幻蝶映写機

猫目 青

幻蝶映写機

 枯れた死体の唇には、皺が寄っていた。

 さわると唇はかさりと音をたてて崩れる。唇の破片は暗い部屋の中を舞って、床に降りたった。

 母さんが動かなくなってどのくらいの時が経っただろうか。

 霊廟に横たわる遺体は、干からびている。深い皺が刻まれた顔はそれでも母さんの面影を留め、薄い笑みを浮かべていた。

 僕は不安になって、顔をあげる

 ふぁり。ふぁり。

 翅音が聞こえる。

 開かれた観音開きの扉の向こう側で、夜空を舞う蝶たちがいた。雪のように白い翅が闇に浮かびあがり、月光を反射して蒼く輝いている。

 母さんの口から、魂である蝶が吐き出されることはない。

 もうすぐ走馬灯が観られる時刻になるというのに、このままでは母さんは置き去りにされてしまう。

 星空の向こう側にある、あの世へと行けなくなってしまう。

 観音開きの戸を潜り、蝶の舞う外へと躍り出ていた。まるで雪のように舞う蝶の中へと僕は跳びこむ。

 ふわりふわりと蝶の翅が僕の体を掠めて、蝶たちは夜空へとあがっていく。僕は蝶たちを追って空を仰いだ。

 蒼い月光が蝶たちの翅を虹色に照らしている。夜空は蝶に埋めつくされて白く輝いていた。さながらそれは、活動写真を映し出すスクリーンだ。 

 そこにうっすらと映るものがある。

 虹色に輝くそれは、無数の人影だった。その人影が確固とした輪郭も持って、蝶の翅のスクリーンのなかで動き出す。

 活動写真を想わせるそれは、人々の走馬灯だった。

 蝶になった人々の魂が見せる幻想は、蝶の翅が作り出すスクリーンに人々の記憶を映し出していく。

 花畑を走る幼い少女と少年。やがて2人は成長し、人々に祝福されながら婚礼衣装に身を包む。晴れて夫婦となった2人の間に、玉のように愛らしい赤ん坊が生まれる。

 その赤ん坊を見て、僕は眼を見開いていた。

 僕だ。

 蝶たちのスクリーンの女性に抱かれた赤ん坊の僕が映り込んでいる。女性は今にも泣きそうな顔をしながら、赤ん坊の僕に笑顔を送ってみせた。

 場面が暗転する。

 棺に縋りつきながら泣きじゃくる女性の姿が映し込む。黒い喪服に身を包んだ彼女はそっと起き上がり、棺の蓋を開け放った。

 そこに横たわるのは、彼女の夫だ。干からびた彼の死骸に生前の溌溂とした面影はない。その皺の寄った彼の唇から、這いずり出てくるものがあった。

 蝶だ。乳白色の翅を翻し、蝶は虹色に輝きながら夜空へと舞う。女性は飛び去っていく蝶を仰いで、その後を追いかける。

 霊廟から外に出た彼女を待っていたのは、乱舞する蝶の群れ。走馬灯を映し出す蝶たちを追いかけながら、女性は涙を流し始める。

 翅のスクリーンには、先ほど僕が視たものと同じ映像が映っていた。花畑を走る幼い少年と少女に、みんなに祝福される花嫁衣裳の若い夫婦。そして、赤ん坊を抱いて笑う女性の姿。

 女性は泣きじゃくりながら膝を地面につける。そんな女性の元に、彼女が追いかけていた蝶がやってきた。

 そっと女性は蝶に手をのばす。蝶は女性の指先に止まり、翅を1、2度小刻みに動かした。女性が立ちあがり、蝶の止まる手を顔の側に持ってくる。彼女は潤んだ眼をもう片方の手で拭い、蝶に微笑んでみせた。

 僕は翅のスクリーンに映るその光景を見つめる。女性の側に幼い少年がやって来て、彼女の喪服をひっぱった。

 あぁ、幼い日の僕だ。

 母さんが蝶と一緒にどこかに行ってしまうのが恐くて、死んでしまった父さんが母さんをどこかに連れて行ってしまうような気がして、僕は母さんの喪服を引っ張ったのだ。

 映像の中の女性は、幼い僕を力いっぱい抱きしめる。記憶の中の母さんがそうしてくれたように。

 蝶のスクリーンに砂粒のようなノイズが走る。走馬灯は途切れ、虹色に輝く蝶たちの輝きだけが僕の網膜に光を焼きつけていく。

 そんな僕の眼の前を、1匹の蝶が舞う。僕は導かれるように蝶に手をのばしていた。蝶は指先に留まり、翅を1、2度小刻みに動かしてみせる。

 僕の眼に笑みが刻まれる。蝶は嬉しそうにまた羽ばたきを繰り返し、夜空へと昇っていた。

 夜空を仰ぐ。

 暗い夜闇を白い蝶列が覆っている。その蝶たちから少し離れた場所で、2匹の蝶が仲睦まじげに螺旋を描いて踊っていた。

 翅のスクリーンにノイズが走って、そこに映像が映し出される。

 花嫁衣装に身を包んだ若い男女が、月光に照らされる夜空を背景に踊っていた。

 その映像の前で2匹の蝶は舞を披露する。

 2匹の蝶を見つめながら僕はくるくるとダンスを踊っていた。まだ出会えない運命の人を思い描いて、僕は草原の中で踊る。

 父さんと母さんが、幼い僕の前でそうしていたように。

 仲良く踊っていた両親の姿を思い出して僕は空を仰いでいた。

 走馬灯を背に踊る蝶を仰ぎ、僕は静かに微笑んでいた。

 やがて2匹の蝶を先頭に、蝶列は螺旋を描きながら夜空へと吸い込まれていく。

 蒼い星が瞬く夜空を仰ぎながら、僕は静かに涙を流していた。

 さようなら、母さん。

 僕が星空の向こうに行くまで、父さんと仲良くダンスを踊っていて下さいね。


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