狂い兎は甦る

脱兎

プロローグ

 ――人の死を見ることが嫌だった。生きていた者が、動かない物に成り果てる様を、直視することができなかった。そしてそれは・・・・・・昔の話だ。



 せ返るような血の匂いに、彼はたまらず渋面じゅうめんをつくった。その部屋に立ち入る前から――それこそ、扉越しにすら感じられた死臭ししゅうは、扉を少し開いた隙間すきまからでさえ、内側の惨状さんじょう鮮烈せんれつ予見よけんさせる。

 意を決して踏み込んだ先に、果たして広がっていたものは二人分の、人間の死体であった。此処ここは、県内にある高級高層マンションの一室である。各部屋には資産家や著名人ちょめいじんが名を連ねており、週刊誌を買えばこの建物に住む誰かの名が出てくることだろう。その例に漏れず、彼の眼前に転がる遺体もまた有名な作家夫婦のものであった。彼も余り詳しい訳では無いが、その名には聞き覚えがあった。若手ながら幾つもの賞を受賞しており、いずれ日本の文学界を牽引けんいんしていくと評されていた、はずだ。だがもうそれは、過去の話と成り果てた。

 軽く手を合わせ冥福めいふくを祈ると、一先ず遺体の状況の確認に取り掛かる。と言っても身一つ、厚手あつでのコートをワイシャツの上から羽織はおっただけの彼に鑑識かんしきのような真似まねはできない。あくまで目視である。


 そんな彼の元に、規制線きせいせんを超えて誰かがやって来た。首だけで振り返ると、その男は警察手帳をかざして彼の隣に並んだ。若い刑事である。印象としては町の人に好かれている気のいいお巡りさん、といった風貌だ。しかし今は顔面蒼白がんめんそうはくで、死体を直視しないよう、近づくだけで精一杯せいいっぱいといった様子である。

 無理もないだろう、そう思いつつも彼はそれを口にはしなかった。無言で言葉をうながすすと、彼はふるえた声で状況を報告し始めた。


「・・・・・・亡くなられたのは、作家の堂門花蓮どうもんかれんさんと、光角英二みつかどえいじさん。死亡推定時刻しぼうすいていじこくは本日の午後一時から二時にかけて。午後三時過ぎにこの部屋を訪れた堂門花蓮さんのアシスタントが遺体を発見しました。死因は・・・・・・」


 そこまで言いかけたところで、その刑事の名が部屋の外から大声で呼ばれた。何か急ぎの用があるのだろう。オロオロと扉の方と、彼との間で視線を迷わせている。


「行ってもらって構いませんよ」

「すっ、すいません!」


 逃げるように走り去っていく足音を聞きながら、彼は冷めた目で死体を見下ろす。単にバラバラ死体と呼ぶには随分ずいぶんと野蛮で、残虐ざんぎゃくなそれを。獣に食い荒らされた草食動物の残骸ざんがいじみた、まるで物凄ものすごい力で引きちぎられたかのような死体を前にして、彼は鉄仮面てつかめんの奥底で獰猛どうもうに牙をいた。

 これは、人にして人ならざる者の犯行である。そう断定すると、彼は急速に現場への関心を無くし、颯爽さっそうと身を返した。うずく拳に、湧き上がらんとする全ての殺意をたくして。



 二十一世紀。ノストラダムスの予言の日に起きた某実験施設とあるそしきの事故の際に放たれた光線により、その肉体を変質させた超常ちょうじょうが現れる時代。人の理性すら捨てた、人にして人ならざる、暴力の権化たる存在――人獣じんじゅう

 

 そしてこの物語は、からだを人獣の因子に染めながらも理性を保った稀有けうな者達――《狩人》の日々を断片的につづったものに過ぎない。因子さえなければ、平穏無事な日々を送っていたであろう少年が狂気と安寧あんねい狭間はざまおどるお話。

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