夢現

神無月そら

夢現

 手始めに、大きく息を吸ってみた。もう星が沢山見えるこの時間帯は、自分の居場所を錯覚させてくれるから好きだった。頬を撫でる風が、一緒に悪戯しようと誘う君の手のようだった。何度も、一人でこの街の夜を歩いたけれど、毎回君は僕を違ったふうに誘う。ある日は遠慮がちに、時には強引に、僕の前を行くときもあれば、僕を後ろから押す日もあった。僕は必ずその誘いに乗ると決めていた。毎回君と遊んだ名残を、いつもの街で探す。大抵は君が隠してしまうが、たまにみつけられとき、たまらなく嬉しい。今日の街はどんなだろうか。

 今日は、昨日よりも都会の街のようだ。車通りが多くてまだ灯りが残っている。

「おっと」

 今度は右手を引っ張られた。どうやら右へ行けということらしい。

 行先はいつも教えてくれない。ただ楽しそうに、僕に微笑んでくれるだけだ。もう声は聞こえない。しかし僕の中には君の美しい声が残っていて、その表情に勝手に声を当てて遊ぶ。君もときどき僕のそれに気が付いて、嫌そうな顔をする気がする。ごめんね、もう一度君の声が聴きたいんだ。

 横断歩道には、信号が変わるのを待つ人がいた。向こうの歩道を見れば、もうひとり信号機の下で止まろうとしていた。自分も、歩道と車道の境目めいいっぱいのところで止まった。昨日は街の灯りも暗くて、歩行者も車もなくて、そのまま信号無視して渡ってしまうくらい悪い子になっていたから、今日の自分は少し偉い気がした。まだかと信号を見上げれば、急に顔に風が吹きつけた。あまり気温は低くないはずなのに、冷たく感じた。

 横断歩道を渡っても、どちらに行くかは教えてもらえなかったから、とりあえず左に曲がった。右や真っ直ぐにも進むことはできたけれど、どこか既視感を覚えたからそうした。ああ、君も笑っているからこちらであってるんだね。だけど、もう少しはっきりとした道案内をしてほしいな。でもそういうと君の答えは一つ、もうわかってるよ。「着かないなら、それが私たちの目的でしょう?」僕は君は行きたいところに行きたいんだけどね。

 日によっては、途中でちょっとした動物たちに出会う。鳥のことが多いのだが、彼らは大抵会ってもすぐに飛んで行ってしまうから、あまり会話ができない。しかし今日は猫と目が合った。歩道の上を横切ろうとしたときに、僕が通りかかったようだった。

「君も渡るのかい?」

 聞いても猫は答えてはくれなかった。釣り目が僕のほうをじっと見ていた。

「さっき僕も渡ってきたところだよ。君はどこに行くんだい?」

 言い終わる前に猫が走って行ってしまった。歩道の縁を通り越して、道路の上を一目散に走っていって、住宅の柵を乗り越えて敷地にはい知ってしまった。

「僕はちゃんと横断歩道を信号守ってわたったのにな」

 猫の消えていった家のほうを見ながらつぶやいたら、また強い風が吹いた。そんな馬鹿げたこといってるなってことかな。いつか動物と話してみたくないかと訊ねたら、できたらいいけど無理でしょうと、君は鼻で笑ったよね。今もそう思ってるんだろうな。確か、その時は明け方に二人で歩いていたよね。僕が君の右側に立って、君が僕の左側に立っていたと思う。あの時はどこに行こうとしていたんだっけ。鞄は持ってなかったから、登校前の時間帯だったのかな。なんでそれを聞いたのかすら忘れてるや。そんなに昔の事じゃまだないはずだけれど、やっぱり駄目だね。その時歩いていた足の裏でアスファルトを踏む感覚は覚えているのだけどね。その時目についた家の窓の形も覚えている。だけど君とどこに行ったのかは思い出せないや。もしかしたら、どこにも行ってないのかもね。君のことだし。

 左手を引かれて我に返ると、そこは小さな公園だった。覗いてみれば、砂場と、鉄棒と、小さな滑り台しかなかった。ああここか。今日の目的地は。僕にはすぐに分かった。君も微笑んでくれたから、合ってたんだね。砂場の縁に、茶色い球体が二つ置かれていた。泥団子だった。それも布かなにかでぴかぴかに磨かれた、本当に球かと間違えてしまうくらいの団子だった。僕たちがつくったのと同程度の、ちょうど五センチメートルくらいの大きさだった。僕は近づいて、団子の近くにじゃがみこんで、砂場の砂を手に取った。

「昔、どうやってつくったっけね、このくらい綺麗な泥団子」

 もちろん返事はない。両手で押しつぶされた砂は、水分がなくて、すぐにぱさついて崩れてしまった。手の上の砂を落として、その二つの団子をみて、昔のことを思い返した。確か七歳やそこらのころであった。作り終えた後、こうして二人で並べて置いて、明日また見に来ようと約束したものだった。大抵、一晩経つと乾燥してひびがはいるけれど、お互い団子かきれいに残っているかはそんなに重要でなかったと思う。この泥団子の作り主は、翌日に身に来るつもりで作っただろうか。こうやって壊さず置いて行ったなら、そうであってほしいと思う。作り手がもし二人なら、尚更よい。

 僕は立ち上がって今度は滑り台へ向かった。上がる階段の手すりに手を掛けて、周りを見た。身体も大きくなっているから、もし誰かに見られたら流石に恥ずかしかったが、幸い誰もいないようで、近隣の住宅の灯りも殆どが消えていた。懐かしさをおぼながら、小さすぎる階段を一段一段踏み飛ばさないように上った。二人で何度も遊んだ記憶や感覚と重ねあわせようと努力しながら上がった。この滑り台の上で、なぜか仁王立ちしていた君を、僕が面白がって押したら、頭から滑り落ちて行って、地面に頭をぶつけて泣かせてしまったことがあったよね。今になって考えるとかなり危険なことだったね、ごめんね。時には滑る台の上を下から駆け上がって遊んだね。子供らしい遊びだったけど、君は運動が得意だったから、ずいぶん身軽に上ってたよね。あのころ子供ながらうらやましく思ってたんだよ。僕も君みたいに走ったり登ったりしたいなって思ってた。口にしたことはなかったけれど、でも君ならそんなこと気づいていたかもね。僕はあの頃みたいに台の上で仁王立ちした。たった一メートル程度目線が高くなっただけで、巨人になったように感じた。確かにこれは気分がよかった。昔の僕や君はこれを楽しんでいたのだろう。

 高いところに立ったからか、下から風が吹いた気がした。それにつられて、上を見れば、大きな丸い月が見えた。まだ高い位置にはあったが、既に西のほうへ傾きだしていた。僕はその白や黄の月に見惚れていた。世界に、自分と、滑り台と、お月様だけが存在するような感覚がした。空気からは何かが抜け落ちて、月がこちらを見て僕が滑り台の上でそれに向かい合っているだけで完結するような感覚、他の何かが割り込む隙間の無い、絶対的とでも表しそうな感覚を覚えた。何かを僕に伝えているかのようだった。僕と月との距離がなくなって、お互いに触れあっているかのようにさえ錯覚した。

 次に吹いた風は、僕のほうをゆっくりと撫でた。その風のおかげで、僕は頬が少し湿っていることに気が付いた。あんなに近かったはずの月が、かすかに滲んで見えた。

 もう一度、風が僕の頬をかすめた。今度は少し勢いがあり、痛いくらいだった。それでとうとう月が遠くに見えるようになってしまった。視界に、住宅街が入ってきた。風が吹いて、滑り台を揺らした。そろそろ降りろということか。僕は御行儀よく、足を前に伸ばして滑り降りた。地面に足がついて立って、お尻を触れば案の定汚れていた。かつておろしたての服で滑り台で遊んだ後、ひどく叱られたのを思い出した。当時は服が汚れるのは砂場遊びだけだと思っていた。お尻を手で払って、公園を出た。出る直前に、砂場の脇の泥団子のほうをちらりと見れば、まだ真ん丸を保っているように見えた。

 僕は来た道を戻った。日によっては一度目的地についても、まだ別のところへ連れていかれることもあったが、今日は当然そんなことはなかった。

 行きに渡った横断歩道には、今度は誰もいなかった

 赤信号だったから、僕はまた立ち止まった。

 青になった。

 僕は少しぼうっとしていて、歩き出すのが遅くなった。

 そのとき、風が左手から離れた。

 目の前を、一台の車が右から過ぎていった。

 黒のワゴンだった。

 気づいた時には君は隣に居なかった。

 次に気づいた時には、地面が赤くなっていた。

 気がした。

 僕は足が出なくなった。何秒過ぎたのだろう。いつの何か、信号は赤になっていた。

 しばらく風は吹かなかった。

 よく見れば、あそこに見える看板は、あの時倒れていた君越しに見たものと同じだった。

 風が偶然車の無い通りを向こうからあっちへ吹きぬけて行った。

 信号が青になった。

 今後は、左から風が吹いてきて、左袖を揺らした。

 僕は嬉しくなった。左手にあるはずのない右手を感じて、聴こえるはずのない声を聴きながら、横断歩道を渡った。

 


〈了〉

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