21:自分で決めたこと

「ユウリ……ユウリ……」


 怖くて、ミカルはただその名を呼び続けた。


「なんの……つもりだ」


 低く掠れる声がする。恐る恐る目を凝らすと、怪訝そうに眉をひそめるユウリが見えた。


 バートの銃口は吹き抜けの向こうの空間に向けられていた。連射式の銃は獣の咆哮のように空を引き裂き……それからカチリと軽い音がして、装弾をすべて撃ち終えたバートの手はゆっくりと下ろされた。


「行け」


 こちらを見ることもせず、バートは言う。

 背を向けるバートを、ミカルは複雑な思いで見た。ユウリと共に行くことを……許してくれたのだろうか。父の背中に、ミカルは心の中で呼びかけた。


 父さん……さよなら。


 そして感傷を振り切り、ユウリに駆け寄る。彼は怪我をしている。一刻も早くユウリと一緒に、彼の仲間の元へ行かないと……。

 だが、ユウリは険しい顔で叫ぶ。


「ミカル、危ない……っ!」


 足を掴まれ、ミカルはその場に引き倒された。飛び散ったガラスの破片が、露出したミカルの腕や頬を傷つける。


「逃がさない……わよ」


 さっきまで気を失い倒れていたカレンは、髪を振り乱しミカルの腹にまたがった。そして、その細い首に両手を添えた。細い指先が肌に食い込む。


「姉……さん……?」

「カレン!」


 立ち去りかけたバートとユウリを牽制するように、カレンは叫んだ。


「こないで! 手負いの女でも、こんな子供を縊り殺すくらいわけないわ。さあ、ユウリは武器を捨てなさい。さっきみたいにすぐ拾ったりしたら許さないわよ」


 言われるがまま、ユウリはそっと銃を床に置いた。


「やめろ、カレン。ミカルからは手を引く。責任は私が負う」


 バートの命令に薄く笑いを浮かべ、カレンはミカルの首を絞める力を強くする。


「バート……そんなに、ミカルが大事?」


 父は答えない。だが、カレンはそれを気にも留めず話を続けた。


「知ってるわ……一緒に暮らすうち、あなたの気持ちがどんどんミカルに傾倒していったこと。寂しかった……自分だけ取り残された気がして」

「はな……して、姉さん……」


 苦しくて、ミカルはもがきながらカレンの腕に爪を立てた。カレンはそれを、冷やかに見下ろす。


「ミカル……私だって、あなたを好きになりたかった。与えられた役は姉だったけど、我が子だと思おうとしたことだってあるのよ……でも、できなかった」


 少女のようだったカレンの顔が、急に疲弊した中年女のように翳る。薬によって歪められていた少女の仮面が剥がれ、本来の顔が垣間見えた。


「私には、本当の子供がいたから。その子は生まれつき脳に障害があって、ずっとカプセルの中で眠っていたの。でも……ここ数日で急に容態が悪化したわ」

「だから……独断であんな無茶な追跡をしてきたのか」


 ユウリの声と同時に、ジャリ、とガラスを踏む音が聞こえた。カレンとの距離を測り踏み込む隙を狙っているのだ―――ミカルはそう思った。


「間に合わなかった。ホリーの研究があれば、あの子は助かったかもしれないのに!」

「落ち着け、カレン。あの子は不運だった。だが、それはミカルとは関係ないだろう」

「そんなこと、わかってるのよ、バート」


 バートの諭す声に悲しげに答えるカレンの表情は、疲れ切っていた。


「でも、ホリーの子だけが幸せになるなんて、どうしても耐えられない!」

「い、やだ……僕は」


 母はもういなくても、あの草原に建つ家はなくても、それでも思い出したい、すべて。


 ミカルは握っていた拳銃を振り下ろし、カレンの肩を殴った。


「……っ、何をするの、この子は……」


 ミカルが立ち上がろうとするのを阻み、カレンは再び掴みかかった。


「ごめん、姉さん……。でももう、決めたんだ、ユウリと行くって。父さんも許してくれたから、だから……」

「嫌よ……私は許さないわ!」


 揉み合いバランスを崩した二人が倒れ込んだところには……柵がまだできていなかった。


 落ちる――。


 一瞬宙に浮いたミカルの身体を抱きとめたのはユウリだった。


「姉さんっ!」


 カレンの身体はぽっかりと空いた四階分の吹き抜けに吸い込まれる。ユウリに支えられたまま手を伸ばしたが、その指先がカレンに届くことはなかった。


 どさり、と階下で重苦しい音がする。

 割れたガラスの残る柵に手をかけたまま、バートは吹き抜けから身を乗り出していた。


 沈黙は、本当はほんの短い時間だったのかも知れない。

 だが、静けさは薄暗い館内に漂い、ゆっくりと染み渡っていった。





「もう……離しても大丈夫だ」


 強張って動かないミカルの手から、ユウリはゆっくりと拳銃を外した。まだ、手足の震えが止まらない。


「ミカル、今は何も考えなくていい……いいな?」


 ユウリの言葉にこくりと頷き、その胸に頭を預けた。泣く力ももう、残っていなかった。


「ユウリ、待て」


 立ち去ろうとすると、柱にもたれていたバートがユウリを呼び止めた。


「俺にはもう武器もない、復讐の好機だ。これを逃したら二度目はない」

「そう……だな」


 低い声で呟き、ユウリは取り戻したリボルバーの引き金に指を掛けた。


「ユウ…リ? 嫌、ユウリ……」


 まさか、父さんを撃つの……?


 止めたいのに、声が上手く出ない。ミカルは力の入らない手でユウリのコートを掴む。


 ユウリは、父を恨んでいる。

 目の前でホリーを殺され、自らも右上半身を失った。そのときの絶望と悲しみを……ミカルは知らない。

 やはり、許すことはできないのだろうか。

 父は……ユウリと行けと言ってくれたのに。


「……お願い、ユウリ、やめて……」


 ミカルの声はほとんど吐息だけで、言葉はユウリに届いているかどうか、わからない。もう、祈るようにユウリにしがみついているしかできなかった。

 ユウリはミカルを左腕で抱き締めたまま、撃った。一発、二発と続けて銃声が響く。

 その度にミカルは震え、ユウリの背に回した手を彷徨わせた。目の前が暗くなる。身体中の血が冷えて凍っていく……。

 弾倉から弾がなくなると、ユウリはゆっくりと腕を下ろした。視界の隅に、硝煙を吐き出すリボルバーの銃身が鈍く光るのが見えた。

 残響が治まると、辺りに静けさが戻った。

 ミカルはときを止められたように、ユウリの腕の中で呆然としていた。

 ユウリが味わった悲しみは、きっともっと深かっただろう。ユウリが父を恨む気持ちを否定することはできない。


 止めたかったのに……誰も失いたくなかったのに……何もできなかった。姉は転落し、父は撃たれた。たった今、信じてついて行こうと決めた……ユウリの手で。


 後悔と絶望に窒息しそうになっていると、ふと重苦しい静寂を破り、聞き慣れた声が聞こえた。


「ユウリ……何のつもりだ?」


 驚いて顔を上げると、バートは先ほどと同じ姿勢で柱にもたれていた。その肩先とこめかみの横、それから頭上には、弾丸がめり込んだ痕があった。


「お前の真似をしてみただけだよ、バート」


 ユウリは装弾が切れた銃をそっと撫で、それからコートの内ポケットに仕舞った。


「……再会するまで、ミカルはもっと酷い生活を強いられているのかと思っていた。研究所でそうだったように、また感情をなくして、人形のように生きているのかと」


 その頃のことは記憶にないが、その口ぶりから、彼がどれだけ心を痛めていたかわかる。

 ユウリはさっきまで銃を手にしていたとは思えない優しい笑みを浮かべ、少し寂しそうな声で言った。


「だが、再会したミカルは想像以上に活き活きとして……。迷ったよ。もしもミカルの身に危険が及ばないのなら、真実を知る必要などないのかもしれないと思った」


 それでミカルが幸福なら、取り戻したいという気持ちはただの欺瞞だと、ユウリは思い悩んでいたのだと話した。

 偽物だけど、ミカルがその家族を愛していることを、ユウリはちゃんと見ていてくれた。


「ミカルは……少し生意気だけど、いい子に育った」


 ユウリはくしゃりとミカルの髪を混ぜ返す。


「相変わらず……甘いな、お前は」


 苦笑混じりに呟いたバートは、そのまま目を閉じた。何を思っているのか、ミカルにはわからない。


「父さん……」

「もう、父と呼ぶな。お前と私は、初めから赤の他人だ」


 そう言ったバートの顔は、紛れもなく父親のものだった。名残惜しく見つめていると、困ったように眉をよせ、バートは叱咤するように厳しい声でミカルを追い立てる。


「ぐずぐずしてないで行け。ユウリと行くと、自分で決めたんだろう?」

「……うん」


 深く頷くと、バートは寂しげな瞳でミカルを見つめた。

 ユウリはミカルの手をそっと握り、屋上へと促す。その手をしっかりと握り返し、ミカルは昨日まで家族だった人に背を向けた。


「目標を確保した。すぐにそちらに向かう」


 ユウリが襟元に向かって話す。

 立ち去る前、ミカルは一度だけ振り返った。だが、そこにはもうバートの姿はなかった。

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