パラレル・クエスト

けさゆめ

第一章 春


 東北の春は遅い。ようやく桜のつぼみがふくらみ始めた四月中旬。とはいえ、早朝の空気は清冽な湧水さながらだ。つい先月まで猛威を振るった冬将軍の残党がまだこの近傍に居座り、春の移動性高気圧による掃討戦に頑強に抵抗しているかのようだった。

 裂帛の気合。朝の静寂を破る竹刀の打突音。雑巾掛けで磨き抜かれ、鈍い光沢をはなつ床に響く踏み込みの音。

 朝稽古は、桜井大和と桜井瑞穂が秋川家に引き取られた中二の時以来、欠かしたことのない日課だった。秋川家の敷地の片隅にある古ぼけた剣道場は、桜井兄妹の祖父が生前営んでいたものだ。兄妹が秋川家に来るまでは、従姉の秋川楓が専ら一人稽古に使用していたらしい。

 剣道範士であった故祖父秋川吉右衛門の薫陶もあり、孫たちも幼い頃から自然に剣道を嗜んでいた。ただ大和と瑞穂の兄妹には、中学一年から二年ちかいブランクがある。再び竹刀を取るようになったのは、稽古相手を切実に欲した楓の多岐にわたる慫慂があったからだ。しかし、中学の部活動に入ったわけではない。街の道場や公民館のサークルに通うでもない。ひたすら秋川家の道場で、毎朝、兄妹対峙するのみだった。単純な強さの追求、或いは斯道の奥義をきわめたいといった高尚な動機ではない。剣道を通じて得られるかもしれない副次的な効果に期待してのものだ。そして今のところ、その効果は期待以上であったといえる。祖父と環境に感謝しなければなるまい。

「もったいないなぁ。剣道部入ればいいのに」

 今朝は珍しく、楓が道場に顔をだしていた。といってもカジュアルな普段着のままで、朝稽古に参加するつもりはないもよう。

「いいよ、俺たちのは趣旨が違うし。真面目にやってるやつに悪いよ」

 大和と瑞穂はこの春、秋川楓と同じ水丘高校に入学した。二つ年上の楓は県下屈指の強豪選手として名を馳せている。並み居る男子部員を抑えて剣道部主将を務めており、果たして熱心に入部を勧誘してくる。

「他人と稽古すれば新しい発見があるかもよ。同じ相手とじゃ単調で飽きるでしょう。ましてあんたらの場合、一人稽古に等しいし」

「まだ俺と瑞穂で、同時に別々の相手とはやれないな。それが当面の目標ではあるんだけど」

「はたで見てると痛々しいよ。大上段に構えすぎ。気分転換が必要だね、あんたたちには」

 楓の指摘は正鵠を射ていた。常に付きまとう焦燥感は自覚している。瑞穂が言った。

「慣れるのに毎日必死だもの。こんな秘密、他人に知られるわけにいかないし」

「もっとも知られたところで、誰も信じないだろうけどな」

 大和が言葉を継ぐ。楓が感嘆した。

「器用だわ、キャラの使い分け。まるで二人と会話してるみたいに錯覚する」

「キャラとか言うな」双子の声が見事に重なった。


 桜井大和と桜井瑞穂は一卵性双生児だった。二卵性に比べ一卵性の双子は同性で生まれることが多く、異性の一卵性双生児というのは稀有であると聞く。双子に関するオカルトめいた俗説には無関心であったが、今思い返すとちいさい頃、精神感応的な現象というのはなるほどあったような気がする。

 中学二年までは横浜で両親と暮らしていたのだが、一昨年夏、お盆の帰省途中に交通事故で両親が他界した。瑞穂も頭部に重傷を負い、二ヶ月にわたって意識が戻らない状態となった。病室に詰めた母方の伯父秋川恭太郎を前に、悲観的な診立てを披瀝する医師。生命維持装置を外す家族の同意云々という、親戚の大人たちの喧々囂々を麻痺した思考で遠くに聞きつつ、大和は心の中で瑞穂にひたすら呼びかけた。そして、事は起こった。

 突如自分のものではない五感の奔流が、大和の意識に押し寄せる。両親の死や妹の危篤。少年の未だ繊細な心には到底受け止めかねる重く過酷な事実の連鎖。大和は最初、己の精神が悲嘆に耐えかねて狂ったかと思い、次いで事故の後遺症を疑って戦慄した。

 瑞穂のベッドのかたわらに屈みこんで嘔吐。驚いた医師や看護婦の介抱を受けつつ、二種の五感が混在する不思議な感覚を、薄れゆく意識のもとで自覚する。導かれた結論は驚くべきものだった。


「二重人格というのはよく聞くけどね。あんたらのはなんて言うのかしら。二重人間?」

「こんなの、過去に同じ事例なんてあるのかね。いたら是非お目にかかりたいもんだけど」

「小説とかマンガで、あんたらみたいな設定のはあった気がする」

 楓ののんきな感想がいまいましい。現在、桜井大和と桜井瑞穂はふたつの肉体でひとつの人格を共有している。ひとつの意識でふたつの体を動かしていると言い換えたほうが、より分かりやすいだろうか。不条理だが、厳然たる事実なので受容するほかあるまい。さもなくば、諸々のことが前に進まない。

「基本大和なのよね? 瑞穂の中の人も」

「うん。俺は留守番。瑞穂が起きるまでの」

 妹の意識はいつの日か必ず目覚める。大和はそう信じている。そう信じなければ、とても正気を保てそうになかった。

「まぁ気が向いたら格技場おいでよ。場所わかる? 大体育館の横の建物」

「いかないって」

「あんたなら即戦力なのになぁ。瑞穂だけでもどう? 今女子部員少ないから、すぐ団体戦の選手なれるよ」

「俺試合とか興味ないし。楓姉さんも知ってるだろ」

「今年は一年女子に有望なのが一人入ってね。あんたのいい稽古相手なると思うんだけど」

「とか言いつつ、実のところ姉さんが稽古相手欲しいんだろう? 期待の新人のその子と火花散らしてくれよ」

「あんた、瑞穂が得意だった巻き技使える?」

「あれはなぁ。見よう見まねで何度も試したけど上手くいかないな。コツがあるんだろうけど」

「祖父さん直伝のあの技だけは、分かってても防げなかったよね。相手にしたら脅威だよ。惜しいなぁ。瑞穂が健在だったら全国も狙えたのに」

 冗談ではない。このような超常現象、いかに糊塗するか腐心しているというのに。目立たず大過なく、三年間高校生活を送ることが当面の目標だった。ただ、どんなに取り繕ったところで所詮女子の振舞い方など男子には分かりかねる。大和ひとりでこの容易ならざるミッションに挑んでは、遠からず襤褸を出すのがおちだろう。楓にすべてを打ち明け、協力を求めた所以だ。従姉は磊落な人柄で信頼が置ける。この状況をどこか面白がっているのがいささか不安ではあったが。

「目立たずという目標は、残念ながら叶いそうもないわね。男女の双子は珍しいし、あんた自覚ないみたいだけど、うちのクラスの連中によると、瑞穂はなかなかいい線いってるらしいから」

 既に上級生のめざとい男子諸兄が、瑞穂の情報収集に奔走しているそうな。

「あたしのところにも来たよ。あの新入生の可愛い子だれよってさ。連中、中身が野郎だなんて知る由もないしね」

「そりゃまた歓迎できない情勢だな……」

 大和は前途の多難に思いを馳せて眉をひそめた。楓が立ち上がって道場から出ていく。

「朝食の支度手伝ってくる。あんたら、登校前にちゃんとシャワー浴びといてよ。汗臭いまま学校行かないでね」

「へいへい」

 大和と瑞穂は向かい合って正眼に構え、剣先を合わせた。蹲踞をして竹刀を収め、立礼。道場正面の神棚に対して正座し、黙想。そして座礼。べつだん剣道の作法に則って、という殊勝な心掛けでやっているわけではない。二人にとって一連の動作は、いうなれば訓練の一環だった。一個の意識でふたつの肉体を円滑に動かすための。


 着替え終わると、大和は道場の掃除や防具竹刀の手入れ、瑞穂は浴室へと別行動。一緒にシャワーを使えば能率的なのだが、事情をわきまえた楓はともかく、秋川夫妻の目がありそうもいかない。

 剣道を通じた感応練磨の甲斐あってか、別行動可能な相対距離は徐々にひろがり、今や五百メートルほどに及ぶ。興味にかられるまま行った実験の結果、その範囲を越えると、意識集中の薄弱なほうの体が気を失って倒れる。「まるでネトゲの複アカ使いみたいだね」とは、その筋の情報通たる楓の感想だった。なんでもネットゲームの世界には、複数のアカウントを一人で円滑に同時操作する猛者がときたまいるらしい。なるほど言い得て妙かもしれない。

 大和の入浴はカラスの行水さながらだったが、瑞穂の体は丹念に洗うよう心掛けていた。なにせ眠れる妹からの預かりものだ。当たり前といえば当たり前のことだが、十五歳の彼ら兄妹は、一卵性双生児といえども体躯の相違が顕著になりつつあった。両性の成長期を現在進行形で体験中の大和は、瑞穂の体の変化に戸惑うことが多い。楓の適切なサポートがなければ今頃どうなっていたことか、想像するだに恐ろしい。

「俺には無理かも……」

 幾度楓に弱音を吐露したことだろう。そんな時は、すかさず楓に窘められる。

「瑞穂で喋る時は、俺って言わない。難しく考えすぎだよ。もっと気楽にいこう。大和の理想の女の子像を、瑞穂で追求してみればいいじゃん」

「理想ねぇ」

 女子道の前途は、なお遼遠のようだ。


 特別な事情でもないかぎり家族そろって朝食をとるのは、古風な秋川家の約束事のひとつだ。食後の片付けや洗い物を、瑞穂は率先して手伝うようにしている。時には弁当作りなども、恭太郎の妻、梢の手ほどきで挑戦中。俄かにジェンダーの教義に目覚めたわけではなく、居候の遠慮から来ているわけでもない。瑞穂的な自我確立のための模索である。まずは皮相からというわけだ。「順調に女子力向上中ね」と梢にひやかされるたび、微妙な心境にならざるをえないのだが。

 順番に歯磨きし、それぞれ自室で制服に着替える。水丘高校は旧制中学の流れをくむ古い進学校だった。近隣の高校が瀟洒なデザインの新制服を採用するなか、伝統を墨守しているのか、ただ単に当局が面倒くさがっているだけなのか定かではないが、愚直に旧来の制服を通している。男子は黒の詰襟学生服、女子は濃紺のセーラー服。

 さぞ厳格な校則かと思いきや、制服着用は自由で私服通学も容認されている。水高OBでもある伯父恭太郎によると、学生運動が盛んだった時代の名残らしい。もちろん当時の物々しい理念は既に風化しているが、闊達な校風の醸成に一役買っているようだった。

 在校生の楓は制服派だ。いわく、「制服のほうが楽だし。卒業したらもう着れないしね」とのこと。確かに着まわしや被服費に気を遣わない分、私服通学より楽にはちがいない。

 未だ着慣れない女性下着やセーラー服に悪戦苦闘。おろしたての白ハイソックスをはき、玄関で真新しいローファーに足を通す。姿見でざっと確認。ここで楓の検閲を受けるのが朝の定例となりつつあった。主に瑞穂の身だしなみに遺漏ないかのチェックなわけだが。

「俺、じゃないわたし、紺ハイソのほうが好きなんだけどな。見た目お嬢さんぽくて上品で」

「うちの制服はこれでいいの。ほれ、昭和の純文学ぽく清純可憐な路線で却っていい」

 楓のこだわり制服論が展開中らしい。懐古趣味というよりは、どうも流行に迎合した近隣他校の制服に反骨心をいだいているふしがある。それは憧憬の裏返しなのかもしれないが。

「清純可憐ねぇ」

 そのような形容は久しく耳にしたことがない。それこそ古き良き純文学の中で余喘を保っているのではないか。

「その路線を標榜するわりに、なんでこんなにスカート短いの? よくこんなの平然とはけるな」

 瑞穂の中の人的に、いまだに抵抗感を払拭しきれないものの最たるひとつがこれだ。男子視点では歓迎すべき眼福なのかもしれないが、いざ着衣の当事者となると、当の男子の倫理観が邪魔してどうにも慣れない。まったく得難いジレンマと評すべきか。

「ほれほれ、くねくねしないで立ってごらん。胸を張って堂々としていれば平気。すぐ慣れるわよ」

「そういうもんなの……」

「OK。女装こなれてきたわね」

「あのう、わたし一応女なんですが」

 瑞穂は自信なさげに抗議した。心許ない前提はさておき、楓に釘を刺しておくべきだろう。

「学校でへんなかまかけないでよ」

「へいへい」

 週番だから先行くねと言い残し、楓はバス停に向かった。出席番号が早いため、週番の御鉢が早々に回ってくるらしい。

 入学当初、秋川家の人々にはバス通学を勧められたのだが、一昨年の事故のトラウマなのか、どうも車は苦手だった。兄妹はおのおのガレージから自転車をひっぱりだし、料峭たる春風に身震いしつつ登校の途についた。



 大和は近頃、幼い時分の夢を頻繁に見る。

 妹と手をつないで鳥居をくぐり、靄の中うかびあがる苔むした石段を上る。両側に屹立する樹齢幾百年ともしれない欅の巨木。深い森の霊妙な空気は、いとけない双子にも畏れを懐かせた。遥か山頂に向かって伸びる参道は、やがて古い神社に至り、兄妹は見よう見まねの作法で参拝した。少し前にも両親に伴われてここに来たのだ。

 ふと見上げると、社殿の欄干に腰かける同年代の女の子。他愛のない会話を交わし、打ち解ける三人。境内を駆け回って日がな一日無邪気に遊んだ。

 その後、あの場所でなにかがあった気がするのだが、記憶に靄がかかってよく思い出せない。あれはいつのことで、どこだったのだろう。思い出そうとすると焦燥感ばかりがつのる。そもそも、何年ものあいだ気に留めることのなかった追憶だ。妹の記憶を手繰らなければという意識のなせるわざなのか。

 この子供のころに訪れた山深い神社の夢は、覚醒後の記憶に残る心象がやけに鮮明だった。内容は大概、曖昧模糊としたものであったが。



 四月下旬。遅まきながら桜前線が矢留市にも到来。爛漫と咲き誇る桜は言わずもがな、あるかなきかの春風駘蕩もまた、このうららかな季節に欠くべからざる隠し味だ。

 大和は欠伸を噛み殺した。

「日和いいから、じっとしてると眠くなるな」

「楓姉さん遅いね」

 大和と瑞穂の会話は厳密に言えば独り言なのだが、両人の中の同一人格は、この言葉のキャッチボールの疑似体験をことのほか好んだ。ささやかな一瞬とはいえ、不条理な現実から逃避して、甘美な追憶へとひたれるのだから。

 この日の昼休み、楓から花見へと誘われた。剣道部顧問が職員会議で不在のため、ミーティングで部活が早上がりになったらしい。

「毎年の花見を欠かしたら、桜井の名字がすたるわよ。ちょうど観桜会やってるし、散歩がてら行ってみよ。こんな機会でもないと、城址公園行くことなんてないでしょ、あんたら」

「まぁ、生粋の地元民じゃないからな。用事もないし、確かにわざわざ行く機会はないかも」

 楓は先日からしきりと気分転換の重要性を力説し、実践を推奨していたが、一向に腰を上げない桜井兄妹に業を煮やしたのだろう。一つ屋根の下で同じ釜の飯を食っていれば、双子の懊悩など垣間見えるものもあるのかもしれない。従姉の心遣いを無下にするのも気が引けるので、ここは素直に話に乗ることとした次第だ。

 放課後、城址公園で待っているようにとの通達だったので、こうして兄妹雁首そろえて手持ち無沙汰にしている。わざわざ花見に出張ってきて、退屈だからと携帯を弄るのも、花鳥風月の精神への冒涜のような気がしたので、当初の目論見どおり桜を愛でることとする。はじめのうち、大和たちの花見はやや熱意を欠いたものだったが、いつしか舞い散る桜に陶酔していた。

 交通事故以来、これほど澄み渡った心境になったのは初めてであることに思い至り、大和はすこし驚いた。日本人には桜に感応してカタルシスへ導かれる遺伝子でも具わっているのだろうか。

 桜見物に繰り出す大勢の人々の中に、竹刀袋を背負った女子を見かけた。濃紺セーラー服に白ハイソックス。このあたりでは見紛うことのない水高女子の制服。背格好からして楓だろうと当たりをつけ、大和は追いかけて袖を引っ張った。

「楓姉さん、こっちこっち。あれ?」

 楓ではなかった。

「すみません、人違いでした」

 注視にあい、たじろぐ。学校とは少し印象が違ったのですぐに相貌認識できなかったのだが、大和のクラスメイトの娘だ。名前は何といったか。記憶野における検索作業は難航した。大和が薄情というよりは、単純に出会いから日が浅く、情報不足でシナプス接合が捗らないのだろう。

「……どこかでお会いしましたか?」

 クラスメイト女子が大和に訊ねた。

「同じクラスの桜井です。君はええと」

「白瀬、です」

 思い出した。確かフルネームは白瀬雪乃といっただろうか。美人だが、感情の希薄そうな娘だった。

「白瀬さんも花見?」

「まぁ、そんなところです。ちょっと急ぎますので、失礼しますね」

「ああ、引きとめてごめん」

 白瀬が立ち去り、入れ替わりに楓がやってきた。

「お待たせ。ごめん遅くなって。さ、いこ」



 後背に丘陵の森林をひかえる水丘高校は、風薫る五月という常套句に先人たちが込めた情感を、より深く追体験しうる環境だった。国語に履修科目としての関心しかない大概の無粋な高校生たちにしてさえ、その爽快感はひとしく認めるところだ。近年スギ花粉症に罹患したらしい楓などにも、この季節の到来はさぞかし福音であろう。

 水丘高校ではこの季節に運動会が催される。学年混成で四つの集団に分かれ、総合得点を競うのだ。各競技に臨む生徒のスタンスは十人十色で、数日前から自主練に励む奇特な者もいれば、クラス親睦のレクレーションと捉えるお気楽な者もいる。ゴールデンウィーク飛び石連休の谷間に通常授業がつぶれることに関しては、おおむね好意的な生徒が多いようだった。

 この頃になると新入生もだいぶうちとけてきて、クラスメイトの顔と名前を互いに把握する。他愛ない雑談を交わす相手にも、さほど不自由せずにすむというものだ。大和はフェンス下の芝生で胡坐をかき、グラウンドに展開される競技を観戦していた。同級生たちの談笑に適当に相槌を打ちつつ。

 チアリーダーのコスチュームを着た上級生女子数人が通りかかり、ひとりが足を止めて大和に声をかけてきた。

「大和も赤雲隊だったの」

「姉さんもか」

「瑞穂は?」

「白雲隊。もうじき二百メートル走でるよ」

 幼稚園からこのかた、瑞穂と同じクラスになったことはない。それが双子にまつわる慣例なのか、単なる偶然なのかは知らない。授業参観やPTAの二クラス掛け持ちはたいへんだと、亡き母朋江がよくぼやいていたものだ。

 楓がしゃがみこんで耳打ちしてきた。

「瑞穂、走って大丈夫? 体調きつそうだったら棄権しなよ。あんた、まだ慣れてないでしょう」

 女子歴かれこれ二年弱になるので、慣れてないこともないが。

「走る。ちと確認したいことが」

 楓は懸念を隠そうとせず、大和の目を覗き込んできた。

「まぁ無理はしないよ」

 周囲に思い思いたむろしていたクラスメイトたちは、額を寄せ合って密談する大和と楓に興味をひかれた様子。女子のひとりが立ち上がって楓に挨拶した。いかにも体育会的な機敏な動作。白瀬雪乃だった。そういえば城址公園の観桜会で出くわした時、校章入りの竹刀袋を背負っていたことを思い出す。例の有望な新入部員というのは彼女のことなのだろうかと大和は考えた。

「おや。大和と同じクラスなの」

 楓が大和の頭をこねくりまわす。

「こいつ、うちの部に入れたいんだけど、ごねてなかなか首を縦にふらないのよ。白瀬ちゃんから何とか言ってやってよ」

「先輩と桜井君は、どういう御関係なんですか?」

 白瀬は大和と目を合わせないようにしている。思い過ごしかもしれないが、警戒されている気がした。

「従姉なんだけど、まぁ姉貴みたいなもんだ。実際、一昨年から同居してて家族だしな」

 家庭の事情をいちいちつまびらかにするのも面倒なので、込み入った説明はしない。

「ええと、同居……家族?」

 想定外の返答だったらしく、言葉に詰まる白瀬。折しもトラックで湧き上がるどよめき。皆が注意を引かれた。

「なに、何があった?」

「二百メートル走、やたら速い子いるな」

「つうか、あれって桜井の妹さんじゃね?」


 昼休み、困惑顔の楓が瑞穂のもとへやってきた。

「体どう?」

「だるいし……あちこち筋肉痛が」

「午前中、本気で走った?」

「んー、実は途中からセーブしたんだ。全力疾走するとなんだかまずい気がして」

「賢明な判断だわ」

 体調は平常にほど遠かったが、意識と体の同調はむしろいつにない深度と精度で増している気がする。おかげで運動会の競技では、潜在能力を遺憾なく発揮していた。細胞のリミッターの箍がはずれているとでも形容するべきか。まさに火事場のなんとやら状態が持続中で、瑞穂は所属する白雲隊の総合得点に抜きんでた貢献を果たしていた。

「不思議な感覚。なんだろうこれ。ええとその、あの期間は、同調の周波数みたいなものが最適化されるのかね?」

「同調の周波数ときたか。あんたら兄妹無線で動いてるとか? お互いに電波飛ばし合って」

「脳波の同調は実際にある現象らしいけどね。ネットで調べたことある。わたしたちのこれは、もっとこう違うもののような気がするけど。上手く言えないんだけど。……ところで何しに来たの?」

「それなんだけどね」

 楓によると、午前中の二百メートル競走で瑞穂の同時走者にたまたま陸上部員がおり、仲間内で個人的にタイム取りをしていたらしい。その際、対象外の瑞穂のタイムを偶然採取したのだが、彼女の叩き出したタイムに、陸上部一同騒然となっているとのことだ。

「推定インハイ記録級だってさ。陸上部の子、ありゃ誰だ、すわ勧誘せにゃって大騒ぎしてる」

 瑞穂は机に突っ伏した。

「セーブしてこれか。まったくふざけた脚力だわ」

「機械壊れてたんじゃないの。もしくはヒューマンエラーか」

 厄介事に発展する前に揉み消すに如くはない。どうしたものだろう。

「ともあれ、午後は適当に手抜いてね」

 楓は思いついた疑問を呈した。

「そういやさ、大和も今無双状態なわけ?」

「俺……じゃない、兄貴のほうは違うかな。わたし固有の現象みたい」

 否定はしたものの、実は大和のほうにも瑞穂と異なる条件下で同様の現象が発現する。ただ、楓に斯々然々と説明するのは少々憚られるだけだ。面白半分に人体実験を始められては身が持たない。出来ればこのまま胸にしまっておきたいものだ。

「これもきっとヘンテコな副作用のひとつなのかね。二重人間の」

「あんな四六時中稽古して体鍛えてるから、知らないうちに身体能力向上したんじゃないの。もう違和感なく二つの体動かせてると思うし、今後はほどほどにしとけば」



 翌日の夕飯後。居間でテレビを視ながら寛いでいた瑞穂の前に、風呂上りの楓が寝そべって言った。

「それにしてもあんな大怪我して、よく後遺症もなく社会復帰できたよね」

 果たしてそうだろうか。後遺症は甚大な気もするのだが。人格共有なんぞという奇っ怪至極な後遺症が。

 楓は手をのばして瑞穂の頭を撫でた。

「ショートカットもなかなか似合うよ。うん、かわいい」

 かつて大和との相違点を自己主張する故か、背中まで伸ばしていた瑞穂自慢の黒髪も、治療の際丸坊主にされ、しばらくウィッグの世話になったのだ。あの事故から一年半を経て、髪の毛もようやく傷痕を隠蔽するのに十分な長さになり、つい先日、楓に拉致されて美容室デビューを飾った。

「ちょっとマッサージしてよ」と楓が言いだした。

「いや、それはちょっと」

「よく大和と交互にやってるじゃない、稽古の後で」

 なお躊躇すると、「女の子同士だし。気にしなさんな」とのこと。しからば培ったスキルを御披露しようではないか。瑞穂は腕まくりした。

 稽古着袴姿の楓は華奢にすら見える。だが幼少から祖父に鍛え抜かれただけあって、きわめて均整のとれたしなやかな肢体の持ち主だ。オリジナル瑞穂の人格が今ここに健在であれば、羨望を禁じ得なかったにちがいない。

「今日も部活だったの? 休みなのに御苦労なこって」

「県大会近いからね」

 眠そうないらえ。二の腕や太腿に青痣ができていた。元立ちで後輩に稽古をつけたのだという。

 しばしマッサージに専念していると電話がなった。水仕事を中断して台所から出てきた梢が、受話器をとる。

「楓、電話。剣道部の白瀬さんて方から」

 楓はいつしか安らかに寝息をたてていた。テレビでは、多元宇宙論とパラレルワールドの理論的可能性を扱ったサイエンス特集を放送中で、難解な量子力学の解説が丁度いい子守唄代わりになったのかもしれない。

 瑞穂は揺り起そうとして、思いとどまった。無邪気な寝顔に免じて、夢路を妨げる無粋はすまい。かわって、ソファーでテレビを漫然と眺めていた大和が梢に言う。

「姉さん寝ちゃってる。俺でようか?」

 白瀬が同級生であることを申し添え、受話器を受け取る。

『本当に一緒に住んでるんだ』

「楓姉さん、部活で疲れてたみたいで爆睡してる。起きたら折り返し電話させるよ。白瀬さん携帯?」

『……ええ』

「急ぎの用件だったら伝言するよ。俺でよければだけど」

『いえ、たいした用じゃないから。明日の部活の後、先輩に話すわ。夜分失礼しました。おやすみなさい』

「おやすみ」

 電話越しの微妙な息遣いや声の抑揚から察するに、どうも警戒されている。運動会の際の直感はおそらく正しい。剣道経験者のさがなのか、特殊な境遇のなせるわざなのか、大和は相手の心理を忖度しすぎるきらいがあった。空気が読めるといえば可愛げもあるが、大和自身はこれを悪癖と自覚していて、時に自省の燃料としている。


 あくる日、部活から帰宅した楓は白瀬雪乃を伴っていた。いつになく難しい顔で大和を手招く。

「ちょっとあたしの部屋に来てくれないかな」

「俺、何かしでかしたっけ?」

 女子二人に吊るし上げをくらう脳内シミュレーションに憂悶しつつ、二人の後に続き、楓の部屋に招じ入れられる。

「白瀬ちゃん。大和に話してもいいかな」

「はい。相談した以上、先輩の判断に委ねます」

「あれ、見せてやって」

 白瀬はスクールバッグから一通の封筒を取り出し、大和の前に置いた。楓に読むよう促される。飾り気のない便箋には、流麗な筆致で次のようにしたためられていた。


『白瀬雪乃さん。

 突然の手紙に驚かれたことと思います。ごめんなさい。

 どうか冷静に読んでほしいのですが、私は、あなたの中に存在するもうひとつの人格です。私の意識はあなたの体の中で、あなたと共にあります。便宜上、白瀬量子と名乗ります。むろん仮名になりますが、ご容赦ください。私の人格には、発生以来、固有名詞が付与された記憶がないのですから。

 私という意識がいつどのようにして発生したのか、記憶が茫漠としており定かでありません。

 私は、あなたと体の主導権を争うつもりはありません。ましてや、あなたに危害を加える気など毛頭ありません。あなたが生涯を閉じる瞬間まで、傍観者であることを甘受するつもりです。もともと、このようにあなたと接触を図る意思もなかったのです。

 しかし、ある懸案事項の発生により、どうしてもあなたに協力を仰ぐ必要がでてきました。

 今年、水丘高校であなたの同級生となった桜井大和君。彼に接触し、彼の素性を調べてほしいのです。

 この手紙は、あなたの意識が眠っている間に書き上げたものです。信憑の一助となるか分かりませんが、あなたの携帯を拝借し、この手紙を書く私の姿を、動画で保存してあります。後で確認してみてください。

 なお老婆心ながら、あなたと私の二重人格は、精神医学でいうところの解離性同一性障害とは性質が異なると、私自身考察しております。むろん専門家の診察を希望されるなら、それはあなたの御自由ですが。

 おってまた連絡します。桜井大和君の件、どうか御検討くださいますよう』


 突っ込みどころ満載な手紙であるが、当の白瀬の前である。大和は文面を咀嚼し、行間を吟味した。

「今時古風なこって。つうか、何これ?」

 端座した白瀬と目があった。しばらく視線を絡め合ったが、白瀬はいなすように双眸を伏せた。

 楓の説明によると、当初は悪戯を疑ったものの、封筒の置かれていた白瀬の自室が密室であったことと、携帯に保存された動画の存在を勘案し、薄気味悪いことだが、手紙を再評価せざるをえないという。

「だいたい、なんで俺の名前が登場するんだ? 白瀬量子って誰だ?」

「こっちが訊きたいわよ。だからこうしてあんたを呼び出してるわけ」

 つまるところ大和は関与を疑われているわけだ。名指しではさもあろう。白瀬雪乃の大和に対する隔意の正体はこれか。

「こいつ不器用でさ。ストーカーまがいのことしでかしたり、女の子口説くのにわけわかんない手練手管弄するようなやつじゃないのよ。というか、そもそも女子に告る甲斐性を持ち合わせてないわね。その点は、あたしが保証する」

 白瀬を向き、大和のフォローを始める楓。一部内容に異論もあるが、ここは容喙せずにおく。

「その問題の動画っての、見せてもらってもいい?」

 白瀬は逡巡する様子をみせたが、頷いた。楓が遮って助け舟を出す。

「白瀬ちゃん下着で寝る派みたいでね。まぁ、あんたは遠慮しときなさいよ。問題の動画には確かに、この手紙を執筆中の白瀬ちゃんが映ってるわ」

「そか」

 深くは追及しない。さして親しくもない同級生男子に私生活の一端を開示するのは、年頃の女子高生的に抵抗もあるのだろう。

「白瀬さんは、その手紙を書いた記憶ないんだな?」

「私、こんな御経みたいな文章書けないもの」

 間髪容れぬ首肯。押し黙る三人。

 このような相談を持ち掛けられたところで、どう答えればいいものやら見当もつかない。大和はもちろん楓にしたところで、専門知識も人生経験も豊富というにはほど遠い高校生にすぎない。もっとも大人であったとしても、適切な助言ができるかは疑問であるが。精神科医か心理学者の得意分野のような気もするが、どちらも彼らには敷居が高そうだ。

「現時点ではなんとも言えないわね。ごめんね、折角相談してくれたのに気の利いたアドバイスできなくて」

「いいえこちらこそ。変な相談してすみませんでした」

 白瀬は律義に礼を述べて、秋川家を辞した。


「白瀬ちゃんの話、どう思う?」

 白瀬が帰った後、楓が訊いてきた。大和は白瀬による狂言の可能性を指摘してみたが、言下に退けられた。

「真面目が服着て歩いてるような子だよ。部活も愚直なくらいひたむきに取り組んでる。機会があれば、いちどあの子と試合してみるといいよ。本当にけれん味のない剣道する子」

 故祖父もそうだったが、楓好みの剣道というわけだ。なるほどそれで目をかけているのか。白瀬も楓を慕っている様子が見て取れた。

 それはさておき、どさくさに紛れて剣道部勧誘の方向に話を誘導してはいないだろうか。大和は警戒を気取られぬよう、素知らぬ顔で話題の軌道修正をはかった。

「けど、二重人格って本当にいるもんなのかね」

「あんたがその台詞を言うか」



 六月の前期中間考査が終わると、夏休み前に開催される水高祭の準備が本格化する。水高祭は、かつては他校と同じく文化祭シーズンの秋に催されていたらしいが、年度後期を勉学に専念させたい学校当局の意向もあり、この時期になった経緯があると聞く。ゴールデンウィーク中の運動会、夏休み明けの学級対抗に並ぶ水高三大行事のひとつだ。

 そんな事情でこの時期、日曜日でも登校する生徒は多い。祭りの準備に意気盛んな生徒たちにまじり、大和もまた飄々と、校舎へ続く坂道の途上にあった。水高祭絡みではなく、補習と追試のためであったが。

「あんた、瑞穂と同じ点数取れるでしょうが。脳味噌つながってるんだから」

 家を出る際、赤点だらけの惨状を楓につっこまれた。

「兄妹で成績いいと目立つじゃないか」

「落差ありすぎて、かえって注目引くような気がするけど。そんな調子じゃダメ兄貴の烙印押されるわよ」

「俺は別になんら痛痒を感じないな」

「ともかく母さん心配するから、赤点だけは回避して」

「うーん、平均点狙ったんだけどなぁ。匙加減難しいな」

「デュアルコアみたいなもんだし、楽勝じゃん。記憶容量も演算速度も人の倍のスペックなんだから」

 楓の比喩は安直だが妥当だ。実際、瑞穂は全科目とも高得点で学年首位の成績を獲得していた。テスト勉強に相応の努力を払ったと主張したいところだが、やはり二個の脳の並列稼働に負うところが大きい。有り体に言ってチートだ。

 楓は興味深げに言う。

「瑞穂じゃ実力だすのに躊躇しないくせに、大和じゃ体裁に無関心。あんた流のバランス感覚なのか、無意識の負い目なのか、そのへんどうなの」

 したり顔で分析されてもコメントに窮する。

「瑞穂も連れてくの?」との問いには瑞穂で答えた。

「家で気絶してるのもなんだし、運動がてら一緒に登校するわ。図書室で待機しとく」


 補習授業の行われる教室に入ると、先客がいた。教科書のチェックに余念がなかった白瀬雪乃は、来たのが大和と知ると珍しくも狼狽し、筆箱を床に落として更に慌てた素振り。

「君も追試か。意外だな」

 普段の授業で、教師に抜き打ちで指名されてもそつなく答えていた気がするので、試験も順当に及第点を取っているものと思った。まあ誰しも苦手科目はあるかもしれないし、試験当日に調子が悪いこともありうるだろう。まして白瀬は今、心に尋常でない懸案を抱えているはずだ。凛々しい美貌に似つかわしくない目の下のくまを見て取り、白瀬の近況を洞察する大和。それが肯綮にあたっているかは定かでないが。

「意外もなにも、私馬鹿だし」

 頬に朱をさして主張する白瀬。

 教師がやってきた。補習を受ける生徒は大和と白瀬の二人だけ。これを見て、教卓の近くに座るよう指示する教師。何気なく白瀬の隣に座ろうとしたが、なんとなく近寄りがたい空気を読んで、三列ほど隔てた席に着きなおす。思わず苦笑。

 例外もいるが、水高教諭陣は単位付与に寛容な印象がある。補習は追試の出題内容に即したもので、かなりピンポイントなものだ。故意に落第でも狙わないかぎり、まず落とすことはない。その分、授業の出欠には厳格で、留年事由のほとんどが出席日数の不足らしい。

 高校教師の勤務が如何なるものか関知するところではないが、休日出勤は相応のストレスを伴うことと想像された。白瀬はいざしらず、大和がこの場にいるのはいらざる三味線を弾いたためで、担当教師は本来必要のない時間と労力の浪費を強いられているわけだ。モラトリアム期間真っただ中の人間とはいえさすがに良心に背中を押され、大和は神妙に補習及び追試をこなした。


「はい、お疲れさん。期末は頑張れよ二人とも」

 拘束から解放され帰り支度をしていると、傍らに気配を感じて仰ぎ見る。白瀬が立っていた。面識を得てまだ日が浅いが、かつて見たことのない穏やかな表情。それが大和の注意をひいた。印象が明確に変わった。俄かに圭角を研磨する心境の変化があったとでもいうのか。

「桜井君。この後何か予定あります?」

「いや、特にないけど」

「ちょっとお茶付き合ってほしいんですけど」

 大和は白瀬の意図を訝しんだ。これは所謂ナンパというものなのだろうかと一瞬考えたが、なにしろ堅物を絵に描いたような白瀬のことだ。ありえない。大和の当惑を察したか、白瀬は言葉を継いだ。

「対話のいい機会かと思って」


 図書室で待機中の瑞穂を放置するのも気がかりだったが、いつもと様子が違う白瀬の言動への興味がまさった。

 白瀬に連れられてやってきたのは、駅近くの瀟洒な喫茶店。世故に暗い十六歳の高校生にも、落ち着いた居心地のよい店だということは理解できた。店内には、ジムノペディ第1番の優婉な旋律がゆったりと流れている。メニューを見、店員にオーダーする白瀬の挙措は、学校と変わらず端正。気負いも虚勢も感じられない。

「高そうな店だね。よく来るの?」

 懐具合もさることながら、制服姿の自分たちが場から浮いているのではないかという懸念が先に立つ。

「私は初めてですね」

 なんとなく引っかかる物言い。何をほのめかしているのか。

「ふうん、そうか。随分慣れた感じだから、てっきりホームグラウンドなのかと」

「桜井君はどうですか」

「こういうシチュエーションは初めてなので、正直まごついてる」

 大和は率直に語った。

 白瀬の前に置かれたティーカップを見つつ、ふと妹のことを思い出した。健在な頃の瑞穂もコーヒーが苦手で、紅茶好きを標榜していた。もっとも当時の桜井兄妹は小学生。コーヒー牛乳ならばいざしらず、焙煎抽出したコーヒーを常習的に愛飲する小学生が、世間にどれほどいるのかは知らないが。

「紅茶党なんだ?」

 会話に潤滑油を注ぎ足す程度の心もちで発した何気ない問い。だが、返ってきた言葉は奇妙なものだった。

「雪乃さんの影響かしら。彼女は好きみたいですね、紅茶」

 発言の意味を理解しようと反芻しているうち、ある可能性に行き当たった。その三人称が種明かしにほかならないということか。

「するってえと、君が噂の白瀬量子さんなのか……」

「御明察。話が早くて助かります」

 心を整地する必要を感じた。大和は発注したコーヒーを一口すする。雰囲気補正もあるのかもしれないが、好みの風味だった。正直なところ、さほどコーヒーに造詣が深いわけではない。秋川の伯父は一家言もっているらしく、家で日常供されるコーヒーは、インスタントではなくそれなりに手の込んだものだった。自ずと蘊蓄はともかく、こと味覚に関する限り、大和の舌は肥えていたといえる。

「ええと、いつ人格交代したの?」

「追試が終わった頃。雪乃さんゆうべ一夜漬け頑張ってたから。追試終って精根尽き果てたんじゃないかな。かくいう私も、かなり眠いんですけどね」

「だいぶまいっている様子だったな。白瀬――雪乃さん」

「それについては私も責任を感じています。ここ半月ほど寝不足みたいで。彼女の体は私の体でもあるので、早く精神の平衡を取り戻してほしいですね」

 ここまでの話から推し量るに、白瀬量子が表面に出ていられるのは、雪乃の意識が昏睡している時に限られるのだろう。白瀬の二重人格。この前提の是非に拘泥して時間を浪費するのは、この際不毛なので言及しない。これが自作自演だとすれば、たいした女優ぶりだ。などと考えつつ大和の心は信用に傾きかけていた。楓にも指摘されたことだが、桜井兄妹自身の特異さを棚に上げることに、気が引けていたからに他ならない。

「あの手紙、読ませてもらったよ。そうさな、質問は二つかな。何故、君とは面識も接点もない俺の名前が登場するのか。もうひとつ、手紙にあった懸案事項って何のことなのか」

「実は私、記憶喪失なんですよ。記憶が広範かつ断片的に欠落しているんです。手紙では仄めかすにとどめましたが」

 さらりととんでもない告白をしてくれる。淡々と語る量子は泰然自若としたもので、虚言癖や妄想癖を疑われる懸念は寸毫もないらしい。

「ところが何故か桜井大和君、あなたのお名前だけは記憶に刻まれていたという次第です。私としてはあなたを手掛かりに、失われている記憶の探求をせざるをえません」

「そりゃまた。ファンタジーでミステリーな話だな」

 大和はのんきな感想を言った。量子は微かに笑った。ほんの一瞬垣間見せた意外に人懐こい笑みが、記憶もおぼろな誰かの面影と重なった。去来する追憶に戸惑う大和。

「春に、城址公園でお会いしましたよね。あの時から、桜井君のことが気になっていたんです」

「ありゃ君だったのか。雪乃さんじゃなくて」

「はい」

 この娘は空疎な相槌など必要としないだろうと思ったが、考えを改めることにした。孤独な観察者を甘受してきた人格が、どのように陶冶されてきたのか大和には知る由もない。しかし、こうした他愛ない言葉のやりとりを渇望していたのかもしれない。

「素朴な疑問なんだけど、基本的に君は世間と没交渉なんだろ。情報収集はどうしてるんだ?」

「主に読書ですね。本は好きです。最近は、時折ネットも使いますが」

 なるほど本の虫か。どうりで女子高生にしては言葉遣いといい手紙の文面といい特徴的である。よく言えば格調高く、忌憚なく言えば大仰だ。白瀬量子を女子高生の範疇に含めてよいものかどうか、議論の余地はありそうだが。


 俄かにスクールバッグの中身をまさぐる量子。財布から一万円札を抜きテーブルの上に置くと、急いだ様子で言った。

「すみません。雪乃さんが目を覚ましそうなので、私は引っ込みます。不躾で申し訳ありませんが、これでお会計お願いできますか。あなたの支払いもこちらで持ちます。お釣は雪乃さんに渡して下さい。まぁ、もともと雪乃さんの所持金なので、偉そうに言うのも何なんですが」

「俺払うよ。珍しい話の対価ということで」

 あずかり知らぬところで小遣いを使われては、さすがに雪乃が気の毒だ。しかし意外と言っては失礼ながら、高校生にして一万円札とは豪儀な。大和の財布などは小銭ばかりだ。量子はなにか言いかけたが、悠長に押し問答している猶予はないと判断したらしい。

「うろ覚えなんですが、私あなたからお金借りてたような気がするんですよね……まぁ今日はお言葉に甘えます。ありがとうございました。いずれまた機会があれば」

 言うやいなや糸の切れた操り人形さながらに項垂れた。初対面(?)で金の貸借云々とはこれ如何に。

 ややあって顔をあげた白瀬。怪訝そうに周囲を見回した。

「桜井君……なんで? ここどこ?」

 大和は細心の注意を払って白瀬の様子を観察した。入学以来二ヶ月ほどの短い付き合いだが、白瀬の言葉には閑却あたわざる真実味がある。ことの顛末をかいつまんで説明すると、さすがに動揺を隠せない様子。

「まいったなぁ。こんなの、私の手に負えないよ」

 夢遊病的な痕跡を自覚するのは、今日のこれが初めての経験らしい。活動の端緒をなかなか雪乃に掴ませなかった量子にしては、大胆な行動にでたというべきなのか。それだけ大和とのコンタクトに意義を見出し、優先したということだろうか。

「紅茶飲む?」

 雪乃は一瞬躊躇したが、黙って頷いた。大和は軽く挙手してウエイトレスを呼び、量子が飲んでいたものと同じ紅茶を注文した。紅茶が運ばれてくるまでの間、雪乃は終始無言。その表情から苦悩の深さを窺がうことはできなかったが、ティーカップを持つ華奢な手は小刻みに震えていた。

「うまく言えないんだけど、雪乃さんもたいへんそうだな。いろいろ」

 似て非なる境遇ではあるが、やはり身につまされる。雪乃が顔をあげ、不思議そうに大和を見た。どうしたと聞くと、

「高校入ってから人に名前で呼ばれたの初めてだったから。なんか新鮮で」

 それはべつに友好の発露というわけではない。ただ単に量子と区別するためという、ごく散文的な理由からだった。しかし、迂闊にも地雷を踏んでしまったのだろうか。大和は不安を押し隠して訊ねた。

「同じ中学のやつとかは?」

「私、市内の中学出身じゃないから。実家は丸館の方。あのへんで水高受験したの、たぶん私だけじゃないかな」

「通学難儀そうだな」

「部活もあるし、さすがに実家からは通えないよ。市内の親戚に下宿してる」

 ますます境遇が似てきた。中学を出てすぐ親の庇護下を離れるとは、見上げた独立不羈の精神ではないか。それだけの動機を水高進学に見出したのだろうか。大和がよほどもの問いたげな顔をしていたのか、雪乃はすぐ解答を示してくれた。

「秋川先輩がいたからね」

 もてるな楓姉さん。雪乃の耳に届かぬよう、その独白が心の中でなされたのは言うまでもない。

 余計なことを話しすぎたと自制が働いたのか、以降はまた寡黙になる。紅茶を飲み干すと席を立った。

「ごめん。なんか疲れたから先帰る」


 雪乃を見送った後、支払いをしようと会計伝票のバインダーに手を伸ばす。ここでテーブルの上に置きっぱなしにされた一万円札に気が付いた。雪乃の凹みぶりに気を取られて失念していた。追いかけようにも下宿先の住所が分からない。明日にでも返せばよかろう。

 ふと違和感を覚えて一万円札を手に取った。凝視して固まる。額面は一万円で日本銀行券の印字があるのだが、見慣れた福澤諭吉翁ではなく、初めて見るデザインの紙幣だった。丸眼鏡をかけて口髭を蓄え、大礼服に勲章をいくつもぶらさげた、見知らぬ老紳士の肖像を図案としている。肖像の右下に『山口壮次郎』の文字があった。どこぞの子供銀行券にしてはやたら精巧だし、ごく稀に見かける聖徳太子の旧札でもない。

 ウエイトレスがお冷を注ぎ足しに来た。連れが帰ったのだからお前も早く帰れよと督促されているような気がしたが、大和はすまし顔を通す。

 さては量子の悪戯か勘違いか。雪乃と入れ替わる際、随分周章狼狽の態だったようだが。楓から雪乃の人となりを聞いていたので、どうも釈然としない。偽札使用の意図がないにせよ、このようなきわどい子供銀行券を財布に忍ばせておくような、浅慮な娘だろうか。一歩間違えれば刑事犯罪となりかねないリスクを放置して。

 大和はレジの店員に葛藤を気取られぬよう平静を装い、自分の財布から百円玉を選び出して会計を済ませた。

 ともあれ今は、放置中の瑞穂が気懸かりだ。思索を中断し、家路を急ぐことにした。



 帰宅するとすぐに、学校で待機中の瑞穂に意識を切り替える。二度手間になるが、ふたつの体の同時操作には危険な距離だったのでやむを得ない。

 覚醒した瑞穂を待ち受けていたのは、倦怠感と喉の渇きだった。図書室の壁はガラス張りで、廊下越しに射し込んだ西日が、ちょうど瑞穂の突っ伏していた席を照らしていた。汗でセーラー服が肌にまつわりつく。

 とりとめもなく短いスカートの利点へと思いを馳せる。夏場は確かに男子のズボンよりも快適だ。どうせならば靴下と上履きも脱いで、素足にサンダルといきたいところだが、楓の顰蹙が脳裏をかすめる。

 彼女は、制服の着こなしは気概を表すのだという妙なこだわりの持ち主だ。制服をだらしなく着崩すなど論外で、凜乎と着こなすべきものらしい。だから瑞穂の身だしなみには中学校の生活指導教師並みに小うるさかった。この潔癖症はおそらく、故祖父の剣道家気質を色濃く反映しているためと思われる。そんな楓だが自家撞着に陥っていて、大和が学生服を着崩しても特に干渉してこない。要は瑞穂の身だしなみを、自分の専権事項と思い込んでいるのだ。

「お、やっとお目覚めか」

 不意に声をかけられた。瑞穂の斜向いの席に男子生徒がいて、調べ事をしている。分厚いハードカバー装丁の本を積み上げ、メモ書きされたルーズリーフが卓上に散乱していた。

「そこの席日向で暑そうだったから、何度も起こしたんだけどな。熟睡してた。相当お疲れだな」

 瑞穂のクラスの生徒だ。名前は確か久保将幸。名前がうろ覚えなくらいなので、捗々しい会話の記憶もない。しかしクラスメイトのなかでも印象の強い人物であることは、認めるにやぶさかではなかった。なにしろ高校生離れした精悍な風貌の主で、屈強なプロレスラーを彷彿とさせるものがある。つい三ヶ月前までやんちゃ盛りの中学生だったとは俄かに信じ難い。

「部活か?」

 世間話然と問われ、ふと思い至る。クラスメイト男子とどういう距離感で接すればいいのか想定していない。楓は自然体でいいと言っていたが、はてどう対応したものだろう。瑞穂の体面に配慮して、優等生的かつ淑女的に振舞うのが果たして正解なのだろうか。男子に媚びてかわいこぶるのはどうにも背中がむず痒いし、名状しがたい敗北感が矜持を攻撃してやまない。量子のように敬語口調というのも適宜ではない気がするので、この場は雪乃に倣うとする。

「わたし帰宅部だよ。久保君は?」

「帰宅部なのに日曜登校か。俺はクラデコの準備さ」

「E組の兄貴が追試でさ。暇だからひやかしがてら付いてきたの。久保君一人でやってるんだ。クラスの人は?」

「クラスの連中、誰も実行委員に手挙げないしな。まぁまだ資料集めの段階だ。素案できたらクラス会に諮って、それからみんなの手借りて制作に入るわけだ」

「ごめん」

 言外にクラス活動への無関心と非協力を指弾されたような気がして、つい謝った。

 水高祭にはクラスデコレーションという伝統のイベントがある。各クラス毎に世相風刺や社会テーマを訴求したオブジェを作製して展示し、投票によって順位を競うのだ。段取りに通暁した上級生がどうしても有利で、例年コンテストの上位はほぼ三年生のクラスが並ぶ。

「いやまぁ、言い方が悪かった。自分でやりたくてやってるわけだから、お前さんが気に病むこたぁない。俺一昨年もやってるから、要領分かるんだわ。なかなか面白いしな、祭りの準備ってやつは」

「一昨年?」

「休学して留年してるんだよ。このままいくと二十歳で高校三年生やることになりそうだ。まぁ二年や三年の回り道くらいどうってこたぁねえけどな。親の脛齧るのは、ちと心苦しいが」

「そうなんだ。知らなかった」

 どうりで他の同級生よりも老成した風格がただようわけだ。この年頃の二歳差がかくも顕著に違うのかと、思わず刮目するほどに。

「俺様は留年生でございと吹聴してまわることでもないからな。べつに中学とか部活の先輩ってわけでもないんだし、呼び捨てにタメ口でかまわんぞ」

「何か手伝おうか?」

 急ぎの用事があるわけでもなし、クラスメイトのよしみでそう申し出る。若干の道義心が作用したことは言うまでもない。

「いや、もうそろそろ下校時間だし切り上げるよ。そうさな、じゃあ資料の本返すの手伝ってもらえるか」

「了解」

 背表紙のラベルに従って書架に本を戻していく。ふと、書架にあった一冊の本のタイトルが目を引いた。


 『パワースポット《神社》~この世と異世界をつなぐ特異点~』


 本に手を伸ばしかけたところで下校時刻を告げる校内放送が流れ、久保が声をかけてきた。

「終わったか?」

「日曜日でも校内放送流れるんだね」

「水高祭前で登校してるやつ多いからじゃね? さ、帰るべ」

 生徒昇降口で靴を履き替えていると、うなじに冷たいものがあてられた。

「ひっ」

 瑞穂の声帯とはいえ我ながら可愛い悲鳴をあげるものだと、新たな発見に素直に感心。

「ほれ。喉渇いてるだろ。あんだけ汗かいて爆睡してたしな」

 久保がスポーツドリンクのペットボトルを差し伸べてきた。昇降口横にある購買部の自販機で買ってきたようだ。

「あれま。ありがと」


 校舎から校門に至る通称うぐいす坂。自転車を押して並んで歩きつつ、とりとめのない雑談をする。梅雨の中休みでこの日は天気がよく、夕陽に照らされた二人の影がのびる。

「兄貴待たなくてよかったのか?」

「クラスの人と先帰ったっぽい」

「薄情な兄貴だな。しばらく雨だったから、久々の夕焼けはほっとする」

「夕日の光の波長は、脳をリラックスさせる効果があるらしいよ」

「ほう。さすが学年トップの才媛。博識だな」

「こんなの雑学の範疇だよ。前にテレビで天気のお姉さんが言ってた」

「なんだ受け売りか。桜井ん家って、どっちの方?」

「水崎だけど」

 久保は腑に落ちた様子で頷いた。

「ああ、そういやあいつも水崎だったな」

「あいつ?」

 口が滑ったと言いたげな微妙な顔。なるたけ無垢な瞳で先を促すと、観念したのか供述をはじめた。

「いや、小耳にはさんだんだが、桜井って三年の秋川ん家に同居してるんだろ。従姉なんだってな」

「楓姉さん知ってるんだ?」

 考えてみれば一昨年は同級生なのだから、知己でも不思議はない。果たして久保の口ぶりからは、親しい友人であることが窺えた。

「一昨年同じクラスでな。相変わらずだろ、あいつは」

 新規に得たこの情報。楓のシスターハラスメントに対抗するカードたりうるだろうかと検討を始めていることに気付き、瑞穂は苦笑しておのれの悪戯心を駆逐した。武士の情けだ。搦め手からの精神攻撃はするまい。それにしても白瀬雪乃といい久保将幸といい、やたら楓の所縁に触れる一日だ。

 校門で久保と分かれた。

「うち御所山だから」

「反対方向だね。飲み物ごちそうさま」

「秋川によろしくな」



 秋川邸に近付き大和との意識リンクが回復した頃、楓が自室にいた大和のもとへやってきて言った。

「夜に瑞穂であたしの部屋来て。ちょっと頼みが」

「中身同じなんだから、今俺に言えばいいじゃないか」

「気分の問題よ。ガールズトークの雰囲気を味わうの」

「へいへい」

 かくして入浴後瑞穂が楓の部屋を訪うと、ノートパソコンでインターネットを閲覧中だった。

「いかがわしいサイトでも見てるの?」

 クッションでどつかれる瑞穂。

「馬鹿。大和じゃあるまいし」

 ごめんなさい許してくださいと、この場にはいない大和が呟く。

「通販か」

「そう。毎日着るから、下着まとめ買いしようかと思って。あんたも買う?」

「先月スマホ買ったから、あんましお小遣い残ってない」

「必要経費だし、母さん出してくれるわよ」

 双子には両親の遺産が相当額あったが、未成年後見人である伯父秋川恭太郎が遺産を管理しているため、自由気儘に使うこともできない。もっとも小遣いを含む養育費は、伯父が実子の楓と隔てなく負担してくれている。以前恐縮した大和が、遺産から秋川家の家計に毎月いくらか繰り入れることを申し出たところ、「気にするな」と一笑に付されたものだ。

「瑞穂、胸また少し大きくなったんじゃない。今サイズいくつ?」

「しばらく身体測定してないからわかんないよ」

「そこは把握しとこうよ」

 赤裸々な女子の会話は、楓相手であってさえ何となく苦手だ。自動的に大和に筒抜けになるため、男子禁制の花園を覗いているかのような背徳感が浸潤してくるのだ。

「それで、わたしに頼みって?」

 愛用マグカップに注がれた麦茶を飲み干して、一息つく楓。

「水高祭の時、実行委員会直営の模擬店だすんだけどね。まぁ昨今の時流に乗ってメイド喫茶をやることに」

「お約束だなぁ」

「お約束を侮ってはいけないわ。先人たちの知見の集積だもの」

 だいたいの察しはついたが、おとなしく最後まで傾聴する。

「文化部はそれぞれ出し物あるから、人員拠出免除になったのよ。それで運動部からメイド要員出すことになって、我が剣道部にも割り当てが来たわけ」

「で、わたしにやれと?」

 莞爾として笑う従姉。

「あんたと、あと白瀬ちゃんにお願いしようかと思ってるの」

 瑞穂は露骨に渋い表情を作った。

「衆人環視のなかでメイドのコスプレか」

「毎日コスしてるみたいなもんじゃない、あんたの場合」

「それは言わないで」

「都会育ちなんだからメイド文化に詳しいでしょ」

「おそれながら都会に偏見をお持ちなのでは? メイドに精通とか、どんな人ですかそれ」

 無駄と知りつつ反論を開始。

「そもそもわたし、剣道部員じゃないじゃん。姉さんやりなさいよ。わたしなんかより似合うと思うけど」

「あたし一応生徒会副会長だから、当日は生徒会室に詰めてないと」

「へぇ、知らなかった」

 それで生徒総会の際、いつも生徒会長の隣席で全校生徒に睨みを利かせているわけか。

「ちょっとちょっと、在校生でしょうがあんた」

「お言葉ですけど、生徒会執行部の顔ぶれ把握してる一年生は少ないと思うよ。別に関心もないしね。まぁ露出頻度からして、会長の御尊顔くらいは知ってるけども」

「全校集会の時、あたしいつも登壇してるじゃない。気付こうよ」

「いやぁ、剣道部だから会長の護衛してるのかと」

「どこの戦場の学校よ」

 当代生徒会長の高橋翔子は、眼鏡をかけた小柄な三年生だった。水高で女子が生徒会長を務めるのは、約三十年ぶりのことらしい。さぞかしリーダーシップと野心に満ちた恒星的な人物なのだろうと予断を持っていたのだが、実際のところとても控えめで物静かな娘だった。

「その生徒会長で文化祭実行委員長であるところの子がね、まぁあたしの友達なんだけど、有り体に言ってそういうのに全然向いてない子でさ」

 さもありなんだ。いつぞやの生徒総会、消え入りそうな声でたどたどしくスピーチ原稿を読み上げた高橋会長の姿が想起される。失笑する下級生さえいた。どういった経緯で会長に推戴されたのか知らないが、おそらく本人の意にそまぬ担がれた神輿なのではあるまいか。そう考えると、なんとなく楓の立ち位置がわかったような気がした。

「その子が文句ひとつ言わずに、水高祭成功に向けて甲斐甲斐しく頑張ってたらさ、なんかこうぐっとくるじゃないの」

「あの会長さん、姉さんの傀儡だろう。そう言われるとしっくりくる」

「人を黒幕みたいに言うな。翔子には日頃いろいろ世話になってるんだよ。そりゃもう足向けて寝れないくらい。あたしはあの子のためなら、骨身を惜しまないの」

 真摯な瞳でそう言い切った。身内ながらこの従姉は傑物である。なにせ年齢に似合わぬ慧眼をそなえており、滅多なことでは他人に私淑しない。その楓にここまで言わしむるのだから、健気な会長閣下には端倪すべからざる器量があるのかもしれない。

「まぁここはひとつ、あたしの顔を立てて協力して」

 瑞穂と、この場にはいない大和が同時に溜息をついた。

「わかったよ」



 数日後の昼休み。瑞穂が教室で弁当を食べていると、クラスメイトに呼ばれた。

「桜井さん、お客さんだよ」

 取り次ぎに礼を述べ、廊下に出ると白瀬が立っていた。中身はどちらだろうと埒もないことを考える。普通に考えて雪乃であろうが。

「食事中ごめんなさい。今日の放課後、水高祭の模擬店の打ち合わせやるんだって。これプリント」

「ありがとう」

 雪乃はすこし緊張しているようだ。衣の下の鎧というほどではないが、仮想敵に相対しているような微量の身構えを感じた。そういえば瑞穂が雪乃と言葉を交わすのは、これが初めてだ。

 一年のクラスは、理科棟と北棟からなる旧校舎にそれぞれ教室がある。瑞穂のクラスは理科棟。大和や雪乃のクラスは北棟。両棟は渡り廊下で繋がっていたが、建屋が違うためか雰囲気の差異が存在した。それは在校生のみが肌で感じる微妙なものであったが。

 このため瑞穂と雪乃はあまり顔を合わせる機会がなかった。たまに購買部や昇降口ですれ違う程度である。もっとも瑞穂の中の人は雪乃と同じクラスなのだが、そんな秘密など知る由もあるまい。

「こないだは、うちの兄貴がお世話になったみたいで」

 この話題に触れていいものやら迷ったが、遠回しに反応を探ってみる。

「いえ、こちらこそ。私あの時動転してて、支払いうっかりして。桜井君に散財させちゃったみたいで。あの、桜井君……お兄さん、何か言ってた?」

 目の前の相手も桜井姓であることに思い至ったらしく、雪乃は呼びなおした。量子の置き土産の子供銀行券のことは記憶にないのだろうか。

「追試で白瀬さんと一緒になって、終わってから喫茶店で反省会やったって聞いてるけど」

 安堵の色。やはりあまり触れてほしくない話題らしい。ならば意向に沿うまでのこと。

「じゃあ打ち合わせの件よろしくお願いします」



 放課後。新校舎の指定の教室に行くと、関係者とおぼしき生徒たちがそこかしこで雑談していた。書類片手に口角泡を飛ばしている男子たち。ハンガーラックに掛けられたメイド服を物色し、笑いさざめく女子たち。端の席について所在なげにしていると、背中を叩かれた。楓だった。

「お疲れ様。翔子、この子がくだんのうちの妹分」

 生徒会長に引き合わされる。

「こんにちは。よろしくね」

「よろしくお願いします。桜井瑞穂です」

「あの、秋川副会長。お取り込み中すみません。ちょっとよろしいですか」

 楓のもとには報告や裁可を仰ぎにくる生徒たちが櫛の歯挽くようである。それを水の流れるように澱みなくさばいていく様は、さながら有能なキャリアウーマンか女性士官のよう。

「じゃああたし、ちょっと部活のほう顔出してくるから。あとお願いね」

 すれ違う同級生や後輩たちの挨拶に鷹揚に頷く貫禄は、水高生徒会の最高実力者が誰であるかを如実に物語る。

「お噂はかねがね聞いてますよ、文武両道に秀でた逸材だって。楓の従妹なんですって?」

「はい。家庭の事情で、実質秋川さん家の養子ですので、姉と呼んでます。ということで、不肖の姉がいつもお世話になってます」

「私のほうこそ。ギルドでもリアルでも、いつも仲良くしてもらってます」

 瑞穂は首をかしげつつも愛想笑いを浮かべた。変わった言い回しをする人だ。公私ともに、という意味だろうか。

「メイドの衣裳、もうあるんですね」

「生徒会の備品なの。何年か前の執行部が買い揃えたみたい。普段は演劇部とか写真部に貸し出してるんです。最近なぜか、他の部からの貸与申請が殺到してまして。予算と相談ですが、買い増しを検討中です」

「今のご時世、サブカルの記号的アイテムのひとつと化してますよね、メイド服」

 生徒会役員らしき男子生徒が、翔子に報告にきた。

「会長。写真部のほう、準備OKだそうです」

「はい。それではメイド役の方、サイズを申告して衣裳を受け取ったら、更衣室の方で試着お願いします。その後、写真部の協力で、パンフレット用の集合写真の撮影になります」

 着替えとな。困ったことになった。普段体育の授業などでも、瑞穂は更衣室で他の女子生徒と鉢合せしないよう最大限の注意を払っていた。

 事情を知る楓などは、「心はともかく、体は紛れもなく女の子なんだから、別に気にする必要ないよ。どうせあんた見慣れてるだろうし」などと言う。そのくせ自宅の脱衣所で、楓の裸身や下着姿に遭遇しようものなら、ものすごい剣幕で「エッチ!」と怒鳴られ、頬をぶたれるのだ。しかも直に目撃した瑞穂ではなく、理不尽にも大和の頬を。言行不一致甚だしいではないか。

「何故俺」と抗議の声をあげると、

「瑞穂には別に見られてもいいけど、さすがにあんたは容認し難い」

「直接見たの瑞穂じゃないか」

「瑞穂の目を通して得た視覚情報が、大和の頭の中でも結像するわけでしょ。望遠鏡を通して見るのと選ぶところがないわね」

 なんとも横暴な三段論法だ。勘弁してほしい。

 そのようなこともあり、瑞穂の集団着替え敬遠の心理は、思春期的な羞恥心の産物というよりは、楓によって禁忌を刷り込まれた結果である。

 逡巡していると、後ろから声をかけられた。

「桜井さん? 更衣室行こ」

「白瀬さん……う、うん」

 このままでは雪乃の着替えシーンを至近距離で目の当たりにする事態になりそうだ。瑞穂は雪乃の後ろを歩きつつ、自分は現在女子なのだという免罪符で、行動を正当化する作業に勤しんだ。



 写真撮影から数日後のこと。楓が奇妙な話を耳にしてきた。

「こないだ水高祭パンフ用の写真撮ったでしょう? 撮影担当した写真部の子、けっこう腕に覚えの人だったらしいんだけど、変なのよ……」

 珍しく歯切れが悪い。

「あたしも出来上がった写真、何枚か見せてもらったんだけどね」

「どうしたの?」

「他の子は鮮明に写ってるんだけど、瑞穂、あんたの姿だけどういう訳かピンボケして、滲んだみたいに写ってるの。どの写真も」

「ちょっと、やめてよ。何それ、怖いよ」

「またメイドさんに集合かけて撮影やりなおそうかって話にもなったんだけど、印刷屋の入稿の締切もあるから、結局企画担当の子が、フォトレタッチソフトで修正加工しちゃったみたい。そんな訳でごめん。パンフに瑞穂写ってないの」

 楓は手を合わせて謝意を表した。

「それはべつにかまわないけど」

「この件は、撮影機材の不具合ってことで押し通したから。あと、当事者の子が気にしたらかわいそうってことで、箝口令も敷いてあるわ」

 抜かりなく当意即妙の手配をするあたりはさすがというべきか。

「あれ、何の現象なんだろう? 瑞穂の顔だけ手ぶれるってのが解せないんだけど。あんたの周囲の空間が歪んでたりしてね」

 この冗談は、一人蚊帳の外になったことへの楓なりの慰藉らしい。しかしこれは、現代物理学で記述できる事柄なのか。できたところで瑞穂の文系脳には理解できまいが。怪談話も同様で、積極的に関わりたくはない。

「機材の不具合といえば、前にも似たような話があったね。ほら、ストップウォッチ」

「ああ、運動会の時か」

「今確か生理中でしょ、あんた」

 瑞穂はなんとはなしに赤面して頷いた。楓は満足そうに微笑む。

「仕草が女子っぽくなってきたわね。よきかなよきかな」

 心のありようは体の影響を色濃く受ける。是非もあるまいに。このまま瑞穂の心の女子化が進展すると、いずれ男を好きになったりするのだろうか。瑞穂は、その恐るべき想像を即座に打ち消した。そもそも、預かりものの体で自由気儘に恋愛するわけにもゆくまいが。

「それにしても姉さん、人の周期までよく把握してるね」

「そりゃあ伊達に一緒に住んでないわよ」

「わたしは姉さんの、知らないんだけど」

 不公平なので情報開示を要求したところ、デコピンを賜った。

「これって、その写真の現象と何か関連あるのかね?」

「ちょっと写真撮ってみていい?」

「どうぞ」

 瑞穂も気になったので承諾する。楓が最近瑞穂と一緒に新調したスマートフォンで、アングルを様々に変え、撮影を始めた。

「どう?」

「普通に撮れてる。プリントアウトするとああなるのかな」

 判断材料に乏しく、検証は行き詰まる。その時、楓のスマホがメール着信を告げて振動した。

「やば、翔子とパーティの約束してるんだった」

「パーティ? この雨の中出かけるの?」

 生徒会関連の会合でも持つのだろうか。宵の口とはいえ、門限に厳しい秋川の伯父がいい顔はするまい。おまけに外は、いつしか驟雨。夕方から時折遠雷が聞こえてはいたが、いまや篠突く雨がさかんに屋根を叩いている。

「ネトゲの話ね」

「ああ、なるほど」

 いろいろな齟齬がかみ合った。

「あんたも息抜きにやってみる? サブアカ貸したげる」

「わたし素人だよ。廃人の皆様方と遊ぶなんてとても。ポカやらかして逆鱗に触れるのがおち」

「誰が廃人よ失礼な。あたしも翔子も、週末の夜限定のまったりプレイヤーだよ。レべリングとかクエスト消化とかスキル上げより、チャットでだべってる時間が大半だし」

 自覚がないようだが、サブアカウントを駆使している時点で、価値観がビギナーとは一線を画すのではなかろうか。メイド強要のささやかな報復に、ここで楓を論破して溜飲を下げるのも一興だが、まあ無益な突っ込みはするまい。自身の安寧のためにも。


 結局、寝るまでの間付き合わされる羽目になった。宿題があると言って渋ったのだが、「大和にやらせときなさいよ」との御下命だ。集中力を要する作業の同時進行は、まだハードルが高いというのに。

 ほぼゲーム専用機と化しているらしいデスクトップパソコンを起動。楓のレクチャーを受けつつゲーム世界にログインする。

 画面下部のチャットウインドウでは、同じギルドに所属するメンバーらしき数人が、クエストの攻略手順などを打ち合わせている最中だった。楓がログインし、和気藹々とした挨拶が乱舞する。瑞穂は勝手がわからないため、リードオンリーメンバーに徹する姿勢。

 楓を一瞥すると、ベッドの上で胡坐をかき、猛烈な速さでノートパソコンをタイピングしている。たいしたものだ。普通の会話と遜色ない速度で文章を紡ぎだしていく打鍵。時折タイプミスや変換ミスが起こるのは御愛嬌か。

 Mapleが楓の操作キャラの固有名らしい。瑞穂が借りたキャラはKaedechan。高橋翔子は、チャットのやりとりから推測するにInfinity。無限大の数学記号と眼鏡のピクトグラムをかけたネーミングと予想したが、安直に過ぎるだろうか。他には、Orzというキャラの発言が目を引いた。


 Maple >> おるちゃん久しぶりー。学校復帰したんだって? お父さんもういいんだ?

 Orz >> おひさ。おかげさんで家のほうは落ち着いた。

 Maple >> 復学してよかったよ。辞めるかと思った。

 Orz >> おふくろが、高校くらい出とけってうるさくてな。そういやお前さんの義妹と同じクラスになったぞ。

 Maple >> いい子でしょ。けど、手出しちゃダメだからね。

 Orz >> ありゃもてるわ。容姿端麗、頭脳明晰、おまけに運動神経抜群ときた。どこのフィクションの完璧超人だよ。性格もよさそうだ。俺でもすんなり話せたからな。気の置けない野郎かと錯覚するくらいだった。

 Maple >> ハイスペックなのはまぁ否定しないけども、異性関係はからっきしでねぇ、あの子。

 Orz >> かくいう俺も、小坊の頃までは二丁目の神童と褒めそやされたもんだけどな。勇んで高校に入ったら、お前さんみたいな怪物が闊歩してて、まじ凹んだわ。

 Maple >> 誰が怪物だ。つか、あんたがそんな繊細なタマだったとは寡聞にして知らなかったわ。ところで件の義妹なんだけどね。実は今日、うちのサブアカでインしてる。

 Orz >> 先に言えよ……


 おそらく久保将幸だろう。楓や翔子とオンラインゲームの友人同士だったとは盲点だ。しかし鋭敏な御仁だ。今後の接し方には注意するべきかもしれない。

 その後、Infinityのクエストの手伝いということで、ギルド総出の遠征となった。もちろんKaedechanも参加させられる。

「瑞穂は後衛でヒーラーお願い。今夜は廃装備のカンスト脳筋組多いから、ローラー作戦でいくぽい。道中のアクティブモンスとかトラップは気にしなくていいから。PTメンのHPゲージ黄色とか赤になったら、カーソル合わせて回復魔法使ってちょうだい。ヘイト稼ぎすぎて敵のタゲ取らないよう、それだけ気をつけて。簡単なお仕事でしょ」

「いや、専門用語羅列されても意味分からないんですが」

「そりゃそうだね。ま、その都度説明するから、ともかく付いてきて」

「チャット発言しないからね、わたし」


 一行は美麗なグラフィックのフィールドをいくつも経由し、『最果て遺跡』と呼ばれる高難易度ダンジョンにやってきた。

 「ヒャッハー」なんぞと蛮声をあげ、途中に徘徊しているモンスターに襲いかかるMaple。日頃の楓らしからぬ好戦的な姿に驚かされる。現実世界において模範的優等生ともなれば、なにかと抑圧も多かろうが。露悪的なキャラを心底楽しそうに演じるのもうべなるかなということか。そもそもロールプレイングを謳っているのだから、架空の世界観に没入して仮想の人格を演じる、これが本来あるべき正統な遊び方で醍醐味なのだろう。ログインするに及んでなお、こうしたなりきり遊びを斜に構えて揶揄する姿勢は、真摯なプレイヤーたちからすれば唾棄すべき不調法なのかもしれない。瑞穂は紳士的もとい淑女的に、ひやかしを差し控えた。

「このダンジョンで何するの?」

 操作に四苦八苦しつつ、クエストの趣意を訊ねてみる。

「最下層の地下神殿に、各地のボスモンス落とすアイテム集めて供えると、別のワールドにワープできるゲートが開くの」

「いかにもな設定だねぇ」

「そこの階段で最下層に出るから。あんたも階段下りて」

 言われた通り禍々しい意匠の螺旋階段にKaedechanを進めていくと、列柱が聳える薄暗い広場に出た。ギルドメンバーたちのやりとりが交わされる。


 Maple >> いんふぃーちゃん、攻略サイト調べた?

 Infinity >> うん。キーアイテム四つ、神殿の扉にトレードするみたい。

 Maple >> 『ドッペルゲンガーの肖像』と『運命神の護符』と『異界の紙幣』と、あとなんだっけ?

 Orz >> 『暗号の楽譜』だな。こいつは吟遊詩人が習得して歌わなきゃいけないらしい。

 Infinity >> 全部揃ってる。歌も習得済み。トレードするね。

 Maple >> OK。強化魔法は神殿にエリアチェンジしてからね。いこー。


 画面がブラックアウトし、ロード中の文字がせわしなく点滅した。三分ほどが経過。瑞穂は首をかしげた。

「回線重いなぁ。なんか、わたしだけ時間かかってない?」

「レスポンスよくないみたいね。回線落ちするかも」

「あ、画面変わった……けど、なんだろうこれ。イベントムービー?」

 楓が瑞穂の後ろにやってきて、モニタを覗き込んだ。

「おかしいな。Kaedechanでクエストのオファー受けてないはずなんだけど。こんなところでイベント発生するなんて初耳だわ」

 ファンタジーゲームのイベントムービーにしては違和感満点だ。映像はCGではなく、明らかに実写の質感であり、しかも世界観とそぐわない和室の映像であった。部屋の一隅にはベッドがあり、その周囲には医療機器らしきものが鎮座している。連結されたたくさんのケーブルが畳の上を這いまわっていた。瑞穂自身がかつて世話になった集中治療室によく似た印象を受ける。静謐な空間に時折響く電子音。ベッドの上のタオルケットの膨らみが、微かにだが規則正しく上下している。映像のカメラ位置からでは顔をよく確認できないが、艶やかな長い黒髪も持つ人物が、ベッドに横たわっているようだ。

 映像は三分ほども続き、突如ノイズが走ってパソコン自体がダウンした。窓の外で稲妻の閃光。すこし遅れて雷鳴。部屋の電灯がかすかに明滅する。

 楓が唾を嚥下する音が聞こえた。

「なに……これ」

「俺ホラー苦手ってわけじゃないけど、こういうのは御免こうむりたいな」

 わたしという一人称を使うことすら失念して、瑞穂は呻いた。

「きっとバグかウイルスかハッキングのせいだよ。うん。そういうことにしとこう」

「それはそれで問題な気が」



 七月初旬のとある日。三限終了を告げるチャイムが鳴ると、購買部のパン獲得競争に参戦する生徒たちが廊下を我先にと駆けだしてゆく。なにせ食べ盛りの胃袋たちの充足がかかっている。数量限定の惣菜パンや菓子パンをめぐるデッドヒートは熾烈を極めようし、仁義なき駆け引きも展開されよう。通りすがりの教師が事務的に叱責を飛ばすものの、熱心に掣肘を加える気はないように見える。昼休みのありふれた光景だった。

 教室に残った弁当組はそれぞれ指定席に陣取り、或いは一人黙々と、或いは仲良しグループで雑談に花を咲かせつつ弁当を使う。

「あの、桜井君。よかったらお弁当一緒に食べない?」

 女子数人が、どういう風の吹き回しかそう声をかけてきた。大和がいつも一人ぼっちで弁当を食べているのを見かねたのだろうか。

「ごめん、今日学食なんだよ」

「今日は愛妹弁当じゃないのか」

 近くの席にいた男子にからかわれる。期せずしてそれが助け舟となる。

「三年の従姉が、今日は学食で相伴せよと仰せでな」

 この日は秋川夫妻が遠方の親戚の結婚式参列のため不在で、楓が「たまには学食で」と提案したのだ。あわただしい朝に、三人分の弁当を拵えるのが面倒だったのだろう。瑞穂で作ってもよかったのだが、食材が心許なかったので否応なく同意した次第だ。

 瑞穂がちょうど北棟近くまで来ていたので、大和の教室まで足を延ばす。迎えがあれば角も立つまい。

「兄貴、学食いこう。楓姉さん待ってるよ」

 瑞穂が大和のクラスにやってくるのは、入学以来これが初めてかもしれない。意図的に校内での兄妹接触を避けてきたためでもあるが。何人かの男子がちらちらと羨望の眼差しを投げてくるのが分かった。どうやら連中、楓もしくは瑞穂に気があるらしい。大和としては、内心やれやれと思うほかない。

 階段踊り場にさしかかったあたりで雪乃に呼び止められた。

「私も一緒していい? 学食」

 別段異存はない。雪乃は先ほど、教室の自席で弁当を広げていたような気もするが。


 水高の学生食堂は、駐輪場横の研修会館という古い建物の一階にあった。昼は上級生で混雑するので、一年生にはやや敷居が高い。しかし在校生の大立者、秋川楓と連れだってであれば気後れすることもない。

「実はあたしもあまり利用したことないのよね、学食」

「いつも弁当だもんな、姉さん」

「だからおすすめメニューとかよく知らない。クラスの子によると、カレーうどんがいけるらしいけど」

 この学食はうどん屋がテナントで入っているらしいので、噂の蓋然性は高かろう。桜井兄妹はこれといってこだわりもなかったので、さしあたり噂の真偽のほどを確かめるべく、カレーうどんの食券を購入した。

 四人それぞれ目当ての料理を入手して席に着き、いざランチタイムと相成る。楓が興味深そうに一年生三名を見比べた。

「双子と白瀬ちゃんがそろう取り合わせは新鮮ね。あんたたち、いつの間にか仲良くなった?」

「先輩が、私と桜井さんを親しくさせたがっているのはなんとなく知ってます。邪険にする理由もないので、まぁ普通にやってます。けど、お兄さんのほうはちょっと苦手ですね」

「本人の目の前で言いますかそれ」

 実は同一人物ならぬ同一人格なのだと告白したい衝動に駆られる。むろんおくびにも出すことはしない。楓が所見を述べた。

「率直な言葉が出てくるのはいい傾向ね。長い目で見て機微を見落とさないことが肝要だよ」

「先輩……」

 楓に対しては、雪乃のジト目もやや遠慮がちだ。屈託のない笑いにいなされて、毒気を八割方抜かれている。

「メイド喫茶のほうは順調?」

 実行委員会と一部メイド要員の間で、一悶着あったと聞いている。楓の耳にも入っていることだろう。

「私は、実行委員会の方針で問題ないと思ってます。所詮高校の文化祭の模擬店です。営利が目的なわけじゃなし、錦上に花を添える程度の認識でいいと思うんですが。一部から提案のあったあざとい接客は、やれといわれても出来ませんね」

「父兄や学外のお客さんも来るからねぇ」

 商売がからんで本来の嗜好性が曲解されたり、都合のいいように捏造されたりというのは、大人の世界ではきっとよくあることなのだろう。純真無垢な高校生といえども、その手の情報が氾濫する昨今のご時世、影響を完全に免れることは難しい。

「ま、翔子がいるからそのうちまとまるでしょ。彼女が仲裁すると、多少の軋轢や確執があっても、いつの間にかまとまっちゃうのよ。不思議な子だわ」

「そりゃまた有能な調停役だね」

 楓はラーメンを啜りつつ、雪乃に顔を向けた。

「白瀬ちゃん、部活のほうはどう?」

「みんな道場来る時間まちまちですね。居合わせた人同士で自主練やってます」

「水高祭終わるまでは仕方ないわね」

「監督と副主将が、秋川先輩の稽古不足心配してましたよ。高校総体もうじきですし」

 水高剣道部の県大会における戦績は、団体戦が男女とも二回戦敗退。個人戦で楓が一人気を吐き、準優勝とのこと。ただ、生徒会の差配で稽古不足は否めず、決勝戦でも普段より精彩を欠いていたらしい。

「家でぼちぼちやるわ。折角剣道場あるんだし。大和、あんたつきあってよ。どうせ暇でしょ」

「うへえ、お手柔らかにお願いしたいな」

「もちろんガチでやるに決まってるでしょう。手心加えてたら稽古にならないじゃん」

 楓は一時期、亡くなった祖父の書斎から剣豪小説を漁ってきては読み耽っていた。剣道界でまことしやかに人口に膾炙する、無我の境地、或いは入神の域というものに、どうやら強い関心を抱いている御様子。

 物の本を繙くと、異口同音に示唆されているそうな。即ち、無我だの入神だのいう境地に到達すれば、心技体が飛躍的に向上する云々。まったく、宮本武蔵や塚原卜伝でもあるまいに。たかが高校生の剣道部員風情がおいそれと開眼できる境地とは思えない。それでも物は試しと楓が譲らず、かの立ち切り稽古ばりの長時間耐久地稽古に付き合わされたものだ。明らかに祖父の剣豪小説の悪しき影響だろう。

 結局のところ二人とも地稽古の段で疲弊してろくに動けず、剣聖ごっこはあえなく頓挫したのだ。

「まぁあれで体力はついたよね。脊髄反射も良くなった気がするんだけど」

「どうだろ? 所詮凡庸な現代人に、毎度斬り合いやらかしてた剣聖たちの境地なんて理解すべくもないよ」

「真剣とはいかないけど、木刀で打ち合ってみようか?」

「死ぬ死ぬ。怖いから勘弁して」

 先ほどから不機嫌さを隠そうともせず、大和を睨んでいる雪乃がいた。はて、何か彼女の逆鱗に触れる失言でもあっただろうか。

「御迷惑でなければ、後学のために是非、見取り稽古させてください」

 猫なで声でそんなことを言い出した。

「いいわよ。んじゃ、今晩泊りがけで来る? うちの両親、親戚の御祝儀行ってていないしね」

「合宿みたいで楽しそうですね。でも、下宿先の親戚の許可もらわないと」

「なんならあたしが、帰りに一緒に行って口添えしてあげるわよ」

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