第48話 君の白い頬
椎奈さんの鼻をすする音が聞こえる。
「わかった。いいよ」
そう言って、横で椎奈さんが動くのを感じた。俺のほうへ体を向けたのだろうか。
まだ駄目だ。顔を見てしまうと、これまで椎奈さんと過ごした時間を思い出せなくなる。赤の他人に成り果てるのだ。その前に伝えたいことはすべて絞り出したい。
「椎奈さん」
海を眺めたまま呟くと、うん、と返事があった。
「四月に入学してからもうすぐで九か月。本当にありがとう」
「うん」
「最初は戸惑って、でも……」
「うん」
「表情が見えなくても椎奈さんの明るさは伝わってきて、惹きつけられた。気づけば椎奈さんのことを……見てる時間が増えてたと思う」
「うん」
「楽観的なのかと思ってたけど、意外と心配性だよな。誰よりも優しくて、その優しさが汚れてない」
「そうかな」
次第に椎奈さんの声が高くなっていくのを感じた。
現実はあまりにも非情だ。椎奈さんに一体どんな罪があるというのだ。悔しくてやるせなくて。俺には椎奈さんの抱える問題を根本から解決することはできない。
――本当に悔しい。
「好きだよ」
沸騰するお湯がやかんから溢れ出るように、言葉が零れた。
「うん」
蚊の鳴くような小さな返事も嗚咽の微かの音も、耳にしっかりと届いた。
聞いて欲しかったことはこれですべてだろうか。時間をかけて思い返すと、きっとまだ伝えたいことは山ほどあるのだと思う。けれど、パッと思いつくことはこれですべてだ。すぐに出てこないことはきっと些細な事であって、記憶が消えたとしても再び取り戻せるものなのだろう。
これ以上はもう何もない。
「言いたいことは全部伝えたよ。いつでもそっちを振り向ける」
「うん」
俺は少しだけ空を見上げた。数分前よりも暗さが増している。寂しげに輝く一番星を見つけた。
「据衣丈くん。一つだけお願いがあるの」
「お願い?」
何だろう、と思ったけれど、今聞き入れたとしても、顔を見たあとでは忘れてしまっているはずだ。
けれど、なぜかそれが意味のないことのようには思えなかった。椎奈さんが話すまで黙って待つ。
「お願い。次に出会ったときも、またこうして遊びに行けるように……仲良くしてください」
当たり前だ。心の中で一度、意気込んだ。
「当然、するよ。絶対に友達になる」
「力強いね。だったら大丈夫だ!」
椎奈さんはおどけたように笑い声を上げている。必ずもう一度、この声を聞けるようになるはずだ。
「それじゃあ、そろそろ。いいよ」
「ああ」
俺は一度目を瞑って、すぐに開けた。
突然、恐怖に苛まれる。俺の持っているすべての記憶が抜け落ちるわけではないのだから、怯える必要はないはずだ。けれど、得体のしれない力が脳内に作用すると考えると、気味悪さを感じずにはいられなかった。
手すりを握っていた手を離して、体の横へ垂らした。
「え」
刹那、左手に何かが触れた。氷のように冷たくて、すべすべとした触感は心地いい。小刻みにうごめくそれは人間味を帯びていた。すぐにそれが椎奈さんの手であることに気づいた。
「これまでのことも、今日のことも、本当にありがとう。楽しかった」
椎奈さんの涙ぐんだ声を聞いて、体がふっと軽くなったような気がした。
椎奈さんの手がほどけて、離れていく。俺は深く息を吐いて、空気をたっぷりと吸い込んだ。
「椎奈さん。またね」
「うん。バイバイ」
さようならは言わない。冬休みが明ければ、もう一度再開できるのだから。
首を左へゆっくりと捻る。水平線は一切動かない。すぐに、海沿いの工場地帯が見えた。
黒髪が視界の隅へ入る。首が力んで動きが固まる。
歯を食いしばった。
行け、そんな声が頭の中に響いて、そして――。
――目の前で女の子が微笑みながら泣いている。
少しだけ垂れた大きな目は充血していて、涙袋のあたりが少しだけ赤くなっている。
彼女は、誰だ。
小振りな鼻と薄い唇は猫に似ていて愛嬌があった。恥ずかしくて目を合わせないようにしようとしても思わず見惚れてしまうほど、可愛い女の子だ。
この子は一体、何者なんだ。
そう思ったとき、彼女は少しだけ目を伏せた。
「またね」
さざ波の音でかき消えてしまいそうな声だ。
潤んだ瞳から雫が零れた。真っ白な頬に水滴が垂れる。粒は一瞬だけ光を反射させて輝き、すぐに地面へと消えてゆく。
それはまるで静止流星のようだった。
了
* あとがき *
こんにちは、
本作のあとがきを書くにあたって、以前のあとがき――つまり一作目のあとがき――を読み返しました。『こんにちは、
そうです。荘屋まなかは死にました。数か月前のことです。二代目として、悲しい限りであります。
世の中には、高校デビュー、大学デビュー、社会人デビュー、といった言葉が出回っています。野球部のやんちゃ坊主がサラサラヘアーの優等生になったり、丸メガネのがり勉出木杉君が茶髪ピアスのイケイケ慶〇ボーイになったり……。人間はよく変化する生物ですね。
変化する。それを文章で表現したい。本作を書いていく中で常にそういった気持ちがありました。
気持ちだけです。技術は全く伴っていません。
それでも、据衣丈布瀬は怒りました。椎奈花穂は顔を見せました。
私の文章も描写も物語も至らない点ばかりですが、中で動く彼と彼女は少しだけ変化したのだと思っています。
最後に、ここまで読んでくださった方々に感謝申し上げます。
顔を隠すヒロイン? 見せたところでブs、もといお顔がよろしくないのが世の常だろ、と感じた方もいらっしゃったかと思いますが、これはフィクションです。椎奈花穂は可愛いのです。
このような、誰得なの? と問われても何も言い返せない作品をお読みいただき、本当にありがとうございました。
楽しい、現実を忘れられる、そう思っていただけるような物語を書きあげて、いずれまた戻って参ります。
八面子守歌
静止流星、君の白い頬 八面子守歌 @yamasho
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