事故の非が外交部門に?」

「残された霊素の残滓からして、同一の方法である可能性が高いのよ。もしこれが事故でなく故意に誘発されたものだとしたら、テロリストを素通ししたことになるでしょう?」

「なるほど。それは大変だ」

「勿論本職の人たちも頑張ってはいるけどね。っと、そういう訳でごめんなさいイリム、慌ただしくて。後日また会いましょう」

「お気になさらず。気を付けてお帰り下さい、ルシディア様」

「……ジル、冗談でもいいからこれぐらい言えるようになりなさいよ」

「彼が言ってくれたからいいじゃないか。私の気遣いは高くつくぞ」

「はいはい、あなたはそういう人間だったわよ。転送術式、勝手に借りるから。それじゃ」

ひらりと小さくドレスワンピースの裾を翻して、彼女の後姿は奥の戸口の死角へと消えた。

「いつもは夕暮れまでいるんだけどな。ま、ご多忙なご身分だから大変なんだろう」

「後日、って言ってたけど、彼女はよくここに来るんだ?」

「週に一回か二回ぐらいかな。今みたいにお茶をして雑談をするぐらいだけども」

「仲が良いんだね、二人は」

まぁねと答える代わりに軽くウィンクしてみせたのは、まさしく本心の現れだった。ルシディアの『そういう人間』という言葉が自虐的に突き刺さるように感じられた。

「――ちょっと早いけど夕飯の準備をしようか。たまにはちょっと手の込んだ料理をしてみるのもいいだろう」

「分かった、手伝うよ。ジルの手料理はいつも美味しいから楽しみだ」

わたし達の相互理解はもうずっとこのままでいいのかもしれない。たとえ互いの距離が取り返しのつかないほど離れてしまっても、たぶんわたしは後悔しないだろう。なにせ、そういう人間だから。

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