第二章 夏


「いろいろとまずいんじゃないか? 瑞穂と同じ部屋なんて」

 台所で洗い物をしている楓に詰め寄った。

「あんたとじゃないんだから、別にいいじゃん」

 大和は言葉を飲み込んだ。反駁したところで論破されるのは目に見えている。業腹だが、楓の舌鋒には敵うべくもない。なにせ昔から口が達者な上、生徒会のスポークスマンとして口喧嘩の研鑽を積んでいる。肝も据わっているので、たとえ文壇や学界の碩学が相手でも、臆せず論陣を張ること請け合いだ。

 当初、大和は雪乃の寝具を客間に用意しようとした。間髪容れず楓の指導がはいったのだ。

「薄情なやつね、折角同級生がお泊りにきてるのに。瑞穂の部屋に布団敷きなさいよ」

「あの……先輩の部屋は如何でしょう」

 当の客人は、楓の部屋で寝たい御様子だが。

「ごめん、あたしの部屋今ね、水高祭の資料とかでしっちゃかめっちゃかでさ」

 水高祭の資料に混じって、オンラインゲームの攻略本やら同人誌やらが山積みされていたような気もするが、この場は何も言うまい。後輩に対する体面もあろう。

「雪乃さん、姉さんに内緒話がありそうな雰囲気だったじゃないか」

「ほほう。いつの間にかファーストネーム呼ぶ間柄に?」

「はぐらかしなさんな。たぶんあれじゃないの、例の二重人格の件で姉さんに相談したいんじゃないのかね」

「まぁ、おそらくそうだろうね。相談相手の本命は、あたしじゃなくて大和だろうけど」

「俺? なんでまた」

「これだからあんたはネジが一本抜けてるっつうの。かの量子嬢のお目当てはあんたらしいじゃないの。どういう経緯なのか知らないけど。当事者から情報収集するのが一番手っ取り早いでしょうに」

「なるほど」

「けど、あんたたちお互い相手のこと苦手みたいだから。そこで瑞穂の出番よ。緩衝材としてうってつけじゃない」


「折角の週末なのにごめんね。お騒がせすることになっちゃって」

 雪乃は床に敷いた布団にもぐりこむと、しおらしく言った。

「まぁ気にしないで。言い出しっぺ姉さんだし。電気消す? 常夜灯点けとく?」

「真っ暗がいいかな」

 胸襟を開いて語れば、雪乃の人となりについて見えてくることもあるのではないか。他愛ない四方山話の累積が、二人には必要なのかもしれない。

「桜井さんのお兄さん、やばいね。稽古見てて震えたわ。俗に言う武者震いってこういうやつ? まだ気持ちが昂ぶってる。アドレナリン分泌やばい」

「うわー剣道家のメンタリティだねぇ」

 自分も人のことは言えないが。最初、大和は手を抜く気満々だったのだ。しかし楓と対峙した瞬間、そんな姑息な考えは雲散霧消してスイッチが入った。面金の奥で爛々と輝く澄んだ瞳。気魄の宿る竹刀。楓の剣道は、大和を没入にいざなうだけの心地良い熱さと清々しさに横溢している。

「秋川先輩がすごいのはわかってたつもりだけど、まだ認識が甘かったわ。今日の先輩は、部活の時に輪をかけて凄かった」

 今時流行らないのかもしれないが、楓は紛れもなく努力と根性の人。穴だらけの稽古袴がよい証左だ。おしなべて掛かり稽古の元立ちが格上の場合、掛かり手の気が衰えると容赦なく突き倒しにかかってくる。当然床の上を七転八倒することになり、その際摩擦で袴に穴があくのだ。いうなればしごきの履歴であり、猛稽古の勲章ともいえる。

 挫折と敗北の涙を流し、それを糧に地道に力を養い、今の楓の剣道は錬成された。晴れがましい舞台で輝くのは、彼女のような者が相応しい。如何なる天の配剤か知らないが、ありえない経緯で化物じみた身体能力を手にした大和などは、本来表舞台に立つべきではないのだ。

 などと韜晦を正統化しつつ、瑞穂を例外とする矛盾には気付かない大和。

「うちの死んだ祖父さんの弟子にさ、県警の熊みたいな親爺さんたちがいてね。あの人たち寄ってたかって姉さんしごいてたからね。祖父さんへの恩返しとか称して」

「先輩や桜井さんのお祖父さんて、秋川吉右衛門先生だよね」

「知ってるの?」

「剣道界の有名人だしね。実は子供の頃お会いしたことあるの。うちの父方の祖父が学生の時、秋川先生とお友達だったらしくて。私が剣道始めたのも、あなたのお祖父さんに勧められたから」

「へぇ、そうなんだ。雪乃さんのお祖父さんは御健在なの?」

「うん。奥森っていうところで、神社の神主やってる」

「あーもしかしてうちの道場の額縁書いた人ってあなたのお祖父さん?」

「ごめん、よく見なかった」

「白樹って落款があったみたいだけど」

 秋川家道場の額縁には、故祖父の座右の銘『剣心一如』の文字が雄渾な筆致で揮毫されていた。吉右衛門が何かの折に、知り合いの神主に書いてもらったと語っていた気がする。

「それ、うちのお祖父ちゃんの雅号ぽい。書道家のペンネームみたいなやつ」

「そっか。御縁があったんだねぇ、わたしたち」

 範士八段秋川吉右衛門は晩年も矍鑠たるもので、八十歳を過ぎてなお県警や大学剣道部の猛者たちに胸を貸していた。請われて海外へ指導に赴くこともたびたびあった。存命中はまだ九段十段が廃止されておらず、九段に推す声も再三あったらしい。当の本人は「ばがしゃべすんなで」と言い張り、昇段を固辞し続けたと聞いている。

「先輩の家ってほんと剣道一家だね」

「まぁ庭に剣道場あるような家だから」

「先輩のお父さんも剣道を?」

「恭太郎伯父さん? 高校まではやってたみたい。水高剣道部のOBになるね。現役時代は玉竜旗とか魁星旗とか、けっこう上位までいったらしいよ。けど祖父さんと喧嘩して、大学の時やめちゃったんだって剣道」

 今にして思うと、祖父が孫たちの指導に熱心だったのは、そのあたりに遠因があるのではないだろうか。

「しくじったな。今日、防具持ってくればよかった。私も今度お兄さんに稽古相手お願いしよう。秋川先輩と互角な人とやってみたい」

 瑞穂は幾分慌てて、予防線を張りにかかる。

「うちの兄貴人間嫌いで偏屈なとこあるから、楓姉さんとわたし以外の人とは、あまりやりたがらないかも」

 その場しのぎにせっせと墓穴を掘っているような気もするが、気にしないことにした。

「なら桜井さんでも。どちらかというとお兄さんより歓迎。お兄さん、たぶん私のこと鬱陶しがってると思うし」

 藪蛇だっただろうか。瑞穂は何も言わず寝がえりをうった。適当なコメントが見つからなかったのだ。雪乃は、瑞穂の無言を就寝の合図と了解したようだった。



 大和は水高を見下ろす丘陵の上に立っていた。この水丘高校裏手の丘陵には矢留市の配水場があり、水道山の通称がある。校名の由来もここにあった。

 大和は緩慢な動作でこめかみに指をあて、沈思した。少し前まで自室の寝床で寝ていたはずだ。これは夢にちがいない。その証拠に、五感がすこぶる希薄だ。意識だけがやけに明確で、奇妙な話だが、現在進行中の現象を夢と自覚している。こうべをめぐらせてみた。配水場敷地の芝生の上に、人が倒れていた。タンクトップにジャージパンツ姿の雪乃だった。近寄って覗き込み、頬をつついてみる。どうせ夢だ。しかし指先に感触があった。五感が徐々に鮮明になりつつあるようだ。

「おーい、起きろー」

 雪乃は寝ぼけまなこで上半身を起こすと、焦点のあわない瞳で大和を見た。一瞬後、一気に覚醒したらしい。かいなをかき抱き、警戒と戸惑いも露わに後ずさる。

「何でここに? 何してるの?」

「落ち着いて。と言っても無理かもしれないけど、ともかく落ち着こう」

「別に取り乱しちゃいないわ。これは所謂、夜這いってやつなのかしら?」

 路傍の石ころでも見るかのような冷たい瞳。大和は怯んだ。

「買い被ってもらって光栄だけれども、俺にそんな度胸はないので」

 雪乃は深呼吸して立ち上がった。

「ここ、水道山? 桜井さんの部屋で寝てたはずなのに……」

「俺も部屋で寝てて、目が覚めたらここに立ってた。したがって、これは夢だという結論に至ったところなんだが」

「ずいぶん明瞭な夢もあるものね。今何時頃なんだろ。お兄さん、時計持ってる?」

「御覧の通り、着の身着のまま。つうか、お兄さんて呼ぶの勘弁して。なんかむず痒くて」

「じゃあ大和君。時間感覚ちょっとおかしくない? 午後十一時頃就寝して、体感でもそれほど経過してないように思うんだけど。なんで今こんな日が高いんだろ。どう思う?」

「即席で思いついた可能性なら三つほど」

「拝聴するわ」

「一つ。何者かが、寝てる俺たちを薬物か何かで昏睡状態にして拉致し、ここに遺棄した。薬の効果が切れ、先ほど目を覚ました」

「サスペンスドラマじゃあるまいし」

「二つ。二人同時に夢遊病を発症し、意識がないままここにやってきた。つい先ほど、意識が回復した」

「……」

 二重人格を内に抱える雪乃としては、思い当たる節もあろう。

「三つ。これはあくまでも夢である」

「それが一番望ましいわね」

 大和は万歳した。

「ごめん。誠に遺憾ながらお手上げだ。俺も夢オチで片付けたいんだけど」

 実は先ほどから、状況確認のために瑞穂の体へ意識を切り替えようとしていたのだが、うまくいかない。こんなことは初めてだった。

「現実逃避しててもね……」

「だな。状況打開に向けて行動しよう。さしあたり学校行ってみる? ここから近いし。電話借りて、楓姉さんに連絡取ろう。日曜だけど水高祭前だし、誰かいるっしょ」

「私たち裸足だよ。ついでに寝間着。不審者だと思われて通報されないかね」

「水道山公園から第二グラウンドに出る抜け道あるよ。五月の運動会の時、姉さんに教えてもらった。住宅地通らないから人目にもつかない。まぁ、たまに熊とかカモシカが出没するらしいけど」


 大和は記憶を頼りに、水道山を横断する県道高架橋の下をくぐり、林道に分け入った。砂利道だったがなにほどのこともない。大和も雪乃も剣道家の端くれであり、幸いにして足が繊弱ということはない。

 小学生の頃、よく祖父に家庭菜園を手伝わされたことが懐かしい。裸足での野良仕事に、どこの忍者の修行だよと不平を洩らしたものだ。おおかた時代劇に感化された祖父の思いつきであろうが、孫一同足腰は強靭に育ったので、あれはあれで合理的な鍛練法だったのかもしれない。

「足、大丈夫?」

「うん。砂利道よりぬかるみのほう嫌だな」

「そこガラス片あるから気をつけて。雪乃さん怪我したら、俺、姉さんにシメられる」

「秋川先輩、そんなことしないでしょう」

「俺にはするんだよ。遠慮なく鉄拳制裁がとんでくる」

「仲いいのね、先輩と大和君。本当の姉弟みたい」

「いやいや、どこが」

 雪乃は何かを言い淀んだ。大和は黙って次の言葉を待った。

「やっぱいい。私は敵に塩を送る趣味はないもの」

「なんだよそれ」

 この敵認定はどういう意味なのか。大和は悩んだ。どうやら雪乃は楓に格別の忠誠心があるようで、それが瞳を曇らせているのではあるまいか。

 つらつらそんなことを考えて歩いていると、いきなり雪乃が大和の腕にしがみついてきた。

「な、何事」

「蜂、蜂」

 珍しくうわずった声。威嚇的な翅音が耳の近くを通過した。目で追うとスズメバチが数匹浮遊している。

「巣あるのかな。早くここから離れよう」


 まろぶように丘陵を駆け下り、中腹にある水丘高校の敷地に至って二人は息をついた。

「さっきはごめん、取り乱して。私虫が苦手で」

「まぁスズメバチは誰だって怖いな」

 第二グラウンドから第一グラウンドへと続く石段を登り、新校舎へ向かう。途中、部活動中の生徒たちとすれ違ったが、特に見咎められることもなかった。大和と雪乃はラフな普段着に裸足であったため、怪訝そうな眼差しを向ける者も若干名いなくはなかったが。

「校務センター行ってみる?」

 校務センターは、一般的に言うところの職員室。

「うちの教室いってみよ。クラデコの準備やってる人いるかも」

「俺一緒で平気?」

 余計な気を回し過ぎだろうか。果たして雪乃も返答に困ったようで、首をかしげただけだった。


 ピロティで見知った顔に出くわした。段ボール箱を抱えた高橋翔子生徒会長だ。

「いくら校則で私服OKでも、さすがにパジャマで校内うろつくのはどうかと思うな」

 雪乃の格好は運動着に見えなくもないので、この非難は主に大和へ向けられたものだろう。

「先輩」

「はい。ええと、どちらさまでしたっけ?」

 声をかけてからふと思う。メイド喫茶打ち合わせの際、瑞穂で言葉を交わしたことはあるが、大和では面識がない。

「一年の桜井大和といいます。秋川楓の従弟なんですが。ちと先輩にお願いが」

「へぇ、会長の親戚が一年にいたんだ」

「いや会長はあなたでしょう」

 確かに楓は影の生徒会長とも言うべきポジションかもしれないが。

「私は副会長の山口ですよ。全校集会でよく楓の隣にいるから、勘違いしたのかもね」

 いかにも無知な新入生を啓発する上級生然と、翔子は優しく語った。山口? 高橋ではないのか。何故偽名を名乗る必要があるのか皆目見当もつかない。ひっかかるものを感じたが、閑話休題とばかりに用件を話した。

「実は至急楓姉さんに連絡を取りたいんですが、俺たち今携帯持ってなくて。恐縮なんですが先輩、携帯持ってたら貸していただけませんか」

「あらそうなの。ちょっと待ってね」

 翔子は段ボール箱をおろし、スカートのポケットをまさぐった。

「ごめん、鞄に置いてきちゃった。ていうか、楓なら生徒会室にいたわよ、さっき」

「へ、まじですか」


 翔子と分かれた後、生徒会室に行ってみようということになった。歩を進めようとして立ち止まる。視野の片隅に鈍い光沢を捉えたのだ。

「どうしたの? なにそれ、鍵?」

 チェーンのついたアンティークキーを拾った。古めかしい形状の鍵で、おそらくはアクセサリーか携帯ストラップの類。

「高橋先輩の落し物かな。後で渡しとく」


 グラウンド脇の水飲み場で足を洗い、上履きを履こうと生徒昇降口に向かう。ここでまた予期せぬ問題が発生した。

「あれ? 私の靴棚がない。知らない子の名札ついてる」

「俺のもないな。ここ、うちのクラスの靴棚で合ってるよな」

「うん、間違いない」

 得体のしれない胸騒ぎがした。鉄の塊でも飲み込んだかのような鳩尾の重苦しさ。

「職員玄関で来賓用スリッパ借りよう」

 スリッパをこっそり拝借し、北棟二階の生徒会室に向かった。生徒会室の引き戸の前に着くと、雪乃と目配せを交わす。雪乃も思うところあるようで、ここまで無言。ノックをして中に入る。窓を背にしてしつらえられた会長卓に、セーラー夏服姿の見慣れた人物が鎮座していた。コンビニサンドイッチを頬張りつつ、執務に勤しんでいる様子。

「姉さん」

 大和の呼びかけに顔をあげたが、反応は捗々しいものではなかった。

「誰? 生徒会に御用?」

 大和は眉を顰めた。雪乃に至っては呆然と立ち尽くしている。

「さっきからみんなして何なの? 壮大なドッキリかこれ。水高祭の企画の一環とか?」

「ごめん、君の言ってること、ちょっとよくわかんない」

「秋川楓さん。俺、あなたの従弟なんですが、記憶にありませんか?」

 漠然とした疑惑が大和をして、楓に普段通り接することを躊躇わせていた。楓は身を乗り出して大和の顔を凝視した。

「仙台の諒介君?」

「いや、梢伯母さんのほうじゃなくて。恭太郎伯父さんの妹で、一昨年事故で他界した桜井朋江の息子の大和です。ちなみに双子の妹は瑞穂」

 楓は明らかに面食らっていた。

「ちょっと待って。朋江さんは確かにうちの叔母だけど、奥森に嫁いで健在だよ。名字も桜井じゃなくて白瀬だし」

 大和もさすがに呻吟した。

「どうなってるのこれ……」

「女の子の従妹がひとりいるはずだけど。幼稚園の頃、川で溺れて意識戻らないまま今も療養中って聞いたような。あたしよりふたつ下だから、十六歳のはず」

「その子の名前、分かります?」

「白瀬蛍子ちゃん。小さい頃はよく一緒に遊んだな。かわいい子だったから、元気だったら今頃美人になってたと思うよ。そっちの彼女みたいにね」

 自分の言葉で、何かに感付いた様子。

「あなた、どこか面影があるね。もしかして蛍子ちゃん……なわけないか」

 思い出したように詰問口調になる。

「つか、さっきから何なの君ら。人んちのこと根掘り葉掘り。うちの生徒? 学生証見せてくれない?」

「別にやましいところもないので、見せるのは全然かまわないんですが、今持ってないんですよ。困ったことに」

 楓が内線電話の受話器に手を伸ばしたのを見て、大和は撤収の算段をし始めた。大和を遮るように雪乃が進み出た。

「秋川先輩。折り入ってお話があるんですが」

「何?」

 雪乃はさりげなく楓に歩み寄り、如何なる作戦かいきなり肩をつかんだ。不意を突かれた楓は思考がショートしたらしく、あっけにとられて幾度も瞬き。が、回路復旧は速やかだったようで、柳眉を逆立てかけた。

「ちょ、何す――」

 楓の耳朶に唇を寄せ、何かを囁く。効果は覿面に現れた。あの楓が動転してしどろもどろになっている。滅多にお目にかかれないシーンなのでもう少し見物していたかったが、雪乃に退出を促され生徒会室を後にした。

「なかなか大胆なことするね。何て言ったのさ」

 半眼で一瞥された。

「君には教えない」


 その後、大和と雪乃は人の殆ど来ないモニュメントタワー非常階段に潜伏し、善後策を協議した。

「さて、どうしたもんかね。姉さんがあの調子じゃ、家のほうもどうなってることやら」

 何よりも瑞穂の体と意識の切り替えができないことで、大和の不安は増幅されていた。

「疲れた?」

 雪乃が先ほどから船を漕いでいる。

「ごめん。なんか急に眠気が」

 欠伸は伝染するというが、大和も雪乃の欠伸を眺めていて、俄かに睡魔の襲来を感じた。

「どこかで休もうか。保健室――はまずいだろうし。研修会館の二階か三階に和室あったよな、確か」

 生徒会や運動部が合宿に使うらしい。久保将幸が昔こっそり昼寝に利用していたという話を、瑞穂で耳にしたことがある。

「鍵ないと入れないんじゃない?」

「水高祭関係で開いてるんじゃないか。ほれ、窓開いてるみたいだし。まぁ行ってみよう。俺も布団で少し横になりたい」

 休憩は精神安定の妙薬だ。さっそく人目を避けて移動し、研修会館に忍び込む。冷静に考えると隠密行動を取る必要はまったくなかったのだが、己らが世界の異端者であるかのような強迫観念に浸潤されつつあったのだ。

「和室空いてるね。布団借りて仮眠取ろう」

 言うそばから雪乃は畳に倒れこみ、寝息を立て始めた。大和は苦笑して手近にあった座布団を折り曲げ、枕代わりに頭へかってやった。大和自身も抗いがたい眠気に捉われ、横になる。誰かに見つかれば、いささか面倒な事態になるかもしれない。きっと伝聞を経るにしたがって、話に無責任な尾ひれがつくことだろう。楓ならばどう反応するのだろう。盛大に焼きを入れられるだろうか。いやさその前に、先刻の楓は大和の知る楓ではなかった。とりとめのない想念が去来するうち、大和の意識は眠りに墜ちた。今はこの安眠を貪る以外、なにもかもどうでもいい。



「桜井さん。桜井さん、起きて」

 揺り起こされて重い瞼を開く。そこは見慣れた瑞穂の部屋だった。顔の輪郭を指でなぞり、次いで胸の双丘を掌で揉んでみる。

「なにしてるの?」

 雪乃が首をかしげていた。

「いや、クラスの子がね、朝にマッサージするとバストアップに効果あるって。都市伝説だと思うんだけど」

 もちろん口からでまかせで、瑞穂の体であることを確認する儀式だった。雪乃もつられて胸をさすり始めたのには面食らったが。

「成長ホルモンの分泌量って、ノンレム睡眠中にピークになるらしいから、結局、早寝早起きが一番効果的だって聞いたけど」

「寝る子は育つってやつね」

 論理的につっこまれても困る。雪乃は容姿に恵まれているが、そういう分野への関心は希薄な印象があった。往々にして寝癖や、部活で拵えた擦り傷にも無頓着だ。しかし先の発言をかんがみるに、人並みの努力は払っていたりするのだろうか。女子道の後学のために訊いてみたいものである。

「ところで私、今朝変な夢見たようでさ。ちょっと説明しづらいんだけど、大和君にいくつか確認したいことが」

 雪乃の言葉に、些細だが看過しえぬ変化がひとつある。就寝前は「お兄さん」と呼んでいた大和のことを、名前で呼んでいる。夢なのかうつつなのか定かでないが、やはり先ほどの体験の記憶を共有していると考えていいのだろうか。

「兄貴起こしてくるね」

 瑞穂は素知らぬ態をよそおって、大和の部屋に行った。兄妹のリンクは正常、と呼ぶにはあまりに異常かもしれないが、通常の人格共有状態に復帰していた。大和がおそるおそる眼を開けた刹那、芝生の匂いが微かに鼻腔をくすぐる。

 廊下に出ると雪乃が待ち受けていた。言葉を探している様子だ。

「……おはよう。戻ってこれたね」

「変な夢見たぽいな、お互い」

「夢ってことにしちゃうんだ?」

 さしあたり致命的な破滅につながる危険はないと踏む。精神衛生のためにも問題の棚上げは有効だと思うのだ。大和にせよ雪乃にせよ、それぞれ大きな厄介事を抱え込んでいる。これ以上の負荷は、心の破綻を招きかねない。

「この件はしばらく様子見ないか。どう考えても評価できる段階じゃないっしょ。いろいろ調べたいことも出てきたし」

「分かった。いまさらだけどメアド交換しとこ。何かあったら連絡ちょうだい」

「あー俺携帯持ってないんだよ」

 瑞穂が持っていれば事足りるので、余計な出費をすることもないと考え、所有していない。

 携帯でふと思い出す。胸ポケットに手を当てると、あの拾った鍵のストラップが確かにあった。

「携帯ないんだ。不便じゃない?」

「友達あんまりいないからな、必要ないんだよ」

 事情を斯々然々と説明するわけにもいかないので、冗談でお茶を濁す。雪乃は額面通り受け取ったようだ。

「意外だな。友達多そうに見えるけど」

 冗談のつもりだったが、よくよく考えてみると、確かに友人と呼べるほどの者は指折り数えるほどだ。大和が対人関係に淡白だからであろう。特にここ数年は、横浜の旧友たちと久闊を叙す暇もなかったし、転居先のここ矢留でも、新たな同級生たちと交誼を結ぶ余裕もなかった。

「かくいう私も友達少ないから、偉そうに言えたもんじゃないんだけど。上辺の友情ってどうも苦手」

 狷介固陋な雰囲気を纏う雪乃のこと。さもありなんだ。しかし慎重に論評は避けた。

「妹が携帯持ってるから、あいつとアドレス交換してやって。それで俺と連絡つくようになるから」

 そう言ってやると、いつもの仏頂面が心なしか柔和になったように見えた。



 水高祭当日となった。折よく天候にも恵まれ、梅雨明けの蒼穹がひろがる。

 瑞穂と違い特にやることもなかった大和は、しおり片手に逍遥していた。新校舎は中央にコモンスペースと呼ばれる吹き抜けホールがあり、各教室はその外周に配置されている。順繰りに展示を見て歩き、時間を潰す。実行委員会直営のメイド喫茶が営業を始める時間になれば、大和をどこかで休眠させ、瑞穂で接客に専念するつもりだった。

「おーい、桜井」

 廊下で声を掛けられた。久保将幸だった。見慣れぬ制服の女子を伴っている。

「ちわ。妹がいつも世話になってるね」

 大和と久保はファーストコンタクトであることに留意し、しれっとこたえた。

「やっぱ似てるな。さすが双子だ」

「子供のころはもっと似てたんだけどねぇ。周りがおもしろがって煽るから、意識して互いに似せようとしたもんだ。近頃は年々、容姿も性格も相似からずれつつあるよ」

「そりゃそうだ。お前さんは男で、やっこさんは女だ。兄貴の前でこう言うのもなんだが、胸の大きさとか、たいへん俺好みと言える」

 背筋に冷たいものが走る。

「あんた、女子苦手なんじゃなかったのかよ」

「確かに面倒な女は苦手だな。さっぱりした気性のやつは好きだ。秋川然り、お前さんの妹然り」

「つか、そっちの彼女さんの不興を買うぞ」

「懸念には及ばん。こいつは妹だ。来年高校受験なんでな、下見がてら文化祭見物に連れてきた」

 久保妹が会釈を寄越した。

「水高志望なんだ。それはそれは。来年のうちの倍率どうなんだろ」

「倍率はともかく、偏差値が追いつかなくて。正直、あたしの成績じゃ厳しいです」

「このお兄さんに家庭教師頼むか? つい半年前まで現役受験生だったわけだし、適役だろう」

 久保妹は、この提案に関心を持った様子だ。

「妹さんのためにも御免こうむりたいな。家庭教師は頭いいやつがやるもんだ」

「桜井妹は成績優秀じゃないか」

「遺憾ながら、俺は成績劣等でね。この間の中間も赤点だらけで、そりゃもう悲惨な有り様だった」

「そうなのか。じゃあ桜井妹に頼んでみるかな」

「本人に当たってくれ」

 大和は逃げを打った。

「ところでメイド喫茶には行かないのか。妹も駆り出されてるんだろ」

「楓姉さんにとっ捕まると、雑用にこき使われそうだからやめとく」

「秋川は今年メイドやらないんだって? あいつ、生徒会にかこつけて逃げたな」

「というと、以前やったんだ? メイド」

「昨年は俺休学中で知らんけど、一昨年はやらされてたな。一年の通過儀礼みたいなもんなんじゃないか。春の応援練習と一緒でさ」

 水高の新入生は入学後間もなく、強面の応援団員たちによって各種応援歌を叩きこまれる。ブートキャンプもかくやというスパルタ式で、水丘高校の伝統のひとつらしい。

「まぁ一昨年のこともあるから、気持ちは分からんでもないが」

「何かあったの?」

「なんだ、聞いてないのか。行儀の悪い客とやらかしかけてな」

「ほー初耳だ」

 久保妹が補足した。

「あの時、お兄ちゃんも喧嘩してぼろぼろになって帰ってきたよね」

「おい、余計なこと言うな」

 視線で問うと、渋々白状した。

「そのやんちゃ坊主どもに苦言を呈して、丁重にお引き取り願っただけだよ。まぁ帰り道とっ捕まって、ぼこられたわけだが」

 久保妹が解説する。

「うちのお兄ちゃん、秋川さんのことになると沸点低いんですよ」

「ほれ、行くぞ八尋。桜井またな」

「痛い、ちょっと痛いってば」

 久保は妹の抗議の声を無視し、腕をつかんで連行していった。



 そろそろ瑞穂を着替えさせようかと思案していると、メイド服姿の高橋翔子とすれ違った。

「高橋先輩、ちょうどよかった」

「あなたは?」

 この一言で確信した。やはり先日の一幕は記憶にないということか。

「秋川楓の従弟で、桜井瑞穂の兄です」

「ああ、あなたが大和君。はじめまして」

「ちと試みにお尋ねしますが、うちの学校の生徒会副会長に、山口さんていましたっけ? 高橋先輩によく似た人なんですが」

 よく似ているというか、瓜二つである。

「副会長は、楓と二年の安永君ですね」

「そうですか。俺の勘違いかな」

 翔子の格好を眺めて指摘した。

「会長みずからフロアスタッフ務められるんですか」

「実行委員長としては、これくらい率先垂範しなくちゃね」

「うちの不肖の従姉に聞かせたいものです」

「楓は頑張ってくれてますよ。実際、この文化祭を取り仕切ってるのは彼女ですし」

 翔子は照れたように頬をかいた。

「まぁ私が生徒会室であたふたしててもみんなの邪魔になるだけなので、せめて出来ることをしようと思って。ところで御用件は何?」

「先週、新校舎のピロティでこれを拾いまして。高橋先輩が通った直後だったので、先輩が落としたのかなと」

 ポケットから例の鍵を取り出し、翔子に渡した。夢の中で拾ったなどという説明は割愛。

「私の物じゃありませんね」

「ありゃ、先輩のじゃありませんでしたか」

 大和は途方に暮れた。

「預かりますよ。後で落し物として校務センターに届けます。型は古いけど鍵ですしね。落とした人困ってるかもしれません」

 時代劇の小道具にうってつけなシンプルな形状。真鍮のくすみ具合からして、相当古い鍵であろう。今日び常用されているものとも思えない。しかし生徒会長が引き受けるというのだから、断る理由はない。

「ではお願いします」



 水高祭最終日の夜、楓が久保八尋嬢の家庭教師の依頼を請け負ってきた。オンラインゲームのチャットで口添えしてやってくれと頼まれ、安請け合いしたらしい。なにか裏取引でもあったのかと勘繰るのは、邪推に過ぎるだろうか。

「久保は楓姉さんの友達だろ。姉さんやってやれよ」

「かまわないけど、先方は瑞穂を御指名だからね。あたし一応受験生だから、久保っち遠慮したんじゃないの」

「毎晩ネットやってるくせに……」

「バイト代も出るみたいだし、夏休みの間だけやってあげたら? あんた部活も夏期講習もないっしょ」

「久保の家って、確か御所山じゃなかったっけ。チャリで片道五十分もかかるんじゃないか? 夏の炎天下じゃさすがにきついな」

 横浜在住の頃、東北地方の夏は冷涼な気候で過ごしやすいという先入観があった。いざ住んでみると、やはり盛夏の時期は暑い。都会の過酷なヒートアイランド現象はいくらか割り引かれているのかもしれないが、僅かばかりの高緯度では、体感上さしたる恩恵はないらしい。

「運動不足解消にはうってつけだね」

 楓が無責任な所感を述べる。大和はわざと鼻につく仕草で肩をすくめた。ささやかな意趣返しの効果を期待しつつ。

 後でドラッグストアに寄り日焼け止めを買わなければと発想する自分を、意外感をもって再認識した。瑞穂の体を預かっていなければ、紫外線から肌を守るということにもまったく無関心であったにちがいない。

 楓のスマホが着信メロディを奏でた。通話しながら居間を出て行く楓。ほどなく戻ってきて開口一番、

「翔子が、あんたに訊きたいことあるんだって」

「高橋先輩が? なんだろう」

 すぐに思い当たることといえば、例の鍵のことだった。ともあれ、差し出されたスマホを受け取る。

「もしもし、お電話かわりました。桜井ですが」

『こんばんは。休んでるところごめんね。ちょっとあなたに質問があって』

 社交辞令もそこそこに、翔子が語った用件はこうだ。先日大和から預かった拾得物の鍵。水高祭の慌ただしさに取り紛れ、うっかりポケットにいれたまま自宅に持ち帰ったらしいのだが、偶然翔子の曾祖母の目にするところとなる。日頃温厚で物静かな曾祖母が、いきなり血相を変えて翔子に問い質してきたそうな。翔子は事情を飲み込めぬまま曾祖母の剣幕に驚き、学校の下級生が拾った物を保管しているのだと説明。曾祖母は、その下級生に直接会って話が聞きたい、なんとか家に連れてくるよう取り計らってもらえないかと翔子に懇願しているという。

『うちのひいおばあちゃん、普段とても大人しい人なの。あんな切羽詰まってるとこ、初めてでさ。余程なにか事情あるのかなと思って。なんだか突拍子もない話でごめんね。面倒だったら断ってくれてかまわないから』

 鍵を入手した経緯が経緯だけに、この話にはとても興味をひかれた。ゆえに応諾する。



 水高祭翌日は、後片付けもあり短縮授業となる。翔子や楓は実行委員会絡みで多忙な一日だったようだが、当代生徒会の有能さは折り紙付きで、放課後までにはあらかたの雑事は片付けられたようだ。

「ほんとごめんね。ひいおばあちゃんいつになく短兵急で。こんなこと初めてで、いったいどうしちゃったんだか」

「あんた、何しでかしたのよ」

 道すがら楓に糾弾されてたじろぐのだが、大和も事情をいまひとつ把握しきれず、答えようがない。

「つか、なんで楓姉さんついてくるのさ」

「あんたが粗相をしでかさないようお目付け役よ」

 下古城地区にある高橋家は、和風モダンな豪邸だった。座敷に通され、振舞われた茶と菓子を賞味する。楓が肘鉄でしきりと牽制してきたが、もてなしはありがたく享受するのが礼儀にかなうのではあるまいか。

「親しい仲ならそうかもしれないけど、大和は翔子ん家初めてなんだから、もっと遠慮するべき。謙譲の美徳という言葉もあるじゃない」

「そういうもんか。すみませんね、世間知らずのガキなもんで」

 障子が開き、翔子と小柄な老婆が入ってきた。

「お手間とらせだなす。まんずねまってけれ。おらが翔子の曾祖母トヨだす。曾孫がいっつも世話なっては。今日まだおらの我儘聞でもらて、忙しどご、わざわざ来てもらて悪りがったすなぁ。ありがでありがで」

 明治生まれの人らしくお国訛りは強かったが、言葉の端々や挙措に深い教養を感じさせる。三つ指ついて折り目正しく辞儀をされ、楓も大和も恐縮してつい平伏してしまう。翔子がくすりと笑みを漏らした。

 トヨが、テーブルの上に木製の箱と例の鍵を並べて置いた。

「こいは、おらのじさまの形見の文箱だべ。英国の友達がら贈らいだどせ。鍵はよ、おらの双子の姉ちゃ持ってらんだども」

「大おばあちゃん、双子のお姉さんいたんだ。初耳」

 トヨは慎重な動作で文箱を解錠し、蓋を開けた。しわ深い顔に万感が溢れていた。

「オルゴールになってるんですね。綺麗な曲」

「初めて聞く曲だね」

 長い歳月調律を施されていなかったと想像されるが、旋律は見事な品格と美しさをそなえていた。

「二十世紀初頭イギリスの音楽家、リチャード・シャーウッド卿の作曲だべ。おらえのじさまが、御本人がらもらった自鳴琴付き文箱だよ」

「イギリスにそんな作曲家いたっけ?」

 クラシック音楽フリークらしい翔子が首をかしげた。

「後期ロマン派でも著名な一人だべ。じさまが言うにゃよ、あの時代でだば冠絶したお人でせ、かのベートーヴェンさも比肩さいる大家だったど。音楽だげでねぐ、すこたま多才な人でせ、英国首相も務めだどや。昔、おらのじさまど外交でやりあったんだ」

「イギリスにそんな首相いましたっけ?」

 世界史履修の楓が首をかしげた。

「こっちで例えればウィンストン・チャーチルみでんたお人だびょう。んだどもこの人な、こちらの世界でだば無名でよ、いだわしども世さ出らいねがったえんたで」

 なにやら意味深長なことを言いだした。

 文箱の上蓋の裏に贈り主のサインらしきものがあり、躍動的な筆記体の英文で『親愛なる我が友、世界大戦の調停者に献呈す』の一文がそえてあった。翔子の御先祖様とはいったい何者なのか。文箱の中に古い写真がはいっていた。セピア色に色褪せた家族写真。トヨが懐かしそうに手に取った。

「こいがおらだ。こっちが双子の姉キヨ。横さ紋付羽織のおっかねじさまいるべ。こいがおらがだの祖父、山口壮次郎だで。ああ、懐かしなぁ」

 写真に写る、丸眼鏡をかけ口髭を蓄えた老紳士には見覚えがあった。山口壮次郎の名もまた然り。勤勉な神経ニューロンたちが、記憶の糸を結びあわせる。大和は財布から紙幣を一枚選び抜いた。先月入手した謎の子供銀行券である。トヨが目を見開いた。

「あれまぁ、じさまお札こさなってらが。やっぱすなぁ。おめはん、あっちゃさ渡ったべ。姉ちゃの鍵っこ持ってらがら、まさがど思ったども」

 彼我の理解の乖離を感じたが、まずは耳を傾ける。随所に耳慣れない方言があったが、そこは文脈で類推。

「おらはよ、あっちの生まれなんだ。ちっちぇえ時神隠しさ遭ってなぁ。こっちゃ出できたんだ」

「神隠し?」

「んだ。この話はよ、あんまし人ささねんだ。あの婆まだばしこぎ始まったど思わいるでな」

 なにやら眉唾めいた方向に話が展開してきた。

「西暦だば1915年のごどだ。あっちで大っきた戦争あってせ、おらど姉ちゃまだわらすっこだったがらよ、ばさまの親戚いる奥森さ疎開したんだ。あすこで神隠しさ遭ったんだ」

 なんとも波瀾万丈の半生ではないか。動乱期に育った人は、順応力が特別高いのだろうか。

 しかし西暦1915年といえば第一次世界大戦のさなかではあろうが、主戦場は列強犇めくヨーロッパであったと教科書知識で記憶している。ここ日本で疎開が必要なほど戦況が芳しからざるものだったとは初耳だ。

「ドイツの東洋艦隊どロシアの太平洋艦隊が一緒なって東京さ攻めでくらどって噂なってらっけね、当時だば」

 大和が学校で習った歴史とはだいぶ齟齬があるようだ。中央同盟国側のドイツ帝国と三国協商側のロシア帝国は、反目する陣営のはずだが。何故日本相手に共闘する情勢になっているのだろう。

 楓が抜け目なくスマホで検索をかけているが、むろんそのような事跡の記述がインターネットにあるはずもない。

「奥森は不思議などごだで。こんたらごど起ぎんなも、むべなるがなだべ。あっちどこっちはよ、表裏一体みでんたもんでせ、いろんたどごで繋がってらんでねえべが。おらはそう思ってらす。おらは結局あっちゃ帰るごど叶わねがったは。こっちゃ出できてかれこれ百年、あっちの家族がだ気懸りだども、なんともさいね。あど諦めでらどもせ。おめはん、あっちでうぢの姉ちゃさ会ったんだが?」

「翔子さんにとてもよく似た人と会いましたね。山口と名乗っていたような気が」

「んだが。そい聞げれば十分だ。ありがでありがで。南無南無南無」

 仏壇でも拝むかのように大和へ合掌。楓と翔子はこのやりとりについてこれず、口を噤んでいる。

「したどもおめはん、あっちゃさ迷い込んだんだば気ぃつけでけれなす。帰ってこいだのは僥倖だべ。いいあんべに結び目ねえば、こごさ戻ってこらいねぐなっど」

 体験に根差した推測なのだろう。耄碌した年寄りの妄言と見做して、等閑に付す気にはなれなかった。近頃大和の周囲には、あまりにも不可解な現象が多すぎる。

「どれ、ちっとこ待ってでけれ。いいものけでやら」

 トヨが中座し、戻ってくるなり大和の手を取って御守りを握らせた。

「奥森神社の御守りだべ。厄除けに持ってなせ」


 トヨの話でまず脳裏に浮かんだのは、並行世界という言葉だった。

 いつぞやテレビで放送していたサイエンス特集。もっともサイエンスというよりは、サイエンス・フィクション寄りの娯楽色の濃い番組であったが。如何なる企図の演出か、ちょっぴり胡散臭い外国人の科学者が、異世界実在論者御用達の金科玉条、シュレーディンガーの猫やエヴェレットの多世界解釈を引き合いに、御高説を開陳していた。

 折しも大和は、瑞穂の体で楓のマッサージに従事させられていたので、連呼されるパラレルワールドという言葉も聞き流していたわけだが。してみるとサブリミナル効果でもあったのだろうか。

 よしんばそんなしろものが実在するのだとしても、普通往来など論外で、物理学で相互作用できないことに決まっているのではないのか。まったくこの世は、人智の及ばぬ謎に満ちている。

「翔子のひいおばあちゃんの話、分かった?」

 高橋邸からの帰り道、楓にそう問われた。

「正直言うと微妙」

 最近腹の探り合いをする機会がなにかと多かったので、含蓄のある話は食傷気味なのだ。

「けどまぁ、いろいろ収穫はあった。と思いたい」

 貰った御守りを翳し見る。

「あれ、これ厄除けじゃなくて縁結びって書いてあるな」

「寂寥をかこつあんたにはうってつけじゃん。御利益あるといいね」



 七月は公私の行事が多い。上旬に水高祭があり、下旬には秋川家のある水崎地区で湊神社の例祭がある。亡くなった祖父は、湊神社の先代宮司と尋常小学校時代の同級生だったらしく、氏子総代なども務めて懇意にしていたようだ。その影響もあり、秋川家の人々はおしなべて祭り好きであった。人格が健在な頃の瑞穂も、夏休みで横浜から帰省するたび恭太郎や楓に連れ出され、順調に祭り狂の気風を開花させていったものだ。大和はというと生粋の地元民でなかった故か、囃子を耳にして血が騒ぐなどという心境からは程遠かった。中一の頃、町内会役員の恭太郎にくっついて奉納曳山の組立てを手伝ったのだが、その際町内会の若衆にいいように頤使され、多感な時期でもあったので反骨心が首を擡げたのだろう。

「地縁の社会じゃまだ年功序列が物いうからねぇ。そりゃ中坊じゃパシリにされちゃうな」と、楓の感想。

「去年は叔父さんと叔母さんの喪中で参加できなかったけど、今年はうち統前町だし、あんたも手伝ってね」

 十年毎の輪番で巡ってくる統前町は、神事や祭典全般を統括する役割で、町内会の大人たちは例年にも増して腕まくりをし、張り切っていることだろう。高校生となった大和は、存分にこき使われるに違いない。

「祭りの時期なるといろいろ思い出して、なんか辛いんだよな」

「瑞穂のこと?」

「うん。あいつ、祭り好きだったなぁとか。楓姉さんに洗脳されてたもんな」

 大和自身は生まれ故郷の祭り行事に冷淡であることを自覚していたが、不思議なもので、瑞穂の体を操り彼女の耳目を通して湊祭りに接する時、確かな高揚感に包まれるのだ。

「お祭りの時、五感にいろいろ刺激与えたら、あの子の意識戻ってきたりしないかしら。瑞穂で参加してみたら?」

「そうだね」

 出来ることは何であれ試したほうがよいだろう。この件に関する限り、おそらく医者は頼りになるまい。かつて瑞穂の入院中、脳神経外科の主治医経由で、精神科の専門医に相談したことがある。大和も共に受診したのだが、臨床的に異常は見いだされないとの診断だった。

「早めに父さんに言って、曳き子の名簿に追加してもらわないと。半纏とか弁当の手配あるらしいから。後で呉服屋行って、瑞穂の祭り装束一式揃えないとね」

「腹掛とか股引とか地下足袋? 瑞穂のあったはずだけど。中一の時着たやつ」

「もうサイズきついっしょ。鯉口とか帯はあたしの貸したげる。それとも気合いれてさらし締める?」

「姉さんは楽しそうだね」

 瑞穂はあなたの着せ替え人形じゃないぞと苦情を言いかけたが、楓の蠱惑的な笑顔に邀撃されて、あっさり転進を余儀なくされた。



 夏休み前の最後の授業の日。雪乃が珍しく教室で大和に声をかけてきた。

「湊祭り見に行ってもいいかな」

「べつに俺の了解取らんでも。どうぞ御随意に」

「大和君に案内してほしいんだけど」

「そんな迂遠な策略弄さんでも、楓姉さんと祭り行きたいなら骨折ってやるよ」

 雪乃が赤面して首を振る。ならば意図は奈辺にあるのだろう。

「私じゃなく量子が見たがってる。何かは知らないけど、大和君に話もあるみたい。私はその間寝てるので」

 意表を突く依頼だった。そもそも彼女らは互いに意思疎通できるのか。

「こないだの人格入れ替わりの一件の後、量子に交換日記を提案してみたの。寝る時枕元にノート置いてさ。首尾よく返事が来て、それから時々連絡取り合ってる」

 その果敢さには素直に感心させられる。確かに座視していても埒はあくまいが、いざ同じ状況に置かれた時、雪乃のように振舞える人は少ないだろう。

「秋川先輩いると、たぶん量子警戒して表にでてこないと思う」

 さもあろう。楓は対話にことよせて相手の思惑を翻弄するすべに長け、そこから相手の気質を見抜く怜悧さをもつ。まったく厄介な女子高生がいたものだ。

「案内はかまわないけど、俺、町内会の頭数に入ってるらしくて強制参加だから、宵宮の夕方以降しか時間とれないぞ」

「うん。ありがと」

「じゃあ花火でも見に行くかね。夜に埠頭のほうでやるんだと。って、なんだかデートっぽいな」

 軽口をたたいてやると、雪乃は怒ったような困ったような判別のつきかねる顔でそっぽを向いた。


 同じ頃、理科棟の瑞穂の教室でも似たような一幕があった。

「瑞穂っち」

 その呼称が気に入ったらしく、ここ数日そう呼びかけてくる。文化祭のメイド喫茶で、楓の友人の三年生女子たちにそう呼ばれるようになり、偶々聞きつけた久保が便乗をはじめたのだ。揶揄が入り混じるでもなく軽佻浮薄でもない、とても自然体な呼び方に感じられた。当初こそくすぐったさを禁じ得なかったが、いつしかそれを容認せしめる愛嬌が久保にはある。なかなか恐るべき男だ。

「家庭教師の件、無理言って悪かったな。こんど下界でメシ奢るよ」

 下界とは水高生用語で、水道山麓の市街地を指す。鼻持ちならない印象を持つ向きもあろうが、選良意識から来た表現ではなく、単純に登山家スラングを引用したものにすぎない。昔の先輩諸氏が、郊外の丘陵に建てられた校舎の逼塞感を、やや自虐的に現わしたものらしい。かつて制服着装自由化を求める学生運動が、県下に数ある高等学校の中ここ水丘高校でのみ盛り上がったのは、こうした学校の立地も作用したのではないだろうか。つまり、自由希求の熱意が他所よりほんの少し増幅されたのだ。

「夏休み初日からですまんが、早速明日からお願いしてもいいか?」

「明日と明後日はちょっと無理。地元お祭りでさ。今年はうちの町内も山車奉納するんで、わたしも駆り出されるの」

「あ、そうか。そういや水崎の祭りだな」

 久保はすこし考え込んだ後、こう言いだした。

「秋川をひやかしがてら、瑞穂っちの陣中見舞いに行ってもいいかい?」

 やれやれ貴君もか。気のきいた修辞も思いつかなかったので、大和で雪乃に答えた台詞をそのまま転用してやった。

「べつにわたしの了解取らなくても。どうぞ御随意に」

「そうか。じゃあ見物に行く。ローカルニュースでしか見たことなかったから楽しみだ。瑞穂っち案内してくれよ」

「ちょ、なんでわたしが」


 久保が立ち去った後、近くにいたクラスメイト女子たちが瑞穂のもとへ蝟集してきた。

「桜井さんと久保君てさ、もしかしてつきあってたりする?」

「はぁ? まさか」

 思わず素っ頓狂な声がでてしまう。

「でもあれはたぶん桜井さんに気があるよね」

「あたしもそう思った」

 意外にもみんな恋愛沙汰への関心が高いらしい。中学の頃、進路指導の教師に「水高の生徒は俊英揃いだ。交通事故でブランクがある君は、相当努力しないととてもついていけないだろう」と散々脅かされたことが記憶に新しい。「恋愛など我々には無縁。高校は大学への橋頭堡」そう嘯いて憚らない受験の申し子たちの巣窟という根拠のない偏見は、さすがに改める必要がありそうだった。

 明日は祭りに加えて、大和で量子の、瑞穂で久保の接待か。タイトな一日になりそうだ。しかしこれもダブルブッキングになるのだろうか。



 待ち合わせの水崎駅前広場で、行き交う人々を眺める。普段は人影もまばらだが、祭り期間中に限りかつて住んでいた横浜の人出を偲ばせるものがあった。

「お待たせしました」

 背後から声をかけられ、振り返ると雪乃がいた。いや、言葉遣いからして量子だろうか。制服姿ではなく、あでやかな浴衣姿だった。不意打ちだ。確かに時宜を得た装いであるが、実家住まいではない白瀬が、ここまで服飾に労力を費やすのは意外な感じがした。女子に対してかなり失礼な感想かもしれないが。

「御無沙汰してます。喫茶店の時以来ですね。その節は慌ただしくてすみません」

「やっぱ量子さんのほうか。着付け出来るんだ?」

「ああ、これですか。私が目を覚ました時には着てましたね。雪乃さん気をまわしてくれたのかな。彼女丸館育ちですから、そういう嗜みもあるのかもしれません」

 県央部にある丸館は、藩政時代の古い町並みが残る情緒豊かな町だ。旧家や古い伝統行事も多いという。大和は見たことがなかったが、丸館にも曳山の祭りがある。武者人形を飾り、囃子の奏者たちが乗り込んだ山車が町内を練り歩くなど、水崎の祭りと類似点も多い。むしろ全国的には丸館の祭りのほうが高名なようで、密かに対抗心を燃やす水崎衆も多いと聞く。そんな土地柄で生まれ育った雪乃であれば、祭り文化も馴染み深いものなのだろう。

「花火会場行くか。歩きながら話そう。俺に何か話があるんだって?」

 宵宮の日は夕方までに山車の運行が終わり、各町内会所へ納まっている。中には親切にライトアップされ、観光客に被写体を提供する小粋な心配りの山車もあって、人だかりができていた。家々の前には各町紋のはいった提灯が掲げられ、闇の中煌々と浮かび上がる。メインストリートである本町通りには、屋台が軒を連ね、雑踏が引きも切らない。喧騒にまじるテキ屋のダミ声や、そこかしこに響く雪駄とアスファルト舗装の擦過音。どこか郷愁をもよおす、実に日本の祭りらしい風景だった。おそらくこの祭りにまつわる諸々の営みは、江戸時代の昔から連綿と受け継がれ、現代でもさほどの差異はないのだろう。

 量子は歩きながら、しきりに首をかしげた。

「やっぱり見覚えあるなぁ。なんか懐かしい感じ」

「見たことあるの? 湊祭り」

「いえ、初めてのはずです。雪乃さんも水崎来たのは、五月の連休の時、秋川さん家にお邪魔したのが初めてらしいので」

 雪乃が来たことがないと言うのなら、畢竟彼女の中の別人格たる量子も来たことがないことになる。

「丸館の祭りと記憶が混同してるんじゃないか? それでなんとなく既視感が」

 考え込む様子。しばらく会話もなく、無言で歩いた。

「普段、私の意識は朦朧とした感じなんですよ。ところが急に覚醒する時があります。私が目を覚ますと、雪乃さん急な眠気で昏睡してしまうみたいですが」

「どんな時にそうなるの?」

「経験則で言いますと、近くに古い神社があったり、大きなお祭りやってたりした時ですね。ちょうど今みたく。白瀬家は代々、神主や巫女を輩出してる血筋らしいので、雪乃さんも何かそういう感受性があるのかもしれません」

 偶々すれちがった子供たちのつけたお面や、手にした光るステッキの玩具。その脈絡か、魔法少女コスチュームや巫女装束姿の雪乃を想像してしまった。ありえない連想に可笑しさがこみあげ、慌てて渋面で取り繕う。

「私は宗教に学術的な興味があるわけでも、まして信仰に熱心なわけでもありません。こういう特殊な境遇ですから、感覚だけは研ぎ澄ますよう心がけてきました。まぁ他にすることもなかったわけなんですが。ありのまま感じたことを申しますと、昔からの曰く因縁のある場所や物は、やはり特異な感じがします。近頃パワースポットなんて言葉が喧伝されてますが、多くの人が先入観なくそういうものに感応するということは、やはりそれなりの理由があるんじゃないのかな」

 全国津々浦々にある社や祠の配置には、しかるべき意味があって、日本を網羅する結界を形成している云々。こうした中学二年生あたりが好みそうな巷説は、インターネット界隈によくころがっていて、目にする機会も多いが。

「まぁ最先端の宇宙論からして、人間原理なんていうSF作家たちの大好物な説があるくらいだしね。たくさんの人の祈りとか観察とかが集積すると、自然界を構成する量子の中にも、既知の物理法則から逸脱するへそまがりなやつが出てくるのかもな」

 対話の相手に飢えていたのか、量子は饒舌だった。

「そういう超自然的なものも含めて、この世の摂理を破綻なく説明する理論や数式がどこかにあるのだとしても、特段それを知りたいとは思いませんね。私は物理学者でも哲学者でもありませんので。私が知りたいのは自分の失くした記憶、ただそれだけです」

 さらりと言っているが、記憶喪失者にとっては切実なのだろう。

「そんなわけで、今後も宿主の雪乃さんの健康をそこなわない程度に、記憶探索の活動をさせていただきます」

 宿主という言い方がひっかかった。

「えらく謙虚というか、卑屈な例えじゃないか。外来者の自覚でもあるのか?」

「実はその可能性を疑っているんですよね。時々泡沫のように浮かび上がる私の記憶の断片と、雪乃さんの記憶には、けっこう無視できない齟齬がありまして。私は雪乃さんの人格から分裂派生したんじゃなく、どこかべつの世界から事象の地平線的なものを越えて、滲みだしてきたんじゃないかなって」

「それで、そんな仮名を名乗ってるのか」

 読書家が量子論にかぶれたというような単純な理由ではなさそうだ。

「もし私が雪乃さんから分裂した人格だと確信を持てていたら、今頃私は、体の主導権をめぐって雪乃さんと角逐を繰り広げていたでしょうね。そうならなくてよかったです」

 茶目っけのある笑顔を作り言った。

「雪乃さんは驚くほど賢明な子です。桜井君も彼女にするなら、こういう子がお薦めですよ。なんなら今、私と既成事実を作っちゃいますか?」

「……」

 言葉に詰まって困惑顔でいるちょうどその時、港の方角に花火が上がり、すこし遅れて炸裂の重低音が街の空気を震わせた。人々が足をとめ、歓声がそこかしこにあがる。地区のランドマークにもなっている埠頭に聳えるガラス張りのポートタワーが、夜空に咲く閃光を反射した。



 大和と量子から隔たること数百メートル。SL公園のベンチで屋台フラッペをかき込んでいた瑞穂が、量子の爆弾発言を受けて噴きだし、噎せていた。

「慌てて食べなくても。誰も取りゃしないわよ」

 横に座る楓が背中をさすってきた。

「いやちょっと不測の事態で」

「大和のほう? 何かあったの?」

 さすがに楓は察しがいい。これまた隣にいた久保将幸が、顔を覗き込んできた。

「どうした瑞穂っち」

「なんでもない。兄貴から変なメールきて」

 メールというか、大和の五感の知覚情報がリアルタイムに意識に流れ込んでくるわけだが。もう慣れたとはいえ、二人分の知覚情報の整理整頓で、頭がオーバーヒート気味になる。ことによると、これが脳の未使用領域の鍛錬に寄与しているのだろうか。脳使用率云々は、かのアインシュタイン博士の放言に起因する都市伝説らしいが。

「あんにゃろ、秋川と瑞穂っちほっぽって、どこほっつき歩いてやがるんだ」

 夕方、まだ町内会の曳山運行中にふらりと現れた久保兄妹。予告通り楓をひやかして掛け合いの応酬をやっていたが、大和の不在を知って俄かに杞憂にでもかられたか、夜の花火大会へくっついてきたのだ。来訪目的のひとつは、瑞穂に妹の八尋を引き合わせることだったらしい。水高祭の折にも紹介はされていたが、瑞穂がメイド喫茶のフロアスタッフで繁忙だったため、ろくな挨拶もままならなかった。もっとも事前に大和でいくらか言葉を交していたので、瑞穂としては面識を得たつもりでいたのだが。

「大和さん、今日はこないんですか?」

 八尋が大和の動向を気にする様子を、楓が面白がっている。

「八尋ちゃん、大和に御執心なの?」

「あいつ今、同じクラスの女子と祭りデート中らしいぞ」

 楓から情報を得ていたらしく、さりげなく横槍を入れる将幸。久保兄妹の日常の関係が、なんとなく察せられた。受験の下見に連れてきたり家庭教師の手配に奔走するあたり、かなり可愛がっているのだろうなと想像はしていたが。

「そっか、彼女いるんだ」

 たいへんわかりやすく落胆する八尋。今時の中学生は気持ちにまっすぐ向き合うのだなと、妙な感心をする瑞穂。中の人は当事者なのだが。

「いやいや。あれをステディな交際とは言わないでしょう、いくらなんでも。参戦のチャンスは十二分にあるわよ、八尋ちゃん。ねぇ、瑞穂」

 こちらにふらないでほしい。

「受験生煽るなよ、秋川。ただでさえこいつ、ボーダーラインにいるんだから」

「モチベーションの喚起につながるかもしれないじゃん」

 なごやかに進む歓談の輪へ容喙の機会を窺っていた瑞穂。ふと、暗順応と動体視力に秀でた目が、公園の暗がりの中、視界の端に何かを捉えた。頭の奥で警鐘が鳴る。理解するより先に、残心を骨の髄まで叩き込まれた体は反応していた。隣に座っていた楓を押し倒す。

「な、なに?」

 半瞬前まで楓の頭があった虚空を何かがかすめ、木立にぶつかって乾いた音をたてた。

 暗がりからぞろぞろと柄の悪い集団が出てきた。

「おいおい、女に当たるとこだったじゃねえか。ノーコンが」

「悪い悪い。むしゃくしゃしてやっちまった。今は反省している」

「嘘こけ。あーすまんね。おたくらがキャッキャウフフと楽しそうなんで、むかついちまったんだ」

「いっちょまえに女三人はべらしやがってこのガキャ」

「ふざけた小僧だ。シメとくか」

 理不尽な文句など耳を傾けるに値しない。ここにいる面々は、日頃それなりに精励しているのだ。祭りの日にささやかな息抜きを謳歌したとてバチは当たるまいに。他人の立場をろくに斟酌もせぬ手合いに、とやかく言われる筋合いはないだろう。いやさ、そもそも絡むことが目的であろうから、問答など無用か。

 将幸が獰猛な虎のようにゆらり立ちあがった。不良たちは数を恃んでか、ラガーマンもかくやという将幸の体格に怯む様子はない。楓が瑞穂の袖を引く。

「瑞穂、久保っち押さえて。きれかけてる」

「わかった」

「後ろの二人やばそう。逃げよ」

「ったくもう、いつの時代のB級映画だよ」

 不良少年たちのうち将幸を包囲する十人ほどは、意気軒昂だがどこか虚勢めいたぎこちなさがある。背伸びして露悪的に振舞っているような印象だ。対して後方に立つスキンヘッドと茶髪の二人は、見るからに剣呑な雰囲気だった。露出した肩や腕にはタトゥーが刻まれ、顔には明らかに刃創とおぼしき傷痕がはしっている。眼光の鋭さも尋常ではない。やばいお薬でもキメているのかと疑いたくなる禍々しい凶相。

「久保、むこう行こう。相手しちゃだめだよ」

「こいつら、秋川に石投げつけやがった。許せねぇ」

 頑丈そうな将幸のこと。徒手空拳のどつき合いならばそうそう深刻な怪我を負うこともあるまいが、なにせ相手はむかついたとのたまい、顔めがけて野球ボール大の石を投擲してくるような輩だ。人並みの倫理観は期待薄だろう。

「楓姉さんと八尋ちゃん、受験生だよ。姉さんはインハイも近いし。警察沙汰はまずいっしょ」

 将幸が瑞穂へ口早に耳打ちした。

「お前さんたち浴衣に雪駄だろ。逃げ切れんぞ。俺がこいつら引きつけとくから、警官探してきてくれ。祭り中だし、そのへん巡回してるだろ」

 頭に血が上っているかと思いきや、豈図らんや冷静な状況判断ではないか。

「久保だと?」

 くわえタバコで紫煙をくゆらせていた茶髪の男が前へ出てきた。将幸が驚いた顔をしている。

「なんだ、どこのリア充かと思ったらマサじゃねえか。久しぶりだな」

 将幸は不機嫌さを隠そうともせず、茶髪に会釈した。

「タケさんの知り合いっすか」

 不良たちが臨戦態勢を解く。不穏な空気がほんのすこし弛緩した。

「中学の後輩だ。鉄拳のマサっつってな、御所山界隈じゃステゴロ最強って噂だったぜ。狂暴な野郎でよ、ぶちきれたら手がつけらんねぇんだ。俺も昔、ちょっかい出してこのざまだ」

 茶髪は口を広げて見せた。歯が数本欠けている。

「まじすか……」

「なにをトチ狂ったのか水高なんぞに入りやがってよ。インテリ詐欺師でも目指してるのかね」

 久保が抗議した。

「勘弁してくださいよ。中坊の頃、少しやんちゃしてただけじゃないすか。もう更生して真面目に高校生やってますんで、ほっといてくれませんかね」

「真面目な高校生が夜遊びしてんじゃねえよ」

「いいじゃねえですか。祭りの日くらい遊ばせてくださいや」

「まぁ、そこいらのチンピラどもにからまれねぇよう気ぃつけるこった。悪かったな、ツレどもがオイタして」

 茶髪はそう言って哄笑した。

「おめえらも祭りだからってはっちゃけるのはかまわねえが、相手見て喧嘩売れよ。場数踏んでりゃ雰囲気で分かんだろ。こんな化け物にからんでたら病院送りじゃ済まねえぞ」


「やれやれ、冷や汗かいた……」

 将幸がベンチに腰を落として大きく息をついた。八尋は半べそをかいている。楓がジト目で将幸を見た。

「鉄拳のマサ、ねぇ」

「お恥ずかしい。若気の至りでな。でも、誰だってそういう黒歴史はあるもんだろう?」

「どんだけ修羅場くぐり抜けてきたのよ。マンガやラノベじゃあるまいし、現実でそんな二つ名つくなんてよっぽどだわ」

「内心ガクブルだったけどな。雑魚どもはともかく、あの茶髪とスキンヘッド。中学の先輩なんだが、あいつらまじでおっかねえぞ。堅気じゃないことは一目瞭然だったろ。たぶん、自重してたんだろう。今日はそこら中に警察いるしな」

 楓が腕組みして考え込んだ。

「あの二人、昔うちの高校の文化祭に来てたよね。あたしら一年の時」

「よく憶えてるな」

「メイド喫茶で先輩たちに絡んでたじゃない。あたしがあいつらに文句言って、あんたが仲裁に入ってきたじゃん」

「そんなこともあったっけ」

 楓は茶化すように、しかし優しく将幸の頭を撫でた。

「なんにせよ乱闘騒ぎにならなくてよかった。折角復学したんだもの。くだらない理由で退学されちゃ困るわ」

「くだらない理由で悪うござんしたね」

 減らず口をたたいてはいたが、街灯の仄明かりの下でもそれとわかるほど、将幸の耳朶は赤くなっていた。



 八月にはいるとインターハイ個人戦出場のため、楓は県外に遠征していった。応援に行きたいのはやまやまだが、両親の三回忌が近いため大和はこの時期多忙だった。法要の段取りは秋川夫妻が遺漏なく手配してくれたが、施主の立場上すべて丸投げというわけにもいかない。

 瑞穂は瑞穂で、週三日の家庭教師のアルバイトがあった。経緯はどうあれ対価を受け取る以上、職責は果たさなければなるまい。記念すべき人生初アルバイトでもある。酷暑のなか音を上げず、自転車で御所山まで通っていた。

 熱中症を心配した梢にバス利用をしきりと勧められたが、自動車は今もってだめなのだ。セダンや軽自動車は言わずもがな、大型バスであっても動悸や吐き気の桎梏から逃れられない。電車や飛行機だとなんともないので、これが所謂PTSDというやつなのだろう。将来、自動車免許の取得に支障をきたすかもしれない。いずれ兄妹そろって心療内科を受診する必要があるだろう。鉄道網が極度に発達した首都圏ならばいざ知らず、矢留のような地方都市では自動車免許を必須の資格と考える社会人が多いらしく、先行き寒心に堪えない。


 この日も御所山の久保家へ向かうためガレージから自転車を出し、いざ出陣とペダルに足をかけた。

 瑞穂ちゃんと呼びかけられて振り向くと、隣家の奥方が軒先で打ち水をしているところだった。

「おはようございます」

「ちょうどよかった。回覧板、お家の人に渡してちょうだい」

 回覧板のバインダーを受け取り、何気なくプリントに目を通す。当たり屋が市内に出没しているので気をつけましょうという趣旨の内容だった。

 楓に時々連れて行かれる美容室の待合にも、当たり屋に注意喚起するプリントが掲示されていた。運転にはまだ無縁な者が多い一般的な高校生は、こうした情報にあまり関心を示さないのかもしれないが、輪禍の恐ろしさを肌身で知る瑞穂には、忌避すべきものに思われた。

 もっとも美容室に掲示された方は、ネット検索魔の楓によるとガセネタであるらしい。

「山口県警のサイトに事実無根の偽情報だって明記してたよ。この手の怪文書って昔から出回ってるぽい」

 当たり屋の手口と対策、要注意の車両ナンバーがずらずらと列記されているのだが、冷静に考えてみると、ナンバーが判明しているのに捜査力に定評のある日本の警察機構が放置することも考えにくい。

 ただ回覧板の当たり屋情報は、水崎臨港警察署からの告知だった。かの都市伝説的な当たり屋怪文書に着想を得た、模倣犯でも出没しているのだろうか。



 アルバイトを通じて何度か通ううち、見えてきたことがある。久保兄妹の父は病気療養中で入退院を繰り返しているらしく、困窮とまではいかないが、だいぶ切り詰めて糊口を凌いでいるようだった。将幸が言及することはなかったが、かつての休学とも関連があるのかもしれない。受験指導に関してド素人の自分などに頼まずとも、普通に学習塾を受講すればいいではないかと当初安易に考えていたのだが、この状況を知ってからというもの、却って瑞穂のモチベーションは触発されるに至る。いつしか、八尋の成績向上を強く願うようになっていた。当の八尋は別に関心事があるのか、やや集中力散漫で、瑞穂の熱意は得てして空回り気味だったが。

 ある日、アルバイトを終えて帰ろうとしていたところ、八尋が余所行きの身支度で玄関に出てきた。

「あら、お出かけ?」

「はい。ちょっと買い物。そこのモールまで」

「わたしも本屋寄ろうと思ってた。一緒に行く?」

「じゃあ一緒に行きましょう」

 来週、同級生たちと息抜きにプールへ行く約束なのだそうだ。目下サイズの合致する水着は水泳授業用のスクール水着しかなかったため、急遽体裁を繕うべく購入することにしたらしい。

 御所山は矢留市南部の田園地帯に忽然と拓けた新興住宅街で、中心には県下最大級のショッピングモールがある。駅前商店街の寂れぶりを嘆くローカル新聞の論調をよく見かけるが、確かにこのような巨大商業施設に太刀打ちしてゆくには、並大抵の訴求では追いつくまい。

「あの、瑞穂さん」

「はい?」

「参考までに伺いますけど、大和さんてどんな水着が好みなんでしょう」

 なかなか肯綮に中る質問と言うべきか。女子中学生侮りがたし、だ。しかし冷静に考えて、八尋が瑞穂の秘密を知悉しているはずもないので、これを高度な心理戦と見做すのはさすがに無理があろう。

「まぁ普通に可愛い水着かな」

「よかったら選んでくれませんか。瑞穂さん私服のセンスいいし」

 それは買い被りだ。なにせ瑞穂の服は、ほとんど楓のコーディネイトなのだから。

「自分の好みでいいんじゃない。八尋ちゃん可愛いから、大概のものは着こなせるんじゃないかな」

 決して追従ではなかった。強いてひとつ助言をするとすれば、この年頃にはまりがちな陥穽――不相応な背伸びだけはやめたほうがいいということだろうか。それは魅力を損う残念な結果にしかならない。

「じゃあ、こういうのはどうでしょう。もし水着選んでくれたら、お礼にお兄ちゃんの情報いろいろ教えますよ」

 べつに将幸の個人情報など必要ないのだが。この子はなにか盛大な勘違いをしている。


 ショッピングモールに着いた。それで気が済むのならばと思い直し、八尋のおしゃれ水着を選んでやることにした。この手の商品の相場に無知であった瑞穂は、値札を片端からチェックして眉を顰めた。中高生にとって安くはない出費だ。だが瑞穂が背中を押してやるまでもなく、意中の商品はすぐに見つかったようだった。

「これにします」

「いいのあった?」

「大和さんはこういうの見てどう思うんでしょう?」

「若い女子の水着姿は、普通に目の保養とか言って鼻の下伸ばすんじゃないかな。兄貴も健康な男子の末席にはちがいないだろうし」

 瑞穂は無責任に請け合った。その機会が今後あるのかは定かでないが、八尋が満足そうに頷いているのでよしとする。


 買い物を終え中央ホールにさしかかったところ、イベントでも開催中なのか人だかりができていた。吹き抜け外縁の手摺から身を乗り出して一階を覗くと、ステージ中央で外国人の青年がグランドピアノを弾いていた。たおやかに流れるショパンのノクターン第2番。行き交う買い物客も覚えず足をとめ、聴き入っている。素人の瑞穂などにも、かなりの技巧であることが分かった。てっきりプロのピアニストの仕事かと思ったが、周辺の見物人たちの会話に耳をそばだてて聞いたところ、来場客の飛び入りらしい。

 聴衆を陶酔させた入神の演奏が終わり、ホールに拍手喝采が溢れた。方々からアンコールの声が上がる。奏者の白人青年は、通りすがりの人々の礼賛に面食らって照れくさそうにしていたが、やがて椅子に座りなおし、指のストレッチを始めた。アンコールに応え、もう一曲披露する気になったらしい。

「次の曲は、なんとオリジナルの曲だそうです。それではどうぞ」

 イベントの司会者らしい女性が、マイクでそのように紹介した。イントロを漫然と聞いていた瑞穂だったが、聞き覚えのあるメロディに興味を鷲掴みにされる。はて、どこで聞いたのだったか? 隔靴掻痒の感が心の中で徐々に膨張した。演奏の間中考え込んでいたが、結局思い出せなかった。

「上手ですねぇ。音大の学生さんとかかな」

「そうかもね」

 物思いに耽って視線が宙を彷徨っていたところ、偶々ピアノ奏者の青年と目が合った。気のせいかもしれないが、ウィンクを寄越された。彼がどこの国の人かは知らないが、瑞穂が何か文化的な齟齬をしでかして、秋波を送ったと勘違いでもされたのだろうか。悩んだ挙句、そそくさとその場を後にした。



 帰宅すると、玄関にローファーが無造作に脱ぎ捨ててあった。普段であれば、上り框の前に几帳面に揃えてあるのですぐ楓のものと分かる。所作のいちいちを無意識に締めたがるのは、もはや剣道家の性とでも言うべきものだ。亡き祖父吉右衛門などは、まさにその口だった。信号待ちで車間距離を幾度も詰め直すドライバーを不愉快そうに一瞥し、「何故ビシっと止まらねえんだ」と独りごちたり、孫たちの障子や襖の閉め忘れを一喝したりということが度々あった。楓もまた御多分に洩れず残心主義の信奉者で、挙措進退の折り目を好む傾向が強い。だがこの時は、らしくもなくぞんざいだった。

「ただいまー。楓姉さん帰ってたんだ」

 楓は居間のソファーに自堕落にながまって、上の空でテレビを見ていた。

「おかえり。そんでもってただいま」

「おかえり。インターハイどうだった?」

「全然ダメ。歯牙にも掛けられなかったわ」

 憮然として語る。準々決勝敗退とのことだった。やはり直近の稽古不足が祟ったのかもしれない。楓にしてさえ全国の壁は厚いということか。それでも文武両道を実践して全国のベスト8入りなのだから、矜持としてしかるべきだろう。自己評価は峻厳なようだが。

「大和は?」

「わたしのバイト中は、いつも部屋で気絶させてる」

「夕飯まで大和で稽古つきあってよ」

 瑞穂は首を捻った。

「高校総体終わったら、もう三年生は部活引退なんじゃないの? まぁ別にかまわないけど」

「部活は引退だけど、剣道やめるわけじゃないし」

 唐突にそんなことを言い出すあたり、大会で不完全燃焼だったのだろうと察する。


 果たしていつもの楓の剣道ではなかった。間合いの取り方も足捌きも残心も粗雑であったし、打突は荒々しく洗練からは程遠い。心気充実している時の楓は、正眼の構えで対峙すると、堅牢な鉄壁に向き合っているかのような錯覚を覚えるのだが、今はそうした威圧感も雲散霧消していた。大和は敢えて何も言わず、稽古の間中竹刀を受けてやった。

 稽古後。楓は防具をはずすのも忘れ、放心したように正座していた。

「シャワー先使うよ」

「うん」

 大和が道場から出ると、板襖の向うから嗚咽が洩れてきた。いかに達観した言説を弄し、老成した雰囲気を纏っていようとも、その実はあくまで十八歳の女子高生。幼子のように泣きじゃくる時が、たまにあっても悪くないのではないか。


 就寝前、廊下で楓に呼び止められた。はにかんだ表情がとても希少なものに感じられ、却って大和のほうがどぎまぎしてしまう。切り替えの潔さは、楓の得難い長所だ。

「大和、ありがとうね。おやすみ」

「おう」

 ぶっきら棒な返事は、照れ隠し故であった。



 両親の三回忌が滞りなく済んだ。あの酸鼻な事故からもう二年もたつ。気丈でいられたのは、いろいろな事が間断なく起こり、ゆっくり感慨にふける余裕がなかったからかもしれない。

 夏休みも残すところあと数日。例年であれば、お盆を過ぎた頃から朝夕過ごしやすくなってくるのだが、今年はいつになく残暑が厳しく、連日熱帯夜が続いていた。地球温暖化の弊害が、この僻陬の地にまで及んでくるとは甚だ遺憾である。

「おや、今日はバイト行かないの?」

「今日は休み。八尋ちゃん、友達と約束あるみたい。プール行くんだってさ」

「おーいいね。あたしたちもプールで納涼といこうか」

 はたと何かに思い当たったらしく、瑞穂の顔を至近から覗き込んできた。

「そういえば、瑞穂って水泳だめなんだっけ?」

「オリジナル瑞穂はそうだったね。中身俺の今の瑞穂は、普通に泳げるけど」

 高校入学前に秋川一家と共に行った家族旅行で確認済みだ。

「あの子べつに運動神経悪くなかったよね。なんで金槌だったんだろ? 何かトラウマなるような幼児体験でもあったのかしら」

 大和が答える。

「思い当たる節はないけどなぁ。小学校の頃にはもう海とかプールに入るの嫌がってたな」

「まぁいいわ。ほれ準備準備」

「アンニュイな午後を満喫する予定だったのに」

「現役高校生が枯れたこと言ってんじゃないの。翔子も誘ってみようかね。帰ってきてるかしら」

 東京の予備校の夏期講習に行っているらしい。早速スマホでメールを打っている。

「翔子先輩のことだから、寸暇を惜しんで勉強中じゃないの。邪魔しちゃ悪いよ」

「缶詰めは精神衛生上よくないわ。リフレッシュしないと能率上がんないじゃん」

 牽強付会は楓の得意技なので、全面的に首肯はしかねる。ほどなく返信があったもようだ。

「翔子帰ってきてた。プール行くってさ。あとは白瀬ちゃんでも呼ぶ?」

「丸館の実家に帰省してるんじゃないの。つか、何故ここで彼女の名が挙がる」

「いや、大和がそろそろ雪乃成分補給したいかなぁと思って」

 意味深長な含み笑い。

「何がおっしゃりたいのかな、お姉様」

「祭りの時、なかなかいい感じだったらしいじゃないの」

「あれは……」

 言いさして口を噤む。量子のことに言及せずうまく言い抜ける口実が、咄嗟に思い浮かばなかった。べつに守秘義務があるわけではなかったが、雪乃が嫌がるかもしれない。暫時の沈黙は、時に千言万語を費やすよりも雄弁であるらしく、さぞ楓の憶測に触媒を提供したことだろう。まったくもってやれやれだ。


 結論から言うと、雪乃もプールへ同行することになった。楓からの電話を受けた際、ちょうど丸館の実家から下宿先の市内親戚宅に戻ったばかりだったらしいが、敬愛する先輩の誘いを無下に断る選択肢は、早々に除外されたのだろう。

「じゃあ現地集合ってことで。俺と瑞穂は自転車で行くから」

「ぶれないわね、あんたらも。ちょっとの間バス我慢すれば? 一緒に行こうよ」

「俺たちには時期尚早だよ。お先に」

 我ながら唾棄すべき萎縮と思わないではなかったが、心の未踏領域が、まだまだ時間の癒しを欲して已まないようだ。


 目的地、仁井別山麓にある温泉ドームは、市内とはいってもけっこうな距離があった。標高はさほどのものではないようだが、それでも上りの勾配が続く途次の道路は、自転車漕ぎにはなかなかの重労働である。ましてこの暑さ。灼熱の陽射しが容赦なく照りつけ、肌の露出部を焦がす。空の彼方の入道雲、山野を満たす放埓な油蝉たちの合唱も、体感温度をいや増すのに一役買った。プールで泳ぐ前に、カロリー消費がご機嫌なことになりそうだ。唯一の清涼剤といえば、森林の清澄な空気くらいのものか。きっと樹木諸君が発散するフィトンチッドや、葉緑体各位が光合成でせっせと作りだす新鮮な酸素が、絶妙な配合でブレンドされていることだろう。


 双子は汗だくになりながらも温泉ドームに到着し、楓たちと合流を果たした。

「お疲れ様」

「県立プールのほうが近くてよかったんじゃないの。温泉ドーム遠すぎ。なんだってこんな山奥に建てるの。責任者誰だよ」

 疲労困憊のあまり、つい愚痴が口をついた。

「だからバスで一緒に行こうって言ったじゃん」

 楓のしたり顔の寸評が耳に刺さる。

「兄貴のあんたがへばっててどうするの。夏休みだからって、毎日エアコン効いた部屋に引き籠ってるからだよ。瑞穂はバイトで鍛えてるだけあって、余裕綽々じゃないの」

 中身は同一人格なのだから、この毀誉褒貶は不当なものやら妥当なものやら。


 夏休み中ということもあり、さすがに家族連れや中高生らしき集団で混雑している。温泉ドームは屋内外に大小いくつかのプールがあり、サウナや露天風呂も付帯した施設だった。環状の流れるプールやウォータースライダーあたりが人気らしい。

 大和たちも束の間、日常の憂悶から解放されて命の洗濯に勤しんだ。彼らの魂はいまだ新鮮であるため、童心に返ることなど造作もない。なにしろほんの数年前まで、現役の洟垂れ小僧だったのだから。

 ふと気がつくと、雪乃がひとりプールサイドで無聊をかこっていた。

「泳がないの?」

「水が苦手なの」

 蚊の鳴くような声で呟く。

「そりゃまた意外な」

「小六、いや中一くらいかな、それまでは泳ぐの全然平気だったんだけど。とある時期から、水に入ると拒絶反応っていうか、体が硬直するようになって」

 オリジナル瑞穂も昔、同じようなことをほのめかしていた気がする。身近な人間の思いのほかの金槌率に、軽く驚く大和。

「お風呂とかシャワーは大丈夫なんだけどね。変な体質なっちゃったもんだわ」

 自嘲気味な吐露。

「水温低いとダメなのかね。もしくは裸じゃないとダメだとか」

 随分凹んでいる様子だったので、激励の意を込めた冗談のつもりだった。楓ならば我が意を得たりと悦に入り、肘鉄か裏拳が飛んでくることだろう。「スケベ野郎」などといった嬉しそうな罵倒とともに。しかし雪乃は至って恬淡だった。

「なるほど」

「外の露天風呂で試しに泳いでみたら? 泳げたら次は水深浅い子供プールで、ここは風呂だと自己暗示かけつつ泳いでみる」

「催眠療法ってやつ? ええと、露天風呂は裸で?」

 のけぞる大和。

「みんな水着着てたみたいだけど」

「そう」


 雪乃は露天風呂が気に入ったらしく、閉館時間まで休憩室と露天風呂との間を往来していた。遊泳は他の客の手前行儀よく断念し、ただ純粋に入浴を堪能している様子だった。

 大和は休憩室のソファーで仮眠を取る。最近この気絶行為を、『スイッチオフ』の符牒で呼んでいる。事情を弁えた楓などには分かりやすい暗号であろう。スイッチオフは体力温存のためというより、瑞穂での行動に専念するためだった。その瑞穂が久保八尋と遭遇したので、退避のためでもある。

「あれ、瑞穂さんも来てたんですか」

「あら八尋ちゃん。なりゆきでね」

「もしかして大和さんも来てます?」

「うん。まぁなりゆきで」

「どこですか?」

「そのへんで泳いでるんじゃないかな」

 八尋に含むところがあるわけではなかったが、正直若干の煩わしさは感じていた。その簡明直截な想いを受容する器が自分にはないのだと、大和は自覚している。或いは思い込もうとしていた。まっすぐゆえの眩さに、恋愛に疎い心が臆しているのかもしれない。

「ヘタレねぇ」

 八尋が勇躍して去った後、楓が瑞穂を見つめて辛辣に評した。瑞穂と八尋の短いやりとりを見ただけで、的確に大和の心理を忖度したようだ。瑞穂は反抗的に楓を睨んだ。

「頭が切れすぎるのも考えものだよ、楓姉さん」


「瑞穂ちゃんスタイルいいね」

 翔子生徒会長閣下からお褒めの言葉を賜る。先天的な容姿に関しては、身も蓋もなく言ってしまえば御先祖たちの功績だと思うのだが、妹への称賛は単純に喜ばしい。

「本当にね。中身が残念なだけに、宝の持ち腐れとはこのことだわ」

 先刻の苦言への意趣返しも多少はあるのだろうが、基本的に楓の毒舌は愛情表現である。姉上におかれてはじゃれ合いを御所望らしいので、お望みどおり水鉄砲を見舞ってやった。

 そんな塩梅に、生物学的女子三人はキャッキャウフフと無邪気に水と戯れ、晩夏の休日を楽しんだ。


 楓たちはバスで帰路についたが、桜井兄妹には、自転車での帰宅というもう一仕事が残っている。遊泳後の気だるい体に鞭打ち、復路に乗り出す。黄昏時の涼風と下り勾配もあり、往路ほど難渋な道のりではなかった。昼間山野を席巻する勢いだった油蝉の勢力は駆逐され、森林のひぐらし、水田の蛙、草原の鈴虫の三大勢力が、天下の覇を競って鼎立している。宵闇に星が瞬きはじめた。雲ひとつない快晴だったので、水崎に帰り着く頃には夏の大三角を拝めることだろう。

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