第三章 秋


 夏休みが終わり、登校初日から普通に通常授業が始まった。水高は二学期制のため、始業式は十月の秋休み明けになる。日々のルーチンを淡々とこなしていく平穏かつ退屈な日常が戻ってきたわけだが、ひとつだけ特筆すべき変化があった。

 瑞穂のクラス担任が、朝のホームルームで外国人の青年を伴って教壇に立った。どよめきが伝播する。青年は詰襟の学生服を着ていた。外国人の詰襟姿を見慣れていないせいか、どことなく戯曲の登場人物めいて見える。襟章やボタンが水丘高校のものだった。転校生だろうか。

「あー静粛に。留学生を紹介する。イギリスから来た、ヘリワード・シャーウッド君だ。四ヶ月間の短い間だが、諸君と一緒に学校生活を送ることになる。よろしく頼む」

 クラス担任がヘリワードに挨拶を促した。

「ヘリワード・シャーウッドです。イギリスのヨークシャーというところから来ました。日本文化にとても興味があります。音楽、歴史、文学。もちろん和食も大好きです。滞在中、これらの見聞を広めたいと考えております。よろしくお願いします」

 本場英語による演説がぶたれるかと身構えた生徒たちも多かったようだが、ヘリワードの挨拶は流暢な日本語によるものだった。時たま発音や抑揚が奇天烈なのは御愛嬌であろう。

 担任が補遺を述べた。

「ヘリワード君のお祖母さんは日本人なのだそうだ。彼はクォーターというわけだな。御覧の通り日本語にも堪能で、日常会話に支障はない。渡辺の家にホームステイしている。みんな仲良くしてやってくれ」

 街を歩けば高確率で外国人のビジネスマンや観光客に出くわす横浜あたりと違い、矢留界隈では外国人を見かけることも非常に稀だ。モデルの卵のような端整な顔立ちも手伝ってか、ヘリワードへの興味が燎原の火のように拡がった。

 瑞穂もまた抑えがたい関心を彼に寄せている最中だった。方向性はおそらくクラスメイトたちと違ったが。

 御所山のショッピングモールで、瞠目すべきピアノ演奏を披露していた彼に間違いない。アンコールに応えて弾いていた印象に残るバラード、イギリスからの留学生、シャーウッドという風変わりなファミリーネーム――それらの断片が、唐突に新たな思索の回路を形成した。忘却の深淵に沈んだ記憶の砂を浚渫する。

 以前、翔子の曾祖母に見せられたオルゴール。あの古ぼけたオルゴールに記録された、リチャード・シャーウッドなる人物作の曲と同じ曲だ。しかしトヨの話を真に受けるならば、あれは異世界由来の品ということになるのだが。

 物思いに耽溺していたところ、いきなり後ろから声をかけられ飛び上がる。

「こんにちは。また会いましたね。この学校の生徒さんだったんだ」

 瑞穂のことを憶えていたらしい。あの人出の中、ほんの一瞬目が合っただけなのに。

「こんにちは。随分日本贔屓なんですね」

「グランマの祖国ですから」

 ホームルームが散会になった後、瑞穂は意を決して訊いてみた。

「リチャード・シャーウッドさんて御存知? あなたの御親戚かなにか?」

 ヘリワードは驚いた顔をした。

「何故君がその名を知っていますか」

「えーと、簡潔に説明する自信がないんですが」

「リチャードは、僕のグランパのグランパですね。日本語で言うと高祖父ですか」

「ひいひいおじいさんか。つか、難しい言葉を御存知で。日本人もあまり使いませんよ」

「グランマが愛読していた夏目漱石や森鴎外が、僕の日本語の教科書でしたので」

 初めのうちは辞書片手に格闘して、一冊読破するのに半年近くかかったらしい。語彙の引き出しが増えるにつれ、本を措く能わずという状態になり、片端から濫読していったという。

「教材に不自由することはありませんでした。家の本棚には、日本語の原書が山積みでしたから」

 ヘリワードいわく、彼が嗜好してやまない魅惑の楽園には、日本語という難攻不落の城壁があった。生粋のネイティブスピーカーたる瑞穂にはもうひとつピンとこないのだが、日本語の厄介さたるや、他国語習得に長じた欧州人でも手を焼くほどのものらしい。時々奇特な翻訳者が城門を開けてくれるが、なかなか奥地まで見霽かすことは出来ない。日本語の習得は、越境を渇望する旅行者が通行手形を手にしたようなもので、彼が欣喜雀躍したのも想像に難くない。

「夏目漱石と森鴎外は僕の恩師ですね。今のところ世界での評価はまだまだ不遇ですが、もう何世紀か閲すると、シェイクスピアやゲーテと肩を並べるかもしれません。彼らにはその資格があると、僕は考えています」

 我が国の文豪たちを高く買っていただき痛快の至りだが、なにしろ日本文化礼賛論者の意見なので、割り引いて聞く必要があるのだろうか。ヘリワードの人となりがまだ分からないため、何とも言えない。リップサービスかもしれないし、イギリス流の皮肉かもしれない。

 それにしても近代日本文学の双璧たる御両所は、ともに没後百年に届こうかというのに、著作を通じて後世の外国に影響を及ぼすのか。ペンは剣よりも強しとはいみじくも言ったものだ。

 ヘリワードについては、担任の紹介にあったように、日常会話に支障がないどころの騒ぎではない気がする。彼ならば、百戦錬磨の論客とでも日本語でやりあえるのではあるまいか。楓といい勝負かもしれない。日本人と交す日本語の会話がよほど愉快であるとみえ、話題がいささか脱線気味なのが玉に瑕だが。瑞穂はさり気なく水を向け、軌道修正を図ってやった。

「それで、件のリチャードさんのことなんですが」

「そう、その高祖父も轗軻数奇なことにかけては人後に落ちません。子孫の僕が言うのも手前みそなんですが」

 リチャードはあまたのイギリス首相を輩出した名門、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに学んだ秀才らしい。イギリス政界での将来を嘱望されていたのだが、本人は音楽家志望であったため、一門の紳士たちと激しく対立する。半ば厄介払いのような形で第一次世界大戦に従軍させられ、帰らぬ人になったという。

「夏休みにあった時、御所山のモールでピアノ弾いてたよね。最後に弾いたあの曲、なんていうの? イベントの司会者が、あなたのオリジナルって紹介してたけど」

 立て続けの瀬踏みに、さすがに刮目せざるをえなかったようだ。

「高祖父の名前のみならず、あの曲のことまで御存知なのですか。君はいったい何者なんです?」

「何者と言われましても」

 ヘリワードの戸惑いは理解できる。この極東の島国のそのまた辺境の地で、よもや自分の先祖の事績にふれることになろうとは夢にも思うまい。

「リチャードは、この世界に何の仕事も残せなかった。ヨークシャーの実家に遺品の楽譜があったらしいのですが、それもとうの昔に散逸してしまいました。一説によると、リチャード自身の遺言で、出征後に破棄されたとも言われています。ショパンの幻想即興曲も真っ青の曰く付きの作品なんです」

 フレデリック・ショパンの幻想即興曲は、彼の遺言にしたがえば、世に出ることなく葬られるはずだったというのは音楽教師の雑談で耳にしたことがある。ショパンの死後、意向に反して公表され、今や最も有名なピアノ曲のひとつだ。

 ヘリワードから、きわめて示唆に富む発言が飛び出した。

「僕はこれから、知り合ったばかりの君に妙なことを口走りますが、変な外人の妄想とでも思って聞き流してください。君が高祖父や、あの曲の特殊な事情を何か知っているようだから、この話をするのです」

 瑞穂は身構えた。

「僕はこの世界とは違う、別の可能性の世界を知っています。そこでのリチャードは、大作曲家の令名をほしいままにしていました。あの日、ショッピングモールで僕が最後に弾いたあの曲は、お察しの通り、かどうかは知りませんが、リチャードの作曲したものです。この世界では誰にも聴かれることなく失われたはずだったあの曲を、僕が禁じ手を使って発掘したわけです。はっきり言って、歴史の改竄ですね」

 初対面の人にいきなり気宇壮大な妄想話を開陳された日には、普通どん引きするわけだが、瑞穂は自分自身の境遇が境遇なので、この手の話には寛容だった。だから白瀬量子や、翔子の曾祖母トヨの話にも耳を傾けた。そして今、ヘリワード・シャーウッドの話。この三者の話には通底するものがあることに気付き、瑞穂は愕然としていた。

「リチャードは芸術家にしては恬淡な人物だったらしく、作曲を彩るレトリックには無関心だったようです。その世界における同世代の作曲家たちのスタイルを踏襲せず、彼のほとんどの曲が、ナンバーと調性で事務的に識別されています」

 音楽家たるもの曲で語れ的なこだわりでもお持ちだったのだろう。瑞穂は好意的に解釈した。

「唯一例外がありまして、僕が披露したあのピアノ協奏曲にのみ、副題が付与されています。『The Singularity』。あちらの世界の日本では、『特異点協奏曲』と呼び做されているようです。高祖父がどういう意図でそのようなタイトルを与えたのかは、分かりません」

 瑞穂的には正直なところ曲名などどうでもよく、「あちらの世界の日本」とやらに興味津々だった。

 クラスメイトたちは、瑞穂とヘリワードの対話に好奇心をくすぐられた様子だったが、空気を読んで遠巻きにしていた。約一名を除いて。

「もう意気投合したのか。さすがは瑞穂っち」

 固唾を呑んで成り行きを見守っていた一部生徒の間から、控え目な歓声が洩れた。後で親しいクラス女子から耳打ちされたところでは、将幸による牽制との見方が、この一幕に付与された巷説らしい。色恋沙汰の脚色を友とする口さがない連中には、さしあたりこの説の受けがよかったようである。瑞穂にとっては噴飯物で、実際に後日「わたしの弁当を返せ」と、誰にともなく憤慨する羽目になった。

「そういえば、君の名前をまだ伺ってませんでしたね。ミズホッチさんとおっしゃるのですか?」

「ちがーう! 桜井瑞穂です。よろしく。そして彼は、鉄拳のマサ」

 正当な権利として、将幸への報復を行った。

「すまん俺が悪かった」

 すかさず無条件降伏するあたり、中学時代に奉られた渾名は、将幸のアキレス腱なのだろう。恭順の意を示す姿に免じ、今日はこれくらいで勘弁してやろう。



 夏休みが明けて間もなく、水高三大行事の最終章、学級対抗が行われた。昔の発案者の企図した通り、かどうかは定かでないが、身近な上級生いわく、「学対を経てこそ、クラスの結束はより強固なものになる」らしい。打ち合わせと称してカラオケに繰り出したり、反省会と称してファミレスに集まったりと、しかつめらしい大義名分を得てクラス親睦が捗るのだという。彼らを糾弾するのは酷というものだ。基本的に十代というのは遊ぶ機会に貪欲な世代であるし、若い体細胞たちの旺盛な新陳代謝により、副産物たる活力を持て余している。いずれにせよ学級対抗は、それらの諸問題解決にうってつけで、前期の掉尾を飾るに相応しいイベントであった。

 概要は各種競技のクラス対抗戦であり、全生徒が最低二種目への出場を義務付けられている。ハンデキャップの設定もある。素人とは技量差が顕著であることが予想される運動部員は、すべからく公平を期すべく、各部活に該当する競技への出場を制限されていた。

 武道の選択科目の授業を通じて、大和が剣道有段者であることはクラスメイトの知るところとなっており、経験を買われて剣道競技に登録されていた。瑞穂もまた然り。

 団体戦であるし気楽にやろうと鷹揚に構えていたところ、トーナメント初戦で大和のクラスと瑞穂のクラスがいきなりぶつかる組み合わせとなった。それぞれのクラスにおける事前工作の結果、大和は先鋒、瑞穂は中堅となり、なんとか兄妹対決は回避する。まかり間違って代表者戦にでも縺れ込まないかぎり、茶番劇を演ずる機会はなさそうだ。

 瑞穂のクラスの先鋒、つまり大和の対戦相手は、かの留学生ヘリワードだった。日本かぶれの外国人の生兵法かと、率直に言って舐めてかかっていたが、試合前の練習で瑞穂がヘリワードの切り返しを受け、認識を改めた。中学の剣道部出身者と遜色ない腕前だと思われる。

「ヘリワード君、剣道やってたの?」

「父から習いました。かじった程度ですけれどね」

 そのヘリワードの父は、学生時代、日本から来た老剣士に師事したという。同門には、かのスコットランドヤードの現役警察官や、精鋭と名高いイギリス陸軍特殊空挺部隊SASの元隊員といった錚々たる経歴の面々がいたらしい。筋骨隆々たる巨漢たちが入れ替わり立ち替わり地稽古を挑むものの、一本取れることは稀で、挑戦者たちの多くが前後不覚に道場の床へ這いつくばる羽目になったという。面をはずした老剣士は飄逸たる好々爺で、汗こそかいていたものの、息を乱すことはついぞなかったそうな。

 気力体力の充実した若者が、経験豊富な老人に後れを取る――他のスポーツでは滅多に起きないことが、剣道ではしばしば起こる。ヘリワードの父は度肝を抜かれ、剣道の奥深さに感じ入ったという話だ。

「父の剣道の先生は、矢留市在住だったそうです。かなり御高齢だったそうで、もう何年も前に亡くなったようですが」

 帰国後もエアメールでの交流があり、老剣士は古武士を彷彿させる律義さで、毛筆の英文による年賀状や暑中見舞いを送っていたそうだ。英国紳士もさぞ面食らったことだろう。

「そんな御縁もありまして、日本留学を思い立った頃から、留学先はグランマの故郷の丸館か、父の恩師の出身地矢留のどちらかを考えていました」

 なるほどそれで、敢えて矢留くんだりに白羽の矢を立てたわけか。留学先として人気のありそうな文教都市は、枚挙に遑がなかろうに。

 祖父吉右衛門のえびす顔が目に浮かんだ。今頃あの世で、ほくそ笑んでいるに違いない。


 試合のほうは気負うでも手を抜くでもなく、明鏡止水の自然体で臨み勝利を収めた。なにせ祖父の精神の後継者をひそかに自任する楓が目を光らせており、あまり杜撰な試合運びはできない。剣道部員が審判や補助員として駆り出されていて、この試合の際は楓が主審を、雪乃が時計補助員を務めていたのだ。

「めずらしくちゃんと試合してたじゃん。白瀬ちゃんにいいとこ見せたかったの?」

 試合後にからかわれる。楓のヘゲモニーに反旗を翻す覚悟を、未だ持ち合わせていないだけだ。

 大和は一勝を挙げたものの、団体としてはは瑞穂のクラスが勝利し、二回戦に駒を進めた。もうひとつ出場登録していたバスケも、二年生のクラスと当たり早々に敗退していたので、大和はこれにて御役御免。あとは気楽な観戦者でいればよい。

 とはいっても、瑞穂で八面六臂の活躍をする任務が残っている。入学当初は、目立たないよういつも気を配っていたものだが、最近は素直に欲求に従っている。ゲームで自分の育成したキャラを顕示したい心理に似ているのだろうか、これは。憂さ晴らしというか、一種の代償行為のような気もするが。

 いつぞや楓から、無意識の負い目との指摘を受けたことがあった。あれはどういう意味なのだろう。どうも深層心理に土足で踏み込まれたような気がして、あまり愉快ではない。

 格技場から去ろうとしていたところ、ヘリワードが爽やかに挨拶してきた。

「いやあ完敗です。さすがは剣道発祥の国。武士道の本場。君も侍の子孫なのですか?」

 さすがに日本へ幻想を懐きすぎだろう。桜井家の直系の祖先は、一介の商人だったと聞いている。誰しも血統を十代遡れば、単純計算で一〇二四人の人間に辿り着くわけで、一人くらいそういう生業の人物がいたかもしれないが。

 ちなみに二十代遡れば一〇四万八五七六人だ。どこかで近親婚でもなされていれば系図の重複がでてくるであろうが、いずれにせよ膨大な数の先祖たちの遺伝子を受け継いで、我々は存在している。

 はしなくも不安に囚われる。仮にこのままオリジナル瑞穂の意識が戻らない場合、生命体の大命題、遺伝子を後世に託す役割は、大和が担うことになるのだろうか。瑞穂の体を代理行使の上で。瑞穂への冒涜として思考停止に陥っていたが、いつの日か決断を迫られる日がこないとも限らない。オリジナル瑞穂の一日も早い覚醒を切に願う。願わずにはいられない。

「君こそすごいな。ピアノに日本語に剣道。多才なやつだ」

「おや、僕のピアノの事を御存知なのですか?」

「君のクラスの桜井瑞穂は、俺の双子の妹なんだよ」

「おお、ミズホッチのお兄さんでしたか」

 将幸め。変な渾名が定着したらどうしてくれるんだ。



 学級対抗後、一年生にはもうひとつ行事が控えている。太平山登山だ。しかし開催予定日には、折悪しく観測史上最強クラスと銘打たれた超大型台風が、東北地方を通過する予報であった。結局前日になって中止が発表された。この夏に多発した山岳遭難事故を鑑みた決定と思われる。生徒の大半が存在を忘れかけていた連絡網が、この時初めて時宜を得て機能した。

「登山順延じゃなく中止か。今年の一年生かわいそう」

 憐憫をかけられるほど魅力的なイベントでもあるまいに。通常授業より、同級生たちと出かける遠足のほうが楽しいことについては異論がないのだが。

「その通常授業も、台風で休校なるんじゃない?」

 楓の予想通り、翌日の朝連絡網の電話が回ってきて、休校を告げられた。小中高を通じて、天災による休校に遭遇したのは初めてのことだ。小学生の頃、住んでいた地域でインフルエンザが猖獗を極め、学級閉鎖になったことが一度だけあっただろうか。

 棚ぼたの休日をどう過ごそうかと脳内予定表をめくっていたところ、大和のささやかな幸福を踏み躙る、楓の冷徹な指摘。

「冬休みから一日削られて、帳尻を合わせるっぽいよ」

「知らぬが仏だったのに」



 登山中止からしばらくたった十一月初旬、太平山登山に代わる課外活動として、学校周辺地域の清掃が提案された。提案といっても生徒に拒否権のない既定方針であったが。楓のかわいそう発言の所以はこれか。

「なんの罰ゲームだよ」

「俺らの代、貧乏くじ引いたな」

 同級生の間でそんな囁きが交され、中にはサボタージュを指嗾する不平分子の急先鋒もいたし、やや穏健に面従腹背を宣言する者もいた。だが生徒たちの多くは至って順良なもので、登山にせよ清掃にせよ、得られるカタルシスは似たようなものだろうと近視眼的に捉えているようだった。要は課外活動に対する関心が薄いのだ。


 清掃活動当日。大和のクラスは学校裏手の県道、通称横川金手線沿いの担当となった。体操着に軍手という身拵えの水高生たちが、手に手にトングや矢留市指定のゴミ袋を持ち、そこかしこで清掃に精励している。凝り性の素質十分な人が多いようで、直前まで不満たらたらだった者までが、いつしかゴミクエストに夢中になっていた。さっさと終わらせて帰りたいという打算も、動機の主成分であることは疑いを容れない。

 大和も黙々とゴミ拾いに励んでいたところ、遽然空き缶が飛んできて足元に転がった。車道を走行中の自動車から投棄されたようだった。さすがにカチンときて、索敵モードで目を眇める。瑞穂に劣らぬ動体視力で、車両の特定は容易だった。あちこち拉げ、ドライバーの猪突猛進ぶりを物語る傷凹みだらけの黒いワンボックスカー。助手席のスキンヘッドの男に見覚えがある。といっても大和が直接会ったのではなく、瑞穂の記憶に一致する顔があったわけだが。水崎の湊祭りの際、一悶着あった連中の一人だろう。

「信じらんない。どういう神経してるのあれ」

 一部始終を目撃したらしい雪乃が近寄ってきて、所感を述べた。珍しく憤慨しているようだった。機先を制して代わりに立腹されると、憤懣もかなり氷解するものだ。

「ほっとけほっとけ」

 大和は心理の摩訶不思議に思いを致しつつ、雪乃を宥めにかかった。


 課外活動も佳境に差し掛かった頃だが、戦果のゴミは存外少ない。近隣住民のモラルの高さを嘉しつつ、そろそろ学校に戻ろうかと思案する。

 車道でけたたましいクラクション。やや間をおいてクラッシュ音。先ほど見かけた黒いワンボックスカーが、軽トラックに追突されていた。ワンボックスカーははずみで対向車線に押し出されて停まる。

「どこに目ェつけとんじゃコラー!」

 ドスのきいた巻き舌で、テンプレートに則った恫喝を発するスキンヘッドの大男。軽トラックに乗っていた農作業着姿の老夫婦は、放心して声もない。

 軽トラックのすぐ後ろにつけていた、大口径マフラーやリアウイング付きのいかにもやんちゃな印象の白いセダンが、我関せずと事故現場を迂回し、爆音をたてて走り去った。ちらりと垣間見えた運転席には、これまた見覚えがある茶髪の男。

 作為的な臭いを感じたが、さすがに証拠もないのに疑うのは如何なものかと偏見を戒める。その時、大型車のものとおぼしい警音ホーンが、悲哀を帯びた音調で周囲に鳴り響いた。対向車線にはみだして停まるワンボックスカー。これを避けようとしたトレーラーがバランスを失って蛇行する。過重に耐えきれなかった荷台部分が横倒しになって轟音と土煙と火花を撒き散らし、歩道のガードレールを薙ぎ倒しながら大和のいる場所に向けて滑走をはじめた。

 咄嗟に首を巡らす。無人であることを願ったが、大和のすぐ後ろに人影が見えた。引き攣った顔で凝固する雪乃。その顔が、あの事故の日の妹と重なる。次の瞬間、無我夢中で彼女の腕を引いた。やばい。間に合わない。大和は雪乃を抱きかかえ、高架橋から手近な杉の木めがけて身を躍らせた。もはや多少の怪我を厭ってはいられない。

 体細胞たちはここを先途と活性化し、最適な生存の方策を探っていることだろう。彼らに自我があるとすれば、大和の無鉄砲に呪詛のひとつも投げつけていたかもしれない。

 華麗に立木へ飛び移る予定であったが、実際のところ人間一人かかえて想定通りいくものではなかった。無理な体勢が祟り、空中でバランスを崩して落下する。雪乃を庇おうと体を入れ替え、やがて訪れるであろう衝撃に備えた。

 木々の枝が上膊あたりを切り裂く。連中は無情な凶器であると同時に、重力加速度を緩和してくれる慈悲深いクッションでもある。

 墜落がやけに長い。地面はまだかと思う余地があるほどに。時間がゆっくり流れている感じがした。ことほどさように思考が高速回転しているのだろうか。それにしても長すぎる。あまり想像したくはないが、目測より遥かに高いのかもしれない。世界が歪む。あたかも魂が肉体から漏洩するように、意識が遠のく。思惟をつかさどる領域が、正気を保つことを拒否しつつあった。

 すまん。俺やらかしたかも――薄れゆく心に浮かんだのは、誰へ向けた謝罪だったのだろう。



 頬を軽く叩かれて目が覚めた。雪乃が心配顔で大和の顔を覗き込んでいる。

「桜井君、平気ですか?」

「おかげさまで」

 打てば響くように軽口を叩けたので、さしあたり命に別条はないのではあるまいか。上体を起こそうとして痛みに顔を顰める。雪乃が介添えして起こしてくれた。

「無茶しすぎです」

 指摘されるまでもない。大和自身驚いている。自分がこんなに果敢なやつだったとは意外な発見だ。ここでふと白瀬の物腰に気が付いた。

「あれ? 量子さんか?」

「そうですよ。雪乃さんの意識は、気を失って昏睡中です。起こしましょうか?」

「そんなことできるんだ?」

「最近できるようになりました。お互いに一定の信頼関係が醸成されたからかもしれません」

「交換日記の効果覿面だな」

 造次顛沛の間に、白瀬の表情が凛然さを帯びた。人格交代の完了らしい。刃紋美しい抜き身の刀を彷彿させるその佇まいから、一部男子の間でクールビューティの称号を奉られていると聞く。大和を見つめつつ、黙々と体を検めてくる。一瞬抱きすくめられるのかと狼狽するほどの至近距離だった。

 周囲に不可侵の結界でも展開しているのかと空想したくなるほどに、初対面の雪乃は近寄りがたい雰囲気を持っていた。だがひとたび気を許した相手には、たじろぐほどの近さで接してくる傾向があるらしい。この娘の意外な一面と言うべきか。いつぞや楓にいきなり抱きつく壮挙を成し遂げ、驚かされたことがある。楓は雪乃を評してツンデレとのたもうた。こういう人がそう呼び做されるのだろうか。大和は楓ほどサブカルチャーに通暁していないので、ツンデレの正確な概念など知るべくもない。せいぜい字面のニュアンスを解釈する程度だ。

「血が出てる」

「たいしたことないよ、あつつ」

「骨折れてない?」

「たぶん大丈夫」

 大和は体を起して周囲を見渡した。

「ここどこ? 水道山じゃないな」

「お社あるね」

「まじか。なんでこんなところに」

 不可思議なことに、水高近くにある稲荷神社の森のようだった。今しがた事故の起きた県道高架橋からは、けっこうな距離がある。

「水道山戻ろう。騒ぎになってそうだ」

 前にもこんなことがあった。あの不条理極まる現象が、また起きているのだろうか。

「いつかのあれみたいなのは勘弁してほしいな」

 縹渺たる不安のなせるところか、その指摘が口を衝いて出た。雪乃に睨まれる。

「神社の境内で迂闊なこと言わないで。言霊って言葉もあるじゃない」

「言霊ねぇ。そういや君のお祖父さん、神主なんだっけ」

 言葉には不思議な霊力が宿っていて、発した言葉が実際に顕現するのだという。仄聞だが、神道の祝詞奏上はとりわけ誤読がないよう注意を払うものらしく、言霊信仰の影響が顕著なのかもしれない。親族が神社関係者らしい雪乃のそうした懸念も、系譜故であろうか。

 この古代日本の文化は、観測が事象に作用を及ぼすという人間原理宇宙論にも相通ずるものがあるのではないだろうか。量子あたりが好みそうな話題な気がした。


 思考遊戯にかまけているわけにもゆかず、二人は横川金手線高架橋へと移動した。そこで目の当たりにしたのは平素とかわらぬ車や人の往来だった。事故の痕跡など欠片もない。

「道路、元通りだね……」

 事故車両の撤去はもとより、薙ぎ倒されたガードレールも、抉られた舗装も、縁石の亀裂にいたるまで普段の姿を取り戻している。

「警察もJAFも仕事早すぎだろ」

 そんな述懐をしつつ、そうでないことはそこはかとなく理解していた。あの時、多くの同級生たちが居合わせたので、大和と雪乃が事故に巻き込まれる瞬間を目撃した者もいただろう。交通事故に巻き込まれた生徒二名が目下行方不明。蜂の巣をつついたような騒ぎになっているかと思いきや、ありえないほど平穏だ。

 雪乃が「学校に行ってみよ」と提案。いつぞやのスズメバチの縄張りの抜け道を通り、校舎へと向かう。大和も雪乃も無言で、気は急いているのだが、足取りは心なしか重かった。


 通い始めて半年ほどの学び舎だが、親和感は寸毫もおぼえない。むしろ先ほどから、違和感ばかりが惹起されてくる。一見まったく変わったところは見られないにもかかわらず、だ。どうしたことだろう。

「上履き、ないね。大和君の靴棚ある?」

「ない。ネームプレート、知らないやつの名前なってるな。また職員玄関のスリッパ借りるか」

 職員玄関の時計を見ると、午後四時をまわったところだった。人影もまばらなわけだ。

「教室行ってみる? クラスの連中居残ってるかな」

「クラスのみんな、けっこう薄情ね。私たちの安否はお構いなしなんて」

「まぁ行ってみよう」

 まず目指したのは北棟の一年E組。クラスメイトたちから事故の顛末を聞けることを期待して勇躍教室にやってきた二人だったが、そこは大和と雪乃のよく知るE組ではなかった。大半が知らない生徒。ちらほら見知った顔もいて二人を安堵させたが、気分はすぐに落胆へと変わった。誰に訊いても、大和と雪乃のことを知らないと言う。

「つか、君ら何組よ。見かけない顔だけど」

「部活とか同好会の勧誘ですか?」

 雪乃は会話を切り出しあぐねて大和の背後に隠れがちだったため、しょうことなしに大和が聴取の先陣を切っていたわけだが、「俺の事知ってる?」と訊いて回るのはなかなか気の滅入る作業だった。折れそうな心に鞭打ち、質問攻めに鼻白む女子生徒たちになお食い下がろうとした大和だったが、雪乃にジャージの裾を引かれて振り向く。目で撤収を促された。廊下を足早に歩く雪乃の背に問うたところ、

「大和君、前のこと憶えてる?」

「あの変な夢のことか。夢にしては、やけにリアルだったけれども」

「うん。思いつきなんだけど、あの時と同じことしたら、元に戻れないかなと」

「あの時どうしたんだっけ。研修会館で昼寝して起きたら、元に戻ってたのかな」

「だめもとでやってみない?」

「そうだな。試すだけ試してみるか」

 どの道、状況を打開する妙案は持ち合わせていない。徒労に終わったところで、さほど痛痒を感ずることもあるまい。


 研修会館へ向かう途中、風に乗って運動部の掛け声やブラスバンドのチューニングといった喧騒が耳に届いた。ごくありふれた放課後のひとコマだと錯覚しそうになる。かくあれかしとの願望も多分に含有していたであろうが。

 その喧騒の中に、ピアノ演奏の音が混入していた。それだけならば特に注意を引くこともなかっただろうが、断片的ながら聞き覚えのある旋律が、大和の耳に天啓のように反響したのだ。

「どうしたの?」

「なぁ、ピアノあるところって、音楽室かね?」

「音楽室くらいしか思いつかない。小学校だと体育用具室にピアノ置いてあったけど、水高はどうなんだろう。ていうか、藪から棒に何?」

「いや、なんでもない。行こう」


 研修会館は施錠されていた。このたびは窓も閉まっている。

「入るの無理そうだな」

「どうしたものかしら」

 目論見はあえなく頓挫したが、次の行動のあてはあった。

「雪乃さん。ちょっと音楽室行ってみてもいい?」

「何か気になることでもあるの?」

「ひょっとすると、知ってるやつがいるかも」

 先方がこちらを知っている確証はないが。


 先ほど、色々な雑音の間を縫うようにして、大和の鼓膜を振るわせたピアノ曲。以前、高橋翔子の家で、彼女の曾祖母トヨに聞かされたオルゴール曲と同じものだろう。そして、留学生ヘリワード・シャーウッドが、御所山のショッピングモールで披露していたあのピアノ曲とも同じだ。

 ヘリワードはあの時、瑞穂に何と語っていたのだったか。彼の高祖父、リチャード・シャーウッド氏が作曲したという、謎めいた曰く因縁をもつバラード、『特異点協奏曲』。なにかと縁のある曲だな――大和は独りごちた。

 あの曲を弾きこなす人間が、この水高界隈にそうそういるとも思えない。音楽室にいるであろう奏者は、ヘリワードなのではあるまいか。大和はそう当たりを付けていた。そういえばヘリワードは、瑞穂に向って「あちらの世界の日本」云々と、妙に引っかかる言い回しを使っていた。何か知っているかもしれない。


 首尾よく音楽室への潜入に成功する。と言ってもべつだん妨害者がいるわけではないので、容易いミッションなのだが。

 演奏はまだ続いている。やはり例の『特異点協奏曲』で間違いなさそうだ。門外漢の大和に技術の巧拙は判断しかねるが、理屈抜きで琴線に触れてくる。それはつまり、演奏に魂が籠っているからだろう。求道者の末端に連なる者としては、そう信じたい。

 しかし、鍵盤の前に目当ての人物の姿はなかった。金髪碧眼。面差しこそヘリワードによく似ていたが、華麗な演奏の主は外国人の美しい女子だった。水高の制服に身を包んでいる。はて、ヘリワードの他にも留学生が来校中なのだろうか。

 俄然音が乱れ、曲がやんだ。奏者の女子が、大和と雪乃に気付いたようだった。かなり驚いている。そこまで驚愕されると侵入者冥利に尽きるのかもしれないが、当然そのような特殊なイデオロギーに用のない大和としては、若干凹むものがある。

 演奏の中断で、居合わせた生徒たちの耳目を集めることとなった。

「あら、君たちは確か」

 ゆくりなくも大和たちを知る者がいたようだ。発言の主と目が合う。眼鏡の奥で、柔和な瞳が物問いたげな色を湛えていた。

「高橋先輩じゃありませんか」

 大和の知る高橋翔子ではないかもしれないとの疑惑はのっぴきならぬ膨張を遂げていたが、それでも一縷の望みを託してそう呼びかける。が、間髪容れず訂正がはいった。

「三年の山口志鶴です。高橋じゃありません。私の名前を御存知ないということは、やっぱり部外者なのね」

 いつぞや夢の中で邂逅した、高橋翔子に瓜二つの山口嬢か。頑なに夢と言い張ったところで、今はこれが現実と認めざるを得ない状況だが。

「楓がおかんむりでしたよ。楓の親戚を騙って校舎内をうろつく他校生がいるってね。生徒会から注意喚起の通達が出ています。目瞑ってあげるから、早く構内から出た方がいいですよ。楓や安永君に見つかるとなにかと面倒だしね」

 以前翔子から聞いたところでは、安永某というのは確か二年生で、水高の生徒会副会長だ。この世界にも安永某は存在していて、山口志鶴の口振りだと生徒会の要職にあるらしい。両世界の共通項を蒐集することにさしたる意味があるとは思えなかったが、何かの手掛かりになることもありえる。ここではたと、大前提としての並行世界観を違和感なく受容している自分に気が付き、おかしさがこみあげた。荒唐無稽な空想上の概念と捉えていたが、かくも頻繁に不思議体験をさせられては、さすがに認識を改めるしかない。

 ピアノを弾いていた白人の女子生徒が気になったが、ここはひとまず退散するべきだろうか。視線を投げかけると大和を凝視している。つぶらな瞳。全てを見通す千里眼の持ち主に、心の襞を走査されているかのような居心地の悪さを感じた。

「大和君、いったん帰ろ」

「そうだな」

 雪乃もそう言うので、素直に提案に乗ることにした。どこに帰ればいいのか悩みどころではあったが。



 当座の行動として、それぞれの住まいへ帰宅してみることになった。ただ世界の様相が不明な上携帯電話もないので、単独行動は危険だろうとの結論に至る。見知らぬ世界で唯一の道連れと連絡途絶など、あまり陥りたくない状況だ。

「私の下宿先から行こうか。水崎は歩くと遠いし」

「了解」

 予想されたことだが、自転車置き場に二人の自転車もなかった。

「チャリないのは痛いな」

「誰が盗んだのかしら。まったく」

 雪乃は強情にも、未だ状況の受け入れを拒否している。しかしその棒読みのような発言からは諦観が滲みだしていたので、現実逃避と状況認識の葛藤が、心の中で今まさに進行中なのだろう。竹刀を握れば勇敢な雪乃といえども、目に見えない得体のしれない状況と対峙するのは荷が勝ちすぎるようだ。故祖父ならば「修行足いねど」などとお得意の説教が始まるところであろうが、この状況でうら若い現役女子高生に達人の境地を求めるのは、さすがに酷というものだ。

 季節は晩秋にさしかかる頃で、夕方はさすがに肌寒い。銀杏や七竈の街路樹が色づき始め、家々の庭でたわわに実った柿や無花果が、紅葉の色彩にアクセントを添えている。しかし詩情に身を委ね、うつろう秋を愛でている余裕などない。このまま日が暮れて局面が好転しない場合、さしあたって晩飯はどうすればいいのか? 今夜の寝床は?

 幸い大和も雪乃もジャージのポケットに財布を入れていたので、幾許かの所持金はある。しかし雨露をしのぎつつ帰還方法を探っていくための資金としては、あまりにも心許ない。大和の財布に銀行のキャッシュカードが入っていたのだが、まず使えまい。ちらほら街で見かける銀行の看板は、『帝国興業銀行』だの『奥羽銀行』だの『ふそうセントラル銀行』だの、どれもこれも見たことも聞いたこともないものばかりだ。どこのドラマの撮影セットだよと、愚痴の一つも言いたくなる。

 いよいよ金に窮したら、履歴書不要の日雇いアルバイトでも始めるか。不景気な御時世の地方都市に、いかほどの求人があるのか甚だ不安なところではあるが。

 それにしても、つい数時間前までモラトリアムのぬるま湯を享受する身分だったものを、こんなけったいな経緯で社会の荒波に放り込まれることになろうとは、夢想だにしなかった。気分はほとんど逃亡中の犯罪者か、不法入国者だ。言うまでもなく、いかに見知らぬ異世界だからといって、犯罪行為に手を染めるのは論外だろう。「我々は(おそらく)異世界人なので、この世界の法の適用は受けない」などというトンデモ免罪符の持ち出しは、さすがに文明人としての矜持が許さない。

 大和がせっせとネガティブな皮算用を弾いていた頃、雪乃は街の観察に余念がなかったらしい。

「街の様子が随分違う。ここにコンビニなんてなかったし、あそこは公園だったはず」

「俺の推測を言ってみてもいいかい?」

 雪乃は頷いた。

「なにがどうしたものやら分からないけど、俺たちは今、パラレルワールド的なところに迷い込んだんじゃないかと思ってる」

「……SF小説の読みすぎじゃない? もしくはハリウッド映画の見すぎ」

「案外しぶといな君も。現実を直視せにゃ対策も立てようないぞ。もう頭で分かってるんだろ? 街の微妙な変わり様見りゃ、よほどのニブチンでも何か気付くぜ」

 暗澹たる気分のなせるところか、つい棘のある言葉遣いになった。

「私は大和君ほど柔軟な思考じゃないもの。そんな超理論、はいそうですかとすんなり受け入れられるほうがどうかしてるし」

 雪乃は冷たく言い放つと口を一文字に引き結び、足早に先を歩きだした。


「下宿なくなってる……」

 売地の立て看板がたつ空き地の前で、呆然と立ち尽くす雪乃。単管パイプの即席柵で囲われたその空き地では、ススキの花穂が風にそよぎ、赤とんぼの群れが乱舞していた。茜色の空にはたなびく鰯雲。ノスタルジックな光景とは裏腹に、憂いは重く心にのしかかる。

 雪乃の顔は、夕焼けの中であってさえそれと分かるほど蒼白だ。どのような煩悶が去来しているものやら察するに余りあったが、突っ立っていても埒が明かないので、躊躇いがちに声をかける。

「どうする? 俺ん家行く? こちらの楓姉さんとはあまり鉢合わせしたくないんだが。まぁむこうの姉さんと一緒なら、平日の放課後は塾行ってるはず」

「行ってどうするの? 仮にあなたの言うパラレルワールド説が正しかったとして、秋川さん家の御家族があなたのこと知らなかったら? 前に遭遇した秋川先輩、私たちのこと知らないみたいだったじゃない。どうやら私たち、水高にも在籍してないみたいだし」

「その楓姉さんが気になること言ってたからな。俺の死んだおふくろに関すること。姉さんに会って、なんとか話を聞きだしたいんだが」

 以前、雪乃と二人で体験した白昼夢のような出来事。あの時、楓は確かこんなことを言っていた。


『朋江さんは確かにうちの叔母だけど、奥森に嫁いで健在だよ。名字も桜井じゃなくて白瀬だし』


 肉親に関する看過できない情報だった。確認したいという衝動はやむを得まい。

「逆の可能性として、この世界の桜井大和君が秋川さん家にいて、あなたと鉢合わせすることになったら?」

「ドッペルゲンガーと出会っちまったつうことで語り草になるのかね。あれ、でも自分のドッペルゲンガーと出会うと、近々死ぬんだっけ?」

「そんな迷信もあったわね」

 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、アメリカ合衆国第十六代大統領エイブラハム・リンカーン、ロシア女帝エカチェリーナ二世といった著名人たちが、ドッペルゲンガーを見たという証言を残しているらしい。芥川龍之介などは、ドッペルゲンガー体験をもとに小説を上梓している。もしかするとその正体は、今の大和や雪乃のように並行世界から迷い込んできた自分自身なのではなかろうか。……などと想像を逞しくしている場合ではない。

「水崎行くか。御足労かけるけど、つきあってくれ」

「秋川先輩いるといいね」

「いればいたで一悶着あるぞ。まぁ腹蔵なく話せば、分かって助けてくれると思うが」

「信頼してるのね」

 大和はノーコメントで肩をすくめた。


「雪乃さんも一緒に来てくれよ」

「なに緊張してるの。自分ん家でしょう」

「ここじゃ自分ん家じゃなさげだから緊張もするさ。それに、俺一人だと警戒されるかもしれないだろ。俺たちは楓姉さんの後輩で、生徒会がらみの打ち合わせにきたって設定でいこう。ちょうど二人とも水高のジャージだし、もっけの幸いだ。呼び鈴押すよ」

 勝手知ったる秋川家の玄関先。かすかに震える指先で呼び鈴を押した。心臓の鼓動を聞きながら応答を待つ。

『はい。どちらさま?』

 インターホンに出たのは楓の母、秋川梢だった。

「えと、こんばんは……桜井といいます。水丘高校生徒会の者なんですが。楓さん御在宅ですか?」

 生徒会は全校生徒が構成員になるので、嘘は言っていない。生徒会執行部を名乗ればでっちあげになるが。

 玄関に入るよう言われ、古色蒼然たる数寄屋造りの門から通いなれた敷石のアプローチを進む。引き戸を開けると梢が待ち受けていた。今時珍しい割烹着に白頭巾の装いが、いかにも古風を尊ぶ秋川家らしい。興味深そうに大和と雪乃を見つめている。如才ない微笑みを浮かべていたが、値踏みする一瞥だろう。気分はさながら、老練な骨董鑑定士に目利きされる美術品だ。

「ごめんなさいね。楓は塾で、まだ帰らないの」

「そうですか」

 やはり大和のことは記憶にないらしい。母の件についてどう話を切り出したものか。綿密な脳内シミュレーションを展開していたところ、廊下から予想外の乱入者があった。

「おうい、梢さん。町内の敬老会で貰った純米大吟醸知らねが。台所の茶箪笥さへであったんだども」

 昔気質の矢留弁。伯父秋川恭太郎ではなかった。青天の霹靂とはまさにこのことか。大和はさすがに呻いた。

「まじかよ……」

「このあいだレオフリック先生いらした時、お義父さん一升開けてらしたじゃないですか」

「あいしか、んだったが。さっさ。へば、んな飲まいだべな。あいもいげる口だでよ、んめどってなぼでも飲むがらな。すたども、いよいよおらも耄碌すてきたべが。物忘れ多くていげね」

 呵々大笑する老人。作務衣姿がやたら板についていて、陶芸家か蕎麦打ち職人のような風情。大和が小学五年生の時に死去したはずの祖父、秋川吉右衛門だった。大和の驚愕は言うまでもなかったが、吉右衛門と一度会ったことがあるらしい雪乃もまた、さすがに驚きを隠せずにいる。というよりも、何故か大和以上に衝撃を受けている様子。口を手で塞ぎ、肩が震えている。

「おやお客さんげ。こいまだ不調法したごど」

 吉右衛門の所作はまるきり在郷の好々爺のそれで、若かりし頃、済寧館で天覧試合にも臨んだことのある剣道界の重鎮には到底見えなかった。

「楓の友達だが。まんず、ゆっくりしていってけれ」

「いえ、楓さん御留守みたいですし、もう時刻遅いので、俺たちは失礼させてもらいます」

 懐かしい祖父。もっと言葉を交したい欲求にかられたが、肝心の楓が不在では長居無用だろう。なにせ秋川家の人々と話していると緊張の糸が弛んでしまいそうになる。老獪な吉右衛門に尻尾を掴まれはしないかという不安がどうにも払拭できず、早いところこの場から立ち去るべきだと思った。

「折角おいでいただいたのに申し訳ないわね。楓が帰ったら伝えておきますので」

「いえ、こちらこそ突然押し掛けまして。明日学校で楓さんに話してみます」

「あなた、桜井さんだったわね? そちらの方は?」

「……白瀬です」

 雪乃が突然落涙した。様子がおかしいことに気付いてはいたが、大和も雪乃に配慮する心のゆとりはない。

「なに、白瀬だど?」

 吉右衛門が雪乃の名乗りに反応した。雪乃を上から下まで矯めつ眇めつ見始める。見かねたのか梢が窘めた。

「ちょっとお義父さん。失礼ですよ、他所様のお嬢さんに」

「あいや失敬。うぢの外孫さ似だったもんでよ。ほれ、朋江んどごの蛍子さよ」

「ああ、奥森の。けれど、蛍子ちゃんは今……」

「んだったな。まだ若げのに不憫なごったで。おぃや、悪りがったなす。お客さんの前で内輪の話してよ」


「秋川先輩待たなくてよかったの?」

「ごめん。白状すると、いたたまれなくなった」

「お祖父さんがいたから?」

 大和は渋い顔で頷いた。

「うちの祖父さん、俺が小五の時に亡くなったんだよ。よもやこんな形で再会することになるとはな。俺は自慢じゃないが、けっこう健全な精神の持ち主だと自負しているんだ。死んだはずの人間がピンピンしてるとか、自然界の摂理はどうなってやがるんだ。神様仕事しろよと言いたくなる」

「神様を冒涜してはいけないわ。だいたい、現実を直視しろとか小言並べてたの大和君じゃないの」

 神主御令孫からお叱りを賜る。返す言葉もない。

「さっき、うちの祖父さん見て、なんで泣いてたの?」

 訊きにくかったが、訊かないわけにもゆくまい。

「わかんない。こっちが訊きたいわ。あのおじいさんの顔見てたら、急に涙が零れてきて……意味不明」

 雪乃は二重人格者ではあるが、突然泣きだすような情緒不安定な娘ではないように思うのだが。

「まぁしかしだ、これではっきりしたな。ここは俺らの本来いた世界とは別の世界だ」

 何かを言いかけた雪乃だが、腹の虫が空腹を主張しはじめたようで、赤面して黙り込んでしまった。

「そういや腹減ったな。昼からなにも食べてないもんな」

「こんな時でもおなかは空くのね」

「栄養補給と疲労回復の手立てを考えるか。どうした?」

「君、リアリストだよね。けっこう尊敬するわ、そういうとこ。私は手に余る問題にぶつかった時、立ち竦んでおたおたするだけだから」

 そんなことはあるまい。二重人格と果敢に向き合っているのだから。

「確か来る途中ファミレスあったな。行ってみるか」


 一路ファミリーレストランへ向け、防犯灯の青白い光に照らされる歩道を並んで歩いていると、路肩に停まって赤色灯を点けている警邏中のパトカーに出くわした。無線機で何事かやりとりしていた二人の警官が、大和と雪乃を見て近寄ってくる。防刃ベストには『東北州警察』の白文字。こちらの日本では、都道府県ではなく道州制が施行されているらしい。

「こんばんは。ちょっといいかな」

「はぁ」

 職務質問は任意らしいが、ここで冒険を冒す気にはなれなかった。大和のよく知る日本とは法律が違う可能性すらある。

「君たちどこの――ああ、水高の生徒さんか」

 幸か不幸か、水高の学校指定ジャージを御存知らしい。

「部活の帰りなの?」

「そうです」

 間髪容れず明言した。警察官は商売柄、猜疑心が強く観察眼が鋭い。言葉尻のちょっとした躊躇を見逃さず、つっこんでくるかもしれない。

「遅い時間まで練習頑張ってるんだね。御苦労さま。部活は何をやっているのかな?」

「剣道部ですけど」

「竹刀袋持ってないようだけれど、竹刀は携行しないの? 日頃から手入れしないと危ないよ」

「すみません。学校の道場に置きっぱです」

 同僚につつかれた中年の警官。ばつが悪そうに制帽のつばを引き下げた。

「おっとっと、差し出がましいこと言ってすまんね。職業柄我々も剣道嗜むものだから、ついね」

 気持ちは分からなくもない。剣道における竹刀は、武士の刀に相当するという。この思想は高段者の間で根強い。大和も幼い頃、床に置かれた竹刀を跨いだり、竹刀を杖代わりにする無作法をやらかして、祖父にこっぴどくお灸を据えられたものだ。

「それで、何かあったんですか? これって職質ってやつですよね?」

 警官は威儀を正して四方山話モードから勤務モードに切り替えた。

「最近このあたりで集団恐喝やひったくりの事案が多発していてね」

 『地域安全情報』と書かれたチラシを差し出されたので受け取る。

「ほう。君、相当稽古積んでいるようだね。水高の剣道部なんだっけ?」

「そうですが」

「水高剣道部といえば、秋川先生のお孫さんがいらっしゃるだろう?」

「楓姉――楓先輩のこと御存知ですか」

「そうそう、楓さん。秋川先生に連れられて、しょっちゅう州警道場に稽古に来てたからね」

 そういえば祖父は生前、県警名誉師範などにまつりあげられ、「おらの柄でね」と常々ぼやいていた。この世界でも似たような状況なのだろうか。

「時間とらせてすまなかったね。君たちもあまり遅くならないうちに帰りなさい」


「あのお巡りさん、稽古がどうとか言ってたじゃない。なんであなたの技量看破できたの? 高段者って雰囲気とかで相手の力量分かっちゃうもんなのかしら」

「おぬしできるな、みたいな? 時代劇じゃあるまいし、そういうのはいくら高段者でもないんじゃないの。実際に竹刀構えて向かい合えばまた別だろうけど」

 雪乃は興味深そうに考え込んでいる。この娘もまた、骨の髄から剣道家になりかけているのだろう。

「チラシ渡された時、左手の竹刀ダコちゃっかりチェックされたっぽいな。さすが警察官、目敏い」

「なるほど」


 この季節特有の変わりやすい天気で、俄かな曇天が星空を遮蔽しつつあった。目的のファミリーレストランまでなお道半ばだったが、ぽつりぽつりと冷たい雨が路面を濡らし始める。誘蛾灯に引き寄せられる昆虫さながらに、二人は最寄りのコンビニに立ち寄っていた。

「もうここで弁当買っちゃうか?」

 店内に飲食スペースがないため、寒空の下で弁当をつつくことになるが。雪乃は何も言わないものの微妙に残念そうな顔をしたので、ファミレスに軍配を上げることにした。確かにゆったり寛げる座席や空調の効いた店内、広く清潔なトイレは魅力的にちがいない。

 ビニール傘をひとつ購入したのみでコンビニを後にする。温かい空間に若干の後ろ髪を引かれつつ。

 名にし負うクールビューティと相合傘の栄に浴する仕儀と相成ったわけだが、付け焼刃でレディファーストの精神に目覚めたにわか紳士よろしく、傘を雪乃側に差しかけてやった。

「そっち濡れるよ。そんな痩せ我慢しなくても」

 慣れないことはするものではない。冷静に指摘されては立つ瀬がないではないか。照れ隠しに大和ロジックを闡明してやる。

「いや、相合傘の作法かなと思って」

「こうするほうが合理的」

 言うや否や雪乃が肩を寄せてきた。


 目的のファミレスに到着。にこやかなウエイトレスの営業スマイルに迎えられ、窓際のボックス席へと案内される。空腹と疲労もあり、二人はしばし無言で注文した料理に舌鼓を打った。

 ようやく人心地ついたところで、差し迫った現実と向き合う仕事が残った。

「今晩どうするよ。夏ならともかく、この時期に野宿するわけにもいかないしな。そのへんのホテル取るか?」

 深夜徘徊する不審な未成年をすんなり泊めてくれるものやら、いまいち確信は持てない。

「補導されるのが関の山じゃないの。やだよ」

「かと言って、行く当てはないしなぁ」

 雪乃が頬杖ついて考え込む。

「私の丸館の実家行ってみる? 存在してるかどうか分からないけど」

「とは言っても、この時間じゃ電車なさそうだけどな」

「タクシーは料金がとんでもないことになりそうだし、バスは路線あるのかな。携帯あれば調べられたんだけど」

 こちらの世界で、むこうの携帯電話の通信規格が通用するものやら大いなる謎であるが。大和の兄妹共用スマホはむこうの世界で瑞穂が所持しているし、雪乃の携帯もむこうの世界のロッカーの中で、主なき無聊をかこっていることだろう。興味深い実験の機会はありそうになかった。

「そういえば大和君、車だめなんだっけ?」

「知ってたの?」

「夏に仁井別のプール行った時、秋川先輩から聞いた。あの時兄妹そろって自転車だったから、どうしてかなとは思ってたんだけど。じゃあバスもダメだね」

「すまんね。いずれにせよ、今晩はどこかに泊らないとな。ホテル無理ならネットカフェでも行く? 矢留駅東口にあった気がする。利用したことないけどね」

「情報収集できるし、いいかも。けど、学校のジャージ着てちゃ夜間入店NGじゃない?」

「じゃあ、まずは私服の調達からか。つか、深夜営業してる服屋なんてこの界隈にあるのかね」

 大和はげんなりした。

「いろいろ難題山積だな。社会の風ってのは、想像以上に辛辣なんだねぇ。こりゃあいよいよ逃亡者じみてきた」

 己が無知で無力で、いろいろなものの庇護下にある子供なのだと痛感させられる。

 突然の騒音。喫煙コーナーあたりのボックス席から、怒声や食器の破砕音が立て続けにあがった。なにやらいざこざが進行中らしい。何事かと背伸びして覗き見る。揉め事の輪の中に知った顔があり、大和は息をのんだ。

「あいつら、こっちでものさばってやがるのか」

 大和たちとは何かと因縁のある、茶髪とスキンヘッドの二人をトップとする不良グループ。剣道的価値観に傾倒する楓などは、傍若無人な彼らを蛇蝎のごとく嫌っていた。

 ネームプレートの横に初心者マークをつけたウエイトレスが、今にも泣きだしそうな顔で狼狽している。その娘を囲繞し、口々に聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせている不良たち。どれもこれもいかにもイケイケな面魂で、凶暴な衝動を持て余していそうだ。あちらの世界の下っ端諸君はまだしもあどけなさを色濃く残していたものだが、こちらの世界の下っ端連中は、五割増しほど悪党面が様になっている。有り体に言って、非常に不愉快な光景だった。

 スーツ姿の男性がおっとり刀で出てきて、激昂する不良たちとやりとりを始める。奥まった席で悠々とコーヒーを飲んでいたスキンヘッドが、ドスのきいた声で何事か言ったようだ。お決まりの巻き舌でどやどやと威嚇の声を張り上げていた下っ端連中が、水を打ったように静まり返る。まさに鶴の一声もかくや。スーツ男性とスキンヘッドがしばし会話を交し、それでどうやら収まりがついた様子だった。

 平身低頭するスーツ男性と新人ウエイトレスを尻目に、不良グループは肩で風を切って出口に向かった。大和と雪乃がいるボックスの前にさしかかった時、茶髪がじろりと睨んできた。

「いいねぇ、高校生カップルは初々しくて。かわいい彼女連れて夜のデートとか、俺もあやかりてぇわ」

 そんな甘酸っぱい状況ならどんなによかったことやら。こちとら目下、アイザック・アシモフ先生も吃驚仰天請け合いの大冒険真っ最中なのだ。そもそも、大和たちがこの世界に迷い込んだ契機は、むこうの世界の茶髪&スキンヘッド一味の当たり屋稼業に遠因があるのではなかろうか。こちらの世界の連中を責めるのは筋違いかもしれないが。よほどメンチを切り返して一言文句を言ってやろうかとも思ったが、もちろん想像にとどめておく。大和は殊勝に縮こまり、嵐の通過をやり過ごした。

 不良たちが退去すると、居合わせた客やスタッフたちが一様に胸を撫で下ろす。

「あの禿げ頭の人、お昼に交通事故起こしてなかった? 横川金手線で」

「だな」

 雪乃も憶えていたようだ。しかし禿げ頭は少々気の毒だ。せめて坊主頭と呼んでは如何だろう。

「そういえば、傷のほう、大丈夫?」

 事故の話題で大和の負傷を思い出したらしい。

「うん。少し痛むけど平気」

「……まだお礼言ってなかったね。その節は、ありがとう」

「どういたしまして」

 事故回避行動の際のお姫様抱っこシーンが脳裏に甦り、互いに面映ゆくなったかしばしの沈黙。

「雨もあがったみたいだし、そろそろ出るか。矢留駅のほう行ってみよう」

「私奢ろうか? 前に喫茶店の支払い持ってもらったでしょう。あれ、気になってたんだ」

「いいよべつに。気を遣いなさんな」

 各自の支払いは各自の財布からということで、この場は決着した。会計のためレジカウンターの前に並ぶ。前の客の会計を何気なしに眺めていた雪乃が急に血相を変え、大和の腕を引いて会計待ちの列から離脱。

「何だ、どうした?」

「お金、違う。他のお客さんたち、私たちの持ってるお金と違うお金で払ってる」

「え? だって、さっきコンビニで傘買えたぞ」

「硬貨は一緒みたい。けど、お札が……」

 別の客の支払いをそれとなく注視する。確かに紙幣の意匠が異なっていた。

「ちぐはぐな設定のパラレルワールドだな。こっちの身にもなれってんだ。雪乃さんバラ銭どれくらいある?」

「今日に限って小銭あまりない。こないだATMで仕送り引き落としたばっかだから、一万円札ならあるんだけど」

 残念ながら福澤諭吉の威光も、この異世界にまでは及んでいないだろう。もっとも秋川吉右衛門がこの世界にもいたように、福澤翁もかつてこの世界に存命し、素晴らしい業績を残しているのかもしれないが。多世界解釈を信じるとして、この世界がどのように分岐を重ね、つまりはどのような歴史を綴りつつ形成されてきたのか、大和には知る由もない。また知るつもりもない。今は世界の深遠な理論よりも、食い逃げを回避する方策こそが必要だ。

 待てよ、一万円札? ――ふと閃くものがあった。

「ちょっと伝票貸して」

 雪乃から会計伝票をひったくり、レジカウンターの前に立って財布をまさぐる。誤って使うことのないよう、普段は開けることのない財布の内ポケットに収納してあったはずだ。

「大和君?」

 雪乃が大和の意図を酌みかね、訝しんでいる。

「ありがとうございます。伝票お預かりします。会計は御一緒ですか?」

「一緒でお願いします」

 レジ係の店員が、愛想を振り撒きつつ職務を遂行中。リズミカルなレジスターの電子音が、やけに大きく耳に響く。清水の舞台から飛び降りる覚悟をもって、店のロゴ入りカルトンに財布から取り出した一万円紙幣を置いた。梅雨の頃に入手した謎の子供銀行券。もとい、山口壮次郎氏を図案とする一万円紙幣である。

「一万円はいりまーす」

 固唾を呑んで成り行きを見守る雪乃。しかし決済は滞りなく進む。店員が不審なそぶりを見せることは終始なかった。


 ファミレスを出ると、雪乃が堰を切ったように疑問をぶつけてきた。

「どんなトリック使ったの? てゆうか、どうしてあなたがこの世界の通貨持ってるの?」

「いや、俺もびっくりしてるんだけど。あの一万円札はね、おたくの量子さんから預かってたんだ」

 量子は「もともと雪乃さんの所持金」と言っていたので、あの謎紙幣は雪乃の財布の中にあったものなのだろう。いったいどこであれを手に入れ、所持していたのか。当の本人はまったく無自覚のようだった。

 何か言いかける雪乃を手で制した。尾行されている。前方の暗がりにも数人の影。

「ようお二人さん。晩飯は済んだかい。すまねぇが、ちっと顔貸してくれよ。上のもんが、おたくらに用があるんだと。主にそっちの彼女にだと思うが」

 一難去ってまた一難。さきほどファミレスでおだをあげていた不良連中だった。懲役上等の札付きたちがそこら中に跳梁跋扈するヤンキー漫画の世界でもあるまいし、朴訥を売りとする郷里の治安がかくも危機に瀕していようとは寡聞にして知らなんだ。

「この子は勘弁してもらえませんか。部活の有望選手なんですよ」

「そいつはお前さんの心掛け次第じゃね?」

「オラ、四の五の言ってねぇで、とっとと歩けやくそガキ」

 後ろから臀部をしたたかに蹴られ、蹌踉めく。大和に駆け寄ろうとした雪乃が羽交い締めにされ、抵抗も空しく猿轡をかませられた。如何になんでも一線を越えている。法治国家の天下の往来で罷り通る行為ではあるまいに。

「ちょっと! さすがに洒落にならんでしょう、それ」

 さしも穏健な大和も、ふつふつと湧き上がるどす黒い感情を抑え込むのに苦労した。瑞穂が近隣にいない状態で、例の無双状態を発揮できるのだろうか。事前に試しておくべきだったと臍を噛む。

 ただちに遁走を図るべきか、ひとまず唯々諾々と連中の指図に従って、逃げる好機を待つべきか。迷った挙句、後者を選択。なにか得物でもあればともかく、徒手空拳でこの連中を制圧できる確信が持てなかったのだ。

「こいつ反抗的な態度だな。今シメちまうか」

「タケさんとシゲさん待ってるぞ。あの人ら気ぃ短けえからな。あんまし攫うの手間取ってたら、俺らがシメられるわ」

 比較的話のわかりそうな男が、大和を宥めた。

「おい兄ちゃん。悪いこと言わんから、黙ってついてきたほういいぞ。こいつらふられたばっかで機嫌悪りぃんだ。大人しくしてたらすぐ帰してやるよ」

 しからば今すぐ解放していただきたい。この手の甘言を弄されても、悲惨な未来しか想像できない。大和が考えを巡らせようと俯いたのを、恭順の印と勝手に受け取ったのだろう。不良たちは大和と雪乃を後ろ手に縛り始めた。この流れは非常にまずい気がする。続いて身体検査。ポケットの財布を没収される。

「携帯隠し持ってねぇだろな。ちゃんと調べとけよ」

「ほお、こいつら水高の生徒か。優秀なんだな。けどよ、お勉強だけ出来ても世間は渡っていけねぇぞっと」

 御説ご尤も。しかし、世古に長けた社会人ならいざしらず、貴君らのようなアウトローに指弾されたくはない。

 徐行して近付いてくる、どこかで見覚えのある傷だらけの黒いワンボックスカー。無理矢理乗せられる。ナンバープレートをチェックしようにも、夜の暗闇とスモーク入りカバーでよく見えない。

「野郎も拉致るのか?」

「馬鹿かおめぇは。男だけほっぽりだして、通報でもされたらかなわねぇだろ」


 夜道を走ること五分ほどで、農地や原野ばかりが広がる辺鄙な地域となる。たった五分だが、大和には途轍もなく長い時間に感じられた。例のPTSDと思われる眩暈や動悸や吐き気の、容赦ない波状攻撃。しかし、今はそれどころではない。雪乃が心配だった。さぞ恐怖にうち震えていることだろう。

 暗い車内で脂汗を浮かべつつ、アイコンタクトを幾度となく試みた。じっと瞑目したままの雪乃。まるで覚悟を定めた武士が切腹の座につき、辞世の句を詠んでいるかのような風情。なんとか雪乃だけでも助けられないか。柄にもない発想に蚕食されている自分の心理を客観視する余裕もないまま、大和は必死に方策を練った。隣席にいたのが先ほどのハト派らしき男だったので、さしあたり懇願してみる。

「物は相談ですが。うちらの財布進呈しますんで、なんとか見逃してもらえませんか? もちろん警察には黙ってますよ」

「うーん、俺も正直こういうのは気が進まねーんだ。なんとか助けてやりてぇのは山々だが……運が悪かったと思って諦めてくれ。お前さんの彼女、うちらの上のもんに目ぇ付けられちまってな。タケさんつうんだが、この人無類の女好きの困ったお人でよ。なに、命まで取ろうってんじゃねえよ」

「んな理不尽な……俺らが何したっていうんですか」

「うるせーよ、テメェ」

 後ろにいた男に後頭部を小突かれ、口を噤んだ。

 ややあって車が停まった。大和たちが連れ込まれたのは、サスペンスドラマにお誂え向きの廃倉庫。スライド式のサイドドアが開き、茶髪のタケが乗り込んできた。下卑た笑み。

「待ちかねたぜ。おう、女以外全員降りろ。野郎は適当にしばいて転がしとけ」

「おいタケ、後がつかえてんだ。早くしろよ」

「そうがっつくなよシゲ。おめェ、ジャンケン負けたんだからよ。順番だ順番」

 短時間の強制ドライブで、精根尽き果て消耗していた大和。なすすべなく車から引きずり降ろされる。未だに自動車恐怖症を克服できない意気地なしの根性に、無性に腹が立った。

 雪乃とタケの二人だけを車内に残し、ドアが閉じられる。無情に響くドアロックの音。どうやら大和の判断ミスで、雪乃を窮地に追いやりつつあるらしい。大和は意を決した。あれをやるしかない。

 地面に転がされた大和の傍らにしゃがみ込むスキンヘッドのシゲ。

「御愁傷様だったな。兄ちゃん、あの子とはもうしたのかい?」

 いたぶるつもりなら精神攻撃ではなく、今は故あって肉体攻撃を所望する。連中の沸点はおそらくきわめて低いので、大和は徹底して挑発することにした。早くしなければ取り返しのつかないことに。

「クズども。くたばれ。馬鹿。アホ。ハゲ」

 悪態を畳み掛け、仕上げに顔めがけて唾を吐く。圧倒的優位者に対して、こうも元気に盾突いてくるとは想定外だったのだろう。彼の堪忍袋の緒は容易く切れ、大和の顔面に蹴りの痛撃が見舞われた。鼻血が流れだし、ジャージがみるまに暗褐色に染まっていく。意識が遠のくような鼻の奥の鈍痛に堪えながら、大和はほくそ笑んだ。その笑いがシゲをさらに激昂させた。

「このくそガキャ……望み通りぶち殺したるわ」

「鼻血、出たな」

 全身にありえない力が漲る。大和は後ろ手の結束バンドを瞬時に引き千切り、およそ常人には不可能な速さで、襲いかかってくるシゲの悪党面に拳骨を食らわせた。自動車にはねられた人間のように、盛大に回転しながらふっ飛ぶスキンヘッドの大男。偶々たむろしていた仲間数人を巻き添えに、鉄筋コンクリート柱へ激突。血の泡をふき、やがて手足を痙攣させはじめる。

「ちょ……」

「シゲさん!」

「ななな、なんだあの野郎」

 唖然として立ち尽くす不良グループの面々。彼らが遠巻きに見守る中、大和は黒ワンボックスカーに歩み寄り、施錠されたドアを開けようと力を込めたが、ドアハンドルが易々と破断。舌打ち。泥酔した大虎のように据わった目が、遠巻きにする連中の心胆を寒からしめた。

 大和はドアの縁に指をねじこむと、強引にこじ開けにかかった。爪が剥がれるも、お構いなし。ドア縁が指の形に拉げ、車体が異様な軋みをたてる。車の中でタケが何やら騒いでいたが無視した。こじ開けるというよりは引っ剥がす感じにドアを破壊。鋼の車体がまるでプラモデルかペーパークラフトのよう。後方に放られたドアは、勢い余って壁に突き刺さる。

 感情のないロボットのような動きで車の中を覗き込む大和。ジャージを毟り取られ、下着と靴下を残すのみの姿となった雪乃が視界に入る。左目のあたりが腫れていた。殴られたのか。心の芯に黒い炎が灯った気がした。瞋恚とは、きっとこういう感情を指すのだろう。

 タケの足首を掴んで車から引きずり出し、地面に叩きつける。激痛にのたうちまわる茶髪の男。タケをそのまま放置し、雪乃の猿轡と後ろ手の縛めを解いてやる。

「ちょっと待ってて。あの野郎とっちめてくる」

 言い置くと、追撃のためのそりと地面に降り立つ。

 大和は、鼻腔から出血すると身体能力が飛躍的に向上する特異体質の持ち主だった。瑞穂の生理時と同様の現象だ。日常は、生体組織の自壊を防ぐため出力が制限されている人間の潜在能力――所謂、火事場の馬鹿力。これを、自由自在に揮えるようになるからだろうと勝手に解釈している。が、正確な理屈は今もって謎だ。たぶんこれも人格共有現象にともなう副作用のひとつなのだろうが、果たして人間の潜在能力で説明がつく力なのか。

 発現条件の特質上、瑞穂は定期的にこの無双状態に嵌り込んだ。しかし心理的リミッターは常に頭の片隅にあって、力の発揮を抑制していた。妹の肉体を、無節操な力の行使による筋断裂や骨折で、頻繁に病院送りにするわけにはいかない。

 だがこの時の大和は、後先考えず怪力を解放していた。結果は御覧の通り。

「この化け物が」

 敵愾心と恐怖心の綯い交ぜになった顔。白刃が閃いた。両手にそれぞれ握られたバタフライナイフ。

「おいおめえら。一斉にかかって、こいつ取り押さえろ」

 タケの下命が飛んだ。グループヒエラルキーの下層構成員たちにとっては、忠誠心を示して点数を稼ぐ千載一遇のチャンス到来。しかし、人間離れした暴れぶりを目の当たりにしてなお、大和の前に立ちはだかろうという蛮勇の持ち主はいなかった。お前が行けと互いに肘つつきあい、目配せ交し合うが、いずれも腰が引けている。

 大和はタケのナイフに対抗すべく、落ちていた木刀をひろった。シゲの巻き添えとなってのびている不良の一人が持っていたものだ。柄の感触に眉を顰め、視線を落とす。如何なる偶然か、『剣心一如』の文字が彫られていた。

「……こんなろくでもない用途に使うなよ」

 木刀を丁重に地面に置く。私闘に剣道の技を持ち出しては、祖父や楓に顔向けできない気がした。

 あたかもその時。いかにも大排気量でございといわんばかりの厳ついバイクが二台、爆音を撒き散らしつつ廃倉庫に進入してきた。それぞれにフルフェイスヘルメットを被った大柄な男と、サングラスの男が乗っている。

「おう、なんの騒ぎだこりゃ。タケとシゲはどこだ」

「マサさん!」

「カクジさん」

「マサさんとカクジさん来た!」

 消沈気味だった不良グループの士気が明らかに高揚に転じた。どうやら大魔王の降臨らしい。茶髪とスキンヘッドはラスボスではなかったもよう。タケが叫んだ。

「ちょうどいいとこに来てくれたぜマサ。手ェ貸してくんねーか」

 ヘルメットの男は廃倉庫を見渡し、状況のあらましを察したようだった。

「タケ、テメェこの野郎。堅気にゃ手ェ出すなとあれほど」

「ちょっと待ってくれ。このガキ、シゲをやりやがったんだぞ。ケジメ取らにゃいかんだろうが」

「おう、サシでやれや。道具も使うな。素人相手にみっともねぇ真似しやがって、この馬鹿たれが」

「素人だと? 冗談じゃねぇぞおい。素手で車のドア捩切る怪物だぞ」

「知るかボケ。テメェの蒔いた種だろうが。おおかたそこの兄ちゃんの女に手ェ出して、そんでこの兄ちゃんぶちきれてるんだろう? テメェの女癖のケツまで持ってられるか。あほらし」

 どうやら新登場の大ボス様は、一本筋の通った硬骨な御仁らしい。

「上等だ。くそったれめ。殺ってやるぜ」

 額に青筋立て、ナイフを構える。いずれ我流であろうが、それなりに様になっていた。

 大和は、楓の顰に倣って剣道を畢生の友とすることに決めていた。格技経験者の性として、実戦への関心がなかったと言えば嘘になる。ある時小太刀護身道やローコンバットのナイフ術の動画を見せられ、楓と議論したことがあった。「そんな場面に遭遇したら、あんた日和りそう」と楓に煽られて反発し、無知蒙昧な大和は、「凶器捌くくらい余裕」などと臆面もなく大言壮語したものだ。しかし実際に殺気の籠った刃物と対峙してみると、やはり身が竦む。

 それでもこの時は、怒りが恐怖を凌駕した。筋力や反射神経同様に増幅されているであろう動体視力を信じ、大和は電光石火の突貫に打って出た。決着は早いほどよい。このでたらめな無双状態の過負荷に、体がいつまでももつはずはないのだ。

 迎撃の突き。切っ先は明確な殺意を宿して大和の喉元に擬されている。間合いの攻防はお手の物。紙一重で躱し、懐に入った。これで第二撃を封じる。ひきつるタケの顔に頭突きをプレゼント。頽れるタケの襟首を掴んで引き寄せ、拳骨をひとつ追加サービス。陥没する顔面。血がとめどなく流れ出す。更に拳を振り上げたところ、背中から柔らかく抱き止められた。雪乃だった。

「もういいよ」

 灼熱の鋼を水に浸けたように、あれほど猛り狂っていた交感神経系がクールダウン。今の大和に、雪乃の抱擁は恰好の冷媒らしい。

「すげえなおい。あの凶暴なシゲと喧嘩巧者のタケを秒殺かよ」

 マサと呼ばれる男がバイクから降り立った。スキンヘッドのシゲに匹敵する巨躯。

「次は俺と勝負すっか? 兄ちゃん」

 大和は首を振った。好敵手の勇戦を見てアドレナリン分泌がご機嫌なことになる心境は理解できなくもないが、喧嘩沙汰ははっきり言って畑違い。苦手だ。

「もう勘弁して。スポーツじゃないんだから」

「そうか。んじゃま、うちの舎弟どもに非があるみてえだし、ここいらで手打ちにしとくか。おうい、誰かシゲとタケ病院に運んでやれ」

 マサがフルフェイスヘルメットを脱いで御尊顔を晒した。大和と雪乃が固まる。

「……何してんのお前。久保」

「ん? 俺の事知ってるのか?」

 大和は脱力した声色で答えた。

「ああ。鉄拳のマサさんだろう」

 こちらの久保将幸は、どこでどう蹉跌をきたしたものやら。無頼の輩の首魁としてブイブイ言わせている御様子。手下の不良たちは素直に快哉している。

「さすがはマサさん。有名人だな」

「ったりめーだ。この街で鉄拳のマサを知らねえやつはモグリだろう」

 将幸自身は憮然とした表情。

「冗談じゃねえぞ、この馬鹿野郎ども。こっぱずかしい渾名広めやがって。こんな堅気の兄ちゃんにまで知れ渡ってるとか、どうなってやがるんだ」

 雪乃が大和に耳打ちした。

「あれ、C組の久保君じゃない? 確か桜井さんの――あなたの妹の恋人だとか噂の」

「いやいや、君まで何を言う。どこからそんな珍妙な噂が出てくるんだ。そんなことより――」

 大和は頬を赤らめてそっぽを向いた。

「その格好はちと目の保養もとい、目の毒だ。せめてジャージ羽織ってくれよ」

「無理。茶髪のあいつにジャージ上下とTシャツ切り裂かれたもの。ナイフで。もう着れないわ」

 大和はジャージを脱いで雪乃にかけてやろうとしたが、彼のジャージもまた血糊だらけであることに気付いた。将幸に苦情を言う。

「おたくの舎弟の乱暴狼藉で、彼女この有り様だ。何か着るものよこせよ」

「そいつぁ悪かった。弁償しよう。俺のダウンジャケットでよければ進呈するが」

「貰っとく。あと、そこの彼らに財布を取り上げられた。なけなしの全財産なんだ。返してくれないか」

 将幸は剣呑な目つきで不良一同を睥睨した。

「テメェら、あまり俺に恥をかかすなよ。財布返してやれ」

 悄然と項垂れた数人が進み出て、大和に二つの財布を手渡した。

「調子こいてすんませんした」

「人は見かけによらねぇつーが、アンタは極めつけだ。おっかねえやつだな」

 少年アニメの主人公もかくやという万夫不当ぶりは、さぞかし腕力信奉者の連中を瞠目させたことだろう。瑞穂のケースより幾分ましとはいえ、鼻血を流して覚醒というのはいまいち微妙と言わざるを得ないのだが。

 しかし雪乃の危機を救えたのだからよしとするべきか。なすすべなく事態を傍観し、切歯扼腕するよりはずっといい。

「お前ら、命拾いしたな。未遂だからよかったものの、もしタケの馬鹿たれがやらかしてたら、今頃血の雨が降ってたぞ。この件に関わったやつ、後で焼き入れ確定な」

 将幸が関与した者の制裁を通告し、手下たちは巨匠ムンクの『叫び』を彷彿とさせる容貌となる。

「今日はもう集会どころじゃねえな。お開きにすっか。お前さん方、家どこだ。車で送ってやるよ」

「俺は水崎で、彼女は泉台なんだけど……諸般の事情で帰るに帰れなくなってるんだよ」

 将幸がまったく見ず知らずの人間であったら、窮状を洩らすこともなかったであろう。なまじ元の世界で交流があり、彼の天衣無縫な人柄を知るだけに、どこか心を許していたのかもしれない。

「なんだなんだ、駆け落ちでもしたのかい?」

 将幸はひやかすように言ったが、大和と雪乃の困惑顔を見て表情を改めた。

「何か知らんが訳ありっつうことか。よし、なら詫びの印に一宿一飯世話してやろうじゃねえか」

 渡りに船の提案だが、どうしたものか。二人は悩んだ。そうこうするうち、将幸は携帯でどこやらへ連絡を入れている。

「お前さん方、水高の生徒なんだってな。俺のダチにも現役水高生がいてよ。そいつに泊めてくれるよう頼んでやった」

 これまた他力本願な。御所山の久保邸に投宿ではないのか。

「ろくでなしの親玉みたいなマサに、進学校で真面目に勉強やってるダチがいるんかい」

 一団の幹部格らしいサングラスの男が茶化す。

「俺をなめんなよカクジ。こう見えても小坊の頃ぁおめぇ、二丁目の神童と呼ばれたもんだ」

「完全に過去の栄光じゃねえか」

「まぁそいつはガキの頃近所に住んでたやつでな、今うちの妹の家庭教師をやってるんだ」

「お前んとこの妹、兄貴と違って出来がいいらしいな」

「ほっとけ」

 将幸の妹の家庭教師。それは瑞穂のポジションではないか。こちらの世界での担当者は誰なのだろう。昔将幸の近所住まいだったというから、楓の線はなさそうだが。

「おい、車借りるぞ。こいつら送ってくるわ。カクジ、すまねえが後始末頼む」

「あいよ。タケとシゲ、あれ大丈夫なのかね?」

 カクジはサングラスをずらすと、底光りのする目で大和を見た。

「おい兄ちゃん。お前さんがのした二人な、あんなんでも一応俺らの身内だ。やつらに何かあった時ゃお礼参りに行かせてもらうぞ」

 筋者論理を善良な一般高校生相手に振りかざされても迷惑なのだが。しかしこれ以上彼らと蝸角の争いを繰り広げるのはいかにも不毛なので、大和は沈黙した。



「しけたツラしてやがんな。酔ったのか? おかしいな、紳士運転できたつもりなんだが」

「自動車苦手なんだよ」

「あの大立ち回りを演じた野郎がねぇ。バランスよく出来てるもんだな。さ、着いた」

 将幸に車で送り届けられたのは、事の発端となったファミリーレストランの駐車場。

「先方に事情は話してある。悪ぃが俺はここまで。俺がダチに近寄ると、やつんとこの運転手が嫌がるんでな」

 どうやらここで放免となるらしい。

「今日は舎弟どもが迷惑かけちまって本当にすまなかった」

 そう言うや、深々と頭を下げる。

「もういいよ。俺も頭に血が上って、あの二人には過剰に報復したんだから」

「でも手加減してくれたんだろう? 俺の目は節穴じゃねえぞ。お前さんが本気なら、あいつら今頃三途の川渡ってるわ。まぁ連中にゃいい薬になっただろ。そのうちまた会う機会がありゃ一杯やろうぜ」

「いや、俺未成年なんですけど。ソフトドリンクでよければ御相伴に与るけれども」

「それも乙なもんかもしれねえな」

 莞爾として笑う将幸。彼は楓とタメ年で十八歳だったような気もするが、瑣末な突っ込みは差し控えた。この世界では十八歳が成人扱いなのかもしれないではないか。

「あんたもやんちゃするのは程々にしとけよ。八尋ちゃん心配するぞ」

 降り際そう忠告してやると、案の定鳩が豆鉄砲くらったような顔になる。こちらの将幸にその名の妹がむこう同様いるのか判然とせず、大和の言葉はかまかけに近かったが、どうやら久保八尋嬢も存在している様子。

「え? お前、八尋の知り合い――」ドアを閉じ、会話を遮断。


 駐車場に降り立ったところでふらつき、踏鞴を踏んだ。さすがに疲労がピークに達している。加えて無双状態の後遺症が、そろそろ全身を苛みだしていた。雪乃が駆け寄って支えてくれた。

「ありがと」

 深夜の駐車場に車はまばらだったが、一台のヘッドライトが不意に点灯した。ファミレスの駐車場よりは、高級料亭の車寄せあたりが似合いそうな黒塗りの大型セダン。後部座席のドアが開き、人が出てくる。濃紺セーラー服にカーディガン、白ハイソックスに黒ローファー。あちらの世界と変わらぬ水丘高校女子の制服。

 深夜にもかかわらず、律義に制服に着替えて迎えに来たのだろうか。確かに生徒手帳には、外出時は制服着用云々と記載されていたような気もするが。そんな埃をかぶった校則など形骸化して久しいだろうに。

「あれ、君は」

 今日の夕方、水高の音楽室でピアノを弾いていた外国人の女子だった。

「乗ってください」と、流暢な日本語。

 問いたいことは山ほどあったが、頭がうまく回っていない。再度促されて車に乗り込んだ。将幸の車が惜別のパッシングをして走り去る。

「渡辺さん、お願いします」

 運転席のスーツ姿の男が了解の会釈。

「おるちゃんから電話来て驚きました。まさかあなたたちだったとは。トラブルに巻き込まれたそうで、災難でしたね」

「おるちゃん? どなたですか、それ」

 女の子から笑みが零れた。

「失礼。久保さんのニックネームです。正確にはオンラインRPGでの彼のキャラネーム、Orzに由来する愛称なんですが」

「ネトゲ繋がりの御友人でしたか」

「はい。昔近所に住んでた幼馴染なんですが、最初はまさかOrz氏が久保さんだと思いもよらなくて。初オフ会で久しぶりに再会したときは、あの通りの強面になっててびっくりしましたけど。でもゲーム世界の中では、とても温厚で淑女的なんですよ」

 そこは紳士的と言うべきだろうが、外国人のこと、いちいち重箱の隅をつつくこともあるまいとスルー。しかし、まるきり言葉の誤用ということでもなかったらしい。

「おるちゃんああ見えて、ネコ耳の女性キャラでプレイしてるんですよ。いや笑ったら失礼ですが」

 俗に言うネカマプレイというやつか。大和としては他人の趣味嗜好にケチをつけるつもりは毛頭ない。どうぞ御自由に、だ。

「まぁリアルのお仲間には内緒みたいです」

 それはさもありなん。近隣の愚連隊を牛耳る大立者が、オンラインゲームでは異性キャラのロールプレイングに興じているなどという醜態が表沙汰になれば、さすがに沽券に関わるだろう。もっともあの将幸のことだ。素知らぬ顔で嘯くかもしれないが。

 愁眉を開いて緊張が弛んだのか、雪乃は睡魔と熾烈な格闘を展開中のようだった。

「今日はお疲れみたいですし、家でゆっくり休んでください。積もる話はまた明日にでも。僕も明日は学校休みですし」

 僕っ娘とは珍しい。日常のシーンにおいて、素でその一人称を用いる女性にはかつて出会ったことがない。てっきりフィクションの中だけにいる架空の存在かと思っていた。

「御厄介になります。申し遅れましたが俺は――」

「知ってますよ。桜井大和さん。そしてそちらは白瀬雪乃さん」

 さすがに言葉を失った。大和と雪乃が存在しない可能性が濃厚なこの並行世界で、何故彼らを知る人物がいるのだろう。それとも、彼らに該当するドッペルゲンガーがこの世界に存在しているということか。それはそれで貴重な情報となるだろうが。

「僕はマリアン・シャーウッドといいます」

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