第2話再出発の夜。

 先ずは、掃除だ。


 とにかく物が多い。

 要るものと要らないもの。直ぐ使わないから仕舞っておくものと、間も無く入り用になるから出しておくもの、或いはもういいと捨てるもの。

 そんな風に事細かに分別していたのは、初めの頃だけ。四畳半ほどの部屋を埋め尽くす物の山、山、山に、最終的に僕は諦めて、あらゆる物を平等に廃棄することを選んだ。


 重ね、束ねて、外へ運ぶ。

 戻り、再び重ねて束ねて、また外へ。


 その往復を幾度も繰り返す度に部屋は着実に部屋らしくなり、逆に僕の心は着実に荒んでいった。

 そして、遂には叫んだ。


「……手伝ってくれても良いんじゃないですか、夢路さん!!」


「……んあ?」


 獣のなめし革を張った、座布団を数枚重ねた程に柔らかい、南蛮渡来の長椅子に寝転んでいた夢路が、いかにも億劫そうに顔を上げる。

 その服装に、僕は小さく悲鳴を上げた。


「着物くらい着替えてから寝てくださいと、何度も言ったじゃないですか!」


 夢路の格好は、黒いズボンに白いシャツという、いつもの服装から外套を脱いだ程度の格好だ。

 西洋のズボンというやつは、皺が目立つのだ。まともに床で寝そべるのならばまだしも、あんな長椅子に両足を組んで寝そべっていては、その黒い大地は地割れだらけとなるだろう。


 夢路が、ふん、と鼻を鳴らす。


「一々細かいことを気にするな。お前は下女という訳でもない、私の服の皺を気にする謂れは無い筈だ」


「それは……」


「私は、お前に部屋を貸すと言った。お前は家賃を支払った。であれば、別に私の世話を焼いてくれる必要はない。それとも、司。お前はここに住み込みにでも来たのか?」


「違います、違いますけど。……僕はただ、世話になるなら世話を焼くべきだと、そう思って……」


「殊勝なことだが。しかしとすると、お前の先程の発言は理屈に合わんぞ? 私の世話になっている自覚がありながら、何? 私に『手伝え』と言ったのか?」


「ぐっ……」


 僕は言葉を詰まらせ、夢路はニヤリと、勝ち誇るようにその端正な顔を歪ませた。


 全くもって、その通りである。


 僕がしていることは、僕の使う部屋の掃除だ。

 それまでは彼のものだったのだから、散らかっていようとも汚れていようとも文句は言えず、これからは僕のものなのだからその片付けは僕の義務だ。

 夢路には一切合切関係がない。彼の役割としては、僕を部屋の前に案内してドアの鍵を渡したところで終わっている。


 だから、これは単純に、そして正しく八つ当たりだ。

 忙しく、忙しなく、僕が蟻のように動く横で、怠惰を極めて寝転がる飛蝗に対して、少々苛立ちを覚えただけである。


 僕は、深呼吸をした。内面の苛立ちを、吐き出すように。


「……夢路さんの親切には、感謝していますとも」


 厳密に言えば、感謝、等と云う陳腐な言葉では足りないくらいである。


 僕は諸般の事情、所謂世に云う【黒織博士絡み】の事件の結果として、その居場所を綺麗さっぱり失った。

 

 邪悪の化身であった博士を倒すために、他でもない夢路は、黒織邸を薪にしたのである。


 幸いにして財産は残った――博士の用意していた大金庫は、どうにかその役目を果たした。家を焼いた火事の跡で、見事書類や株券、証券などを残してくれたのだ。


 しかし、何しろ僕は黒織司。


 その妄想のためにあらゆる血族を犠牲にした博士に遺された、唯一の後継者である以上、注がれる視線はけして温かいものではない。

 むべなるかな、と僕は諦めていた。軍部辺りに拘束されなかっただけ、実に幸運だったとさえ思っていた。

 世間は僕の名前も知らないが、関係各位には知れ渡っている。家を借りるのにも、難儀する程度には。


 其処は駄目。何しろ近くには銀行があり、悪事を企む恐れ有り。

 此処は駄目。何しろ近くには警察署があり、襲撃を企てる恐れ有り。

 此処は駄目。何しろ帝都を出て山中などに身を眩ませば、博士の奪還を目論む恐れ有り。


 馬鹿らしい、と夢路は嗤った。

 ならば、私の手元に置きましょう。何これしきの、たかが齢十二の小童こわっぱ、何となれば、何とでもなります故。


 人間離れした美貌の白面に、悪魔めいた笑みを浮かべる魔人の提案を蹴れる者は、如何な帝都といえども居なかった。


 だから、僕は夢路の家に間借りすることとなった。

 その為に、彼の使っていない一室のドアを開け、そして冒頭へと戻るわけである。そう、大掃除だ。


「そんな大層な話でもないがね。使っていないものを、使う者に譲り渡しただけだ。人の手によるあらゆる品は、使われるために生み出された。であれば、部屋も本望だろう」


 確かに、と頷くのはいささか無礼であろうけれど。

 確かに、そうだ。


 今流行りの、所謂西洋風長屋とでも言うべきか、四階建てのアパルトメント。その二階が、夢路の住み処であった。

 意外であった。彼のごとき奇人が、他人とこれほど隣接する環境で過ごすなどとは、宵町夢路の人となりを僅かなりとも知る僕としては、正に意外そのものである。


 それはともかく、ここで重要なのは、このアパルトメントの一階層には部屋が三つと便所に浴室が存在し、そしてなんと、夢路はその内の一室しか使っていないというのである。

 いや勿論、便所にも浴室にも行くのであろうけれど。

 要するにこの、長椅子と書き物机、台所があるだけの一室以外は、何となれば物置としてしか使われていないのだ。


 勿体無い、という評価も、仕方があるまい。


 僕としてはありがたいが、しかし、家の側にしてみれば不本意そのものと、まぁ言えなくもない。がらくたを片付け、僕が住むのならば、部屋はきっと喜ぶのだろう。


「そういうことだ。さ、家を喜ばせるためにも、とっとと片付けるのだな」


 私は、寝る。

 言い残し、夢路は目を閉じると、ご丁寧にも毛布を頭まで被った。


 当然の権利だ。

 僕はそう納得しつつも、彼の背中に舌を出さずにはいられなかった。










「ふぅ……」


 最後のごみを階下のごみ捨て場に置くと、僕は我ながら情けないため息をこぼした。


 当たり前だが、夢路は一度たりとも目覚めなかった。

 目の前を騒々しく往復する僕の足音が聞こえていないわけもあるまいに、毛布にくるまり、頑なに簑虫を決め込んでいた。

 手伝う義理は確かに無いけれど。

 手伝わないなりに態度というものがあるのではないか。


 一張羅の埃を軽く払いながら、僕はぽつり、と呟いた。


「……本当に、あの人は、嫌な男だ」



「っ!?」


 突然の声に、僕は文字通り飛び上がる。

 けして軽くない、博士との厭な思い出が蘇り、僕は反射的に声から転がるようにして、離れた。


 追い掛ける足音は、聞こえない。

 代わりに、クスクスと、柔らかい笑い声が聞こえ、僕はそろそろとおっかなびっくり顔を上げた。


「あらあらまあまあ、うふふ、驚かせてしまったかしら?」


 そこにいたのは、名状しがたき異形……等では勿論なく、寧ろその真逆、見目麗しい妙齢の婦人だった。


 見るからに高価そうな、絢爛な振り袖を遠慮もなく着こなした、泣きぼくろの美しい美人だ。

 記憶の中に微かに残る母様の面影が、何とはなしに浮かんで、消える。


 途端に僕は、自らの反応の恥ずかしさに思い至った。


「し、失礼しました、その……つい驚いて」


「そうね、ふふ、まるで子猫のような怯えようだったわ。何とも可愛らしいこと」


 片手を口に当て、ころころと上品に笑うご婦人の態度に、僕は何だか少しムッとした。

 ごほん、と大袈裟な咳払いをし、僕はつん、と胸を張った。


「失礼は承知していますが、ご婦人、男児に対してそれは少々不躾な物言いではありませんか?」


「男児? あら、失礼、お嬢さんかと思ったわ。華奢で、色白で、髪もとても綺麗だわ」


「……身を清らかに保つのに、男女の区別などありません」


 気にしていることを言われ、僕は更に不機嫌に頬を膨らませた。

 しかし同時に、思い当たる節も勿論あった。

 博士の言いつけで伸ばしていた髪も、外出を好まなかったで白い肌も、男性の屈強さとは縁遠い。

 着衣こそ学徒服ではあるが、これで小袖など着た日には、さぞかし女性的に映るだろう。


 僕の憤りは、ご婦人にとってはアクセサリのようなものらしかった。

 言葉通り猫にでもするように、笑みを絶やさず静かに歩み寄ってくる。


「ごめんなさいね、私はただ、亡くした我が子に似ていたから……」


「それは……」


 そう言われると、弱い。

 非礼に怒る気持ちはあっさりと萎え、やり場の無い感情だけが濁り混ざる。


「ところで、その……ごみ捨てかしら?」


「あ、はい、そうなのです」


 気遣いからか変わった話題に、僕は安堵しつつ頷いた。


「部屋を借りまして。家主が物置にしていた場所なので、物がとかく多いのです」


「大仕事ね、その家主という方は、随分と物を溜め込む癖があるようだわ。それも、


「良いもの?」


 僕は首を傾げた。

 あったのは主に、菓子の空箱ややけに丁寧に剥がされた包み紙、切り抜かれた新聞、牛乳瓶の蓋など、正にごみとしか言い様の無い物ばかり。曲がり間違っても、良いものなんて呼ばれるようなものは……。


 疑問符に首まで浸かる僕に、ご婦人は微笑みながら更に近付く。

 直ぐ近く、息の掛かる程、まるで抱き締めるような位置に、彼女の顔が近付いて、そして離れる。



 甘い香りの名残らせて、婦人は笑いながら、片手を差し出した。

 帯で揺られる根付けの鈴が、チリン、と軽やかに歌う。


 そこに、握られていたのは。









「……なんだ、そのは」


 怪訝そうな声に、僕はハッと我に返った。


 いつの間にやら、新たな我が家に戻っていた僕の前には、相も変わらず長椅子に横たわり、涅槃の姿勢を取る家主。

 切れ長の眼差しに不機嫌さを湛えて、夢路はじっと、僕の手元を睨み付けている。


 視線を追ってはじめて、僕は手に、何やら古びた紙を持っていることに気が付いた。


 恐る恐るほどいてみれば、そこには、夢路の言葉通りの美人画がある。

 年季の入った和紙に墨で描かれた、見返り美人だ。能面のような顔は、所謂平安美人というやつか。


 それなりの家に育った僕の審美眼が、その価値を伝えている。これは――良いものだ。


「美人画ですね……」


「そう言ったろう、そんなことは解っている。問題は、それをお前、何処で手に入れたか、だ」


「うーん……」


 記憶を探るが、何やら霞がかったように判然としない。

 誰かが、ごみの中から取り出したような。


「……ふん」


 夢路は、鼻を鳴らした。


「何にせよ、お前の拾ってきたものだ。処分は任せるが……」


「では、部屋に飾ります」


 何となく。

 

 鈴の音が、命じているような。


「……ふん」


 夢路は、詰まらなそうに詰まらなそうに、もう一度鼻を鳴らした。









「…………」


 音もなく、声もなく。

 夜は夜らしい死人さで、人の営みを包み込む。


 月に狂気を叫ぶまでもなく。

 元より夜は、死者の領域だ。


「…………」


 人も草木も眠る中。

 眠りを許されない者が独り、

 


「…………」


 時代がかった美女は、水墨の濃淡のみを拠り所に、密やかに闇に降り立った。

 そのまま、彼女はゆっくりと、規則正しく胸を上下させる黒織司の傍へと近寄り、


「……


 


「っっっっっっっ!?!?!?!」


「ふん。叫ぶ知恵もないらしい」


 予期せぬ反撃に呆然と蠢くあやかしに、傲慢と冷淡を混ぜ合わせたような、絶対零度の焔のような、無遠慮な声が投げられる。


 その声を聞く者は、姿を見るより早く悟るであろう。

 その声は、正しく無遠慮。

 生命に対する尊厳を著しく欠いた、裁定者の宣告に他ならないと。

 詰まりは――最早己の未来は、定まったのだと。


「静かなことは、評価出来る。しかしそれは、お前の愚かさの精算には足りんな。死人よ、未練の具現よ。良い加減、


 その、外套と同じく黒々とした眼差しに射抜かれながら。

 怪かしの全身は、影に呑み込まれた。


「……ふん」


 退屈そうに、黒衣の魔人は鼻を鳴らし。



 床に落ちていた、美人画を拾い上げ。

 びりびりと、破り捨てた。

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