午前4時の肉うどん
北城 駿
第1話
まぶたを開くと俺は薄暗い照明の中にいて、一瞬ここがどこだか分からなかった。
「ん……、ごめん、寝ちゃってた」
見慣れた調度品と、堅いけど座り心地のいいソファー。行きつけのスナックのテーブル席で、だらしなく正体を無くしていた俺の体には、派手なブランケットがかけられていた。
「初めてね、シゲちゃんがお店で酔いつぶれるなんて」
「本当ごめん。悪酔いしたみたいだわ」
すぐに状況を把握して、俺は謝った。
「まあね、そんな夜もあるでしょ。はい、お水」
ママが、俺が座っているテーブルにグラスを置く。
「もうお客さん俺一人だけ?」
「何時だと思ってるのよ~」
語尾を伸ばしてママが言う。怒っている口調だけど、にこやかな表情で。
左腕のオメガを見ると、もう4時になろうとしていた。
「最近は平日に朝まで飲んでくお客さんが減っちゃってねえ」
ママの声が、他に誰もいない店内に静かに流れるBGMに混じって消えた。
俺はグラスの水を一気に飲み干した。それはよく冷えていて、弛緩した体に一瞬で浸透していくようだった。
座り心地がいいとはいえ、同じ体勢で窮屈に寝ていたせいで、背中の筋が固まっていた。俺は両手を上に伸ばして左右に揺らした。首も回して凝りをほぐしていると、猛烈な尿意が襲ってきた。
「ちょっとトイレ」
用を足してトイレから出ると、扉の外側でママがおしぼりを出して待っていたので、俺は苦笑いする。
「いいよ、迷惑な客に気を遣わなくても」
あたたかいおしぼりで手を拭きながらテーブル席に戻ると、さっき飲み干したグラスも水が満たされている。
「大丈夫? ちゃんと帰れる?」
ママが隣に座ってきて言った。露出した胸の谷間が艶めかしい。自称29歳のママは、本当はいくつなんだろう。キャバクラをあがって20代のうちに自分の店を持ったという触れ込みだったが、俺がこの店に通い出したのは3年以上前だ。三十路を超えているのは間違いないだろうが、見かけは確かに20代だ。美人ママを目当てに店にやってくる客は多い。というか、ほぼみんなママが目当てだろう。
「はあ、なんか腹減ったなあ」
俺は2杯目の水を飲み干して言った。
「でしょうね。シゲちゃんなんにも食べないでお酒だけガンガン飲んでたんだもん」
「なあママ、これから焼肉でも食いに行かないか」
俺はママの肩に腕を回して言った。フローラル系の香りが俺の鼻腔をやさしく刺激する。
「だーめ。投げやりな下心は遠慮しときます」
そのままソファーに押し倒したい衝動に駆られた俺を制するように、
「デートに誘うのは、ツケを払ってからにしてちょうだい」
今度は冷たい口調でママは言った。
肩に回された腕を器用に外し、俺の右手を両手でやさしく包みながらママは続けた。
「無理しないで、シゲちゃん」
微笑みながら俺を見つめるママの瞳に、俺は剥きかけた牙を抜かれた。我ながら情けない。20代だか30代だか分からないけれど、ずっと年下の女にたしなめられて。
40歳で不惑だと言うけれど、俺は無理そうだな。ふらふら漂って、どうなっちまうんだろう。
「何か作るわよ」
俺のスケベ心の余韻を断ちきるように、すっと立ちあがってママが言った。
「うどんでいい?」
「あ、うん」
反射的に返事をしてしまったが、飲んだ後に食べるこの店の焼きうどんは旨いのだけれど、別に今うどんが食べたいわけではなかった。俺は手持ち無沙汰になって、思い出したように煙草に火をつけ、狭いカウンターの中でてきぱきと動くママを眺めていた。
これでも俺は、社員10人以上雇って会社を経営してたんだ。小さな会社だけど、景気がいい頃はそこそこ儲かっていた。この店に週1で通えるくらいには。それがいつしか週2になり、月1になり、今日はもう何か月ぶりだったろうか。「おひさしぶり~」というママの笑顔を見て見栄を張っていたら、飲み過ぎてしまった。いや、というより、その見栄をママに見破られて、正直に近況を明かして愚痴っていたら、不覚にも酔いつぶれてしまっていた。
会社はだいぶ前から金策に追われるようになり、ついに今月一杯で倒産だ。若くして社長業なんてやってたもんだから、今さら人の下でこき使われるなんて真っ平だと思ったけど、背に腹は代えられない。心機一転、新しい仕事を探しているのだが、40手前のオッサンを雇ってくれる会社はなかなか見つからなかった。
「出来たわよ~」
静かな店内に、ママの明るい声が響く。
「なに暗い顔してるのよ。煙草、芋虫になってるわよ」
火を点けて一口しか吸っていなかった煙草が、灰皿で長い灰になっていた。
「はい、お待ちどうさま」
テーブルに置かれたのは、焼きうどんじゃなくて温かいうどんだった。汁の上に肉が乗っている。
「特製肉うどんです。ほら、熱いうちにさっさと食べる」
ママから箸を渡されて、丼を持ち上げた。とりあえず汁を飲む。熱い醤油味が、五臓六腑に浸みわたるようだった。
「おいしい?」
「うん、うまい」
「でしょ~。愛情たっぷり入ってますからね。残したら怒るわよ~」
美人のママに笑顔でそんなこと言われたら、また押し倒したくなっちゃうけど、いかんいかん。そんなことをしたら奥から怖いお兄さんが出てきてしまう。そんなことはないか。
「でも、なんで? 焼きうどんかと思ってた。こんなのメニューにあった?」
「まあ裏メニューってやつです。まだ誰にも出したことないけどね~」
「えっ」
「だって油っこい焼きうどんより、こっちの方がいいかと思って。シゲちゃん、最近ちゃんとご飯食べてないでしょ」
確かに。最近ろくに食ってない。忙しくて食事を抜いたり、コンビニ弁当をかきこんだり。温かい汁物をゆっくり食べるなんて久しぶりだ。
「ちゃんと栄養取らないとね。体が資本って言うでしょ」
さっきまで、うどんなんてと思っていたのに、一口食べたら箸が止まらなくなった。肉もしっかり味が付いていて旨かった。
「ちょっとシゲちゃん、良く噛んでよ~」
酒を飲みながらつまみを食べている時とは違って、横でニコニコ笑って見ているママが、なんだか昔からの彼女のような気がしてきて、変な勘違いをしそうだった。
「ごちそうさま」
本当に腹が減っていたみたいで、あっという間に平らげてしまった。熱い汁も残さず飲んで、酔いもほぼ醒めた。
「ねえシゲちゃん」
「ん?」
「しばらくお店に来ないで」
そう言ったママの顔からは、笑顔が消えていた。
「えっ」
「どういうこと? 俺、何か悪いことした?」
今度はすっかり酔いが覚めた。確かに酔い潰れて寝てしまうなんて恥ずかしい失態だ。自分が情けなくて猛省している。
「そうじゃないわよ。シゲちゃんがまた新しいお仕事見つけて、ちゃんと働いてたくさん稼いだら、その時はまたお店に来て。そしたらさっきの言葉、考えてあげる」
俺はママの目を見た。ママも俺の目を見ている。やさしい瞳だ。
「その時は美味しい焼肉おごって頂戴」
俺の膝に手を置き、まったく嫌味じゃない科をつくってママは言った。
「ありがとう」
俺は心から礼を言った。今日はもう帰ろう。俺は席を立った。
「勘定。いくら?」
「いいわよツケで」
「いや、今日はちゃんと払うよ」
「無理しないで、シゲちゃん」
また同じことを言われた。
「じゃあ、これ置いてくよ」
俺は腕時計を外してテーブルの上に置いた。
「一応保険。ツケに足りないかもしれないけど、質に入れたら5万くらいにはなるだろ」
「やめてよ。うちは現金払いしか受け付けてません」
ママはきっぱりと拒絶した。
「でも、このまま俺が店に来なくなったらどうするの」
「シゲちゃんはそんなことしないでしょ」
もちろんそんなことはしない。が、今はそう思っていても、明日も知れない身だ。つもり、はつもりでしかない。そんな俺の逡巡を見透かしたようにママは続けた。
「分かってる? うちは信用してる人にしか、ツケは認めてないのよ」
「俺は信用されてるの?」
「当たり前でしょ」
ママはまたニコニコと笑う。
「ありがとう。絶対また来るから。そん時はまた肉うどん食わせてよ」
「なによそれ。焼肉行く前にうどん食べたら、お肉食べられなくなっちゃうじゃない」
「そっか。焼肉か。特上カルビでも特上ロースでもいくらでも食べていいからね」
「わあ楽しみ。約束ね」
「指きりでもしようか」
「やだシゲちゃん、子どもじゃないんだから」
すっと近付いてきたママは、俺の首に腕を回して、背伸びをした。綺麗な顔が迫ってきたと思った瞬間、キスをされた。唇に軽く。またフローラルのいい香りがした。
「約束ね」
「あ、ああ」
動揺する俺に、ママは悪戯っぽく笑って言った。
「続きは今度店に来た時ね」
この微笑みにみんなやられちゃうんだよ、この店の客は。
「またね」と手を振るママに、俺も「じゃあまた」と手を振り返して店を出た。
水商売の手練手管だ。ママが今の俺みたいなオッサンに惚れてくれるなんて思う程、俺も馬鹿じゃない。でもいいじゃないか。また美人ママの笑顔に会うために、仕事を頑張る。馬鹿で結構。来月から無職の俺だ。格好つけてどうする。
まだ暗い夜空を見上げると、三日月が光っていた。俺が月を見ているのか、月が俺を見ているのか。間もなく始発電車が動き出す。
午前4時の肉うどん 北城 駿 @kitashiro
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