第5話粥と薬。

「あぁ、あぁあぁ巴坊っちゃん、無理なさらないでくださいまし」


 駆け寄った少女のたおやかな優しさが、そっと僕を布団に押し戻した。


 細い、綺麗な指。

 そこから流れ込む温かさに、僕は、抗いを忘れ寝かされた。


「お医者様にも、言われたでしょう。無理をしてはならぬ、頑丈では無いのだから、と」


「……僕、は……」


「それがいきなり起き上がるだなんて。もし万一のことがあったら、しずくは旦那様に殺されてしまいますわ」


「……ごめんなさい」


 一先ず素直に、僕は頭を下げた。少女の声が、驚愕から徐々に安心、そして善意からの叱責へと姿を変えていたからだ。

 良い人なのだと、今の僕でも判断がついた。

 そしてその善意が、混乱する頭に冷静さを取り戻させてくれたのだ。


 今必要なことは――情報収集だ。

 自分の身に何が起きているのか、正しく理解しなくてはならない。何かするのは、きっとそのあとだ。


 そのためには、会話が欠かせない。


「……ごめんなさい、ただ、何だか調子が良い気がして」


「そう言って。ずいぶん咳き込んでらっしゃったじゃあありませんか」


「いや、それはまあ、その……」


「……まあ、巴坊っちゃんの気持ちも解りますがね?」


 状況の解らない中、曖昧なやり取りをするしかなく、困りながら笑う僕。

 雫、と名乗る少女は、僕より僅かに歳上だろうか、大人びた憂いを浮かべて小さくため息を吐いた。


「何せ生まれてこのかた、外にも出れずに、こうして、寝かされてばかり。年頃の男の子としては、えぇ、退屈でしょう」


「……そう、だね」


「うふふ、今日はとても素直で御座いますねぇ、坊っちゃん。いつもの坊っちゃんらしくもありませんね?」


「そんなことは、無いよ。ただ少し、その、疲れただけさ」


 曖昧に笑う僕に、雫はくすりと笑う。


「やはり、無理をしてらしたんじゃあありませんか。さ、朝食をどうぞ」


 枕元で、かちゃかちゃと音が鳴る。

 嗅ぎ慣れない香りに、しかし、肉体が反応する。喉が、舌が、胃袋が、思い出したかのように空腹を叫び出す。


 目の前に差し出された、白い陶器の匙。

 その上で湯気を立てているのは、これは、かゆだろうか。


 と、肉体が記憶している。それは脳に刻まれた確かな経験現実ではなく、きっと、もっとあやふやで不確かなものだった。


 雫が冷ましてくれたそれを口に運ぶ前に、舌の上に味が広がっていく。

 梅干しを見ただけで涎が漏れ出すように、条件反射的に、味を思い出していく。味わったことの無い、味を。


「……美味しい」


 腹が空いている、ということもあるだろうが。

 それは、確かに美味かった。


「そりゃあ、雫のお手製ですから。自信は勿論ありますが……少し、その、大袈裟じゃあ御座いませんか? いつもの、粥で御座いますよ?」


「いつもの僕じゃ、無いみたいだからね」


 そう言って僕は笑い、雫もはにかむように微笑む。その笑顔が何だかとても眩しくて、温かくて、僕の瞳は僅かに潤み始めていた。










 結局、その後は大して話も出来なかった。


 恥ずかしながら、僕はとても空腹だったらしい。そうと気が付いてしまえば、もう無視することも出来ず、僕は雛鳥のように差し出された匙をただただ咀嚼するばかりであったのだ。

 最初こそ甲斐甲斐しさに感動した僕であったけれど、後半は、最早無心であった。


「今日の坊っちゃんは、確かに妙でらっしゃいますねぇ。胃袋だけ、どなたかと交換でもなされたみたいです」


 そう言って、からからと秋晴れのように笑う雫の、その無邪気な皮肉に顔をしかめながら、それでも僕はどうにか、だけは伝えることが出来た。

 言われた雫は、怪訝そうにしていたけれど。


「はぁ、構いませんよ? そのくらい、雫の部屋にも御座いますから、水仕事を終えた後で宜しければ、えぇ、お持ち致しましょう」


「頼むよ、有り難う」


 首を傾げながらも、その辺りは流石に立場の差があるからだろう、雫は頷き、部屋を出ていく。

 そう、現状を正しく見るためにも、は欠かせない。

 十代前半だろう雫ならば、きっと持っているだろうとは思っていたのだ。


「……そうだ、坊っちゃん。?」


「薬?」


 首を巡らせると、成る程、手を伸ばせば届くところに朱の盆が一枚置かれている。

 その上には、水の入った茶碗と、そして、粉薬。


 その盆の存在感に、僕は思わず目を見張る――


「苦手でしょうけれど、旦那様が苦心して手配なさったものです。きちんとお飲みくださいね?」


 頭を下げると、雫はぱたん、と襖を閉めた。

 途端に、無音と無人が幅を利かせ始め、

 


 状況が異常だと、流石の僕でも解るような展開で。

 見ず知らずの家で、人に、粥を食わされる事態の中で。

 


 これが、薬か?

 病を癒し、人を救う、父親が子に差し向ける薬の気配なのか?


「………………」


 違う、と僕は首を振る。これが、こんなものが、薬であろう筈がない。


 誰もいない、音もしない空間で、その不吉な気配だけが膨れ上がっていく。

 毒かどうかは知らないが。

 良薬では、けして無い。


 先程の雫の粥からは、穏やかな慈愛を感じた。だからこそ、僕は無警戒に飲んだのだし。

 だが、この薬は、違う。

 敵意と悪意と害意しか、盆の上からは感じない。あれは、きっと僕を殺すものだ。


 じわり、と気配が滲み出る。


 溢れた墨が和紙を染めていくように、盆の気配が、安寧に支えられた静けさを犯していく。

 じわり、じわり、じわり。

 どす黒い気配が広がってくる。手を伸ばせば届くところに置かれた朱の盆が、怪しい魔の手を伸ばしてくる。


 はっはっはっ、と、荒い呼吸が漏れるのは、気分のせいもあるだろうが、同時に病のせいでもある。

 全身を痛みが這い回り、呼気が乱れ、意識が熱に浮かされる。

 逃げるどころか動けもしないこの身体に、闇がじわじわ近付いてくる。


 助けて、助けて、助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて。


 悲鳴は咳を押し退けられず、席を無くして立ち尽くす。

 恐怖と焦燥に蝕まれた身体は、身動ぎさえも許されない。


 絶望に支配され始める、静かな部屋。

 無力な僕は、震えながら知らない神に祈る他無く。


 だから――

 襖を開けて、ひょっこりと。

 


 几帳面に整えられた短い黒髪。

 僕より僅かに年下らしい細身を、純和風の建物にそぐわない洋装で包んだ少年。

 幼い顔にはしかし、あどけなさよりも知恵の光が輝いている。きゅっと吊り上がった眉も、片眼鏡モノクルを填めた翡翠色の瞳にも、強い意思とそれを支える叡知が満ちていた。


 その、片眼鏡に見覚えがあった。

 目鼻立ちに、洋服を好む嗜好に、何よりもその賢者然とした雰囲気に、僕は確かに覚えがあったのだ。


 そう、考えてみれば当然だ。

 僕が真実父の過去に混じり込んでいるのなら。

 


「……


 そんな呟きと共に。

 少年――

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