第7話博士の薬。
黒織博士、いや、この場合、黒織斑と呼ぶべきだろうか。
少年は鋭利な視線で部屋を見渡し、僕の枕元でその動きを止めた。
手付かずの薬を認めると、
「良し、未だ飲んでなかったね、兄さん」
「あ、うん……」
「ふん、とすると、流石のお人好しな兄さんも、少しは鼻が利くようになったかな?」
斑はずかずかと踏み込んでくると、薬を無造作につまみ上げた。
それから、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「……いつまでも、下らない事をするな、あの男も……」
「あの男?」
確か、その薬は、雫が旦那様と呼ぶ人物、詰まりは
「そうさ。……野原に掘られた落とし穴。今時、幼子だって作らないような粗悪な出来映えの、けれども、深さだけは充分な奈落だよ」
「父親が、毒を用意したということ?」
「兄さんにしては珍しく、話が早いじゃないか。いつものお人好しは何処へ行ったんだ?」
「さぁ……未だ寝ているのかも」
「だとすれば、兄さんの夜更かしも案外有益だね。……その通り、毒だ」
片眼鏡の奥の瞳だけを見開いて、斑は殊更軽薄な笑みを浮かべた。
その瞳には、深い憎しみの炎が燃えている。息子を殺そうとする親に対して、彼は、義憤にも似た怒りを抱いているようだった。
子が親を、そして、親が子を。
一般的には忌避される感情だが、現在、斑の憎しみを諌める気力は湧いてこない。なにしろ、僕=黒織巴は、現在進行形で父親に毒殺されつつある、らしいのだから。
「下らないよ。今時、こんな、粗悪な悪意の発露に引っ掛かるのは余程の間抜けだろうね」
言って、斑は窓から庭へと薬を投げ捨ててしまう。
僕は、斑の様子に驚いた。
僕の知っている博士、詰まり黒織斑は、常に笑っていた。
何もかもを思いのままにやりたいようにこなしている、万能者ゆえの余裕が、常に浮かんでいたのである。
こんな、不機嫌や憎しみを明らかにするなんて、印象とは大きくかけ離れている。まるで――人間みたいだ。
斑は人間のように、その翡翠色の眼差しに、激情を隠すことなく浮かべている。
それは、将来失うもの、今の彼が持つ美点である。詰まり、僕を慮る優しさだ。
黒織斑は父親を憎み、同時に、兄である黒織巴を心配している。
雫とはまた違う、血の繋がった者同士にのみ向けられる、温かい感情が、信頼が、斑の言動の端々から感じられるのだ。
そしてだからこそ、彼の憎悪が際立っている。
優しく、甘えるように憎まれ口を叩く斑少年から放たれる、父への敵がい心。
その原因は――僕を殺そうとしているからか。
一体、何があったのか。何故巴の父は、僕を殺そうとするのだろうか。
怪しまれるだろうから、尋ねることも出来ず、僕はただただ、斑のつまみ上げた薬を見詰めるしかなかった。
僕には、両親の記憶がない。
最新の脳科学に言わせると、脳はけして忘れないらしい。記憶は消滅することはなく、脳に刻み込まれたら、いつまでも存在し続けるのだそうだ。
だとすると、僕の脳みそはこの十五年間、一体何をしていたのだろうか。
樹の股から産まれたわけでもなく、一人きりで成長してきたわけでもないのだから、何らかの思い出があった筈なのに。
『博士の弊害だろうな』
いつだったか、夢路はそう言った。
あまりに凄惨な事件のせいで、僕の心は記憶を封じ込めたというわけだろう。忘れたわけではなく、思い出したくないと、思ったのだ。
だから、父の事も解らないし、その幼少期の話なんか聞いたこともない。
実の父親との関係や、或いはこの、後に悪魔と化す弟との関係も、僕には解らないのだ。
病弱だった記憶は、無いけれど。
「……僕の、身体の不調はその、毒のせいなのかな?」
「どうだろう、兄さんは昔から身体は弱かったけど、寝たきりになる程じゃあなかった。僕が生まれたときには、よく咳き込んではいたけどね」
「生まれたときの事を、覚えているの?」
「僕は、一度見たものを忘れないからね。知ってるだろ?」
いいや、知らない。
僕にとって黒織斑は詰まり黒織博士だ。その時博士は既に老齢で、生者というよりは死者の領域に踏み込んでいるような、不気味な老人であったのだ。
その知識や、悪夢こそ恐ろしかったものの、それ以外は単に、枯れ木のごとき存在に過ぎなかった。
呆けてはいなかったが、そんな、記憶力に自信があるとは思っていなかった。
いや、そもそも僕は、博士の事を何も知らないのかもしれなかったが。
尋ねる相手は、もういない。
父も母も、そして博士も、既に死んでいるのだから。
僕の無知は、しかし、秘しておくべき事柄だった。
僕の返答に、斑は眉を寄せたのだ。
「……何だか、今日の兄さんは本当に妙だな」
「っ、え?」
「やけに物分かりも良いし、そうかと思えば根本の部分で急に噛み合わなくなるし。さっきから、まるで別人と話しているみたいだ」
鋭い。
まさにその通り、としか言い様の無いほど、斑少年の疑惑は的確だった。
弁解の余地もない、はいそのとおりです、以外に返す言葉がない程である。
とはいえ、ここで頷くわけにもいかない。何とか弁解しようと、考えながら僕は口を開き、
「っ!?」
僕は、僕の身体が黒織巴のものであると、思い出した。
「げほっ、げほっ、ぐ、げほげほげほっ!!」
吸い込んだばかりの空気が、灼熱の爆風となって吐き出される。
肺が軋む、心臓が暴れ、喉が焼ける。
口からは、言葉の居場所が無くなり、無秩序に咳き込んでは、生きるためにどうにか空気を吸い込むことしか出来なかった。
「っ、に、兄さんっ!」
あぁ、やはり彼は優しいと、僕は間の抜けた感想を抱いた。
ついさっきまで疑った相手の事を、斑は真剣に心配している。
疑念を放り投げて、血相を変えて駆け寄ってくる斑。
その手には、何か、握られている。
「兄さん、大丈夫か、兄さん! さあ、これを!!」
差し出されたのは――茶色い丸薬だった。
一瞬、まるで狙いすましたかのように、偶然発作は収まった。
目の前に差し出された丸薬を、肉親の差し出した薬を、僕はまじまじと見詰める。
「兄さん、早く!」
飲めと、言うのか。
僕は、思わず息を止めていた。
「早く! 飲むんだ、兄さん!」
黒織斑は、やがて黒織博士になる男だ。
彼は、僕の家族を、九十九人の罪もない命と一緒に殺戮したのだ。
彼の差し出した薬は、不気味な気配は無い。無いが、しかし、差し出しているのは黒織博士なのだ。
飲むか、否か。
これが過去の再現だとしたら、正解は、果たしてどちらだ。
斑が、翡翠色の瞳が、必死に、懸命に、僕を見詰めてくる。
僕は。
僕は、意を決して、その丸薬を飲み込んだ。
夢の始末、或いは妄想と幻惑の騙り レライエ @relajie-grimoire
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