カーテンにくるまれる

笑子

カーテンにくるまれる

 耳に刺さったイヤホンから、滑り出すように流れてきたのはadeleのHelloだった。思わず、へロー、と小さく口が動く。時折、イヤホンの隙間を縫って、電車のガタンゴトンという音が聞こえる。

 車内はやけに空いていて、早朝の通勤ラッシュとの違いを痛烈に感じた。前に座る人も横に座る人もいない、そんな空間にひとり取り残された気分だった。

 冷房の効きすぎた、夕陽のさす車内は、周りの田んぼや住宅地と相まって知らず知らずのうちに綺麗に見えるものだ。朝の通学時に見るこの風景は虫唾が走るほど嫌いだというのに、おかしな話だなと自分で思う。

 うとうとと寝たふりをしながら、私はいつも唐突に、家に帰りたくないと感じる。とくに居心地が悪いわけでもなければ、家庭環境も悪くは無い。生活には困らず、必要経費は自腹を切る必要もない。

 電車が最寄り駅に停車する。仕方なしに重い腰を上げて、電車を降りた。熱がぶわりと身体にまとわりつき、瞬く間に汗をかく。不健康そうな額の汗を腕で拭えば、とぼとぼと歩き出す。電車は私を見捨ててまた走り出す。家は駅から歩いて五分程度で、それもまた、私の気分の低下を助長した。

 七月前半の厳しい陽射しと熱気を受けながらも、五分程度の道を十分かけて歩いて、汗が滴り落ちた。セミのミンミンと鳴く声が嫌でも耳に入ってくる。抜け殻が、ご近所さんの家の塀にくっついていた。私はそれを、なんとなしにひっぺがして、地面に放り投げ、踏み潰す。ただそれだけの行為。けれど、夢中になっていた。どこかしらで抜け殻を見つけると、それを踏み潰した。バリバリ。あいつも、あの子達も、嫌いな奴みんな、踏み潰せればいいのに。

 家に着いた途端に溜め息が漏れた。イヤホンも取らずに、母のおかえりという声(多分言っているであろう)にも反応せずに、二階の自分の部屋に真っすぐ向かえば、学生鞄を放り投げ、制服を脱ぎ散らかし、ブラジャーすらも床に叩きつけ、そしてベッドに倒れ込んだ。イヤホンは勝手に耳から離れていった。

 ショーツのみを身につけた私の身体はだらしがない。だらしのない乳にだらしのない腹。見る気も失せる。それを隠すように部屋着を着る気力すらないが、扇風機はなんとか足で起動させた。涼しい風が汗を乾かして気持ちがいい。それでも、家に人がいるだけで私の精神が安定することはないのだ。精神とかなんとか言ってしまうと、なにかと大袈裟なのだけれど、それが一番しっくりくる言い方なのだから仕方がない。

 一度起き上がって座り直す。壁に背中をあずけて、ひんやりとした壁の感触を楽しむ。ひんやりしているのに、汗をかく。真後ろ、上の方向に思いきり腕を伸ばして窓を開けると、勢いよくぬるい風が吹き込んで、白いカーテンが舞った。扉がカタカタと鳴って、行き場のない風が可哀想になって、私は立ち上がり扉を開け放った。その瞬間にその場を去ってしまう風のなんて薄情なことだろうと思うけれども、私だって人のことは言えない。

 もう一度壁にもたれて座り直せば、カーテンは私の頭を包み込む。触れるか触れないか、その線を保ちながらも私に触れる。この白いカーテンは何の匂いもしないけれど、学校の黄ばんだカーテンは、日に焼けた本みたいな、学校の図書室みたいな、そんな匂いがするのかもしれない。そう思うと、とても、ロマンチックだ。

 鼻から深く息を吸い込んだ。カーテンが鼻の形に沿って私の顔に張り付く。息はできる。その事実に失望した。そんなもの、できなくたっていいのだ。

 母が私の名前を呼ぶ声が聞こえた。浅い苛立ちが私のこころをさざなみ立たせる。ふっ、と軽く息を吐いて、包み込んでくれるだけのなにも奪ってはくれないカーテンから抜け出した。あんたなんか要らないわ、というふうに。

 立ち上がり、邪魔なカーテンをスライドさせて追いやった。ついでにクーラーを付けておく。窓を開けると、窓際に置いてあった紙箱の中から煙草を一本とライターを一つ取り出す。放り出された乳が誰に見られようが撮られようが、それすらもどうでもいい。風で火が消えないように手で覆いながら着火させた煙草は、やるせなさを助長する代わりに、諦め方と心の安定を与えてくれた。心の安定を与えてくれる、それに比べれば、やるせなさが助長されることなどどうでも良いと思える。ただそれは思えるだけの話であって、感じるところは、また、違うのだ。

 煙が自分の口から吐き出されていく。それにプラスして、自分の溜め込んだストレスと愚痴を少しだけ吐き出す。ほんの、少しずつ。でないと、もう、やめられない。それは依存するということだ。今はまだ、やめられる。まだ。

 けれど今更考えてみれば、何にだって依存して生きてきた私には、依存せずに生きろなんて無理な話なのかもしれない。そう考えると国に余分に税金を落とし、肺を自ら黒く染めてさっさと死ねる煙草に依存していた方がよっぽどマシだと思えた。人に依存するよりは。

 母も、私が煙草を吸っていることは知っているのだろう。時折目を細めるあの顔は私の脳内にこびりつく。フライパンにこびりついた汚れのように。それを必死に取り除こうとする母の姿と、自分の今の姿が重なって見えた。結局、自分は自分だと言っても、血の繋がりはなかなか消えてくれない。

 煙草も吸い終わる頃には、また母の声が聞こえた。けれども、先程の苛立ちは襲ってこない。火を消して、ゆっくり伸びをした。あくびまで出てきた。私は、この余裕を常に手にしていたいと思わずにはいられない。人間って、そんなもんだと思うんだ。


「ご飯だって言ってるでしょう」


 部屋着に着替えてリビングに入るなり、母の小言が飛んでくる。すぐに行けばよかったかな、と少し後悔したけれど、それもものの数秒で終わる。どうでもいい。


「聞こえなかった」


 私はそれだけ言うと、茶碗を取り出してご飯をよそう。水蒸気が手にまとわりつく。嫌な感覚。


「嘘つき」


 母が私の後ろを通って、また目を細めてそう言った。自分の肩がひくりと揺れたのは、あの目が原因なのかもしれない。ああそうですよ、私はどうせ嘘つきですよ、あなたには適わないけど。なんて内心嫌味を吐き出しながら、よそったご飯をテーブルに置いた。箸も置いて、冷蔵庫からビールを取り出そうとして振り返った。


「ビールは?」


「いる」


「……父さんのぶんは?」


「もうすぐ帰ってくるから、置いといて」


 冷えたビールを二本取り出したら、自分のぶんの水とコップを三個置いて、料理もテーブルの上に並べた。母の機嫌は相変わらずだ。正直めんどくさい。

 母の携帯が鳴った。慣れない手つきで操作して、あいつからの電話をとる。私と接する時よりも優しく甘えた声で、うんうんと頷いている。少し機嫌が良くなればいいんだけど、なんて考えながらつけっぱなしのテレビを見た。何も面白くない。

 つまらないテレビを見ているうちにいつの間にか電話が終わっていたようで、母がくるりとこっちを向いて言った。


「お父さんちょっと遅くなるから、部屋行っといてもいいよ」


「はいはい」


 よし、なんて思いながら早速部屋に駆け込むと、ベッドに倒れ込んだ。リビングにいて心地いいことなんて一度も無い。

 そのすべてはあいつのせいだった。

 母は私が中学1年の時に離婚をして、あいつと再婚した。離婚の原因はわからないし、離婚の直前などは別居していたから、私は母との2人暮らしでも別段問題はなかった。その方が父さんとも会いやすかったし、私は父さんのことが好きだった。優しくて、面白いのか面白くないのかよく分からないような冗談を言う父さんが好きだった。

 母があいつと再婚してからは、私はあいつのことを"父さん''と呼ぶように言われたし、「新しいお父さんよ。前のお父さんのことは忘れなさいね」とまで義務付けられた。あまりにも、薄情だと思った。私のことを、なんだと思っているのだろう。心のない人形だとでも思っているのかもしれない。

 それから父さんと連絡は取れなくなった。携帯の番号も、住んでいる場所も、以前とは変わっているようだった。

 父さんが住んでいたマンションの部屋の前で、膝を抱えて、学校なんて行かずに一日中泣いた。キン、と冷え込む冬の日だった。手袋もつけていなかったし、スカートの中に体操ズボンを履いていたわけでもなかったから、手足は限界まで冷えていた。涙も枯れて、立ち上がった先に見えたのは、沈みかけた冬の夕日。ああ、お父さんにはもう、二度と会えないんだ。なぜだかその瞬間、そう悟った。込み上げる乾いた笑い。その日初めて、私は絶望という感情を知った。

 

 付けっぱなしのクーラーのおかげで部屋は快適な気温だった。またすぐにイヤホンを付けて、今度はMadonnaを聴いた。自分のため息すら聞こえない、素晴らしい歌声。私はうっとりしながら、目を閉じた。あいつのことなんて、考えるだけ無駄だ。


 いつのまにか船を漕いでいる。ゆっくりと、オールを動かしながら海を進む。たぷたぷと船に打ち付ける波の音のほかに聞こえるものは、何もない。食糧もなく、水すらもない。このまま死に絶えてゆくのだろう。それを目的に、私はここへ行き着いたのかもしれない。

 新月なのだろうか。月明かりすらも無くした暗すぎる海は、私の顔すらもうつしてはくれなかった。私は今どんな顔をしているのだろう。それが知りたくて堪らなかった。手元も見えない暗がりの中では、それすら許されたことではなかった。


 ハッとして飛び起きた。携帯を起動させれば、そこにはでかでかと22時50分と書いてある。やってしまった、と内心頭を抱えながらも、自然紙箱に手が伸びてしまうのは仕方の無いことだと割り切った。

 煙草を炙りながら、ふと先ほどの夢を思い出した。もう既にあやふやな記憶ではあったけれども、海にいたことは覚えていた。海に行きたいなあ、なんて、ぼんやりと思いながら、私はもう一度布団をかぶった。


 次の日はバイトだった。またあの夕暮れの中を帰って(今度は急ぎ足で)、三十分ほどしてから自転車に乗って外に出る。毎日毎日、太陽は飽きずに私を焼きつける。じりじり。煙草がすり減る音だ。

 自転車に乗ると、自然風が肌に触れた。なまぬるくて、気持ちのわるい夏らしい風が、あのカーテンみたいにふわりと首筋を通っていく。ふいに後ろを振り向くと、車が迫っていた。轢いてくれればいいのに。でも私は端に寄って、車を避けた。

 バイト先はスーパーで、私はレジ専門だ。働き始めてから三ヶ月といった所で、まだ馴れないことが多々ある。その度うろたえてしまう私は、そんな自分に自己嫌悪した。立ちっぱなしで緊張したふくらはぎをさすりながら、なぜ出来ないのだろうと考えた。私が無能だから。結局はそれに辿り着くのだけれど、なぜか腑に落ちない。ありがとうございましたーと間延びした声で言えば、レジ台にもたれ掛かる。あと二時間。陽はまだ落ちない。

 仕事から帰ってくれば、あとはご飯を食べて、寝るだけだ。いつもは部屋に帰ってすぐに電源をつける携帯も、今日はそんな気力がなかった。明日も学校で、明後日も学校。明明後日も学校で、まるで終わりが見えやしない。けれど先生たちがいつも話すのは私たちの学校生活の終わりだ。やれ、退学やら留年やら、就職やら進学やら。高校一年からそんなこと考えている人生なんて、味気がなさすぎて毛虫でも食べないと思う。どう考えても、まずい。

 母の声が聞こえた。ご飯だ。母のご飯は美味しい。希望の見えない未来なんかより、よっぽど。

 ご飯を食べたあと、部屋で煙草を吸った。窓はいつも開けているけれど、虫が入ってくるのが嫌ですぐに閉めた。この間カナブンが部屋の中に入ってきて、ひどく恐かったのを覚えている。だからか匂いは残ってしまうのだけれども、次の日になれば消えているから気にしてはいなかった。でも今日は、あいつがいきなり部屋に入ってきた。部屋を開けた瞬間にわかったと思う。


「なんで煙草の匂いがするんだ」


 当たり前のことを聞かないで欲しい。なんで大人は当たり前のことを分からないといったふうにいちいち聞くのだろう。


「吸ってるからに決まってるでしょ」


 いかにもめんどくさい、といったようにベッドの上から返事をすれば、煙草を出せと言われた。出すわけがない。壁にもたれかかり、鼻で笑う。


「そんなものを買わせるために小遣いをやっているんじゃないぞ」


 私の精神安定剤をなんだと思っているのやら。そういう自分こそヘビースモーカーの癖に、何を言っているのやら。わけがわからない。それに買っているのは自分が稼いだ金だ。文句を言われる筋合いはない。


「アンタも吸ってるじゃない。アンタにとっても大事なもんなんでしょ?私にとっても、大事なものなの」


 出て行って、と、私はあいつを睨み言った。部屋にまで入ってくるとは思っていなかった。気持ち悪い。私の領域をずかずかと踏み込んで犯す汚物。


「出て行って、とはなんだ!」


「だから、はやく出て行って」


「はやく出せ!」


「うるさい、近所迷惑」


 ようやく黙ったあいつに向けてもう一度「出て行って」と言う。あいつは眉間に皺を寄せて、きつくドアを閉めながら出て行った。バン、と大きな音がする前にイヤホンを付けてNicki Minajをかけた。単純にノリに乗った曲を聴いて気分を盛り上げたかっただけなのだけれど、逆効果な気がした。こういう時は寝てしまうに限る。どうせ、明日には同じ一日が始まって、何もかもリセットされるのだから。




 最近は朝が肌寒くなってきた。夏を抜け出したようで、季節の移ろいを感じた。もう秋だ。太宰治の晩秋でも読み返そうかと思う。

 あれ以来、家を出る時はあいつが私より少し早く出る。それでも朝食は同じ時間だ。一時でも一緒に食べるのが嫌で、今日はもっと早くに家を出ようと早く食べ終わるようにした。冷たく響いた私のごちそうさま、の声に、あいつがひるんだように見えたのは気のせいだろうか。


 別に学校なんて行きたくもないし今すぐにでも辞めたいぐらいだけれど、将来を考えると行かざるを得ないのだろう。行きたくなければ行かなければいい。それは強制の言葉以外にほかならない。将来って、なんだろ。考えるだけ無駄な気がした。

 今日も朝日が眩しくて、まるでクラスの女の子達のようで、嫌になる。憂鬱な気分ってやつ。同じ電車という箱に揺られるサラリーマンの顔も私とよく似ていて、笑い出しそうだった。結局、進んでも変わらない。先生は、私たちをどうしたいのだろう。あんな変な顔にだけはなりたくなかったのに、窓に映る私は変な顔をしていて、泣き出したくなった。


 いつもより早く着いた教室は人がまばらで、乾いていた。私は特に何をするでもなく、イヤホンでRed Hot Chili Peppersを聴きながら本を読んだ。題名「ティファニーで朝食を」。することは他にいくつもあるというのに、やる気はひとつもしない。クラスメイトをちらと見ながら理由のない嫌悪感を抱く。それは多分嫉妬と言うんだろうけれど、認めることは私には出来なかった。クラスメイトの、少し茶色の染めたのであろう髪が眩しい。香水の甘ったるい香りが鼻腔を刺激する。化粧の施された顔がかわいらしく笑っている。私には持ち得ないもの。紙がくしゃりと音を立てた。無意識に力が入ってしまったようで、ああ、図書室から借りているのになぁと思いながら、延々とその皺をなぞっていた。友達なんていない。移動時間も、昼休みも、行きも帰りも、いつも一人だった。友達なんて、要らない。そう割り切ったはずの感情が、教室に居るとどんどんと湧き上がってきて、イライラに変わる。

 何もかもが、無意味な気がした。死にたい気分だった。教室の窓から見える紅葉した色とりどりのもみじやイチョウが、とてつもなく色褪せて見えたのは、何故だろう。


 雪の降る日に、生理が来た。いつものように。誰とセックスするわけでも、子を孕むわけでもないのに、準備が出来たことを知らせるその合図には嫌気がさす。キン、と冷えた空気が、あの日を思い出させた。初めて絶望を知ったあの日。下腹部がきゅうっ、と痛み始める。腰にも鈍痛がまとわりつく。身体はだるく、重く、貧血のせいでふらりと傾いた。とてつもない眠気に襲われながらも、学校までの道のりを歩く。厳しくなった寒さのせいか、余計に腹が痛んだ。ちらちらと降る雪が頬に触れて溶けてゆく。面倒だ。しかし、その痛みと体の不調が私に安心を与えてくれた。人間なのだと。女であるのだと。生きているのだ、と。普通なのだと思わせてくれる。そう考えれば考えるほどに、なぜだかぼろぼろと涙が出てきて、私は学校までの道のりを引き返した。人目なんて気にしている暇はない。


 別に、勉強が出来ないわけでも運動が出来ないわけでも無い。顔も普通で、スタイルも普通だ。真っ黒で野暮ったい髪の毛と眼鏡をかけて、 高校生活を送る平凡な女子高生。いじめられているわけでもない。私が煙草を吸っているなんて誰も知らない。そんなことを、電車に乗りながら考える。学校から遠ざかって行く。あの全てが歪んだ空間から離れて行く。離れれば離れるほど、私の心はからっぽになっていく。

 家の最寄り駅も、通り過ぎた。乗ってくる人は、怪訝な目で、泣いている私を見る。どこまで行くのか分からない電車に乗って、適当に選んだ無人駅で降りる。瞬間、冷たく乾いた風が過ぎ去ってゆく。

 駅には人っ子一人いなければ、猫の一匹二匹もいそうにない。駅構内から周りを見渡せば、住宅がぽつりぽつりと見える。次の電車が来るのは27分後だった。ポケットの煙草を引っ張り出した。一緒に落ちた紙切れが線路に落ちていった。パリパリに乾いた涙が、頬に張り付いていた。


 悲しみに暮れているわけでも、怒りに狂っているわけでも、なかった。楽しいことは多少あれども、全てを上回る虚ろな「無」に 占領される。自分に何も無いという感覚は、煙草を吸うだけで、お酒をのむだけで、拭いきれる違和感ではなかった。

 早く死んでしまいたい。

 生ぬるくて、ただ、ふわりと揺れるあのカーテンのような、不安に煽られるだけの時間が嫌だ。

 早く死んでしまいたい。

 友達なんて要らない、そんなの嘘だ。本当は、くだらない話をして、馬鹿騒ぎしてみたかった。

 十分が経った。電車はまだ来ない。二本目の煙草に手を伸ばした。煙が目に入って痛かった。おえ、と嘔吐きながら、二本目の煙草が無惨にも終わる。もう十分経った。手だけが死んでしまったように冷たくて、誰かに抱き締められたのは何年前だろうかと考える。ただ抱き締めて欲しかっただけなのに、なんで、こんなことになったんだろうか。私は自分の腕で自分の体を強く抱いた。私を抱き締めてくれるのは、不安を煽るカーテンだけだった。


  三本目の煙草が終わりかけた。自分の手で中途半端に火を消した。気持ちが良かった。

 駆け足で線路に飛び込んで、電車がキーキーと笑っている。


 私の煙草だけが、ホームで煙をあげていた。

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カーテンにくるまれる 笑子 @ren1031

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