22:エターナル・デイズ
ヘッドフォンをしてもヘリのプロペラ音は凄まじかった。だが、疲労はミカルを深い眠りへと誘った。
CEUの施設は、兵庫県と鳥取県との県境辺りにあった。元はどこかの企業の保養所で、一部を研究所として改築したらしい。
ミカルは二日間ほどベッドから起き上がれず、ほとんどの時間を眠って過ごした。その間、ユウリはずっとそばにいてくれた。
ミカルはしばし休養を取り、体力の回復を待って手術を受けることになっている。
それが非現実的に思えるほどに、施設での時間はゆったりと過ぎた。元保養所というのもあってか、周囲は長閑な自然に溢れ、部屋はリゾートホテルみたいだった。
それに、食事はもちろん、大好きなデザートもホテルメイド並においしい。
ミカルはここ数日でずいぶん元気を取り戻した。今日も朝食をぺろりと平らげ、デザートのプチシューに取りかかるところだった。
ユウリはそれを呆れた顔で見つめている。
「よく……そんなの朝から食べられるな」
うんざりした顔をしながら、ユウリはひょいとプチシューを摘み、口に放り込んだ。
「なんだよ、自分だって食べるんじゃん」
「ケチケチすんな。てゆうか、どんだけ食べるんだお前は」
そう言った後、ユウリはふと力が抜けたように笑う。
「ねぇ、ユウリ。パソコン借りていい? 友だちに連絡したいんだ」
携帯はユウリが壊してしまったし、マンションはCEUの人たちが後始末をして今は空家になっているらしい。メールも電話も通じず、家には誰もいない。キット心配している。本当のことは話せないけど、せめてアユタにくらいは、元気だと、でもしばらく会えないと……伝えたい。
「わかった。後でノートを借りてくるよ」
ユウリは受け合い、念を押すように少し厳しい顔で、イズンのこともCEUのことにも触れるなと言った。
一連の発砲事件は地元暴力団の抗争かとの憶測で報じられ、廃墟のショッピングモールが荒らされたことについては、報道さえされなかったらしい。
それを言った後、ユウリは少し迷うように長い息をつき、労るようにそろりとミカルの頭を撫で……静かな声で告げた。
「……バートはどこかに行方をくらませたらしい。カレンも……いなくなったみたいだ」
姉さんは……死んだわけじゃない? そう思っていいのだろうか。そのミカルの心の声に答えるように、ユウリは柔らかく微笑む。
「二人共、どこかで生きてるよ、きっと」
その言葉を聞き、ミカルは思わずユウリにしがみついた。
「ミカル?」
「……ありがと、ユウリ……」
敵対している組織の……しかも、仇と憎んでいたバートのことをそんなふうに言えるユウリの優しさと強さに胸が熱くなる。
まだ何も思い出せないけど……わかる。どうして、囚われの身だった母が、ユウリに心を許し、共に逃げることを決意したのか。
「手術って……どんな手術? 昔のことを思い出す代わりに、父さんと姉さんのこと、忘れちゃったり……しないよね?」
「心配しなくていい。研究結果とホリーが施した装置を消去するだけで記憶の改ざんはしない。情報を壊さずに取り出すのと違って、それほど難しい処置ではないと聞いているよ」
そう説明を聞いても……やはり怖い。
「……手術の間、一緒にいてくれる?」
「お前が望むなら、もちろん」
ユウリは、手術前のミカルを思い切り甘やかすことに決めたのか、小さな子にそうするようにぽんぽんと背中を叩き、抱き締める。
「……でも……やっぱり、いい。なんか恥ずかしいし。こう、ぱかっと開けられたりしたら、そんなとこまで見られるのって……」
「いや、ぱかっとは開けないよ? 幾つか小さな穴を開けるくらいで……」
「穴? …………穴……」
「悪い。怖がらせるつもりじゃ」
慌ててそう言い、宥めるようにそっとユウリの手が髪を撫でる。
「ねぇ、ユウリ。僕は……ユウリと一緒にいた頃はどんな子供だったの?」
「そうだな……今よりはずっと、素直で可愛かったかな」
「なんだよ、それ……」
「特に、ホリーに内緒でお菓子を上げたときには、目をキラキラさせて喜んでいた」
高価なおもちゃを与えられない代わりに、コイン一枚で買えるカラフルなお菓子を二人で頬張った。ユウリは話しながら懐かしげに目を細めて笑う。
紫と黄色のマーブルの、サイケデリックなキャンディー。あれは幼い頃の幸せな記憶に繋がっていたのか。
「あれ……もう持ってないの?」
「ああ。ミカルの記憶を刺激するための物だから、もう残ってないんだ。気に入ったならまた作ってもらえるよう頼んでみようか?」
「ううん、いらない。だって不味いもん」
そう言うとユウリは笑って、ミカルの鼻を軽く摘んだ。その指先から逃れようと身を捩り、ミカルは喉の奥でくすくすと笑う。そして……ふいに涙が流れた。
ふざけた振りをしてみても、強がっても、恐怖心は執拗にミカルを追い詰める。
「怖いよ……ユウリ。思い出したいけど、思い出すのが、怖い……」
ユウリが話してくれた過去を、記憶として受け止める自信がない。すでに失われた日々に、絶望してしまいそうで、怖い。
「大丈夫だ、ミカル。辛いことだけじゃないから。少なくとも俺にとっては、ホリーとミカルと三人で暮らした日々はかけがえのないものだよ。あの幸せな時間があったから、俺は今まで生きてこられた」
ユウリが胸に抱くその日々は、ミカルが幾度も見た黄金の草原の夢へと繋がっている。
父と姉を失った悲しみも、いつか悲しみだけが剥がれ落ち、大切な思い出へと変わっていくのだろうか。
「うん……それでも……耐えられないときは、こうしてなぐさめてくれる?」
一人では耐えられないかも知れない。でも、ユウリがそばにいてくれるなら。
ユウリはその思いを感じ取ったのか、両手でミカルの頬を包み、何度も髪を撫でた。
「もちろんだ」
「約束だよ……ユウリ」
「……ああ。誓うよ、ミカル」
手術室に運ばれ麻酔を打たれ、意識が薄れていく中、ユウリはずっと手を握っていてくれた。
瞼に射す手術灯の光は、いつの間にか夕陽と入れ替わっていた。
ゆるゆるとその色を変える雲は優しくミカルを過去の光景へと誘う。
黄金の草原を、ミカルは走っていた。いつも見ていたよりも草の丈はずいぶんと短い。
ミカルが成長したからだ。
家の中からは、アップルパイの焼けるいいにおいがしていた。キッチンの小窓から顔を覗かせた女の人が、柔らかく笑う。
ああ、これが母なのか。
そうだ……母さんだ、今まで忘れていてごめん……ミカルがそう言うと、母は優しく微笑んで、首を横に振った。それから、母はミカルの肩越しに誰かを見た。
「ミカル」
呼び声に振り返ると、ユウリが立っていた。その後ろでは、金色の海のような草原。
キラキラと輝く、永遠の光。
その胸に飛び込もうと駆け出すと、ユウリは笑って両腕を広げた。
エターナル・デイズ 絢谷りつこ @figfig
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