第四章 冬


 波瀾に満ちた長い一日の終わりに安息の寝床が用意されていたことは、実にありがたいことだった。十六歳の肉体の賦活は嘉すべきもので、泥のように眠り翌朝目覚めると、筋肉痛はともかく倦怠感はあらかた解消していた。

 気配を感じて寝返りを打つ。雪乃が大和の頭に手を伸ばした姿勢で固まっていた。

「ごめん。起こした?」

「おはよう」

「おはよう。ひどい顔」

 顔面をサッカーボールのように蹴られたのだ。酷い顔にもなろうというものだ。

「ひどい顔とはひどいじゃないか。名誉の負傷だろう。いやいや、べつに恩に着せるつもりはないんだが」

 雪乃の美貌が思いがけず歪んだため、大和はしどろもどろになった。何故か悔しいが、やはり美人であると認めざるを得ない。微妙に入り混じるこの嫉みの正体が何なのかは知らないが。自分には縁遠いと考えていた感情の対流に大和は戸惑った。大和の人格は今や瑞穂の人格をも兼ねている。瑞穂の肉体の影響で、想定外の化学反応が起きているのかもしれない。

「油断した。私みたいな無愛想で変な女が、ああいう欲求の対象になるとは思わなかった」

 さすがにそれは自覚が足りないとの誹りを免れまい。しかし、無愛想で変という自覚はあるらしい。

「昨日はありがとう。あと、ごめんなさい」

 なまじ武道の心得があるだけに、拳骨を振るった後の大和の苦衷は見透かされたようだ。

「君のせいじゃないよ。ただ、姉さんには秘密で頼む。むこうに帰還できたらの話だが」

 雪乃は楓の名に一瞬眉根を寄せたが、黙って頷いた。

「もうお昼近いな。俺そんなに寝てたのか」

「なかなか起きてこないから、悪いと思ったけど様子見に来たの」

 大和はふかふかの羽毛布団から這い出た。

「しかしすごい家だな。どこのお姫様だよ、あの子」

 大和に宛がわれた部屋は、老舗旅館の宴会場かと見紛う広壮な大座敷だった。四間四方の座敷が二間続きなので、六十四畳はあるだろう。面倒なので、いちいち畳の枚数を数えてはいないが。中央に布団を敷き、一人ぽつんと寝転がる姿を俯瞰すれば、さぞかしシュールなことであろう。ここは小市民マインドを遺憾なく発揮し、部屋の隅っこへ移動して、借りてきた猫さながらに縮こまるべきだろうか。大和は本気で悩んだ。

「マリアンさんが、お風呂使っていいって。いいお風呂だったよ」

「至れり尽くせりですな」

「失礼します。お目覚めになりましたか」

 襖が開く。和服姿のマリアンが入ってきて雪乃の隣に座った。金髪碧眼でなければ大和撫子の称号を捧げたいほどだ。それほど挙措の折り目正しさは称賛に値した。しかし平服として着物を召す家が、現代日本に果たして如何ほど残っているのやら。いや、失念していた。ここはパラレルワールドの日本か。

「おはようございます。ゆうべはお世話になりました」

 過去形は適切ではなかっただろうか。今も現在進行形で厄介になっている。

「怪我の具合は如何ですか」

「家の方に手当てしていただいたようで。おかげさまでだいぶいいみたいです」

「それは重畳」

 やたら日本語の達者な外国人だ。滑舌のよい標準語で、妙な訛りも皆無だった。

「失礼ですが、お宅様は旅館を経営なさってます? それとも華道とか茶道の家元かなにかで?」

「いえ、父は大学教授です」

 仲居か若女将のようなその装いは、はてコスプレなのだろうか。

「結構なお住まいですね。お父さん、日本贔屓な方のようで」

 水崎の秋川邸や下古城の高橋邸もそれなりの屋敷ではあったが、この純和風御殿と比べられては茅屋とへりくだらざるをえまい。

「それはもう。日本フリークが高じて帰化したくらいですから。僕は生まれも育ちもここ矢留ですよ」

 マリアンは大和に風呂を勧めた。

「温泉を曳いているんです。筋肉痛に効きますよ。風呂場は父の自慢でして、まぁひけらかすわけではないんですが、お客さんをお風呂でおもてなしするのが、我が家の家訓とでも申しましょうか。なんならお背中、お流ししますよ」

「……いえ、遠慮しときます」

 隣に座る雪乃を盗み見た。正座の姿勢のまま身じろぎもせず、正面の虚空を見据えている。


「もうこのまま民宿の営業届出しちゃえよ、これ」

 そんな感想を懐くのもむべなるかな。自慢と言うだけあって、シャーウッド家の浴室はちょっとしたものだった。馥郁たる香りからして、おそらくは総檜造り。壁の二面を開放した半露天風呂。眺望もまた風光明媚なことこの上ない。冠雪した太平山の銀嶺を見霽かし、裾野には紅葉した仁井別の森。近隣の林から届く野鳥の囀りや渓流のせせらぎが、これまた絶妙なBGMになっている。やや心許ない土地勘から推測するに、おそらく朝日川あたりだろう。私邸でこの絶景を占有とは贅沢な。

「親父さん、大学教授とか言ってたな。大学教授って儲かるのかな。俺も目指そうかな」

 無粋な感想は、世間知らずの若造のことゆえご寛恕賜りたい。

「はー極楽極楽」

 大和は肩まで湯につかり、目を閉じて至福のひと時に心身を委ねた。湯口から滾々と注がれるお湯の水音もまた、耳に心地よい。爺むさい等と言うなかれ。老若男女を問わず、露天風呂の問答無用の癒しに抗える日本人は、かなり少数派なのではないだろうか。日頃カラスの行水の大和にしてさえ、かくの如く恍惚の境地を漂っている。先ほどから独り言が多いのも、警戒心の弛緩故であろう。

 静謐な空間に細波がたった。濡れた足音。洗い場のほうを振り向くと、全裸の雪乃がタオル一枚を胸にあてて立っていた。瑞穂との人格共有で、異性感度が麻痺気味の大和だったが、さすがに心臓の鼓動が跳ね上がる。

「なっ、なっ、なにしてんの」

「お背中流しますよ。というのはまぁ冗談ですが。私も温泉入りたくなりました」

「さっき入ったんだろ。湯あたりするぞ」

 大和の譫言のような忠告などどこ吹く風で、雪乃は掛け湯にとりかかる。その仕草の優婉なことといったらない。堪りかねて視線をそらす。

「あー生き返る気分。最近いろいろ考え事で煮詰まっていましたので。こういう風に命の洗濯をしたかったんです。やっぱり、自分専用の体がほしくなりますね。雪乃さんに気兼ねすることなく、自由に振舞える私だけの体が」

「おろ、量子さんか」

「雪乃さんの名誉のために言っておきますが、桜井君の入浴中に敢えて闖入するような奇襲攻撃はやらないと思いますよ、彼女」

「俺もう上がるよ」

 立ち上がったところ腕を掴まれた。

「少しだけ時間をください。お話したいことが」

「雪乃さんの了解取ってるんだろうな? いやだぞ、後で助平だの変態だの破廉恥だの言われて難詰されるのは」

 大和がおののく様が可笑しかったらしく、量子は珍しくも笑った。

「あの従姉のお姉さんに、よほど痛い目を見せられてきたんですね」

「そりゃもう」

 秋川家に引き取られて二年余。この間、脱衣所や風呂における不慮の事故が如何なる悲劇をもたらすのか、散々体に叩き込まれてきたのだ。教育的指導の大義の名のもとに。

「仮にそういうサービスシーンに出くわす事になったとしても、今の雪乃さんは頗る寛容だと思いますよ。桜井君に対しては」

「それを試す気にはなれないけどな。それで、話ってなんだい?」

「前にもお話した通り、私は記憶喪失です。昨日のことなんですが、記憶が一部甦りました」

「ほう」

 生返事で答える。忌憚なく言うと、今は量子の身上話よりも、元の世界への帰還の手掛かりを探すことに関心のほとんどが向いている。

「ちいさな子供の頃、川で溺れたんです。家族と一緒だったのか、友達と一緒だったのか、その辺はまだちょっと思い出せないんですが。冷たい水の中で、息が苦しくて意識が暗転する直前、男の人がすごい形相で、私の方に泳いでくる姿が見えました。その人の顔も鮮明に思い出しました。昨夜あなたと雪乃さんが会っていた、作務衣の御老人です」

「なんだって」

 吉右衛門と会った際、雪乃の様子がおかしかったのは、量子の感情の起伏の影響なのだろうか。他にも思い当たることがあった。

「もしかして雪乃さんが泳ぎ苦手なのって、君の影響なのか?」

「その可能性は否定できませんね。専門家じゃありませんので想像の域を出ませんが、水に入るとトラウマ体験のフラッシュバックで、拒絶反応を起こすんでしょう。悪さしているのが、私の深層心理なのか、奥深く収納されて取り出せなくなってる記憶なのか知りませんが」

「俺と瑞穂の自動車恐怖症みたいなもんか。一度専門家に診てもらえばいいじゃん」

「嫌ですよ。モルモットになるのは。雪乃さんだって迷惑でしょうし」

 金槌体質の継続こそ迷惑だと思うのだが。それとも桜井兄妹の自動車恐怖症と違って、さほど日常生活に支障はきたさないのだろうか。

「夏休みに雪乃さんとプール行く機会あってさ、その時に聞いたんだけど、昔は普通に泳げたらしいぞ、彼女。中学の頃に突然、水恐怖症を発症したぽい。つまり、量子さんはその頃に、雪乃さんの体に憑依したんじゃないか?」

「憑依ってそんな、人を狐か幽霊みたいに」

「適当な表現が見つからないな。共棲でも寄生でもいいが、まぁこれは言葉の綾だ。そうむくれなさんな。俺は君みたいに読書家じゃないんで、語彙が貧弱なんだよ。ともかく、君らの二重人格関係は、その頃にスタートしたと見做していいんじゃないの?」

「なるほど」

 量子の裸身が視界に入らないよう湯船に浸かっていたが、背後で立ち上がる気配がした。

「あなたは謙遜なさいますが、なかなかどうしてあの従姉のお姉さんに負けず劣らず御慧眼ですよ。あなたと話すと考察が捗るもの。考えるネタが出来たところで私は退散します。温泉気分も満喫しましたしね」

「過大評価痛み入るね」

「それではまた。雪乃さんにバトンタッチしますね」

「あ、おい! 上がってから交代してくれよ。ここで代わられちゃまずい」

 大和は慌てて量子の注意を喚起したが、時すでに遅し。驚いた顔の雪乃と至近距離で対面することとなった。

「ご、ごきげんよう……」

 大和は機転の利かない我が頭脳と胆力を恨んだ。いつぞや夜這いと誤解された時のように、また軽蔑の視線を向けられるにちがいない。あの、路傍の石ころを見るような冷たい瞳で。

 だが雪乃の反応は案に相違した。茹で蛸のように真っ赤になってわななき、かいなを掻き抱いてしゃがみ込んでしまう。大和はその場にいたたまれなくなり、三十六計逃げるに如かずの故事に倣うこととした。


 昨夜下着姿で割と堂々としていたような気がするのだが、裸だと抵抗感のハードルがぐんと上がるのだろうか。雪乃の羞恥心の臨界点がいまいちよく分からない。唐変木全開の大和は、暗中模索の真っ只中にあった。

 案内役の渡辺氏に先導され、雪乃と並んで歩む。剣道の間合いの攻防にも似た、緊張感の鬩ぎ合い。それは、必ずしも不快なものではなかったが。

「こちらです」

 廊下の分岐で渡辺氏が言った。彼はこの家の執事的な役職にあるのだろうか。そのような前時代的な雇用形態が現代で命脈を保っているのかどうか、庶民の大和には分かりかねたが。もっともメイドさんが一世を風靡して市民権を得ている我が国のことだ。雲の上にはそういう懐古趣味の富豪たちがいて、伝統文化の保全に一役買っているのかもしれない。

「すごいお屋敷ですね。マリアンさんのお父さん、相当な資産家なんでしょう」

 ぎすぎすした空気に潤滑油を注ぐ程度の気持ちで、ささやかな阿諛便佞を使った。渡辺氏は意外そうな顔をした。

「御存知ないのですか?」

「大学教授と伺いましたが。有名な先生なんですか?」

「マリアンお嬢様のお父君レオフリック・シャーウッド氏は、盟邦イギリスの元駐日大使だった方です。数年前帰化申請が受理された時は、報道で大騒ぎしてましたでしょう」

 この世界の先住民ではないので、存じ上げない。が、話の腰を折らぬよう頷く。

「なにしろシャーウッド家は英国華冑界の名門です。御先祖には、お客様も御承知の事と思いますが、ドイツの鉄血宰相ビスマルクや我が国の元老山口壮次郎と渡り合った名首相リチャード・シャーウッド伯爵がおりまして。マリアンお嬢様は、リチャード・シャーウッドの玄孫に当たられます」

 玄孫と言うと孫の孫か。当然と言えば当然なのだが、歴史もまたまったく別物になっているらしい。こちらの世界史の教科書に目を通しておけば、あちらに帰ってから架空戦記の執筆が捗るのではあるまいか。


 マリアンの私室に通された大和と雪乃は、アフタヌーン・ティーの饗応を受けた。

「どこぞの由緒あるお嬢様かとは思いましたが、まさか英国貴族の御令嬢だったとは」

「高祖父がそうだったというだけです。爵位はヨークシャーの大伯父が継ぎ、うちは傍流なので一般人です。めっちゃパンピーです。もうイギリス国籍ですらありませんしね」

 マリアンは庶民派アピールのつもりなのか、くだけた物言いをした。その目論見が成功を収めているかどうかは措いておくとして。

 紅茶党らしい雪乃は、きわめて再現度が高いであろう本場アールグレイに御満悦の様子。以前テレビで紅茶通らしい某女優が、「日本の水では、アールグレイの芳香は十全に引き出せない」との蘊蓄をしかつめらしく開陳していたことがある。今供されている紅茶はまさにその日本の水で淹れたものであろうが、如何なる技巧が凝らされているのか、その芳醇さといったらない。そもそも本場紅茶の味や香りなど知らない斯道ど素人の大和にも、思わず唸る美味さであることは理解できた。

「現役伯爵令嬢というなら、僕なんかではなく、正真正銘の本物がうちの高校にいますよ」

 どうやらこちらの世界では、華族制度が絶賛継続中であるらしい。本気で歴史書を繙いてみたい気分だ。

「昨日音楽室であなたたちもお会いしたでしょう。水高生徒会副会長の山口志鶴先輩ですよ。一万円札のデザインにもなってる明治維新元勲の一人、山口壮次郎伯爵の来孫にあたる人です」

「へぇ、あの人が」

「まぁ志鶴先輩は、御自分を没落華族の末裔と卑下なさいますけどね。御先祖の莫大な財産も、代替わりのたびの相続税や固定資産税に蚕食されて、今や一般家庭となんら違いはないそうです。先輩家計の足しにと、ファミレスとかコンビニでしょっちゅうバイトしてますし」

 それはまたお手本のような零落ぶりだ。

「実は志鶴先輩も久保さんと一緒で、MMORPGの仲間です。みんな同じギルドなんですよ」

 マリアンが笑って暴露した。苦学する志鶴に幸あれかしと祈念しかけていたが、それを聞いて撤回。

 高橋翔子に似た穏やかそうな人柄は、彼女の天賦の資質なのだろう。大和などが僭越な心配をするまでもなく、彼女はその人柄を武器として、前途を切り拓いてゆくにちがいない。

「驚きのネトゲ廃人率ですね」

「廃人と奉られるほどやり込んではいませんよ。『最果て遺跡オンライン』というゲームなんですが、プレイヤーそれぞれのペースでまったり遊べるので、気分転換やストレス発散に最適です。うちの学校で流行ってるんですよ。みんな受験やら進級やらで勉強漬けだから、ストレス溜まってるんでしょうね」

 『最果て遺跡オンライン』はよく知っているゲームタイトルだ。むこうの世界で楓がいつも遊んでいた。というか、こちらの世界にも同タイトルのゲームが存在するとはもう笑うしかない。こちらの現物を実際プレイしたわけではないので、内容も寸分違わずかどうかは定かでないが。

「気分転換といえば、うちのお風呂いかがでした?」

「とてもよかったです。見ず知らずの俺たちに、過分な歓待をいただきまして」

 雪乃も感謝を述べた。

「ありがとうございました。昨夜は泊るところもなく困ってましたので、本当に助かりました」

「それはよかった。袖すり合うも多生の縁ということで。まぁ、まったく見ず知らずというわけでもないんですが」

「……そういえば、昨日が初対面のはずですよね。なんで君は、俺たちの名前を知っていたんですか? 久保から聞いたという線もないでしょう。あの久保将幸は、俺たちの名前を知らないはずだ」

「桜井君は秋川先生のお孫さんなんでしょう? 僕の父レオフリックは、秋川先生の弟子なんですよ」

「そりゃおかしい。この世界に存命の秋川吉右衛門に、桜井大和という孫は存在しないみたいなんですよ。だいたい、俺が秋川吉右衛門の孫っつう個人情報の出処はどこなんですか? 俺と雪乃さん以外にその事実を知る人は、今この世界にいないと断言できる。いるとすれば――」

 その人物は、大和と雪乃が元々いた世界の事情を知っているということになる。マリアンはつぶらな瞳で大和を見詰めてきた。大和は問いかけた。

「ヘリワード・シャーウッドという名前を知っていますか?」

「……やっぱりヘリワードのことを御存知なんですね。ちょっと込み入った話になりますが、聞いてもらえますか」

 大和は頷いた。マリアンは深呼吸した。彼女にとっても決断を要する告白になるらしい。

「実は、ヘリワードは僕です」

「……仰る意味が分からないんですけど」

「今ここにいるマリアン・シャーウッドと、むこう側にいるヘリワード・シャーウッドは、意識を共有しているんです。つまり、体は二つの並行世界にそれぞれ一体ずつあるんですが、僕と言う同一人格の下で生きてます。むこう側というのは、あなたたちが元々暮していた世界、ここに飛ばされてくる前にいた世界のことです」

 さすがに驚いた。雪乃などは話の内容が見えず、やや放心気味だ。

「A世界のマリアンと、B世界のヘリワード。本来はそれぞれ独立した意識が生まれて、なんら接点のない別個の、けれどもよく似た人間になるはずだったんでしょう。A世界とB世界は相互作用不可能なパラレルワールドなんですから。ところが、僕の意識は両世界の間に開いた虫食い穴――ワームホールでも特異点でも呼び方はなんでもいいのですが、つながって完全に融合してしまっている。ありえないと泣こうが喚こうが、これは現実なのでどうしようもありません。マリアンとヘリワードの性別が違ったのは、多くの可能性の中からその現実を選択したということなんでしょうかね。まぁ人間の男女の性差なんて、四十六本のヒト染色体のうちのたったひとつがX染色体かY染色体か、その違いでしかありませんけれど」

 どう評価していいものやら、咄嗟には言葉がでてこない。

「もっと分かりやすくネットゲームに例えますと、僕というプレイヤーがAサーバーとBサーバーにそれぞれ別個のアバターを作って、2アカウントプレイをしているようなものです」

 なるほど。その例えを借用すれば、大和と瑞穂は、同一サーバー上で二つのアバターを操作する複アカプレイといったところか。さらに雪乃の場合は、一つのアバターを二人のプレイヤーで交互に操作しているようなものだ。まったく、三者三様に特異な人間が一堂に会したものだ。

「ヘリワードが留学生としてむこうの水高にやってきた時、日本語がとても流暢でしたでしょう。種明かしはつまり、中の意識が日本生まれ日本育ちのマリアンと同一だからです。そりゃそうでしょう、いくら夏目漱石や森鴎外をちょっと齧ったからといって、一朝一夕に会話が上達するなんてありえませんよ」

「彼時々、日本語の発音や抑揚が妙ちきりんだった気がするけど」

「あれはちょっとした演出です。留学生がネイティブスピーカー並みに日本語ペラペラだとおかしいじゃないですか」

「君の一人称は、ヘリワードに合わせて『僕』なのか」

「ヘリワードが英語で話す際は意識して使い分ける必要もないんですが、日本語は一人称のバラエティーに富みますからね。双方日本語モードですと時たま混乱して、ヘリワードが『あたし』になったりマリアンが『俺』になったり。ですので混乱を避けるためにも『僕』に統一した次第です。僕っ娘はマンガやアニメにも頻繁に登場しますし、違和感ないでしょう?」

 そういうものだろうか。大和は論評を控えた。

「じゃあ、本当に君はヘリワードなんだな?」

「そうですよ。学級対抗の時、君と剣道の試合をしたこともよく憶えてます」

「むこうの世界、今どうなってる?」

「もうローカルニュースでも全国ニュースでも大騒ぎですよ。交通事故に巻き込まれて高架橋から転落した高校生二名が行方不明ってね。今朝の地方紙の三面記事にも載ってました。まぁまだ安否不明で実名は報道されてないみたいですが」

 大和と雪乃は、困惑して押し黙った。マリアンが溜息まじりに言った。

「僕の特異さも我ながら如何なものかと思いますが、あなたたちは輪をかけてハイレベルですね。異世界間を股に掛けて神出鬼没な人間なんて前代未聞です。これ以上騒ぎが大きくなる前に、むこうに戻られたほうがいいですよ」

「好きでこんな罰ゲームに嵌ってるんじゃないよ。そもそも神出鬼没なんて大いなる誤解だ。むこうに帰れなくて困ってるんだぞ」

 マリアンは首をかしげた。

「そうなんですか? 僕はまたてっきり、自由自在に往来可能なのかとばかり」

「どこの魔法使いだよ」

「先ほど僕は、桜井君と秋川先生の血縁関係を看破しましたが、普通こちらの世界に属する人間には知り得ない情報でしょう。同様にあなたの双子の妹ミズホッチ。彼女は何故、リチャードの名前を御存知だったんですか? それに『特異点協奏曲』のことも。あちらの世界に属している人には、普通に考えればうちの高祖父やあの曲との接点ができるはずがない。こちらの世界でこそリチャードは、リストやショパンやエリック・サティあたりに並ぶピアノ曲の大家とされていますが、むこうの世界ではまったく無名の人物ですからね。むこうの第一次大戦で早世したため、作品も残っていませんし」

「つまりうちの瑞穂が、こことむこうを往来していたと仰りたい?」

 さりげなく名前を訂正しつつ訊く。

「そこまでは言いませんよ。僕たちみたいな特異な人間が、そうそういるとも思えませんし。僕の推測としては、こちらの世界に遊びに来た桜井君が、リチャードの伝記に興味を抱き、彼にまつわる情報を仕入れてむこうの世界に持ち帰り、妹さんに教えた、とまぁこんなところでしょうか」

 さすがに桜井兄妹の人格共有状態までは把握していないらしい。しかし、大和と雪乃はしっかり特異人間の範疇にカテゴライズされているようだ。反論の余地がすくないところが、なにやら業腹である。

「そんな器用なことが可能なら、俺はむこうで天才クリエイターの名声をほしいままに出来るだろうな。やることは人様の業績を盗む転載クリエイターだろうが」

「しかしむこう側に戻れないというのはまずいですね」

 修辞の才に乏しい自分にしてはなかなか会心の駄洒落に思えたのだが、華麗にスルーされてやや意気消沈。

「こちらも種明かしさせてもらうとね、ミスターリチャードに関する情報は、ある人から聞いた伝聞なんだよ」

「ある人とは?」

「高橋トヨさん。むこうで水高生徒会長やってる高橋翔子さんのひいばーちゃん。話しぶりからたぶん百歳を越えてるんだろうけど、とても理知的なばーちゃんだった」

「そのおばあちゃんが、なんでリチャードや『特異点協奏曲』のことを知っていたんでしょう?」

「昔の人だから訛りが強くて、前後の文脈で脳内補完した部分もあるんだけど、子供の頃神隠しに遭ったようなことを言ってたな。たぶん出身は、ここの世界なんじゃないか。件の山口壮次郎氏とも所縁があるみたいな口振りだったし」

「神隠し、ですか。志鶴先輩のひいおばあさんから、以前そんな話を聞いたような気が」

「よしんば並行世界ってのが無数に存在するもんだとしても、俺としては彼我の世界の絆的なものを強く感じるので、この仮説を推奨したい。あちらとこちらは表裏一体かつうくらい、いろいろな要因が似通ってる。マリアンの言葉を借りると、俺ら三人は両世界間を結び合わせる特異点かもしれないんだろう? 特異点な俺たちがそういう意識を強く持っていれば、世界のありようにも幾許か作用が働くんじゃないの。量子論ってのは、確かそんな感じに敷衍できるんじゃなかったか」

「僕の仮説より随分飛躍したような。中学二年生あたりが罹患しそうな考え方です。まぁ、そういうの好きですけど」

 マリアンは携帯電話で渡辺氏を呼び出すと、車の手配を依頼した。

「出かけるのか?」

「志鶴先輩の家に行ってみましょう。先輩のひいおばあさんから神隠しの話を聞けるかも。帰還方法の手掛かりになるかもしれませんよ」

「伯爵家に伺候か。こんなみすぼらしい格好で大丈夫かね。いや、お借りした服着てこんなこと言うのも甚だ失礼だが」

「べつに殿様に謁見する家臣ってわけじゃないんだから問題ありませんよ。どうしてもと仰るなら、フォーマルスーツ見繕いますが。仕立ててる時間なんてないので既製品ですけど」

「いや、この服でいいです。余計なこと言ってごめんなさい」


「大和君、車平気なの?」

「しゃあない。少しの間我慢する」

 雪乃が先ほどから不機嫌だ。風呂場における奇禍をまだ根に持っているのだろうか。

「ヘリワード君って確かC組に来た留学生だよね。異世界の住人のマリアンさんと意識繋がってるんだって?」

「らしいな」

「眉唾物と言いたいところだけど……私たちの今の状況そのものが、既に眉唾物だからなぁ」

 まことに事実は小説より奇なり、だ。

「けど考えようによっちゃ、マリアンの存在は地獄に仏だよな。なにせマリアンからヘリワード経由でむこうの状況知ることができるし、今思い付いたんだけど、楓姉さんや雪乃さんの御家族に連絡取ることも可能なんじゃないか?」

「雪乃はパラレルワールドに飛ばされましたけど、元気にやってますって? うちの両親がその奇想天外な話を真に受けるかしらね。ところで」

 ずいっと顔を寄せてきた。

「なんでマリアンさんは呼び捨てで、私はいつまでも他人行儀に敬称付きなの?」

「へ? いや、べつに他意はないけど。ほら、外国人の名前って呼び捨てのほうが、なんとなく語呂がしっくりくるじゃないか。まぁ君が呼び捨てがいいってんなら御希望にそうよ」

「じゃあ呼んでみて」と真剣な眼差し。

「しからば遠慮なく。雪乃」

 雪乃は間髪容れずそっぽを向いてしまった。いったい何の儀式なのだ、これは。


「どうされました? 気分でも?」

 助手席のマリアンが、後部座席に座る大和の顔色を見咎めた。

「大和君、車苦手みたいで」

「お恥ずかしい。昔の交通事故のトラウマらしくて。大丈夫。近距離なら問題ないよ」

 助手席から降りて、後部座席に乗り込んできた。

「意識を別の事に向けて、気分紛らわすといいですよ。こんなふうに」

 大和の左腕に腕をからめてしなだれかかってくる。大和は動転しつつも抵抗した。

「こら、気色悪い真似すんなよ。恩人にたいへん失礼な言い草だけどさ」

「気色悪いとは心外ですね。レディに向かって」

「すまん。しかし君の顔がどうしてもヘリワ……むこう側の彼と重なって見えちまう」

「僕の人格はどちらかというとマリアンがメインで、むこうはサブのつもりなんですが」

 突如雪乃が掛け合いに参戦。

「発作の予防ということなら、私も協力してあげる」

 言うや否や、こちらは大和の右腕にからみついてきた。

「両手に華ですね」

 マリアンがにっこり笑った。運転手の渡辺氏は能面のような無表情で、ルームミラーを一瞥することさえなかった。



 三十分ほどのドライブで山口邸に到着。どのような壮麗な城館が聳え立つのかと思いきや、ごくありふれた民家だった。むしろ、むこうの世界の高橋邸のほうが豪邸と呼ぶに相応しい。

「当主氏がいたらどう挨拶すればいいんだ。御意を得まして恐悦至極に存じ上げ奉ります伯爵閣下、とでも?」

「まさか。時代劇の見すぎですよ。山口のおじさんは伯爵ですが、ごく普通のサラリーマンです。世襲華族といっても、今の御時世まったく一般人と一緒です。六年毎に輪番制で御鉢が回ってくる参議院議員を務めて、時々皇室の行事の供奉をして、あとは老後に一般人よりすこし色のついた年金を貰うだけの簡単なお仕事と聞いています」

 この白人のお嬢様はさらりとのたまうが、そんな話を聞くと、枢要なVIPのイメージしか湧いてこないではないか。


 曾祖母への面談を申し込んだところ当初気の進まぬ様子の志鶴だったが、マリアンの口添えが奏功したようで、渋々ながら承諾してくれた。

「もう年齢が年齢だからね。私が中学の頃からずっと寝たきりで、おばあちゃんとお母さんが介護してる状態なの。マリーの頼みじゃなかったら、他所の人、大おばあちゃんの部屋に入れたりしないんだけど」

 一同面目なさそうに小さくなった。さして親しくもない人間に私生活の領域へ立ち入られるのは、家族としてあまり愉快なことではあるまい。不躾は重々承知の上だが、大和と雪乃は今運命の岐路に立たされている。このまま元の世界への帰還が叶わなければ、高橋トヨのように異世界で生涯を送ることになりかねない。そうなるとなにより懸念されるのは、むこうに残される瑞穂のことだ。何かの拍子にオリジナル瑞穂の意識が戻ればよいが、さもなくば植物人間として秋川家の厄介になり続けることだろう。

「大おばあちゃん意識朦朧としてるから、会話できるか微妙だよ? 耳も遠いし、白内障手術やってないから、たぶん目も見えないと思う」

「はい。無理言ってすみませんです」

「廊下のディスペンサーにエタノール入ってるから、手消毒してね。あとマスク付けてちょうだい」

 志鶴に続いて恐る恐る部屋に入る。壁際にベッドがあり、骨と皮だけのような老婆が横たわっていた。老いさらばえ方は顕著だったが、やはりどこかトヨの面影がある。

「大おばあちゃんにお客さんだよ。起きてる?」

 志鶴が老婆の耳元で声を張り上げるが、捗々しい反応はない。時折アーだのウーだのといった呻きを発するのみだった。

「ちょっと会話は無理そうですね……」

 藁をも掴む思いだったが、悲観がじわりと拡がる。天井を仰いだ際、部屋の片隅の本棚に目が留まった。

「本棚見せていただいてもかまいませんか」

「……どうぞ」

 冒頭の沈黙が志鶴の心証を端的に物語る。プライベートを詮索するのは間尺に合わない作業だと再認識した。居心地悪さにともすれば心が折れそうになったが、どうにか鼓舞して調査に取り掛かる。

 最上段の棚には、アンティークなフォトフレームに収められたいくつかの古い写真が飾られていた。丸眼鏡に厳めしい口髭、たくさんの勲章に彩られた大礼服をまとう老人の写真。七五三のような晴れ着をまとった、よく似た二少女の写真。燕尾服を着た、西洋人と東洋人の二紳士が握手している写真。などなど。

 下段には様々なジャンルの本が並ぶ。民間信仰に関する文献や、神社仏閣の資料、量子力学の入門書。

 大和は志鶴の曾祖母、山口キヨの萎びた横顔を見た。一見脈絡のない本の選択だが、大和には通底するテーマが理解できる気がした。ふと、一冊の本が記憶の襞に抵触する。背表紙にはこうある。


 『パワースポット《神社》~この世と異世界をつなぐ特異点~』


 いつだったか、水高の図書室で同タイトルの本を見かけたことがある。最近は忘れかけていたのだが、春先から初夏にかけて、山奥の神社で遊んだ幼少時の夢を見ることが度々あった。神社繋がりで、この本の題名が印象に残っていたのだ。

 本を手に取りページを捲ってみると、あるページに栞が挿んであった。そこには神隠しに関する記述。


『神隠しといえば、先述の八幡の藪知らずや白神山地の天狗岳が有名であるが、この奥森地方にも古来神隠しにまつわる伝承が散見され、禁足地が今なお残っている』


 また奥森か。浅からぬ縁に呼ばれているのか、度々耳にするその地名。かの地にいったい何があるというのだろう。さすがに少々薄気味悪くなってくる。大和は財布の奥に忍ばせていた奥森神社の御守り――かつて高橋トヨから譲り受けた縁結びの御守りを取りだして、矯めつ眇めつした。その行為に特に意図があったわけではない。しかし、不思議な出来事の呼び水にはなったらしく、後に運命的との感慨を懐かざるをえなかった。

 部屋に居合わせた人々の驚愕が大和の肌にも伝わってきた。視線を感じ振り返る。ベッドに横臥していたキヨが上半身を起こし、大和のほうを見詰めていた。滂沱として止まらない涙。嗄れ声ではあったが、滔々と語りだす。

「トヨ……おめはん無事だったのげ。気配はいっつもそばさ感じだったども。あいーしかだね。心配したんだよぅ。おどさんもかがさんも、じさまもばさまも、んなおめはんのごど心配してらったど。今際の際までなぁ。おらも間もねぐお迎え来るだで、御先祖がださ彼岸で教えでやらねばね」

 一同呑まれたように咳きひとつない。

「なんぼ苦労したべ。んだが。そっちで嫁っこさ行っただが。高橋さんてお人げ。んだぁ、孫ど曾孫そんたにいだが。子孫繁栄なによりだべ。すて、この坊っこげ、おめさ自鳴琴の鍵っこ届げでけだの。そいだば御礼さねばねぇな。ほうほう、そう喋ればいいのげ?」

 キヨが大和を手招いた。

「うぢの妹むごうで世話なったえんたすな、坊っちゃん。トヨがら伝言だで、聞いでたんせ。そちらさ迷い込んで道さ迷ってらんだば、奥森神社さ行ってみれ。あすこさだば、きっといいあんべにそちらどこちらの結び目あるでよ。だどや」

「奥森神社ですか……」

「ありがでな。坊っちゃんのおがげで百年来の懸案晴れだで。こいで思い残すごどもねぐなった。いづでも往生でぎらは。すまねども、そごの棚っこがら写真立で取ってけれ。めんけえおなごわらす二人写ってらやづだわ」

 本棚に陳列してあるポートレート群のひとつだろう。

「これですか?」

 キヨの白濁した瞳に視力が残っているのか分からなかったが、大和は写真を手渡した。キヨは手の感触で判別した様子。

「んだんだ。こいだ。こいどごよ、坊っちゃんさ預げるだで、おらの妹さ会うごどあったば渡してけねべが」

 これは俗に言うフラグとか伏線的なものなのだろうか。妙な予感めいたものが働いて、大和はこの依頼を謹んで受けることにした。

「志鶴、お客さんがださ、晩げのままかしぇでやれ。おらは疲いだで、横なるは」

 志鶴の手を借りて横になると、キヨは安らかな寝息を立て始めた。

 敬虔さとはあまり縁のない大和だったが、さすがに畏怖の念に打たれ、手元の御守りに目を落とした。確かに縁結びの御利益覿面だ。それにつけても、これには異世界との交信機能でも具わっているのだろうか。



 志鶴の勧めで夕飯を御馳走になり、宵の口にシャーウッド家へ戻った三人。例の大座敷で鳩首凝議となる。大和が提案した。

「明日、奥森へ行ってみないか」

 キヨとトヨ。双子老姉妹が示してくれた道標であり、一筋の光明だ。想像の域を出ないが、そこには本来どこまでも並行で決して交わることのない二つの世界が例外的に結接するポイントが存在するのではあるまいか。かつて異世界間を隔てる境界を跨ぎ越えたであろう、トヨという前例もある。前例があるということは、きわめて大きな希望だ。

「うちのお祖父ちゃん家行くの? まぁこっちの世界じゃ赤の他人の家になってるかもだけど」

「そうか、君のお祖父さん、奥森神社の神主なんだもんな」

「私はかまわないけど、けっこう遠いよ。丸館から奥森線に乗り換えて行かないといけないし」

「車出しましょうか? あ、桜井君長距離はダメなんでしたっけ」

「できれば電車のほうがありがたいかな。どうも俺が行動の制約なってるみたいで申し訳ない」

「僕、奥森線乗ったことないので、一度行ってみたかったんですよね。今の時期ですと、紅葉が見ごろでしょうし」

 マリアンは同行する気満々らしい。早速携帯電話で食材の手配などを始める。

「明日のお弁当の用意しますね」

「いやピクニックじゃないし、あまり荷物嵩張ると行動の制約なるんじゃないか。ドライブリミッターの俺が言うのも恐縮なんだが」

「日本人たるもの、いついかなる時であっても花鳥風月を愛でる心の余裕を持ったほうがいいですよ。昔の武士は死に際しても辞世の句を詠んだそうじゃないですか」

「ハードル高いな。自分のことでいっぱいいっぱいの高校生つかまえて、そんな侍の達観を要求されてもな……」

「さて、明日に備えて今日はもう休みましょうか。桜井君も眠たそうですし」

 マリアンの指摘通り、ほんの少し前から猛烈な眠気の波状攻撃に苛まれている。大和は大きな欠伸をした。

「ごめん。急にうとうとしてきたんだ」

「いろいろな事が立て続けに起こったからお疲れなんですよ、きっと」

 大和は立ち上がろうとしたが、四肢に力が入らず昏倒する。意識が不可避の引力に搦め捕られ、重力井戸の底に引きずり込まれるような錯覚。翳む視界の一隅で、雪乃とマリアンが腰を浮かせ何かを喋っている様子だったが、声は聞こえなかった。



 体感的にはほんの数秒。実際にどれほどの時間が経過したのかは分からない。目を開けた時、眼前には楓の顔があった。状況を理解しようと脳細胞たちが活動を開始するよりも早く、楓にひしと抱きすくめられる。動ける範囲で首を巡らすと、将幸と志鶴の顔が見えた。

「こりゃまた豪華な面子がお揃いで」

 放言してすぐに事態を把握する。大和の声ではなく瑞穂の声だった。念のため胸を揉んで確認。「許せ妹よ」と、想像上の虚数空間を漂っているオリジナル瑞穂の意識に向けて遥拝しつつ。余談ながら、いつまでも目覚めないお前が悪いと、免罪符の貼付も忘れなかった。

「な。俺の言った通りだろう」

 将幸が鬼の首を取ったかのような得意満面で述べた。

「どや顔やめなさいって。偶然目を覚ましただけだし」

 志鶴もとい翔子が、楓のお株を奪うつっこみスキルを披露する。

 瑞穂は混乱した。大和の体をむこうの世界に残したまま、意識だけこちらに帰還したのだろうか。

「いったいどうなってるの?」

「昨日の課外活動中に貧血で倒れたんだよ、瑞穂ちゃん。憶えてない? なかなか目を覚まさないから、珍しく楓が動転しちゃってね」

「だから意見具申してやったんだ。姫の眠りを覚ますのは王子のキスと、昔から相場が決まっているだろってな」

 楓が将幸を睨んだ。

「それを実践しようとする馬鹿がどこの世界にいるのよ、この馬鹿」

「ひでえな。俺は未遂で、実際に実行したのはお前さんじゃねえか」

「久保っちは悪いやつじゃないけど、王子様って柄じゃないでしょうが。つうかそれ以前に、瑞穂のファーストキスを渡すわけにはいかないわ」

「見解の相違だ。人工呼吸つうか、気付け薬みたいなもんじゃねえか。接吻の勘定には入らんだろう。ははーん、さてはお前さん、妬いてるのか」

「はぁ? 寝言は寝てから言いなさいよ、この筋肉ダルマ」

「口が達者な秋川にしちゃ、いまひとつ独創性に欠ける誹謗じゃないか。図星を突かれて御自慢の舌鋒も鈍ったんじゃね?」

「なにしたり顔で心理学者ごっこおっ始めてるのかしら、この人は」

 侃々諤々の論戦の火蓋が切られようとしている。そんな場合ではないのだ。瑞穂は楓の耳元で囁いた。

「大和の方、ちょっと面倒な事になってる。他聞を憚るんで、翔子先輩と久保に御引き取り願えないかな」

「わかった」

 こんな時は従姉の聡明さがありがたい。その才気煥発によって日常的にやり込められ、精神的苦痛を被るという弊害もあるのだが。


 楓が適当な理由をでっちあげて翔子と将幸を帰宅させた。

「今日の久保、いつになく姉さんに絡んでたね。まぁ全然険悪な感じじゃなかったけど」

「そう? 一触即発だったじゃん」

「二人とも楽しそうに見えたけど。じゃれあってるっつうか」

「まぁあの馬鹿なりに、凹んでるあんたを激励したかったんじゃないの」

「べつに凹んでないんですけど」

「体裁上は、兄貴が行方不明で傷心中の妹じゃん」

 なるほど。傍目にはそういうことになるのか。

「いいやつだよね、あいつ」

「そりゃもう。あたしの親友だもの」

 楓に現在の大和と雪乃の状況を説明する。

「……並行世界に、異世界間の個体で人格を共有する人間か。それをあたしに信じろと?」

 いかに磊落な楓といえども、さすがにこの現実味の希薄な話をすんなり受容するのは困難らしい。しかし、双子への信頼で押し切ったもよう。

「あんたらの存在からしてぶっとんでるからね。いいわ、信じてあげる。その、むこうの世界とやらからこっちに戻ってこれそう? 騒ぎ大きくなってるから、早めに戻らないとけっこうやばいよ。父さんと母さん、今日警察署に行った時に白瀬ちゃんの両親も来てたらしいんだけど、憔悴して見るに堪えなかったってさ」

 愛娘が交通事故に巻き込まれて行方知れずとなれば、両親としては無理からぬ反応だろう。

「恭太郎伯父さんと梢伯母さんも心配してるんでしょ。心苦しいな」

「大和と白瀬ちゃんは百パーセント被害者なんだから、あまり気に病まないほういいよ。それよりも打開策だわ。これからどうする? あたしに出来ることはある?」

「まずはむこうと連絡取らないと。雪乃とマリアンが心配してるだろうし」

「雪乃、ねぇ」

 楓が意味ありげな流し目を寄越したが、非常時につき無視。

 瑞穂は机の引き出しを東京地検特捜部のガサ入れもかくやの勢いで漁った。目当てのクラス名簿を見つけ指でなぞる。しかし冷静に考えてみると、短期留学生であるヘリワードの名前があるはずもない。すかさずスマホを取り出し、五月の運動会の際偶々電話番号を交換していたクラスメイト女子に電話をかけた。先方は日頃梨の礫の瑞穂から出し抜けに電話がかかってきて、さぞ戸惑ったことだろう。格別疎遠なわけではないが、かといって親しく話す間柄でもない。

「ごめんね、突然電話して」

『ううん。体調もういいの?』

 我ながら女子的な会話が板についたものだ。高校入学当初などは、うっかり馬脚をあらわしはしないかと神経質になり、コミュニケーションが進展しなかったものだが。

『そういえばE組のお兄さんと剣道部の子、見つかったの?』

 渦中の人ゆえか、同級生たちも大和と雪乃の安否は気にしているらしい。

「同居の従姉の話だと、警察と消防で捜索してるらしいんだけど、まだ見つかってないみたい」

『そう……無事だといいね』

 二人とも異世界で壮健なのだが、真相を明かすわけにもいかない。以前図書室で大和から書架の本を取ってもらっただの、教材の搬送を手伝ってもらっただの、瑞穂の中の人も忘れかけていたエピソードを、リップサービスも織り交ぜつつ語りだすクラスメイト。故人を偲ぶ弔辞でもあるまいに。安穏と傾聴している余裕はないので、機を見て用件を切り出す。

「ヘリワード君て、誰の家にホームステイしてるんだっけ?」

『渡辺君じゃなかった?』

 謝意を述べて電話を切り、続いて渡辺の家に電話。応答した家人はむこうの世界のシャーウッド家運転手によく似ている声音だったが、今はその関連性を考察する時ではない。瑞穂は身分を名乗り、ヘリワードへの取り次ぎを頼む。

『どうしました、ミズホッチ。君から電話をくれるなんて』

 どう説明したものか一瞬言葉に詰まったが、迂遠な言い回しをしても詮無いので単刀直入に言った。

「むこうで大和がいきなり倒れたでしょう。マリアンと雪乃が気を揉んでいるんじゃないかと思って、君に連絡入れた次第なの」

 小姑ポジションの楓が傍にいるので、言葉遣いは念のため瑞穂モード。ヘリワードはさすがに驚いたようだった。

『なんで……どうしてそんなことを知っているんです』

「つまり、わたしたちも君らと同じなの。大和と瑞穂は外見上双子の兄と妹という二人なんだけど、人格を共有しているので中身は一人なのよ」

『……驚きました。けど、それが本当ならいろんな疑問に合点がいきます。本当にすごい。同一世界で二つの肉体を持ってるとか。まさに古今未曾有のビックリ人間ですね』

「二つの世界に跨る人に言われたくないんだけど……」

『桜井君、むこうで気絶したままなんですが。布団敷くので早く起きてください』

 瑞穂は困惑した。

「君みたいな常時接続じゃないんだよ。スイッチの切り替えが必要みたい」

『ふうん。難儀な仕組みですね。そのスイッチとは?』

 楓を躊躇いがちに一瞥。

「従姉はわたしにキスしたと言ってる。それがスイッチなのかどうか確信は持てないけれど」

 ヘリワードが笑いを噛み殺したのが電話越しにも分かった。

『なんらかの外的刺激がスイッチになるんだろうなと予想はしましたが。痛覚とか性感とか。おそらく君の内面の願望が表れてますね』

「まるでわたしが煩悩を持て余してるみたいに聞こえるんですが」

『煩悩を持て余すのはティーンエイジャーの任務であり特権ですよ。これは人類繁栄のための暗黙の了解です。かく言う僕も該当者で、あまり達観するのも鼻につくわけですが』

「わたしの願望はこの際関係ないでしょうに」

『まだ自覚が足りないみたいですが、君は世界の特異点なんですよ。君の願望は、世界を構成する量子のふるまいに干渉する可能性が高いのです』

「どこのラノベの設定だよ」

『まぁそうだったら面白いなという僕の願望でもあります』

 瑞穂は白旗を掲げた。

「もうこの話題はよそう。頭が痛くなってくる」

『じゃあそのスイッチとやらを入れますよ。してマリアンと白瀬さん、どちらのキスを御所望ですか?』

 返答に窮する。しかし、どうやら避けて通れぬ二者択一らしい。

「もうどっちでもいいよ、というと語弊があるかもしれないけど。どの道こっちは俎上の鯉で、お二人の情けに縋る立場なんだから。あまり苛めないでほしいな」

『非常事態ということで白瀬さんに頼んであげましょう。御安心を。彼女が嫌がったら僕がマリアンでしてさしあげますよ』



 結局どちらが大和のスイッチを入れたのか謎だった。密約の締結でもなされたのか、この件に関して雪乃もマリアンも口を噤んだからだ。気安く訊ける雰囲気でもなかったので、大和は真相を究明を断念せざるを得なかった。

 奥森までの道中は、雪乃による大和への尋問の場と化す。これまでの成り行きと大和の言動の整合性について説明を求められ、咄嗟に矛盾のないストーリーを捏造する芸当など持ち合わせていない大和は、桜井兄妹の人格共有の秘密を包み隠さず語った。風光明媚な車窓を楽しむどころではなく、まさしく針の筵である。

「大和君と瑞穂さんが同一人物だって? いや、同一人格か。俄かには信じ難いわね」

「元々は別個の人間だったんだ。二年前の交通事故で、突然俺の意識が瑞穂の体を遠隔操作できるようになっちまった。遠隔操作って言い方もしっくりこないな。今はもう完璧にこの人格共有状態に違和感がないというか、なじんでるというか、そんな感じ」

「私更衣室で瑞穂さんと一緒に着替えたりしたんだけど。ていうか先輩んとこに泊った時、瑞穂さんと同じ部屋で寝たよね」

「あうあう……面目ない」

「瑞穂さん、学校でしれっと女子トイレ使ってなかった?」

「ちょっと待った。それはさすがに不可抗力ってもんじゃないか。瑞穂の体は、解剖学的に紛れもなく女子だぞ」

 話題に飢えていたらしいマリアンが、火に油を注ぐ茶々を入れてきた。

「そういうのはいけませんねぇ、桜井君」

「どの口が言ってんだ。同じ穴の狢が。君だって中身はヘリワードじゃないか」

「僕的にはマリアンが本店のつもりです。ヘリワードは異世界支店」

「ずるい! じゃあ俺――わたしもそういう設定に」

 だが魔法の妙案は、この場の女子たちによってあえなく却下された。


 矢留から丸館まではJRを使い、丸館から第三セクター鉄道の奥森線へ乗り換えとなる。奥森線は字面の如くうらぶれたローカル鉄道で、撮り鉄、所謂鉄道撮影の愛好家たちが歓喜するロケーションの宝庫らしい。

「やはり雰囲気のいい街ですね。みちのくの小京都って言うんでしたっけ」

「本家の名声におんぶにだっこな二つ名だな」

 大和の迂闊な感想に眠っていた郷土愛がくすぐられたのか、雪乃が大和を睨んだ。

「私の地元を中傷するのはそこまでよ」

「人の故郷をディスリスペクトするのは感心しませんね」

 マリアンまで雪乃に加担して大和を責め始める。彼女らは馬が合うのか昨日から仲が良い。形勢不利を察して宥和策に出る。

「魅力的な街だってことに異論はないよ。しかし地元民の雪乃はともかく、マリアンまで随分この街が御贔屓みたいじゃないか」

「あれ、むこうの世界で言いませんでしたっけ? ヘリワードのグランマが日本人で、彼女の故郷が丸館なんですよ」

「そういやC組の担任がクォーターだとか言ってたな。じゃあ君のお祖母さんもそうなのか?」

「マリアンの祖母は、父方も母方もイングランド人です。系譜を辿れる範囲では生粋のアングロ・サクソンみたいなので、ヘリワードとはちょっと遺伝の系譜が異なりますね。まぁ中身は同一人格なわけですが」

「お互い変な境遇だな」衷心よりそう述べる。

「この件がめでたく大団円を迎えたら、ゆっくり丸館観光に来ましょう」

「いいね。もっともその場合、俺と雪乃はこの世界から消えるけどな」

「むこうでヘリワードがミズホッチをお誘いしますよ。英国仕込みのエスコートを教えてさしあげます」


 奥森駅から参道入口まで徒歩だと日が暮れそうな距離だったので、やむなくタクシーを使う。奥森神社の案内標識が見えたところで下車し、渓谷沿いの杣道にやや尻込みしつつ足を踏み入れる三人。

「この道でいいの?」

「私も久しぶりだからうろ覚えなんだけど、たぶんあってると思う」

 冷えると思ったら、ちらちらと白いものが舞い落ちてきた。

「やっぱり山の方は早いですね、雪。嵩張るけど防寒具持ってきて正解でした」

 途中、竹箒を持った老人と出くわす。寒風吹きすさぶ中、年寄りがこんな薄着で大丈夫なのかと余計な心配を催す軽装だった。なにしろ心筋梗塞は恐ろしい。あの鍛え上げた剣道家の祖父秋川吉右衛門すらも、あっさり彼岸へ連れ去ってしまったのだ。

「おいや珍しごど。御参詣だべが?」

「はい。まぁそんな感じです」

「そいまだ寒び中御苦労さんだごど。どれ、案内してやら」

 雪乃の動作が一瞬凝固したことに内心の動揺を透かし見、小声で知己かを尋ねた。雪乃は頷いて、「おじいちゃん」と一言。

「申し遅いだ。奥森神社宮司の白瀬だす」


「ここは随分山深いところですね」

 老宮司は話好きらしく、我が意を得たりと饒舌になった。

「この辺りは和賀山塊の端っこなるでよ。森の核心がなんとなってらのが誰も知らねえんだ。おらも時たま山菜どが茸採りに山さ入るども、とでも危ねして奥さだば行がいね。あの辺りさ分げ入るなはマタギの奴がだくれえのもんだべ」

 マタギは平安時代の昔から、東北や北海道の山岳地帯で伝統的な狩猟を行う猟師たちの集団と聞く。現代にも伝承者たちがいて、技法が脈々と受け継がれているというから驚きだ。

 老宮司の話によると、長年人を拒んできた険阻な和賀山塊だが、二十年ほど前にダム建設の話が持ち上がり、専門家による調査の手が入ったらしい。

「学者さんがだ、すこたまどでしたったで。世界でも比類ねぐ希少な植物相の原生林なんだど。学術的な重要性だば、白神山地さも引け取らねどや。んだがらよ、将来ユネスコ申請する酔狂者ででけば、世界遺産リストさ登録さいるがもしれねな。おらは反対だどもや。なまじ有名なれば観光客いっぺきて、山が荒れるでな。今のまま無名の秘境でひっそりほったらがしとぐのが一番いいあんだ。まんず、あの森の重要性どご理解さね行政どが業者がって、開発の手ぇ入るリスクはつぎまどうべども」

「ダム工事はどうなったんですか?」

「中止なっただよ。今のどごは役所と土建屋の良識さ乾杯だべ」

 マリアンが素直に称賛した。

「すごい健脚ですね。こんな険しそうな森、僕にはとてもとても」

「おらも一応マタギの末裔だでな。母方の祖父が腕扱きの熊撃ちだったんだ。戊辰戦争ん時だば、かの矢留藩士山口壮次郎の配下で手柄たでだどせ」

 老宮司は誇らしげに胸を張った。

 矢留藩は戊辰の役当時、奥羽越列藩同盟から離脱して新政府側に寝返る。当然ながら近隣諸侯の怒りを買い、矢留藩は同盟諸藩の標的となって領内全域が戦場となり、荒廃したそうな。戦国や関ヶ原から続く遺恨やら、佐幕と倒幕の内訌やら、家門存続の打算やら、当事者たちにはいろいろ言い分もあるのだろうから、後世の第三者としては特に言うべき事もない。おまけに大和と雪乃は異世界人でもあるので、何をかいわんや。

 ともあれ、老朽化した軍備と低迷する士気で窮地に陥った矢留藩。これを救ったのはマタギたちであったという。狩猟民が優れた狙撃兵となりうることは想像に難くない。商売柄深視力や動体視力に優れ、山野に潜伏するすべに長けている。かの冬戦争で、ソ連赤軍を震撼させたシモ・ヘイヘやスロ・コルッカといったフィンランド陸軍の伝説的スナイパーたちは、顕著な例証であろう。そんな精密狙撃の名手たちが数十人も戦場を跋扈しているのだから、会敵する側は堪ったものではない。

 しかしここでも、山口壮次郎氏が檜舞台に御登場か。むこうの世界では、正史はおろか野史にすら名前をとどめない謎の人物。転向の新参者など、明治新政府の中枢を占める硬骨な武士たちからすれば心証もよろしくあるまいに。しかるに冷遇されるどころか、並み居る薩長閥の巨星に伍して、元老の一人に数えられているときた。

 マリアンが大和の背をつついた。

「たった今、むこうでヘリワードの携帯に連絡が入りました。秋川さんたち、奥森神社に到着したようです」

「早いな。つか、瑞穂の体どうやって搬送したんだろう?」

「秋川さんのお父さんが車出してくれたみたいですね。何か伝言はありますか?」

 異世界間でリアルタイム通信が可能とは便利なことだ。

「そのまま待機するよう伝えてくれないか。何かある場合は、ヘリワードを介して連絡するからってさ」

「ラジャー」と敬礼の仕草。

 昨夜マリアンが主張したのだ。瑞穂の体も奥森神社に運んだ方がいいと。異世界間移動の際の道標、或いはアンカー的な効果を期待できるかもしれないとの理由からだった。科学的な根拠があるのかは疑わしかったが、なにせ知りうる範囲で唯一両世界に跨る人間の提案だ。無視はできまい。

「アンカーでも舫い綱でも呼称はイメージによるお好みでいいかと思うんですが、これ、けっこう重要な気がするんですよね。僕の場合はあの曲、『特異点協奏曲』がそう。両世界間で不安定にゆらいでいる僕みたいなやつを係留しておく、不可欠の要素です」

「なかなか説得力のある説だね。けっこうもっともらしく聞こえる」


 しばらく渓谷沿いの道を進むと枝道があり、近傍に苔むした標石が立っていた。奥森神社と彫られている。老宮司の先導で枝道に逸れ、すこし行くとうっすら雪化粧した鳥居が見えてきた。

「石段、落ぢ葉ど雪で滑らがらな。足元さ気ぃ付けでけれ」

 鬱蒼たる巨樹の森に伸びる一筋の石段。マリアンが唸った。

「僕は正直なところ、パワースポットとかいう与太話には懐疑的だったんですが。ここの森はさすがに霊験あらたかな感じがしますね。まぁ雰囲気に呑まれているだけかもしれませんが。桜井君はどうですか?」

 大和はデジャヴの絨毯爆撃に苛まれていた。いや、所々の光景が明瞭に記憶と合致するので、錯覚というわけでもなさそうだ。

「俺、ここ来たことあるな。小学生の頃。いや幼稚園の頃かな」



 参拝を終えたところで、怪しげなスポットの探索がてら境内の散策をすることとなった。

「世界間に開いた虫食い穴ねぇ。眉に唾つけて探すとするか」

「いかにもそれっぽいストーンサークルとかあって、空間がうねうね歪曲してたら分かりやすいんですけどね」

「いやいや、RPGじゃないんだから」

 白瀬宮司に呼び止められる。

「体冷えでらべ。社務所さおざってたんえ。お茶っこ上がってけれ」

 英国人のDNAが疼くのか、マリアンがお茶の一言に心惹かれた様子。お言葉に甘え、暖を取らせてもらうことにする。茶飲み話になにか有意義な情報を得られることを期待しつつ。

 社務所の玄関で不意打ちが待ち受けていた。凪いだ心の水面に拡がる波紋。交通事故で死去したはずの母、朋江がそこにいた。

「こんにちは。どうぞ上がって休んでいらして」

 母の懐かしい声に涙腺が決壊しそうになった。呼びかけようと喉元まで声が出かかったが、雪乃に先を越される。

「お母さん!」

 大和はつんのめった。お前さんの御母堂ではなかろう。朋江もまた面食らっている。

「私、蛍子です。ええとつまりね、この子の体に間借りしているの。信じられないかもしれないけれど……」

「なにを言っているの? あなた」

「やっと帰ってこれた。私の体、どこ?」

 時間が凍結したかのような沈黙が降りる。精神時計の針を押したのは白瀬宮司の言葉。

「朋江さん。案内してやればいいねが。このお嬢ちゃん、神憑ってら気ぃするんだ。おらも神職の端くれだで、感ずるごどあらぁ」

「まぁお義父さんがそうおっしゃるなら。ではどうぞこちらへ」


 雪景色の境内を通る渡殿を、朋江の案内で歩く一同。大和は雪乃の背に囁きかけた。

「君、量子さんなのか? 超展開に置いてけ堀なんだが。説明してもらえるとありがたい」

「取り乱してごめんなさい。母の顔を見た途端、記憶の断片が連鎖的に繋がりまして。バラバラだったパズルのピースが組み上がったとでも言いましょうか。居ても立ってもいられなくなって、つい雪乃さんを押し退けて出てきてしまいました」

「つまり記憶が戻ったんだ?」

 量子は頷いた。

「どうやら戻ったようですね。私の本当の名前は白瀬蛍子」

「あの人、君のおふくろさんじゃないだろう。あれは俺の死んだ母ちゃんだ」

「私のお母さんで間違いないですよ。察しがいい桜井君のことだから、とっくにお気付きかと思いましたが。私はつまり、桜井兄妹や白瀬雪乃さんの別の可能性だったわけです。遺伝的に言いますと、私はあなたの異父妹であり、雪乃さんの異母姉ということになりますね。むこうの世界ではあなたのお母さんと雪乃さんのお父さんに該当する二人が、こちらの世界では夫婦でして。二人の間に生まれたのが私――白瀬蛍子という次第です」

「なんだか、親の不倫を垣間見たようで複雑な気分だな」

「その見方はフェアじゃありませんね。むこうとこちらはよく似てはいますが、違う歴史を辿った別世界だもの」

「言われてみればそうだな。迂闊な発言だった。撤回してごめんなさいする」

 量子改め蛍子嬢の記憶が復活したことは喜ばしいが、疑問点は相も変わらず山積している。

「こちらの世界に所属する君が、なんだってまたあちらの世界所属の白瀬雪乃の中で、二重人格の一方を絶賛営業中なんだ? 経緯を知りたいな」

「私が子供の頃川で溺れた話をしましたよね、昨日。どうやらあの水難事故がきっかけで、世界と世界を隔てる壁的なものから意識だけが滲みだして、雪乃さんの体に漂着したんじゃないかな。私の想像ですが」

 意識だけの存在でお化けのようにふわふわ漂うことは、きっと自然界の摂理的に不都合があるのだろう。大和はそう思い込むことにした。

「おそらく雪乃さんは、私ととても波長が合うんでしょうね。姉妹みたいなものだし。宿木として最適だったということでは?」

「並行世界の間には壁が存在するんだ? そりゃすごい。ノーベル物理学賞ものの発見なんじゃね?」

「そんな真顔で返されても困りますが。むろん概念的なものにすぎません。ので、手で触れたり目で見たりできる代物ではないでしょう。もっとも、あなたやそこのマリアン・シャーウッドさんには、物理学のお約束も通用しそうにありませんし、あっさり壁なるものを発見したとしても驚きませんけれど」

「君の毒舌もうちの従姉張りに辛味が効いてきたね」

「失念されているようですが、楓さんは私の従姉でもあります」

 目的の部屋に着いたらしく、禅問答のようなやりとりをひとまず中断。

 通された和室は薄暗く、医療機器らしきものに囲まれたベッドがある。ベッドの上に横たわる痩せ細った少女。奔流のように駆け巡る記憶の欠片が精緻な組木細工のように組み上がり、ある情景を結んだ。

 水高祭のすこし前だったと思う。楓に付き合わされて『最果て遺跡オンライン』に興じていた時のことだ。ゲームのプレイ画面に取って代わり、モニターに突如映し出された奇妙なムービー。定点観測のライブカメラのような解像度の粗い映像。記憶の中のそれは、まさにこの和室だった。

「私の体だ……」

 ベッドの横に膝をついた量子が呟く。しばらく髪を撫でたり手を擦ったりしていたが、やがて困惑顔で振り返る。

「どうやったら体に戻れるんでしょうか?」

「いや、俺に訊かれても……」

「頭突きをしてみたら如何ですか。マンガの王道パターンよろしく、人格が入れ替わるかもしれません。もしくは、桜井君とミズホッチの切り替えスイッチに倣ってキスしてみるとか」

 マリアンが能天気に提案した。

「なんだ、君も知ってたのか? 量子さんのこと」

「ゆうべ白瀬さんから伺って、概要を把握しているつもりです」

「ふうん、頭突きにキスですか……」

 大和が止める間もなく、量子が蛍子本体にヘッドバット。そのまま頭を引き寄せて口づけ。凍りつく部屋。当の量子と指嗾したマリアンは、平気の平左で涼しい顔だったが。

「やはりそう短絡的に解決するもんじゃありませんね」

「ちょっと! うちの娘に何を――」

 激昂しかけた朋江が、白瀬宮司に掣肘される。彼女の怒りは分からなくもない。理解に苦しむ妄言を並べて病人の部屋へ押し入り、傍若無人な狼藉を働かれては、憤慨するなというほうが無理な相談だ。大和は恐懼の態でフォローの論陣を張りにかかる。とは言え連れの言動に弁護の余地は少なそうだったので、専ら朋江と白瀬宮司を宥め賺すことに比重を置いたものだったが。

「うーん。どこかでフラグを立てなきゃいけないんですかねぇ。もしくは何か不思議アイテムが必要なのかも」

「君はゲームの発想から離れる必要があるな、マリアン」

 大和が渋い表情でマリアンを窘めた。

「いえね、例の『最果て遺跡オンライン』に似たようなシチュエーションのクエストがあるんですよ。ひょっとしたらと思いまして」

「試みに訊くけど、どんな内容なんだ?」

「メインストーリー攻略上重要なノンプレイヤーキャラクターが、生霊の状態で彷徨ってるんですよ、ゲーム世界を。そのNPCの魂を肉体に帰還させるために、『運命神の護符』ってアイテムが必要になるんです。これって何か連想を喚起しませんか」

「陳腐と言ったら悪いけど、いかにもな設定だね」

「そこはそれ、売れ筋のファンタジーRPGですから」

 誘導されているような一抹の不審を覚えつつも、マリアンが目下構築中であろうストーリーに乗ってみる。高橋トヨに貰った奥森神社の御守りを懐中から取りだして、マリアンの鼻先に吊るした。

「これでも握らせてみるか? 君の御期待にそえる展開そうそうないとは思うが」

「そう馬鹿にしたものでもないですよ。現に昨日、その御守りの神通力を目の当たりにしたじゃありませんか」

 マリアンが御守りを受け取り、量子に渡す。

「これをどうすれば?」

「うーん、蛍子さんと御守り挿んで恋人繋ぎしてみるとか。そして祈る」

「神頼みかよ」

 大和は混ぜ返したが、量子は素直に実行に移す。口辺に微妙な皺を寄せていたので、その心境は推して知るべしであったが。

「まぁこんなんで安易に不思議現象が発動したら苦労はないんだが」

 大和の言葉も終わらぬうち、量子が倒れ伏す。唖然として顔を見交わす大和とマリアン。

「おい、過剰演出なら間に合ってるぞ」

 やおら目を開く蛍子。起き上がろうとして果たせず、首を傾けて大和に微笑みかけた。削げ落ちた頬を涙が伝う。

「どうやら戻れたみたい。本当に約束を守ってくれましたね」

 約束? 何のことだろうか。

「蛍子が喋った……」

「朋江さん、はえぐ診療所の先生さ連絡せ! んにゃ、救急車呼べ!」

 白瀬家の人々が色めき立つ。十年来意識不明で寝たきりだった娘が、目を覚まして言葉を発したのだ。身内の人々は平静でいられようはずもない。車椅子に乗せられる蛍子。

「待って、お祖父ちゃん。この人たちに話す事が」

 訣別の時が近いと察しているのか、かなり切迫した口調だった。

「拝殿向かって右手の鎮守の森に大きな杉の御神木があります。注連縄が巻かれていたと記憶していますので、すぐに分かるでしょう。皆さんお探しのワームホールは、たぶんそこです。十年前、川で溺れて臨死体験をした私の意識は、俗に言う幽体離脱ぽい状態で漂っていましたが、その御神木に吸い込まれましたので。バスタブから排水される残り湯の気分でした」

 これは遂に、この異世界冒険譚を終幕へと導く核心情報に辿り着いたと考えていいのだろうか。つまるところ、量子の記憶を回復せしめることが必要不可欠なミッションだったということになる。大和たちは紆余曲折を経つつも、正しい道程を経てきたのだと意を強くした。

「桜井君。長い間本当にありがとう。いろいろ迷惑をかけてごめんなさい。雪乃さんにもよろしくお伝えください。お二人が無事むこうに帰還されることを祈っています」

 つと大和は蛍子に袖を掴まれた。耳を貸してと囁くので顔を寄せる。辛うじて聞き取れるほどの小声でこう言われた。

「さようなら、兄さん。雪乃さんと仲良くね」



 救急隊が到着し、蛍子が担架で搬送されていく。俄かな喧騒に取り残される来訪組。客を放置したままなのはさすがに気が咎めたのか、白瀬宮司が戻ってきて言った。

「申す訳ね。お茶っこでもあがって、ねまってでけれ」

「いえ、お取り込み中のようですし、そろそろ失礼しようかと」

「すまねごど。どうやらおめはんがだ、孫の命の恩人みでんたで。是非ともまだ来てたんえ」

 再訪の機会があるにせよ、それはむこうの世界の奥森神社であることを願ってやまない。

 気を失っていた雪乃が目を覚ました。

「量子は?」

「どうやら自分の体に戻ったっぽい。体の調子どう?」

 しばらく考え込み、やがて慎重に言葉を選ぶ。

「ルームメイトが引っ越して、殺風景になった部屋にいるみたい。まぁルームシェアなんてしたことないんだけど。あのまま居座られても困るけど、黙っていなくなられるのもなんか迷惑」

 要約すると、量子がいなくなって寂しいということだろうか。それをオブラートに包んで指摘すると、案の定むくれてしまった。ツンデレ娘の面目躍如といったところか。

「そっか……帰れたのね、あの子」


 問題の御神木はすぐに見つかった。参拝の際には気にも留めなかったが、量子に吹き込まれたワームホール説の印象度も手伝ってか、鎮守の森の木々のなかでもひときわ異彩を放って見える。

「根元に樹洞かうさぎ穴でもあるのかな。貴国の某児童文学か、我が国の某アニメ映画みたいに」

「ヘリワードと混同されてるようですが、一応僕は日本人ですよ」

 御神木を一周したマリアンが言った。

「大きくて古い以外は、これといって変哲が見当たらないような気もしますが。でもきっと一筋縄ではいかない秘密があるんでしょうね」

「秘密はもうお腹いっぱいなんだけどな」

「またぞろ困った時の『最果て遺跡オンライン』でいってみます? このゲームって、どうも予言書ばりに僕たちの問題解決の暗示に富んでいると思うんですよね」

「ゲームの中に俺たちの指針があると仰る?」

 マリアンが頷いた。

「このゲームのシナリオライターが何者なのか興味は尽きませんが、ことによると並行世界の体験者なのかもしれませんね」

「まさか。俺らみたいなのがそうそういてたまるか」

「そうでしょうか。実例がまったく存在しないならいざ知らず、ここに三人いるじゃありませんか。他にもいると考えるのが自然では? 桜井君が言っていた高橋トヨさんだってそうじゃないですか」

 マリアンは、大和たちと出会った一昨日から考察していたのだという。

「並行世界が交錯した痕跡って、けっこう人知れず散在しているような気がするんですよ。例えば各地に残る神隠し伝説とか歴史上の著名人たちのドッペルゲンガーにまつわるエピソードって、そんな感じがしませんか?」

「そいつはいくらなんでも牽強付会ってもんじゃないか」

 反駁はしてみるものの、大和とて『最果て遺跡オンライン』のシナリオライターにはいろいろ問い詰めたい気分だった。他にも水高図書室や山口邸で見かけた本、『パワースポット《神社》~この世と異世界をつなぐ特異点~』の著者や、『特異点協奏曲』の作曲者リチャード・シャーウッド。知る人ぞ知る含蓄を鏤めたこれらの作者たちは、ことによると並行世界のよすがに触れて創作や著作の着想を得たのではあるまいか。そんな妄想にふと囚われる。

「時間もないし、世界の秘密はこの際脇に置いとこう。して、俺たちの黙示録にはなんて記述してあるんだい?」

「異世界へのワープを開放するクエストというのがありまして、このゲームの中でも高難易度のクエストになってるんですが、まぁ詳細は割愛します。これが僕たちの現状といろいろ符牒が一致するんですよね」

「前にうちの従姉に付き合わされてやったことあるな、それ。中ボスドロップのキーアイテムいろいろ集めるやつだろ? 確か『ドッペルゲンガーの肖像』と『運命神の護符』と『異界の紙幣』と『暗号の楽譜』だったっけ」

「おや、桜井君もプレイヤーでしたか」

 マリアンはゲームコンテンツと現状の類似性を滔々と語った。

「つまりこうだ、『最果て遺跡オンライン』に登場する四つのキーアイテムってのが暗示するものが一通り揃えば、ゲーム中の異世界ワープ解放よろしく、俺たちもむこうの世界に帰れると、こういう寸法なわけだ」

「そうです。試してみる価値があると思いませんか」

「時空の神様もまた、えらく諧謔精神旺盛だな」

 大和は放言してから、連れの二人が神社の孫娘と敬虔なクリスチャンであることに思い至り、口を噤んだ。

「僕の見るところ、四つのキーアイテムは既に揃っていますよ」

「『運命神の護符』はまぁ俺にも察しがつく。これだろ、奥森神社の御守り。『ドッペルゲンガーの肖像』はこいつかな?」

 古いポートレートを懐中から取り出してマリアンに示す。山口キヨから高橋トヨに渡すよう託された、幼い双子姉妹の写真。

「御明察。『暗号の楽譜』は順当に考えて、うちの高祖父の『特異点協奏曲』と予想します」

「前に瑞穂でヘリワードから聞いたんだけど、その曲にだけ意味深な副題が付いてるんだろ。君のひいひいおじいさん、一体何者なんだろうな。さながらシャーウッド・コードか。レオナルド・ダ・ヴィンチも真っ青だな」

 仄聞するところでは、戦時下の大英帝国で首班を務めた人物らしい。畢竟、暗号学にも造詣が深かったのかもしれない。

「となると、残る『異界の紙幣』は山口壮次郎氏の一万円札かねぇ。一昨日ファミレスで使って謎千円札に崩しちゃったけど」

「紙幣には違いないし、千円札でも構わないのでは?」

 雪乃が異論を唱えた。

「ちょっと待って。相対的にはむこうの世界が異界になるし、この場合は福澤諭吉さんじゃない?」

「俺の財布には逗留されてないな、福澤先生」

「私持ってる。仕送り下したばっかでよかった」

 マリアンの指摘通り樋口女史や野口博士でも支障はないのかもしれないが、小市民根性で高額紙幣により大きな御利益を期待してしまう。

「こうなってくると、一昨日不良たちから財布奪還しといて正解だったな」

「まさに予定調和な流れですね。桜井君的には面白くないでしょうが」

 大和は眉を顰めた。

「まるで俺が波乱を待望しているように聞こえるんだけど……どうも君は、俺の事を誤解しているようだ」

「そうですか? それは失礼を。でも桜井君て、正攻法より搦め手から攻めるのが好きなタイプですよね」

「よく見てるな。知り合って日も浅いのに」

 剣道に関して言えばそうかもしれない。幼少の頃から技量に優越な楓と相対せざるを得なかった結果でもあるし、例の火事場の馬鹿力開眼で、意図的に正攻法を封印した結果でもある。深く考えたことはなかったが、この志向が大和の性格形成に影を落としているのだろうか。

「まぁ俺が捻くれているのは認めるにやぶさかでないけれど、今は予定調和の完遂を切に願うよ」

 すなわち、大和と雪乃二人揃っての元の世界への無事な帰還を。

「それでは世界の神秘に迫る実験開始といきますか。ゲームでは、『暗号の楽譜』を吟遊詩人が独唱しないといけないんですが、これは僭越ながら僕が歌いましょう。音痴で恥ずかしいですけれど」

「偉大な音楽家の子孫が何言ってんの」

「音楽の資質が遺伝するとは限りませんよ」

 御神木の横にお誂え向きの台があった。神事などで御幣や三方や玉串を置くものと想像される。元は白木であったのだろうが、風雨にさらされ幾星霜を閲したものやら、灰色に煤けていた。

「ほら、ちょうどここにコンプリートしたキーアイテムを置けと言わんばかりの台がありますよ」

「そういうのって神社の祭祀に使うやつだろ。俺たちの茶番劇に持ち出したら、宮司さんに怒られるんじゃないか」

 茶番劇という言葉が口を衝いて出てくるあたり、やはり未だに懐疑的なのだろう。

「またそうやって斜に構える。君の悪癖ですねぇ」

「ほっといてくれ。雪乃、一万円札貸して」


 かくして御膳立ては整った。傍からは怪しげなカルト教団にでも見えるのだろうか。いささか自虐的な気分になったのも否めない。考えたら負けと強弁して思考停止に陥るのはいかにも簡単だが、一連の謎行動にせめて自分なりの意義を見いだそうと大和は頭を捻った。

「どうされました? 苦虫噛み潰したような顔して」

「いや、こんなことしてて本当に帰れるのかなと不安になってね」

「ここで水を差しますか。これからあなたたちのために歌わなきゃならない僕の立場は」

「ごめん。そんなつもりじゃないんだ」

 マリアンがしきりと大和を鼓舞しはじめた。

「いろんな人の教導で折角ここまで到達したんですから、もうすこし頑張りましょうよ。ここで舞台降板はもったいない。大丈夫、僕たちは世にも稀な特異点なんですから。もっと自信を持って」

「喜んでいいものやら嘆いていいものやら微妙だな」

「特異点たる三人の思い込みが極大化すれば、奇跡も成就するというものです。この一見無意味で非科学的なミッションも、そのために用意されたのかもしれません。極論すれば、僕たちを暗示に導く小道具ではないかと」

「誰によって?」

「奇特なパラレルワールドの見聞者によって」

「ここにも人間原理の敬虔な信徒が潜伏していたか。量子と話が合いそうだ」

 マリアンは請け負った。

「白瀬蛍子さんとはお友達になりたいです。折に触れて彼女の動静をお知らせするつもりですよ。あなたたちがむこうに帰還した後にね」

「そうしてやってくれ」

 マリアンのような友人がいれば、量子の社会復帰も捗ることだろう。

「すみません、ちょっと対応御留守なります」

 そう言って棒立ちになるマリアン。しばしの沈黙。

「秋川さんからヘリワードに電話がありました。こちらの状況問い合わせてきてます」

「姉さん痺れ切らしてそうだな。さっさとやることやるか」

 何事か思い付いたらしく、大和と雪乃に手を繋ぐよう指示するマリアン。従うと、地面に落ちていたみご縄で二人の手首あたりを縛り始めた。

「ええと、必要な措置なのかこれ?」

「これからお二人は古今東西のSF作家たちの永遠の夢、異世界ワープを実体験する……かもしれないわけですから、行程の途中ではぐれないようにと思いまして。別々の世界に飛ばされたら目も当てられませんし」

 僅かな言葉の停滞が、図らずもマリアンの内心を代弁していた。この期に及んで彼女もまた、一連の行為に確信を持ち得ずにいるのだろう。

「怖いこと言うなよ」

「寒いといけません。このマフラーも差し上げましょう。僕からの餞別です。さあ、照れてないでもっと寄り添って」

 されるがままマフラー二人巻きの一丁上がり。

「それでは『最果て遺跡オンライン』の異世界ワープ解放クエストになぞらえて、『特異点協奏曲』をハミングしてみましょう。拙いですが御清聴ください」

 マリアンが歌いだす。案にたがわず玲瓏たる美声。

 ゲーム同様に派手なエフェクトを撒き散らしつつ、異世界ワープとやらが発動する様を大和は想像した。しかし訪れた異変は幽かであり、有り体に言ってごく地味なものだった。ただ超常的な何かが起きていることは確実だ。

 マリアンの歌の遷移とともに視野が歪曲し、三半規管が悲鳴を上げる。飲酒経験のない大和には未知の感覚だが、酩酊するとこのような空間識失調に陥るのだろうか。

「なんてこった。本当に何か起こってるぞ」そう言ったつもりだったが、呂律が正しく回っていたかどうかは分からない。五感が急速に曖昧になりつつあった。



 目覚めた場所は病室だった。待ち構えていた医師の問診を半覚醒の頭で受ける。医師の説明によると、水道山の高架橋下、灌木の茂みの中で倒れていた大和と雪乃を、捜索活動中の警察が発見。二人は病院に搬送されたとのことだった。満身創痍ではあったものの、いずれも軽傷との自覚はある。しかし病院に駆け付けた恭太郎と梢のたっての希望で、MRI検査初体験という運びになった。大和は医療費の捻出を懸念したが、秋川夫妻にしてみれば大和は妹夫婦の忘れ形見であり、今や家族の一員だ。金に糸目を付けている場合ではないのだろう。これ以上輪禍で身内を失うわけにはいかないという彼らの強い意向を汲み取り、大和は口を噤む。毛細血管の末端まで精査され、命に別条はないとのお墨付きを頂戴すると、伯父夫婦はようやく胸を撫で下ろしたようだった。

 入院患者用のガウンを着せられた雪乃が、早速大和の病室にやってきた。手持ち無沙汰なのだろう。

「ここって本当に元の世界なのかな?」

 無理からぬことだが懐疑的になっている。しかしその疑問には確信を持って答えることができた。

「元の世界で間違いないと思う。今、瑞穂の体とリンクできるし」

「なるほど。そんな認証方法が。案外すんなり戻ってこれたね。なんだか拍子抜けするくらい」

「現実はこんなもんじゃないの」

 雪乃が堪えかねて吹き出した。貴重な笑顔を写真に撮ったら怒られるだろうか。埒もない考えが泡沫のように浮かんで消えた。奈辺が笑いのツボだったのか後学のため訊いてみると、非現実の権化のような大和がしたり顔で現実云々するのが可笑しかったらしい。

「ところで、そっち警察の事情聴取来た?」

「まだだけど。大和君の方には来たの?」

「うんにゃまだ。すり合わせでもしとく? いや、やっぱ余計なことはしないほういいかね」

 こちとら百パーセント被害者であることが明確なのだ。映画のシーンさながらに、防諜機関に摘発される敵国スパイのような理不尽なことにはなるまい。

「ともかく、並行世界を彷徨ってましたとか真顔で証言するわけにもいかないわね」

「そういやさっき楓姉さんから聞いたんだけど、今回の騒動の元凶のあいつら、逮捕されたらしいよ」

「あの茶髪とスキンヘッド?」

 頷く大和。あの事故の際、当たり屋グループの標的となった老夫婦の軽トラックには、高齢の両親を慮った長男氏によって、ドライブレコーダーが搭載されていたらしい。証拠映像が決め手となって不良連中は一網打尽になったという。

 異世界のドッペルゲンガーたちがやらかした狼藉の責まで彼らに問うのはアンフェアなことだ。それを頭で分かってはいるのだが、彼らと時空を跨いだ因縁を拵えてしまった大和としては、どうしても溜飲を下げてしまう。

「秋川先輩帰ったの?」

「お使いクエストで疲れたから、帰って寝るってさ」

 スイッチオフ状態の瑞穂を連れて奥森くんだりまで出張させられた挙句、大和と雪乃無事発見の報で矢留市に呼び戻されたのだ。「無駄骨折ったわ。貸しひとつね」と相変わらずの調子でぼやきを振り撒いてはいたものの、二人の帰還に安堵の色を隠しきれない様子だった。

「先輩いないならちょうどいいわ。大和君にちょっとその相談ていうか、話があるの」

 奥歯に物が挟まったような言い方。

「どうした?」

「量子、じゃない蛍子だっけ。彼女いなくなってから私の頭の中おかしなことになってて」

 よく厄介事を抱え込む娘だ。

「たぶん量子の記憶だと思うんだけど、私の意識では未体験の記憶がたくさん頭の中にあるの」

 どういった状況なのだろう。大和と瑞穂の五感刺激を、常時並行して知覚している桜井兄妹。それに類似しているのだろうか。

「安直な想像だけど」と前置きする雪乃。記憶領域の一部を占有していた量子がいなくなり、パーティションが取り払われたからではないかとの自説を開陳した。

「なんつうか……君もあれだな、特異点の異名に恥じない奇人変人ぶりだな」

「世にも奇妙な二重人間の人に言われたくないんですけど」

 そこで言葉を区切り、大和をまじまじと見る。

「量子、私の中からいなくなる頃に、もうほとんど記憶喪失から回復してたみたいで。これ、大和君に言っちゃっていいのかな? うーん」

「なんだよ、気になるな」

 気になるとリップサービスはしたものの、実のところ量子の記憶の内容とやらにさしたる興味はなかった。雪乃も然る者で、言外に滲む冷淡さを嗅ぎ付けたらしい。

「他人事みたいな顔してるわね。量子の物語の中じゃあなた、トリックスター的な配役になってるんだけど」

「そういや記憶喪失なのに、俺の名前何故か憶えてたな」

「大和君と量子、どこでどういう接点があったのか気にならない?」

 楓といい雪乃といい、剣道を嗜む女子というやつは、どうしてこうも心理戦に卓越しているのだろうか。それともこの二人が特殊なのか。

「ヘリワード君に頼めば、むこうの蛍子と連絡つくよね。個人情報開示してもいいか、ちょっと蛍子の了解とってみる。ヘリワード君いつまで日本にいるのかな?」

「さあ? 短期留学とか言ってたから、冬休みまではいるんじゃない?」



 検査入院中そんなやり取りがあったものの、学校に復帰してからしばらく、雪乃から音沙汰のない日が続いた。並行世界騒動からおよそひと月が過ぎ、大和も量子の件を忘れかけていた頃、「そろそろ例の懸案やっつけましょう」と雪乃が言ってきた。


 冬休みを目前に控えた十二月中旬。街はすっかり銀世界。起床がつらい季節の到来だ。

 瑞穂は早々に冬将軍に降伏し黒タイツを着用していたが、楓は頑強に生脚に靴下を通している。梢に小言を食らったところで、武士は食わねど高楊枝と譲らない。

「受験生が風邪ひいたらまずいんじゃない?」

「そんなやわな鍛え方してないよ。お祖父ちゃんのおかげでね」

 なんでも現役JKの称号に名残を惜しんでいるのだそうだ。

「だってあと三ヶ月ちょいでお別れじゃないの」

「留年という裏技がまだ残ってる」

「いや、そこまで拘泥してるわけじゃないんだけど。そんなことより白瀬ちゃんとの勝負はいつやるの?」

 相変わらず耳が早い。いや雪乃のことだ。真っ先に楓に報告したのかもしれない。

「部活忙しいみたいでさ。結局冬休み入ってからってことで、二十四日にやることになった。つうわけで当日、家の道場使うからね」

「クリスマスイヴ決戦か。どういうつもりかね、あの子。回りくどい告白なのかしらね、これって」

「本人に訊いてくれ」

 雪乃いわく、「量子からの伝言がある。大和君に剣道で立ち合ってほしい」とのこと。訳が分からず理由を尋ねても、「仕合えば分かる」の一点張りで要領を得ない。よもや拳で語れ的な熱血硬派理論にかぶれたわけでもあるまいに。

「この絶妙な非論理性。まさに青春だねぇ」

「部外者は気楽でいいな」

「まぁ付き合ったげなよ。そんでもって、終わったら晩御飯一緒に食べよ。母さんにクリスマスディナー一人分追加頼んどくわ。大和の彼女来るからってさ」

「梢伯母さん悪乗りしそうだからやめて」



 冬休み初日。ヘリワードが帰国するらしく、ホームステイ先の渡辺をはじめC組有志によって送別会が催された。瑞穂も女子連中に誘われて参加し、寄せ書きに当たり障りのない惜別の辞を一筆したためる。

「案外可愛い文字を書きますね、ミズホッチ。女の子っぽさに拍車がかかっています。まるで本物みたいに」

「そりゃどうも。本物みたいじゃなくて本物の女子だけどね」

「今日は来てくれてありがとうございます。帰国前に僕の方から秋川家に出向こうと思っていましたので、手間が省けました」

「家の場所分かるの? まぁ今の御時世、住所が分かればネットの地図検索で一発か」

「むこうの世界の話ですが、マリアンでは何度もお邪魔しているんですよ。うちの父レオフリックは、秋川吉右衛門先生の弟子になりますので」

「そうだった。むこうじゃうちの祖父さんもまだ健在なんだよね。元気にしてるかな」

「元気なんてもんじゃありません。つい先日も、むこうの父が連れて行った大学の剣道部員たちに、稽古をつけてましたよ。まさに超人ですね」

「なんか、四ヶ月たつの早いよね。ついこないだ知り合ったと思ったのに」

「新年まで日本に滞在するつもりだったんですが、ヨークシャーの家族がクリスマスには帰って来いとうるさくて」

 瑞穂は得心した。英国はキリスト教圏の主要国の一つ。宗教色をなおざりにした日本人の商業イベント的クリスマスとは、根本的にスタンスが異なるのだろうと想像する。

「どちらかというと君たちと初詣に行きたかったな。まぁ僕は異世界で日本人をロールプレイ中ですし、お正月は毎年楽しめるわけですが」

「大和と雪乃が無事に戻ってこれたのは君のおかげだわ。君がいなかったらと考えるとぞっとする」

「まぁこれも巡り合わせでしょう。ところで――」

 ヘリワードが苦笑した。

「僕は君の正体知っていますから、猫かぶって女の子演じる必要ありませんよ」

「ヘリワードこそ妙な抑揚の日本語やめなよ。マリアンは発音完璧だったじゃん。わたしのはね、瑞穂の体に意識が降臨すると自然とこうなるのよ。誰かさんの所為で体に染みついたんだろうね」

「なるほど。むこうのほうですが、白瀬蛍子さんは元気ですよ。リハビリ頑張ってるみたいです。時々メールで近況をお知らせします」

 差しだされた手を握る。

「元気でね」

「貯金が貯まったらまた遊びに来ます。いずれ大学も日本に留学しようかと。まだ遣り残したこともありますし」

「遣り残したこと?」

「ミズホッチとデートしていません。桜井君は雪乃さんに譲るとして、ミズホッチは是非僕と」

 瑞穂はあかんべえで返答に代えた。



 十二月二十四日がやってきた。折からのクリスマス寒波でこの冬一番の冷え込みとなり、昼頃から粉雪が舞っている。

「御誂え向きに雪か。御丁寧なこって」

 大和のぼやき節も心なしか悴んでいるかのようだ。

「なにが御誂え向きなの?」

「いやね、時代劇で雪とか桜吹雪って決闘シーンの背景で定番じゃん。赤穂浪士の討ち入りとかさ」

「ああ。それ『仮名手本忠臣蔵』の脚色らしいよ。日本人の琴線に触れやすい要素なんだろうねぇ、雪と桜」

 祖父吉右衛門の影響で、時代物の知識にはやたら明るい楓が指摘した。

「地の利はあんたにありそうだけど、属性ボーナスは白瀬ちゃんに軍配が上がりそうね」

「属性ボーナス?」

「あんたは桜井大和で春属性。あの子は白瀬雪乃で冬属性でしょ。今日の天気は雪じゃない」

「どこのRPGのルールだよ」


 しんしんと雪の降りしきる夕方。白瀬雪乃の訪いを告げる呼び鈴が鳴った。

「ごめんね。我儘きいてもらって」

 玄関先でマフラーや竹刀袋、防具袋に積もった雪を払う雪乃。大和は見覚えのあるマフラーに注目した。

「そのマフラー、こっちの世界に持ってこれたのか。愛用してるんだ?」

「ああこれ。マリアンさんの餞別だしね」

 異世界由来の品なので、広義にはこれもオーパーツの一種と呼んでいいのだろうか。

「まぁいいや。冷えてきたし、さっさと用件済まそう。楓姉さんに審判頼む?」

「いい。勝ち負け決めたいわけじゃないもの。あくまでも大和君に量子の記憶を思い出してもらうことが今回の眼目だし」

「あの子の記憶とやらがそんなに重要なことなのか。いまいち俺にはピンとこないんだが」

「これはヘリワード君経由で蛍子が言ってたことなんだけど、大和君て妙に勘が鋭いから、今の私と剣道すれば何か気付くかもって言うのよ」

「なんだか掴みどころのない話だな。どうぞ上がって。道場行こう。更衣室とかないから納戸で着替えてもらっていい? 悪いけど暖房ないよ」

 なにしろ秋川家の剣道場は古い。隙間風も吹き放題で、冬期間など雪蛇が板張りの上に蟠踞していることすらある。

「平気。寒いのはわりと耐性高めなの、私」

 楓が語っていた属性云々ではないが、名は体を表すということか。


 案の定、道場の床には白粉をまぶしたような雪溜まりがいくつかあり、大和は客人のために雑巾掛けをしなければならなかった。まあ体を温めるには丁度いい。

「おまたせ」

 振り返るとそこに雪乃。水高剣道部女子の純白の稽古着袴に漆黒の防具。凛然という形容がかくも似つかわしい女子高生というのも珍しいのではないだろうか。袴の膝辺りには床との摩擦で穿たれたいくつもの穴。存外しごかれているようだ。

 大和はふと、雪乃のこの姿に御目にかかるのは初めてであることに気が付いた。なにしろ剣道部へ強制連行される恐れがあるため、楓の勢力圏である格技場へは極力近寄らないようにしている。

「俺でいいのか? なんなら瑞穂でお相手するけど」

「大和君じゃないと意味がない」

 漫然と丁々発止を展開するのも締まりがないので、三本勝負の形式を取ることにした。

「じゃあ、やろうか」

「うん」

 素振りと切り返しで程よく体が温まったところで試合開始。立礼ののち帯刀。三歩進んで抜刀し、蹲踞。開始を告げる審判はいないので、互いに呼吸を合わせて立つ。

 大和は御手並み拝見とばかりに下段の構えを取った。故祖父が県警の熊親爺たちに稽古をつける際、よく下段に構える姿を思い出したのだ。かの宮本武蔵の肖像画を彷彿とさせる悠揚迫らぬ風格に、これこそ金城湯池の防御の理想形に違いないと思い込んでいた。が、慣れないことはするものではない。たかだか剣道歴十年余のひよっこが、修行八十年になんなんとする達人の剣道を模倣すること自体、無理があると言わざるを得ない。

 果たして竹刀の俯角が最適の隙を提供することとなり、雪乃の巻き上げに竹刀を絡め取られてしまう。籠手で空しく面と胴を庇ったが、がら空きの逆胴を決められた。天井にこだまする乾いた音。逆胴の有効判定は特にシビアと言われ一本取るのは至難だったが、これは竹刀を真剣に模擬した場合、左胴が鞘で防御されるという剣術の歴史的経緯があるためらしい。

「やられた」

「今の、入った?」

「うん。大抵の審判が旗掲げると思う」

 どの打突であれ、雪乃から後の先を取る自信はあった。しかし、まさか竹刀を狙われるとは迂闊。いや、雪乃を称賛するべきか。おそらく偶然の産物ではない。技としてしっかりと昇華されている。それほどの切れと冴え。

 巻き技など食らったのはいつ以来だろう。あれはそう、御褒美の玩具につられて出場した地域の錬成大会で、妹に手痛い敗北を喫した時だ。大和は懐かしい記憶に囚われた。かつて瑞穂が剣道マンガに触発され、巻き技に凝っていたことがある。動機は至って悪戯っ子らしく、楓や大和に一泡吹かせたいというものだったらしい。巻き技の秘訣を伝授するよう祖父にせがむと、孫たちの中でもとりわけ瑞穂に甘かった吉右衛門はその意気やよしと相好を崩し、こともあろうに小学校低学年の女児に巻き技の極意を教え込んだのだ。

 あの試合巧者の楓をして、「瑞穂の巻き技だけは防ぎようがない」と言わしめたのだからたいしたものだ。

 伯父恭太郎によると、吉右衛門は崩し技の名手であったらしい。大和には小難しい理屈など理解しかねたが、なんでも柔道の嘉納治五郎師範の八方の崩しに着想を得て、大袈裟に言えば剣道の新境地を切り拓くほどの成果を得たという話だ。もっともその蘊奥は後進に伝えられることもなく、本人が墓場へと持って行ってしまったが。今頃草葉の陰で「しまった」と頭を掻いているに違いない。

 けだし唯一の例外が、吉右衛門流の巻き技を手取り足取り指導された瑞穂ということになるのだが、肝心の正統継承者殿の魂はどこを彷徨っているのやら。剣道の神様がた、鹿島大明神と香取大明神もこの顛末には、「祖父と孫で何をやっとるか」と苦笑いなさっていることだろう。

「巻き技得意なの?」

「量子の直伝。いっぱい練習したけどね」

「あの子も剣道やってたのか」

 考えてみると、量子こと白瀬蛍子もまた秋川吉右衛門の孫になるのだ。剣道を齧っていても不思議ではないが。しかし彼女は十年来魂の抜け殻状態で、意識は雪乃の中にいたという。いつこんな高度な技を会得したのだろう。

「まさか開始早々、大和君相手にこんな綺麗に決まると思わなかった。自分でもびっくり」

「俺なんて所詮こんなもんだよ」

 大和は自分の剣道が井の中の蛙であることを自覚している。なにしろ稽古相手といえば楓か自分の分身である瑞穂しかいない。したがって剣道界の動向には疎かったが、ネットや楓から得た情報の感触では、武士道的精神論の影響か、巻き上げや巻き落としを定石に悖ると見做す指導者が多いような印象を受けた。そんなわけで巻き技の使い手と呼べる人間は、残念ながら非常に少数派なのではないだろうか。

 雪乃が何故か真剣な声色で訊いてきた。

「大和君の身近に巻き技の使い手いないの?」

「妹が得意技にしてたな。中身俺の瑞穂じゃなく、オリジナル瑞穂のほうね」

「ふうん……そうなんだ」

「さて。二本目お願いしますかね」


 二本目は剣先の触れ合わない遠い間合いから面を決め、大和が取った。雪乃もさすがに驚き呆れる。

「この間合いから面打てるなんて。インハイでもそんな人いなかったよ」

「竹刀触れ合う間合いだと、君に竹刀吹っ飛ばされちゃうからな」

 身体能力に物を言わせたアウトレンジ戦法はアンフェアなこと。まして相手は女子――これは試合開始前の忌憚のない大和の考えだった。武道を嗜む者にあるまじき慢心だが、雪乃の実力を侮っていたことによる。しかし、今や完全に認識を改めた。瑞穂によく似た竹刀捌きから繰り出される変幻自在の巻き技。この恐るべきアドバンテージを有する相手を、この上どうして見くびれようか。


 三本目。遠い間合いは雪乃が大和の跳躍力を警戒し、通常の間合いは大和が雪乃の巻き技を警戒する展開。浅い打突の応酬ののち、自然と鍔迫り合いに縺れ込む。密着することでさしあたり巻き技は封じた。雪乃の防御を崩す算段をしていたところ、雪乃が先に仕掛けてきた。中心線の復元を逆手に取った巻き落とし。よもや鍔迫り合いの窮屈な体勢から巻き技を繰り出してくることはあるまいと高を括っていたが、刮目すべきは雪乃の入神の手首捌きと、相手の呼吸の機微を読む巧みさだった。竹刀を取り落とすことは辛うじて免れたが、鮮やかな引き面を食らう。そして盤石の残心。


 面をはずし、互いに深々と座礼。静まり返った道場に稽古着の衣擦れの音だけが響いた。気温はおそらく氷点下のはずだが、体の芯がやたら火照っていて熱い。格闘アニメのキャラクターたちが纏う闘気オーラばりに、大和と雪乃の体から湯気が立ちのぼっていた。滴る汗を手ぬぐいで拭う。

「完敗だな。おみそれしました。剣道やって面白かったの久々だよ」

「大和君に勝てて素直に嬉しい。けどこれが私の実力によるものかと言われると、疑問符がつくんだけど」

「なんで? 巻き技完璧に自分のものにしてたじゃん」

「あれは九割方量子の功績だから。記憶の中に量子の感覚がそっくりそのまま残ってて、私はその虎の巻を丹念になぞっただけ。言うなれば劣化コピーね」

「量子さんはいつ覚えたんだろうな、巻き技。彼女の波瀾万丈の経歴からして、剣道なんぞやってる暇なかっただろうに」

「秋川吉右衛門先生に伝授されたらしいわ。瑞穂さんの中にいる頃にね」

 理解が追い付かず、鸚鵡返しに訊いた。

「なんだって? 今なんつったの? 瑞穂の中にいる頃?」

 雪乃が気息を整えた。

「量子が言ってたよ。『兄さん昔から察しのいい人だから、たぶんなにか直感すると思うんですよ。でも何も感付かないようなら、まぁ雪乃さんの判断に任せます。事実を伝えるもよし、そのまま黙っているもよし』一任された私としては、真相の暴露を選択させてもらうわ。あの子、四歳の頃から十四歳で交通事故に遭うまでの十年間、あなたの妹やってたの」

 大和は唸った。

「また突拍子もないことを……」

「さっき量子の経歴がどうとか言ったよね。けれど大和君、あの子の経歴の全貌を把握してるわけじゃないでしょう。私は全部知ってるよ。だって先月量子と袂を分かつまでの記憶を、今共有してるんだもの。量子の置き土産でね」


 雪乃が大和に語り聞かせた量子の詳細な経歴はこうだ。

 むこうの世界で平穏に暮らしていた白瀬蛍子四歳。ところがある時川で溺れ意識不明に。気が付いた時にはこちらの世界におり、白瀬雪乃の二重人格の一方として雪乃と共生状態になる。雪乃はたまたま父方の祖父の家、つまり奥森神社に遊びに来ていて憑依されたもよう。どうしたものか途方に暮れていた蛍子。折しも神社参詣にやってきた同年代の双子らしき兄妹と邂逅する。双子の兄――風呂敷マントに新聞紙を丸めた剣を装備した洟垂れ小僧が不思議そうに言った。

「おまえ、カラダがひとつなのにココロがふたつあるのか。ふうん、じゃあオレとはんたいだな。オレはカラダがふたつあってココロがひとつなんだぜ」

「カラダがふたつにココロがひとつ?」

 首をかしげる蛍子に双子の妹が言った。

「こっちがもうひとつのカラダ。ふたりにみえるけど、ココロがつながってるからじつはひとりなんだ」

「カラダがふたつあるなんてすごい。ふたごってみんなそうなの?」

「よくしらないけど、たぶんそうなんじゃない」

 双子は太平楽に請け合った。

「あたしはこのこのカラダをかりてるの。ほんとうのカラダがどこかにあるはずなんだけど。きっと、ソイカワでみずあそびしてるときにおっことしちゃったんだ」

「カラダっておっこちるものなのか……もちろんしってるけどな! さらいねんにはしょうがっこうにはいるし。そうだ、おまえのカラダみつかるまで、オレのカラダひとつかしてやろうか?」

「え? いいの?」

「カラダひとつにココロふたつじゃきゅうくつだろ。オレもカラダふたつうごかすのつかれちゃったからね。まぁタダじゃだめだけどな。レンタルってのはおかねがかかるんだって、うちのかあちゃんいってた」

「いくらなの?」

「そうだな、いちまんえんでどう?」

「そんないっぱいおかねもってないよ」

「いまじゃなくてもいいよ。おとなになってからでいい。しゅっせばらいっていうんだって、こういうの」

 蛍子は疑問を呈した。

「でもどうやってそのこのカラダにはいればいいの?」

「アタマとアタマをごっつんこするのさ。まえにテレビでやってた」

「すごいね。あなたてんさいかも」

「これくらいじょうしきさ。なんたってオレはさらいねんからしょうがくせいだからな!」

 双子の兄は得意そうにふんぞり返った。その男の子の提言通り実行してみると、如何なる物理現象が起きたものやら極めて謎だが、蛍子の意識は確かに双子の妹の体に憑依していた。

「これでほんとうにカラダかりられちゃうんだ……」

「な。オレのいったとおりだろ? きょうからおまえはオレのいもうとのミズホだ。オレのことにいちゃんとよぶんだぞ」

「うん。わかった。にいちゃん」

「いちまんえん、わすれるなよ」

 そんな経緯で白瀬蛍子の意識は桜井瑞穂の肉体を借り受け、桜井大和の妹として横浜で生活することとなる。まだ幼かった故か新しい環境にもすぐに適応し、もうこのまま一生涯瑞穂として生きていくのも悪くない、むしろそれがあるべき自然な成り行きだと思い始めていた頃、あの奇禍が起きるのだ。

 双子が中学二年時の夏休み、母方の実家への帰省途次のこと。交通事故で重傷を負った瑞穂の体からふたたび放り出された蛍子の意識。この時点で大和の名前と、彼に対する一万円の負債の件以外の記憶を喪失し、ふたたび覚醒した時には、白瀬雪乃の中で二重人格の一方に戻っていた次第だ。仮名量子となった蛍子の推論では、憑依の前歴があって霊的な波長の勝手知ったる雪乃の肉体に、緊急避難したのではないかとのこと。これまた如何なる物理作用なものやら頗る謎であったが。


「……つまり俺はもともと、二重人間状態がデフォルトということか。特異点とやらの面目躍如だな」

 そうなると双子の妹、生来のオリジナル瑞穂の人格というものは初めから存在しなかったことになる。

「それがそもそもの誤解のスタートじゃないかしら。量子が言うにはね、あの交通事故で記憶喪失になったのは自分だけじゃなくて、兄さんもなんじゃないかって。そう考えると、いろいろ辻褄が合うんじゃないの」

「頭をごっつんこして体をレンタルとか、どこのマンガの世界だよ……我ながらとんでもないガキだ」

「幼稚園児なんてそんなもんじゃないの」

「風呂敷マントに新聞紙の剣を装備して、そこいら闊歩するとかありえん」

「鍋の兜かぶってたらパーフェクトだったわね。まぁかく言う私だってその時分は、誕生日プレゼントの魔法少女ステッキを片手に、珍妙な呪文唱えて御近所のし歩いてたわ」

「クールビューティと名高い君にもそんな黒歴史があったとはな」

 大和と雪乃は顔を見合わせて破顔した。

「途轍もない話で俄かには信じ難いけど、確かに整合性はあるような気がする。例えば瑞穂と雪乃の金槌体質だ」

 冷静に考えてみると、ある日突然水恐怖症を発症して泳げなくなるというのも妙に不自然だ。量子の憑依時期と重ね合わせると説明も容易には違いない。

「あと、嗜好も似通ってたな。瑞穂は紅茶好きだったし、君も量子さんも紅茶党だと聞いてる。今更だけど、秘密を解き明かすヒントは日常のあちこちに鏤められていたわけだ。観察眼の貧弱な俺には、ちと難易度高いクエストだったけれども」

 雪乃が立ち上がった。

「さてと。用件も済んだしそろそろお暇するね」

「お風呂沸いてるから汗流してってよ。ついでといったら語弊があるけど、雪乃の分も晩飯用意してるらしいから是非食べていって。このまま君を帰したら、楓姉さんにどやされる」

「相変わらずね。じゃあ仕方ないから大和君の顔立ててあげる」

 どやされるかはさておき、敗戦を揶揄されるのは既定路線だろう。楓も試合してみればいいのだ。受験勉強漬けで体の鈍った今の楓と、伝家の宝刀を手に入れた現在の雪乃ならば、いい勝負になりそうだ。番狂わせもおおいにありうる。

 泉下の祖父よ嘉し給えだ。いささかイレギュラーながらも、あなたの技の継承者は確乎不抜としてここにいる。後で仏壇に線香をあげて報告してやろうと、大和はいつになく殊勝な気分で考えた。



「今日はごちそうさまでした」

「吹雪いてきたし今晩は泊っていったら? いくら剣道部員たって、女の子の夜道の一人歩きは心配だわ。最近物騒だしねぇ」

 梢の慫慂を軽くあしらうわけにもいかず、困り顔の雪乃。楓が横から後輩を援護射撃。

「母さん。白瀬ちゃん泉台の親戚んとこに下宿してるんだけど、実家の親御さんの要請で門限厳しくなったらしいのよ。先月あんな事故に巻き込まれたばかりだから無理もないけど」

「じゃあせめて車で送らせてちょうだい。でも、お父さん晩酌しちゃったわね。今タクシー呼ぶから」

「あ、おかまいなく。携帯で呼びますので」

 梢が電話をかけに居間に戻ったところで、楓が雪乃をからかった。

「クリスマスイヴに彼氏ん家で外泊はお預けだね」

「私には無縁の世界です。てゆうか、先輩がまず率先して後輩に範を垂れてくださいよ」

「あいた、こりゃ藪蛇だ。お姉さんは撤退するのであとよろしく。さぁ勉強勉強」

 すれ違いざま楓に尻を叩かれた。

「丸館の実家にはいつ帰るの?」

「明日。年明けの寒稽古まで部活も休み入るしね。ヘリワード君の言い草じゃないけど、うちも親が早く帰ってこいってうるさくて」

 聞くところによると雪乃は一人娘らしい。あの事故を経て、御両親の心中では箱入り指数も飛躍的に増大していそうだ。

「大和君、初詣の予定とか、ある?」

「個人的には炬燵蜜柑でだらだらごろごろ寝正月を決め込みたいけど。まぁ無理だろうな」

 なにせ泣く子も黙る受験生様がおいであそばす。

「地元の湊神社で楓姉さんの合格祈願かね。寒いとごねようが眠いとあがこうが、露払いに同行させられる運命さ」

「私は奥森神社に行くつもり。例年だと実家近くの丸館新明社に行くんだけど、今年は思うところあって」

「雪乃の祖父さん家だもんな。ひょっとして巫女さんのアルバイトとかやるの?」

 雪乃はかぶりを振った。

「大和君も見たでしょ。あの山奥に、そんなバイトが必要なほど初詣客なんてこないよ」

 やや逡巡する様子をみせてから、伏し目がちに言葉を継いだ。

「もしよかったら、一緒にどうかな、なんて」

「そうか。いいよ」

「……いいの? 先輩の露払いは?」

「お忘れか? 俺にはふたつの体があるんだ。ってことで瑞穂を姉さんの方に派遣する。大和は雪乃の御供をしようじゃないか」

 雪乃は脱力し、やがて笑い始めた。はて、今の大和の発言に、この娘の堅牢なポーカーフェイスを打破するほどの面白要素はなかったはずだが。助言を囁いてくれそうな楓は既に家の中。大和は己の直感の告げるまま、かなりおっかなびっくりではあったが雪乃の手を握り締めた。



 奥森神社。巨樹の森の奥にひっそりと佇む古い神社。思えばあの場所を起点に、多くの人々の運命が交錯した。縁結びの神様とはいみじくも言ったものだ。そこは人と人のみならず、世界と世界を結び合わせる摩訶不思議な場所なのだから。

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パラレル・クエスト けさゆめ @kesayume

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