第3話博士再び。
何処と無く寝苦しかったような、睡眠時間こそ確保できてはいるものの、何故だか寝足りないような、そんな自堕落な気持ちと共に僕は目覚めた。
見知らぬ天井が、ぼやけた視界を出迎える。
モルタルか何かか、木目の一切無い天井板は、西洋風であれば仕方がないとはいえ、少々居心地が悪い。
博士の家は、そこかしこ西洋にかぶれていて、言ってしまえばこことも良く似ていたけれど。
もっと古い記憶の中の、父様母様と暮らした家は、この国らしい木と紙の家だった。
そこがどうなったか、もう僕には解らないが。
両親と同じ末路を辿ったのではないかと、僕は根拠もなく確信している。
博士は、神秘学の中でも精神と肉体との関連についての権威だった。
精神の変調は、肉体に致命的な影響を与えると、博士は考えていた。
それを家主と住居との関係に置き換えたら。
両親の死は、即ち我が家の死であったことだろう。
「……起きないと」
僕はのろのろと、緩慢な仕草で身を起こす。
両親は死に、博士も、あまり長くはないだろう。
対して、僕は未だ生きている。
生きている以上は生活が続く。目を覚まし、食べて飲んで、働いて、寝る。そんな当たり前の毎日が、長く続いていく。
いつまでも寝ていることは、生存の放棄だ。それは生き残った僕にしては、許されない怠惰であるのだから。
「お早うございます、夢路さん。……あれ?」
「お早う、司。何か一言、朝の挨拶には余計なような気もするが?」
居間に入るなりぽかん、と口を開けた僕を見て、夢路はニヤリと意地悪く笑った。
「未だ寝ぼけているのか? まあ成長期の子供だ、仕方がない。眠いのならば幾らでも寝ていて構わんぞ?」
「ち、違いますっ! 僕はただ、その、意外だっただけで……」
そう、意外であった。
その印象、詰まりは黒づくめの服装やら、妖艶な顔立ちやら、或いは彼が魔人と呼ばれる由縁を思えば、容易な想像であろうが。
宵町夢路の本懐は、やはり【夜】だ。
蒸留酒を並々と注いだ硝子の杯を片手に、月の明かり、或いはランプの灯りちらつく下で、人ならざるモノと踊る道化師。
その彼が、こんな早朝から、何やら出立の支度をして居る。
意外以外の、何物でもなかった。
「何、少し用事がある。……というよりも、ここのところ無い日の方が珍しいがね」
「それは、博士の関係ということですか?!」
ここのところ、という言葉に、僕は鋭く噛み付いた。
露骨にしまった、という顔をする夢路。
さもありなん、ここのところ、即ち僕が軍部で不毛な尋問を受けていた三日前のあの日まで、魔人が掛かりきりになっていたのは、ただ一人彼と対等に渡り合っていた怪物、黒織博士の関係しか無かった。
夢路は、深くため息を吐いた。
「さて、な。それを今から、確かめに行こうというのだ」
「では、僕も!」
「駄目だ。理由は、解っているだろう」
淡々とした声音の否定が、その内容、中身の正確さが、僕の興奮に水を掛けた。
仰る通り、その通り。僕は、僕だけは、博士の手に掛かるわけにはいかない。
何故ならば、僕は――存在そのものが、博士の目的なのだから。
もし博士が、未だに何かを企んでいるのだとしたら。僕は彼の下に行くわけにはいかない。
「けれど、僕は……」
「良いか、私がしようとしていることは、詰まり過去の始末だ。終わったことを掘り返し、死体にわざわざ杭を打つようなものさ。
お前は、そうではいけない。お前は生き延びた。であれば、その全ては未来に向かわなければならない」
夢路の声には、熱が不足していた。
その言葉が含んでいる導きには、当然必要な情熱が、あまりにも欠けていた。
だから、だろうか。
当人が善意と呼ぶ押し付けがましさがまるで無いから、僕の心は抵抗無くその言葉を受け入れていた。
「部屋の掃除は終わっていないのだろう? 布団を干し、埃を払い、床を掃き、窓を磨け。お前の未来に必要な物を買いに行け。それが今、お前がするべきことだ」
夢路は、黒い外套を派手に羽織ると、愛用の、つば広の三角帽子を気取った仕草で被り、思い直したかのように帽子掛けに戻した。
ドアを開けて、太陽の時間に、夜を纏って出ていくその背中。
後ろ手に閉められたドアがばたん、と大きな音を立てたその瞬間に。
「……あぁ」
僕の事件は終わったのだと、僕は僕に宣言された。
待っているのは、日常だ。
布団を干し、掃除をして、焼けてしまった生活必需品を買わなくてはならない。
やるべきことは山積みだ。
そのいずれかが、やがて、やりたいことに成っていくのだろうか。
そんな思いを抱きながら、僕はただ一筋、涙を溢した。
「……黒織博士の牢獄は、夢路さんの仰った通り、最も深い場所にあります」
かつん、かつん、と革靴の音が、暗い通路に反響する。
煉瓦をしっかりと組んだ通路には、灯りが極端に少ない。窓もないし、先を行く看守の手にはランプもない。
博士に対する特例措置ではない。その証拠に、道すがらの牢屋は、そのどれにも窓のような解放部がない。
詰まり、ここはそういう場所だということだ。
閉じ込めた相手の更正や社会復帰など、端から考えていない。いかに効率良く、安全に、安定して囚人たちを閉じ込め続けることだけを考えた墓穴だ。
地獄ではない。地獄とは罪に罰を与え、償わせるための施設のことをいう。清算の機会を与えず閉じ込めることは、その考えにはそぐわない。
「博士の様子はどうかね?」
「順調ですよ」
おぞましい結論を孕んだ単純な返答に、夢路は肩を竦める。
「脳医学の見地から、最新の治療法を試したのです。脳の、前頭葉のある部分を切除することで、思考能力に効果的な減衰が見られたのですよ」
「ほう。それはまた、斬新な治療だな。……治す気の無い治療というのが、また斬新だ」
「それが、ここのやり方ですから。……それとも、夢路さんは、あの狂人が治るとでも思っているのですか?」
「さてね。しかし治るとしたら、それは少なくとも、私や君たちの手を煩わせるものではないだろうさ」
「はぁ……」
信じるつもりの無さそうな返事に、夢路は首を振る。
いつの世だってそうだ、目の前で、博士や夢路の異脳を見せられながら、大衆は常識の枠から出られない。
その方が、彼らにとっては安全だろうがね、と夢路は思う。
牢獄の中で惰眠を貪っていさえすれば、人々は安泰なのだ。そしていつの日か、その鳥籠ごと、何者かに食い潰される。
それもまた、構わない。
自分は、その籠を護るために居るのだから。……昔から。
「……着きました、夢路さん」
「有り難う、看守くん」
さて、と夢路は、暗闇の奥底、地獄以下の地獄の底に降り立つと、闇を覗き込んだ。
「お久し振りです、起きてらっしゃいますかね、博士?」
鉄格子の向こう、明かりの無い暗闇を、夢路は覗き込む。
たかが光の不在だ、透かし見るのに不便はない。博士は、直ぐに見付かった。
治療の成果だろうか、床にへたり込んで口を開けたまま、虚空を眺める博士の瞳には意思の光がまるで無い。
年相応、と言えなくもない。老人は何か、大切なものが抜け落ちてしまったように、ただただぼんやりとしている。
仇敵の来訪に、気付いた様子もない。
「……どうです、夢路さん。言った通り、順調でしょう?」
険しい顔で闇を見詰める夢路の背後で、看守がやれやれと腕を拡げる。
「そちらの博士は、言うなれば脱け殻ですよ。西洋伝来の新医術によって牙も爪も、魂さえも抜かれたのです。夢路さんが、心配するようなことは何も……」
「脱け殻、か」
夢路は静かに鉄格子から離れる。
そして、看守を振り向いたその眼差しには、氷のような冷たい闇が蟠っている。
刃物のような鋭利さに、看守はひゅっと息を呑んだ。
宵町夢路。その異名を、彼は今更に思い出していた。
曰く――現代の魔人。
闇の中で生まれ、影で人を食らうという、夜の化身。
光の無い煉獄の底で、看守は彼と二人きりなのだと、漸く思い至っていた。
夜が、口を開いた。
「……二つ、聞かせてもらおう看守くん。一つ目は、そう、脱け殻と言うのなら、その抜けたものは何処へ行ったのか」
そんなこと、知るわけがない。
叫びたくなるほど理不尽な問いかけに、看守は震える声で、どうにかこうにか、応じた。
「もう、一つは……?」
「何、こちらはもう少し簡単だ、看守くん。……君、何を笑っている?」
「え?」
言われて、看守は思わず目を丸くし、意外だとばかりに首を傾げた。
「だって、当たり前じゃないですか。夢路さんが、ここに来てくれたのですから」
「……ちっ」
笑顔、という表情をひたすらに誇張した、歪んだ顔で、看守は平然と、それが普通であるかのように応えた。
いや――それは最早、看守ではあるまい。
「いいや、看守だとも」
遥か彼方から、洞窟を吹き抜ける風のごとき孤独さで、嗄れた声が響く。
「但し、見張る対象は君だがね、夢路くん?」
「黒織博士か!!」
ごうごうごうと声が鳴り、看守の歪な笑みが、耳まで裂けた。
三日月から半月まで拡がった口から、ずぶりずぶり、濡れた芋虫が十匹、這い出してくる。あれは、指か。
ぐいぐいと力任せに口を拡げながら、喉の奥から覗くのは――巨大な眼。
ぎょろり、と蠢くその目玉が、夢路を見る。
そして、嗤う。
「「くはははははっ!!」」
看守と、そしてその口の奥の化け物が、同時に割れんばかりの嘲笑を鳴り響かせる。
押し退けられた看守の舌が、暖簾のように長々と垂らされた。
その舌を震わせて、声は、下手な二重奏を奏で続ける。
「「おうおう、上手くいったものよ、夜の魔人よ。よぉく我が庵を訪ねてくれた」」
「……健在のご様子ですね、黒織博士。脳の一部が千切れているとは思えないな」
「「おかげさまで、くはっ、全く正しくお陰様だよ夢路くん。私は既に君と同じ、夜にどっぷり浸かった身だ。こんな影に閉じ込めては、閉じ込めたことになり得んのよ」」
「ふん。成る程確かに、少々買い被っていましたよ、博士。よもや、恥も外聞もなく、敗けた次の日に私の家を訪ねるとはね」
昨夜の出来事――詰まりは、美人画から抜け出した哀れな怪しの襲撃。
それは貴様の仕業だろうと暗に示して、夢路はその唇を、にぃぃぃっ、と吊り上げる。
安っぽい、安易な挑発。
博士が好むところの
看守
「「ふむ? 君の家を? それはまた、何の話かね?」」
「……なに?」
「「ははあ、君はどうも、思い違いをしているな。しかして残念、私にはそれを訂正してやる義理も
言葉と共に、夢路の前には鉄格子が、唐突に出現していた。
「いや。これは……博士の影か」
そう。
いつの間にか、夢路の肉体は牢獄の中に有った。
意思も意志もなく、虚空を見詰め続ける、黒織博士の傍らに、夢路は立たされていたのだ。
「「脱け殻といえども影は出来る。であれば、君を縛れるが道理」」
「道理、か……そこまで成り果てて、尚ヒトのつもりか、黒織博士」
「「おう、その言葉、熨斗付けて返すとも。【生ける夜】よ、お前は未だ――ヒトのつもりか?」」
夢路、舌打ち。
同時に鉄格子が軋み、黒織博士は嗤いながら離れた。
「「看守がいて、囚人の有る限り、くはは、牢獄は堅牢である。それが、道理というものだ」」
「ふん」
「「下らない、とでも言いたげだが。くふふ、しかししかしだ夢路くん。敵はこの格子ばかりではないぞ?」」
博士の言葉が、果たして何かの合図であったのか。
眉を寄せる夢路の背後で、ぞろぞろりと人影が立ち上がる。
「これは……」
「「我が同僚だよ、夢路くん。彼らは脳が欠けているが故に、我が悪夢に容易く落ちてくれたとも。
まあ、ここまでしてもまだ、君ならば脱出するのだろうが。くふふ、私を追うほどの余裕はあるまい? ふは、ふはははははっ……」」
「…………」
徐々に徐々に、姿を闇に溶かしながら、声はぼんやりと遠退いていく。
更に濃さを増していく闇の中、静かに眉を寄せる夢路の身体を、幾人もの囚人たちが掴み、引き合う。
退屈そうにそのじゃれあいに身を任せながら、夢路は深く深くため息を吐いた。
「やれやれ。確かに、由々しき事態と言えるなこれは」
ぼやくような口調とは裏腹に、夢路の身体を引く力はどんどんどんどん強くなる。
やがて――夢路の身体が引き裂かれた。
ぶちぶちぶちり、と腕が足が腹が肉が骨が、囚人たちに分割されていく。
人波に、文字通り呑まれながら。
夢路の蒼白な顔で、朱色の唇が、蠢く。
「このような残骸で、どうにかなると思われるとはな」
刹那。
世界が、暗転する。闇より尚深い、浅くて深い、冷たくて熱い、矛盾して相反する、赤と青とを混ぜ合わせたような、名状し難い【黒】が、牢獄の中で荒れ狂った。
……刹那。
闇は消え失せる。
悪意に満ちた闇が消え、単に、単なる光の不在が帰ってくる。
その黒々と広がる床では、人が、何人もの人が、重ね重ね倒れている。
そのただ中で立つのは、ただ独り。
魔人――宵町夢路。
彼はちらり、と山の頂上を眺める。
打ち捨てられた屍の頂点で、老人が、黒織博士の脱け殻が天井を見詰めている。
「……ふん」
その様を、下らない、とでも言いたげに流し見て。
夢路の姿は、牢屋から消えた。
「……そして、ふん。やはりこうなるか」
そして、帰り着いた我が家にて。
無人の部屋を見回して、夢路は鼻を鳴らす。
黒織司の姿は、何処にも無かった。
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