第47話 近く遠い顔

 どうして敬語なのだろうか。ひょっとすると、椎奈さんは動揺しきっているのかもしれない。


 一瞬、思考が停止したけれど、すぐに俺は頷いた。椎奈さんが意を決したのだから、俺はその気持ちを聞いて自分なりの解を導くだけだ。


「お願いします」


「敬語、つられた?」


「まあ」


 二人して同時に笑い声を上げた。


 椎奈さんの小さく息を吐く音が聞こえる。


 背後から突風が吹き抜けた。何かを押し出すには十分すぎる力で背中にぶつかる。


「私の素顔を見た瞬間と、見ている状態で私の姿から目を逸らした瞬間、その人は……私のことを忘れちゃうんだよ」


「……え」


 ただでさえ高くなっていた心拍数がさらに跳ね上がった。俺は顔を固定する力を強める。


 椎奈さんの言葉を必死に反芻はんすうしてみた。けれど、一向に理解できない。


 そんな摩訶不思議な現象を信じろというのか。椎奈さんの顔を見ると、海馬かいばにも大脳新皮質にも特殊な作用が働くとでもいうのか。これまでに椎奈さんの顔を見た人はいるのだろうか。実際に椎奈さんに関する情報が記憶からきれいさっぱり消えたとでもいうのか。


 そのとき不意に、病室の風景が蘇った。


「羽衣さん」


「聞いたんだね」


 椎奈さんの声は震えている。それは決して寒さのせいではないだろう。


「小学校からの幼馴染でさ。津田っちと同じクラスのときに羽衣ねえと出会って、それから二人でよく遊んでたんだ。九年ぐらいの仲で、いろんな思いでも残ってて。本当によくしてくれて。その記憶も今では私だけしか持ってないんだよ。ちょっと間がさしただけなのに。窓のほうを向いてたから大丈夫だと思ってた。目元に違和感があってアイマスクをずらしたんだ。薄暗い部屋の中だとガラスが鏡みたいに自分の姿を映すんだよね。アイマスクからはみ出た皮膚を、羽衣さんはガラス越しに見ちゃった」


「そんな」


 言葉を繋げられなかった。椎奈さんは詰まりながら最後まで言い切っている。いつ涙が零れてもおかしくないような不安定な声音だ。


「生まれたときにはすでにこんなことが起きてたらしいんだ。お母さんもお父さんも、お医者さんも看護婦さんも私の顔を見るたびに、この赤ん坊は何なんだ、って」


 あまりにも残酷で、非情で、にわかに信じがたい。いや、信じたくなかった。


「話を耳にした他の看護婦さんが異様な様子に気づいて。紆余曲折あったらしいけど、最終的に顔を隠すことで落ち着いたんだよ」


「顔を見た瞬間消えるのなら、目を離さずに見ていればその記憶は蓄積されていくってこと?」


「うん。たとえ家族であっても数分で目を逸らすから、記憶を保たせるのは現実的じゃないけどね」


「そんなことってあるのか……」


「普通は信じられないよね」


 椎奈さんが嘘をついているなんて決して思わなかった。それでも心の中では、嘘だよ、と言ってくれることを期待してしまう。


 ――違うだろ、と心の中で叫んだ。これでは逃げているだけではないか。俺は手すりの上で拳を握りしめる。


「信じるよ」


 俺が呟くと椎奈さんは、ありがとう、と囁いた。


 椎奈さんの顔を見てしまうと彼女に関する記憶が消える、それを踏まえたうえで自問自答した。


 それでも、俺は椎奈さんの顔を見たいのか?


 何のためらいもなく即答できる。


「それで」


「それで」


 思わず椎奈さんの声と重なってしまった。咄嗟に、うん? と椎奈さんへ続きを促す。


「こういう事情を踏まえても……私の顔を見たいって思う?」


「思うよ」


 即答した。多くを語る必要はない。顔を見たい気持ちに変わりはないのだ。


「どうして? 忘れちゃうんだよ? 私は据衣丈くんに忘れて欲しくないよ」


 椎奈さんの声は所々、上擦っている。悲痛な叫びだ、と思った。


 記憶がなくなる側、つまり俺はたとえ椎奈さんのことを忘れても悲しみを感じないのだろう。椎奈さんが存在しなかった世界として処理されるのだから当然だ。


 反対に、忘れられる側は悲しみしか残らない。久しぶりに出会った同級生が自分のことを忘れているような、けれどそんなこととは比較にならないほどの寂寥感が椎奈さんに圧し掛かってくるはずだ。


 それでも俺は導き出した考えを曲げられない。


 素顔を隠す椎奈さんとこの先も関係を続けていくことが本来のすべきことなのかもしれない、と思うときもあった。けれど、それは本当の椎奈さんと向き合っていないことになる。


 きっと大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。


「忘れたとしても、また椎奈さんと仲良くなればいい。必ずまたこうして話せる関係に戻れる」


「そんな……なんの根拠もないよ……」


 酷な願いなのかもしれない。それでも、自分の気持ちに嘘はつきたくなかった。


 椎奈さんのため息を吐く音が微かに聞こえてくる。


「滅茶苦茶だけど、でも……据衣丈くんなら大丈夫かなって思えてきてしまう」


 だから、と椎奈さんが呟いた。俺は耳を澄ましてじっと待った。


「こうなるんじゃないかって心のどこかで思ってたから、話すのを躊躇ってたんだよ」


「思ってたのか」


「うん」


 椎奈さんは、ふふっと吐息を漏らす。その笑い声は楽しさがもたらしたものではない気がする。悲しみを紛らわすための防衛本能のようなものに感じられた。


「もう一度、ちゃんと確認するけど」


 椎奈さんの声はすぐに消え入りそうな、小さなものだった。


 俺は心拍数をどうにかして整えようとした。深呼吸をして、きらきらと輝く大海原をじっと見つめる。それでも心は落ち着かないのだから、やるせない。


「私の顔を見たい?」


「うん。見たい」


 少しの間も置かず、俺は力をこめて呟いた。

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