第45話 宙を踊る気
紛れもなく椎奈さんの声だ。絶対音感なんて持っていないけれど、音階でいうソの音だといつも思っている。
けれど、今のその綺麗な高音は普段のそれとは明らかに違っている。より一層透き通っていて、余計なフィルターを通っていないような、生の音のように感じた。
俺は咄嗟に「うん、見ない」と返事をした。頭で考えるよりも先に言葉が出たのだから本心なのだろう。椎奈さんの言動が何を意味しているのか、頭で考えるよりも先に直感で判断できたのかもしれない。
「ありがとう。手を離すね」
椎奈さんがそう呟くと、次第に光が差し込んできた。手で覆われていただけなのに、閉ざされた空間から外へ出られたかのような壮大さを感じた。
椎奈さんの黒髪が太陽の光を浴びて艶めいている。
後ろ髪だ。そう思ったとき、俺は首の筋を痛めそうなほどの勢いで、顔を逸らした。見てはいけない、と念仏のように心の中で唱えながらプールのほうへ視線を固定する。
「座るね。こっち……向いてない?」
「ああ、大丈夫」
椎奈さんの声は少しだけ震えているように感じた。途端に、心拍数が跳ね上がる。
視線の先では生のイルカが泳いでいる。それは間違いなく水族館に足を運ばなければ見ることのできない、貴重な光景だ。それなのに、見えているものがさほど重要ではない、どうでもいいものに思えてきてしまう。きっと、横に座る椎奈さんが、普通の椎奈さんじゃなくなってしまっているからだろう。
おそらく椎奈さんは、マスクとアイマスクを置き去りにしたのだと思う。絶対にそうだ、とは言い切れないし、今の椎奈さんの心境を正確に汲み取ることもできそうにない。事情に縛られ、悩み、苦しみ、自分の気持ちと向き合って選択した。その結果が今の状況なのであれば、俺にできるのは椎奈さんの願いを聞き入れることだけだ。
「ごめんね、据衣丈くん」
「謝ることなんて何もないよ。けど、ちょっと、いや、かなり動揺してる。多分俺の予想している状態になってると思うんだけど、突然すぎて」
「驚かせちゃったよね。せっかくこうして一緒に水族館まできてるのに、私のほうを見ないでって」
「まあ、でも……なぜか嬉しい」
ははっと笑う俺の顔はおそらく引き攣っている。嫌な雰囲気にのまれているわけではない。動揺と緊張と配慮と、おそらく歓喜が混ざり合って顔の筋肉が硬直しているのだろう。
「きっと気づいてると思うけど」
椎奈さんは囁いた。いつもの微かにこもった声音ではない。心なしか聞き心地がよくなっている。俺は黙って、続きを促した。
「マスクもアイマスクも外してきた」
「うん」
俺は呟く。声だけでは物足りなく感じて、首を縦に振った。
突然、プールサイドのお姉さんがマイクに手を添え、アナウンスを始めた。ショーが始まるようだ。イルカと戯れるお姉さんの姿をじっと眺めた。
「外した理由は……内緒?」
「ううん、話すよ。ちゃんと話そう、いや、話したいって思ったから外してきた」
椎奈さんはたどたどしく言った。顔を横へ向けたくて、視線が横へ吸い寄せられそうになって、それでも必死に抑制する。
「嬉しい……どんなプレゼントよりもたぶん、嬉しい」
「それ、ほんとに思ってるのかな?」
「思ってるって」
椎奈さんは声とも息ともとれる笑い声を上げた。俺も頬を緩めて吐息を漏らす。
「そう言ってもらえると私もほっとした、ありがとね」
うん、と相槌を打った。椎奈さんは「それに」と言葉を続ける。
「せっかくの水族館デートだから……ちゃんと顔を出して据衣丈くんと一緒にいたくなっちゃった」
全身の皮膚が粟立った。蒸発してしまいそうなほど、体の中が沸々と熱くなっていく。
水中を泳ぐイルカの姿が透明なガラス越しに見えた。その様子をじっと眺めながら、俺も水の中へ飛び込めば簡単に冷却できるかもしれない、とふと思った。
「それ、ほんとに思ってる?」
「うわ、やな聞きかた! ずるいよ」
「冗談だって」
刹那、イルカが水面から飛び出して宙を舞う。観客がわっとどよめく中で、俺と椎奈さんは互いにふふっと笑った。
「本当に楽しい。こんなに幸せなのはいつ以来だろう」
少し大袈裟ではないか。そう思ったけれど、口には出さなかった。出すのを躊躇ったのだ。
「楽しくて……悲しくなるよ」
椎奈さんの声は言い終わる前に上ずった。それは多分涙のせいだろう。
「楽しいのに、悲しい?」
「悲しくて寂しいかな。楽しさに満たされれば満たされるほど、その愉快な気持ちを押し殺さないといけなくなって」
涙を零れさせないように、必死に力をこめて喋っているのが伝わってきた。俺はただ相槌をうつしかなかった。
「やだな、話したくないな」
椎奈さんの顔を見ていないのに、頬に水滴が滴っているのではないか、と思ってしまう。それほど声音が不安定になってきていた。
「焦らなくていいよ」
「うん」
椎奈さんの鼻をすする音が微かに聞こえてきた。すぐにそれは観客の歓声でかき消される。
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