第4話目覚めた先は夢。

 時間は、暫し巻き戻る。

 彼の魔人、現代に生きる神秘と魔性の申し子が自らの住み処を出た、その四半時ほど後の時点に。


 僕は、そう、ようやっとマットレス――夢路の言うところの敷布団――を黒檀のベッドから剥がして、埃を払い、干し終えたところであった。


 元より備え付けであったとはいえ、このベッドは中々の逸品であった。

 昨夜こそ、居間で寝たものの、これを活かせるならそれに越したことは無いと、流石の僕も理解していた。


 ……自分が過ごしてきた環境が、所謂【上流】であることを、僕は理解していた。


 金銭的な面で不自由を感じたことはない、博士は僕を育てる上で、要望に応じないことは一度として無かった。

 それ以外の面では自由など皆無であったが、しかして翻って見れば、外出できなかったのは身体の不調からだし、そも、夢路に博士のことを相談できた以上は自由はあったのだ。

 ……それ以上の悪徳を、僕は注がれたとも思うけれど。

 家名を持っている、詰まりは【名付き】であることも、世間一般には望外の幸運だったのだ。


 だがだからこそ、僕は、の視点とやらを身に付ける必要がある。それこそ、そう、未来に向かうのならば。


「このベッドは上物、このベッドは上物……」


 幸い、審美眼には自信がある。

 良いものを良いものと言っている限りは、異分子にはならないだろう。


「……後で、夢路さんにきちんと言わないと……」


 お礼と、そしてを。

 全く夢路さん、こんな良いものをどうしてごみにしているのですか、長椅子ソファよりも大分ましです、これを使って寝てください、とか。

 大体、家主が何故間借り人より悪い環境で寝ているのか。気を使っているのだろうか、それとも、面倒なのか、或いは。


「…………」


 或いは、


 その想像は、喉にひやりと冷たい刃を当てられたような、暗い痛みを僕の心臓に与えた。

 魔人と呼ばれるに足る力を、確かに夢路は持っているが。

 魔人と呼ばれるに足る成果を、確かに夢路はもたらしたが。


 それはあくまでも、他人の見解であると、僕は思っていた。

 事情を知らない、世間様という無貌の集団が、自らの安心のために押し付ける札付きに過ぎないと、そんな風に考えていたのだ。そう、信じていたのだ。


 だがもし――

 それは、何て悲しい……。


「……僕は、だとしたら……っ?!」


 思考に沈む寸前、現実が訪ねてきた。

 控え目な、けれど確固とした意思を感じる勢いで、こんこんこんこんと、玄関のドアが叩かれたのだ。


 誰だろうか。

 誰にしろ、そして何にしろ、困ったことになったと僕は気が付いた。


 どのような用向きで、果たして誰が訪ねてきたにしろ、目的は僕に会うことではあるまいし、僕にどうこうできる問題でもない。

 魔人夢路に、来訪者は用があるのだ。居候の小僧に、用はないだろう。

 そして窓に、布団を干したりなんだりしている以上、居留守を決め込む訳にもいくまいし。


「……仕方ない、か」


 出て、事情を説明するのが自然かつ賢明な対応だろう。

 主人の不在を知れば、そしていつ頃戻るか解らない旨を伝えれば、来訪者は大人しく帰ってくれるだろう。


 僕の考えは、極めて一般的に思えた。

 だが、後になって思えば、それは些か不要な義務感に唆された結果とも言えた。


 部屋の掃除の件からして、実のところそうなのだ。自分が使う部屋とはいえ、家主には、部屋が真っ当な状況で引き渡されるよう、努力する義務がある筈だ。

 来客だって、別に僕が出て応対しなければならないなんて責任は、一向無いのだ。

 彼の言う通り。僕は、ここで下働きをしたいわけではないのだから。


 にもかかわらず、こうして必要以上の責務を背負おうとしていたのは、きっと、恐れていたからだ。怯えていたからだ。

 必要とされなくなることに、役目を無くすことに。


 僕はそういう意味では、常に求められてきた。

 夢路は――誰のことも求めていない。


 だから、必死だったのか。

 そんな風に。

 全てが終わった後で、僕は考えた。


 だが今は、そんな考えに及ぶ間もないまま。

 急な解放により、追い詰められた精神の求めるままに、ありもしない義務の影法師を追い続けていただけだった。


「は、はいっ!!」


 緊張に上擦る声に更に緊張して、足をもつれさせながら、僕はどうにかドアへと辿り着いた。

 軽く深呼吸をしてから、ドアを、開ける。


「すみません、今、夢路さんは……あれ?」


 その先に立っていた姿に、僕は、首を傾げる。

 奇妙な既視感。

 霧の向こうに浮かぶ島陰が、幼い頃の記憶の琴線に触れたような、もどかしい記憶と現実の平行線。


 その、絢爛な振り袖に。

 その、妖艶な泣きぼくろに。

 その、母性を感じる微笑みに。


 どうしてか、僕の記憶が揺り動かされる。


「あの、えっと……」


?」


「……え?」


 目を丸くする、僕の視界が、不意に暗闇に染まる。

 遠退く意識が、最後にちりん、と、鈴の鳴る音を聞いた気がした。


 暗闇。









 そして、暗転。


「っ!?」


 開けた視界に映ったものは――見たことの無い天井。

 夢路の家とも、また博士の家とも全く異なる、それは和風の天井だった。


 歳月を感じさせる板には、斑の木目が幾つも渦を巻いている。それはまるで天から覗く異形の眼であり、見詰めるこちらが吸い込まれそうになる穴でもあった。


 点が三個並べば顔になる、等とは聞いたことがあるが、しかしこの木目は、幾つ並んだとてその印象が変わる様子はなかった。

 目玉は幾つ並んでも目玉だし、穴もまた然りだ。

 不気味さが増しこそすれ、人の顔のような親しみやすさは感じられない。


「――ああいや、別に、親しみやすさは要らないのか」


 僕は、ぽつり、と呟いた。

 人の全てが善良であるわけではないのだから。

 人の顔が、全て善良であるわけもまた、ない。


 ごほっ、と僕は咳き込んだ。

 喉がかさかさと、そしていがいがと、ささくれだって逆立っているような気がする。

 吸う空気が喉に生えた鱗をがりがりと擦り、吐く息に混じるたんが逆巻く。咳き込むとそれらが激しく揺すられ、互いに互いを傷付けあっているのだ。


「う、うぅ…………」


 呻き声が、掠れている。

 長らく声を出す、ということを忘れていたかのようだ。舌が、まるで別の生き物のように不器用にしか動かない。


 身体を起こそうとして、ぎしっ、と軋むような音が、他でもない僕の身体の奥から聞こえてきた。

 次の瞬間、背中に激痛が走り、僕は悲鳴を上げて布団に倒れ込んだ。


「う、うああ、っぐ、ぐふっ、っ……はぁ、はぁ、はぁ……」


 涙が、浮かんだ。

 痛みに対する本能的な身体の反応だったが、しかし、一度開いた水門は、もはや塞き止めることは不可能だった。


 苦痛と、そして心細さが、僕の内心に溢れていた。


 天井に、見覚えはない。

 見渡した部屋の中は、畳に障子という茶室じみた狭い和室で、これもまた、見覚えがなかった。

 寝かされている布団は、ふんわりと柔らかく心地好いが、ベッドではない。

 服も、違う。

 着せられた襦袢は清潔だったが、僕は学徒服を着ていた筈だ。


 僕は、黒織司は、自らのものを何もかも取り上げられているのだと、痛みを堪えながら自覚する。

 連れ去られ、閉じ込められたことも、自覚した。

 そして。

 


 記憶に、ぽっかりと穴が開いている。

 夢路の部屋に、ノックが響いたことは覚えているが、その先、訪ねてきた誰かのことを何一つとして思い出せないのだ。

 最後の記憶としては、戸口に立つ誰かさんだ。その顔も、衣服も、黒い霧に包まれたように見通せない。思い出せない。


 その空白に、覚えがある。

 あれは、確か、博士と夢路との最後の対決の時。


 


 夢路によって、元には戻ったが。

 あのときの、世界の全てが電源を落としたような暗闇を、僕は今もって忘れていない。

 この、記憶の欠落は、に似ている。


「……僕は……」


 捕まったのだ。

 


 だとすると、と考えられる程には、僕は冷静さを取り戻した。

 博士は強大だった。偉大ではなくとも、その信念は強く、その存在は大きかったのだ。

 そんな博士に育てられたが故に、僕の精神には逆に、強大さに対する抵抗力のようなものが生まれていた。


 彼我の戦力差を、絶望せずに受け入れる癖、とでも言えば良いだろうか。

 敵は強く、僕は弱い。そんな事実を、ありのまま咀嚼し、納得する性質だ。そこには諦めの介入する余地はなく、単純に、大きさの比較を済ませただけ。


 そう。

 敵は大きく、その全貌を眺めるには僕の立ち位置は低く小さい。


 ならば、気にするべきは。


、……っ!」


 呟いた言葉に、喉が悲鳴を上げた。

 喉の痛みに反応し、肉体各所が連動して更に痛みが増していく。


 喋るのは、良くないらしい。

 捕らえられ、記憶も弄られたばかりか、身体自体にも何かされたのか。

 毒か何か、一服盛られたか。


 ――いや、違う気がする。


 何となく、何となくだけれど。

 この痛みは、不調は、毒などというようなものではないような気がする。

 そんな外的要因ではなく、もっと内側に巣食う闇であり――もっと、――例えば、


 ――何が起きてるんだろうか。


 思ったよりも、事態は致命的なのではないか。そんな風に思う僕は、まるで昔からの癖のようにごほっごほっと咳き込んで。


 それが、契機になったように。

 

 


「……ま、!!」


 切羽詰まった声と共に、勢い良く障子が開かれて。

 顔を出した少女が、ぜいぜいと五月蝿い息を吸って吐く僕を見て、泣き出しそうな顔で駆け寄ってきた。


「だ、大丈夫でございますかっ! !!」


 束の間、僕は痛みを忘れた。

 思わず跳ね起き、「何だって?!」叫んだほどに、その名前は衝撃的だった。


 ともえ

 その名前は、博士の兄にして黒織家前当主、そして――


 僕は今――









「うふふ、ふふふふふ」


 何処か、遠く。

 およそ人の認識が及ぶ世界から遥か彼方に別たれたところで。


 泣きぼくろと振り袖が特徴的な女が、笑う。


 その艶っぽい視線の先には――和室で驚愕する黒織司の姿。

 その姿は、しかし何故だか揺らいでいる。時に女が連れてきた少年の顔となり、時に、写真でしか見たことの無い、少年の父の顔となる。

 幼い頃の、父親の顔だが、少年自身とはあまり似ているようには見えなかった。


 興味深くその現象を眺めながら、うふふ、と女は更に笑う。


「削るのよ」


 笑いながら、その唇が蠢く。


「削り落として、削ぎ落として。残ったものが、

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