春から初夏へ

 ベルベットが消えたことを、ローズはなかなか受け入れなかった。「あれは大叔母さまの魔法の庭での出来事だったし」と、ローズは言うのだった。「あの庭で起きたことは、現実のこととは言えないわ。だからベルベットも、ほんとはどこかで生きているのかもしれない」


 待っているべきだ、とローズは主張するのだった。いつかひょっこりとベルベットは帰ってくるかもしれないのだから。ローズの主張に、クリスも心動かされた。確かにあの庭で起きたことは非常に現実離れしていた。しかし――。ベルベットは祖父が亡くなった時に、お別れをしてもおかしくなかったわけで、クリスの心の中にはずっとそのような気持ちがあったために、ローズの言葉に頷きながらも、いや、これで全てが元通りになったのだ、とも思うのだった。


 ローズは真面目にヴェイン先生の授業に通う気になったらしい。けれどもやっぱり頻繁にクリスのところへやってくる。ある時、小屋でお茶を飲みながらまたもベルベットの話になった。その頃には既に、ローズもベルベットが消えた現実を受け入れつつあった。「待っていても、無駄なのかも」そう、ローズはぽつんと言った。


「ベルベットはもうどこにもいなくて……二度と会えないのかも」


「そんな……」クリスは否定したが、二度と会えないだろう、ということはクリスも思っていた。もっとも、自分が死んだ後のことはわからないが。


「ベルベットはどこにいっちゃったんだろう」掌で、カップを包みながら、ローズは言った。


「それはアンソニーさんとも話したんですが、やっぱり謎ですよね。どこなのかな。卵が来たところなのかな、やっぱり」

「……ベルベットは幸せでいるかしら」


「そりゃあもう」ローズを元気づけるように、クリスは力を込めて言った。「とても幸せにしてますよ。あの大きな姿でね。あっちのほうが本来の姿なのかもしれませんね。成長して……」


 そして恋などして、とクリスは考えた。伴侶などを見つけていたりするのかもしれない。そして卵が産まれるのだろうか。卵は、また――どこを通ってどういうふうにかはわからないが――この世界にひょっこりと現れるのだろうか。


 そうすると、とクリスは思った。ローズの言う、待っていればそのうち帰ってくる、というのもあながち間違いではないのかもしれない。


 クリスはそんなことを考えながら、ローズのほうを見た。そしてぎょっとした。ローズが泣いていたからだった。静かに、ローズは泣いていた。涙を流していた。「あの……」クリスは言い、そして椅子から立ち上がった。ローズのほうへと向かう。


 前にもこんなことがあった、とクリスは思った。ローズの魔力が暴走した時のことだった。謝りに来たローズはやっぱりこんな風に泣いていた。意外と涙もろいのかもしれない、と思った。ローズの側まで来たクリスはそっと、ローズの肩に手を回した。あの時は、彼女に触れてはならないような気がした。けれども今は――二人の距離は大分縮まって――これが自分の勘違いでなければいいけれど――今なら、ローズに触れてもいいような気がした。ローズの肩は丸く、小さかった。


 嫌がられたらどうしよう、と幾分の不安もあった。けれどもそれは杞憂だった。ローズは拒否することなく、そっと、クリスに身を寄せたのだった。




――――




 服を着替えたクリスは台所へと向かう。いつもの朝食の準備。今日は休日なので、いつもより豪華にしてもよい。トーストを焼いて、夕食の残りのサラダやハムをそれに挟んだ。オレンジがあったのも思い出す。ベルベットの朝食はもう準備しなくてもよい。最初はそれが悲しかったが、いつの間にか少しずつ、そんな毎日にも慣れてきた。


 朝食を食べ終え、テーブルを綺麗にして後片付けをした。さて、今日は何をしよう、と思う。今日は休日――ローズも休日だ。彼女が来るかもしれない。いや、きっと来るだろうな、とくすぐったい気持ちでクリスは思った。


 陽射しは春よりもはっきりしたものになっており、木々の葉っぱは目の覚めるようなぴかぴかとした緑色だ。その中をローズがやってくる。軽い足取りで。少し汗ばむような陽気なので、春よりもずっと涼し気な恰好をしている。爽やかな風が駆け抜けて、彼女の綺麗な髪を揺らし、彼女の若い頬は健康的な赤で、そしてクリスを見上げてとてもチャーミングに微笑むのだった。


 玄関の呼び鈴がなった。誰が来たのか、クリスにはもうわかっていた。弾むように、クリスは玄関へと向かったのだった。

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魔法の庭と白い竜 原ねずみ @nezumihara

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