第46話 心の放つ熱

 三匹のイルカが目の前で同時に宙へ飛び出した。雲一つない空を背景にして、黒い三日月が三つ浮かんでいる。周囲に巻き上げられた水滴が燦然と輝いていて綺麗だ。


 着水すると大きな水飛沫が上がった。爆発に似ている。円状に広がる水滴と天のほうへ五メートル近く伸びた水の柱は圧巻だ。飛沫は客席まで飛んでくる。湿り気を肌で感じたような気がした。


 その後もショーは盛り上がりを保ったまま終演まで駆け抜けていった。プールサイドへ招待された子供がイルカと触れ合っている姿には癒された。


 ショーのクライマックスには、ドームの天井が閉じられた。映画館のような暗がりの空間が出来上がったのだ。赤と緑のライトで照らされる水滴は宝石に似た輝きを放っていた。その中を舞うイルカは、宝石なんて簡単に打ち砕いてしまえ、と示しているかのようだった。


 ショーが終わると、ざわめきが増した。前の席に座っていた男女も、満足そうな笑みを浮かべて立ち上がった。


 椎奈さんのほうへ顔を向けられない。だからといって、ずっとこのまま座っているわけにもいかない。


 顔を見てはいけない。そうなると、椎奈さんの後ろを歩くのは止した方がいいだろう。何かの拍子で振り向かれると勝手に視界に入ってしまうに違いない。


「俺が前を歩けば、何かの拍子に顔を見てしまう可能性は低いと思う」


「うん」


 ただ単純に、俺の後ろをついてきて、と頼めばそれでいいのだろうか。頭の中で反復すると、すぐにそれが愚策であることに気づいた。この広いドーム内は立ち見が出るほど混雑しているのだ。はぐれる可能性が高い。


 ――手をつなぐしかない。俺は自分の太ももの辺りを軽く握った。


「散歩道があるらしいから、ちょっと歩こうか」


「うん。行こ」


 俺は言いながら微かに俯いた。俯いていれば横に視線を移しても間違って顔を見ることはないだろう。


 今にも心臓が破裂してしまいそうだ。椎奈さんの手の甲は太ももの上に添えられている。俺は右腕を椎奈さんの体の前へゆっくりと移動させた。


「わっ」


 手と手が触れた。それと同時に椎奈さんが素っ頓狂な声を上げる。俺は咄嗟に手を引っ込めた。


 嫌だと思われたかもしれない。思わず横へ振り向きかけた。必至に抑制する。顔を固定するのに必死だ。


「ごめん、急に」


「い、いや。大丈夫、びっくりしただけ。大きな声出しちゃってごめん。だ、大丈夫だから、ほんとに」


「うん」


 椎奈さんは慌てているらしい。やはり、いきなりするべきではなかったのだ、と反省した。


 万が一、はぐれてしまったときは連絡を取り合えばいいだけの話だろう。俺は立ち上がって、椎奈さんのほうへ背を向ける。


「立った? 行ける?」


 問いかけたちょうどその時だ。後ろの腰のあたりに何かが触れる感触がした。正確には服の生地が擦れたのだと思う。


 背中周辺の空気がふわりと揺らいだような気がした。思わず身震いした。


「コート……掴んでてもいい?」


 心臓を締め付けられたかのようだ。体の芯が熱い。息のつまりそうな緊張感に包まれていて、それなのに心の片隅には弾けるような幸福感が詰まっていた。


「お、おう。はぐれないように、な」


 思わず微笑んでしまった。


 誰か一人にでも見られるのが恥ずかしくて、俺は俯いた。すぐに顔を上げて出口へと向かう。


 脈を打つ音は椎奈さんに聞こえていないだろうか。背後を歩く椎奈さんとの距離が腕一本分しかないと思うと、緊張感が全く消えない。


 遠慮がちにコートを引っ張っている椎奈さんの姿を想像すると狂おしいほどに愛おしくて、後ろを振り向きたい衝動を抑えるのに苦労する。今、後ろを歩いている椎奈さんはいつもと違って、マスクもアイマスクも身に付けていない普通の女の子なのだから、なおさらだ。


 外へ出ると厳しい寒さに襲われた。時刻は四時を過ぎている。三十分も経たないうちに陽は落ちるだろう。


 この水族館は海沿いに建設されている。遊歩道は海沿いに設計されていた。木目調の床と手すりは日本のものというより外国の風景のようだ。


「綺麗だな」


「うん。すごく広大だね」


 俺は手すりを掴んで体を前へ少しだけ倒した。椎奈さんも同じような姿勢になっているかもしれない。顔を見てしまう恐れがあって、横を向けなかった。


 大海原が一望できる。水平線の付近は夜のおもむきかもし始めていた。天に近くなればなるほど明るさが増し、薄い橙色で色づいている。よく目にする日没の光景とは真逆だ。陽の沈む方向が海と逆方向だからだろう。


「据衣丈くん、本当に……誘ってくれてありがとう」


「うん。俺は椎奈さんと来れてよかったよ。最高に楽しかった」


「私も」


 周辺はのんびりとした風情があって、しんと静まり返っている。黙しても居心地がいいのは風景が心に染み渡るほど魅力的だからに違いない。


「それにいろいろと考えるきっかけにもなった」


「それは椎奈さんにとっていいことだった?」


「うん。私はどうしても逃げたくなってしまうから」


 ホッと胸を撫でおろす。


「歩きながら、ゆっくり考えることができたよ?」


 俺はうん、と相槌を打って続きを促した。椎奈さんの声音は冷たい夕空よりも澄み渡っていて、どこか寂しい。


「話すだけ話してみようって、ちゃんと思えた。結局、そうなるんだよね」


「結局?」


「うん、結局。話してから先のことは、その時の成り行きに身を任せようと思う」


 結局。その二文字がいやに引っかかった。それでも突っ込むようなことはしない。俺は黙って水平線をぼんやりと眺めた。


「今から、私の秘密を話したいと思います」

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