第6話その頃、魔人。

「珍しいですね、夢路さん。貴方がこんな、裏方の場所に現れるなんて」


「野暮用でね」


 帝都軍警察の本部、その日陰区画に、夢路はその漆黒の姿を現した。

 彼の存在を聞き及んでいるらしい、区画管理者の年配準尉は気さくに笑う。夢路の渾名を知らないのか、或いは知っていても関係ないと思っているのだろうか。


 どちらでもないだろうなと、夢路はぼんやりと思う。


 彼くらいの老人は、怪異や神秘と隣り合わせで生きてきた。所謂、人類社会の黎明期を知っているのだ。

 夜は闇の領域であり、月と星以外に照らすものの無い漆黒の時間だった頃。

 狐に化かされ、狸に化かされ、笑いながら狢に化かされた時代を生きた者にとって、魔神と評される男くらい、良くある話なのだろう。


 いつの間にか現れて、夜明けと共に消える者。


 にも、そのくらいの分別があれば、結末は大きく違っただろうに。


「……見せて欲しいものがある。案内を頼む、準尉」


 感傷を押し退けて、夢路は冷淡に依頼した。

 今は、現在いまの事情を優先させなくてはならない。そう、詰まりは、黒織司を助けなければ。










「……三〇〇五、三〇〇七……あぁ。この棚ですな、夢路さん」


「有り難う」


 かびと埃の入り交じった臭いに満ちた一角で、準尉は足を止めた。

 近代的な、金属の棚の列を幾列も越えた先で、部屋の真ん中よりはやや奥に近い位置だ。


 かつて起きた事件の証拠を保管し、やがて起きるであろう未来の事件の証拠を保管するための、そこは倉庫だった。


 悲劇を忘れないために、そこはある。

 悲しみだけを閉じ込めた過去の墓穴を、夢路は今、掘り起こそうとしている。それも、自らが葬った相手の過去を。


 事件番号、三〇〇九番。


 そんな味気の無い札の付いた、隣人に比べれば遥かに真新しい箱を、夢路は手に取った。

 あれほど世間を騒がせたにしては、箱は、随分と軽い。


 いや――


「準尉!!」


 夢路は、彼にしては珍しく、大きな怒鳴り声をあげた。

 直ぐ様駆け付けた準尉に、夢路はその三白眼をぎょろりと向けた。


「……説明してもらおう、


 夢路の右手には、真新しい、









「そんな、馬鹿なっ!!」


 老準尉は色めき立つと、今日一番の駆け足で夢路の元に辿り着くと、その手から箱を引ったくった。

 夢路は、まるで興味がないかのように容易くそれを引き渡す。


「無い、無い。そんな、これが無くなる筈が……」


「有り得ない、か」


「有り得ません、絶対に! 確かにこの部屋の警備は、その、充分とは言えませんが。ここは、軍警の本部です! 持ち出しが出来るわけがない、出入りは全て記録されているんです!!」


「そのが見たい」


「勿論です、えっと、記録ですね。本部の玄関横、入り口に管理室が……」


「いや」


 夢路は首を振る。

 それから、準尉をじっと見下ろした。


「私はと言ったんだ」


「……え?」


 準尉の皺だらけの顔に、初めて恐怖の気配が浮かび上がった。自分を見下ろす魔人、その瞳に浮かぶ冷酷さに、漸く気が付いたようだった。

 恐怖が彼の顔を多い尽くすよりも早く。

 ずずずっと伸びてきた、夢路の掌が、準尉の意識を鷲掴みにした。









『……失礼、管理者殿』


 歪んだ声に、視界が振り返る。

 そこに立っていた人物に、夢路はくふふ、と笑みを溢した。


「……黒織博士」


『誰かね、君は?』


 胡侖気な呟きが、響く。年老いた、嗄れ声。

 準尉の声だ。これは、準尉の記憶なのだ。


『本部の人間ではないな、見覚えがない』


『えぇ。部署が違います』


 不信感を隠そうともしない老人の視界で、彼はひょいと肩を竦めた。

 特別監獄の、看守であった青年は、夢路の良く知る人物の仕草で微笑んでいる。


『僕は、亜月と申します。これが、階級章です』


『どれどれ……ほう、少尉殿でしたか、これは失礼を致しました』


『構いません、管理者にはそのくらいの警戒心が必要です』


 亜月青年は、寛容に微笑んだ。

 上手く擬態したものだが、と夢路は嘲笑する。その、左目を細め右目を見開く奇妙な笑顔は、少々特徴的に過ぎる。


 青年の身体も、そして記憶も支配しているのだろう。黒織博士は、他人の顔と名前を振りかざし、自らの資料棚へと案内させている。


『こちらです、この箱ですな』


『ご苦労でした』


 ひび割れた手が視界の端を動いて、敬礼する。

 応じるように敬礼する青年から、準尉の眼はあっさりと外れて振り返り、


『あぁ、そうそう』


 声に、振り返る。


『何ですかな、少尉殿』


『一つ大事なことを、忘れていましたよ』


 箱を片手で持った亜月青年が、にこやかに微笑んでいる。

 その、見開いた右目が、深紅に染まる。



『……あ……あ?』


 魅入られたように、準尉の視界がその赤色に固定される。

 青年の歩みに応じて、その色が大きく、濃くなっていく。



 呟かれた言葉は、真っ直ぐに準尉の意識に突き刺さった。それを気にする者が、後で引き抜けるようにと。


『先ずはそこだよ、


「黒織博士……!!」


 くふふ、といういつもの不気味な笑みを浮かべながら。

 黒織博士の手が、準尉の視界を多い尽くした。









「……え? ん、お、おや?」


 それから暫くして、準尉はふと我に返った。


 いつものかび臭い空気が鼻を突き、自分が長年親しんだ証拠保管室にいることを思い出させた。

 そして、

 今日、誰が訪れたかも、或いは数日前に訪れた年若い少尉のことも、そして――。


 、綺麗に忘れ去っていた。









「…………奴の、家か」


 雑踏の中、帝都の町並みを歩きながら、夢路はポツリと呟いた。

 喜びとも悲しみとも感慨深さとも好奇心とも違う、けれどもどれにも似ているような、不可思議な感情が篭った、複雑な色の声だった。


 夢路は無言で煙草を取り出すと、口に咥え、火を灯した。

 吸い込んだ紫煙を、雲に変えて吐き出す。感情を吐き出したことを恥じるように、ふわりと、ふわりと。

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